折々の折り
2005年12月12日に・・
『千一夜』の連続更新を成就して休筆
あれから2年半・・無休は無理でも
また再開をと思い始めた
少しづつ・・ゆっくりと・・

2008年8月31日「日}
今日が再スタート!!
2008年 11月
SunMonTueWedThu FriSat
- - - - - - 1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
- - - - - -


 
 2008. 11. 14. Fri
  坊ちゃん
クリックで拡大表示 ( JPEG / 57.3KB / 297×450 ) 漱石文学全集(二)立派な装丁で、昭和45年出版当時でさえ一冊2200円の豪華版である。ページの左上にある筆跡は、死んだ父親のもの。サインの下にAug30、1970とある。発行されたその日に届いたようだ。全巻揃ってるから、きっと馴染みの本屋さんに頼んだに違いない。 
 
亡父の書架からこの一冊を取り出したのは、久し振りに「坊ちゃん」を読み直してみたくなったから・・。 
「本文の表記は、底本通り旧漢字、歴史的仮名遣いとし、すべて歴史的仮名遣いによる振り仮名を付した」とある通り、今どきの本にはない明治の匂いが漂う。 
 
四国の中学校に赴任した坊ちゃんが、学校に慣れる数日の間に近くの温泉に出向く話がでてくるが、ここにも明治が大胡坐をかいている。曰く、『・・四日目の晩に住田と云う所へ行って団子を食った。此住田と云う所は温泉のある町で城下から汽車だと十分許り、歩行いて三十分で行かれる・・』。 
 
今どきなら、電車で10分の距離を30分で歩くことなんて到底叶わない。 
時速60キロの電車は10分で10キロ。これを時速4キロの足で歩けば2時間半となる。してみると、明治の汽車はのろかったというわけだ。 
この『のろい』ってことは案外大事なことだ。乗り物があまりに速ければ、歩いて暮らす生活圏と乗り物を使う行動範囲に途方もない乖離が生まれる。 
例えて言えば、羽田から飛行機で福岡へ帰る息子を送る私は、車で1時間半の距離を帰宅するのだが、同じ時間で息子は福岡に着いていることになる。 
50キロと1000キロが同じ時間で移動できる。それが乗り物なのである。 
 
近い将来ロケットを使った旅客機ができると東京〜ニューヨークは2時間半とか・・。ついでに昼飯食って成田から戻る私の時間で、息子はニューヨーク。時間と距離の間に生じる違和感を、新しいものさしを作って調整しなければならないかも、と議論されたりもするようだ。 
便利ではあっても、人間がこころの安定を得るにはいささか厄介である。 
 
私が中学生だったころ、通学にD51機関車が引く列車を利用していた時期がある。自動開閉の扉があるでなく、混んだ朝はデッキにぶら下がって通ったものだが、少しも怖くなかった。落ちても死にそうな気がしないからだ。つまりはのろかった。 
 
歩いて30分の2キロを10分で走る列車は時速12キロ。マラソンランナーのほうがはるかに速い。これなら怖くはあるまい。それが人間的な生活のものさしかもしれない。 
『・・そんなに急いでどこに行く・・?』。 
まだはっきりした答えを知らない。結局のところ、最後に待ってるのは死でしかないのだが・・。 
  

おっしゃるとおり・・・

最近ネットの友人が亡くなりました
肺ガン・・・あの筑紫哲也さんとほぼ同じ時期に分かり、一日違いで逝きました

ゆっくり、景色を眺めながら
心穏やかな、そんな夕暮れを想像するような最期・・・もう無理なのかなぁ〜〜
人は、もっとゆっくりでも良い・・よね(^▽^;)
cat-korokoro ..11/15 20:45(Sat)

>> 返信

 
 2008. 9. 13. Sat
  蓋然性
例えば・・マンションの10階に住んでいるとして、その10階の窓際にテーブルを置いたとして、そのテーブルに3歳の子どもが這いあがったとして、挙句にその窓から転落して死亡事故が起きたとして・・、こういう場合、法律的には未必の故意と判定される可能性がある。 
つまり、こんなところにこんなものがあれば・・こんな事故が起きる可能性が高いにもかかわらず、こんなところにこんなものを置いたのは、置いた者に責任があるという考え方だ。この手の判断を蓋然性という。高い確率で起こりそうだという予想のことである。 
 
三笠フーズと名乗る食品取扱い会社があるとして、片側に食用に使ってはいけない事故米を保有している農水省という役所があるとして、三笠フーズが糊を作るつもりがあるとして、それ以外には使うなよと農水省が条件をつけたとして、絶対にしませんと言ったとして、だから売ったというのは、転売を予想できなかったという蓋然性は低いと言われても仕方がないのだ。 
 
同じ意味で、あるお煎餅製造会社に、○○工業用糊製造会社が煎餅にも使える安いコメがあるから買いませんか?と申し出ても、工業用品を作る会社から買う食品用米が、食品に不向きかもしれないという蓋然性は高いともいえるのだ。お煎餅屋さんが買ったのは、相手が三笠フーズという食品会社だったからで、こうした蓋然性からいえば、間違いが起こる可能性は低いと判断したとして許されることである。 
 
こうしてみると、諸悪の原因は、農水省が三笠フーズに事故米を売ったという事実に尽きる。不正が起こる確率の高さ、つまり蓋然性を無視したからである。 
そもそも役人は、この蓋然性を抜きに法案、許認可を考える筈はない。 
工業用糊を想定して売るなら(実際には米で糊は作らないらしいが・・)、工業用のルートに乗った会社に売ればいいのである。不正の蓋然性は低いと判断してよいからである。 
責任を取らざるを得ない仕事で、責任を取らないためには、責任を問われるような羽目にならないことが一義だから、蓋然性抜きに判断しない習性が身につくのは当たり前である。 
 
にもかかわらず、こうした事件が起きて、しかも度々の検査で見抜けなかったと報道された。見抜けなかったのではなく、見抜くつもりはなかったのだ。見抜くつもりなら売りはしない。そのあたりにフンプンとして胡散臭さが臭う。 
 
この事件に限らず、役所が、消費者である国民を守るよりも、産業育成の美名のもとに利権に忠実な業者を守るほうを選ぶのは、まさに利権のゆえであって、天下りはその最たるものに違いない。 
退官後の人生に甘い果実を用意するためなら、滅多なことじゃ社会正義に準じたりはしない決意には、並々ならぬものを感じる。 
 
その真意は、多分不安なのだろう。高級官僚といえども、あまりに若い退官の慣行は、規定の退職金の多寡にかかわらず、残された時間の長さへの不安が勝るのかもしれない。 
知的には最高に訓練された選良ではあっても、雑草の如くに生きるタフネスには足らざるものがあっても不思議ではない。 
 
官庁の非条理、不正を是正する抜本的な解決は、登用の難易度にふさわしい賃金と、人生を全うし得たと実感できるだけの定年制度しかない。 
公僕としての高邁な社会正義の実現は、公僕としての誇り高い人生感に裏付けられるべきだ。 
多少時間がかかっても、信賞必罰だけでなく、根本的なところでの制度の改革をしないかぎり、果てしないモラル・ハザードを食い止めることはできそうにない。 
それは政治の仕事ではあるが、国民の判断なしには実現しないと、我々もまた深く覚悟すべきではなかろうか・・。 
  

>> 返信

 
 2008. 9. 8. Mon
  冤罪の恐怖
北の湖理事長が辞任して、大麻疑惑のふたりの力士は解雇と決まったらしい。これで一見落着とでもいうのだろうか。そうだとしたら、大きな問題を残す。 
 
北の湖理事長が辞任するのは当然かもしれない。大麻の件に限らず、モンゴル逃避、いじめ暴力など一連の不祥事の都度、逃げ回ったかのような責任逃れも、さすがにこの大麻疑惑からは逃げ切れまいからだ。遅きに失したかもしれないが、当然の答えでもあろう。 
 
問題なのは露鵬 白露山の「解雇」処分のほうだ。 
今朝のテレビを見ていても、まだ理事会も開かれていない時点で、解雇を当然の処分のように予想し、誘導するかのごときコメンテーターばかりだった。それが恐ろしいのだ。 
相撲協会の理事会とて、テレビ世論に左右されかねないからである。 
 
解雇されたふたりの力士の弁護士が出演して話すのを聞いた。 
この手の世間の注目を浴びる事件に顔を出す弁護士が、ともするといささかいかがわしい雰囲気を醸すことが多かったから、またぞろかと斜に構えていたら、これが違う。実に正論を述べた。正論じゃないのは、キャスターとコメンテーターのほうだ。 
 
「・・検体を調べて陽性だったという結論には異論はない。異議があるのは、検体が分析されるまでに一切の不正な手続きを可能にしてしまう瑕疵がなかったかについてである・・」。 
 
弁護士はそう言ったのだが、キャスターとコメンテーターは、 
「・・協会が自らの意思で依頼した検査機関の結果を受け入れずに異議を訴えるのは許せない。こうした甘えを許す協会の体質に大きな問題がある・・」。 
 
この議論はまるで噛み合っていない。 
弁護士が主張しているのは、検査の結果ではなく、ふたりの有罪を決定できるだけの証拠が十分なのかであって、法的には検査結果の陽性だけでは有罪ではないと言っているのである。 
 
検査結果の陽性度が、許されるミニマムの5〜10倍の数値と発表されたらしいから、限りなく使用を裏付ける印象を持つとしても、なおそれは裁判以外に決定できることではあるまい。 
本人が自白したわけでもなく、大麻そのものが身辺で発見されてもいないとしたら、法廷闘争も辞さないというかぎり、裁判は必至である。キャスターやコメンテーターが有罪を決めていいわけはない。 
 
露鵬、白露山の大麻疑惑は、しごきによる死亡事件、大麻でも所持の現行犯逮捕の力士とはまるで違う事件である。 
暴力死亡事件、大麻所持は、どちらも違法である。故意か過失を争う可能性はあっても、適法、違法を争ってはいない。 
 
しかし、大麻吸引の可能性については、法的には違法ではない。 
違法なのは大麻所持なのだ。ここら辺は一般的な理解でいえば少々腑に落ちないところだが、覚せい剤取り締まり法と混線しているからなのかもしれない。覚せい剤の場合は、尿検査の結果が陽性なら使用の違法を問えるからだ。 
いずれにせよ、大麻の場合、所持が証明できず、吸引の自白もないとしたら逮捕も難しかろう。 
 
勿論、ふたりの疑わしい検査結果をどうでもいいとは思わない。 
こうなるにはそれなりの因果があるはずである。しかし、それでもなお、法律は「疑わしきは罰せず」が大原則である。 
この法理論は、言うまでもなく犯罪に甘いためではない。限りなくクロに近い疑惑を罰しないことの唯一の意味は、たったひとつの冤罪を生まないためである。 
 
本当は有罪だと思われる容疑に無罪を言い渡しても、未然に守るべき冤罪の非条理を、司法の権限もないテレビがいい加減なコメントで作るかもしれない恐怖は、自衛隊が海外にでて戦闘行為をする確率より高そうだと思えるからなおのことである。 
 
解雇されたふたりが、守るべきものがなくなって使用を告白するような事態があるとして、だから「それみたことか・・我々の予想通りだ・・」と言っていいことでもない。それもまた裁判所にだけ許される判断である。 
解雇というリンチならまだ口がきけるが、死に至るリンチだったら、罪の告白は言うまでもなく、疑いを晴らすことだってできない。いわんや、裁判でこのふたりが無罪になったとしたら、この数日のキャスター、コメンテーターたちはどう釈明するというのだ。 
 
松本サリン事件を・・私は忘れてはいない。 
ギネスに名をなすキャスター氏は勿論、正論の弁護士さんに筋違いに噛みついてたコメンテーター諸氏も、忘れていないことを願うばかりである。 
 
良かれ悪しかれテレビの持つ影響力を思うと、裁判員制度が近づくだけに、なおさらのこと、テレビで意見を発する関係者の慎重な姿勢を求めるべき時期だと思ったりもするのだ。 
  

そうですねぇ〜〜
報道に踊らされている感もあり

全然違う話ですが、政界のことも
例の真紀子さんが言っていた
「TVを見ないで考えましょう」
これって結構正しい事かも
メディアからの情報がいつも正しいとは限らないのだよね
cat-korokoro ..9/10 20:19(Wed)

>> 返信

 
 2008. 9. 2. Tue
  天に唾・・
クリックで拡大表示 ( JPEG / 35.6KB / 512×384 ) 「・・あなたとちがうんです・・!」、 
とうとう言ったかではない、やっぱり言ったかである。 
わけのわからん辞任を意に介さないこの総理の、最後の会見の最後の一言が「・・あなたとちがうんです・・」だったというのも、実に本質的なこのひとの評価だ。 
 
「あなたとちがう」は、「あなたの意見とちがう」とか「あなたの理解とちがう」とは全く違う表現だということに、この総理は知っていても避けることをしないひとだったようだ。 
 
「あなたと違う」が意味するものは、「あなたとは人間のできが違う」、つまり選良思想が言わせた一言なのだ。 
「・・私は私自身のことを客観的にみることはできる・・それができないあなたとはちがう人間なんだぞ・・」と言ったのである。これが天に唾する一言だったのは今朝の報道を見れば一目瞭然、あちこちでひんしゅくをかった。 
 
この捨て台詞を予感させる出来事を、私は覚えている。 
確か就任してすぐのこと、「・・この内閣は背水の陣内閣です。一歩間違えれば自民党が政権を失うかもしれないからです・・」。こう語った会見があった。 
このとき、総理の表情には軽い笑みがある。瀬戸際の緊張感はない。きっとこのひとは、決して背水の陣と思ってはいないと、私は感じた。総理が言うところの「客観的な自己評価に従えば」、瀬戸際ではあるが、私が総理になれば絶対にうまくやってみせる、という自信があの笑みを作ったと思ったからである。 
にもかかわらず、ことは思い通りにならなかった。想像以上に思うに任せなかった。「こんなはずじゃない・・」と何度も思ったに違いない。 
 
小泉総理退陣のときには下馬評があっても出馬せず、安倍辞任では自ら買って出たのは、勝てるタイミングはこっちと狙いすました客観性のなせる技、それができる人間だと自負してきながら、なるまでの計算は、なってからはまるで通じなかった。忸怩たる思いにとらわれたはずだ。 
 
そして、自分の自信が通じないと悟ったのが自らの客観性だとしても、結局何もできなかったと認めることはその客観性の埒外だったから、そこを突かれれば切れるしかない。悔し紛れの捨て台詞、あなたごときに言われたくない。 
 
彼の客観性は、限りなく深い自己愛でしかなかったのだろうか。 
それが最後のプライドだとしたら、哀しい話である。 
  

師匠の解説(?)を読んでいると納得です

私もあの会見を見ていて絶句でした
少なくとも、〜〜が出来ないからと愚痴るぐらいなら
始めっから、受けるな! と、心で叫んでいました

国政とはそんなに自分中心で良いのかと・・・
cat-korokoro ..9/3 21:02(Wed)

レベルが全然違うけど・・・
今、小学校のPTA役員会で大きな事案を抱えて会員からの
反対を受けているので、こんなに簡単にやめられる
福田サンがある意味うらやましいよね〜と冗談半ばに
言ってました。国政の現場、それも国の長たる立場にある者が、あんな理由で簡単にその重責を投げ出せるとは!
あきれるというか、なさけないというか。
次が誰とか言う以前の問題ではないのでしょうか。

音迷路 ..9/3 23:25(Wed)

まぁ〜大変な退陣劇でしたね。
あの一言。師匠がおしゃるように、天に唾です。
私も呆れてしまいました。
「あなた達とは人間の出来が違うのよ」ってどう言う意味かと聞きたいですね。
かこ ..9/4 16:52(Thu)

こういう時期くらいは・・
政治家も黒いリクルート・スーツ着たらいいのにね
だって就職活動始めたみたいだから・・
忘れちゃいけないのは・・採用面接は国民の担当 ルックスやパフォーマンスなんぞで選ぶなかれ!!・・だね
無給の管理人 ..9/5 8:25(Fri)

>> 返信

>> 過去の日記へ



| 携帯用 | | RSS | | 検索 | 


++ Powered By 21style ++