続・尾張文化論
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1245回)
|
2012/05/05(土) 22:22 No. 4234 |
|
花に染む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に 西行
【通釈】花に染まるほど執する心がどうして残ったのだろうか。現世に執着する心はすっかり捨て切ったと思っている我が身なのに
以前にも述べた様にかって西行はこのような歌を詠んだのであった。
が、今のわたくしなら花に染むというところを緑に染むと言いかえて仕舞いたい位なのである。
緑に染む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に
でもこれでは字余りなのでほんたうは草とか木々とかそんなものを宛がう方が良いのかもしれない。
わたくしは最終的には花は捨てられそうな気がしているのだけれど、美しい緑の世界、一面の新緑の、または万緑の世界というものは決して捨てられないのである。
それも兎に角一面の緑の世界がお気に入りなのである。
ということはつまりは山が好きなのであるから、山に籠って仙人にでもなることを目指すべきかとも思うのだが、そこで改めて自問自答してみるに、一面の緑はどうも標高が高過ぎても余りよろしくはないらしいのである。
そうわたくしは山よりも森が兎に角好きなのである。
それも林のようなのではなくてまるでジャングルのような自然林が大好きなのである。
そこに豊かな生態系が保存されている森が好きだ。
動植物がぐちゃぐちゃに入り乱れて生きて居るような、人の手が入って居ない無垢のままの森が大好きだ。
ほんたうはそうした純粋なものにしか興味がないのである。
なにしろそんな御仁なのだから連休になっても観光地などには行かない。
実際観光地へ行き人間に揉まれているだけでわたくしは吐き気がしてまいります。
もっとも10年前位まではそんな風ではなかったのだが、近年より偏屈化、爺さん化してそんな隠遁の気風がますますひどくなって来た。
だからこのままでは文明人を続けていけるのかどうかさえ不安だが自分の中でそう進んでいるものは如何ともし難い。
その爺さんは最近兎に角地元志向が強く、自宅から二、三キロの範囲の動植物の美、ということに最も高い関心がありヒマがあればいつも自転車でその辺りをサイクリングするようになった。
自宅から二、三キロの範囲の美人や飲み屋などには全く興味が無く、あくまでその範囲の動植物の美、ということに強い関心があるのである。
しかしながら、この件について詳しく話し始めると随分長く続くこととなってしまうのでそれはやめておこう。
そこで今回は是非写真を貼り付けることとしてみたい。
それでわたくしがいつもどこをほっつき回っているのかということが良く分る筈なのである。
たとへば次なる画像はわたくしが今日行って来たサイクリングコースの道程を示したものなのである。
が、余りに地味で面白く無い写真だろうからどうも興味が薄いなと思う人は見ない方が良いのかもしれない。
くれぐれも言っておきますが、是はわたくしの「哲学の道」のようなものなのである。
キーコキーコと自転車を漕ぎつつ何も考えていないようで実は常に哲学をしているわたくし。
そのわたくしの「哲学の道」には所謂煽るようなものはほとんど何も無いと言っていい。
むしろ其の煽るようなものを極限まで削ぎ落とす為にわたくしは戸外へ出て万緑と戯れて来るのである。
もっともそれもここは都会なのだから限界はある。
山奥のようにほんたうに静かなところではないのだからそれらは元々たいした自然ではない。
それでもこの五月の連休にふさわしく緑が多いところばかりなのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1290回) ..2012/08/08(水) 19:19 No.4313 |
 |
さて今日で私の夏休みも終わり。
明日からはまたあの訳の分らん、まさに目の回るような忙しさの中に逆戻りである。
今年の私の夏休みは天候にも恵まれいかにも夏らしい風情の中に遊ぶことが出来た。
その様やまるで学生の頃の夏休みに戻ったかのようだった。
と言っても、その頃のように海や山に遊んだ訳ではない。
何せすでに若ジジイなのであちこち体の具合が悪い。
一番困っているのは五十肩がひどいことで、こいつは兎に角肩や腕が時にひどく痛い。
それもこの四月からずっと続いているので全くもって嫌になって仕舞う。
されど夏休みは夏休みでいざそうなると不思議と童心にかえって思い切り遊んでみたくなる。
何せまだお迎えが来るにはちと早い年齢である。
もっとも詩人は寿命が短いものと相場が決まっているものなのだが、それでも矢張りちと早い。
そんな訳で肩が痛く全く情けない若爺はそれにもめげずこの夏に色々と遊んで来たが、今日のお遊びは中でも飛び切り楽しいものとなった。
だがお遊びといってもあくまで真面目な藝術鑑賞である。
岐阜県美術館 開館30周年記念 象徴派−夢幻美の使徒たち http://www.kenbi.pref.gifu.lg.jp/page3613.php http://www.kenbi.pref.gifu.lg.jp/page3610.php
本日ここで象徴主義の絵画を沢山鑑賞して来たのである。
象徴主義の絵画はわたくしにとって特別なものである。
それ以前の絵画やそれ以後の絵画にここまで惹きつけられるようなものは無い。
尚わたくしは以前象徴主義の文学の方に親しんで居たのである。
だから象徴主義の絵画の方にも深く興味がある。
よって象徴主義の絵画につきあれこれと言葉を弄して語れぬ訳でもない。
いや、語ろうと思えば幾らでもそれを語ることが出来る。
それもなるべく難しい言葉を使って。
だがそんな論評などはどうでもよろしい。
何せ夏休みだ。
夏休みは勉強ではなく外へ行って遊んで来ることこそが大事だ。
もっとも三十年近く前の塾の先生の頃には夏休みこそ勉強するんだと自ら言って毎日補習授業ばかりしていたものだったが、今思えばそこはこのクソ暑いのによくやっていたものだった。
JRで西岐阜まで行く。
快速電車なので金山から35分で到着する。
岐阜市は周りに山が見える素敵な地方都市である。
美術館までは少し急げば徒歩で10分ほどだ。
何せ快晴で暑いには暑いのだが、実は名古屋程は暑くない。
名古屋は産業都市で空気がさわやかでは無いから余計に暑いのだが、岐阜は空気が良いのでたとえば同じ三十五度ではあっても名古屋人にとってはさほど暑くない。
岐阜県美術館は木立に囲まれた素敵な美術館である。
あの黒川 紀章が設計した名古屋市美術館よりよほどに上品なたたずまいで以前からわたくしは大好きなのだ。
実は今回で三度目の来館である。
その理由は、岐阜県美術館にはあのオディロン・ルドンのコレクションが多数収蔵されているからなのだ。
つまり、岐阜県美術館は象徴主義絵画の専門家のような存在なのである。
だからわたくしのように名古屋からも、あるいは東京からも、はたまた遠く北海道からも象徴主義趣味人が駆けつける美術館となっているそうだ。
美術館の売店のどこか上品な初老の女性の店番の方がそう教えて下さった。
我はといえばどう見ても体育会系のように見えるがっしりした体格のイチローカットでもってしてとても象徴主義の文学の趣味人には見えないのであるが、それでも一応は象徴主義文学の専門家のようなふりをしつつそのお話をふむふむと聞いていたのであった。
その売店ではいつものようにルドンの絵の絵葉書を贖い、ついでにルドンー生涯と作品ーという本を求めた。
何せ図録が高くて買う気が失せたので代わりにそれを求めたのである。
さあ、帰ろう。
都会の喧騒を離れて木立の中の美術館に一人遊んだひと時の夢の体験は終わった。
もう私の夏休みは終わったのだ。
この抜けるような青空の下を歩いてあの暑苦しい名古屋へと帰ろう。
しかしながら、時間が無い。
あと10分では14時05分発の豊橋行き快速電車には間に合わぬ。
そこをマラソンをして間に合わせた。
マラソンをしたためなのか、帰りの車中では兎に角左肩が痛くずっと右手で痛いところを揉んでいた。
それが15時15分位にはもう家に着いていた。
一時間と少し前には我は遠く離れた岐阜に居たのに今はもう家で焼きそばなど食して居る。
まこと象徴主義の時代には考えられぬことではあるが、現実に現代の鉄道力というものにはその位の威力があるものなのだ。
のみならず車窓にはさながら象徴主義の絵画のような夢幻の景色絵巻が繰り広げられていた。
遠くにかすむ岐阜の山並み、清い木曽川の流れ、あの信長を思い出して仕舞う清洲城の景観などが。
それが名古屋へ戻ると、おやおや、ここは何だかひどく都会だな。
東京や大阪へ行ってから名古屋へ帰ると何やらふるさとの田舎へ戻ったなという感がするものなのだが岐阜から名古屋へ帰るとそれは一級の都会へ戻るということなのだ。
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-pvc74txpcj7qwqyludwvupdvj4-1001&uniqid=7d73604b-6666-4a94-9bed-00280e45fe2e&viewtype=detail
ちなみにわたくしは兎に角ルドンの絵画が西洋絵画の中では一番好きである。
中でも岐阜県美術館が収蔵する『眼を閉じて』という作品が大好きである。
無論それも今日イヤというほどじっくりと鑑賞して来たのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1291回) ..2012/08/10(金) 23:39 No.4314 |
 |
Wikipedia-岐阜県美術館 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
岐阜県美術館は以上にあるようななかなか素敵なところ。
ところで夏休みがもう少し続き、また肩の痛みが無ければ以下のようなところへも是非行ってみたかったところだ。
が、現実にはなかなかそうもいかない。 現実とは常に厳しいものである。
北澤美術館 http://kitazawamuseum.kitz.co.jp/
この北澤美術館は私のお気に入りのところで、かってここを何度も訪れてアール・ヌーヴォー期のガラス工藝作品を鑑賞していたものだった。 勿論ここに出ているところは全部行っていた筈だ。
信州とっておき情報 http://www.mtlabs.co.jp/shinshu/museum/kitazawa.htm
が、こちらによると清里の美術館の方は今年になって閉館したのだそうな。 この清里の美術館は森の中にありすっばらしくお洒落なところであった。
ここはまさしくあなたのようなモテる初老の紳士のためのお忍びのデート場、密会場として機能する完璧な隠れ宿的美術館であった。
事実我が十年程前の夏に訪れた折には美術館の中に若い女共が溢れかえって居り館内があまりに女臭くて息が詰まったほどであった。
いや、しかし今思えばそれは全く素晴らしい体験であった。
北海道ガーデン街道 http://hokkaido-garden.jp/about.html
夏休みならば一応はこういうところへも是非行ってみたい。
が、何でもイングリッシュガーデン風にしてしまうのは実はきらいである。
北海道ガーデンということだからもっと日本風の庭に出来ないものだろうか。
たとえそこに洋風の植物を植えたのだとしてもどこか日本風にして仕舞いたいのである。
戦後の日本人は自国の文化の根の喪失に対して不感症になって仕舞っているから兎に角すぐ軽薄に洋風化をしたがる。
洋風化をすればそれが格好良いことだと思い込んで居る。
だがソレ、実はかなりに格好悪いことである。
国が侵略された訳でもないのになぜそんな文化的なシフトを自ら好んで行う必要があるのだろうか。
わたくしは何せ思想的に屈折しているのでたとえば北海道で西洋の仕方を真似ただけのアウトドア生活をしている人などが余り好きではない。
たとえば妙にバタ臭くペンションとかやりつつ自然ガイドとかしている奴らも余り好きではない。
またL.L.BeanとかCOLEMANとかの高いアウトドア服とアウトドア用品に身を固めて山や川で遊んで居る奴が好きではない。
むしろ大昔に買ってもう要らない腐ったような服を着込んでわたくしは山へ入りたい。
リュックなんぞは四十年前にカブスカウトで使ったボロいやつを使って山へ入りたい。
きっとその方が格好良いことだろう。
靴の方はたとえば地下足袋に長靴などが良いのかな。
マタギ用のナタなどがあるとさらに格好良い。
寝るときなどは本当は原野でひとり寝をしてみたいところだがクマに襲われると怖いのでやはりペンション泊まりかな。
いや、北海道にもおそらく民宿があるはずである。
格好をかまっていない格安の民宿、それが一番だ。
左様に自然派の上級者はいかにも今風の自然派候とはしていないものなのである。
だが上でのようなことはただ夢みているだけで実際にはわたくしはどこへも行けやしないのである。
何しろなすべきことは山積しているのだし、肩は相変わらず痛いのだし、一緒に北海道へ行って呉れる彼女も居ないわけでただこうしてボーッと北海道に遊ぶ夢を見続けて居るだけなのである。
けれどそのように夢想の時を暫し持つだけであらあら不思議、何やら次第に自分が本当に北海道の地に遊んでいるような気がしてまいりました。
あるいはあの諏訪湖のほとりの北澤美術館でガレやドームの作品を鑑賞している気がしてまいりました。
と言いますか実際には北海道にも行けないのにこういう空想話をここに書く事で日頃たまりにたまったストレスを解消している自分にようやく気付けました。
何、お前のそんな空想話なんぞ聞きたくはないと仰る?
でも岐阜県美術館と北澤美術館と北海道ガーデン街道へは今日行けたのではないですか。
それらも畢竟わたくしの空想力が結びつけた美しいものの羅列に過ぎない。
だが実際その空想力のおかげでどこへだって行けるのだ。
そしてその空想力にこそ文学つまり文字の上での芸術の根っこがある。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1302回) ..2012/09/04(火) 21:07 No.4330 |
 |
本日は自らに発症した帯状疱疹をネタになるべく楽しく書いてみます。
だが帯状疱疹そのものの話などはそんな気持ちの悪いもの誰も聞きたくもないのであるからして、それを治療して下さるお医者さんの話や病を得た自分の心理などについて書くのです。
まず帯状疱疹ですが是れが実に分かりにくい病気である。
急に腫れものが体に出来るのでなんぞ悪い虫に刺されたか何らかの植物にかぶれたのでないかと思って仕舞う。
特に私のように暇さえあれば自転車で公園や林のようなところを彷徨っている人間にとっては両方共大いにあり得る話なのである。
其の腫れものがポツポツと出来、それらが赤くていやらしい感じだ。
そのうちにカサブタのようなものが出来、何やら余計にいやらしいものとなる。
それも悪いことに私の場合顔面にそれらが出来て仕舞ったのであった。
先の日曜日に流石にこれはヤバいと思い瑞穂区の休日診療所へ行ってみた。
そこは私がいつもサイクリングをしている山崎川の脇にある。
こんなできものは診て頂けますかと受付で聞くとまず医師にみせて下さいと言うので医者に顔を見せたところ診察OKとあいなった。
その医師がなかなか感じの良い方でさわやかであった。
三十五歳位の若い男性医師でおそらく公立の病院の医師ではないかと思われる。
この先生がおそらくは帯状疱疹ですので処方を出しますから薬を服用し軟膏をできものに塗って下さいと仰った。
どうも顔の神経に沿ってできものが出ているらしい。
ちなみに私の場合元々神経の方はどうもヤバいのである。
それも二重の意味でヤバい。
ひとつは神経症的傾向という精神的な領域の方でのヤバさ。
神経過敏、不眠、幼い頃にあった不潔恐怖症などからもそう言える。
もうひとつは原因不明の軽い神経痛のようなもの。
もっともこれはこの二、三年のことで、結局これもこの帯状疱疹のウイルスが悪さをしていたことだったのだろうか。
が、今回の私の帯状疱疹はほとんどが口の周りに出ていてマスクで隠せば分かりゃあしない。
そしてあるとされている筈の痛みがほとんど無いのである。
痛いどころか、むしろまだ毎日暑いので汗だくでマスクをしているとむしろ患部が痒いような程だ。
二、三人のお年を召した看護師さん方が居てそちらでは芝居見物の話なども出て何やらノンビリムードだった瑞穂区の休日診療所は逆に私を安心させてくれた。
それに帯状疱疹ならばまず人に感染することはない筈である。
帰りにスギ薬局で薬を貰い家に帰ってすぐ飲んだ。
本日は病名を確定する目的で午前中に中村皮膚科へ行った。
ここも家から自転車で十分でいけるお医者さんである。
ここは以前偏屈の先生が居て訪れた父や母に病を治すなら兎に角毎日来いと言っていたそうである。
その先生はもう居ないらしく、そのかわりにアンケートで男性医師と女性医師を選ぶ欄があったので我はどちらも可とこたえておいた。
名前を呼ばれたので診察室に入るとそこにはすげえ上玉の女性医師が座って居りびっくりした。
物凄く美人である。
その美人に汚いボツボツの顔を見せていること自体が何やら官能的でさえあった。
その先生は本当に若くて滅茶苦茶綺麗である。
この人はまさしく東京でタレントになれる顔である。あの西川先生などよりもずっと美人なんだ。
その顔がときおり私の顔に接近するのでそこはああ、なんとも良い感じだ。
いや、久しぶりに美しい人間の顔に接近遭遇致しました。
夢ではあろうがもしこういう若くて綺麗な奥さんが貰えたらほんたうに幸せだろうなと考えつつ会計を待っていると、診察室を出たところの壁面に大きな油絵が飾ってある。
そのサインを見るとKUMEとある。
つまりKUME一族の誰かが描いたものだ。
何となく象徴主義の絵画のようにも見えるその巨大な絵は久米先生の親族の誰かが描いたものである筈だ。
なぜそう言い切れるのかというと、元々中村皮膚科と久米医院は親族か何かなのである。
久米先生は私のかかりつけのお医者さんである。
久米クリニックというのをやっておられて、そこは家から自転車で5分位で行ける。
私の二つ上で中学校の先輩である。名古屋市立萩山中学校の。
久米先生が萩中へ通っていたその姿を私はまだしっかりと記憶している。
しかし久米先生はたしか名古屋大学の医学部を出ておられた筈で医学の勉強の方は頗る出来る医師であられる筈である。
事実私はかってこの先生に救って貰ったことがある。
それこそ精神的、肉体的にボロボロだった時に救って頂いたのであり、その時から久米先生は私のかかりつけの医者となったのだった。
先生の専門は神経内科であった筈だ。
美人の皮膚科の女医の見立ての方も矢張り帯状疱疹だった。
帯状疱疹と言っても顔面の目の近くに出来たりすると失明などすることがあり頗るヤバいことになるそうである。
また職場などでも帯状疱疹が額に出来たりするものもたいそうヤバいということを聞いた。
しかしながらこの私の帯状疱疹は次第に良くなっている感じがするのでおそらく大丈夫である。
が、その後も神経痛のようなものは治らないのかもしれない。
ただし、その神経痛とは帯状疱疹自体からのものではなく、前々からある左の頭の中で感じられる偏頭痛のようなものなのである。
それが時にズキッとするのである。
しかし、ややこしいことに私は七、八年前に自宅の階段で転んで首を後部から強く打っているのである。
その後に手足の痺れやら何やらで兎に角大変だったのだが今は余り気にならなくなって来ている。
整形外科や大病院で何ともならなかったその症状を緩和する方向に導いて下さったのが久米先生である。
しかし、当初久米先生は私のトシを六十何歳とパソコンに打ち間違えておられ、かの久米クリニックでは何とわたくしは長年に亘り先生より年上の人だと思われていたのであった。
先生、私は先生が萩中に通っていた頃から存じておりますし先生が三年生の時にはまだ一年生だったのですよー。
あれ、間違ってたね。じゃ、直しとくね。ホントは幾つでした?
久米先生は何というかいまだにいかにもオボッチャマという感じの方で兎に角鷹揚というか危機感がないというかそこが良いのである。
つまり、外見上に限るが私に似たタイプなのである。
久米クリニック http://www.kumeclinic.com/greeting/index.html#news おお、こんなの出来て居ましたー。
私の中学校の先輩の久米 明人先生は本当に見た目以上に名医です。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1303回) ..2012/09/06(木) 21:52 No.4331 |
 |
中村皮膚科医院 http://nakamura-hihuka.com/ ココの一番下に私が診察して貰った美人先生のお写真がある。ガーン、何と二児の母ということだそうである。矢張り美人は早く売れるんだな。
ところで医学とは人間にとって何だろうと思うことも屡である。
ちなみに私は教育と医療の世界については一般のレヴェルよりはほんの少しだけ知識があると言っても良い。
なぜなら若い頃私は公立の学校の御用聞きや塾の先生をしていたのだったしそれとは別に実は製薬会社のプロパーの見習いをしていたこともあったのである。
もっとも其の製薬会社のプロパー見習いをしていた期間は長くはなかった。
その頃はクスリの正確な知識を蓄えるのがまずプロパーの見習いとしての日課だった。
ただしそれらの知識も今ではもうほとんど忘れて仕舞いましたが。
だがその時に名古屋市内や名古屋近郊の開業医や病院をつぶさに回っていたからこの地方のお医者さんのことを少しは知っているのである。
もっとも医者の中にはそれこそ偏屈で鼻持ちならない御仁も居て、クスリのひとつを持っていくだけで粗相の無いよう滅茶苦茶に気を遣う必要があるところもあった程だった。
塾の先生も製薬会社のプロパーも所謂肉体労働ではない訳でそこは元々私のような文弱の徒には向いていたのである。
ただ、製薬会社のプロパーには営業力が必要だったから元々営業力の無い私にはそこが負担となったのだった。
私はものごとについて考えること、ものごとについてお勉強したりすることは大好きなのだが何かを売ったり何かについて宣伝したりということがとても出来ない人間なのである。
だがそんな訳で医療の世界は元々私にとって全然関係の無い世界ではなかったのである。
後に万年筆のコレクターとなって万年筆の取引をするようになると、その頃に薬を配達していた医院の先生が私の万年筆を買って下さったこともあった。
何せこちらは先生のお名前を良く存じ上げておりますからすぐにそう分かるのである。
ちなみにその頃私が配達したり宣伝していた医薬品は市販の医薬品とは異なる医家向け医薬品と呼ばれるものである。
これはおおまかに言って市販の医薬品よりも効力がある薬だと言える。
一般にお医者さんで貰って来る薬は市販薬よりも良く効く。
【医家向け医薬品は薬局で入手できる薬(一般用医薬品)に比べて効果が高い(効き目が強い)代わりに副作用の危険もあるので、疾患知識、医療知識のある医師の処方がなければ、入手・服用することができません。】
もっとも今はそれにもジェネリック医薬品という分野が出来て居る。
ジェネリック医薬品 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8C%BB%E8%96%AC%E5%93%81/
私などは最近薬はこのジェネリック医薬品ばかりを服用して来て居る。
これは兎に角値段が安い。
そうかと言って危ない薬なのではなくむしろ安心な薬なのである。
今回の私の帯状疱疹のお薬が新薬の方で五千円近いのに対して、ジェネリック医薬品だと何と千五百円であった。
安くて良いものが大好きなわたくしはこういうものにはすぐに飛びつく。
安価なジェネリック医薬品でこのイヤラシイ帯状疱疹をやっつけることが出来ればそんなにスバラシイこともない。
なお突然思い出したのだが当時の上司と一緒にプロパー営業をしていたことがあり、この方がまたいかにも製薬会社の課長さんらしくクラシック通である。
それで一緒に車に乗って居る時はいつも車中にクラシック音楽が流されており、それでこの曲はなんでしょうか、今度のはなんでしょうかと矢鱈と試験をされるのである。
まあ私も一応はクラシック派だったのでそんなことになったのだったが、それも今思えばなかなか楽しい経験だったのだと言える。
シューベルト ピアノ五重奏曲 「ます」 第四楽章 http://www.youtube.com/watch?v=jx57veQRbwA&feature=related
サテ、ではこれなどは何でしょうか?
うーむ、何やら良く耳にする曲ではありますが、どうも曲名の方がスっと出てまいりませんのですが。
へへへへ、「ます」だよ、「ます」。コレがあのシューベルトの「ます」なんですねー。僕はね、この曲が好きなんだよねー。
そうか、これが「ます」だったのか。それではこの際よーく覚えておこう。次に出てきた時にスっと答えられるようにしておこうっと。
こんなことを車の中で一週間程続けていたのであった。
ちなみに薬の世界とクラシック音楽の世界というものにはなぜか昔から親和性があるものなのである。
太田胃散CM http://www.youtube.com/watch?v=FUuJEKQo38Q&feature=related
昔からのおなじみのこの曲も実に良い曲ですねー。
ショパン 前奏曲集 7番 Prélude A-dur, イ長調 op.28-7 pleyel 1831製 http://www.youtube.com/watch?v=Br60whJpegY&feature=related
とのことで、これはかのショパンでありました。
Wikipedia-日医工株式会社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8C%BB%E5%B7%A5
当時私が居た会社は今では東証一部上場企業となりジェネリック医薬品の最大手となって居るのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1305回) ..2012/09/09(日) 22:41 No.4333 |
 |
フジ子ヘミング ショパン 黒鍵 http://www.youtube.com/watch?v=Iah3retGZvs&feature=related フジコ・ ヘミング ショパン ノクターン第2番 http://www.youtube.com/watch?v=pcJM4Uu2j_0&feature=related CHOPIN : nocturne no.19 op.72 Fujiko Heming http://www.youtube.com/watch?v=fXOJwGO9sEg&feature=watch-vrec Fujiko Hemming - Chopin: Nocturne No.20 cis-moll Op.posth http://www.youtube.com/watch?v=B6HamdhRur4&feature=related
久し振りに聞くショパンも良いものだ。
ところで、病院や医院にもクラシック音楽を流して居るところがありますがあれは本当に良い。
クラシック音楽を聴いているとわたくしは心が休まる。
病のさなかにある時クラシック音楽は特に心を落ち着けて呉れる。
私にとってのクラシック音楽とは結局べートーヴェンのことだ。
だからべートーヴェンのことをいつかは語らなくてはならないのだろうが、最近はほとんど聴いていないので語ろうとする熱の方が全然高まらない。
最近はむしろ自然からの音楽ということに耳を澄ませていることが多い。
自然からの音、自然からの癒しの音ということにより興味がある。
それはあるいは音楽ではないのかもしれぬが、いや、それでも矢張りそれは音楽である。
絵画も音楽も詩も元々みなこの自然の音楽性のようなもののところから発せられて来て居る筈だ。
森羅万象のざわめきのようなもの、そのこまかなさざなみのようなものどもから。
さて話は変わりますが、先月家の近くにコンビニがOPENした。
セブンイレブンである。
セブンイレブンといえばごく普通のコンビニのように思われることだろう。
だが実はこの名古屋に限りセブンイレブンは少ないのである。
それに名古屋からはあのイトーヨーカドーも撤退して仕舞った位である。
ところで、その新規OPENしたセブンイレブンの地所には以前尾関医院という内科の医院があった。
そこは若い頃の私にとってかかりつけの医院だったところだ。
私は昔から良く風邪など引く方だったので、尾関医院の尾関先生には屡診察して頂いて居た。
尾関先生は恰幅の良いいかにもお金のありそうな上品な印象のお医者さんで、かっては公立の病院の病院長をされていた偉い先生であられたそうだ。
その尾関先生は十年程前に亡くなられたのである。
もっともその前から医院の方はずっと閉められており、その医院とは棟続きのご自宅の方で闘病生活を送っておられた筈である。
尾関先生には娘さんが居られかって養子としてあるお医者さんを迎えられたのだったが、その娘さんが早くに亡くなって仕舞われたことで尾関医院の後継者も居なくなって仕舞ったのである。
私は今でも尾関医院のことを良く覚えているし尾関先生のことも確りと記憶している。
そこは何やらオールドスタイルの医院であった。
所謂昔風の開業医なのである。
そこはすべからくがそうだった。
診察室がどことなく薄暗くてそれが逆に居心地が良かった。
尾関先生は何となく信頼感の持てる先生だった。
元々偉い先生でもあったのだし。
そしてその尾関医院へも、私は薬を配達していた。
例の薬の会社でプロパー見習いをしていた時に、幼少時から通ったこの尾関医院へも屡薬を持っていっていたのだった。
ただし薬を渡していたのはいつも受付の看護婦さんへだった。
ここも何故かベテランの看護婦さんばかりで、そこが今思えばかえって安心感に満ちておりなかなか良かった。
最近の医院、病院は何やら妙に明るくして仕舞い私などはかえってストレスをそこで感じて仕舞う。
そうではなくどことなく薄暗くて医院の周りに植え込みとかが多かったりで落ち着ける環境が病人にとっては実は一番である。
一種マニアックな話ではあるが私は一時名古屋の古い医院ばかりを見に行こうとしていたことがあり、たとえばそこへたどり着いたとしてその中にクラシッ ク音楽などが流れていたとするとそれはもう最高であろうかと思う。
兎に角そんな病人に対する気遣いを大事にしているお医者さん、またはもうすぐ潰れそうな古い医院などが大好きである。
最後に尾関先生を拝見したのは、高木病院でのことである。
その頃私は階段で転んだことによる手足の痺れやひどい便秘に悩まされており、心身ともにボロボロの状態だった。
それでその便秘のことで胃腸科の高木病院へ通っていたのである。
そこの診察室で、何とあの尾関先生を見かけることとなった。
私の数人前の順番で診察を受けられているではないか。
尾関先生は高木先生にあれこれと問診を受けられていた。
あのかっては偉かった尾関先生でも結局はそうなるのである。
立派な医師も年老いて病を得れば他の医師に診て貰わなければならないのである。
私はその時にこれで尾関先生とはお別れになるかもしれないなと直感したのだったが、事実その半年後に尾関先生は身罷られたのであった。
その後尾関医院は誰もそこに住むことなく長年に亘り空家となっていたが、今年になりついにとり壊されセブンイレブンに変わって仕舞ったのである。
ショパン 別れの曲 http://www.youtube.com/watch?v=0gM4dWVc0fM&feature=related
Fryderyk Franciszek Chopin(1810-3-1〜1849-10-17)- 死の直前に撮影された写真 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/11/Frederic_Chopin_photo_sepia.jpeg
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1308回) ..2012/09/14(金) 21:28 No.4336 |
 |
ピアノ協奏曲-Piano Concerto-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2
Piano Concertoとは以上のようなものである。
Beethovenには素晴らしいピアノ協奏曲が五曲あるのだが、一番有名なのはPiano Concerto No. 5 in E-flat major, Op. 73 "Emperor"で、これが所謂『皇帝』である。
上にも述べられているようにNo.4とNo.5 が優れているとされていて確かにそのことも言えるかと思うのだが長年に亘りBeethovenのPiano Concertoを聴き続けているとどれも皆同じほどに良く思えて来る。
それぞれに良い点があるので、優劣をつけられないのである。
それに私はむしろNo.1、No.2、No.3を良く聴いて来て居る。No.1、 No.2、No.3の方が好きである。
尚BeethovenのPiano Concertoは演奏時間が長い。
だから以下のものを全部通して聴くことは実は大変なことだ。
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 1 in C major, Op. 15 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=8M6hJYe7kGY
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 2 in B-flat major, Op. 19 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=Jy6xNny5kYk
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 3 in C minor, Op. 37 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=39kubVBZa2Y
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 4 in G major, Op. 58 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=yj66a5res6U
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 5 in E-flat major, Op. 73 "Emperor" (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=atCPmacJDDY
上のものはどうも由緒正しきBeethovenのPiano Concertoといった雰囲気でかなりに良い。
Beethoven Piano Concerto No 1 C major Paul Lewis BBC Symph Jiří Belohlávek http://www.youtube.com/watch?v=AkNZ4dquYSM
Beethoven Piano Concerto No 2 B flat major Paul Lewis , Birmingham Symph N Andris http://www.youtube.com/watch?v=d4TSz57nruY
Beethoven Piano Concerto No 3 C minor Paul Lewis, Halle Orch Mark Elder http://www.youtube.com/watch?v=XhuohHMLeFI
Beethoven Piano Concerto No 4 G major Paul Lewis BBC Symph Jiří Belohlávek http://www.youtube.com/watch?v=HEh9_LGS-LQ
Beethoven Piano Concerto No 5 E flat major Emperor Paul Lewis Royal Scottish National Orchestra http://www.youtube.com/watch?v=paIwbG1NHP8
私はこの英国のPaul Lewisという若いピアニストを全く知らず、ここでも初めはBeethovenのソックリさんを冗談で出演させているのかと思って居りました。
そう思わせるほどにこのピアニストはあのBeethovenに顔の雰囲気が似ている。
それにその迫力のある演奏には本当に参りました。
下でのDaniel Barenboimの演奏と聴き比べてもむしろこちらの方が良いような気がする。
より情熱的でより深い苦悩を感じるからこちらの方が良い。
BeethovenのPiano Concertoは一級の藝術作品だから無論そこには洗練されたものも必要なのだが、Beethovenの音楽は所謂サロンの音楽ではないのであって人生と闘い深い洞察を重ねていく人にしてはじめて生み出すことの出来る音楽の世界なのである。
BeethovenのPiano Concertoはただ美しいのではなくその奥にあるのはBeethoven自身の人生との格闘の記録のようなものだ。
そこで我々はそうした闘いを経た上で醸し出された音を聴いているのである。
それはお金持ちのひまつぶしの遊興の為の曲ではなく人間存在の苦悩にまで響くほんものの藝術作品なのである。
本物の藝術とは常にそうしたものである。
それは重みがあり深さがありそしてどこまでも高く澄んでいる。
Ludwig van Beethoven - Piano Concerto No. 1, No. 2 and No. 3 - Daniel Barenboim, piano http://www.youtube.com/watch?v=NhzuQ46ceoI&feature=related
Barenboim Beethoven Piano Concertos 4-5.avi http://www.youtube.com/watch?v=kVMlGqwXozo&feature=related
ベートーヴェン、ピアノ協奏曲第5 "皇帝" Op.73フリードリヒ·グルダ(ピアノ) http://www.youtube.com/watch?v=FYkd_3q3IfU&feature=related
こちらはオールドスタイルでのBeethovenのPiano Concertoです。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1315回) ..2012/09/27(木) 00:39 No.4348 |
 |
今年は兎に角多忙であることが多く、私にとっては是非必要な山歩きなども出来ないのだしまして好きな鉱物採集をすることなども難しい。
兎に角そこまでの余裕が持てない。心理的な余裕と、時間的な余裕との両方が無い。
然し、依然として石は大好きである。
ところでNHKオンデマンドの方で石の趣味を取り上げた番組が流されていて、それをつい先日見た。
女優のとよた 真帆の石趣味を取り上げたものだ。
おふっ、とよた真帆 石は地球のプレゼント http://www.nhk.or.jp/bswomen/blog/off20120911.html
とよた 真帆は猫が好きであることは知っていたのだが、石の方も好きであることは初めて知った。
この人、石についても結構つっこんだ視点から色々と語れる人である。曰く、
『石に触れることは地球に触れること。』
『地球の一部である石を通して、古代の地球を妄想出来る。』
『私たちが居る今は借り物のようなものなのだから大事にしなくてはならない。』(と石が教えて呉れる。)
女優なのではあるが、おそらく変わり者の一種なのだろうだから私の趣味などとも重なり合うのかもしれない。
そんな訳ですでに人妻のとよた 真帆ではあるが彼女の中には似たものどうしのような部分も見えるから嫌いではない。
面白かったのはドラマのロケなどで山へ行くとドラマのことなどよりもまず落ちている石のことが気になると言っていたことだ。
そこまで行くとすでにかなりの石マニアである。
ちなみに私は市内でも小山などで舗装されていない道などを歩いている時は、大抵道路に敷いてある石、あるいは落ちている石の表面などを良く観察している。
無論良さそうな石が落ちている場合にはそこで拾って帰れそうな石を無意識のうちに探しているのである。
かと言って、私はタダの岩石には興味がなく結晶鉱物のコレクターなのだからなかなかそんな高級な石は道端に落ちていたりはしない。
ところが今ではそうした高級な石もオークションでひっきりなしに出品されている。
国産鉱物9762 北海道稲倉鉱山産一級品の稲倉石 http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r94385595
国産の菱マンガン鉱の良品かと思われる。 菱マンガン鉱は世界的に価値の高い結晶鉱物である。 しかし私はパイロクスマンガン鉱の方を集めているので菱マンガン鉱は持っていない。
尚この標本、海外の一級品のものなどは非常に高価なものとなる。
国産鉱物9747 田口鉱山一級パイロクスマンガン http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g113548552
これではとても一級品には見えないが二、三級品としては比較的良品。 ただし結晶が細かくて迫力はない。
田口鉱山産のパイロクスマンガン鉱は年々良いものが市場に出回らなくなっている。 今後は良品を得ることがほぼ不可能なこととなっていくことだろう。
TC国産鉱物 岐阜県産 柿野鉱山 緑水晶(美) http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b139512905
一級標本。こういう標本はとても高くなることだろう。
国産鉱物9742 和田峠産一級品大きなざくろ石 http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f120129905
まさに一級標本。こういう標本はとても高くなることだろう。
尚八月の終わりには毎年恒例の名古屋ミネラルフェアに行って来た。
二年振りにである。
そこでパイロクスマンガン鉱の標本をひとつだけ購った。
それは個人の鉱物収集家が出されていたもので、その方のコレクションのひとつであるということだった。
品質の方はとても一級品には届かないのだが、それも今なら良品と言えるものなのかもしれない。
その方は川辺 伸一さんといわれ、鉱物の本まで出されて居る地元の愛好家である。
標本の値段をまけていただくことは出来ず、その代わりに『鉱物化石アルバム 鉱物編』という冊子をおまけに付けて頂いた。http://outdoor.geocities.jp/kuromaoko/atenoisi.html
その川辺さんの販売ブースのところで石談義に花を咲かせていたところ、二十歳位の青年がやって来てしきりと私が見て居るパイロクスマンガン鉱の標本のことを気にしているので、そこはこちらが物色中ながら嫌がらずに見せてあげた。
そしていつしか色々とこの石の良さを講釈する側に回っていた。
「この結晶は真の意味で価値があるのだ。ほかの石を買う位ならこの地元のパイロクスマンガン鉱の結晶を是非求めるべきなのだ。」
川辺さんは私より十歳位年上の方で以前は県立の学校の教師をされていた方である。
今はご自宅で爬虫類を含めた動物などを色々と飼っておられるらしい。
石の方では何せ、共に田口鉱山へは何度も入坑したことのある立場である。
だから田口鉱山のパイロクスマンガン鉱の結晶の魔力のようなものについては互いに良く知って居る訳である。
そうこうするうちに、二十歳位の青年は予算の面からパイロクスマンガン鉱を諦めアンモナイトの化石の方の値段交渉をし始めて居た。
それで私はそのパイロクスマンガン鉱を贖うことにした。
それは結晶の大きさはまずまずでもびっくりするような標本ではないのだがいかにも坑道内で石を割って採った標本らしく母岩が大きいものである。 http://box.c.yimg.jp/res/box-s-pvc74txpcj7qwqyludwvupdvj4-1001?uid=2da0cff6-5b1a-4433-98e2-f05b2d08ae0f&etag=263f737c1348664084121168
川辺 伸一さんは他にも色々とパイロクスマンガン鉱の良晶を持っていられる様子である。
それを見てみたいなと思っていたところ、「また家へ来て頂ければお見せしても良いですよ。」と言われ感激である。
いずれにせよ鉱物の世界もこうした稀産鉱物の場合は人づてに良晶が舞い込む可能性もまたある訳である。
近いうちに是非川辺さんのお宅を訪れてパイロクスマンガン鉱のコレクションを拝見してみたいものだ。
ちなみに名古屋ミネラルフェアは良いパイロクスマンガン鉱と巡り合う確率が世界で最も高い鉱物フェアである。
パイロクスマンガン鉱の良晶の地元に住んでいてほんとうに良かったな。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1319回) ..2012/10/01(月) 22:59 No.4352 |
 |
私がこんなに石のことを好きなのは、それは単に物欲というよりもつまりは地球を愛する気持ちの表れなのではないかと思わないでもない。
私は他に化石ーそれも三葉虫ーなども少しだけ好きなのであるが、それは地球を分析して調べたいという理科系の人間の探求意欲から発していることではなく 単に自分のカラダの延長線上にある花鳥風月山川草木の世界が大好きだということに過ぎないのである。
ただそれが現生のものよりも古いもの、古い起源を持って生成されたものであることがなぜか私の感性にはピタリと来るのである。
石なども兎に角古いものであるのだから、この私の先祖返りのような思考方法とどこかしら相性の良いところがあるのやもしれない。
私は昔星星の世界が好きだったのだけれど、その星星の世界は生命の存在しない冷たい世界であった。
恒星のように常にボウボウと燃え盛っているにしても結局それは冷たいのである。
ところがこのイノチに満ち溢れた地球の石はどうも冷たいばかりではないような気がする。
その点地球は少し特別である。
大昔にコペルニクスやガリレオのおかげで人類は地球だけが特別な天体ではないという近代的かつ理性的な宇宙観を手に入れたのではあったが、私は今それとは逆方向へ戻るような考えを持ち始めているのである。
すなわちどうも地球は特別である。
そう考えておいた方が何でももっと地球上のものを大事にしていける気がしている。
私は今理性のみに傾き過ぎた現代人の認識方法に大きな違和感を感じて居る。
だから地球にもその子である石にもタマシイのようなものがあっていい筈だ。
そこには無論精神の働きなどは無いがたとえば石魂のようなものがあるのではなかろうか。
無生物と生物の境目は現代科学の力を持ってしても依然として曖昧である。
無論石が生きて居るはずもないことだが、たとえば我々のカラダの中には石を構成するものと同じ成分が随分詰まっている。
骨だって、歯だって、それらはほとんど石のようなものではないか。また胆石というのは結局石なのでしょう?
ところで私は今緑水晶に凝っている。
緑色の石が特に好きな私は緑水晶にも前々から興味を持っていたがなぜかこれまでは余り縁がなかったのである。
緑水晶なんぞよりも緑柱石ーつまりエメラルドーの方によほど興味があり緑柱石の原石だけは少しばかり集めてきているのである。
エメラルドの良質な原石は常に憧れでもあるのだが、エメラルドの良質な原石は大枚をはたかないと手に入らない。
質の良い大粒のエメラルドは世の金持ちの男共が大枚をはたいて求めソレを八頭身の美女に呉れてやったりすることのためにこそ在る。
TC国産鉱物 岐阜県産 柿野鉱山 緑水晶(美) http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b139512905
さて久し振りにヤフオクで石を落札致しました。
矢張り柿野鉱山産の緑水晶は魅力です。
ヤフオクで柿野鉱山産の緑水晶の良品を見かけるのは三度目でしたのでつい応札して仕舞いました。
まだ石は来ておりませんが、何やら楽しみです。
鉱物界の有名人の杉森氏の個人コレクションだった石なのだそうで、そこは年甲斐もなく結構ワクワクしています。
緑水晶がとても魅力的なものであることを知ったのは一昨年の名古屋ミネラルフェアでのことだった。
小さいがとても美しい色の緑水晶がとある店に出ていたのだったが、安かったにも関わらず購入するかどうか迷っていた。
すると私の横から急に白いしなやかな腕が出て来て、その標本をかっさらっていったのである。
若い女性がその標本を買って行ったのである。
その時に私は、その緑水晶の美しさはその女性にこそ良く似合うだろうとなぜか思った。
それはとても繊細な標本だったのである。
男性的ではない、まさに女性的な美しさを持った標本だった。
ちなみに鉱物フェアには女性が沢山来て居る。多分来場者の半分位は女性である筈。
岐阜県柿野東洞の灰鉄輝石と緑水晶 http://mineralhunters.web.fc2.com/higashihora03_12.html
柿野鉱山跡では灰鉄輝石と緑水晶が採れるはずでこれがどちらも緑系の渋い色の鉱物で私好みのものなのだ。
以前から一度は行きたいと思っていたところながら、結局は行けずじまいで終わって仕舞いそうだ。
今でも行けば何かは採れることかと思われるのだが、何せ日本の鉱山の規模は小さくそれも大昔に石を掘っていたところでのその捨て石の中から石を探し出すのであるからそんなものはやがて採集者に採り尽くされて仕舞うのである。
だから日本の鉱物採集趣味はおそらく今ほとんど末期状態の様相を呈しつつあるのではないか。
地元愛知の石はもう採れないのだし、おそらく岐阜や三重の石ももう採れないことだろう。
兎に角石の愛好家が全国からひとつの有名産地に集中して訪れたりもしているので、そこでは良い石などすぐに無くなって仕舞うのである。
特にネット時代になり余計にそれがひどくなりつつある。
そこに産地の情報が載るから高速道路を使って遠いところから石を採りに来るのである。
然し、今はネットで現金採集をすることも出来る訳だ。
地元の石のみならず世界中の石をネットで集めることも出来るのだ。
http://box.c.yimg.jp/res/box-s-pvc74txpcj7qwqyludwvupdvj4-1001?uid=836aa8a4-c592-4cb7-ab6b-79b1e5e1545d&etag=6b4c49911349096038112543 尚私が持って居るこの緑水晶の標本は甲武信鉱山産のものだったと思う。 緑水晶は実物の方が良くまた渋い色合いなので一種玄人好みのする水晶趣味である。
緑水晶いろいろ http://voidmark.fc2web.com/quartz/quartz4-2.html
ここにもあるように緑水晶の緑色は石の中に混じった内包物の色だということらしい。その内包物にも色々と種類があるようだ。
緑水晶 553<ギリシャ> http://www.ns-mineral.jp/item_view.php?i_id=14578&PHPSESSID=373e23097dabed794359cad5088ff141 ギリシャ産の緑水晶はことに有名である。
私もこれをひとつだけ持っていて、それはどこかに仕舞ってあった筈である。
緑水晶を眺めていると心が休まる。 色々と疲労がたまっている時などは特に優しく癒して呉れるようだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1320回) ..2012/10/02(火) 22:12 No.4353 |
 |
玉には軟玉と硬玉があり、高級限定万年筆の軸などに使われるのは主に軟玉の方である。
ところが純粋な意味で宝石となるのは硬玉の方で、こちらの方が本翡翠と呼ばれるものである。
翡翠は世界でも産地が限定されており、東洋や中米などにしか宝石質となるものが産出しないのでそれは白人種の為の宝石ではなく有色人種の為の宝石であるように見受けられる。
実際翡翠は東洋人には人気が高い。
特に日本人は翡翠が大好きなのだそうである。
日本人のお金持ちの家には良い翡翠のひとつ位は大抵ありそうなものなのである。
尚家は金持ちではないが本翡翠の指輪のひとつ位はある。
それは無論私のものじゃなく母のものですが。
実感として、翡翠は本当に特別な石だという感じがする。
この石、微細で緻密な結晶が絡み合ったような形でできており、だからこそ物凄く丈夫で、つまりは堅い。
実際の硬度の方は実はそれほどでもないのだけれど、兎に角強靭な石で割ろうと思ってもなかなか割る事が出来ないのである。
そして翡翠の表面にはその微小な結晶が浮き出ているものが多くそれがキラキラと輝いていてなかなか美しい。
あるいは滑らかなスベスベの肌のようになっているものもあり、こちらの方はまた物凄く手触りが良い。
実際翡翠というのは触ってみるととても気持ちの良い石なのである。
またその気持ち良さが、他の結晶宝石鉱物と比べると何となく温かいような類のものになる。
だから翡翠は握り石にすると大変気分がよろしい。
握り石というのは私の場合何か考え事をしている時に左手の方で握っている石のことを言う。
無論右手の方には万年筆を持っているが、左手の方には何らかの石を握っていることが多い。
されど本翡翠の世界は奥深い。
本翡翠にはピンからキリまであり、上等な石は数百万円程することもザラにあるのだしその一方では採集品の翡翠などはヤフオクで千円程で買えないこともない。
つまり翡翠はその質や価値に大きく幅がある。
また翡翠は鑑定の方も極めて難しい。
そこは翡翠のプロでも間違ってしまうこともあるらしい。
糸魚川産 翡翠 http://www.moonmadness.jp/itoigawahisui.html
こちらは翡翠のことが非常に分かりやすく、詳しく書かれている。
特に糸魚川産の翡翠のことについても色々と書かれているのでその部分は貴重な資料となる。 ちなみに現在でも採掘が続けられているミャンマー翡翠にはごく稀に素晴らしい宝石質の石が採れてもいるらしい。
一方糸魚川産の方は現在天然記念物に指定されて仕舞って居るので、それをどこぞで掘って採った来たり川原の石を持ち帰ったりするとすれば即お縄となる。
糸魚川産の翡翠の場合かっては素晴らしい石が採れていたことだろうが、何せ今は天然記念物指定区域外の海岸などで根気良く探して拾ってくるほかないのである。
そして日本人の鉱物コレクターにとってはどちらかと言えば糸魚川産の良質の翡翠を得ることの方がより価値が高く感じられる。
ただ、ミャンマー翡翠の最高級の石はそれこそもうとんでもなく美しいもので、そこは日本人の鉱物コレクターだろうが何だろうが即座に飛びつきたくなるほどの魅力を持って居る石なのだと言える。
尚翡翠というのは隣国の中国でも古来より珍重されて来た石なのである。
ただし、中国では本翡翠は採れず本国で採れているのは軟玉の方である。
それでも清朝の装飾品などには本翡翠の極上の石を使ったものが多くあったのである。
中国は丁度今日本とは関係が悪化しているところなのだが、そこは同じ翡翠を愛する東洋人同士が何でもっと仲良く出来ないものなのだろうか。
私も昔中国の万年筆を良く買ったのでとある中国人の出品者の方が中国の天目茶碗など下さったりしてそのことがとても嬉しかったのだったがそうした関係がなぜ築けないのであろうか。
尚その中国で、少し前から翡翠が高騰しているということをご存知だろうか? 翡翠の価格はこの十年で十倍に高騰しているのだそうだ。 今では1オンス(約28グラム)あたり3000ドル近いのだそうだ。
また本翡翠の産地のミャンマーにおける翡翠のオークションでは実質上中国人に翡翠が買い占められているそうである。
だから本翡翠の何かを沢山持って居る日本人のお金持ちの方は、今すぐに中国へ行きそれを全部売って来れば随分儲けることが出来る。
が、この翡翠高騰の風潮が日本にもやって来ると当然日本の市場でも翡翠が値上がりすることになる。
ただしこの翡翠によるマネーゲームはなんだかバブリーなものでいつ終わりを迎えるものか分からないようなものでもある。
恐るべし、この本翡翠。
だが翡翠は常に美しい。
この石には様々な色合いがあり、極めて美しく、そして堅牢で価値のある特別な石なのである。
日本翡翠情報センター http://www.japanjade-center.jp/archaeology2.html
こちらも読み応えのある日本産翡翠の情報サイト。 ここを全部通して読んでみると勉強になります。
お知らせー多忙の為3日間ほど書き込みをお休みします。
|
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1327回) ..2012/10/12(金) 23:00 No.4360 |
 |
熊さんが言うには、大橋堂のIさんはガレやドームのガラス工藝作品が大好きなのだそうな。
なるほど、まあ確かにガレやドームの趣味は高尚な西洋アンティーク趣味である。
大橋堂の手作り万年筆が沢山売れるとすればたしかにガレやドームのひとつやふたつは買えそうである。
その大橋堂から丁度我が家にも手紙が来て、そこにはこの10月に名古屋丸栄百貨店に来るということが書いてあった。
ちなみに名古屋丸栄百貨店にはかって私の行きつけの万年筆売り場があり、その関係で丸栄百貨店の催し物の際に私の万年筆を二度程展示させて頂いたことがあった。
万年筆売り場に入っていたその会社は丸栄からは撤退したが今でもアマゾンなどを中心に万年筆を売っている。
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/shop-maruzen_nagoyasakae.html
その丸栄にはなんと今あの丸善が間借りをして入って居る。
丸善が入って居たビルは今建替え中らしいので、多分新たなビルが出来るまでのことなのだろう。
もっとも私は近頃どこにも行かなくなって仕舞った。
今物はネットで手に入るので物の入手の為にわざわざ動くのが億劫である。
が、熊さんは行きつけのアンティークショップがありいつもそこへ行っているのだという。
アンティーク 益源 http://locoplace.jp/t000097908/
熊さんは週に一回位の割合でこの店に通っているのだという。
それで私も先日熊さんと一緒に訪れてみたが意外と小ぢんまりした店で万年筆に限ってはほとんど何も無い店であった。
ただし腕時計の方は色々と置かれている店である。
だが万年筆はおそらく60年代の物と思われるパーカー75が一本あるきりだった。
我はと言えば傍若無人にも店に初めて訪れておきながら自分の万年筆をケースの上に並べたりしてつい熊さんに講釈をしてしまったため、多分物凄く悪い印象を店の人に与えたことかと思う。
どのみち万年筆は無い店なので以後頻繁に行くようなところではない。
が、ガレとドームだけは僅かながらあったのでそれを見に今後も年に一度位は行くことになるのかもしれない。
アウトドアクラブーウイリアム ヘンリー作 http://www.odclub.net/knife/knife_wh.html
その益源の近くに移転した熊さんの行きつけのナイフショップのアウトドアクラブへも共に行き、そこで様々なナイフの数々を拝見したのであったが、 その中ではことのほかこの作家物ナイフが気に入りそこに強い物欲を感じたのであったが、何せ値段の方がべらぼうにお高く入手することは現実的ではない。
それでも手にとって見せて頂いたところ、それは本当に素晴らしいものだった。
元々私は机上でも文房具として使えるような小振りのナイフが好きでこのナイフもそうした類での上限のサイズのナイフにあたるものだ。
尚文房具としてのナイフという面では、古い英国製の小振りのナイフやかってカスタムナイフメーカーの鹿山氏が作ったという小振りのナイフなども幾つか置いてあった。
http://www.odclub.net/knife_custom/knife_shikayama.html
その古い英国製の小振りのナイフの方は羽根ペンを削るナイフから派生したものだと熊さんは言う。
だとすればそれはナイフであるとはいえ元々ほとんど文房具のようなものなのだ。
またこうしたものはあのヴィクトりノックスやウェンガーなどの徳用ナイフなどよりもまだ華奢に作られている。
これで戦闘などはどう考えても出来ないからこれらはナイフでも文房具の一種のようなものなのである。
私は昔からそういうナイフが一番好きなのである。
机上で鉛筆などを削るのに向いた、そして上品な装飾が施された華奢なナイフが好きなのである。
謂わば万年筆と並べて置いてみていかにも似合うような文房具としてのナイフが好きなのである。
従ってそこは無論日本製の肥後守などでも良い。
良いのだが、もう少し趣味性の高いナイフとして、たとえばアンティーク萬年筆と並べて良く似合うような文房具としてのナイフが一番欲しい。
ああ、然し、確か我はすでにそうしたナイフも持っていた筈である。
それは小振りのナイフでラピスラズリの限定ハンドル材のものがどこかにあった筈だ。
全くいざジジイとなると物忘れ=物を持って居ること自体を忘れる、という現象が増えてくるので実に困る。
和式ナイフ http://www.odclub.net/knife/knife_wasiki.htm
たとえば山や森などでハードなアウトドア生活を行う場合にはこの和式のナイフが一番重宝することだろう。
いずれにせよ、万年筆にせよ、ナイフにせよ、はたまたガレやドームにせよ、趣味の世界のものはやはり見ていて楽しく一種夢のある世界のものである。
最近現実の世相の方が余りに夢の無いものになってきているので、たまにこうした趣味の世界に暫しの間遊ぶともう楽しくて楽しくて仕方がない。
究極的にはモノは己を救って呉れる訳でもないとしても、夢の拡がりのある世界はいつも甘美で私をうっとりとさせて呉れるのである。
その後熊さんとは仕事の上での悩みを互いにさらけ出しながら本音で語り合った。
全く生きていくための本当のところは人生悩みだらけで甘美なことなんぞ少しもありはしない。
人生は九割方位は常にキビシイ。
だが甘美なものである何かもまた一方に確かにあるのではないか。
それが何から得られるものであるかは人それぞれであるにせよ、この私や熊さんのようなモノオタクの場合には物から得られる安らぎのようなものも確かに大きいのである。
もっともモノなんぞ必要ないと言って酒ばかり飲んでいる人も会社には居るが、この二人のオタク振りはそれと比べればいかにも罪の無いものなのではあるまいか。
飲む、打つ、買う、ことはせずにいまだに母と同居している共に五十過ぎの熊さんと私はこうして休みの日にモノによる甘美な世界を求め続けて市内のあちこちを彷徨って居るのであった。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1333回) ..2012/10/25(木) 00:10 No.4368 |
 |
現代における諸々の悩みが自己の内側に限れば気にならなくなって仕舞う様な特権階級層であるならばまだしも、私のような庶民はこの狂おしくもバカバカしい人生の悩みをたとえば有り余る程の金のチカラで紛らわせてみたり、或いは自らに与えられし肩書きすなわち権威的なチカラで紛らわせてみることも出来ない訳で、それでは一体何でストレスの解消を行うのかという段になれば、結局普通庶民的には所謂飲む、打つ、買うのいずれかでそれを解消したりして居るものなのである。
が、それもすでに昔の話となりつつあり、今の男性庶民諸氏は兎に角すべからくに雁字搦めにされつつありそんな豪快な遊びの中には逃げ込めないのが実情なのであろう。
その点私は女房も居なければ子供も居ないので、その分その雁字搦めの度合いが普通よりは緩いかとも思われるのだが、その分思索や文学やといったより大きな視点、ないしは宗教などといったそれ以上の大きな視野へも首を突っ込んで居るのでむしろそちらの方面での雁字搦めの度合いが大きく実際にはワタシもアナタと全く同じで身動きなど取れやしない。
もし私がプロの作家か詩人であるならそのプロの作家か詩人であるという権威の中にでも逃げ込んでそこで諸問題につき言いたいことを言っていれば良いのであるからそこはもう少し楽なのかもしれないがそれもすでに五十を過ぎてそうはなれなかった男の言って居ることではない。
それで我は一体何でそのモヤモヤを解消するのかという話となり、モヤモヤは自称の詩人として結局詩を書く事で解消できるのではなかろうかと思いそのようにしてみたのだが昔と違ってなかなか切れのある詩などは書けやしない。
いや、それでもほんとうは書かなければならないのだけれど、それは書こうと思って書くのではなく自然に湧きいずるようなものなのでそういう意図的で不自然なのはよろしくない。
では何でこのモヤモヤを解消するのだ?
あの久米先生みたいに金持ちならばバセロンコンスタンチンかパテックフィリップでも買って左手に巻きつけて居れば良いのだろうが自分の経済力ではあいにくそれは出来ない。
自然?
なにより自然は一番だが何せ自然に親しんで居る暇が無いと来て居る。
仕事?
アホか。仕事で与えられるのは消耗だけなのだよ。
万年筆?
すでに現代の万年筆には飽きたから興味ありません。
萬年筆?
古典のペンには大いに興味はありますが萬年筆でタマシイまではなかなか救われません。
宗教?
まあ昔は首を突っ込んで居たこともあったが今はどうもね。兎に角暇もないのだし。
女?
女は罪深すぎて元々わたくしの性には合わない。
なんだ、すると結局すでにどうしようもないジジイではないか。
飲む、打つ、買う、または高額消費することが出来ずかつ詩を書くことも出来ないただの若ジジイ。
その若ジジイが、二週間ほど前に急に思い立ってゴルフ練習場へ行ってみたのである。
二年ぶりにである。
25年もの間続けていたゴルフをやめたのは色々と理由があった。
まず青年の時の世の中ぜんたいに対する真摯な思索の姿勢を取り戻そうとして意識的に昔の自分に戻ろうとしたこと。
それで哲学や宗教のことを再び考えようとしていたのだ。
まあそれはそれでひとつの立派な志である。
なぜなら五十過ぎのひとり身の奴は段々としなびて行くんだ。
少なくとも私の周りではみなそうである。
段々汚くなっていく。
そうしたところに落ち込まないようにするには不断の努力が必要だ。そこに強固な意志の力が必要である。
だから無論そこは宗教などでその状態を保ってもいい。
が、どうもカラダの方がガタガタだ。
五十肩、歯槽膿漏、水虫、関節が痛い、など聞いているだけで胸が悪くなる話ばかりだ。
この有様で一体どこが自称詩人なのだ?
この図書談話室はその歯槽膿漏と水虫の巣窟なのか。
読者の皆様がなんぞ高級な話を期待されてここを覗かれているというのにそこで槽歯膿漏と水虫の話しかできぬのか。
それが、不思議である。
金木犀の植え込みに囲まれた広大な山の中の練習場で私は生き返った。
アレ、なんと爽快なんだ。
実際五十肩も歯槽膿漏も水虫もみな治まった。ーように感じられる程に気持ちいい。ー
左足の足首の関節の痛いのだけは流石にかえって悪くなりそうなのだがまあそれも動いていれば治る、治る、きっと良くなることだろう。
嗚呼、なんて気持ちがいいんだ、体を動かすことは。
私はその時に至福の感覚を与えられた感じがした。
やはり人間は観念の世界にだけ生きて居られるものではない。
かなりに観念的な人間であろう筈の私から見てもそのことが明らかに言えるのである。
結局それから三度も練習場へ通っている。
かぐわしいあの金木犀の香りに包まれて、一心不乱にあの小さな球を打ち続けて居る。
なんだ、文学より、あるいは宗教よりこちらの方が余程に良いのじゃないか。
いや、それはそうなのではなく、あくまでバランスの問題なのである。
文学や宗教だけが私にとって大事なものである訳ではないのである。
実はゴルフの方も私にとっては大事なものだったのである。
よし、これで独身として崩壊していくことを止めてみることとしてみよう。
ちなみに適度に行うスポーツがいかに体に良い影響を及ぼすかということが以下に書かれている。
スポーツと健康の話 http://www.hospital.ne.jp/regular/sports/sports.html
こちらが真の健康の為のスポーツについて書かれている部分。
スポーツと健康 http://www.okinawa.med.or.jp/old/ippan/saijiki3/sai34.htm
ただしやりすぎたりするとかえって良くない。実際競技スポーツは何らかの権威化のために行う倒錯のスポーツである。
特に世に言われるところの所謂文弱の徒は詩などばかり書いていないでスポーツをした方が良いのである。
自称の詩人に限れば、詩はいつでも心の底の方に溜まっているものなのでそんなものはいつでも書ける。
迸り出る時が来ればそんなものはいつでも自然に書けるものなのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1375回) ..2013/01/14(月) 23:51 No.4427 |
 |
昨夜2009年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の映画『アヴァター』(Avatar)を初めてTVで視聴した。 しかしながら実は途中で用事が入り三十分程は見られなかったのだったが、その後は無論最後まで視た。
非常に面白い映画だった。 何が面白いのかと言えば、現代社会に対するメッセージ性が込められているという点で特に感心した。
流石はジェームズ・キャメロン監督の映画である。
この映画に於けるそのメッセージとは、つまりは環境問題のことである。
それも未来に於いて宇宙規模で繰り広げられている人類による環境の収奪行為に対する批判が鋭く込められて居る。
この映画には参った。
こんなに凄いものだとは全然思っていなかった。
どうせ3Dという映像新技術を駆使したただの客寄せの二流SF映画だろうと思っていたのでまさかという感じだった。
映画の世界は凄い、と改めて思い至らせて呉れたのがこの映画だ。
だがこの映画が史上最高の興行収入を記録しているということについてはかえって分からなくなった。
なぜならこの映画の筋が一般性のあるものだとはとても思えないものだったからなのだ。
それは文化相対主義を標榜するかのレヴィ・ストロースによる文化人類学的な発想のものである。
Wikipedia-文化相対主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9
それは欧米中心の価値観による世界侵略を許さない構えのものである。
だからそのことが分かった上で一般大衆がこの映画を視ていたのかどうかという点についてははなはだ疑問である。
きっと分かっていない人も多かったに違いない。
この映画は私のような変わり者であってこそ初めて真に受けるような内容となっていて、それはある意味で欧米中心の価値観であるキリスト教という一神教とそれに基づいて組織された諸々のシステムを否定しているものだ。
実際この映画では地球の軍隊は惑星の侵略に失敗して全部滅びるのである。 そして惑星の原住民=宇宙人が原始的武器でもってして地球の未来兵器に立ち向かい勝利を勝ち取るのである。
それはたとえばかのアメリカ・インディアンが白人の軍隊を絶滅させるようなものなのだ。
だからこの映画は西欧中心の価値観を破壊しているという点で、しかもそれを一般大衆に向けて発信しているという点でまさに画期的な作品だったのだろうと思う。
そして戦いに勝った側の原住民=宇宙人たちは何と汎神論的な世界観の持ち主だったのである。
「自然の中に神が宿る」という惑星の原住民=宇宙人が持っている思想はまさにアニミズムの思想なのでありそれは「自然の中に神と佛が宿る」という私自身の思想と共鳴するものでもあり得る。
だから私は心の底から気分よくこの映画を視て居られたのだ。
まさに爽快な気分でこの映画を最後までみることが出来た。
そしてその直後に私はアマゾンの買い物リストにアヴァターのDVDをしっかりと入れて居た。
無論もう一度是非全部通して視てみたい映画だからこそそうしていたのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1398回) ..2013/03/06(水) 01:15 No.4458 |
 |
私は今職場で「先生」という渾名で呼ばれて居る。
その渾名を付けたのは大学の先輩のSさんである。
何でも私がその甘ちょろい風貌に似合わず大所高所からものを言う癖があるのでそう名付けたものらしい。
それと、一緒に居るとどことなく学校の先生の雰囲気がすることもあるのだそうだ。
ただしその渾名には多分に揶揄の部分も入っており、それはいつも作家のようなことを言っている癖に本物の作家ではないことを茶化した意味が込められて居る。
つまり「ニセ作家先生」というのが短くなって「先生」となっているらしい。
だが私は本当はニセ詩人の方なのだ。
だからつまりは似非作家で似非詩人の似非先生なのだ。
然しながら世を憂うる気分に偽も本物も無い。
その本物の世を憂うる気分を持って居る者こそが作家であり詩人なのである。
先輩は4つ年上で私が大学へ入った時にはすでに卒業していた人である。
学部は違うが、兎に角先輩である。
この先輩がなかなかユニークな人だ。
営業畑の出身の人で、組織の上での社交術などは元々シッカリ身につけて居る。
つまりは人のご機嫌をとるのが上手い。
そういうのは元々の彼の性格かと思っていたのだったが、一年以上一緒に仕事をしてみるとどうもそうではないと感じられるようになった。
どうも一種の重苦しい部分さえ心に抱えているのではないだろうかと私には感じ取れるようになって来た。
S先輩は、現在の仕事上での私のパートナーである。
職場では比較的古株で色んなことを良く知って居る。
だが、彼は余り皆から尊敬されたりはしていない。
その代わりに、皆に好かれている。
そこが先輩の人間力としての価値のようなものなのかもしれない。
私はといえばその逆で人に好かれることなどは稀である。
所謂人好きのしない奴、とっつきにくい奴なのである。
もっとも私はそのとっつきにくさを変えていく気などサラサラ無いのだ。
そのとっつきにくい人間だからこそ見えているものが違うということはある、と固く信じて居る部分さえもがある。
だから私は職場でも適当にその場の雰囲気に合わせたりはしないのだ。
いつも職場を根本的に改善しなければならないとそのことにばかりエネルギーを注いで居る。
ちなみに先輩は血液型がO型で、私は典型的なA型人間だ。
彼は外面が良すぎるというのか、実際妙に愛想が良く、それで当初この人はアホではないかといつも思っていたのだったが、結局そうではないことが分かりそこで初めて心の絆が結ばれた気がした。
そうなる前は口喧嘩ばかりで本当に酷かった。
なんだ、お前は。妙に神妙なその顔つきばかりでなく考え方自体がとっつきにくいんだよ。少しは融通がきかんのか、融通が。
なんだ、アンタこそ先輩ツラして一体何やってるんだ、この真昼間からウツラウツラしたりせずにちゃんと真面目に仕事しろよ、真面目に。
ところが、あることがきっかけで喧嘩しなくなった。
それはひょんなきっかけでS先輩が私の側の世界に入ってきたからなのだった。
数ヶ月前、我々は職場でTVを視ていた。
先輩が相変わらず民放のくだけた番組をみたがるので、私は時には一緒にお勉強しましょうと言い教育TV(今のEテレのこと)の方にチャンネルを変えて仕舞った。
すると、そこではかの「夜と霧」に関しての番組をやっていたのだった。
言うまでもなくそこではナチスが行った暴虐の行為の数々や著者である精神科医フランクルの強制収容所体験とそこから導かれた思索などが語られていた。
その重く深い内容はそれだからこそ先輩の心の扉のひとつを開いていったのである。
其の後それまで職場では開いていなかった心の部分を先輩は私にだけ開くようになってくれたのだった。
以降我々は多くの社会問題について語り合った。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1421回) ..2013/04/18(木) 00:50 No.4487 |
 |
Wikipedia-トパーズ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BA
嫋やかな野の花たち http://www15.plala.or.jp/gemuseum/gestry-wldflwr.htm
薔薇に刺ありーバラにとげがあるように、美しいものには人を傷つける恐ろしい一面があるということ。西洋のことわざで、“No rose without a thorn.(とげのないバラはない)”の訳語の一つ。どんな美しいものにも醜い一面があるの意にも解する。ーというが、転じて美しいものには刺があるというふうにも言えなくはないことだろう。
だが、美しいものは本来美しいのであって、そこでどうも完全に美しいと言い得ることも出来る筈だとわたくしなどは思うのである。
それはどういうことかというに、自然物である美はほとんど永遠にそのままに美しいということを言って居ることなのである。
美しいものにトゲがあるのは、それは欲望やら妬みやら金の力やらが絡む醜い俗世においてのことで、天然無垢、無垢清浄の完璧な調和の中にある自然そのものの美にはそんないやらしい醜い一面は、そこで持とうとしても持てないことではないかと思うのである。
つまるところ恐いやら汚いやらトゲトゲなのは常に人間の心の中の側にあることなのであって、自然物そのものの清浄にして静謐な美の世界のことはそれらと完全に切り離しておくべきだと私は常常考えて居るのである。
そのような視点で、この薄汚れた人間界でお仕事をして来たことのための其の疲労を除こうと思い、こうして夜に人知れず鉱物と戯れていることほどすがしいことはない。
こうしてここにある、私が集めて来た宝石鉱物は美しいが矢張り刺は無い。
これらは金や銀とは違って資産価値が生じるようなものではない。
無論宝石鉱物でも極上のエメラルドやルビーの原石であるならばその限りではない。
そういうのは原石でも大変な価値の石となることだろう。
だが私は金持ちだという訳ではなく、むしろ常に金欠病の方の人間なのでそんな石などは買いたくても買えず自分に見合った石だけを集めて来て居る。
それももし鉱物の方がメインの趣味であるならもう少し良い石が集めて来られたのかもしれなかった。
然し、わたくしのメインの趣味は萬年筆の収集と決まっているのだ。
しかもゴルフの方もやる。
そうした金のかかる趣味を複数持ちながら、何と宝石鉱物の収集にまで手を出して仕舞っているからそこでは一級品の石などは集まって来ない。
だが、石に夢を見られること、その夢である現実の石が私の荒れた心の内側を優しく癒して呉れること、そのことの為に、そのことの為だけにこうしてわたくしは今宵も石たちと戯れて居る。
さて私の好きな石のひとつにトパーズがある。
これは黄玉と訳されるが、実際にはブルーもありレッドもありゴールドもありで華やかな色合いを持つ華麗な石である。
その華麗な石は主に海外産のもので、これは原石の質の良いものでも比較的安価に売られていたりするから収集し易い。
原石の質の良いものであれば高価なものとなりやすいエメラルドやルビーよりも楽に集められるところが威張っていなくてなんだかよろしい。
それにトパーズは指輪になっても比較的安価でどこか清貧の匂いのする宝石だ。
それでわたくしは夜それらのトパーズを眺めて心を癒して貰っていることが多い。
私は当初ブラジル産のインペリアルトパーズなるものに凝ってそれの大きな結晶なども集めていたのだったが、やがてそれらがgem qualityのものであっても何となくケバケバしく感じられて仕舞う様になっていった。
それで次に凝ったのが苗木産のトパーズ、すなわち名古屋文化圏でもある岐阜県苗木地方から採れる地元の石を特に愛好していくようになった。
6、7年も前のことだが、私の石仲間に宝石の販売業者が居て、この男がその頃岐阜中津川の関戸川という小川へよくトパーズを浚えに行っていたものだった。
小川で川砂をふるいがけすると、そこにキラキラとした小さなトパーズの結晶が拾えたのである。
中には2センチ級の大きなトパーズが見つかる場合もあったらしい。
そのトパーズが、なかなか美しい。
小さくて透明度があり、スッキリとした結晶となったものや塊状の不定形のものまでありそれぞれがとても愛らしい。
無論私もトライしてみた。
然し良いものは採れなかった。
そうこうするうち、その関戸川のトパーズ産地は採集禁止となって仕舞った。
さみしいことだけれど、その頃の良い思い出が残ったというべきだろうか。
トパーズは国内でもごく限られたところに産する鉱物で、主に岐阜県の苗木地方と滋賀県の田上山に産し、他には三重県の宮妻峡に少し産する位のものなのである。
其の貴重な国産のトパーズにわたくしは今でも癒し続けられている。
http://yahoo.jp/box/nLKjga
どこまでも淡い色合いのトパーズ、日本の野山の春の色合いのようなその優しい様。
硬度は8と高くシャープな印象のある鉱物結晶であるトパーズではありますが、こうして色とりどりのものが集まるとなかなかカラフルで美しい。
比較的入手し易いトパーズでもピンク系のものやグリーン系の石は稀で入手することは難しい。
では価値があるのかって?
無論、金銭的な価値などはたいしてありません。
それはブラジルのインペリアルトパーズやブルートパーズ、またはロシアのレッドトパーズの良品などであれば相応の金額は付きます。
然し、そうした価値ではない地元の石の価値がこの苗木のトパーズには確りとある。
その価値こそは逆に海外の石の良品を遥かに凌ぐ価値となるものなのだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1422回) ..2013/04/20(土) 00:43 No.4488 |
 |
http://blogs.yahoo.co.jp/pencil_0129/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg5.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2Fdd%2F7f%2Fpencil_0129%2Ffolder%2F495577%2Fimg_495577_8591681_8%3F1360906875
こちらは米国のツーソンショーの画像ですが、滋賀県田上山産のブルートパーズの一級標本が展示されている様である。 まさに素晴らしい結晶で、透明度が高く深い青のブルートパーズである。おそらく世界的に見ても最高のブルートパーズだと考えられるものだろう。
ここからしても、日本の石のレヴェルは高いと言い得るのではないか。また他にも岐阜県苗木地方産のトパーズが海外の博物館に保管、展示されている例などもある。
◆◇国産宝石鉱物 滋賀県田上山のブルートパーズ(濃厚!)◇◆ http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h175597199
ところが現在ではこの程度の標本を得ることですら難しい。
事実明治時代に国内の最大の産地である滋賀県の田上山を訪れたヨーロッパの地質学者らがトパーズの良晶を大量に本国に送ったという逸話が残っているそうだ。 そこからしてもここ日本ではどうやらトパーズは余り大事にされない宝石だったようだ。
ところが欧米では近代以後に特に珍重された石だったのである。
トパーズは硬度が高いので無色透明でくっきりとした結晶を触っていると少し冷たい印象さえ与えられまさに宝石という感じのする石である。
しかしこの硬度が高いということは宝石として大事なことなのである。
上等な宝石であればある程あの水晶などよりはずっと硬くなければならないのである。
宝石.Jp-トパーズ http://www.houseki.jp/topaz/topaz.html
尚、こちらにはトパーズに対する人為的な着色のことなどが詳しく書かれて居る。
トパーズの指輪は比較的安価な訳だが、そこではトパーズは質の良い大きな結晶が多く採れるということだけに限らず人工着色だから安いということにも繋がるのだろう。
ちなみに私のような鉱物愛好家は自然そのものである鉱物結晶の美を愛でるだけなのでそうした人為的にこねくり回された処理石には全く興味が無い。
だから当然私も指輪の石のように磨いて仕舞った石に興味は無い。
どだいただ綺麗になるからという理由だけで神の造形物である筈の鉱物結晶に勝手に手を加えて仕舞ってよいものなのだろうか。
愛する女にコテコテの人工着色のトパーズの指輪を嵌めさせて喜んでいる人類のオス共の頭の中の浅薄さはかなりのものであるとそこで断じざるを得ない。
どだいキリスト教徒が多い筈の欧米の鉱物愛好家は神の造形物そのものである筈の鉱物結晶をそうしてこねくり回して来てそれで神様を冒涜していることにはならないのだろうか。
我などは仏教徒だというのに自然に対しては物凄く謙虚で自然の造形はなべて神仏の意志であるという位の実に厳密で慎ましやかな思想を持っているのだが矢張りそれとは大違いのことではないのかね。
実際市販されて居るブルートパーズの指輪の石はほとんどが処理石でブルーに熱処理された黄色のトパーズだという。
だが我はその辺りに関しては潔癖症なので自分で持つものについてはそうしたものを一切認めない。
というよりも、鉱物結晶の場合はその熱処理なり放射線照射なりが実際どこまで行われているものなのかうかがい知れない部分があるが、今後は是非その部分をハッキリさせていくべきだといつも思って居る。
UWA宝石辞典-ピンクトパーズ加熱 http://www.suwagem.com/jp/dictionary/quality/book1-20/1.html
何にせよ、宝石の世界に於いてまず問題となることがこの現代人が行う人為的改変の部分にあるだろうことはまず間違いない筈だ。
美しい石には、それ自体に刺は無くどこまでも美しい筈だと前回私は述べたのだったが、人為的に石の価値を上げたりすることで何やら次第にその刺のようなものが次々に生えて来るような気がしてならない。
そうまでして美しいものを得たいのだろうか?
いや、ワシがそれを得たいのではなくワシの女がそれを欲して居るのでワシはただそれを呉れてやるだけなのじゃよ。
そうまでして其のバカ女の気を引こうとしていなさるのか?
今私が問題として捉えていることとは、なぜ現代人はここまで加工品が好きになって仕舞ったのだろうかということなのである。
自然そのものではダメなのだろうか。もっと綺麗で格好良くないとダメだと皆が考えて居るのだろうか。
だが実際にはこの唯一無二の生まれたままの馬鹿さ加減で充分なのではないだろうか。
無論綺麗な石は綺麗だがそれはごく僅かで、大半はごくありふれた色の石に過ぎない。
ならばそのままにそのことを認めておけば良いのではないか。
加工せず、何も奪わず、何でも自然体でいくのが一番なのではなかろうか。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1425回) ..2013/04/26(金) 00:24 No.4491 |
 |
中島 義道氏が戦う哲学者であるのならば、私はまさに戦う自称詩人でありたい。
何と戦うのかといえば、無論それは文明のあり方と戦うのである。
それも古い文明のあり方と戦うのではなく、この近代文明と戦うのである。
だから私は車にも乗らなければ、携帯も持たない。
スマホにも興味がなければ、その他のいかなる新しいものにも興味がない。
その様やまるで病気かと思うのだが、この病気は神仏が私に与えて呉れた大事なものであるという気さえして居て、だからこそそう簡単なものではない。
中島氏も自分は精神の病気であると言っておられるようだが、どだい哲学や文学の世界には病気の一歩手前位の人の方が入りやすいものなのである。
芥川 龍之介も太宰 治もありゃあ皆病気だぜ。
ニーチェなどもあきらかに病気である。
詩人もかのヘルダーリンなどは完全な心の病だ。
フリードリヒ・ヘルダーリン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
尚、私が高校生の頃に母がある高校の先生からこんな話を聞いたのだそうだ。
曰く、本を読むということは良いことのように思われているが実はそうではない。
本を読むということがむしろ学生を追い詰めることさえ屡ある。
本を読むことでいざ物事を深く考えて仕舞えば、確かにそうしたことも起こり得る。
ちなみに母は文学少女で、かってはあの杉原 千畝が卒業した学校へ通って居た。
だから私に文学の縁があったのは、母の血筋である。
一方父は学生の頃哲学の本ばかりを読んでいたのだそうだ。
後年の父からは想像もつかない話であるのだが。
ものに全くこだわらず、服装なども適当で、ゴルフは好きだが道具にはこだわらず、そこで何にこだわるのかといえば酒を飲むことだけに拘る。
ただし社会的な地位の高かった人なので結構良い酒ばかり飲んでいたのかもしれないのだが今となってはそいつは分からない。
その若き日の父の哲学的な思索がこの我に乗り移り結局我も哲学のことが嫌いではない。
なんだ結局全部血筋だぞ、血筋。
ついでに爺ちゃんなども出てくるぞ。
在野の仏教研究者だったお爺さんのことだ。
この爺さんの仏教好きが我に完全に乗り移って来て居るのだ。
自宅に物凄く立派な本棚、書架をしつらえ、そこに絢爛豪華な仏教全集やら何やらの類を収め、そこへ来た坊主が皆驚いて感心したというあの爺ちゃんだ。
25年位前、その爺ちゃんの臨終の間際に病院へ行った我は、そこで爺ちゃんに仕事はどうだと聞かれてつい仕事はつらいよなどと答えて仕舞った。
ま、今でも仕事は辛いのだからその通りのことを述べているのに過ぎないんだ。
あ、婆ちゃんの方はどうなった。
婆ちゃんは二人居るが、一人は人嫌いではあったが家事をきちんとこなすそして案外家族には優しい婆ちゃんであった。
その辺りの性質は明らかにこちらの婆ちゃんから乗り移って来ているね。その内弁慶のところがね。
もう一人の婆ちゃんは農家の出で逞しく良く働く婆ちゃんでしかも信心深く、何かのお講にも参加しているような人だった。
この婆ちゃんが読経中に時折神がかり状態つまりトランス状態になるということで有名な人であった。
それもどうも神がおりるのではなく仏壇に祀ってある位牌から先祖の霊がおりてくるのである。
人嫌いで、詩人として文学的なトランス状態に陥り易い我はあきらかに二人の婆ちゃんからの乗り移りの部分を持っている。
ここからしても、どうも我は我のジジババや我の父母の創作物に過ぎぬものらしい。
どうも自分で作った人格ではなく、ここに与えられてあるものなのだ。
そう考えた方が気が楽になれるから良い。
だから近代文明と戦うのは我のジジババや我の父母でもある筈なのだ。
嗚呼、仕舞ったわ。
もう一人の爺ちゃんについて語ることをつい忘れて居た。
その人は、何とホトケの○つぁんと良く人に言われていた。
温厚な性格で、自営から興した会社を経営していた社長の爺ちゃんだったのである。
それがもう、今記憶を辿っても兎に角ニコニコしたその爺ちゃんの顔しか思い浮かばないのである。
そして実はその温厚さは私にも乗り移って来ているのだ。
私はホンライナラバホトケの○ちゃんなのである。
それが何故いつもここまで気難しく尖っているのかというと、それは根はホトケでも戦わなくてはならない時がある、ということからなのだ。
そのホトケの○ちゃんは今日もこうして近代文明と戦って居るんだよ。
|
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1447回) ..2013/05/23(木) 00:16 No.4514 |
 |
http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u47180171
いや、懐かしい。
懐かしいものにはこのように需要があるものです。
私がゴルフを始めた二十代の前半の頃は、このようなパーシモン材のドライヴァーがまだまだ売られていました。
従って私もパーシモン材のドライヴァーでゴルフを覚えました。
パーシモン材のドライヴァーは球が良く曲がるので実は初心者には向かないのでありますが、その通りに良く球を曲げてそこで自分は悪い打ち方をしているということが良く分かったものでした。
その後暫くしてメタルウッドの全盛期となり、同時に球は曲がりにくくなり、その後にカーボンやチタンフェースのドライヴァー、ヘッドがすべ てチタンの鍛造ドライヴァーなどが出るに至り、余計に打ち易く球が曲がりにくいようになって行きました。
さらにその後に複合素材のヘッドなどが出て来てドライヴァーのヘッドは大型化されていきました。
つまりはより打ち易くなるようにとスゥイートスポットを拡げる方向にゴルフのクラブは進化して行きました。
ですが、我我のようなアスリート系のゴルファーはそうしたバカでかいヘッドで妙に軽いドライヴァーは大抵の場合嫌って居るのであります。
自分が打つ球の球筋をプロの打つ球筋に近づけるべく長年努力して来た私なども勿論そうです。
私などはいまだにMIZUNO PRO 300Sという、あの中嶋 常幸が全盛期に使用したチタンドライヴァーを使って練習しています。
これがハードスペックで、シャフトが特注のTABCシャフトーフレックスはX相当でD3位のバランスかと思いますがーでその重さが何と347gもあります。
で、これと合わせているアイアンセットが同じくMIZUNOのPRO2000アイアンで、無論のことこちらの方も超ハードスペックです。
こちらもドライヴァーに同じくシャフトが特注のTABCシャフトでフレックスはX相当で、多分バランスはD3位で重さが7Iで425g、5Iで415gです。
五ヶ月くらい前ですがこのクラブスペックで練習していたところ、機械担当か何かのおじさんー天白ゴルフ練習場の職員の人ーが近くへ来てクラブをしげしげと見て居ります。
いやー、これは然し、まるで大学のゴルフ部の兄ちゃん達のようなハードなクラブをお持ちですがいつもこれで練習されているのですか?こんなハードなものを今使って居る人は見たことありません。
ハイ、私はじき五十も半ばになりますがどうも体の方はまだ若いのかいまだにこんなものが振り切れるのです。
いや、かえって10年前は振り切れずで、それを10年ー正確には13年ーここで一所懸命に練習して振り切れるようにしていったのです。
もっともここ二年位は五十肩がひどくてとてもゴルフどころではありませんでした。
つまり道具に技量を合わせるか、技量を道具に合わせるかの違いなのである。
私は何でも軽薄短小は嫌い、謂わば重厚長大な人間なのでそこで迷わず道具に技量を合わせる方を即座に選ぶのだ。
使いこなすには高い技量が必要とされることだろうプロモデルのアイアンやドライヴァーをあえて使って、それらを必死になって練習することで使えるようにしていって仕舞うのである。
それが私のやり方だ。
安直な方へは流れないということ。
ちなみに私は萬年筆でも一般性の無い、軸が細くペン先がヘナヘナの、つまりは筆記がより難しいことだろうアンティークの筆の方が性に合う。
だからそういう人間なのである。
ヘナヘナのように見えるその見た目とは違い相当な頑固者なのである。
其の私のハードスペッククラブが今私にドンピシャリと合って来て居る。
ほぼ完全に私のものになって呉れて居る。
いや、そうではなくクラブの実力の方に私の技量がようやく追いついて来たのだ。
私のMIZUNO PRO 300Sドライヴァーは特注でフェース面を無塗装にしてある。
良く使って居るのはここ五年ばかりで、それも五十肩の期間を除くと三年余りなのである。
というのも、その前にはMP-001という同じくMIZUNOのカーボンコンポジッドのドライヴァーを使って居て、こちらの方が遥かに良く飛 んでいたのだったが、これはやがてフェース面に亀裂が入って仕舞ったのである
それでその遥か前に特注で作っておいたMIZUNO PRO 300Sドライヴァーの方に戻したのである。
ちなみに最近のドライヴァーの重さは重いものでも大体320g台位かと思う。
MP-001の重さは329gなので大抵はそれよりも軽くなることだろう。
普通軽いドライヴァーはHSを増し飛距離が出るようになるものだ。
然し、元々HSの速いハードヒッターにとってはどこへ飛んでいくか分からないものとなって仕舞う。
女性や還暦を迎えて以降の男性には軽い道具は良いのかもしれないが、私はまだまだパワー十分なので軽いドライヴァーはごめん被りたい。
この重いドライヴァーをブンブン振り回して天白ゴルフ練習場の、その250Y先のネットの中段以上に突き刺さるような球を打ち続けて居る。http://www.tempaku-golf.co.jp/
我は兎に角このスポコンでいく。誰もやっていないようなことをあえてやる。
ちなみにゴルフを知らない方の為に少し補足説明をしておきます。
今のプロ向きでハードスペックのドライヴァーが325gなのだとして、私のMIZUNO PRO 300Sドライヴァーは347gである。
ゴルフをやって居られる方にはその22gの違いがどれほど大きいものかお分かりの筈である。
その22gの差は、実は月とスッポンの差、なのである。
或いは大人と子供の差だ。
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w86613892
おお、こんなところにかの300Sドライヴァーがいまだに売られていたが、何と落札されているではないか。
多分15年位前の中古ドライヴァーである。
300Sは一部のマニアックなアスリートゴルファーにまだまだ人気がある。
尚、私の使うMIZUNOのPRO2000アイアンはマッスルバックの軟鉄鍛造アイアンで全くキャビティタイプになっていないもの。
いまやプロでも使わないシロモノ。
プロを目指す大学のゴルフ部のムキムキの兄ちゃん達位しか使えないだろうようなクラブだ。
それが使えるといって私は威張っているのではなく、楽をするよりもそうした風に自分の技量を上げていった方が楽しいことではないかということをここに提唱しているのである。
ゴルファーもそうだがペンの方でもそう、はたまた主婦などでもそう。安易に電化製品に頼らず人力でよりきめ細やかで完璧な家事をこなすことにこそ専念すべし。
実際は何でも軽薄短小化していく。
せめて自分の追求していること位はムキムキでいきたいものだ。いや、重厚長大でいきたいものだ。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1466回) ..2013/06/22(土) 00:09 No.4535 |
 |
春の特別展「東三河のきらめき鉱物」展 −横山良哲が愛した郷土の鉱物たちー http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3122,118,663,html このような催しが行われていたとはついぞ知らなかった。
無論知っていたとすれば必ず出かけた筈だったが、全く惜しいことをした。
さて、先頃数々のパイロクスマンガン鉱の美晶を産出したかの田口鉱山がついに立入り禁止となったそうだ。
もはやここへ出向き心ときめかせつつパイロクスマンガン鉱を探し回ることなどは叶わない。http://yahoo.jp/box/6psHpB
パイロクスマンガン鉱と私とは切っても切れない深い縁が結ばれており、この美しい鉱物を得る為に一体どれだけの熱意と行動が必要であったことか、そのことは簡単には説明出来ないことなのであり、何よりそこには長い年月をかけた私の執念のようなものがはっきりと見て取れる形での深い縁の形だったのである。
元よりただの石であり観賞する以外は何の役にも立たない筈のこの鉱物にそこまで入れ込んでいたことには歴とした訳があり、それはこの石が兎に角美しいものであったこと、それもそんじょそこらにある美しい石なのではなく世界中で唯一この田口鉱山のパイロクスマンガン鉱のみが美しい結晶として産出するというその一点に於いて私の情熱と関心のすべてがそこに注がれていたのであった。
それは私にとって単なる石というよりもまるで美そのものであるかの如き鉱物だったのだ。
美しい石は世界中に幾らでも存しているが、パイロクスマンガン鉱の美晶はただ美しいだけではないのである。
それは地元の石でもある。
確かに三河地方は尾張地方とは距離は少し離れてはいるが同じ愛知県なのだから地元産の石である。
私がこの石の存在を知ったのは90年代の初め頃だったかと思う。
私は古くからの鉱物愛好家ではなく、鉱物の愛好歴はまだ20年程に過ぎないのだ。
一方万年筆の愛好歴は40年にもなるが、鉱物の方は昔から集めていた訳ではなかった。
昔はもっと観念性の強い自称の詩人だった為、詩の方は良く書いていたが物を集めるということには縁遠いような人間だった。
今よりももっと純粋で、余程に小難しいことを考えていた。
だからその頃の私と比較すれば、今の私は精神的に堕したような感じのすることは否めない。
それでも万年筆と鉱物に縁があって本当に良かったと今となっては思う。
物質の方に傾くということの精神の上での危うさと、現実的な意味での心の潤いを与えられるということを天秤にかけると矢張りどうも後者の方を選んでおきたいところなのだ。
そうでもしなければ私はかって住していたところの精神の切岸のようなところへ再び舞い戻っていかなければならないからなのだ。
特に鉱物の方はそれまで知らなかった自然の一側面をはっきりと私に知らしめてくれた。
確かに私は自然の愛好者として多くの野や山に遊んで来たのだったが、当初は命のない石などに大きな興味を持っていた訳ではなかったのだ。
命あるもののダイナミズムとは対照的な無機的で静謐な石の世界。
然し、それでもなお石は私に語りかけてくれる。
その言葉は生命の発している言葉とは違うものであるのだけれど、たしかにこの宇宙を貫いていることだろうひとつの言語なのである。
今思い出したのですが、そういえば昔、おそらく二十歳前後の頃だったか、フランクリンミントの鉱物標本を通販で購入したことがあった。
ところがそれが余りに貧弱な石の標本だったので全部返品して仕舞ったことがあったのだった。
その頃の私はどんな石と結ばれるべきものなのか、全くもって分かっていなかった。
だが今となってはそれがパイロクスマンガン鉱であったということがはっきりと言い切れるのである。
そういう段階に到達したのだ。いや、もうすでに終わった。
パイロクスマンガン鉱との深い意味での格闘の記録ははや終焉を迎えた。
諸行無常というけれども、本当にそれはその通りである。
この世に常態として存在する縁は何も無いのである。
たかが石の話、鉱物産地がひとつ入山禁止となっただけのことであるのに、それが何とも寂しい限りのことである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1473回) ..2013/07/04(木) 23:40 No.4544 |
 |
国内男子ツアーの方では現在魅力的な若手選手の活躍が目立って来て居る。
中でも松山 英樹プロの活躍がめざましい。
だが彼ばかりではなく、あの石川 遼プロも良い時は良い。
この二人は世界で戦える選手なので今後が楽しみなのである。
また小平 智プロが日本ゴルフツアー選手権を制して居る。
さらに藤本 佳則プロなどもスイングは個性的ながらなかなかの実力者だ。
小平 智プロはいかにもアスリートゴルファーらしくいつもクールにプレーしている姿がとても格好良い。
アスリートゴルファーは試合で優勝しても遼君みたいに余りTVに出たりはせず兎に角練習、練習で是非一流のスイングを創り上げるべきである。
そうした意味では松山 英樹プロも完全にアスリートゴルファーで、CMなどには今のところ出ていないところなども良い。
ゴルフは兎に角戦いであり、闘いである。
だからお遊びのゴルフなんてのは面白くないのであり、勝つか負けるか、それもまずは己に勝てているかそれとも負けているかということが大事なのであって、其処で歯を食いしばって練習してこそまさに己に勝てるような球筋が生まれるものなのであり、そのことはトッププロでも三流プロでも、はたまたトップアマチュアでもアベレージゴルファーでも全く変わらない心構えなのである。
ゆえに気楽にゴルフと向き合うな。
というのがまくまで私の考えである。
練習場に行ったら、最近の私などは三百球程球を打って来る。
少ない時でも二百球位は打つ。
ゴルフは兎に角練習だけである。
だがオジサンゴルファーさん方はそういう私とは対照的に練習嫌いの人が結構多い。
そしてビールでも飲みながら遊びのゴルフをやりたがる方々が多い。
はい、それではサヨウナラ。
私は誘われてもそういうゴルフは致しません。
前々から語って居る様に、私のゴルフはスポコンのゴルフである。
だが、この度其の方向性を少々修正することと相成った。
何故かというと、今のゴルフクラブの楽さ加減ということを思い知るようなことがあったからなのだ。
先日私はO氏と共に練習をして居た。
O氏はHS48m秒のハードヒッターで、ドライヴァーにて天白練習場のネットの中段位まで球を運べる人である。
つまりは私と同じくらいの振りの鋭さを持って居られる。
彼はゴルフには並々ならぬ思い入れを持って居て、そこはどう考えても私と同様にアスリート系のゴルファーなのである。
ところが彼には色々と実人生上の悩みがあり、本当はゴルフどころではないようなところもある。
でも半年くらい前まではゴルフ練習場のインストラクターになりたいと言って居た人である。
私の一つ上で、一流大学出で体の大きい人だ。
元は大きな学習塾の経営者だったのだが、今は職場の方にアルバイトで来て貰っている方なのである。
然し彼のお友達の方々には裕福な人々が多い。
それで誘われて月に3回位はコースに出て居るのでいつもお金が無いのである。
然し、元塾の先生である我我は話が合う部分も当然ながらあり、最近になって一緒にゴルフの練習を行うことにしたのである。
されど其れは甘い練習では無い。
我我の練習はまさにスポコンである。
この五十も半ばのジジイ二人が、HSだけはトップアマ並みなものでネットの中段へポンポン球を突き刺していくのだから傍から見ていても其れが実に壮観なのである。
そんな奴らはまず他には居ない。
尚、我我はかって塾の先生だったこともあり、そんなハードな練習の折にも互いにかけあう言葉の使い方が丁寧なのである。
O先生はかって英語の先生で、私はかって国語と社会を教えていたのであった。
O先生、なんじゃこりゃー、こんなんで球が打てまっかー。
打てます、打てます、其のUFOドライヴァーで必ず打てます、K先生。ちゃんと信じろや、この野郎。
打ってみると、本当に打てる。
一発目は真っ直ぐに飛びネットの中段より上へ突き刺さっていく。
私の十年以上前のドライヴァーとは球筋が全然違う。
つまりはより簡単に打てて楽に飛ぶ。
二発目は僅かに右に逸れたが珠にスピンがかかりネットを越えるかという程に高く上がり、それでも結局は中段に突き刺さった。
其の時の球の上がり方が凄かったのでO先生がおおおーと声をあげられた。
O先生のテーラーメードのドライヴァーは私から見るとまるで大きなUFOそのもののようで、とても球を打つシロモノには思えないのだが実はそんな風に全く凄いものであった。
最近のゴルフクラブはまさしくゴルフに於ける新時代を戦う為の新兵器だったのである。
うーむ、コイツは凄い。O先生、このドライヴァーを私に下さい。これなら多分コースでも280Y位は飛びます。もしそうなれば私のゴルフが変わります。進化します。じつは進化は根っから嫌いだがゴルフの進歩だけは認めます。
一万円と少しで売っておりますよ。いまやドライヴァーも安いのですよ。然し、あの飛び方では一緒にコースを回った時にアウトドライヴされる恐れも出て来た。これはいかん。私はこれまで一度もアウトドライヴされたことなんて無いのですがね。
ちなみにO先生にも私のドライヴァーやアイアンを打ってみて貰ったことは云うまでもない。
だが其れ等のクラブはハード過ぎてO先生には打てなかったのである。
ただしO先生ほどのHSがあれば無論練習すれば打てるようになるのである。
然しハードなクラブはもはや完全に時代遅れになって居たのだ。
私は其のことにようやく気付かされ愕然としたのであった。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1474回) ..2013/07/08(月) 23:33 No.4546 |
 |
私のゴルフ歴は凡そ30年、思えば其れは長い道のりだったのだと言える。
ゴルフに真の意味でハマったのは1990年頃にMIZUNOの軟鉄鍛造プロモデルアイアンのTN-87を入手してからのことである。
当時は中嶋 常幸プロの全盛期でもあり、中嶋派の私は中嶋プロが使って居るクラブそのものを使いゴルフを極めたいと思って居たのだった。
1990年頃といえば私はまだ三十そこそこでパワーの方も充分にあった。
元々HSが速く50m秒前後もあった。
要するにアマチュア離れしたハードヒッターだったのである。
ところがまだ技術の方が伴っていないのでドライヴァーショットなどはどこへ飛んでいくか分からないタイプなのであった。
当時は練習場をハシゴして一日中球を打っていることなども屡だった。
それは限定万年筆を集め始める前のことだったので其処ではまずはゴルフが第一の趣味だったのだ。
90年代にはコースの方もかなりに回って居た。
ロングホールを2オンすることも屡だったが、スコアの方は余りまとまらなかった。
それでも初ラウンドで100を切りベスグロは82という悪くない数字も出して来て居る。
TN-87アイアンは当時プロやトップアマ、上級者などから高い評価を与えられていた軟鉄鍛造プロモデルアイアンだった。
これを当時知り合いのゴルフ用品の行商をしている人から購入した。
高価なクラブなので無論ローン払いで買ったのである。
このTN-87アイアンは今や伝説の名器となっていることかと思われるが、家にはまだある。
10年間ボロボロになるまで使い込んで、ついにお役御免となったものである。
アマチュアゴルファーは大抵の場合ダウンブローの軌道でアイアンが打てていないが、私はこのクラブでトコトン練習してダウンブローの打ち方を習得することに成功した。
ダウンブローの打ち方を習得しなければアイアンなんて何を使って打ったとしても強く正しく球が飛んでいかないものなのである。
だからゴルフは兎に角練習だけなのである。
当時の私は一度の練習で三百球は必ず打っていて、それから二十年後の今も其の三百球を打ち続けて居るのである。
ミズノ 軟鉄鍛造アイアンの歴史 http://www.golfersland.net/nantetsu/history.html
ここの9番のところに1988年に発売されたTN-87が載って居る。
ただし私のTN-87はシャフトがRシャフトであり打ち易かった。
無論ヘッドの方はマッスルバックで芯が一点しかないという難しいプロモデルなのではある。
然しこのTN-87は完成度が高くクラブのバランスが良いので意外に打ち易かったのである。
其の後2000年頃にTN-87から現在のプロ2000モデルに替えた訳である。
だがこのプロ2000アイアンは、実はTN-87アイアンの復刻版のモデルだったのである。
従って私はもう四半世紀近くアイアンはTN-87だけを使って来たと言っても良いのである。
ではどこがそんなに良いのだろうか?
私は何故そんなにこのモデルに執心して居るのだろうか。
音を聞き比べて下さい http://www.golfersland.net/nantetsu/
まず軟鉄鍛造製法のアイアンは打感が良い。
ここでは打音の良さということが語られていますが、それが即ち打感が良いということに繋がって居るのだと思われる。
こだわりの素材、製法、形状が生み出したこだわりの音 http://www.golfersland.net/nantetsu/sound.html
MIZUNOというメーカーはこのようにゴルフクラブの本質の部分に徹底的に拘る。
打音や打感が良いというのはそのように感じられるように誤魔化してあるのではなく、其処で本質的に良い素材を用い良い製法を採っているからこそそのようになるのである。
つまりは本物だということなのである。
本物の品であるからこそ、プロやトップアマ、上級者などから高い評価が与えられて来て居るのである。
ここの部分、何やら万年筆の話と共通するものがあるのではなかろうか。
萬年筆で私が一番良いと思うのは戦前のエボナイト軸の、それも鍛造ペン先付きのものなのだけれど、其れ等とミズノの軟鉄鍛造プロモデルアイアンとは何やらどこかが良く似て居るような気がしてならない。
要するに其れ等こそが本物の道具なのである。
http://www.golfersland.net/nantetsu/process.html
http://www.golfersland.net/nantetsu/sozai.html
http://www.golfersland.net/nantetsu/tokkyo.html
道具をつくる際に素材や製法に徹底して拘るということ。
其の拘りの姿勢こそが好きなのである。
其処で妥協しないこと、突き詰めていくこと。
安易な方へは流れず、本物であることを常に追い求めていくこと。
尚、ミズノはアイアンだけではなくドライヴァーの方もチタンの鍛造ドライヴァーをつくるのがお得意なのである。
私が今使用している300Sドライヴァーも、これから求めようとしているMPシリーズのドライヴァーもチタンの鍛造ドライヴァーである。
鍛造、いや、このコトバに私は本当に弱い。
道具に於ける金属は鍛造してあるものが一番作りの方が良くなる訳であり、それでこそ使い手が長年に亘り使い込んでいけることだろう本質を備えた道具たり得る筈なのである。
そしてそうした道具しか、私は使いたくないのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1475回) ..2013/07/09(火) 21:32 No.4547 |
 |
実はウチの職場にはゴルフが好きな人が多い。
アスリート系が私とO氏とM氏の三人で、あとの二人はオジサンゴルファー系である。
つい先日そのうちの一人であるS氏とも天白練習場で遭遇し、その球筋を見させて頂いたのだったが、まあまさしくそれはオジサンゴルファーの域を出て居ないような球筋であった。
然し、S氏は練習熱心であるところが素晴らしい。
それに年齢にしては飛んでいるとも言える。
本間のチタンドライヴァーを使って居られたが、多分220Y位は飛んでいるのではなかろうか。
その位の距離を安定して飛ばせれば、むしろ私などよりも良いスコアで上がれる可能性もある。
されど私のゴルフは兎に角ハード系のゴルフなのである。
兎に角ぶっ飛ばしでいくのが私のゴルフだ。
ぶっ飛ばすのは誰でもそうそう出来る訳でもないのであるから、其の稀有な才能の部分を花開かせることにこそ専念して来て居るのである。
それに今のゴルフは飛ばないと話にならないゴルフなのである。
ゴルフコースはそれぞれに結構距離があるから其処でバーディをもぎ取る為には飛距離が出ることは最も有利なこととなる。
尚私の定義で言う飛ばし屋とは本コースで280Y以上の飛距離を打てる人のことである。
それもコンスタントに其の飛距離を出せなければならない。
ということは練習場ではネットの最上段にぶち当たる位の球を打つパワーが必要である。
幸いなことに私には其のパワーがある。
まともに当たれば常に280Y以上のドライヴァーショットを放つことが可能だ。
されど、どうも安定感が無くすぐに球がバラけて仕舞う。
そんなことをこの30年間繰り返しやって来て居る。
まあそれはハードヒッターの宿命、持病であるような部分でもある。
普通HSの速いハードヒッターの人は球がバラけ始めると歯止めが効かなくなりOBを連発したりするものなのである。
まあそこは私もその通りのことである。
だからいまだ70台のスコアでコースを回ったことなどはない。
だから私はいつまで経ってもシングルプレイヤーにはなれないのである。
然し、私のゴルフとはそういうゴルフなのだ。
たとえ年をとっても、兎に角ムキムキの飛ばし屋でいく。
然しOBを連発ではゴルフにならないから兎に角もっと球筋を安定させたいのである。
その故に兎に角練習場で多くの球を打ち安定したスイングをつくりこんで居るのである。
だが30年かけてもまだ完璧には分からない。
どのようなスイングをして球を捉えるか、という其のイメージの構築の部分が完全には成らないのである。
其処が分からないでただ漫然とスイングをしていても完璧に球を捉えられない。
当たったとしてもそれはたまたまのことで、コンスタントに常にそのように打てるというものでもないのだ。
だからゴルフスイングとは其のイメージの揺るぎない構築の部分だけが重要なのである。
ちなみに最近の私はひとつの究極の打法を試して居るところである。
それは結果的に部分論ではなく全体論的なイメージの構築のものとなった。
こう手を動かして引くとか、或いは手を逆に左へ引くようなイメージで始動することであるとか、或いは球へグリップを突き刺すようなイメージで始動するであるとか、まあ色々とこれまで長い間やって来たのだったが結局イメージを固定化するつまり構築して仕舞うことが出来なかったのである。
それで今はどんなイメージでスイングをして居るのかと言うに、其れは非常にカンタン、一言で言うと『素振りのままで打つ』というイメージなのである。
然し、この『素振りのままで打つ』ということは、実はかなりに難しい打法なのである。
何故なら素振りでのスイングと実打をしているスイングは別物になって仕舞って居ることが多いからなのである。
特にアマチュアゴルファーでは其のことはまず不可能に近い位のこととなる。
なんとなればアマチュアゴルファーはいざ球を打つ場合にはおかしな所に力を入れて仕舞うものなのであり、だからいざクラブが球を捉えた時には実は乱れに乱れ崩されたスイングの軌道でもって打って居るからこそクラブの真芯で球を捉えられないのである。
即ち其の意識性こそが病気なのである。
まるであの、我は無いのに我が在ると見る、仏教でいわれる所での倒錯のものの見方のように、アマチュアゴルファーはいざ球を打つ場合にはおかしな所に力を入れて仕舞い存在して居ない筈の球の場所にクラブを振り下ろしそれでダフったりトップしたりはたまた右や左に大きく曲げて仕舞ったりして居るものなのである。
其処で、其の倒錯の意識性をどのように治すのかということであるが、其処では要するに無念無想になるほか無いのであるからまず球が在る、其処に置いてあるという意識を完全に消し去るのである。
そして其の次に其処で素振りを行う。
ところが、其の素振りを行う振りをして実は球を打つのである。
すると、私の場合は正しく球を捉えられるようにようやくなり、ロフト9度でX相当のシャフト、347gものハードなドライヴァーでも球が上がるようになった。
のみならず、兎に角当たりが良くなり、まさにプロの球筋に近いような重い弾道が打てるようになった。
そして何より球筋が安定し始めたのである!
何球打っても、同じ様な球筋で打てる。
が、それも完璧では無論ない。
崩れる時には崩れクラブの芯に当たらない場合もある。
然し、この打法は凄い。
ひとつの究極の打ち方であるのかもしれない。
私が30年かかって辿り着いたひとつの究極の境地であるのかもしれない。
具体的にではなく、故に部分的にではなく、あくまで全体としての、そして無念無想の、まるでかの禅家の問答のような深みのあるイメージの構築なのである。
そして実はこの打法は15年程前に屡試していたものなのである。
されど其の頃には結局モノにならなかった打ち方だったのである。
だが、現在はこの打法がなぜかモノになりそうな状態にある。
きっと其の間に我の内部で思想的なものが熟成されてモノになりそうな状態にあるからこそ打法の方もそのように煮詰まって来て居るのかもしれない。
只、素振りのままで打つ。
只、座る。只管打坐。
道元 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
まるでかの道元禅師の思想のような打法である。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1477回) ..2013/07/14(日) 09:30 No.4549 |
 |
『自分のパワーでしっかり振り抜きたい人と相性が良さそうだ。』
『市販品の中では見た目通りかなりハードスペックなドライバー。アマチュアがクラブの性能を100パーセント引き出すには、かなりのパワーが必要なドライバーだ。』
と先の試打インプレッションのところに述べられているように、S-1ドライヴァーはまさに私の個性的な要求にピタリと一致している道具だったのである。
このように道具とはまず使用者の個性的な要求と一致する仕様を持って居るものであることが一番大事なことである。
さて、夏場を迎え何故かゴルフ熱の方が燃え盛って居る私は昨日古いクラブの整理を行って居た。
其処で色々なクラブが出て来たのだったが、今となってはハード過ぎて使えないような古いクラブが多かったのだ。
http://yahoo.jp/box/lOjUpx
まずこちらはこの十年と少し位の間に私が使って居たミズノのドライヴァーを並べてみたものである。
右からTour Spirit III、300S、MP-001、MP S-1ドライヴァーである。
シャフトはすべてX相当の硬いシャフトで一般的な仕様のモデルよりも重くハードヒッター向きの仕様である。
こうして並べてみると次第にドライヴァーのヘッドが大型化されていったことが一目瞭然である。
一番左は今回入手したMP S-1ドライヴァーですが、矢張り他の3本と比べるとかなりにヘッドが大型化されている。
然し、これでも最近のドライヴァーの中では最も小さい425立方センチメートルであるのだから最近のヘッドの大型化はまさに恐るべしである。
ここからしても今世紀のゴルフは明らかにより楽に飛ばせるという方向性に進歩して来て居ることが良く分かる。
より楽により誰でもがゴルフの醍醐味である飛ばしの要素を享受出来るようにしようという考えで道具が作られて来て居る。
だが反面そこでは道具の軽薄化つまり粗造乱造気味の部分が垣間見えることなども否めない。
皆が打ち易いクラブを作れば、それは一部の拘りゴルファーには何となく軽薄短小なクラブに感じられて仕舞うということも確かにある。
尚私は近代以降の自由や平等などという人間の基本的人権もひょっとするとそんなことのように一見良いこと、大事なことのように見えて実はその一方で逆に大事な何かを失う方向性に歩んでいることなのではないだろうかと時に思わないでもないのだ。
それはかなりに穿った見方なのではありますが。
ゴルフの道具なども昔は作りが良くて仕上げが丁寧であったという部分は確かにあったことだろうと思う。
そうした世界にハマった人はクラシッククラブなどを収集する方向へ行ったりもしているのである。
あの尾崎 将司プロなどはかって相当数のクラシッククラブのコレクションを持って居られたそうである。
クラシッククラブの世界などというものはもはや化石趣味と言っても良い位のもので、特にここ日本ではごく一部の特殊な愛好家の世界のものになって仕舞って居ることだろう。
然しゴルフは元々英国起源の紳士のスポーツで、だからこそ今でもトーナメントでの勝利者にはブレザージャケットが贈られるのであり、また日本のゴルフコースにも歴史のある名門コースというものが確実に存在しているのであり、そうした名門コースをもし回れることになったのだとして、そこで安物クラブなど担いでいっては余りに恥ずかしいのであり、そこは矢張り伝統と格式に培われた高級クラブなど持参しないと格好がつかないというものであろう。
もっとも私はそんな高級なクラブなど持って居ないがそれに近いような古き良き、手作りに近いようなクラブは何本か持って居る。
http://yahoo.jp/box/F3MUzE
左からコブラ、ミズノMS-1、ウィルソンのパーシモンのドライヴァーである。
だがパーシモンのドライヴァーはヘッドが小さくてもはやとても打てない。
当たったとしても多分200Y位しか飛ばない筈である。
なぜならシャフトの方もスチールで重いものが多いからだ。
ただしこのミズノMS-1のシャフトはカーボンシャフトで250Y位までいけそうである。
ミズノプロ MS-1は名器とされていたパーシモンのドライヴァーである。
一番右に写っているのはミズノのアイアンの名器中の名器、ゴールドメダル インペリアルアイアンである。
これを探し出して購入したのは15年位前のことだった。
一本だけではなくちゃんと一セット持って居る。
http://yahoo.jp/box/1Qzbvr
おお、何と美しいお顔なのでしょう。
兎に角何やら物凄く手が込んでいる雰囲気があります。
1962年発売で、半世紀前のクラシックアイアンである。
グリップは本革巻きで、ホーゼルにはピンが打たれて居る。
余りに美しいアイアンなので私にとっては純然たる観賞用である。
このグリップの革巻きというのが物凄く美しいのだが、一部のクラブの皮が剥がれて来て仕舞い直す必要がある。
ゴルフ趣味もこうした部分まで範囲を拡げてみるとまことに奥深いもので、ひょっとすれば金力のある実業家ゴルファーなどはこうしたクラブばかりを買い漁り、それであの川奈のような名門ゴルフ倶楽部でプレーをして居られるのではないかとも思われるのだ。
残念ながら我には川奈を回れるような資金力、財界力は無く、あまっさえ地元の名門コースの三好や和合を回れる程のステイタスも無く、それでクラブだけはインペリアルを持つというそうしたただのオールドクラブへの憧れだけを持って居る庶民ゴルファーなのである。
ただハードヒッターなので金持ち財界人の爺さん達より遥かに飛距離は上だ。
ザマアミロ、我は金は無いが飛ばす力だけはある。
尚、かって父は和合で何度もプレーをしていた。
家の知り合いに和合コースのある東郷町の名士の方が居られて、その関係でその頃ならば和合でプレーすることが出来たのである。
ところがその方はすでに亡くなられ、この私が和合でプレーをするという夢のような話も立ち消えとなって仕舞った。
あな悔しや、我がパワーを和合の地に嫌という程呉れてやろうと思って居たにもはや其れも詮無きこと。
だが和合がダメなら三好があるさ。
O氏は来月三好を回るそうである。
それで今特訓中なのである。
そのうちに私もO氏にくっついて是非三好に紛れ込んでみたいものだ。
その折に使うアイアンは無論ミズノのアイアンの名器中の名器、ゴールドメダル インペリアルアイアンである。
ドライヴァーは無論ミズノプロMS-1、パーシモンドライヴァーだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1478回) ..2013/07/14(日) 23:38 No.4550 |
 |
MP S-1ドライヴァーは確かに良いのだが、このドライヴァーはどちらかと言えばスライスし易いタイプのドライヴァーである。
明らかにスライスし易い。
ところが私は元々スライサーで、持ち球がスライスとフェードの中間位の球筋なので元々右へ曲げることは得意な打ち方なのである。
そういう人がスライスし易いクラブを持つと矢張り余計にスライスし易くなる部分はある。
が、それも正しい打ち方をしている分にはスライスではなくてフェードにとどまるのである。
もっともそれももっと正しい打ち方となればストレートボールで行ける訳なのではあるが。
私のUS仕様のMP S-1ドライヴァーは最近のドライヴァーの中では最もハードな仕様で少しだけ難しいクラブだが、プロ2000アイアンとのマッチングは適切で余り違和感なくドライヴァーとアイアンを使っていけるところが何より良い。
だがもっと軽くて易しくて兎に角良く飛ぶタイプのクラブも打ってみたい、という思いも私にはないでもなかった。
すると、たまたまオークションの方で同じ出品者が程度の良いWORKS ハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーを出品して居たのである。
しかも五千円と安い。
私は其れを入手して本日練習場で二百球位打って来た。
さて、このWORKS ハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーであるが、一言で言ってこれは楽に飛ばせるクラブで悪くないクラブである。
ある意味ではMP S-1ドライヴァーよりもより簡単に打て、一割方位余計に飛距離が出ると言って良いクラブなのである。
ただし、私のハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーはロフト10.5度のRシャフト付きで打ち方によっては球が上がり過ぎる場合がある。
それでも真芯を食うと練習場のネット上段まで楽に運べる飛距離性能に優れるドライヴァーなのである。
軽いクラブで、打感や打音も軽く、そのことからもハードヒッターではなくとも打ちこなせるクラブである。
個人的な印象としては五千円のクラブとしては最高のドライヴァーではないかと思われた。ただし定価はもっとずっと高いのですが。
WORKS ハイパーブレード インフィニティ http://worksgolf.jp/product/hbi/hbi.html
このクラブは元々ドラコン用として開発されたもののようだ。
それで普通ドラコン用ということになれば、余程の飛ばし屋ならばともかく一般には余り注目されないクラブとなって仕舞うものなのである。
私もかってはこの種のドライヴァーに興味は無かった。
それに非常に大型のヘッドでしかも其の形が三角形をしていて変わって居るのである。http://yahoo.jp/box/3KjFUT
変わったものには手を出さない人が多いことだろう中で、私に限ればこうした変わった形が大好き、何せ10年前にもし三角頭のドライヴァーがあったら飛ぶのではないかしらなどと考えて居たのである。
この三角形ヘッドはむしろ側面が丸いヘッドよりも構えやすく方向性も出し易いと言える。
また三角形であるからこそシャープな印象もあり投影面積が大きい割には余り大きく見えないのである。
ただしこうして比べてみれば矢張り大きいヘッドである。http://yahoo.jp/box/_vNYAE
尚このドライヴァーのフェース部はドラコン用の高反発フェースではなく反発力ルール適合フェースであるとのことで、従って公式な競技会などでも使えるドライヴァーとなって居る。
高反発フェースのドライヴァーは昔私も色々と打ってみたことがあるが、それらと比較してもさほど弾きの能力は変わらないという感じである。
ちなみにドラコン大会なるものがゴルフの世界にはあり、其処ではドラコンに向いたドライヴァーが用いられることが多い。
三角形ヘッドのハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーもどうもそうした類の道具であるようだ。
72歳の国分佐久選手が、 このドライヴァーを使って驚異の317ヤードを達成したということであるが、70歳オーヴァーでの其の飛距離はまさに怪物級である。
私でもたとえば筋力トレーニングを一年位行い、しかも最高の当たりをして尚且つランも出て何とか300Y位打てるだろうかというところなのである。
http://gokutobi.com/doracon.html http://www.ldjapan.com/index.html
ドラコンというのはゴルフそのものではなく一種のエキシビションのようなものなのでゴルフに於いて重要視されるような分野ではない訳だ。
打ち方の方も売った後で体が崩れたりと独特のスイングで行い兎に角飛距離のみを求めていく競技なのである。
LDA世界ドラコン選手権 http://ja.wikipedia.org/wiki/LDA%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%B3%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9
(後編)2012ドラコン日本選手権 世界ドラコン代表決定戦-オープンFinal http://www.youtube.com/watch?v=1FEDqAsG4eA
(前編)2012ドラコン日本選手権 世界ドラコン代表決定戦-シニア&レディス http://www.youtube.com/watch?v=CH8AoHB13AQ
上で一番驚いたのはシニアの記録のレヴェルの高いことだ。 何とオープンでの記録を遥かに上回る360Y近くを叩き出して居るではないか。
ちなみにゴルフでのシニアはプロは50歳からになるがアマチュアのシニア選手権などは男子55歳、女子50歳からとのことである。
そこからすると私はまだシニアではない訳だがまあじきにそうなって仕舞う訳である。
だがジジイになっても飛ばす、それが私のゴルフだ。
実際練習場でも20代、30代、40代の若者ゴルファーどもにドライヴァーの飛距離ではまず負けない。
このジジイの力をしかと見よ、お前たちはこの俺に勝てるのか。
そんなことを思いつつしこたま球を叩いていると、アドレナリンが涌いて来てまあ体が燃えるわ、燃えるわ。
三角ドライヴァーで叩いた球が気持ち良ーくネットの最上段に突き刺さっていく。
すると若者どもは一人ずつ肩を落とし其処から立ち去っていくのである。
そうか、可哀想にショックを受けたのだね。このワシの物凄いパワー振りに。
だが今はただ学ぶのだ。この糞ジジイが何故こんなに球を飛ばしているのかということからまず学ぶのだ。
このドラコンジジイは怒って居るのだ。世の中に対する怒り、それは義憤のようなものなのじゃよ。
其の怒りをドライヴァーのヘッドに込めて球をぶっ叩いて居るのじゃよ。
だからこんなに飛ぶのだ。まさに飛んでけ、バカヤロー、なのじゃよ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1481回) ..2013/07/24(水) 01:00 No.4554 |
 |
MP S-1ドライヴァーはミスには寛容ではなくミスをすると必ず右の方へフケるという一種癖のあるドライヴァーである。
が、あくまで正しいスイングを行っていれば真っ直ぐに飛んでいくドライヴァーなのではある。
従ってソールなどに鉛を貼って調整してみるという手はある。
そうなのだ、ゴルフの道具も実は調整の方が出来るのである。
其処は万年筆のペン先の調整と同じ様なものなのである。
昔私はいたるところに鉛を貼ったドライヴァーで打ちまくって居たことがあった。
然しこの15年位は鉛を貼って来て居ないのである。
300Sドライヴァーは元々素直なドライヴァーなので鉛を貼って調整する必要など無かったからなのである。
其処は万年筆でも実は同じことで、素性の良いペンはペン先の調整など行う必要の無いものが結構あるものだ。
従って調整などは出来ればしない方がよろしい訳なのである。
調整無しの方がずっとよろしい。
ではあっても時としてどうしても調整が必要となる場合があり、その時に限り調整を行うことを考えるというのが道具を扱う上での基本なのではあるまいか。
ところが最新のドライヴァーは実に多くのモデルが調整の出来る機構を初めから備えて仕舞って居るのである。
だがそうした傾向には若干の疑問が残る。
つまりは使い手の側にクラブを合わせていって仕舞うことに対して違和感を感じて仕舞うのである。
そうではなくクラブの側に己の技量を合わせていくべきなのではないだろうか。
いや、確かにそんなのはまるで江戸時代の武士のような考え方で今は全然流行らない考え方なのだろう。
ですが長きに亘り私は難しいクラブに合わせる為に己の技量を磨いて来たのであるから矢張りいまだにその考え方から抜け切れないのである。
さて、ハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーの方はどうも矢張りカンタン過ぎる、つまりは私にとって少々軽薄過ぎる道具であることが次第に分かって来た。
このクラブは確かに楽に飛ばせるのだけれど、どうもイマイチ軽過ぎて球が高く上がり過ぎることなども多い。
シャフトの方もRシャフトなので余計に球が高く上がる。
ただし吹け上がる訳ではない。
あくまで弾道が高くなり過ぎるのである。
打ち方により丁度程良い高さの弾道にすることも出来るのだけれど、其処が意外と神経質でなかなか難しい。
結局私にはSシャフトの方が合って居たのだろう。
MP S-1ドライヴァーの方は何せUS仕様のSシャフトで実質Xシャフトに近いものなのである。
それでも充分に球は上がるから私は結局ハードヒッターなのである。
MP S-1ドライヴァーは作りの方が丁寧で結局は高級品であることが徐々に分かっても来た。
対してドラコン用のハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーにはそうした高級感のようなものは漂って居ないのである。
前回に私は十数年前の300Sドライヴァーの方がMP S-1ドライヴァーよりも作りが良いということを書いたのだったが、其れはその通りのことなのだとしても最近のドライヴァーと比べるとS-1ドライヴァーはむしろ高級品と呼べるものなのである。
さて、HSの速いハードヒッターというのは巷に結構ゴロゴロしているものである。
私もこれまで様々なハードヒッターのアマチュアゴルファーを見て来たのだけれど、それらの人々はどうも三種類位のタイプに分かれるような気がしてならないのである。
尚私の定義でいうハードヒッターのアマチュアゴルファーとは最低限天白練習場のネットに球を直接当てられる人々のことを言う。
と言うのも、ネット下部に当たって230Y〜240Y位、真ん中に当たって250Y〜260Y位、上部に当たって270Y〜280Y位の飛距離であろうかと思うからだ。
何だ、意外に距離が出ていないなと思われるかもしれないのですが、練習場の距離表示というものは甘く表示されているものなのでその分を差し引いた上で以上のように飛距離を決めておかないと大間違いの過大な飛距離を自分の飛距離だと思い込んで仕舞うことが多いため其処は注意が必要なのである。
そして300Yを実際に飛ばそうと思ったら天白練習場のネットを越えていくような球でなければそれは無理なのである。
トーナメントの模様をTVで見ていると若手の男子プロがいとも簡単に300Yオーヴァーのドライヴァーショットを放って居たりするものだが、 そうしたスーパーなショットは我我アマチュアゴルファーにとっては生半可なものではないのである。
其の飛距離を実際にコースで飛ばそうと思ったら天白練習場のネットを越えるような球筋を常に打ち続けていなければならないのである。
そしてそういうのは、この私でさえも出来ないのである。
いや、練習場で出会う多くのハードヒッターのアマチュアゴルファーにしてもそんなことは出来ない。
私が10年位前に見た大学のゴルフ部のレギュラー部員に一人だけ其のネット越えを見せて呉れた若者が居たが彼ほどのパワーは無論のこと我々には望むべくもないのだ。
1.打音が物凄く良いハードヒッターのアマチュアゴルファー 2.打音が時に悪いのに兎に角飛距離が出るハードヒッターのアマチュアゴルファー 3.スイングが物凄く美しいハードヒッターのアマチュアゴルファー
というようにハードヒッターのアマチュアゴルファーを分類してみると、私自身は間違いなく2.のタイプである。 時折芯を外して打って居るのにそれでも結構飛距離の方だけは出て居るのである。
3.はシングルプレーヤーに多い。 スイングが完成されていて美しく、練習場ではミスショットをする確率が低い。
1.のタイプは、然しながらその打ち方が本当に良いのかどうか分からない。
時折居るタイプなのですが、兎に角打音がクリーンで完全に球を拾っている音がして居る。
なのに良く見るとネットの下段位までしか届いて居ない場合も案外多い。
またこうしたタイプの特徴として兎に角ハードに球を叩いて居る感じの人が多い。
これらを総合して考えると、これら1.2.3.が全部出来て居るゴルファーはアマチュアにはなかなか居らずプロの方に多く居るのである。
当たり前のことではあるがプロゴルファーとは一般人には不可能なことを現実に成し遂げている超人のような人達のことを言うのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1493回) ..2013/08/13(火) 01:11 No.4567 |
 |
MP S-1ドライヴァーには次第に慣れて来て、丁度程良い高さのストレートボールが打てるようになって来た。
時として左に引っ掛けることがあるが、これはクラブのせいと言うよりは私のスイングの癖が悪いせいなのである。
MP S-1ドライヴァーはハードヒッターに向くチタン鍛造ドライヴァーで打感がとても良い。
エンジニアが考えるチタンドライバー(ゴルフ) http://www.jra.net/pal2/golf.html
「市場に出回っているチタンドライバーの内75%が鋳造品で17%が鍛造品です。(その他8%) ソウルやトップに凹凸を付けて工夫して有るものはまず鋳造品です。」
とのことで、現在市販のドライヴァーでは実は鍛造ドライヴァーは僅か17%しか存在して居ないのである。
まさにあの鍛造ニブ付きの万年筆が少ないことと同じくして、鍛造ドライヴァーを使っているということは明らかに贅沢なことなのである。
それも、HSが45m秒を超えるハードヒッターの人々が使うと鋳造ドライヴァーとの違いがはっきりと分かって来る筈なのである。
このこともまさにあの万年筆のニブと同じことなのであるが、筆記の腕の方の達者な人が使うと圧延ニブと鍛造ニブとでは性能の面で大きな差があることが良く分かるということがある。
チタン鍛造ドライヴァーはそもそもモノが違い高級品なのであるから、使えば使うほど其のモノの良さが際立って感じられて来て入手して良かったと心から思えるようになるところが凄い。
万年筆も戦前のエボナイト軸で鍛造ニブの付いたものを入手して使い込んでいくと、使えば使うほど其のモノの良さが際立って感じられて来て入手して良かったと心から思えるようになるところが凄い。
思うに、ブランドでどうのこうの選ぶことよりも、こうした本質的な製法の面を基準としてゴルフの道具や万年筆を選んでいくべきである。
そのことを行っていけば、結局良い道具が得られる。
ただしゴルフで言えばHSの遅い人つまり非力な人が高価かつ難しい鍛造ドライヴァーを使ったとしても実は余り意味が無いのである。
だからHSが45m秒以下の非力な人は鋳造品でも充分なのである。
特にアイアンセットは鋳造でキャビティタイプのクラブを使った方がゴルフが易しく出来るようになるのである。
だが私のようにHSの速いハードヒッターは本質的な性能の優れた鍛造ドライヴァーでなければ何やら球を打ったような気がしないのである。
また万年筆の方も無論同じで、基本的に高い筆記技術を持つ人に鍛造ニブは向いて居る筈だと個人的には思って居る。
さて、こんな風に次第に惚れ込んで来つつあるMP S-1ドライヴァーであるが、是れの重量を量ってみたところ意外に軽くて312gしかなかった。
320gはあると思って居たから全く意外な数値だったのである。
312gでもシャフトがUS仕様のSシャフトで堅めで、しかもヘッドが小振りで重量を感じさせるタイプだから軽くは感じられにくいのかもしれない。
実際もう一本のドライヴァーのハイパーブレードインフィニティの方は310gでしかも45.5インチシャフト付きなので振った時に軽いクラブのように感じられて仕舞う。
しかもこちらは鋳造のチタンフェースではないかと思われ、その点で確りと鍛造のチタンフェースとなって居るMP S-1ドライヴァーと比べるとどうしてもモノが落ちるのである。
ドラコン仕様である筈のハイパーブレードインフィニティは意外にアヴェレージゴルファー向けで、HSが48m秒前後もあるようなハードヒッターには物足りないクラブのようである。
MP S-1ドライヴァーの場合はこのままでも充分に使っていけるのだがリシャフトしてもう少し重量感を増しハード仕様のアイアンとの一貫性を出していくという手もある。http://www.golfclubsuuchi.com/shaft/shaft-flex/
シャフトはフェースが割れたMP-001のXシャフトが付くのではないだろうか。
或いはハイパーブレードインフィニティの方にMP-001のXシャフトを付けるという手もある。
いずれにしても私の場合は矢張りハードな仕様のクラブの方が打ち方としての性に合って居るようだ。
それから気になるのはシャフトのトルクである。
US仕様とのことだがトルクは3.7あり数値が低い方ではない。
トルクというのは謂わばハンドルの遊びのようなもので、私の場合はこの遊びが少ないスポーツカーのようなハンドルつまりシャフトを昔から兎に角好んでいる。http://www.golfclubsuuchi.com/shaft/torque/
ダラダラした遊びは要らない、ダイレクトかつストレートなものが何でも好きなのでもっとシヴィアに操作出来るトルクの数値のシャフトが出来たら欲しいところだ。
出来れば3以下のトルクのシャフトが欲しい。
ま、其れもMP-001のXシャフトならば3.0前後のトルクになるのかもしれないのだが。
http://suuchi.golfclubsuuchi.com/exg/gears/wp/driver-head/mizuno-driver/mizuno-2009-138/
それからMP S-1ドライヴァーは意外にと言うべきか、それともいかにもプロモデルらしいと言うべきか、実は超高重心のドライヴァーであることが上のデータから分かった。
普通アヴェレージゴルファー向けには逆に低重心のドライヴァーであることが向いて居るものだ。
http://www.golfclubsuuchi.com/head/head-moi/
高重心のドライヴァーでは球が上がりにくくなりそれに球筋が吹け上がるものとなり易いのではないだろうか。
其処で若干ソールの方に鉛の板を貼って低重心化することなどもあるいは良いのかもしれないのだが。
いずれにせよゴルフは物理現象を利用して行うスポーツなのだから、データの方を無視するという訳にもいかないのである。
データだけではなく球を打った時のフィーリングも確かに大事なのだが最近はゴルフのクラブの方も科学的なデータが添えられて売られて居ることが多く、自分に合ったクラブを選ぶ時の大きな目安となって居ることも否めない部分である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1501回) ..2013/08/25(日) 23:07 No.4575 |
 |
不思議なことに今鉱物ショーの方は盛況のようである。
私は本日名古屋鉱物ショーへ行って参りましたが、其の会場の方は大変混んでいて全くの盛況でした。
同じ場所で行われていた骨董祭の方も覗いてみましたが、こちらの方は客も疎らで見るからにこれでは駄目だなという感じを受けた。
時代の閉塞感が漂う中、何故鉱物結晶はこんなに人気があるのだろうか?
其れは様々に理由付けることが出来るのだろうと思う。
然し、そうした理由付けよりも、ただ自然はどんな時でも人心を癒して呉れるということだけを私は考えていたい気分である。
自然の生成物というものはどうも人知の及ぶ範囲を初めから超越しているような部分があり、言うなれば其れはただの化学組成で表されるところの物質の原子の結合体だというだけでは無いのである。
生命としての木や鳥や虫達、つまり動植物の物質からの超越性というものも矢張り人知の及ぶ範囲のものでは無いが、それ等ばかりではなくあの冷たい石までもが単なる科学的に記載される物体では無いのである。
共感?それとも共鳴?
我々人間は多分自然と直接的に連なることが元々出来るのだろうと思う。
然し現代人は余りにも其のことから遠ざかって来て居り、それゆえに見えるものも見えなくなり聞こえるものも聞こえなくなって居るのだが自身には其の事が寸毫も分からないのである。
然し、にもかかわらずこうして石に引き寄せられて人が集まって来て居るのである。
確かに女性が多いが、そうばかりでもない。
案外大人の男性も多い。
が、何故か其処に子供は少ない。
尚子供に電子機器のようなものを買い与えるのは止めた方が良く、その代りにたとえばこんな鉱物ショーに連れて来る方が余程に為になる。
現代の常識は真理への背反、非常識であるからして、世の若いお父さん、お母さん方はしかとこの哲理を胸に刻んで世の中の動きに少しは疑問を持つべきである。
其の何かと不安な現代社会を生きる若いお父さん、お母さん方の方がむしろ熱心に石を探して居る。
彼等は我々五十代よりもまた余計に長く不安なこれからの世の中を渡っていかなくてはならない。
大変だ、本当に、大変だ。
ところで『プラトーン』という反戦映画で有名なオリヴァー・ストーン監督が昨日TVで印象的な言葉を述べられていた。
『人間は戦いを自ら作り出している。
戦う必要が無い筈のところの戦いを自分で創り出して戦って居るのである。』
或いは全く其の通りなのかもしれない。
人間の眼が皆等しく石の方向を向きでもして、そうして其処で心を鎮められ、それで邪な大きな欲望を抱くことの馬鹿さ加減に気付きでもしたら其れは矢張り石という自然が人間を正しい方向に導いたということになるのだろうな。
実際何故こうも人間は石の癒しを、石による癒しを求めてこの会場に集まって来て居るのだろうか。
このことからも人間が最後に癒されるべきものとして選ぶのは無垢で静謐な物言わぬ自然そのものであるのかもしれない。
最後にというのは、実際昨今の自然の営みの狂いや其れは大したもので、異常気象はもはや常態と化し、肥大化した欲望は全人類を巻き込み歯止めが効かない態となって居る。
これは近いうちにハルマゲドンが勃発するぞと作家や詩人が其処でのたまうが、健全な常識人はそんな酔狂な話に耳を傾けている暇などは無い。
庶民は皆日々を生きるのに必死であるだけであり、其の生きるということにかまけている以外に庶民の歩むべき真理への道は無い。
さて、件のパイロクスマンガン石でありますが、ひとつ、まずまずのものがとある店に置いてありました。
然し其れは高額の標本でした。
無論そのことは田口鉱山が採集禁止になったこともあります。
其の地元のラピスという鉱物専門店の店主と色々話をしました。
そこからすると、
1.田口鉱山はとある天然石やパワーストーンの卸問屋が所有する私有地となったそうである。 2.ズリはすでに浚われて居て無い。従って今後パイロクスマンガン石はズリから採れない。 3.15年程前東京ミネラルフェアにパイロクスマンガン石の良晶が出て其れが7万円で売られていた。 ラピスの店主は其れを買っておくべきだったとそう話して居られました。
東京のミナスサトウの系列会社の店でエメラルドの原石についての情報を得た。
1.エメラルドの良い原石は今はもう出ない、其れは枯渇気味である。 2.古い石=昔掘られた石の方が品質が良い。 3.この一番良い標本は12万円である。
尚、近年の私はこれら二種の石に興味があるばかりで他はさして真面目に見て居りません。
それにしても、案の定これら二種の石は枯渇に向かって歩んで来て居ります。
従ってあのルビーの原石よりもパイロクスマンガン石の良晶の方がより価値があり、ダイヤモンド原石よりもエメラルドの原石の方が余程に価値があります。
さて今回の名古屋ショーではかの中尾コレクションに於けるパイロクスマンガン石の良晶の出展があり其れをじっくりと観察して来ることが出来た。
http://www.nagoyamineral.com/
こちらの中央に大きく写っている赤い結晶鉱物が其のパイロクスマンガン石の良晶である。
之は深く華やかな燦きがあり写真よりもずっと美しいものであった。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1513回) ..2013/09/10(火) 23:15 No.4589 |
 |
夢のある石オパールはいつも私を夢中にさせて呉れる。
其れもオーストラリア産などの外国産の石ではなく国産のオパールこそが私のお気に入りの石なのである。
国産のオパールは何処にでもある石という訳ではなく限られた場所にしか出ない稀少な鉱物である。
とは言え火山国である日本ではおそらく掘れば結構出て来る石ではあるのだろうが、オパールは資源として採掘されるということが無い為に元々探しにくい石なのである。
石というのは、多分今のこの日本でも掘れば幾らでも出て来るものと思われるのだ。
ただし、採掘されることが無い石は地中や岩の中に埋まって居てずっと日の目を見ないということなのである。
石なんて幾らでもあるが、採掘には大金が必要なので誰も好き好んで余りお金にはならない石を掘ったりはしないものなのである。
鉱物の愛好家が訪れる日本の鉱物産地はほとんどが戦時中か戦後暫くの間資源確保の為に稼働していた小規模な鉱山がほとんどであり、従って当時の捨て石の中からめぼしい石が拾い尽くされて仕舞うともはや産地としては枯渇して仕舞うのである。
どだい最近は鉱物産地が軒並採集禁止となり山で石を採って来る楽しみ自体が風前の灯である。
何にせよ今は人間の数が多過ぎてダメである。
もっとも日本の場合には特に人口が増えて居る訳ではないのだが主にネット上の情報により全国各地から石マニアが訪れる為に産地の荒廃が進み何処でももう石が出ない。
尚私は今休暇中で明日は鳳来寺山にほど近い棚山高原というところへ行きずっと山を歩いて来るつもりである。
オパールの産地ではあるが、現在は石は採り尽くされて良いものは無く、おまけに採集可能なところと禁止されているところの境界が曖昧で現在鉱物採集自体がなかなか難しいところだ。
それで石を採るということよりも、兎に角山の中で遊んで来たいのである。
一日中遊んで来る。
おそらくは朝から夜まで。
以下は昔採集した棚山高原のオパール。
とは言っても最も価値のあるノーブルオパールは撮影して居ない。
遊色のあるノーブルオパールは撮影がなかなか難しく時間がかかる。
コモンオパールとは遊色が出て居ない普通のオパールのことを言う。
ただし普通のオパールとは言え、透明度が高く色合いの良いものは特に価値がある。
棚山のコモンオパール http://yahoo.jp/box/PiWBC8
通常棚山では白の不透明、薄い青の不透明、其れから無色透明、薄い青の透明のオパールが産出する。
白が一番多く、透明や青の方が量は少ない。
青いオパールは特に色が濃くなるとなかなか美麗である。
棚山の場合90年代の堰堤の工事の時に岩盤が削られて石が出たということだけであるので、其の折の石が無くなった今となってはなかなか美麗な石を得ることは難しい。
要するに90年代に鉱物マニアによって一度石は採り尽くされて居るからなのである。
ただし、台風や大雨などで小規模な山崩れ、或いは山の斜面の侵食などが引き起こされたりすると、自然に大きな岩が削り取られたり、或いは地中から石が転がり出たりしてそうした石が沢などに落ちて居たりするものなのである。
http://yahoo.jp/box/pvbpwg 不透明な黄色と白のオパール
不透明でも黄色いオパールは結構綺麗なのである。 特にここまで色合いがしっかりとして居るととても美しいものだ。 また白と黄のコントラストの美しさということもある。
http://yahoo.jp/box/gq4d7G 黄色のオパール
このような透明な黄色のオパールを探すことは結構難しい。
棚山で普通に落ちて居たりするオパールは皆不透明な白色のものである。
其れだけが多くあり、こうしたスペシャルな色合いのオパールを探すのは十年位通わないと無理である。
しかしながら其れもかっての話で、今は棚山高原も部分的に採集禁止となって居るので腰を落ち着けた採集を行うことは難しい。
http://yahoo.jp/box/_Q5hQq 翠色のオパール
之も90年代に探し出した物で、流紋岩の母岩に翠色のオパールらしきものが嵌め込まれて居る。
多分オパールの筈である。
ちなみに翠色のオパールは此れ一個を持つのみ。
昔十年位は通って此れ一個のみ。
だからおそらくは今何年通ってもまず採れやしないことだろう。
http://yahoo.jp/box/OoedWb 赤色のオパール
こちらは幻の赤色透明オパールのように見えますがどうなのだろうか?
之も矢張り90年代に採集した石だが赤色透明オパールであると確定的には言えない。
が、実際かなりに赤色透明オパールのようではある。
鉱物ショーへ持ち込んで鑑定して貰う必要はあるが、現状ではどうも幻の赤色透明オパール臭いのだとは言える。
ちなみに之も此の一個のみ。
他に赤のオパールは持って居ません。
嗚呼、思い出したがもうひとつ、超レアーカラーとしての肌色不透明オパールの標本も一個だけある。
其れは先程写真に撮るのを忘れて居りましたが確かに在る。
しかも其れはほとんど確実にオパールであると言う事が出来る。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1515回) ..2013/09/12(木) 19:32 No.4591 |
 |
愛知県県新城市川売(かおれ)棚山760m & 奥三河観光 Mar 19. 2013 http://www48.tok2.com/home/yamabiko/yamabiko13/tanayama.html
こちらでの・瀬戸岩展望・N提供という写真が実際の瀬戸岩での景観に近い。
・夫婦滝というのは実際には此処での写真よりも大きな滝に見える滝。昨日私は足を滑らせて此処の滝壺に落ちた。 もっともズボンが腰まで濡れただけで大したことは無かったのだが。
ズボンが腰まで濡れる位のことは山では日常茶飯事である。 スニーカーのゴム底が松脂岩の割れたものでスッパリと切れることさえある。
運の悪いことに落石で足を深く切り、麓の村から救急車を呼んだ人もかっては居たらしい。
尚この方もキャンプ場が閉鎖されて仕舞ったことに対して色々と書いて居られる。 浪費を進める高度経済成長は全ての国民から自然を楽しむ余裕を奪った、というようなことを書いて居られますが全く其の通りなのである。
また日本人は真面目過ぎるので夜昼となく働かされ心身ともに疲れ、そうした状況の中では学校の先生も子供をキャンプに連れ出す勇気が失せ、またアベノミクスはキャンプ場を一層荒廃させることだろう、などというようなことも述べて居られますがこれも全く其の通りなのである。
いまだに経済アニマルの日本人は子供を山へ行かせるというちょっとした心の余裕すら持って居ないと言えるのかもしれない。
・川売の猿岩 15:35・N提供というのは棚山の麓の川売の集落のはずれにある奇岩である。 スズメバチの巣なども以前この岩にぶら下がって居たことがあった筈だ。
山というのは都会とは違い体力的には大変だが精神的にはむしろ穏やかになれる、人間の精神にとってはとても良いところである。
気ままな山歩き 棚山縦走ルートで宇連山へ http://yama.toyota-jp.net/oku-mikawa/tanayama-ureyama/index.html
こちらにも瀬戸岩の写真がある。
其の前に棚山への林道の写真があるが丁度こんな感じである。
写真でのように稀に大きな岩の落石がある。 舗装路以外の所では時に道が崩壊して車では行けない場合さえある。
が、昨日は林道の整備が完璧で以前よりもむしろ楽に車で登っていけた。
キャンプに行かまいか! 棚山高原から宇連山 http://totokakafamily.naturum.ne.jp/e1681156.html
こちらには海老集落への行き方や棚山の登山道の様子、廃墟と化したキャンプ場などの写真が実際の感じでのように撮られている。
山は特にこの21世紀に於いては貴重な環境である。
山ということは何かということをもっと現代人は学んでおくべきだろう。
http://yahoo.jp/box/nUq9CQ
現在の石川県小松市赤瀬町ではかってオパールを産して居た。 此処も現在は採れないらしいのだが、こちらの写真は私の持ち物でかってヤフーオークションを通じて地元の方から多くの石を得た時のものである。 之を見る限りは暖色系のオパールが多く出ていたようである。 赤っぽいもの、黄色いもの、肌色のものが多い。
赤瀬のコモンオパールはこんな風になかなか華やかである。 ちなみにノーブルオパールの産出もあったようだが、市場に出て来ることはごく稀である。
http://yahoo.jp/box/-PcRW5
こちらが棚山産のコモンオパールで、私が採集したものとヤフーオークションで現金採集したものが混ざって居る状態。 ただし八割方は私が採集したものである。 棚山産のコモンオパールは暖色系の多い赤瀬に対して寒色系が多い。 赤っぽいもの、黄色いもの、肌色のものは少ない。
ノーブルオパールの産出については、90年代の堰堤工事により良品が多く産出したそうだ。 私も其れらの幾つかを持っては居るが良品と呼べるようなものは無く其の下のクラスのものばかりである。 然しながら其れ等が集まると流石になかなかの美しさである。
オパールは兎に角美しい石である。
http://yahoo.jp/box/0ERmBU
薄青い棚山産のコモンオパールもこのように量感のある石であれば非常に美しい。
http://yahoo.jp/box/3HJ-0l
棚山産の黄色とピンクのコモンオパールである。
ピンクないしは肌色のオパールは棚山では非常に珍しい。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1517回) ..2013/09/17(火) 21:20 No.4593 |
 |
最近私はまた石道楽の世界に嵌って居るのである。
石道楽と言えばひとつ面白い話がある。
以下はかって付き合って居た大阪の石仲間のブログである。
彼は私よりも一回り程も若い。
そして身障者である。
筆談でコミュニケーションを取るしかないのだ。
それなのに小型のベンツに乗って居て日本全国へ鉱物の採集に出かけることが出来るという一種恵まれた境涯にある。
確か2006年に岐阜の洞戸鉱山で知り合って、其処で筆談をしながら兎に角一度田口鉱山の坑内へ入ってみようという話が纏まった。
それである日田口鉱山の入口の駐車場で待ち合わせをして、装備を整えて山を歩いていき共に廃鉱へ入坑した。
ところが田口の坑道は入るといきなり強い下り斜面となって居り、滑らないようにロープなども張ってあったのである。
其処を慎重に降りたのだったが、最後の難所で彼は足を滑らせ私の目の前に落下し岩盤で腰をしこたま打って仕舞った。
ところがそんなこと位ではへこたれないのが我々石キ○ガイどもで、彼も五分後には大丈夫だというサインを出して来たのでよし、それでは行こうとそのまま暗闇の坑内を探索していったのである。
すると、坑道の右手の方に小さな広場と言って良い位の空間があり、其れはシャフトのすぐ際なのであったがなぜか其処には鉱山稼行時の捨て石が一面に敷き詰められて居たのである。
以後我々は其処で二時間程パイロクスマンガン石を探した。
何せ暗いので、懐中電灯だけがたよりの恐怖の空間なのだが、実は二人でやって居ることによりほとんど恐怖感は無い。
時折彼の顔を懐中電灯で照らすとかえって其の顔が怖い。
彼の顔が特に怖い造作である訳ではなく暗闇の中に人間の顔だけが浮かび上がって見えることが怖いのである。
さて、我々はこの時の採集で大きな収穫を得た。
私は私でそこそこに石を確保した。
然し彼の嗅覚も決して侮れなかった!
実は彼は凄かったのである。
異常と言って良い程の石を引っ張って来る力の持ち主だったのである。
一種の特殊能力者だ。
多分彼は感覚が健常者以上に鋭いのである。
それもこれぞという石を探し当てる能力に長けて居る。
其の点では私は全然かなわない。
ただしこちらには地の利がある。
私は其の後毎週末一人で此処へ入坑してまずまずの成果をあげたのであった。
然し独りで石探しをやって居ると実に怖い。
何度か、どうも人の話し声がするので誰かが石探しに来たのかと思い見に行くと誰も居なかったということを経験した。
とは言えお化けが実際に出た訳ではないので始終怖かったという訳ではない。
鉱物採集道楽-大ぶりのパイマン http://mineraljp.exblog.jp/3973102/
2006年に共に入坑した時の彼の収穫物である。 確かこれが一番良かったものだった。 ー之は私のものになっていたかもしれない石であった訳だ。欲張りということではなく。ー
久し振りの田口鉱山再訪 http://mineraljp.exblog.jp/6053421/
こちらに「当時にある産地で知りあったばかりの仲間が田口鉱山へパイマンを採りに行ったのを知り、」と書いてあるが多分それが私のことである。
然しこの男は相変わらず良い石を探し当てる力が凄い。
ルビーのようなパイマン http://mineraljp.exblog.jp/7661782/
たとえばこんなものは普通ズリの方では採れやしない。 こんなまるでルビーの指輪のような、しかも大きな結晶のパイマンは見たことがない。
パイロファン石 http://mineraljp.exblog.jp/3862095/
この標本も当時現地で実物を見せて貰って居るがまさに素晴らしいものだった。
普通田口鉱山のパイロファン石はこんなに大きな結晶になるということはない。
鉱物採集道楽-超奇跡のノーブルオパール!! http://mineraljp.exblog.jp/7201463
最近宝石屋のT君ー弟の親友でかっては屡一緒に鉱物採集をして居た男ーに会って話をしたが、彼も矢張りmimikenbou君は普通ではない、石を引っ張って来る力が常人とは異なるとそう言って居た。
棚山でこんなノーブルオパールを採っていたとは知らなかったがこれはまさに奇跡も奇跡、一級の奇跡のことであるのかもしれない。
まあ然し私もかってノーブルオパールは採って居る。
其の日棚山の麓で滝の辺りに七色に輝く虹が出て居て、其れで今日は採れるかもしれないぞと思っていたところ本当に採れたのである。
宝石質のトパーズ http://mineraljp.exblog.jp/6737876
彼は兎に角並外れて石の引きが強い。
ただし、日本全国から石を採りに来るということは私の場合矢張りどうかとは思う。
鉱物愛好家は少なくとも地元の石を採るべきではなかったろうか。
私の場合は愛知県、岐阜県などは地元になるのだから基本的に採っても良かったのだろうと個人的には思う。
石の愛好家は結局欲に任せて石を採り続け、日本の各産地で石を枯渇させて仕舞った。
地元の石に限れば無論のことソレにはこの私も一役買って居る訳だ。
でも私は遠い産地の石は現金で採集することと昔から決めて居たのである。
よそ者が急に訪れて石を採って、其れで土地の山の神様が喜ぶという訳でもあるまい。
然し結局、そうしたグローバリズムの問題、ネットや書籍といったマスメディアによる情報の弊害により石の産地は荒らされて仕舞った。
かってmimikenbou君にもちらりとそうした意見を遠まわしに述べたのだったが、それからというもの我々の石の上での付き合いはなくなって仕舞った。
然し彼の引きの強さだけは本当に驚嘆すべきものであった。
彼の人生は案外この私などよりもずっと充実したものとなっているのかもしれない。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1538回) ..2013/10/22(火) 23:00 No.4614 |
 |
医療の世界とはいまだに聖域である部分があり其れを庶民がどうのこうのと言える世界ではないのである。
要するに畏れ多いので何も言えなくなって仕舞う世界なのである。
ということは医師は人間存在の中でも特別な人々で、最近は教師が特別な人々では無くなりつつあることとは違ってまさに聖職であることを担って居る人々であるように思われる。
逆に言うと其の聖職に従事して居る医師はほとんど何があっても患者にとっての絶対的な存在なのである。
仏教徒としての立場に於いては、此の世には仏以外に絶対的な立場などあろう筈が無いと決め込んで居たのだったが、そうした現実的な意味での揺るぎない立場関係の世界の存在をこの度思い知らされたのであった。
と言ってもそう大袈裟な話ではなくまたぞろ我の病気の話なのである。
我はこの8月に病気になり9月の終わり頃に手術を受けた。
何でか知らないがここ数年というもの8月になると必ず病気になって仕舞うのである。
太腿に突然何やら黒いできものが出来、其れが次第に大きくなるが、なぜかしら直感的に悪いものではないと思われて居た。
それで其れを放って居いたところ、黒いものがやがて大きくなり其れを少々引っ掻いたら取れて仕舞った。
取れたので余計に悪いものでは無いことだろうと正直思った。
ところが其れがまた同じ部位に発生して黒くなって来た。
其れで流石に心配になり、件の中村皮膚科にかかった。
例の美人女医の居られる医院である。
其の時美人先生に我の汚い太腿を晒すのが恥ずかしく、男性の先生の方に診て頂いたのである。
ところが此の先生が有名な偏屈医者で、実は現代社会では考えられない程の変な先生なのである。
其の先生が美人先生のお父様の中村先生なのである。
ではあるが、この老先生が変だということは私も屡聞き及んでいた。
が、兎に角美人先生の目の前でパンツ一丁にはなりたくなかったのである。
中村先生に病状を説明するのだが先生は其れをまともには聞いて呉れない。
あまっさえ時折脅しのような文句さえ入り病人をして不安に陥れる。
これ、アナタが考えてる様なもんじゃなく悪いもんかもしれんですよ。
まずいんじゃないかな、これは。
おーい、○子、診てあげてよ。
とか言われるのでこちらは不安だらけである。
然し美人女医の○子先生は、患部を見るなり、
これは悪いものではないようですね。
と仰った。
それで何でか知らんが美人先生の見立ての方を信じる気になった。
ただし、名古屋市立大学病院への紹介状も頂いた。
其れは念の為に大学病院で診て貰うということであった。
名古屋市立大学病院は晩年の父が癌を患い入院して居たところである。
私も小学生の頃ここへ入院して扁桃腺の手術を受けたことがある。
現在は高層階まである大病院になって居り、上の階からは大パノラマの景観が楽しめる凄い病院だ。
尚父は名古屋市を定年退職してからこの病院の施設管理部門の責任者をして居たのだった。
65歳まで其の仕事に従事し、5年間だけのんびり暮らして、70歳で亡くなって仕舞った。
もうひとつ、高校の同級生のお兄さんがこの病院の勤務医でご専門は確か精神科だった筈である。
そんな訳で我が家とは何かと縁の深い名古屋市立大学病院である。
この病院で皮膚科へかかると一時間半も待たされた挙句に、若い医師の方からいきなり基底細胞癌の疑いがあり、と告げられた。 Wikipedia-基底細胞癌 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E5%BA%95%E7%B4%B0%E8%83%9E%E7%99%8C
ただしもしそうだとしても悪性度は低いとのこと。
悪性ではあっても本当に悪いものではないということらしい。
ではあるが一応は癌である。
其れで心にガーンとこたえない奴は居ない筈なのである。
一週間後に手術をしたが、其の折に執刀医から手術による摘出部位の大きさを選ぶようにというお話があった。
だが、ということはどうも良性腫瘍である可能性もまたある訳である。
其れで結果が悪ければもう一度手術して貰うという条件で小さく切除して貰う方を選んだ。
結果的にではあるがこの選択が正解で、病理検査の結果、被角血管種であったことが判明し無事にすべてが済むこととなった。 Wikipedia-被角血管種 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E8%A7%92%E8%A1%80%E7%AE%A1%E8%85%AB Wikipedia-血管種 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%AE%A1%E8%85%AB
術後の経過は良好で現在は手術による傷も余り目立たない程である。
ーこうした良性腫瘍摘出手術は日帰り手術で、それも歩いて帰れる手術である。実際悪性腫瘍の場合でも通院型の治療が現在は可能であるようだ。ー
ただし、実はそればかりではなかった。
実は今年の6月頃から鼻筋の真ん中辺りに黒いほくろのようなものが出来其れが悪いものではないかと気が気ではなかったのだ。
結局それも老人性のシミのようなものと分かりホッとしたのだったが、それにしても老人性とはね。
ついにほんたうの意味でのジジイになり始めて居るのだろうな。
さらにそればかりでもなかった。
スッカリ命が助かり大喜びで病院を後にしたのは良かったが、何と其の次の日に大腿部の裏側に腫瘍のようなものが出来其れが次第に大きくなり数日後には痛みを伴うようになって来た。
無論のことこちらの方も大心配で夜は眠ることが出来ず食も進まずでゲッソリである。
然し其れも結局は腫れ物が膿んでそうなったものなのであった。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1539回) ..2013/10/22(火) 23:01 No.4615 |
 |
何にしても、そんなこんなで此の二ヶ月位は精神的にまことに大変だったのである。
結局体の方は大した病気でもなかったのだが、兎に角其のことに振り回され煩わされて精神的に辛かったのである。
たまたま九月、十月とおそらくは来年からは取れなくなることだろう休暇なども取っては居たが、実は其の一件があることから山の中で遊んでいてもどうも不安感が漂い思い切り楽しめなかったのである。
ここで私が何を言いたいのかというと、人間存在は矢張り健康であってこそいろいろ考えたり悩んだり遊んだりすることも出来る、其の健康こそはまずは最も大事なことであるということが今回実感されたということを此処に書いてみたのである。
ちなみに腫れ物の方の治療はまた美人先生の方に診て頂いて居る。
実はもうちっとも恥ずかしくなくて、それこそパンツ一丁で患部をよーく診て頂いて居る。
それというのも、先生のお見立てに敬意を表して男だの女だのというような変な意識を捨て去ることに成功したからなのである。
名市大病院の若い男性医師は基底細胞癌の疑いあり、とされたのだったが美人先生は最初から悪いものではないとされていたのではなかったか。
ということは先生のお見立ては頗る信頼に値するものである。
つまり此の美人先生こそが名医である。
流石は名古屋大学医学部卒である。ーもっとも名市大の医学部がそれより落ちるということではございませんが。ー
いつしか私は男だの女だのという、そうした低レヴェルの性差のことを抜きにして、一人の優秀な医師としてこの美人先生を信頼するようになって居たのだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1540回) ..2013/10/24(木) 23:36 No.4616 |
 |
「TPPと医療」について http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/tpp-1cad.html
『日本の医療保険制度は世界で最高だと評価されています。これは皆さん良くご存じの通りであります。』
『日本医師会は、国民皆保険を守るというのは、最低限、この三つが守られなければならないと考えています。 まず一つ目は、公的な医療給付範囲を将来にわたって維持する。わかりやすく言うと、医療において、保険の利く範囲を、これ以上狭めないようにする。 二つ目は、混合診療を全面解禁しないこと。 三つ目は、営利企業を、医療機関経営に参入させないこと この三つです。 わかりやすく言うと、日本医師会は、医療の営利産業化を防ごうと思って戦っています。』
『我々は、これらの医療を営利産業化する動きが、TPP交渉に参加することによって、強まっても、弱まることはないと一貫して主張してきました。』
『そして、それとともに、国内改革として、新自由主義的な政策が、医療にどんどん持ち込まれています。真ん中にありますが、2011年4月には、医療法人と他の営利法人の役職員が兼務する道筋をつけることになりました。今日は、一番心配される公的医療給付範囲の縮小についてお話しいたします。わかりやすく言うと、保険が利く範囲が狭まるのではないか、そして、保険外の範囲を拡げて、アメリカを始めとする民間医療保険が参入しやすい基盤整備をしようとしているのではないか、という心配があるのです。』
『我々は、TPPに関して、医療が危ないんだということは、言い続けなければならないと思っています。皆さんも是非、そのことについて、共通認識をして、今日、共通の危機感を共有もしできたら、いろんな場面で声をあげて頂きたいと思います。』上記より引用
TPPで医療は どうなる? http://luna-organic.org/tpp/tpp-3-2.html
『アメリカの医療事情は本当にひどい。公的な保険がなく、民間の医療保険が高いので貧乏な人は保険に入れない。国民全体の15%が無保険だ。そして年間4万4000人もの人が、保険に入っていないがために、医者にかかれずに死んでいく……。 』 『これがアメリカのいう「利益至上主義」医療の実態だ。TPPに加盟したら、日本の医療もその方向へ、じわじわと進んでいくことになる。』上記より引用
TPPの真の狙いは? http://haetarou.web.fc2.com/TPP/TPP_Kaisetu.html
『しかし,TPPの真の狙いは,「医療」である.もっと言えば,求められていうのは「医療保険」の開放である.もっと具体的に言えば,「混合診療を解禁しろ」と言うことである.そして,これを強く言っているのは,アメリカである.』
『すると,国民はこれに備えて,医療保険を買わなくてはならなくなる.だいたい,年齢にもよるが,4人家族で年間30万から200万ほでになるのではないだろうか.高齢者はものすごく高くなるか,入るのを拒否されることになろう.また,もともと病気持ちの人もそうなる.実態は,完璧な医療保険に入ろうと思ったら,マイクロソフトの社長のビルゲイツ位年収がなくてはだめだという話もある.そしてこれのノウハウはアメリカの保険会社が持っている.だから大もうけだ.医療保険に入らない人も出るだろう.しかし,いったんその人が病気になったら極めて悲惨なことになる.苦労して建てた家も何もなくなってしまうだろう.これが混合診療の実態であるし,TPPの真の狙いであるのだ.これを銘記せよ.』上記より引用
皆様は上記の発言を読んでどう思われるのだろうか?
之を読んで私は強い危機感を持って居る。日本の医療制度に対しての危機感を。
今、其の日本の医療の分野にも自由主義資本主義経済の波が押し寄せようとして居る。
其処で今後一体何が起こり得るのかということを国民の一人一人が真摯に受け止め考えていく必要がある。
国民皆保険を謳い世界中でも稀な素晴らしい制度である日本の医療制度は社会保障制度という一種の社会主義的な政策により担われて来たものである。
確かに資本主義国である日本ではあるが、この一種の社会主義政策により皆が安心して医者にかかれる社会を形作って来たのである。 Wikipedia-日本の社会保障ー社会保障の歴史 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C#.E7.A4.BE.E4.BC.9A.E4.BF.9D.E9.9A.9C.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2_2
社会主義というと其の語義の持つ反体制的なイメージから毛嫌いする人が多いようだが、実は日本の医療制度は此の社会主義的な施策により達成されて居るものなのである。
つまり私の病気も貴方の病気も其の社会主義的な施策のお陰でより少ない医療費でもって治すことが出来て居たのである。
然しながら逆に言うと資本主義国である日本国では其れを止めて純粋な自由競争の世界に医療の分野が組み込まれたとしても誰も文句は言えない筈なのである。
そして現在其の医療の分野への新自由主義政策からの圧力が次々とかかり始めて居るようである。
其の新自由主義政策というのはかっての小泉政権やまた現在安倍政権が行なって居るようなアメリカ追従式の利益至上主義型資本主義経済の推進のことを言う。
尚元より私の場合TPP交渉参加は反対である。
其れは各国の利害が絡み合う損得勘定のさ中に聖域である筈の医療の分野を組み入れるということなのである。
其れは血も涙も無い商業主義の中に生身の人間の体を価値化してくべ入れるということである。
資本主義の行き着いた形であるグローバリゼーションが医療の分野にもついに進出して来たということでもある。
カネ、カネ、カネ、すべてがカネのサイテーの社会システムであるグローバル資本主義の世界。
要するに金のある人だけが高額の金を払い病気になっても死なずに済み、また金のある人だけが高額の金を払い宇宙旅行へも行く、が、然し其の裏では貧乏人が医者にかかることが出来ず皆病死する。またお金の無い人は宇宙へ行くどころか、御飯もまともに食べられなくなる。つまり其の場合には餓死する。ー将来地球温暖化による極端な気候変動の影響により食糧生産に壊滅的な打撃のあることが予測されている。其の折にはカツ丼一杯にお金持ちが100万円を払い其れを旨そうに食べて居ることだろうー。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1545回) ..2013/11/01(金) 00:26 No.4621 |
 |
それにつけても野球は面白い。
野球はドラマだとは良く云われることなれど、まさに其の通りにドラマなのである。
おそらくは今年が日本一となる最後のチャンスだろうと思われる星野監督は今胸の高まりを抑えることが出来ないことだろう。
仙台へ戻り田中投手が投げることで果たして勝って胴上げとなるのかどうか、其れは分からないのだがそうなる可能性が高まって来たことだけは確かで ある。
然し勝敗は抜きとしてひとつ大事なことが此の戦いには込められて居る様に思う。
其れは地方の力は中央に比して決して劣って居るものではないということなのである。
中央集権的な大都会中心の統治システムは誤りであり、あらゆる力に於いてー体力に於いても知力に於いても感性の力に於いてもー都会人に対して地方 の人々が劣って居るということは全く無い。
よって地方は大都市圏に対して卑屈になる必要などは全く無い。
最終的には地方がそれぞれに特色ある統治システムでやっていくことの方がより望ましい文明社会のあり方ではないかと個人的には思う。
だから野球もまさにこれで良いのじゃないか。
仙台を中心とした東北の人々が日本一になることで大いに元気づけられれば良いのだ。
それに元々何でも独り占めする、ということは良くない。
ただ、今年巨人軍が強くないと野球の人気が全体的に落ちてしまいかねないことから、昨年私は巨人が優勝した方が良いと言ったのである。
が、実はリーグ優勝すれば良いと言っただけで、日本一になった方が良いとは言って居ないのである。
ただし、不思議なことに私が好きな野球選手は皆巨人軍の選手なのである。
昔は王、長嶋が矢張り大好きだった。
そして今波長が合うと言うか、何となく人間として性格が合いそうな気がするのは巨人軍の選手二人だけなのである。
いや、性格などTVを視て居るだけでは分からないのだから、姿格好や顔付きが好きだということに過ぎないのかもしれない。
其の二人とは高橋 由伸選手と西村 健太朗投手である。
奇しくも今夜は其の高橋 由伸選手が同点のきっかけとなる二塁打を放ち、西村 健太朗投手の方が追加点を許すことになる大乱調を演じて仕舞った。
実は中日や阪神には好きな選手は一人も居ない。
また其の他の球団にも好きな選手は居ない。
ひょっとして隠れ巨人ファンなのだろうか、我は。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1563回) ..2013/11/28(木) 22:54 No.4641 |
 |
考えてみれば現代文明を推進して居る諸の産業力、科学的な技術力といったものは理系の人間の発想力から生み出されているものなのかもしれない。
ネット上では理系とはモノにこだわり、文系とは人にこだわる性癖を持った人種だと言って居る人も居られるように、其の事はおそらくそれなりに当たって居ることなのだろう。
もっとも理系人間は物自体に拘って居るのかというと其れは少々違っても見え、物の背後に潜む法則性や物理的特性の方により純粋に関心があるのではなかろうかと思われないでもない。
さらに言えば文系人間も様々で、其処にはたとえば私のように直観主義者も居れば感性中心、或いは感情、情動といった面に重きを置く人もあればで様々である。
また理系、文系を問わず論理の構築、論理的な道筋に沿った思考を好む人もあればそうではない人も居ることだろう。
ところで最近大学の先輩と話して居ると様々な面で意見がかち合うようになって来て居る。
S先輩は私とはまるで異なる世界を歩んで来た人だというのに、それでも最終的には同じ様な文明の見方に帰結することが多くなって来た。
先輩は表面上はむしろ明るく振舞うことの出来る人なのだが、おそらくは私の影響からなのだろう、現代文明に対しての否定的な見解が次第に増えて来て居る。
S先輩は漫画の方のマニアなので、オタク的な暗い思考を心中に少々忍ばせる位のことはこれまでに何度もして来て居る筈なのだ。
其の部分が私の文明論と共鳴してむしろ似たような悲観的な結論に傾いてしまうことが多くなって来て居る。
先輩はパソコンが出来かつ趣味で、情報管理の知識も少しばかりあり、これまではそうした情報の分野には未来が拓けていると考えて居たのである。
然し昨今の情報機器についての社会の側からの批判や私の批判を耳にしてこれまでとは考え方が少しづつ変わって来たのである。
たとえばつい昨日などは、話の途中にふいに、
人間は自己完結するものだ。どう自己完結するかというと、其れは電脳社会として自己完結すると述べて居た。
其の電脳社会は人間から疑問そのものを無くして行く。其処では疑問すら持ち得ないような人間に仕立て上げられてしまう。
そして自分から歯止めなく進み自分の首を絞め続け滅びるということもあり得る。
其の自分で作り出した電脳社会が自分を滅ぼすに至るのだからまさに自己完結のものだといえる。
と大体そんなことを述べて居た。
この考えは一年程前とは大違いで、自己をも含めている電脳社会に対する大きな疑問が示されたものとなって居る。
だからこそまさに私は其の部分に感じ入った。
だが、そのような考え方が成り立つことを知ることと、実際に電脳社会に生きていてしかも其の事に便利さを感じて仕舞って居ることとの間には大きなギャップがある訳だ。
結局先輩は理系の人ではないが、経済学のことなども少しは知って居るのでどちらかと言えば理系の方面のことも知って居るタイプである。
実際中学、高校の頃は数学が得意だったのだそうだ。
其の先輩が今以上のようなことすら述べて居る。
然し、社会を批判することとは、即ち其れは既成路線を批判することになるのだから気分的にはスッキリとはせず辛いことにもなる。
重苦しい心でもって現実世界を批判していくのだから決して楽しいことではない筈だ。
だから其の時私は先輩がそのように考えていなかった頃の方が先輩にとってはより楽に生きられた筈だったろう、という意味での後悔のようなものを感じないではないのだ。
人間は大抵の場合事の本質を見つめれば見つめる程に苦しくなっていく、精神的な意味でかえって苦境に立たされることになるものと相場が決まって居る。
何も知らない方が楽に生きられるということは、人間社会の他のありとあらゆる領域でも成り立つ一種の法則性のようなものなのである。
或いは私は先輩の批判力に火を付けて仕舞ったのかもしれない。
それでも先輩もまた私も、電脳社会を批判している割にはネット世界にどっぷりと浸かって居るのであり、其の事はもはや如何ともし難いことだと互いに結論付けて来て居るのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1566回) ..2013/12/03(火) 23:53 No.4644 |
 |
賞金王・松山英樹が世界ランク自己最高の23位に浮上! http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131203-00000000-alba-golf
3013 カシオワールドオープン 優勝 松山英樹 http://www.youtube.com/watch?v=mVKzTwg3m-8
さて史上初のルーキー賞金王に輝いた松山 英樹プロの今年のプレーは確かに凄かったのだと言えます。
然し、其の事は私の予想通りのことでもありました。
私は今年の春先におそらくそうなるであろうことを予見して居りました。
何故なら個人的に松山 英樹プロのスイングは良いと見て居るからなのであります。
ただし、本当にプロのレヴェルに於いて彼のスイングが良いものであるのかどうかということは分からないことです。
其れは単に彼のスイングが好きだということに過ぎないことなのかもしれない。
然しながら、ゴルフに於いてひとつだけ絶対的に言い切れることが私にはあります。
其れはゴルフはスイングがすべてであるということです。
そして今年私にもひとつだけ良いことがあり、其れはゴルフに於いてスイングが完成した、打ち方がようやく成ったということでした。
其れもつい先日そのことが成りました。
苦節三十年余りの末に、其の事が成りました。
其れはトーナメントでのプロの優勝だとか、賞金王だとか、確かにそんな凄い次元でのゴルフの話ではありません。
されど、私にとってはまさに究極の出来事だったのです。
さながらゴルフに於ける真の大宇宙と一体となったとでも言うべきか、兎に角これですべてが分かったという感覚でしょうか。
謂わば大は大で、小は小で、それぞれの部分に於いて成るか成らないかという其の線引きの面が本当は何にでも存在して居るものなのです。
其のことを成らしめることがあらゆる人の世の道に於ける目的であるような気も致します。
たとえば職人技というものがあり、職人さんはそのことを用いて素人さんには決して真似の出来ない素晴らしい仕事をします。
ゴルフの場合もどうも其の事に似ていて、そうした素人には出来ない打ち方のコツを掴むのが結局ゴルフスイングの真髄なのだと言える筈です。
そう、ゴルフスイングとは、つまりは其のコツだけです。
コツを掴むか掴まないか、ということだけなのです。
私は其のコツを掴むのに三十年もかかって仕舞いました。
多分、運動神経が凡庸で松山 英樹プロのようには体が動かなかったからなのでしょう。
尚、スイングに於けるコツを掴んだことと、スコアが急激に良くなることとの間に相関関係は無いものと思われます。
勿論急に70台で回れるようになる可能性もありますが、依然としてそうはならないという可能性の方もあります。
でも、結局ゴルフはスコアではありません。
スイングに於けるコツを掴んでいるかどうかがすべてです。
私は今其のコツが掴めて最高に幸せです。
ゴルフのすべてが分かったという、まるでゴルフに於ける悟りの境地のような、其のまさに法悦境のような気分の中に浸り込んで居ます。
では現在私が練習場でどのような球を打てるようになったのかということをお話ししておきます。
1.傾斜のある練習場のグリーンを狙いSWで打ち、球をピンの根元に止められるようになった。
2.ロングアイアンで高弾道のドローボールが打てるようになり、3Iで230Y程の飛距離を得、さらに方向性が良くなった。
3.ドライヴァーは吹け上がらない方向性の良い強い球が打てるようになり、おそらくは実測でも280Y以上はコンスタントに飛んで居ることだろう。
1.について。 我々アマチュアゴルファーはプロでは無いのでアプローチショットでバックスピンをかけることはなかなか難しいのですが、屡それもかかるようになりました。またたとえ球が戻らなくても、ほとんどの球を止められるようになりました。うまくすると十球中八割位の確率で成功します。コースに於いてこのことが成れば、無論のことバーディチャンスが其処には転がって居るという訳です。
2.について。 ロングアイアンでの球の捉えが非常に良くなりました。其れで使って居なかった3Iをまた使い始めました。十年振り位のことです。 確かに私は元々HSが速く一般には難しいとされて居るロングアイアンが苦手ではないのです。いや、むしろロングアイアンが好きです。 然し若い頃は打ち方が変なのに力で之を打ちこなして居ました。フェード系の球で良く飛ばしていましたが、打ち方が悪いため方向性は常に不安定でした。 でも現在は球筋が安定して球が良く捕まった重いドローボールで打てて居ます。
3.について。 非常に強いドローの球筋のドライヴァーショットが放てるようになりました。しかも方向性が安定して居ます。ただし此処でのスイングイメージの構築はアイアンショットに於けるものよりも少しだけ難しいものがあり其処を現在煮詰めて居るところです。練習場ではネットの中段より上に球が吸い込まれていきますので相変わらず飛距離では二十代、三十代の飛ばし屋さんにも負けません。 しかも其れに加えて、飛距離と方向性に於ける正確性が出て来たということが最も大事な部分です。
其の飛距離と方向性に於ける正確性の両立ということは、 実はゴルフスイングに於ける最も大事なことなのです。
つまりは其れを会得するということこそがゴルフスイングに於けるコツを掴んだということにほかならないだろう。
然しながら其のコツが全く掴めなかった。
どんなに練習を重ね努力をしてもダメだった。
道具云々では無く兎に角打ち方のコツが分からない。
そも打ち方が分からないので弾道が定まらない。
五十肩が治って昨年の十一月からまた練習を再開したのでしたが、矢張りと言うべきか、また余計に打ち方が分からなくなって居た。
然しこの一年余りはかなりに球を打ち続けて来た。
病気だろうが何だろうが兎に角練習場へは通った。
ちなみに私の場合はコースへ出ることには全く興味ありません。
若い頃は始終コースを回ったものでしたが、スイングを完成させない限りシングルプレーヤーには絶対になれないことが分かった時点でコースへ出ることを一切止め主に練習場でスイングを創り上げることだけを目指しゴルフ道を歩んで参りました。
尚こういうのは周りのゴルフ関係の知り合いには理解されない考え方でしたが、そんなことはお構い無しに私はただひたすらスイングの完成ということだけを目指して三十年間もの間球を打ち続けて来たのでした。
より正確には、コースへ出なくなり純粋に自己のスイングの探求を始めたのが約二十年位前のことでしたが。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1567回) ..2013/12/05(木) 12:09 No.4645 |
 |
さて以前ゴルフのことを書いた時に、無念無想打法というものについて書きました。
之は素振りでのスイングをそのまま実打のスイングとして行うという一種哲学的な打法だったのですが、実は之も其の後一ヶ月程で捨てて仕舞い、其の後も幾つかの大きくスイングを変えるような打法の変遷を経験して参りました。ーただし無念無想打法が役に立たないという訳ではない。之でもかなりの部分までスイングを創り込むことは出来ます。ー
然し其処でひとつだけ真実があるとすれば、其れはスイングとはイメージであるということでした。
私は90年代に板井 栄一プロから其の言葉を聞きました。
当時中日クラウンズの予選ラウンドで、練習場で球を黙々と打って居た板井プロから其のことを教えて貰いました。
板井プロは体が大きくジャンボ尾崎プロとそんなに変わらない位の飛距離を持って居る選手でした。
其処で見て居ても、ロングアイアンの球筋などは驚異的な飛距離と方向性を持ち合わせて居ました。
其の板井プロがふいに後ろを振り返り、練習を見物していた私たちに向かってゴルフはイメージだよ、とただ一言だけ言いました。
そして其れこそがまさに至言でした。
ゴルフのスイングは結局イメージで構築していくものだった。
つまり運動神経のみ、其の反射的な動物的な筋肉としての動き、そういうものではむしろ無かったのであります。
確固たるイメージがなくては、ゴルフのスイングは絶対に完成しないものだったのです。
そうした意味からも、結局ゴルフのスイングとは文化と呼べるようなものでした。
全く意外なことに、筋肉質の体育会系のものではなくイメージの力、文科系のイマジネーションの力そのものなのでありました。
もっとも其のイマジネーションの方は結構得意だった筈の私がこんなに苦労するとは実は全く思っていなかったのです。
十年位かければ大丈夫だろうと思って居りましたが、十年ばかりでは全く成らなかったのです。
結局真剣に追求し始めてから二十年はかかりました。
其れでは無念無想打法以後のスイングのイメージの変遷を簡単に書いておきます。
小さくなーれ大きくなーれ打法、裏返し打法、逆打ち打法、というものをやって参りました。
そして現在は究極の打法として体で球を拾う、又は体で球を動かす、というものをやって居ります。
此の究極の打法としての前段階としての諸々の打法もそれぞれに重要なのかもしれません。
でも現在の私にとっては無用のものですので兎に角究極の打法だけについて若干述べておきます。
1.体の前に球が置いてあります。之をゴルフクラブで打つ場合に、まずゴルフクラブでもって球を打つという観念を滅却します。 2.其の球を体全体で直に動かしていきます。其の場合に手もクラブも実は存在して居ません。無論本当は在るのですが、あくまでイメージの構築上は無しとしなければならないのです。 3.球を動かすのは体全体です。腕も手もまたクラブも無い体全体で球を動かす場合にどう体を動かすかという其のイメージの構築だけが重要です。
4.手もクラブも無い体全体で球を動かすと正しいバックスイングとなり、トップの位置も正しく成るのでダウンスイングではもはや何も考える必要がありません。 5.何も考えずとも、シャフトは立ったまま振り下ろされ正確にダウンブローの軌道で球を捉えていくことが出来る。またドライヴァーショットでもシャフトは立ったまま振り下ろされ正確にアッパーブローで球を捉えることが出来るようになる。 6.これでシングルプレーヤーやプロに限りなく近づくであろう究極のスイングが成ります。其のイメージの構築こそが其の事を可能ならしめるのです。
注意点ードライヴァーショットでも本質的には同様のスイングイメージで球を打っていきます。然し若干左寄りに球があり、しかも ティーアップされて球が浮いて居るので球を体全体で動かすイメージを若干加工する必要がある場合もある。私の場合はティーアップされていない球の真下の方からティーアップされている球を体全体で動かすイメージを持って球を打っていきます。それでもってドライヴァーショットでもシングルプレーヤーやプロ並の球筋が放てるようになります。
其の球を動かすというのは、体全体でもって球を捻り上げるか、又は球を横に弾き出すというイメージでもいけることかと思います。
つまり球を動かすのはあくまで体です。
手でも腕や肩でもクラブでもなく体全体で動かしていきます。
そして其の事こそがバックスイングを行うということになる。
或いはアドレス時には体と球が繋がって居ると考えてみて下さい。
両者が見えない金属製の糸で繋がれて居るのだと。
其の金属製の糸で繋がれた球を動かすのは体である筈で、クラブなのではないのです。
だからつまりは全体打法です。
体全体で球を動かし打つということ。
まさしく全体論での打法です。
そしてすなわち体が動くと球も動く筈なのです。なぜなら体と球は針金で繋がって居ます。そのようなイメージで実際には微動だにしない球を打っていくと正しく当たるということを言って居るのです。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1568回) ..2013/12/05(木) 12:11 No.4646 |
 |
之は様々な部分論の打法での視野狭窄を正しく除いて、ゴルフに於けるスイングの完成に至らしめるイメージそのものです。
まさしくゴルフスイングに於ける明知が其処に得られます。
このことを確りとイメージすることが出来れば、体がどう動こうが球は其の動きに連動して動こうとする訳です。
ところが体が球を動かそうとして動いても、 実際には球は其処に止まったままあり全く動いていません。
つまり其のイメージ上の球の移動と実質上の球の静止との差、其のギャップ、其の差異こそがバックスイングとなり其れが球を飛ばすエネルギー源になるということです。
そうしたギャップを最大に保つ方法がこの打法の本質の部分です。
其の本質に於いてこそ、おそらくは上級者やプロは完璧に近く球を捉えることが出来て居る筈です。
逆に言うとアマチュアゴルファーはスイングに於いて其のギャップをほとんど保てずに居ます。
其れが余りにも不完全なのでまともに球を捉えることは出来ない。
いつまで経っても、たとえ百年経っても其れが出来ない。
アマチュアゴルファーが普通考えるように、球は静止させていて、其れを狙って自分が動いて球を打つのでは無い。
むしろ球を動的に動かしていく必要があり、 其れは金属製の糸で繋がれた球を体全体でもって移動させていくイメージである。
そのようにすると体と球が連動して動くようになり、だからインパクトでも正確に球を捉えられるようになる。
のみならず其のように体を動かすとバックスイングの位置が正しくなるのでダウンスイングでは何も考えずただ振り下ろすだけでクラブのシャフトが立った状態で球を捉えることが出来る。
クラブのシャフトが立った状態で球を捉えることが出来ると、アイアンショットでは正しくダウンブローの打ち方が出来るようになり其れで結果的に打球にはバックスピンがかかり球を止められるようになる。
そして何球売っても大体同じところに球が落ちるようになる。
またロングアイアンやドライヴァーショットでは球筋が安定し尚且つ球が捕まった重い弾道を放てるようになる。
ゴルフスイングに於いては、以上のことがすべてです。
最後にひとつだけ付け加えると、此の打法で沢山球を打つとかなりに首が痛くなります。
つまり正しいバックスイングを行い首、又は背骨の辺りが固定された状態で動いていない、つまり確固としたスイングの軸となって居るので其処に負担がかかり痛くなるのです。
ですが之は正しい打ち方をして居るという証拠のようなものなので仕方がないことなのであります。
くれぐれも、球は止めておいて打つのでは無く、球を体で動かすようなイメージでもってして打つものである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1569回) ..2013/12/06(金) 01:11 No.4647 |
 |
職人技というものは、此の世界を実質的な、或いは実体的な世界と見做して行なっていくものであろうひとつの現実迎合の様でもまたある訳です。
其れは哲学や宗教の世界でのように世界の在り方の定義を観念的に構築していく行き方とは本質的に異なる世界なのであります。
そして私の印象では、ゴルフスイングに於ける技というものは確かに其の現実迎合の技であるかのように見えた。
其れもかなりに高等な部類での現実迎合の技である。
何故なら単に真っ直ぐに、そして遠くへ球を飛ばすだけのことであるなら其れは試打マシーンの方がずっと優れて居る筈です。
たとえば機械の調節で、真っ直ぐに400ヤード飛ばすことなども簡単に出来るのですし、ホールインワンにしたってアイアンで一万球位打たせてみればおそらくは人間よりも遥かに高い確率で達成されることでしょう。
つまりゴルフをやるには、元々マシーンの方が向いて居るのだし、其の逆に人間の体はマシーンとは全く違うのだからそんな風にいつも同じようには打てやしないのであります。
が、マシーンは心が無いのでゴルフをやりたがらない。
其の逆に人間はゴルフの楽しさが良く分かるからゴルフをやりたくて仕方がない。
そして楽しいからこそ、もっとゴルフが上手に出来るようになりたい。
実際ヘタクソだと球を打って居てもちっとも面白く無い筈です。
それで下手な人程練習場では球を打ち込まず、ぶっつけ本番で酒を飲みつつ皆と楽しくゴルフをするということになる。
まあ其れは其れでひとつのゴルフの楽しみであることは認めます。
どだい此処日本ではかってゴルフが組織内に於けるコミュニケーションの場であったり、また仕事の上での接待の場ともなって居たのであります。
だから其れは其れで良いのですが、職人技を磨く場としてのゴルフの道もまたあって然るべき筈なのです。
そして幸か不幸か、私の場合はたとえあったとしても前者の誘いはすべて断り後者のゴルフのみを追求し続けて来たのであります。
だからいかにも現実迎合的に、道具などもすべてプロモデルで揃え、其れ等を使って本気でプロの球筋を打ちたいと、ただそれだけを念願して一心不乱に球を打ち続けて参りました。
つまりは観念ではない部分で其のようにやって来て居る訳です。
だからこそ其れが職人技だと言って居るのです。
そうした観念では無い世界というものは、観念性の強い人間にとっては一種の救いの世界のようにさえ思われるものなのです。
実際観念の世界にばかり生きて居ると知らず知らずのうちにまるで病人のようにさえなって仕舞います。
対して何も考えずただ球を打ち続けて居ると体が程よく燃焼して実に爽快な気分となります。
そして之こそがスポーツの効用ということなのでしょう。
其の現実迎合の上での。
ですが、先にも述べて居るようにゴルフスイングの完成は職人技ですので職人的に堅固なイメージを創り上げていく必要があります。
其れは観念的にスイングについて考えるということではなくして、現実的にイメージを構築していくということです。
其れではもう一種類の究極の打法について以下に述べておきます。
私とていつ病気で倒れるか分からず、またいつゴルフが出来ない境遇に追い込まれるかも分からず、さらに言えばいつ大地震が起こりゴルフどころではない日本国になるものか分かりません。
だから兎に角今のうちに述べておきたいのです。
さて先回全体打法というものに関して述べました。
其れとは別のもうひとつの打法は其の全体打法の部分版のもので、要するにもう少し分かり易い具体的な部分イメージでもって球を打っていく打法のことです。
こちらの方がイメージの持ち方としてより簡単なので或いはこちらの方がより役に立つことも考えられますので一応述べておきます。
球を動かすという其の大前提としてのイメージは全体打法と同じですが、其の球の動かし方を少々部分論の方に戻してあるのでより分かり易いイメージで球を打つことが出来るのです。
1.体の前に置いてある球を上方に動かすイメージを持ちます。 2.其の時に、全体打法では体全体で球を動かしますが、此の打法では両肩でもって球を動かしていきます。 3.すると全体打法と同様の正しいバックスイングが成り、其の打球に於いて上級者やプロ並の飛距離と正確性が得られます。
1.について。 私の場合は球を真上に動かしていくイメージでやって居ます。ですが真横に動かしていくイメージでも出来るのではないだろうか。先の全体打法のところでも述べておりますが、球は上へ動かしても横へ動かしても、何せ針金が体と球の間にあるのでどう動かそうが連動して動いて正しいバックスイングが出来上がるのです。また体型などの違いもあるため、球は上方へ動かしてアップライトなスイングとなっても、または側方へ動かしてフラットなスイングとなっても良いのだろうと考えて居ります。
2.について。 体全体で球を動かすことよりも両肩で球を動かすというイメージの方がより分かり易いです。其の場合に、両肩でもって止まって居る球を引っ張り上げるという感覚で行うとまたさらに分かり易くなります。 或いは両肩でもって、地面に接着してあるゴルフのボールを直に引き抜くとでもいうような感じでしょうか。ただしこのことはあくまで直にです。手や腕やゴルフクラブは必要ありません。其れ等は無いと思っておいた方が良い。 両肩で直にゴルフボールをつまんで上へ引っ張り上げるというような感覚です。
3.について。 私の場合ゴルフのスイングとはそれ即ちバックスイングの完成のことだと考えて居ます。正しいバックスイングが成ると自然にクラブのシャフトが立った状態でダウンスイングが行われるため、其処で何も考えずとも正しい位置にクラブヘッドが振り下ろされ正確なインパクトが実現されるのです。 だからダウンスイングでどこを気を付けるだのどうのこうのということは全くナンセンスなことだと私のゴルフ理論では結論づけて来て居るのです。ゆえにゴルフスイングとは、要はどう正しいバックスイングを行うかということだけにかかって居るのです。
此の打法は先に述べた全体打法、全体論打法の簡易版で、もう少し部分ー肩ーに集中してよりイメージを描き出し易くしたものです。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1570回) ..2013/12/08(日) 15:00 No.4648 |
 |
尚ゴルフを30年に亘りやって来て良く思うことは、ゴルフのスイング理論に分かり易く一言で教えて呉れるものが無いということです。
其れ等では大抵は五つも十も注意点、留意点が述べたてられて居るばかりで、はっきり言って全く訳が分からなくなるものばかりです。
そして其の事がすなわち、部分論の弊害なのです。
部分論のスイング理論は百害あって一利無しで、こんなものを信奉しゴルフをやって居たら絶対に上達しません。
尚現代文明の抱える問題点についても部分論が滔々と論じられたりして居りますが、無論のこと其れなども誤りです。
そうした問題の解決に最も実効的なのは全体論的な解釈です。
ただし、此処で云う全体論というのは所謂全体主義とは正反対の概念ですので其処は是非踏まえておくべきことです。
私のスイング理論は具体的なスイングイメージだけを述べて居ます。
其れも、肩をこう回せとか、手はこう使えとか、腰はこう使え、とかそんなことは一切言っていないのであります。
或いは背骨を軸にせよとか、体の回転で打て、とかいうことも全く言っておりません。
つまり、人間は何かの技を完璧に出来るようにしていこうとする時に、其の技の完成形を分析して部分に分け、其のそれぞれの要素を単独として論じていくという方法に陥り易いものなのです。
ですが、其れは単なる部分の要素であり全体的に統合されるものとはむしろ無関係のものです。
具体的に言うと科学技術や経済原理の世界がこうした要素還元主義、分析的解釈というものに基づき行われて居るものです。
然し其れでは、全体のほど良いバランスのようなもの、其の成って居る技の全体的シルエットのようなものが見えて来ないのであります。
従って私はまず其の視野の狭い部分論を排して視野を広くした全体性を回復するという試みをあらゆる部分に於いて試みて居るところです。
たとえば万年筆に於いても、思想に於いても、宗教に於いても、そしてゴルフに於いても、其の他何でも、すべからく此の全体性を回復する試みということを個人的な懸案事項として試みて居る最中です。
其の方が正しい方向性、即ち明知の方向性であると感じられるからこそそのように考えかつ行動して居るのです。
其れはひとつの思想としての方向性である。ひとつの哲学のようなものである。
だから私のゴルフ理論もまた全体論なのです。
其れが今年ようやく完成したということなのです。
尚、80年代から90年代にかけて私は実に様々なゴルフに関する雑誌や書籍を購入してゴルフスイングの研究を進めて居りました。
一般誌から高級誌まで、またプロの書いたあらゆるスイングの理論書まで、沢山のゴルフのレッスン書を読んで逐一其処に書かれて居るスイング理論を学んでみました。
然しながら、其れ等から真に学べたということはついぞ無かった訳です。
部分的に為になる要素はあっても、コレというひとつのスイングイメージを得ることは出来なかったです。
そして其れ等は常に複雑でした。
兎に角ややこしい。
ゴルフスイングに於ける本質を一旦解体して仕舞って其の部分、部分について述べて居るので具体的に分かりにくい訳です。
私は其の複雑性こそがゴルフを分かりにくいものにして居る筈だと思い、ある時からそうした情報をすべて遮断することにしてみました。
丁度自然について現代人がたとえば山登りの装備とかキャンプ道具とかそうした部分のアイテム=モノ的な部分から入ろうとするとむしろ一番大事な山という一種の聖域に対する心構えといった心の中の部分をおろそかにして仕舞う事と同じで、つまりはそうしたモノ的知識に頼って山へ登ったりすると雪崩に遭い多くの人が亡くなって仕舞ったりもします。
だからそんな細々した知識などはむしろ不要で、もっと大きく物事を捉えてまず精神論の方から自然との付き合い方を学んでいくべきなのです。
ゴルフの方でも丁度そんなようなもので、外部から情報として与えられる知識は結局自分の外側を衛星の如くに回って居るほどの知識にしかならないのであります。
ゆえにゴルフに於ける真実、本質は自分で創っていくべきです。
全部自分で、一から創っていくべきなのです。
そうすると、運動神経が凡人の人の場合には20年位はかかるであろうという話です。
先回までに述べた私のスイングイメージの理論は、其の事を実際にやって創り上げたもので外部の情報から盗作をしたものではありません。
其処での全体のイメージは、ひとつになります。
頭だの背骨だの腰だの肘だのと、部分的に分けられて複雑化されてなど居りません。
ゆえに分かり易いです。
ゴルフスイングに於ける留意点はひとつだけ。
結局其れが究極のシンプリティなのです。
どだい、下手くそな凡人のアマチュアゴルファーが、同時に幾つもの点に気を付けてスイングすることなど不可能なのです。
凡人というのは、皆、馬鹿です、馬鹿。
凡夫は馬鹿だと仏教が諭すのは全く本当のことで、兎に角全部馬鹿です、馬鹿。
其のバカがプロ並みに球を打とうとしたら、もし其れが可能なことだとするならばひとつのイメージだけでのみ其の事が達成される筈です。
其のイメージとは、
球を動かす。
コレです。
球は動かないと思われて居るアナタ、今こそ其の固定観念を粉砕していかなければなりません。
いや、無論のこと球は止まって居て動く筈ありませんのですが、動かすようなイメージで振るとスイングが正しく行われきちんと当たって呉れるものなのです。
球を動かすようなつもりで始動して、実は其の後は体の方だけが動いていくのです。
其のようにスイングをすると正しいバックスイングが完成すると言って居るのです。
そして常識的な知識に頼るな。
知恵は自分で創り上げるものである。
ゴルフに於ける知恵=明知もまた然り。
万年筆が好きな方の中には医師や弁護士、或いは学者の方々や教師の方々が実際多く居られます。
そんな方々はゴルフの方も好きだという方も多いので私は此処にこうしてゴルフの話を書き継いで来ました。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1620回) ..2014/03/01(土) 23:36 No.4709 |
 |
近頃此の近代という時代の価値観とは一体どこに突き動かされて拵えられて居るものなのだろう、といったことを良く考えます。
其れは結局利己的な価値観、謂わば本能と言っても良いようなことなのではないか。
無論のこと其の時代の価値観に抗うことなどは出来ない訳です。
もっとも詩人の加島 祥造先生のように其れに思い切り抗って田舎生活をし、かつ其処で詩を書いたり絵を描いたりといった文人生活を営んで居る方なども居られます。
或いは此の私のように、元よりタダの自称詩人に過ぎないのだが其れでも本気で時代や人間と格闘して居るという自覚のある人間も結構世間には居られるようです。
尚私が最も疑問に思うのはより良いことだとされて居る筈の近代的な価値観の上で社会が進んでいくと何故次から次へと問題が噴出して逆にダメな世の中になっていって仕舞うのかということなのです。
また其のことは単なる物質の領域のことでもはっきりと成り立って居ることです。
たとえば万年筆は百年前、五十年前の物よりも今の物の方がずっと良くなって居るであろう筈なのに愛好家の間などではそうは思って居ない人の方がむしろ多い程である。
とは言え現代の万年筆、現代の万年筆以外の文物、現代の藝術、現代の宗教、現代の政治、現代の思想といったことがまるっきりダメだという訳では無論ない。 まるっきりダメなのではないのだが部分的にかなりにダメになりつつあるということはある。 そしてそういうのは感の鋭い人ならいまや誰でも分かって来て居る。
たとえ大衆レヴェルでも感の良い立派な方々は大勢居られますのでそうしたことはスッカリ分かって来て居る。
されどそうしたダメさ加減を声高に批判して来て居るのは矢張り学者の方々や作家の方々ーまたは他の分野の藝術家の方々ーであることがほとんどである。 つまり大衆というのは自らが声を発するものではないということです。
分かって居ても言わないのが大衆で分かって居ることを正直に述べていくのが作家や詩人の領分であるということなのです。
かっての私は自分の中のそうした大衆的な部分に嫌気がさしていて、そうした部分を極力排除していくことを生きる上での重要な目的のひとつに置いて居ました。
然し私よりもより大衆的である大学のS先輩の生き方を見るにつけ、僅かづつですが其の考えが変わって来つつあります。
S先輩とは此の二年くらいの間に様々なことを議論し、其の様はまるでかっての大学のゼミにでも戻ったかのように真面目なものでした。
先輩は今私のことを自分よりは聖の方向性のある人間だと思って居るようで、半年くらい前には面白い漫画があるといって『聖お兄さん』という変な漫画を持って来て其れを私に読ませたのでした。
聖お兄さんというのは仏陀とキリストが人間界に降りて来て一緒に生活するという一種のドタバタ宗教コメディーみたいな漫画で馬鹿らしいといえばかなりに馬鹿らしいのだが漫画のモチーフとして聖人を取り上げて居ること自体は至極真面目なものである。
馬鹿らしいが意外と真面目、というのが此の作品に対する私の感想なのです。
ただ、聖というのは基本的に生きて居るということではないのです。
仏陀はかって真理を悟り決して生まれないものになって仕舞われた訳なのですし、イエスキリストは人類の原罪を担い神の子としてあの世に召されやがて復活する時を待って居られます。
つまり生きて居ないということこそが聖なのです。
生きて居ない程に清いものこそが聖である。
ちなみに聖の反対の概念は俗ですが其の俗ということは此の世に於いては意外と尊いことなのです。
生きて居るものは皆俗で俗でなければ生きられないのですから俗であることは此の世では何より尊いことです。
聖というのはあくまであの世であるとか、神の領域であるとか、或いは仏の世界であるとか、そうした部分に置いて意味を持つ言葉なのではないだろうか。
尚昭和の初めにあの芥川 龍之介が自殺しましたが、つい先日其の遺書を青空文庫の方で読み返したりして居ました。
すると彼がその頃或る概念について著しいコンプレックスのようなものを感じて居たであろうことが良く分かった。
畢竟其れは自身に乏しい生活力であるということだった。
生活力即ち俗人の生命力のことです。
本能的な生命力のこと。
其れが自分に欠けているか或いは弱まりつつあることを芥川は何より自覚して居た。
僅か数人しか入れないとされていた東京帝大の英文学科に合格し其の後も理知的で優れた文学作品を書き続けた芥川が到達した境地に於ける感懐が実はそんなものに過ぎなかったのです。
ひょっとしたら芥川は自分の文才や理智の鋭さと引き換えにただの生活力が欲しかったのかもしれない。
本能力、しぶとく世を生き抜いていく力、彼の信奉した藝術至上主義とは対極にある動物力のこと。
尚、私の場合も元々其の動物力が弱いので実は困って居ます。
芥川の半分以下、いや三分の一以下、いや十分の一以下の学力、理智力しか私にはありませんが先輩に言わせるとどうも聖の方の匂いが強いので私も俗人の方向性を向いて居ないのだそうです。
其れで私は何とか先輩の俗な精神を是非学び取ろうと思いある意味で必死なのですがーつまり生き残ろうとしてー、そういう努力を続けていくことが矢張りどうしても苦痛になるのでどうしても美術館や宗教や文学や哲学やら、そうしたものの方向を向いて仕舞う訳です。
とまあ、聖なるものにとって一番理解し難いことは実は俗の領域のことで、そんなことはかって谷川 俊太郎氏も述べて居られたように思います。
結局私が何を言いたいのかというと、俗世間に於ける様々な人間の努力は聖なる境地の方向性から見ると泡沫の如き無駄骨、無駄なあがきのようにしか見えないがこと現実の世界では其れは最も重要で価値のある行いであるということを言いたかったのであります。 そして純粋な意味では聖性は現実世界に顕現し得ない。
聖なる世界とは確かに存在するものですが純粋な意味では其れは現実的な影響力を持つものではないということです。
聖なる世界とは現実的に宗教の世界が最もそれに近いものであり、次いで藝術の領域が其処に関わって居りますが其れ等の世界に交わったところで生活力即ち動物的生命力が磨かれるという訳ではない。
むしろそうしたものが次第に薄れていきやがては消えていって仕舞う。
感性が研ぎ澄まされかつ理知的な観念世界に長く住して居るとプチ芥川 龍之介にでもなって仕舞いかねない。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1624回) ..2014/03/08(土) 23:40 No.4713 |
 |
さて先輩に言わせると私は観念性が強い割には存外常識的な人なのだそうだ。
いつも突飛なことを言っているようで居て話の内容に筋は通って居るので非常識な人間ではないとそう仰る。
いや、そうは言われても本当は先輩にも見せて居ないより孤独な部分での私というものがあり、そちらの方は所謂俗人の先輩と話をする位では決して癒されないからこそたとえば藝術至上主義の方だとか、或いは万年筆だの鉱物だのといったそれよりは現実的な趣味の方で騙し騙しやって居る他はない。
ところが万年筆はものを書く道具に過ぎないのだから結局観念性ということと無関係では居られず、従って其の世界は其の世界なりに疲労のようなものが残るような気がしないでもない。
が、鉱物の世界はそれ自体が本当に森閑とした世界で、つまりは其れが言語世界の埒外にあるものなのだから言ってみればそも其処では疲れも何も無いのである。
つまり私が心の深いところで一番癒されて居るのがおそらくは鉱物の世界なのである。
だが本当の本当は家族や猫たちに一番癒されて居て、物言わぬ石たちには本質的には全く癒されて居なかったということもあり得る訳で、そうなると私を本当に癒して呉れるものが何かということが全く分からなくなって仕舞うのではあるが、ただ、石たちはどうもいつも私の精神がかなりに不安定になったと思える時に限って必ず目の前に登場して来る。
そんな頭の方がヤバい時には必ず自分で机の上に石を並べてずっと眺めたりして居るので矢張り石共が私の精神ないしは心に何らかの癒しの波動を送って居るのであろうことはまず間違いないことなのである。
其の石の代わりにたとえば花だとか、或いはコスタボダなどの西洋の美しいガラス瓶ー無論のこと金さえあればアールヌーヴォーのガレやドームの作品の方が余程に欲しいところながらーなどを置いてみても良いのではあるが、花なんぞはすぐに萎んで散ってしまうのでそれこそ諸行無常の最たるもので逆に見て居て悲しくなって仕舞うのであるし、ガレやドームにしてからもがたとえ其れ等を得たにせよ実際我が家の方がこんなにボロでは元より似合わないのかもしれないのだしでどうもそう簡単な話ではない。
そうなるともう石しかないのではないか。
石、其の石、綺麗な石ころたち。
然し待てよ、そう言えば石はあの宮澤 賢治の専売特許の分野ではなかったか。
曰く、石コ賢さん。
嗚呼、そういえば宮澤 賢治と鉱物の関係を述べた良さそうな本があった筈だったが其の本を買うことをスッカリ忘れて仕舞って居た。
もう二年位は忘れて居た。
ところで緑柱石という石は私にとって特別な鉱物なのである。
Wikipedia-緑柱石 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E6%9F%B1%E7%9F%B3
緑柱石は宝石となる石の中でも特に価値のある鉱物種である。
例えば私の大好きなエメラルドなどは此の緑柱石の中で宝石質透明の緑色の石を指すのである。
またアクアマリンという青い宝石も有るが、之もまた緑柱石に属する石である。
さらにヘリオドールやモルガナイトといった宝石もある。
もう一つ、レッドベリルは特に美しい赤いベリルで米国でかって産出し今でもイーベイなどには原石が結構出品されて居たりもする。
http://www.ebay.com/sch/i.html?_nkw=Emerald-Beryl+Crystal&_trkparms=65%253A12%257C66%253A4%257C39%253A1%257C72%253A2523&_psize=3&_trksid=p3286.c0.m14
イーベイのエメラルド原石の方はかってはコロンビア産の良い石が結構出されていたと思う。 然し今回久し振りに覗いてみて驚いた。何と中国産ばかりである。 数年前からヤフオクなどでも中国産が目立つようにはなって居たのですがここまでになるとは予想出来なかった。
中国産は色の方は良いのだけれど、透明度の高いのが少なくかつヒビが多いということがいまひとつである。 でも中国のどこかでエメラルドが採れるということはここ日本からすると全く羨ましい限りである。
http://www.ebay.com/sch/i.html?_sacat=0&_from=R40&_nkw=Red+Beryl&rt=nc&_dmd=2
レッドベリルは確か米国でしか産出しない宝石で以前からイーベイには時折素晴らしい原石が出されて居ますが当然ながらそうした石は大変高価なものとなる。 レッドベリルの良品をひとつだけで良いから得たいのだけれどなかなか実現しない。 矢張り高価な宝石であることが最大の入手しにくい理由となって居る。
エメラルドやレッドベリルは凝り始めるとまさに身上をつぶすこととなる。 原石でも良質な物は当然にお高いので万年筆の収集は我慢してこちらに専念する位でなければ手に入らない。
やっぱり共に欲しいのだけれど、私の場合これまでは安物ーなるべく五万円以下ーで我慢して来て居る。
勿論それでもそこそこは楽しめる。
http://yahoo.jp/box/ivnMEf
然し緑柱石の収集で一番楽しいのは海外産ではなくて国産の緑柱石を集めることである。
それも私の場合はまず地元に近い中津川周辺産の緑柱石を集めることに力を注いで居る。
とは言っても、実は私にとってまだまだこれからの分野なのである。
国産の良質な、しかもある程度大きさのある緑柱石を集めることはかなりに難しい。
なかなかそんな売り物には遭遇しないのである。
然し画像右の福岡鉱山産のものは昨年ようやく得たもので大きさもありかつ透明度もあるのでとても気に入って居る。
もっともそれ以前から屡ヤフオクには出品されていたのだったから真面目に応札しておくべきだったのかもしれない。
そう思わせる程に福岡鉱山産のものは思った以上に良かった。
ちなみに福岡鉱山産の緑柱石は絶産してすでに久しい。
http://yahoo.jp/box/AvNt0u
こちらは今回得られた佐賀杉山産のアクアマリンの美しい標本である。
ヒビは入って仕舞って居るが青の色合いがとても美しい。
大きさもあり見栄えの良い石である。
ただし裏面はガサガサして居る。
右の方はかって得た母岩付きの標本だが結晶の色と大きさはいまひとつ。
ちなみに佐賀杉山の方もすでに絶産となり採集はもう出来ないのだそうだ。
其のような訳で絶産の続く国産の宝石系鉱物の未来は無いが逆に言えばこれまでの石に俄然価値が出て来るという楽しみもまた有る訳である。
だから此等を愛でることで癒されてそして同時に稀少価値という余韻にひたることが今後は大いに出来ようというものなのだ。
緑柱石とその仲間達 http://blogs.yahoo.co.jp/tgcberyl/45913981.html
何とこちらにはこんなにも美しいアクアマリンの良晶があった。 これぞまさに国産宝石としてのアクアマリンなのである。 然しこんな素晴らしい石はもう何処にも無い筈である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1631回) ..2014/03/16(日) 23:52 No.4722 |
 |
今朝のサンデーモーニングで出演者の一人である浅井 慎平氏がとても印象的なことを述べて居られました。
曰く、今は何でも其の時々の成功だけが大事な世の中になり人間の内面性、内面の深みのようなものが失われて仕舞って来て居る。
とその様なことを述べられていたのが私にはとても印象的なことだったのです。
というのも其の意見はいかにも藝術家らしい考え方だと思ったのです。
慎平氏とは分野は違いますが私自身も文の人の端くれとして其のようなことをいつも此処で述べて来て居た筈です。
Wikipedia-浅井 慎平 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%85%8E%E5%B9%B3
浅井 慎平氏は名古屋市出身で、公立高校では最も入学の難度の高い旭ヶ丘高等学校ー昔は確か旭丘ではなく旭ヶ丘と書かれて居た筈ーを出られて居ますからこれはもう大変な秀才の方です。
此処は私などはとても入れなかった学校なのですよ。実際中学校の通信簿がオール5程度でないと行けない学校なのですよ。
多分東大や京大などへもいままでに大勢行って居るであろう高校の筈です。
さて慎平氏は現在大阪芸術大学大学院教授で俳人でもあるんですね。 なる程、この方はまさしく名古屋が生んだ高名な文化人の方です。
面白いのはWikiの方にもある通り、雲を見ることがお好きで少年時代には化石に興味があったのだという。
名古屋からもそう遠くはない岐阜県の瑞浪というところでは化石が出るので愛知県人は皆子供の頃に其処へ出向き化石の採集をして来るのです。
其れで化石だの鉱物だのにハマる人が結構多いのですよ。
さて現代文明が抱える闇の部分は相変わらず深いものがあります。
慎平氏のような藝術家ー作家や詩人を含むーや一部のインテリ層には其の闇の深さが実感されて来て居る筈ですが、大衆レヴェルでは其の事は見えて来ず相変わらず大きな疑問を持つことなく日々を暮らしていって居る訳です。
私は自身が詩人であると同時に一般大衆の一人でもある訳で、そうした特殊な半々人間ですので何故か両方での見方が分かるというこれまた不思議な視野、思考を持ち得て居る人なのです。
それで、詩人としての私には現代文明は行き詰って来て居るから何か世間に対して言っておかなければならないぞという其の思いから文明批判のスレッドを此処で始めてみたのであります。
其れで私は自分の中の大衆的感覚と格闘しながら其れに対し叱責するつもりでサア、今だ、今こそ目覚めよ、などと自分自身に言い続けて居たのであります。
然し、大衆性というものはそうした理念のようなものでは決して動じないものなのでもあります。
ただし元より現代の大衆とは馬鹿では無い筈なのです。
義務教育の普及で文盲などは先進国では居なくなり、そればかりか其の何割かは高等教育をシッカリと受けて来て居ります。
のみならず自分で考えた意見を確りと持って居る人さえもが居られます。
そうではあるのですが、現代の大衆には恒常的に現実を理念化ー観念化ーして生きられないという一種の哀しみがあるような気がしてなりません。
なぜなら実際に大衆の一人として生きて居る私は兎に角とても忙しいのです。
毎日毎日兎に角忙しくて一体何をやって居るのや分からなくなるようなことさえあります。
ーその上で自称の詩人もやって仕舞って居る為さらにさらに忙しくまさに此の一分、或いは此の数秒の時間さえもが惜しいことすらもある。ー
こうして此処で悠長に文など作って居るように見えて実はかなりに忙しく、たとえば此の文も練りに練って作ったものではなく其の場限りに浮かんだものをそのままにキーボードを打ち言語化して居るものであるに過ぎない。
実際今日私は矢張り忙しく、午前中にカインズで生活必需品を色々と買い込んでまいりましたし、 其の後さらにスーパーで食料品なども買い込んで参りました。
しかも其れを自転車でやって居るのでなかなか時間がかかりまた体力的にも大変だ。
然しながら其の自転車での買い物は車での買い物よりも実は楽しい。
たとえば本日のように春めいた暖かな日ですと風を切って自転車に乗ること自体がとても楽しいのです。
歩道などにも色々と香り高い花々が植えられて居るのだし、あれ、あんなところにもうモクレンの真っ白な花なども咲いてるじゃないの。
それでも頭の中では色々と難しい問題が渦巻いて居るのだがまあ其処は自転車に乗ってる太めのオッサンが少々小難しい顔をして自転車に乗って居る位にしか傍からは見られない。
要するに大衆の一人であるということはそんなものでもあるということなのです。
そんなものではあるのだが、あくまで大衆の一人として生きて居るだけでは此の忙しさにかまけてー本心の方がー流されていって仕舞う。
ふらり、ふらりと流されて、其の刻々の、其の瞬間瞬間に気を取られて現実を理念化ー観念化ーして居るだけの余裕が無い。
されど其の事は、何も今に始まったことではない。
たとえば封建時代の百姓にせよ足軽にせよ、皆経済的な或いは時間的な余裕が無く其の余裕の分をおエライ方々に搾取されつつ生きて行かざるを得なかったのである。
よって人間の内面性、 内面の深みのようなものの喪失を大衆性そのものへの責に帰すべきではない。
其れは矢張りあくまで社会の問題であり時代の問題なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1636回) ..2014/03/23(日) 17:29 No.4727 |
 |
http://yahoo.jp/box/jM4Lu7
芽吹きの季節を迎え植物達が一斉に緑の衣を纏い始めた。
そして存在するものが真に美しいと思える時は此の季節に限られて居る。
散りゆくもの、去りゆくものも常に美しいが此の芽吹きの時ほど美しいものは他に無い。
されど此れ等緑の新たな生命の内側にしかとたたまれた矛盾としての命の業の深さが其の美しさに必ず翳を添えて居る。
其処では生まれるものは必ず滅びまた生まれまた滅びしてと愚かなことを繰り返す。
無論のこと其れは美しいことを繰り返すのだが愚かなことをそうして繰り返して居ることでもある。
ちなみに私は山椒が好きで毎年庭の山椒の若葉を食すことを密かな楽しみとしている。
どこかで買って来た粉山椒なども好きだが其の生まれたばかりの命を奪うのが何よりの楽しみなのである。
はて何という哀しみなのだろうか、生きるということは。
http://yahoo.jp/box/su40ji
http://yahoo.jp/box/EDuhjQ
数日前家の近所で木蓮の花が今を盛りと咲き競って居た。
真っ白な花なのでいかにも私好みなのだが花の寿命が短いのが少しだけさみしい。
それでもこんなに美しく咲くことの出来るのは木蓮の花の花としてのこころねがよほどに清いからなのだろうか。
ちなみに私が住む地域には木蓮の花が多い。
私が通って居た小学校の校歌の歌詞は「もくれんの花さきて 静かなるおかの上」で始まるのである。
http://www.yatomi-e.nagoya-c.ed.jp/kouka/kouka.htm
大人になってから私は古今東西の詩などを沢山読んでみた覚えがあるがこんなに美しい情景の浮かぶ詩を読んだことはついぞなかった。
どうも一番美しい詩は何かと問われると今でも「もくれんの花さきて 静かなるおかの上」というあの小学校の校歌の歌詞の最初の部分になって仕舞うのである。
元より其処には普遍性など無いのである。
個別的で限定的な幼い頃の思い出が其処にしかと刻まれて居るばかりなのである。
然し生きるとはそうしたことなのではないだろうか。
謂わば普遍も継続も其処には無い。
其処で個別での限定の運命を生き個別での限定の運命を死するのではないか。
其れが生のすべてであり、元々其れ以上はないということなのだろう。
http://yahoo.jp/box/YOQ6NJ
http://yahoo.jp/box/4ungF5
今年は蝋梅の花が結構長く咲いて居た。
此の写真も丁度一ヶ月前位に撮ったものだがこうしてまだまだ立派に咲いて居る。
私にとって蝋梅の香りは生の体積を全体的に何故か感じさせて呉れるような香りだ。
生の重い方と軽い方の側面の両方がある香りだとでも言えば良いのか、兎に角そんな両面性のある香りなのである。
尚物凄く良い香りというのは実は臭みの成分が混じって居るということをどこかで聞いたことがある。
たとえば浴用剤のバスロマンにはジャスミンというのがあるが、此れは非常な芳香であると共に場合によっては少し癖があり臭くも感じられたりする。
蝋梅の花の素晴らしい香りにもどうもそんなからくりがどこかにあるような気がしてならない。
尚先程言い忘れていたが木蓮の花の香りはこれがまた実に上品な淡い香りでしかも花の寿命からして刹那に薫るのであるから此れは余程に上等な花の香りである。
謂わば桜のように俗な花では無いから少数派を気取って香りを楽しんで居られるのが何よりよろしい。
ただしバスロマンには桜の香りのものもあり其れも私は嫌いではない。
http://yahoo.jp/box/sQJzQR
http://yahoo.jp/box/usBs3m
此の三年か四年ばかり、写真を撮るのが好きになり色んなものを撮影してみたりして来て居る。
私は写真がむしろ嫌いで、其れが生の部分解体、或いは部分の保存の様のようにも見えるので兎に角嫌いだったのである。
然し三、四年前にふとさみしくなり雲の写真などを撮るようになった。
其れから草花の写真なども多く撮った。
元よりカメラが安物でしかも三脚がないのでむしろ感性だけで写真を撮るのである。
其れは感性以外には助けて呉れるものが何も無いということだろうと思う。
道端などに生えて居る草花などを撮ることも多い。
此の写真のようにグミの実のような感じの美しいものは勿論好んで撮る。
然し野原に自然な状態で咲く小さな花という余りに侘しい撮影対象なので写真の通の人にはなかなか理解しにくい写真なのかもしれない。
最近私はこうした身近な草花の写真こそが好きで、こうしたものをパソコンの壁紙に使って居る場合も多い。
都会ではこうした身近な自然の風情を感じ取ることがもはや不可能に近くなって来て居る。
だからこそこうしたいかにも自然な草花の感じが出て居る写真が一番好きなのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1637回) ..2014/03/26(水) 23:49 No.4728 |
 |
パイロクスマンガン石結晶標本 http://yahoo.jp/box/PqRMqg
画像左側の石は普通見られる板状の結晶ではなく非常に分厚い結晶となって居り見た目の感じでは歪な六角形で一辺が一センチ位はあるように感じられるものだ。
此れは十年程前に神戸の鉱物標本の専門店から取り寄せたものでこちら愛知へ里帰りしたという形でのパイロクスマンガン石である。
一センチ程度の結晶でも此れ位の厚みがあると矢張り可成に大きく感じられるものだ。
私の持って居る標本の中では其の量感に於いてNo.1である。
ただし結晶の長さの方では他に二センチ近い物もあるのですが。
ちなみに神戸は港町で元々西洋趣味が進んで居るのだろう、鉱物趣味などが盛んなようで色々と良い石を扱って居る専門店が多いようだ。
鉱物、研磨した宝石共に良い石が集まって居るようだ。
鉱物趣味は元々西洋の貴族階級の趣味なので神戸や横浜には愛好者が多いのかもしれない。
そう言えば昔ヤフオクで良く海外産の宝石鉱物を買っていたことがあったのだが、其の時の出品者も確か神戸の人だったのだ。
また大阪にもヤフオクでの鉱物の出品者が多いようだ。
私の以前の石仲間も大阪の人だから大阪人にも結構鉱物趣味の人が多いのかもしれない。
右側の石は劈開片のように見えなくもないが矢張り結晶なのだろう。
此れは地元の専門店で入手した覚えがある。
安い石なのですが大きさがあり悪くはない。
尚何故だか知らないが札幌などにも鉱物標本の専門店が集まって居るようだ。
札幌周辺にも鉱物が好きな人が多く居られるのだろうか。
或いはそんなこととはまるで異なる理由でそうなって居るのだろうか。
パイロクスマンガン石の良い標本を夜電灯下で密かに愛でて居ると非常に心が癒される。
ルビーの赤とはまた違った深い赤色をした美しい石である。
TC国産鉱物 愛知県産 田口鉱山パイロックスマンガン石結晶立ち http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r112304546
写真だけでは判断出来かねますがどうもそんなに大きな結晶ではないようである。
http://yahoo.jp/box/I5fVq9
先程ノーブルオパールの遊色ー輝きの部分ーを撮影してみました。
流石に美しいです。
ちなみに此の標本は私が15年位前に棚山高原で採って来たものです。
ところが当初此の遊色の存在が分からず、十年位は家の庭の石捨て場に捨て置いてありました。
四、五年前から其処へ親類の子供ーいとこの子等ーが来て石を拾っていきます。
其の折に一緒に子供にやる石を選んで居たところ、どうも怪しい石がある。
其れで汚れを落としてみたところ、何と光って居りました。
オパールは水に浸け込む必要があり五年程そうして居たところ、最近になりご覧のように輝きが増して参りました。
棚山のノーブルオパールの遊色は緑の輝きが最も多く、次いで青や紫が出て、稀なのが赤だろうと思われます。
此の石は矢張り緑の遊色が出て居ります。
http://yahoo.jp/box/FO9Ltm
八年位前のことかと思われますが、棚山高原へ採集に行く前に山の麓で朝の食事を済ませ休んで居たところ、渓流から引き込んだ塩ビの水の管が破れ其処から霧状に水が噴出して居た。
其の時丁度朝の光が其の霧にあたることで実に美しい虹が出来て居た。
其の様を見て本日は必ずや虹の石が採れることだろうと直感した。
採集を済ませ家に帰り石を洗って居たところどうも怪しい石がある。
もう少し良く洗ってみたところ、いきなりギラリとした強い緑の遊色が目に飛び込んで来た。http://yahoo.jp/box/dq4dLa
直感は必ずや当たるものなのである。
尚私の場合棚山高原のノーブルオパールは15年通って二つ採れただけである。
先の石と此の石の二つ限りである。
ちなみに私と同じ位の回数を棚山に通った知り合いの宝石販売業者は全く採れなかったようだ。
が、二年程前に実は採れていると急に言い出しても居るのでなるべく早く其の真偽を確かめてみなければならないところだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1638回) ..2014/03/28(金) 22:53 No.4729 |
 |
日本のアングラ・フォーク界最大のスターが岡林 信康であり、彼の名を一躍有名にしたのが以下の「くそくらえ節」である。
岡林信康 くそくらえ節 (1968)-発売禁止歌 http://www.youtube.com/watch?v=a8rVtPnKkks
『ある日学校の先生が生徒の前で説教した テストで100点取らへんと立派な人にはなれまへん くそくらえったら死んじまえ くそくらえったら死んじまえ この世で一番えらいのは 電子計算機
ある日まじめなお親父さん息子を呼んでこう言った 仕事のことだけ考えて毎日セッセと働いてチョーダイヨ くそくらえったら死んじまえ くそくらえったら死んじまえ 文句も言わずにセッセと働く機械の部分品
ある日会社の社長はん社員を集めて訓示した 君達わたスを離れてはマンズ生きてはイケナイ身の上さー くそくらえったら死んじまえ くそくらえったら死んじまえ 金で買われた奴隷だけれど心は俺のもの』
まあ、確かに今や此の世で一番偉いのは電子計算機の生み出す仮想の現実世界のことになりつつありますわな。
また、確かに今や文句も言わずにセッセと働く機械の部品のような非正規雇用の若者ばかりになっちまいましたわな。
あまっさえいつの間にやら我も奴隷、貴方も奴隷、其れもタダの会社の奴隷であることに飽き足らずカネそのものの奴隷、グローバル大国主義そのものの奴隷に成り下がろうとさえしておりますぞ。
がいこつの唄 岡林信康 http://www.youtube.com/watch?v=DQQRyvdMF6c
ガイコツの唄
岡林信康 作詞/作曲
*)がい骨がケラケラわらってこういった どうせてめえらみんなくたばって おいらみたいになっちまうのによ
だれがえらいもあるもんか どうしてそんなにでっかいつらを やりたがるのかきかしておくれよ ええとしさらしてブロレスごっこの 政治家先生
*)繰り返し
損もとくもあるもんか どうしてそんなにエゲツなく もうけたがるのかきかしておくれよ ヨダレたらくて戦争まってる 資本家先生
*)繰り返し
だれがまじめもあるものか どうしてそんなにまじめなかおして 人間やめてキカイになってる ゲップにおわれてヨタヨタあるきの 労働者のみなさん
がい骨がまじめなかおしてこういった どうせみんなくたばって おいらみたいになっちまうんだから せめていのちのあるかぎり つまらぬことにウロウロしないで だいじにだいじにつかっておくれよ 一度しかない おまはんの命
尚元々おまはんのイノチは一度しかない実にバカバカしいものだ。
そんなバカバカしい、早晩くたばることが分かって居るイノチの最中にヨダレばっかり垂らして生きて居る戦好き資本家やデカい面したプロレス政治家は其処でまさにほんたうのイノチの価値を見失って仕舞って居る。
ガイコツでさえ其のほんたうのイノチの価値が分かって居るといふのにまことに嘆かわしいばかりの世相である。
一方で労働者は消費税は上がるわ、諸々の物価は上がるわでヒイコラして居るというのに機械の部品には正当な賃金は決して支払われず給料上がったのはあくまでごく一部の大企業の労働者だけに限られて居る。
今や中小企業は火の車、消費税上がると儲けが無くなるので其の窮状を大企業に説明するが、じゃほかんとこに仕事頼むんだもんねーの一言で万事休すである。
グローバル資本主義の世では基本、中小企業の労働者は生かさず殺さず、死ぬなら死ねとは言ってはいないがホントのホントは死んでも構わん、別に俺らのたんまりある銭が減る訳でもないしーなどと思って居る人非人資本家共と経団連のおエライ方々。
だから元々おまはんらのイノチは一度しかない実にバカバカしいものだ。
山谷ブルース 岡林信康 http://www.youtube.com/watch?v=qDa4Z11bcaI
昔ー中学一、二年生の頃とても好きな歌でした。当時は良くラジオで聴いて居たものです。
チューリップのアップリケ/岡林信康('78 11 26 LIVE) http://www.youtube.com/watch?v=CoN84S98dG0
昔ー中学一、二年生の頃とてもとても好きな歌でした。之も当時は良くラジオで聴いて居たものです。
手紙 岡林信康(放送禁止歌) フルカバー http://www.youtube.com/watch?v=lPuv06Rsd8g
昔ー中学一、二年生の頃は聴いたことが無かったがつい最近此処で聴きました。何しろ放送禁止歌ですのでね。
尚根拠のある社会批判は大事だ。
批判があってこそ世の中は健全である。
現状は批判なき世の中であることが異常である。ー民主党は一体どうなったんだ?ー
特に若い世代は大いに体制批判、社会批判を行なっていくべきだ。
其れが出来なくなって仕舞ったことこそが大きな問題だ。
ただし社会が悪いからといって犯罪に手を染めるようなことは全く愚かなことである。
適法の範囲で自己に許された上での正当な社会批判でもってして世の矛盾や不条理と闘っていくべきだ。
さて岡林 信康氏 はかって同志社大学の神学部に入り元々牧師になろうとして居たような人だったのですぜ。
其れが『見てきたようなウソをコクなよ聖なる神の使者』などともかっては歌って居られました。
其の嘘コキ世の中、大嘘コキ権威、大嘘コキの神に対してのクソくらえ!が何より当時の岡林 信康氏の身上であり捨て身の批判でもあった。
『ある日 聖なる宗教家 信者の前でお説教 この世でがまんをしていれば きっと天国行けまっせ ウソコクな この野郎 見てきたようなウソをこくなよ 聖なる神の使者
ある日 アメリカのおエラ方 チェコの問題でこう言った それみたことか 恐ろしい 共産主義はあきまへんで ウソコクな この野郎 こきゃあがったな この野郎 そういうことは ベトナム侵略やめてから ぬかしやがれ
ある日 おエラい小説家 選挙に立ってこう言った 青年の国 作るため わたしゃ文学捨てたのよ 甘えるなこの野郎 甘ったれるなこの野郎 弟つれて選挙をやるなど ジジイのやることだ
ある日しわくちゃじいちゃんが 若者呼んでこう言った 天皇陛下は神様じゃ おまえら態度がなっちょらん ウソコクなこの野郎 こきゃがったなこの野郎 天皇様もトイレに入れば“紙”にたよってる』
氏は70年代初め頃に鬱を病みかの「ヤマギシズム」に傾倒し岐阜県中津川近くの山村に移り住んだのち京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始めたそうだが其れも今は昔の話である。
然し60年代アングラ・フォークの神様としての其の歌の輝きは今も色褪せないばかりかかえって輝きを増して居る様に思えるのだが、ハテ、其れは何でなのだろうか?
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1643回) ..2014/03/31(月) 23:56 No.4734 |
 |
http://yahoo.jp/box/MPGkeW -黒く見えて居る部分はネオトス石で母岩が黒い訳ではありません-
此のパイロクスマンガン石の標本は京都の西田氏が90年代の終わり頃〜今世紀の初め頃ーそれが正確にいつのことだったか、不覚にも忘れて仕舞ったーに田口鉱山の坑内で晶洞を発見し其れを採取した時のおこぼれの標本に当たるものである。
とは言っても貰ったものではなく購入したものである。
当時ー多分八年位前ー西田標本ー田口鉱山の坑内で晶洞を発見し其れを採取した時のおこぼれの標本ーがネット上で売られて居り其のひとつを私が購入したことから西田氏とのメールのやり取りが始まったのだ。
此の標本は当時売られて居た西田標本の中では中レヴェル位のものでホントはさほど大したものではないのである。
値段の方もそう大したお値段ではなく確か二万円位のものだった筈だ。
他に三万円程の物や五万円位するものが出されて居り兎に角全部で十個体程の標本が其の時売りに出されて居たのである。
今思えば、其の折に西田標本を五個体位は買っておくべきだった。
こうしたものは結局其の時にしか出ないものなのである。
然し当時はまだ万年筆を、其れも色々と高価な万年筆を買い込んで居る最中だった為資金的に余裕が無かったのである。
此の時ばかりは万年筆の方を買うのを止めてパイロクスマンガン鉱の方を是非買っておくべきであった。
が、当然のことながら其れも後の祭りである。
尚此の標本はもう少し明るい所で撮影すると結晶の輝きが出てもっと美しくなる。
そして現在では此のレヴェルの標本でも上中下の上のレヴェルのものとなるものだと言える。
何故なら田口鉱山自体が立ち入り禁止となりもはや採集出来ない産地となって仕舞ったからなのだ。
そうなのだ、あの田口鉱山のパイロクスマンガン鉱はもはや幻の石となって仕舞ったのだよ。
すると、今後世にある標本の良い物は皆一ランク位上がった位の評価がなされ値が上がっていくということが考えられる。
それから此の標本はおそらくは叩いて割って開けた晶洞からの石か、或いは其の周辺からの石である筈で、従ってズリー石捨て場ーから拾った古い石などより新鮮味がありまたより迫力がある。
ズリからの石は石が小さいこともあり余り迫力がない。
いや、其れも90年代には迫力のある石もあったそうである。
私が田口を訪れはじめた90年代後半の頃は確かにもっ大きな石がズリには落ちて居た。
然し当時すでにパイロクスマンガン石を探すことは難しくなりつつあった。
田口鉱山は全国的に名の知れた鉱物の世界では最も有名な鉱山なので此処を訪れてパイロクスマンガン石を探して居た人は当時から多かったことだろう。
然し我々は其の後坑道に入り幾つかのパイロクスマンガン鉱の良品を得た。
ところが実は其れも坑道内での捨石の中から採集して来た石であるに過ぎなかったのだ。
つまり、大昔に割られた石が落ちており其れを拾って採集したパイロクスマンガン鉱と、坑道内で壁面などの石を割って採取した石とではまるで違う石となるのである。
前者のタイプをBタイプとし、後者のタイプをAタイプとした場合に、Aタイプの方が普通迫力があることになるのは当然のことなのである。
尚、先に挙げた西田標本のおこぼれの標本は明らかにAタイプなのである。
http://yahoo.jp/box/duT7_c
そしてこちらの方に三年前に購入した私が持って居る最も良いパイロクスマンガン鉱が写って居るが之もおそらくはAタイプなのである。
何故かと言えばもしズリの方にこれだけの大きさの石が落ちていたのだとすれば其の石はマンガン成分の酸化により真っ黒な二酸化マンガンの皮膜を被って仕舞うからなのである。
従って普通良く売られて居るような田口鉱山の母岩が黒いタイプのパイマン標本はズリで採集されたものだと考えられる。
ーただし坑道内で採集されたものである可能性もないではないー
要するに、今回私が言いたかったことは、坑道内で岩を割って採取されたパイロクスマンガン鉱は母岩が黒くはなって居らず、結晶の質も良いものが多い。ー特に晶洞産のものは良いー
そしてそうした石は今後上中下の上から特上の部類へと評価されていくだろうことを私自身が期待して居るということでもある。
ちなみに1年半位前に私が名古屋鉱物ショーで得た標本も結晶の質はそれほどでもないのだが実は此のタイプの坑道内採取での石だったのである。
http://yahoo.jp/box/eR_zBM http://yahoo.jp/box/kATizk
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1644回) ..2014/04/02(水) 23:19 No.4735 |
 |
http://yahoo.jp/box/vrRxzY
さてノーブルオパールの遊色は撮影するのが難しく、これらの棚山産の石の遊色も本当は見た目での方がキラキラと輝いて居てより綺麗なものなのである。
これらの石は名古屋鉱物ショーで五年位前に得たもので、他にも三つ程何年かに分けて購入して居るものがありますが、いずれも一級品のノーブルオパールではないので此の程度にしか写らないということでもある。
ちなみに棚山産のノーブルオパールの場合、此の十年位は地元の鉱物フェアにほとんど出ては居らず、然しながら四、五年前のショーの折にとある鉱物愛好家の方がたまたま出されて居たものを私が良いのを選んで購入したもので値段の方はひとつ二千円程のものばかりである。
ネット上では、鉱物ショップの方にごくたまにそこそこの棚山産ノーブルオパールが売られて居ることはあるようですが其の値段は概してもう少し高価なようだ。
ヤフオクの方が多分数も出るし良品が得られる確率も高いのではないかと思われるのですが、其れでも良品に限れば何せほとんど出ては来ない石なので入手すること自体からして結構難しい。
ただし棚山産のコモンオパールー遊色の出て居ないオパールーはヤフオクで屡出品されて居りまたネットショップの方でも普通に売られて居たりして居る。
またノーブルオパールでもそこそこのものならばオークションやネット店に結構な数が売られて居たりするものだ。
要するに此れは凄い!と思えるような良品はなかなか出て来ないということなのである。
尚鉱物フェアの場合、東京、大阪、京都その他で毎年開かれて居るものなので其処へ出向けば或いは棚山産に限らず国産ノーブルオパールの標本が得られる確率は常にある。
ただし其の傾向はパイロクスマンガン石の場合の方がより顕著であることだろう。ー何せ其れは日本一の石なのであるがゆえー
パイロクスマンガン石の場合の方が良い標本が全国に散逸して居り関東や関西で素晴らしい標本がかって出て居たといった話を屡耳にしたりもしたものだ。
然し棚山産ノーブルオパールの場合は矢張り地元での方が良い標本と巡り合う可能性が高いことだろう。
特に九十年代の堰堤工事で産出した一級品のノーブルオパールの標本はほとんどが愛知県または静岡県の一部の愛好家の元にあるものと思われ、ごく稀に其のうちの幾つかが地元のネット標本店に出回ることなどはあるのだけれど其のクラスの標本はまずお目にかかれないものなのである。
私も一年位前だったか、たまたまそうした石を地元のネット標本店に見つけたことがあったのだが其の石はすでに売れて仕舞って居た。ー少しだけ気付 くのが遅かったー
其れは上の下程度の棚山産ノーブルオパールの標本ではなかったかと思う。一級品というのはやはり上の上の部類でなくてはならぬことだろう。
其の棚山産ノーブルオパールの上の上クラスの標本が見たい場合には鳳来寺自然科学博物館でごく稀に地元の愛好家が特別展示を博物館側から請われる場合などがあり、其の催しの折に博物館を訪れればそれこそまさにスーパークラスの標本が見られることであろう。
実際に私は七、八年前だったか、其れを見て来た。
でも見た折の其の内容を可成に忘れて仕舞った。
其れが凄いものであったことは確かだったのだけれど。
http://yahoo.jp/box/8cvxKu
http://yahoo.jp/box/_MhtHh
こちらは半年位前にヤフオクで地元の出品者ー高名な鉱物愛好家の方でとある鉱物愛好倶楽部の会長さんの方ーから購入した棚山産ノーブルオパールの標本。
堰堤工事の際の九十年代産の石なので一応は棚山産ノーブルオパールとしての上物。
ただし之も上の下である。
此の程度の遊色で何故上の部類なのかと言えば、稀な赤の遊色が出て居ることから明らかに上の部類の棚山産ノーブルオパールなのである。
其の赤い、火のような遊色は本当はもっと沢山出て居るように見え肉眼ではもっとずっと綺麗である。
特に快晴で純粋な光がふりそそいで居る時などは、遊色がより強く輝き其の様やまさにギラギラなのである。
ところが残念なことに全体的に遊色が現れて居る訳ではなく部分的にしか出て居ないので上の中や上の上の石とはならないのである。
然したとえ部分的にせよ光の強い日には強い遊色を放つので非常に楽しめる良い標本なのである。
尚画像には赤の遊色ばかりが写って居りますが部分的には緑の遊色もまた現れて居る。ー二枚目の画像に薄く緑の遊色も現れて居るー
石を見る角度、撮す角度により其れが写らず、特に此の画像は赤の遊色が強調されるような角度で撮って居る為に其れが写って居ないのである。
ちなみに此の標本は少々高価になりました。兎に角最も稀な赤の遊色が現れて居るということが珍しい。
ところで先程オークファンの方で纏めて過去三年分の棚山産ノーブルオパールの標本をヤフオクに限り検索してみたところ結構な数の標本が出品、落札されて居り少々驚きました。
私の場合はイーベイの方で万年筆の収集の方に夢中になって仕舞って居て石の方まで気が回らないという時期が結構長くありましたので其の間は余り真面目にヤフオクの方を視て居なかったということが基本的にあります。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1651回) ..2014/04/09(水) 23:28 No.4743 |
 |
http://yahoo.jp/box/O4-Dvl http://yahoo.jp/box/vEg0YN
棚山産のノーブルオパールに関しては遊色を写真にて捉えるのが難しくなかなか納得いくものとならなかったが本日何とか肉眼で見て居るのと同じように撮れたのでまず其れをご紹介して置きます。
此れは以前に地元の鉱物ショーの方で購入した石ですがこのように大変に美しいものです。
此の世には美しいものが多々ある筈ながら、是ほど美しいものもまた他にはない。
宝石というものは矢張り本当に美しい。
其れは結局金で買えるものではあるが、そうかと云って金さえあれば此の石が手に入るかといえば結局そうではない。
謂わば縁が無ければ手には入らない。
五年程前だったか、地元の愛好家が手放してショーの会場に並べてあったのをたまたま私が目ざとく見つけて手に入れた訳なのですが、その辺の私の執念と言うか引きの強さの部分、其の運のようなものもひっくるめて此の世でのモノとの付き合い方となって居る訳です。
しかも此の石はそれほどお金がかかっていません。
確か二千五百円位で売られて居たものです。
二万五千円だと言われてもおかしくはないのに、兎に角其の時はたまたま安く出されて居た石です。
そういう地の利のようなもの、タイミングをも合わせて収集の醍醐味であるのだと思う。
またそういうのは、多くは其の地域、其の時々限定での面白みということになる。
よって世に蔓延しているグローバリズムなどではなくて、地域限定のものこそが実は本当に価値があり面白みのあるものである。
無論ヤフオクなどで全国からの出品物を落札し入手することの醍醐味ということもまた一方に確かにある。
あのイーベイでも古典の萬年筆を入手するのに本当にお世話になった。
だから元よりこうした分野ではグローバリズムを否定出来るものではない。
然し今私には萬年筆よりも鉱物の方がより愛すべき対象として感じられることが屡ある。
結局鉱物は自然そのもので、万年筆は人工物、文明の産物であるからどちらをより本当に愛して居るかといえば其れは鉱物の方であるような気さえして居る。
其の本当の本当に大好きな鉱物でさえ、本当の本当は所有することなど出来ない。
一時的に関係を結ぶだけのことで、いつまでも私の物であることなどあり得ない。
此の世でのことは、すべからくそうした関係でしかあり得ないのである。
どんなに金があろうと、どんなに頭が良かろうと、どんなに人徳があろうと、人は皆同じように全的な所有ということが出来ない。
自分にとってどんなにかけがえのないものであろうと、自分にとってどんなに美しく心惹かれるものであろうと、必ず其れとの縁が切れる、自分からは其れ等が去っていく、或いは自分の方が其れ等から去っていく。
私は其のことが分かって居る人だから、美しさにとらわれて居るようで居て、本当の本当はなるべくとらわれないようにして来て居る。
其れでも美しさにとらわれないで居るということは、実は人間の心理にとって最後の関門と言っても良いようなことなのである。
たとえば愛欲だの金銭欲だのということは鎮めていくことが比較的容易である。
然し美の誘惑、美ということへの執着、未練ということは最も捨て難いことなのである。
何故ならあの釈迦が晩年になり何と言っていたか?
実は此の世は美しいと何度もそう述べられて居たようである。
悟るつまり明知に至った聖人は、最期に此の世が美しいとそう曰われたのである。
煩悩が無い筈の仏陀が此の世を去る前に此の世は美しいとそう感嘆の言葉を洩らされたのである。
つまり、美しいということは、そのことだけは、人間にとっては乗り越えられない、捨て切れないことなのである。
他のどんなことも何とか捨てられる。
然し此の私も其の美しいということだけは絶対に捨てられなかった。
むしろ其の美しいものにとらわれ続けた我が生涯。
無論のこと美しいものとは石だけではなく他に精神的なレヴェルでの美しさなども入って居る。
また瞬時に移り変わる自然現象の美しさなども其処に含まれて居る。
其の美のために、美そのもののために生きたのが此の私。
これまで生きてきたのは其の事のためにだけ。
こうしてこれまで美のために生きてはきたが、美を本質的に所有することなど我には出来ない。
其の事がなによりの哀しさ、されど人間とは其のような限定のものであるに過ぎない。
其処で考えた、少し早いが、私が集めて来た地球の美ー鉱物たちーを誰かに託すことを考えておこう。
もし私が急死したら、此れ等石の美しいものは一体どうなって仕舞うのだろうか。
おそらく捨てられて仕舞うか、或いは二束三文で売られて仕舞うかのどちらかである。
幸い今は休暇中である。
其れで今日宝石販売業者のT君の家を訪れ其の事を頼んで来たのであった。
私がそのうちもし此の世から消えたら君に全部石をあげるから宜しく頼むよ。
T君は弟の同級生で、近所に住んで居る。
当然ながら我々は長い付き合いで、鉱物の産地へも何度も共に出かけた仲である。
其れで久し振りに鉱物の話をすることが出来頗る愉快であった。
たとえば棚山の話が其の時に出た。
其処で初めて聞く話もあった。
何でも棚山の麓のところにH氏といわれる鉱物の愛好家が住んで居られるのだそうな。
此の人は全く凄い人で、鉱物専用の小屋を家の庭に建て其の中に棚山のノーブルオパールの凄いのを飾って居たそうである。
其れをT君は6、7年前に見て来たのだそうな。
しかも其の石はH氏の子供さんが棚山で拾って来たものだったのだそうな。
球顆と云われる其の丸い石を割ってみたところ、物凄い遊色がほぼ全面に表れていたのだそうな。
H氏は棚山のノーブルオパールや田口鉱山のパイロクスマンガン石の有名な収集家であったということらしい。
鳳来寺自然科学博物館の特別展ー地元の愛好家が鉱物を展示する催しーの折にも常に幾つか石を貸し出されて居るのだそうな。
結局地の利ということは、そういうことなのである。
地の利ということは、特に深い縁がそこに結ばれて居るということなのである。
ゆえに人間は地元との関係を最優先として常に重視すべきなのであろう。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1663回) ..2014/04/26(土) 12:58 No.4757 |
 |
私は是迄に多くの美しいものに縁して生きて来た。
物質的にも精神的にもそうしたものを選り好みして接することでより価値化して生きることを保って来たのだと言える。
美しいものにも色々とあるものだが、たとえば自然というもの、其れ以上に美しいものは他には無い。
然し現代人は其の事には気付けないで居る。
心が曇って居て其処でそも何も見えて居ないのであるからして、本当の意味では其の事が分かって居ないのである。
そうした状況のことを仏法では無明という心の状態にあることだと説いて居る。
真に美しいものを真に美しいものだと気付くことが出来ず、其の逆に本当はどうでもよろしいようなむしろ醜いようなものを美しいと勘違いして拝んでもいる。
所謂拝金主義や地位や名声、名誉を求めることや、或いは自己または自己の延長線上にある子孫の繁栄を求めることや、また有り余る程の資産を求めることだとか物質的な満足に拘泥することなどが全て其れに当たる。
其のような一種の精神性の低い状態に置かれて居るのが現代人としての所謂常識的な心のあり方なのであろう。
だが其処で幾ら其の常識を振りかざしても、真理にとって逆向きのものは逆向きなのであり、また間違って居るものは間違って居るものなので其の方向性の誤りはいつか必ず現実として露呈されるに至ることだろう。
私自身のことをいえば、今私は上述したようなあらゆるものを求めては居らずむしろ其のすべてを捨て去って来て居る。
私が求めて居るのはただひとつ、自然から齎されて居るところでの美そのもののことである。
無論のこと美には文化の領域のことも含まれて居るものだが、今の私にとっては文化文物の世界もさほど美しいものには思えず本心では自然的な美の世界、其の嘘偽りの無い一種静謐な世界、謂わば其処で何も付け加えず何も奪わない世界のことだけに関心があり、第一詩などというものも畢竟其の世界 に従属して居るものであろうとの確信が日増しに高まって来て居る。
だから自然が饒舌だと思ったら其れは間違いで、自然とは実は何に対しても何も語って居らずしかもどこからも何も奪っては居ないもののことなのだ。
対して人間存在が普通に生きるということは、むしろ語り継いで生きていくということなのであるし、また生きる為には多くの収奪や破壊を繰り返さねばならないのであり、其の事が饒舌だと言うべきか或いは実にうるさく感じられまさに鬱陶しい限りでのことである。
ただし、生きることとはけだし其のようなことであるに過ぎないのである。
生きることが何か高級な何ものかの価値であるかといえばそうした捉え方は誤りであり、そうかといって其れが低級そのものの全くバカバカしいようなものであるかといえばそうだとも言えず、其のどちらの立場からも距離を置いた立場であることこそが人間としての明らかな認識に至る一つの道なのでもある。
尚最近原始仏典に関する本を読んでいて感銘を受けたのは、仏教も最初期の頃は他の宗教のすべてを否定するようなことはして居なかったという点についてである。
確かに仏教はかの六師外道でのエピソードのように他の思想、宗教を喝破し否定した部分もあるにはあったのだったが、其れでも他の宗教の正しい方向性での思想は其れを部分的に認め決して全的には否定して居なかったということがあった。
私は其処にキリスト教との根本的な違いを感じて仕舞うのである。
キリスト教やイスラム教などの一神教は基本的に他宗教への寛容性に欠けまさに唯我独尊、ひとり我が道を行くというやつで、だからこそキリスト教やイスラム教には共に基本的に世界広布への野望が潜んで居るものだが、然しながら仏教となると話は別で、確かに仏教の中でもより急進的な集団は世界広布への野望を持って居るのではあるが、他の宗派は基本的に地域に根ざした信仰の確立を目指して来て居るのであり、従って其の様や実に大人しいもので第一仏教がこれまで宗教的に他国を侵略したことなどは無かった筈だがキリスト教やイスラム教は往々にして其のことを行なって来て居るのである。
従って其の点を哲学者の梅原 猛先生などは高く評価されて居るのであり、特に近く世界人口が飽和状態に達するであろう此の地球上ではそうした一神教的な唯我独尊の世界観では地域性としての文化文物、宗教の存立が難しいことと必然的になる。
だからこそ其処に東洋の宗教の寛容性、或いは古代ギリシャの神話世界に見られるが如くに多神教としての融通性が是非必要なこととなるのである。
然し現実には此の世界はどうもそうした方向性には進んで居ない。
従って今後は宗教の面でも屡根本的な対立が世界各地で繰り広げられることとなる筈だ。
尚昨今はナショナリズムの高揚ということがかまびすしく議論されて居るようですが、そうした国家単位でのエゴの対立は今後ますます顕著なものとなって来るであろうししかも其れに加えて宗教に於ける根本対立とでも云うべきものがやがてはっきりと顕在化して来るであろうことは想像に難くない。
左様に人間存在の拵えし制度、または文化、文物というものは、其れ等を良く見据えた限りには前途多難でかつ不安だらけのこととなって仕舞う。
其の不安というか心配というか、そんな気分の落ち込むようなことを治す手段は二つだけある。
一つは其の問題から目を背け問題を問題として捉えないようにしておくことーつまり誤魔化すことーであるか、或いは自ら進んで白痴化して事の真相を見破るような鋭い目を其処でそも失って仕舞う事。
もうひとつは大問題を忘れるために自然に目を向け、其の美しさに心から癒され、其の美しさに我を忘れーつまりうっとりしてー、其のことにかまけて問題其のものを心理的に消し去ることだ。
ちなみに私の場合は生涯を後者の方で貫いて生きて来たのだと言える。
そしてこれからも其の方向でもって生きていくつもりなのである。
http://yahoo.jp/box/8RNLmd
白いナニワイバラの花が毎年美しい。
http://yahoo.jp/box/L1sBx1
ナニワイバラは何も語らず、そして何も奪わないがこうして完璧なまでに美しい。
あらゆる文化文物には、また宗教や思想などの観念的な出来事の中にも人間が含まれて居て其れがわたくしをして疲労させるのだが、此のナニワイバラだけは私を少しも疲労させない。
いや、あらゆる自然物は私を寸毫も疲労させない。
連休の時は遠くへ行くことなど考えずこうして庭の花を眺めて居られるだけで私は無上の歓びを其処に感じて居るのである。
|
|
|