萬年筆一千夜
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1427回)
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2013/04/28(日) 00:01 No. 4493 |
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今文明が転換点に立っていることだろうと思うのは、学問の世界で徐々に全体論的な視点からの文明批評の波が押し寄せつつあるからなのだ。
今まさに現代文明は部分論に固執して視野狭窄を生じ様々な分野で矛盾や問題を引き起こしつつある。
そうした視野の狭さを打開する方策として、全体論的な思考方法が必要だと説く若手の哲学者なども出て来ていて、そこは全く頼もしい限りのことで私も陰ながら彼の今後の活躍を応援したい気分である。
生物学の方でも私と同年代の福岡氏がそうした全体論的な生物学を提唱されてきておりこちらなども頼もしい限りである。
自然の一部でもある筈の人間に何らかの自浄作用のようなものとしてその全体論的な方向性が出てきたのだとしたらそれは現代人がまだまだ捨てたものではないということの証拠なのである。
そして万年筆の方もまだまだ捨てたものではないと感じられるように早くなって貰いたいものなのだが、こちらの方は相変わらずでそこは変化には時間がかかるものであるのかもしれない。
いずれにしても万年筆の世界にも全体論的な世界観が盛り込まれることによりより良い万年筆観が構築される筈だと私は信じて居る。
そうなれば現行の万年筆も次第に良くなって来るはずである。
将来において滅亡などしないで、むしろ繁栄していくことも可能となる筈である。
古典の素晴らしい萬年筆達から進んで学んでみるのも其の輝かしい未来を築くための全体論的な方策のひとつだ。
http://yahoo.jp/box/NaM-4G
たとえばこちらは現在私が使って居るL.E.Waterman5 eyedropperで今私には理想の萬年筆の一本として感じられているものなのである。
こうした素晴らしい古典の萬年筆から学ぶべきことは多くある。
ただし、このペンは完全な状態ではなく、キャップが無い、
そこでキャップまたは尻尾となるような適当な軸を探して居るところだ。
あるいはそれを自分で作ったりもしている。 主に竹を用いて作っている最中である。
だが、たまたま70年代のプラチナの軸を流用してみたところ、悪くない状態となることが分かった。
従ってこの萬年筆は何とL.E.Waterman5とプラチナの軸との合作なのである。
あの地球マークが同じであるだけでなく何故か軸の方までが部分的には合って居る。
こうして長いテーパー軸とするととても書き易い筆となる。
長さは194ミリと長大となるが重さはたったの14gしかない。
まさに理想的な長いテーパー軸のアイドロッパーとなったのである。
重心位置は全長の5.5対4.5のところにありこれも理想に近い位置にある。
またプラチナのアルミ軸は軽く、しかもそこにアールヌーヴォーの意匠が施されていて美しく古典のペンにも似合う。
であるからこのままでも充分に使っていけるのだが出来れば竹のテーパー軸を付けてみたいという思いもある。
いずれにせよこのペンは今の私にとってほとんど理想的な線描タイプの筆記を行う萬年筆なのである。
そしてこの萬年筆から学ぶべきことは大きくある。 次回はそのことを中心に書いてみたいと思って居る。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1428回) ..2013/04/29(月) 23:52 No.4494 |
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理想のL.E.Waterman-1-1
古典の萬年筆の素晴らしいところはまず其の軸が軽いところにある。
ところが其の軽い軸は筆記上の腕が試される軸となる。
なんとなれば、軽い軸程運筆上の正確さが要求されることとなるので筆記の下手糞では扱い切れない軸となるからである。
また、軸は細く長い程筆記技術上の洗練が求められ難しい軸となる。
さらに、其の細く長く軽い軸に柔軟なペン先が付いて居ると余計に扱いが難しくなる。
このL.E.Watermanの5号ニブ付きのアイドロッパーはまさにそうした類の古典のペンなのである。
もっともこのペンのオリジナルのキャップはストレートキャップなのかもしれない。
されどその5号ニブの性格上から鑑みる場合にはテーパーキャップの方がより良く似合うようにも思われる。
すなわちこの5号ニブは非常に線描傾向の強いニブである。
要するに線を変化させて書き易いニブなのである。
従ってこのペンは基本的に雅文調の筆記を行う為のペンで、あのNo.149のように小説家が大河小説をそれで書いていくようなペンではない。
然したとえば詩人が自作の詩を認めていくにはまさにピッタリのペンだと言えることだろう。
あるいはカリグラフィーのテクニックを用い美しい筆跡の手紙など書くには最高のペンである。
かってのペンーそれも100年以上前のーはDip Penなどでもそうだがそうした美しい筆跡で手紙など認めることが出来たのだ。
線描の書き方をそこで行うので線が変化して文字に陰影が刻まれ字が美しく見えるようになるのである。
かって西洋人である程度教養のある人は皆そのようにして美しい文字で母国語を書いて居たのであった。
だから其れが文化というものである。
しかるに戦後はそのような手間をかけなくなり合理文字を書き並べるだけになって仕舞った。
だから其れが文化とは呼べないものなのである。
日本人だってかっては筆でもってして美しい抑揚を文字に刻み込みより上品な日本の文字を書いて居たのである。
だから矢張りそれが文化というものである。
よって筆ひとつ扱えないような現代の日本人は筆記の上での文化のカオリを知らない日本人であるに過ぎない。
我はそういう軽薄な日本人になりたくないから好きな萬年筆でもなるべく美しい日本の文字が書けないものかと思い始終古典の萬年筆を使って居る訳なのである。
ただしいつも線描テクニックーすなわち書道の上での運筆のテクニックーを使って書いて居る訳ではないのである。
なぜなら通常はL.E.Watermanの5号ニブ位の柔軟性であれば硬筆書道の書き方で充分にこなしていくことが出来る。
L.E.Watermanの4号以上のサイズのニブは硬めに感じられるものが多い為書道の上での運筆のテクニックなど必要ないのである。
ただし、2号ニブに多いと思われる所謂wet-noodle級のニブともなればまた話は違って来る。
或いはかなりに薄いDip Penのニブで特に柔軟なものなどは実際書道の上での運筆のテクニックが必要とされる場合が屡である。
要するに、L.E.Watermanの大きなサイズのニブは硬筆書道の書き方で充分にこなしていくことが出来る。
が、昨年倫敦から来たこのアイドロッパーの5号ニブは其れ等とは違い少しく特殊であるように見受けられる。
其れは要するに穂先が華奢でより線描向きである。http://yahoo.jp/box/qRclvx
其れから柔軟性の方がある。
其の柔軟性とは、然し微妙なところである。
物凄く柔軟だという訳ではないので微妙なのである。
ただ、線描の能力は常に高いものがある。
線描の能力が高ければ常に線を変化させつつ書いていける訳である。
ゆえにこのニブで書くと自然にカリグラフィー的な筆跡となりつまりはよりメリハリの効いた本来の日本の文字の書き方に近いものを其処に表現出来る。
その部分を我は最大限に評価して居るのであり、其れは無論西洋流のカリグラフィーなど行う場合にも最大限に実力を発揮して呉れることであろう部分なのである。
もっともより正確に言えば万年筆のペン先は筆圧をかけると縦の線が太くなるだけで、そうすると縦横が共に太くなる筆の線の出方とはまた別のものだとも言える。
されどこのL.E.Watermanの5号ニブ付きのアイドロッパーで美しい日本語を認めていくことは出来る。
そのことは充分に可能である。
かなりに運筆圧をかけてより書道方面に振った筆跡を表すことも出来れば、運筆圧を適度に抑えて軽い線描でもって美しい日本の文字を書き紡いでいくことも出来る。
万年筆のニブの柔軟性の本質的な意味とはその辺りにあるのであって、我は此の筆をただ筆記感が良いからという理由で好んで使って居る訳ではない。
この5号ニブは日本語の線描筆記を行うという面に於いてほぼ理想的な特性を有して居るものである。
それゆえに得難く、我にとって大事な実用のニブとなって居る。
尚、この軸はストレートキャップであるか又はテーパーキャップのアイドロッパーの軸である訳で、それで5号ニブ付きを探すとなると通常はかなりに難しいこととなる。
然しながら、コーンキャップのアイドロッパーの軸の場合には5号ニブ付きは普通に出て来るので入手はより楽である。
ただしその中から柔軟性の高いニブ付きのものを探すとなればそれもまたかなりに難しいこととなるのかもしれない。
されど、実は我はそういうタイプのものもすでに持って居る。
使って居ないのだけれど、half overlayの銀製フィリグリー軸のものが其れに当たるのである。
其の筆と今回の筆とでどちらがより線描が得意なものか確かめてみたいのではあるが、其の比較は暫し先のことになりそうである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1429回) ..2013/04/30(火) 23:00 No.4495 |
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理想のL.E.Waterman-1-2
http://yahoo.jp/box/afTsuz
こちらは確か二年位前にオークションに出されていたWaterman5 eyedropperの5号ニブの画像。
太字系のペンポイントが付いて居て穂先が短いように見える。
同じサイズのニブでも、このようになればニブのセンシティヴィティが変わって来る筈。
倫敦から来た私のWaterman5 eyedropperの5号ニブは非常に敏感で細かい領域での線描表現が可能だ。
結局ニブに対して何を求めているかでニブの評価は相対性を帯びる。
線描表現を行う筆記に於いてより敏感な反応性をニブに求めているのであればこの私のWaterman5 eyedropperの5号ニブは90点位のニブとなる。
然しそも線描表現など求めていない人に関してはその限りではない。
そのような人から高評価が得られるとは考えにくいのである。
万年筆の評価とはそのような相対性の中での話であるのでそも本質的には絶対の評価というものはありえない。
それに絶対の評価というものがあるとすればそれはほぼ権威主義化されているものなので個人にとってはむしろ役に立たないようなものがほとんどだ。
尚、私の場合今は硬筆筆記に於いて線描表現ばかりを追い求めている訳ではないのでそこは余計に話がややこしくなる。
線描やらニブの柔軟性やらというものはむしろ19世紀のDip Penのニブの方が向いているのだろうし柔軟性の方も高いものがある。
どだい日本語の線描表現の追求には微妙な部分が含まれており、すなわちそこでは柔軟性の高いニブばかりが向いている訳ではないのである。
私が実感的に最も日本語の表記に於けるニブの柔軟性として適切だと思うのは丁度このWaterman5 eyedropperの5号ニブ位の柔軟性なのである。
またこの位に穂先が長く尖っているとL.E.Watermanの大きな号数のニブに特有に存する剛性感のようなものが強く感じられずより少ない運筆圧で線描表現を行うことが可能である。
そのような訳でこのWaterman5 eyedropperの5号ニブこそが私にとっての理想の線描表現用のニブということになる。
そしてそのことが実感出来るということこそが何より大事なことである。
理論、理屈だけではなくそのように実感出来ることこそが己にとっての理想の存在であることの重要な要件なのである。
対しての最大公約数的な良い評価からは自分にピッタリと合った最高の軸やニブはむしろ得られにくいのであるからこそ逆に自己中心的に万年筆を突き詰めていかねばこうしたこれぞというペンを得ることは難しくなることだろう。
ちなみに私はもう一本Waterman5 eyedropperを使っていてそれについてはこれまで屡取り上げて来て居た筈である。
このペンはストレートキャップのアイドロッパーで其の5号ペン先はごく滑らかに書ける特殊なタイプであるがニブ自体は穂先が短く硬い。http://yahoo.jp/box/RA5cLo
そうかといって筆記感の方は兎に角素晴らしいものがあるのである。
それでこれら二本のWaterman5 eyedropperを書き比べてみると其の余りの方向性の違いに驚かされる。
其の方向性の違いとはつまりは筆記の方向性が異なるということに尽きる。
ニブの柔軟なものと硬いものの違いとはそうした意味でのことなのである。
これらはそれぞれに筆記の目的に対して特化していてその対比がとても面白く感ぜられるのだ。
そしてどちらが良いというよりも方向性は逆ながら共に優れた良いニブなのである。
万年筆のペン先の価値は柔軟性の高いものが良くそうでないものには余り価値はないとするような考え方は誤りで、硬いニブの中にも素晴らしく良く出来たニブは幾らでも存在して居るのだ。
ふぅ、然しこの硬いニブの書き味は本当に素晴らしい。
非常にリッチな書き味で、其れは現行の万年筆のニブからは決して得られないことだろう性質のものなのだ。
無論書き味の良さ自体は現行のニブに幾らでも良いものが存在して居る訳である。
ところがこのリッチさはどうも分厚い鍛造ニブ独特の書き味であるようなのだ。
そう、どうもこのニブは分厚い。
だからこちらの方はとても線描の出来たシロモノではない。
それでも兎に角素晴らしい書き味なのだ。
その点で評価すればこのニブは90点である。
されどもし書き味の良し悪しで評価すればセンシティヴな柔軟なタイプの5号ニブの方は80点位だろうか。
逆に硬い方の5号ニブは線描の点でなら70点も取れない位である。
そのように万年筆の評価には相対性の評価の壁がついて回り絶対の評価ということはなし得ないものなのである。
そうは言っても共に本質面でのニブの作りの良さということは確かにあり、それは共に手間暇かけた鍛造のペン先であることの切れの良さでありニブに内在する力のようなものなのだ。
その力こそが時を経ても良いものであり続けることの裏付けのようなものなのであり、線描の能力や特別な書き味の良さを生み出すところとなることだろう価値の源泉なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1431回) ..2013/05/04(土) 23:20 No.4497 |
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私が伊太利亜の万年筆を好きだったのは、特に伊太利亜の文化が好きだとかそういうことではなくただ万年筆の軸に関することでそれらを選んでいたということに過ぎない。
要するに、腰高で胴長の軸が好きだったということに過ぎない。
伊太利亜物の中でもオマスとヴィスコンティが特に好きだが、何故好きなのかというと腰高で胴長の軸のものが多いからなのだ。
正直言えば伊太利亜物のSiriusとして皆様の記憶に残るのは少々心外な位で、私は要するに腰高で胴長の軸が好きなだけでそれが日本や独逸物の現行品には無かったから伊太利亜物を愛好していたというのが本当のところなのである。
他に好きだった現行のペンはDuofoldのシニアーサイズのもの。こちらも腰高で胴長の軸でもって長大な全長があった。
だからかってはこのペンを多く持っていた。
限定品のイエローも二本持っていたし、オレンジもブルーのものも複数本持っていた。
でも今持って居るDuofoldは1920年代のものを五本ばかり。
これらはペン先は硬いが素晴らしい萬年筆だと思う。
それから90年代の英雄にも腰高で胴長の軸のモデルが多くあり当然ながらこちらの方も私は好んだ。
要するに筆、あの筆のように長い軸が好きなのである。
そういう風でないと私の場合は運筆がし辛くなるのである。
そんな訳で私の場合にはそうした特殊な選択の理由が存して居たのである。
兎に角まず軸が大事で、短い万年筆では運筆が合理性を帯び美しい文字になりにくいから好きではないのである。
伊太利亜の万年筆で最も私が好きなメーカーはオマスである。
オマスの軸が私の手に合うから書き易いのである。
オマスはクラシックスタイルの軸を標榜しているので、兎に角腰高で胴長の軸のモデルが多く私にはピッタリだ。
だから今後はオールドやヴィンテージのオマスをたまに落札してみようかと思って居る。
オマスの軸は基本的に私の運筆には合って居るのだから。
特に最近はオマスのセル軸の万年筆を結構使って居るのでまた愛着が涌いて来て仕舞った。
ガリレオ・ガリレイを二本使っているし他のものも何本も使って居るので現代のペンではヴィスコンティと共に使って居る本数は一番多い。
私にとっての初めてのオマスである557−Fパラゴンは90年代初頭に名古屋パルコで求めたものだが現在は軸がボロボロである。
軸が痩せるので部品が浮いて仕舞うしキャップも割れているのだが何せ私にとっては大事なオマスである。
その軸をアイドロッパー化して使って居るがアイドロッパーとなったオマスは壊れる心配が無くなり調子の方も頗るよろしい。
今回これにWaterman EMBLEMのニブを取り付けてみた。http://yahoo.jp/box/9XIlqF
Waterman56の軸には結局合わないので他に何か合う軸を探していたニブである。
このようにニブを長く出した状態で固定している。http://yahoo.jp/box/dk3vfJ
オマスのニブは元々長いので違和感はない。
この状態で確りと固定出来て居る。
すると、何故かEMBLEMのニブが柔軟に感じられるようになった。
EMBLEMのニブは多分1930年代頃のものなのだろう。
おそらくは鍛造ニブで、とても強いニブで運筆圧をかけられた位では曲がらない。
ところがL.E.Watermanとしては硬い方のニブであることだろう56の6号ニブと比べてもまだ硬いニブだったのである。
要するに大きく腰のあるニブで線描の筆記を行うにはかなりの運筆圧が必要な筈のニブだったのである。
ところがどうだろう、この状態で、何やらとてもしなやかに感じられるものとなったのである。
硬いには硬いが兎に角しなやかでもあるのだ。
線描表現を行ってみると結構いけるではないか。
少し力は要るが十分にこなせる。
全く素晴らしい。
オリジナルのニブよりも余程に良い感じで書ける。
ニブ自体にキレがあるので、オリジナルの90年代のオマスのニブよりずっと古典的な筆記感がする。
今私にはほとんどの現代の万年筆のニブが合わなくなって来て居り、そこを具体的に言えばたとえばあのロレンツォ・デ・メディチのニブでさえ筆記感の甘さが気になって仕舞うのである。
然しこれならば合う。
元より筆記感にはキレがあり、自由自在に軽い線描へと持っていける。
それにこの長い軸と戦前の強いニブとの組み合わせは最高である。
セル軸であることに不安は大きくあるのだが、いつしか1930年代のオマス・ルーセンス辺りが物凄く興味深いものになって来て居る。
それにつけても素晴らしいのは戦前のニブの強さである。
随分運筆圧をかけても全く曲がることのない其のニブの強さである。
そして兎に角線が綺麗に出る。
線描の筆記に長けて居る。
だから、結局はこの部分に尽きているのである。
書き味がどうのこうのということではなく、このニブの本質的な強さこそが気持ちの良い筆記感が得られることの大事な要件なのである。
それにしても、Waterman EMBLEMのニブがここまで良い物だとは全く思わなかった。
今回初めてここまでのことが出来るニブであることが分かったのだった。
流石にL.E.Watermanのニブは偉大である。
尚このパラゴンの軸は首軸の内側が痩せておりオリジナルのオマスのニブが付けられない状態にある。
だからこのWaterman EMBLEMのニブは痩せていないオマスの軸にはおそらく付けられないことだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1433回) ..2013/05/06(月) 00:17 No.4499 |
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http://yahoo.jp/box/alY1y9
この程班竹を用いて太軸の筆Dip Penを拵えてみました。
この班竹の材料費は例によって105円。
たったの百五円でこんなに美しい竹の立派な軸が出来るのだから全く素晴らしい限りである。
竹は概ね軽いので木材よりも重量の点では有利となる。
尚之は15gで、208mmの軸。
兎に角軽い軸が好きな私にはまさにうってつけの素材なのである。
余談ながら私は筍を食す方も大層好む。
大好物が筍と牛蒡であるからしてどう考えても伊太利亜人ではないし無論亜米利加人なのでもない。
昔ー私が大学生位までのことー、名古屋市郊外に家が竹林を所有して居て其処へ屡出掛けては筍を掘りまくって居たことがあった。
其の折に竹林に風がサアッと吹き抜け竹の葉の葉ずれの音が実にさわやかであった。
無論筍の方も懸命に掘っては居たのだったがそのことよりも何よりも兎に角この竹林の静寂と幽玄の趣が我が記憶の底の方にこびりついていて離れない。
だからあの竹林の七賢のように我もまた世を厭い仙人のようになって竹林へでも隠りたいところなのだがあくまでそれは願望であってなかなかそううまくいく筈もない。
其の竹林はバブルがはじけたことで家が金を返さなくてはならない羽目になり手放してしまったのであった。
其処には今多くの住宅が建てられて居て地下鉄も通ったので随分地価も上がり名古屋市の中心部へ通勤する人々の為の新たなベッドタウンとなりつつある。
当時は池や山ばかりのまことに風光明媚なところであったがその変わり果てた姿を見るにつけ物凄く私は寂しい。
あの竹林の中で筍を掘りながら、時折竹林を吹き抜ける風や葉ずれの音と深い会話を行っていた筈だったわたくし。
無論のことそうした会話から詩を書く事のインスピレーションを受けたりすることも出来るのだ。
其の今となっては幻となった竹林で、我は一体どんな詩を書いていたのだろうか。
嗚呼、あの素晴らしい清しい竹林はもはや二度と戻らないのだ。なんて寂しいのだ。あんなに美しいところだったというのに。
そう思うと涙が出てきたので、それをスーパーで買った筍に少しくふりかけて食してみてやることとした。
バリバリバリとなかなか歯ごたえの良い、そして少しだけしょっぱくて最高の味の筍である。
そして私の中の其の美しかった竹林への思いは、いまだ断ち切れていないのである。
だからペンの軸も竹の方が良いのです。
あの竹林の七賢のように清貧で知恵のある竹、そんな竹で我はいまあの失われた竹林への思いを込めたつけペンを作るのだ。 竹林の七賢 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E3%81%AE%E4%B8%83%E8%B3%A2
この班竹を用いて作った太軸の筆Dip Penは全く素晴らしい限りのものだ。
Montegrappaの18KのBニブ付きでしかも改造調整が施されたニブである。
あくまでなめらかで優しい筆記感がする。
あの朔太郎の詩のように竹、竹、竹、の厳しさはそこには無いが失われた竹林への恋慕の思いは強くこもっている。
そしてこれを使うたびにあの竹林を思い出す。
風渡る中の青竹の美しさを、そして地面からちょこんと頭を出した筍のいかにも可愛らしい様を。
されどこのつけペンは青竹というよりも筍のイメージに近い。
太くて何やら茶色くて、嗚呼、まるであの掘ったばかりの筍そのもののようだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1435回) ..2013/05/10(金) 01:19 No.4501 |
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私の場合、本日のように暑い日は、自然と涼しさを感じさせて呉れる竹の軸のペンを使いたくなって来る。
竹は東洋のものであり、わが国では古来より様々なものに使われて来た最も馴染み深い植物である。
竹の軸をペンに使う場合にはまず価格の面での問題があろうかと思う。
たとえば書道の方で使う竹の軸、これをそのままペンの軸とすることも出来る訳だが、その筆の軸は結構高価で高いものは万単位のお値段である。
無論そうした高級な筆の軸を用いてペンを拵えても良いのですが、私の場合はそうした高級な筆を分解してダメにするのが忍びなくて、それで主に百円の筆で筆の軸をペンの軸に流用することをして来て居る。
百円筆は百円なのであるからして壊したとしても罪悪感が少なくて済む。
http://yahoo.jp/box/7XZfcE 現在他にも二十本位の筆Dip Penがあり、それらは色や模様や太さも様々で、またペン先として付けて居るヴィンテージのスチールペン、または万年筆の金ペンも実に様々なものを取り付けて使って居る。
筆Dip Penは軸が軽く、しかも軸が長いので私には西洋の古いペン軸よりも日本語の運筆がし易く感じられる。
自然の竹の素材だから頗る感触も良く、たまに割れることなどもあるがほとんどは丈夫で、人造の変な軸素材のように分解したりはしないから極めて安心、安全な素材である。
特に金ペン付きの筆Dip Penは決して侮れない。
軸の方も百円だからといってチープである訳ではない。
自然はこれは百円の竹、こちらは一万円の竹というように差別して竹を生やして居る訳ではないので百円の竹だからといって特にチープである訳ではない。
ただし一万円の筆の軸の方は素材が厳選された上に仕上げが丁寧で素晴らしいものであることは認めざるを得ない。
右より
1.これまでの最高傑作。紋様が美しく、仕上げの方もうまくいった。華奢で上品な印象の筆。MACNIVEN&CAMERONのWAVERLEYスチールニブを付けて居る。
2.1.と同じ様なものに見えるが軸は比較的高い筆のものを流用した。軸が曲がっているように見えるのはデジカメの特性によるもの。
3.百円筆の中にもたまに個性的な色、紋様のものがあるがそうしたもののひとつ。 色と模様が変わっているし何故か非常に軽い軸。ニブはラウンデッドの珍しいタイプのもの。
4.美しい紋様を見せる黒竹の軸。スチールニブは仏蘭西製のヴィンテージ物だ。
5.つい先日作った筍ペン。これまでで最も太い軸のもの。
後の軸はストックしてあり使用していないもの。
こんなに色や紋様が違う。
また節があるもの、無いもので趣が異なって来る。
真っ黒のものは黒竹の特に黒いもの。
黄色い軸は万年筆のインクで染め上げたもの。
青い軸は比較的値段の高い筆の軸で、何年経っても青さが抜けないという珍しいもの。
かってこれを用いて万年筆化していたが現在は休ませて居る。
竹の軸は本当に面白い。
同じ色や形のものが一本たりともないのだし、皆長くて軽くて私にとっては完璧な軸素材なのだと言える。
http://yahoo.jp/box/Aux0pt こちらは改造万年筆で、軸はあかしやの竹軸、首軸はプラチナ3776のもの、ニブはオマスの18Kニブという不思議な組み合わせのものだ。
この竹の軸はパイロットのブラックで黒く染め上げてみたところ結構上手くいった。
こんな風に竹の軸は染色なども行えるから面白いものなのだとも言える。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1441回) ..2013/05/14(火) 23:23 No.4508 |
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セルロイドのペンに関しては、これまでに様々な形でその問題点を書き継いで来たつもりである。
どうしてセルロイドのことをここまで取り上げたかというと、私はセルロイド軸の限定万年筆を多数持って居たのでそこでトラブルが頻繁に発生し、それでセルロイドという素材自体に万年筆の軸材としての大きな疑問が生じて仕舞ったからなのであった。
その結果セルロイドのことを色々と調べ始めたのだったが、結論的に言えばセルロイドのペンはここ日本のような夏場に高温多湿となり易い気候環境の所には全く合わず、おそらくは余程に質の良いセルロイドでない限り長期的な保存や使用に向かないということが明らかになって来た。
兎に角セルロイドの万年筆は決して高級なペンではないということを日本のペンの愛好家は是非知っておくべきなのである。
セルロイドは一種権威化している筈の50年代の独逸物などにも多く使われて居るのだがそうした観点から鑑みて其れ等の独逸物も高級なペンとはなり得よう筈も無い。
高級なペンとは、戦前のエボナイト軸のものが一番高級なものなのであって、しかも其処に金や銀や貝やらがあしらわれた物はそれこそこちらがひれ伏したくなる程に根っから高級なのである。
そのように近年私はセルロイドのペンをこきおろして来て居る訳なのだが、それは私が経験上得た事実から述べていることなので仕方がないことなのである。
尚最近セルロイドのペンでとある事件が起こり、そこで本当の本当にセルロイドのペンは駄目だということが分り全くもってショックだった。
何と、あのDoricの軸が分解中であることが分った。
それも全く使って居ない赤と黄緑の二本のOversize Doricがやられていることが分って仕舞った。
共に尻軸のところから崩壊しつつある。
この二本はすでに数年前から風通しの良い所に保管して分解しないように細心の注意を払って居たのだった。
だが、持って居るだけでは仕方がないのでこれらを使おうと思いインクを入れて持ってみたところ、赤の軸の方の尻の所がボロボロになっていて割れて仕舞ったのであった。
ギャー。
その時私は本当に気が狂いそうになった。
次に黄緑の方も使おうと思ってよーく尻の所を見てみると、ギャー、これも同じ様にボロボロとなって居て割れて仕舞ったのであった。
ただし、共に5ミリ位の長さの範囲である。
それですぐさまそこを取り除き紙やすりで整形してそれらを使って居る。
ゆえに二本とも尻に穴が開いて仕舞ったのではあるが、元々Oversize Doricの尻軸は異様に長いのでかえって普通の萬年筆らしくなり格好良くなった。
それに二本ともレヴァーフィラーだがインクサックの所にまでは崩壊が届いて居ないので全然普通に使えるのである。
ただ、ショックは余りにも大きかった。
確かに戦前のセルロイド軸の萬年筆でこれまでにトラブルを経験したことは皆無ではなかった。
変色や軸の変形は良くあることでそれらの不具合には目が慣れて来て居たのである。
然し分解となると話は別で、これはもはやどうにもならぬ、後はただ死を待つだけ、それも何ヶ月持つのだろうか、不安なことこの上なし。
が、結局セルロイドのペンとはそうしたものであるに過ぎないのである。
セルロイドのペンとはいつかは分解して自然に還るものなのである。
うーむ、してみると、セルロイドのペンは物凄く自然派なのではないだろうか。
セルロイドは後の分解しにくいプラスチックに比べより自然的で地球にやさしい素材である。
だから人間がショックを受けることよりも何よりも、兎に角自然がダメージを受けないということが最も大事な観点なのであり、いざそこまで深く考えた場合にはセルロイドとは実は物凄く安全、安心な素材でまさに環境への負荷をかけない素材であったのだ。
との観点から、私は最近むしろセルロイドの軸の万年筆が大好きになって仕舞ったのである。
いや、特に好きにならずともどのみち私のセルロイド軸の万年筆は次第に分解していくので早く使ってやるべきなのである。
それでも同じ使うなら好きになって使っていた方がずっと楽しく万年筆を使えるではないか。
そんな訳で兎に角私は現在セルロイド軸の万年筆ばかりを使って居り、理想のWatermanの二本以外はエボナイト軸の萬年筆を使うことの方が稀な位である。
ただしこの夏場を乗り切れないセルロイドの万年筆は順次廃棄していくつもりである。
或いは花火にして弔ってやるつもりなのである。
そうした限定の時間を共に過ごすということは、何故か愛のようなものを其処に感じて仕舞う訳である。
セルロイドへの愛を。
これがほぼ百年はもつエボナイトのペンであればそこに尊敬は感じても愛にまではなかなか至らないような気も致します。
然しこの半年後には永遠に別れて居るかもしれぬという実に実に儚い素材、其の素材の出来の悪さということに何やら愛おしさまで感じて仕舞い、ただひたすらにこの狂おしいまでの愛の形の成就を願い、ただひたすらにこの道ならぬ恋にいれ上げて居るわたくしなので御座います。
京都セルロイド http://www.kyotocelluloid.com/index.html
いや、ここに書いてあることが本当のことなのだと思われます。
こんな風にセルロイドは自然へ還り易い素材だということを明記した上でセルロイド軸の万年筆は売られていてしかるべきなのである。
ただしここでも軸が分解して仕舞うとは書いて居ないのですが。
セルロイドサロン 生分解性樹脂とセルロイド http://www.celluloidhouse.com/salon91.htm
ここにもあるように、セルロイドはエコロジーな素材で環境には優しいという視点をセルロイドの使用者の側が持つべきものであるのかもしれない。
セルロイドがダメな素材であるということを責めるよりも、むしろそこで長所の方を確りと評価してやるということも出来る。
ここにはセルロイドが環境にとって無害な物質であることがこと細かに述べられている。
言うまでもなく21世紀は環境問題が第一義的に論じられなければならない時代となって来て居る。
だから分解が屡起こり得るセルロイドの軸の万年筆を使う人は分解しないか分解しにくいプラスチックの軸の万年筆を使う人よりも環境保全の意識に目覚めて居る全体論者だとも言えそうである。
それで我は頭の中がスッカリ其の全体論者なのであるからして、今後も好んで時の経過と共に自然に分解するセルロイドの軸の万年筆を使っていく決意を固めたところである。
さてアナタは万年筆の軸が崩壊して自らが辛さを味わうか、崩壊しない万年筆の軸を捨てて地球を汚して仕舞うかということのどちらを選択されますか?
ー万年筆の愛用者が万年筆を捨てないようにしていたにせよ、愛用者の死後に家族がポイッと万年筆を捨てて仕舞うということは大いにあり得ることだ。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1442回) ..2013/05/15(水) 23:50 No.4509 |
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ある意味で究極のペンであるのが、Dip Penのスチールニブなのではないかと今私は思う。
無論スチールニブに限らず、Dip Penの金ペンの方でもそう言えることかと思うが、それでも兎に角硬筆筆記というものはまずDip Penのスチールニブの方で行うことが基本なのである。
其のDip Penのスチールニブを万年筆に組み込むことは、最近私がやり始めたことなのであり、昨年まではDip Penの金ペンを万年筆に組み込むという改造を屡行っていたのであった。
Dip Penのスチールニブというものは、筆記上案外奥深い世界が味わえるもので、特に私が収集しているヴィンテージのDip Penのスチールニブの世界というものは、また万年筆の収集の世界とは一味違った深みのある世界のものなのである。
Dip Penのスチールニブのコレクターは流石に欧米に多いことと思われ、ここ日本ではごく少数派だといえることだろう。
日本人はどちらかというとあのカリカリしたDip Penのスチールニブの筆記感が嫌いなのではないだろうか。
その点私は全然そうではなく、むしろその筆記感が好きというか気にならない方なのでもう随分昔からDip Penのスチールニブの愛用者である。
実は中学一年生の頃から使い続けている。
無論当時はヴィンテージのDip Penのスチールニブなど使ったことはなく、あのZEBRAの匙ペンだったろうか、中学校の前の文房具店で買って来たスチールニブを安物のペン軸に付けて良くイラストなどを描いて居たのである。
イラストを?
そう、私は昔絵の方も描いたのである。
もっとも美術部などに入ったことはなかったのだが、中学生の頃までは屡水彩画やイラストのようなものを好んで描いて居た。
音楽の方よりはそちらの分野の方が向いているようだった。
けれど小学6年生の頃からすでに詩を書き始めて居たので、以後はそちらの方がメインでの藝術的な趣味となり次第に絵は描けなくなっていった。
一度だけだったが小学4年生位の時に何かの展覧会に入選した薔薇の水彩画があって、それが当時の居間かどこかに長らく飾られていたのだったがやがてその絵はどこかへ消えて仕舞った。
高校の頃には必修科目の方の生物クラブでプラナリアの研究をしていたが、その折に美術部の奴ら二人と知り合い、奴らの才能のあることといったら全く凄まじい限りで、兎に角何を描いても我と比べると月とスッポン、絵を描く場合のその才能とはいかなるものかということをまさにその時に思い知らされたのであった。
だから絵を描ける奴等が少しだけ羨ましい。
何せ藝術というのは結局は才能だけなのでね。
ただし、我は生まれつき謙虚だから自分に詩人としての才能があるとは実はこれっぽっちも思って居ない。
ただ詩という文学のジャンルが好きなだけなのである。
詩のマニアだというだけのことなのであり、だからこそ我は自称詩人であるに過ぎないのである。
さて、Dip Penのスチールニブを組み込んだ筆Dip Penはすでに三十本近くに増えて来て居る訳だ。
が、Dip Penのスチールニブを組み込んだ万年筆はまだ三本しか持っていない。
そのうちの二本がこちらである。 http://yahoo.jp/box/0-4_PV
上はEversharpのデスクペンにMACNIVEN&CAMERONのWAVERLEYスチールニブを組み込んだ万年筆。
下は戦前の国産エボナイト軸にMACNIVEN&CAMERONのWAVERLEYスチールニブを組み込んだ万年筆。
Eversharpのデスクペンの方は普通に萬年筆として使える。是はレヴァーフィラーである。
国産エボナイト軸の方はインキ止め式をただのアイドロッパー方式として改造してある。
http://yahoo.jp/box/likL05 それで問題は、国産エボナイト軸の方へのスチールニブの取り付け方にある。
このように非常に長く突き出した形で取り付けてある。
ところがこのようにすると、実は非常に筆記感が良くなる。
ごく繊細な感じで穂先がしなるようになり、それに伴い筆記感の方もごく繊細なものに感じられるようになる。
ところが残念なことにこの状態ではインクが余り出ない。
それは当然のことで、細長いフィードからさらに細長く穂先が前へ突き出して居る為、そこでのインクの供給がいまひとつなのである。
もう少しペン先を押し込めば普通に書けるようになる筈なのだが、スチールニブをあれこれと加工しているにも関わらずこれ以上は首軸の方に押し込めない。
もし押し込めたにせよ、そうなれば上のEversharpのデスクペンでのようなフィードとニブの位置関係となって仕舞い、この特有な筆記感の繊細さは失われて仕舞う筈なのだ。
要するにこの状態では完全に萬年筆としては使えないのだがこの状態であればこそ筆記感の方は最高なのである。
それはとてもスチールニブの筆記感だとは思えないような微妙かつ繊細な書き味を醸し出して居るのである。
もっともこの状態ではまともに使えないのだから、おそらくは近いうちに金ペンに替えて仕舞うつもりなのである。
然し、この穂先の長さと尖り方はどうだろうか?
こんなに尖って穂先の長いペン先は万年筆のペン先の中から見つけられないような気がするのですがその点はどうなのだろう?
穂先が長く尖ったスチールニブはヴィンテージニブで他にも色々と持っておりますがそれらは皆線描が得意なペン先なのである。
してみるとスチールニブというものは元々線描が得意で、それは万年筆のニブよりもむしろ余程に得意なのであり、こと線描の筆記を極めていく為には後のマイルド化されていく萬年筆のニブなどよりもこうした穂先が長く尖ったスチールニブで追求していくべきものなのではあるまいか。
そんなことを思いながらこの二本の筆を操って居ると、そこで何やら余程に高度な硬筆筆記を行っているかのような気がして来るのであった。
考えてみれば萬年筆というもの自体が近代的合理性の進んだ硬筆筆記具である訳で、つまりはある意味ではDip Penよりもお手軽にされて仕舞って居る筆記具なのである。
ゆえにDip Penが萬年筆よりも劣る筆記具であるかといえばそれは全く違って居て、そこではむしろDip Penによる筆記の方が硬筆筆記に於ける基礎、基本なのであり本来ならばそちらの方で硬筆筆記の何たるかということを追求していった方が良いのである。
ちなみにこうした線描用と思しき細長いスチールニブは結構書き方の方が難しく、特に筆記角度をニブに合わせてやらないとすぐにガリッと来るということがある。
それでも結構穂先がしなり易いので書いて居て結構気持ちが良い。
Dip Penのスチールニブを組み込んだ万年筆を作るのは矢張り邪道ではあるのだろうが、その試みからは硬筆筆記についての様々なことが学べるような気がしてならない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1454回) ..2013/06/04(火) 01:32 No.4522 |
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最近万年筆はもう何でも良くなって来て居て、その時にたまたま目に留まったものを使って居るような感じだろうか。
ただし一番良く使って居るのは例の赤いロウソクのセーラーである。
この筆は私にとってはとても書き易いので自然に手が伸びて仕舞うのである。
尚この筆に挿して居るセーラーの首軸ユニットは黒檀軸のものではなくセルロイドの軸の方のものだった。
そこは勘違いをして居たのである。
然しペン先は14KのH-MFなので14KのH-Fの黒檀軸のものと良く似て居る。
似ては居ても、セルロイドの軸の方のものは多分90年代のものだろうから刻印などが大幅に異なる。
確かに同じ14Kなのだけれど、私にはどうも古いペン先の方が良いようだ。
一般に万年筆のペン先は古いものの方が粘りがあるように感じられる。
最近のペン先はたとえ柔軟なものではあっても粘りが少ないか、無いような気がしてならない。
戸外用の万年筆は今様々なものを使って居り、ペリカンやプラチナなどを場合に応じて何種類も使って居る。
M800Demo 18C PF MとM850改 14C Bを二ヶ月程携帯して使って居たが矢張り携帯するということに関しては共に強かった。
18C PF Mはオリジナルながら適切なインクフローでまずまずの書き心地、14C Bは何年も自己調整してようやく完調になった。
筆記感は14C Bの方が柔らかい感じがあり。
このニブは18C PFよりも線描に向いていて普通に書いても僅かに線が変化する感じすらあり。
ただし独逸物のニブは基本的に線描を行うようなニブではないので、線を変化させるというよりは筆記感の方を楽しめるニブとなって居る。
14CのBニブはかなりに滑らかでそこは書き味の良さの方も楽しめる。
M850は黒軸で本来はヴァーメイルのキャップが付くところをM800の黒キャップと交換してある。
だから全身真っ黒のペンであるが黒いペリカンというものも慣れるとなかなか乙なものである。
Pelikanの縞軸に凝るということは、どうもあれは誤りで、Pelikanは縞の無い軸が一番安心安全でよろしいことかと思う。
尚M800Demoの透明な緑軸は悪くない。爽やかな色合いの軸なので新緑の戸外で何かをメモする時などはいかにも似つかわしい。
14CのBニブは調整を行ったのでインクフローが良く、所謂低筆圧筆記でも十分なインクの流れが得られる。
ところで最近気が付いたことは、プラチナの万年筆は日本を代表する美しい日本文字のための万年筆であるということだった。
すなわちプラチナで書くと上手に日本の文字が書ける。
プラチナはペン先が硬く感じられ易いのだが、実は日本の文字を美しく書き表すことの為には向いている万年筆である。
もっともセーラーでも日本の文字を美しく書き表すことは出来る。
特に14Kのニブの場合、それも90年代の14KのH-MFなどはとても良い。
それから最近Wahl-EversharpのFLEXIBLE NIBの実力の高さに改めて驚かされたりもして居る。
これは線描用としては最高のニブのひとつに数えられることだろう。
L.E.Watermanのニブよりもむしろ線描筆記に向いて居る様な気がしてならない。
尚Wahl-Eversharpの軸はDoricやEquipoisedのものよりもフラットトップのより古い軸のものの方が出来が良いのかもしれない。
No.149の14Cのフレキシブルタイプのニブはようやく完調になり、これは書いてみれば誰もが驚くことだろうものとなって居る。
兎に角ニブ自体が柔軟なものとなって居るので無理をすれば線描筆記さえ出来る。
ではあるが、久保工業所でリチップして貰ったのが太字だから普通にゆったりと書いていく方が似つかわしく思う。
これを十年くらい前にフレキシブル化して貰った時にはその良さが余り分からなかったのだったが、僭越ながらそこに色々と手を加えさせて頂きここへ来てようやく満足出来る仕様となったのである。
ニブをあれこれと弄って居るので、その過程で様々なことが分かったのだったが、一番大事なこととして分かったのはNo.149の14Cニブは非常に強いニブだったということである。
なぜならフレキシブル化して、結構筆圧をかけて書いたにせよニブは曲がらなかったのである。
ただし、No.149のニブは調整で余り変形を繰り返していたりするとクラックが入ることはある。
このニブにも実は小さなクラックが入って居るが、そこは仕方がないので小さなクラックを大きくしないように低筆圧筆記でいこうと思って居る。
7、8年前にクーゲル風改造仕様ということで海外から求めたNo.149の14Cモデルの方もニブの取り付け調整に五年近くも要して仕舞いましたが現在は完調である。
ちなみにペン先は固定の仕方ひとつでまるっきり筆記感が異なって感じられるものとなるので注意が必要である。
メーカーや調整師に調整して貰ったものでも狂っていることがあるのでそこを直していくのはミクロ的に細かい作業でほとんど人間ワザではない。
この二本は兎に角今完調である。
このクーゲル風改造のニブは厳密には形状がクーゲルニブのようではないのだけれど、インクフローが良く低筆圧筆記でもって滑らかかつ優しい紙当たりの感触でどこまでも書いていける優れモノである。
尚、ペン先は固定の仕方ひとつでインクフローが全く異なるレヴェルのものとなることが多く注意が必要である。
私の経験ではインクフローが悪い時は固定の仕方が間違って居り、とりあえずインクフローが良くなくてはならないのではあるが、そこでよしんばインクフローが良いのだとしてもペン芯とペン先の位置が左右にずれていてはそれは間違いなのである。
あくまでペン芯とペン先の位置が真っ直ぐでしかもインクフローが良くなっている状態で、さらに字が上手に書ける感じでなければならない。
その上手というのは、上手な人が普通に書いて上手に書けるということを言うのである。
というのも実際に字が下手になって仕舞う固定の仕方ということがあって、そうなるとたとえインクフローの方が良いとしてもどこかが間違って居るのである。
まあこの辺りの話は逆に調整のプロの方々には全く訳の分からないことを言って居るように聞こえるのかもしれない。
何せ自称詩人の表現なので隠喩、暗喩的な表現の部分が入って居るのかもしれない。
ただし私の感覚の方に限ればそこにはおそらく確かなものがあることだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1457回) ..2013/06/09(日) 10:42 No.4525 |
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Eversharp Doric Cathay SR fountain pen SMALL CRACK http://www.ebay.com/itm/251083285356?ssPageName=STRK:MEWAX:IT#ht_742wt_934
どうもこれまで見て来た限りではDoricの場合このCathayカラーの場合が一番トラブルが出易いセルロイド軸のようである。
過去には他にも割れの入ったCathayカラーのDoricが売られていたことがあった筈である。
ここからしても萬年筆は結局はエボナイト軸のものが一番良いのであり、そこでセル軸の華やかな色合いなどに惑わされたりしないで実質の価値の方を追求していく方が余程にためになるということである。
特に現代文明の所産の物は実質的な価値が隠蔽されて居り、おまけに其の実質的な価値以外の粉飾価値の方に重きが置かれて居るようなものがほとんどなので本当に良いもののを其処でしかと選んでいくということが常に難しい時代なのではある。
即ち其処では紛いもののようなものが一流品であるかの如くに流通せられて居るのであるからして余程の注意深さを持つことこそが肝要なのである。
所詮現代のものとは何でもそんなものでたとえば女性など選ぶ時にもケバケバしい感じの女を選ぶのではなく掃除洗濯をキッチリとこなせる所謂良妻賢母型の真面目な女を選んで置いた方が何かと宜しいようだ。
が、其の良妻賢母型の真面目な女を捜すとなるとこれはもう今では大変で、それは多分一万人に一人位の確率でしか存在して居ないことだろう。
萬年筆の方もそれと同じで一万本に一本位の割でしか真に良いものは存在して居ないのかもしれない。
ここからしても真に良い萬年筆を手許に引き寄せるには常に美意識を磨き込んでおくことが大切なことのようだ。
謂わば其処で万年筆を引き寄せる機根を磨き込むということ。
それから兎に角教養をつけること。
ただし一流大学を出た人でも所謂教養の無い人は大勢居るようだからそこは注意が必要である。
つまるところ、学歴と教養とは別物。
ところで私は萬年筆とは生き様に直結しているものだと最近良く思う。
其れは萬年筆単体として存在して居るのではなくて個々の人間の精神性のようなものと相互に交信しつつ相成っていく趣味の世界のものなのである。
其処では即ち精神無くして萬年筆趣味は成就せず、萬年筆無くして己の精神の完遂は無いのである。
ま、其処を端的に言えば集めて居るか或いは使って居る万年筆の種類でその人の精神の傾向までが手に取るように分かって来る。
などということはあろうかと思う。
それで私はこれまで兎に角私なりに萬年筆趣味を深化させて来ていつのまにかほとんど行き着くところまで来て仕舞った訳である。
其の私の萬年筆趣味は所謂技術論ではないのであるし、そうかと言って其の反対の方向性の精神論ばかりでもないのである。
でも私なりの方法での全体論的な萬年筆趣味が完遂されればと思って居る。それも直觀的なやつで。
私は思想的に権威化された権力構造なり制度や組織などを嫌うから萬年筆の方でもそうしたものとは常に無関係でありたいと思って居る。
そうした諸々の権威とは無関係に常に萬年筆の仙郷の方を目指していたいのだからつまりはそういう求道的なタイプの万年筆の追求者である。
さてこれまで私は古典の萬年筆を追求して来た訳である。
そのことは私の場合万年筆に於ける物質的な問題だけではなくその背後に拡がる筆記文化までをも内包するまことに壮大な世界のものであった訳だ。
またその硬筆の筆記文化は萬年筆によって作られたものである訳ではなく、あのただ軸にペン先を挿して使うだけであるというDip Penの世界で醸成されたものであった訳だ。
結論としてDip Penの世界に於ける精神文化はどうも萬年筆の世界に於ける精神文化よりも高いものがあるように見受けられた。
要するに何でもそうだがより古いものの方が精神性が豊かで真面目に作ってあるものが多いようだ。
これはいつも何でだろうと思うのだが、結局は効率性の追求は其処で何らかの精神性の深さを奪っていって仕舞うということがあるのだろう。
尚前々から私は二、三日休みが貰えたら是非三河の田舎の方を通っているローカル鉄道に乗って旅をしてみたいのだけれど、それをやったらそれこそ景色は良いわ、駅弁は旨いわで我が精神にとってはさぞや有益なことだろうと思う。
対してもし通勤電車で遠くへ通うのだとしたら、それはもう考えただけで頭が痛くなる。
要するにそういうようなことがこの近代社会の中では様々な領域で起こって居る。
それは人間の精神の領域でも引き起こされていることなのであるし、物の領域でも引き起こされて居るひとつの傾向性なのである。
それでそうした効率性の追求が本当に人間の心を豊かにすることに繋がるのだろうかという問いは現代人の心の中に常にある。
いや、それはむしろ人間の心を貧しくしていっているのではないかと実感されることも屡である。
思想の世界では効率性の追求=近代合理主義ということになることかと思うが、万年筆の世界に限れば其の近代合理主義がむしろ萬年筆を生み出して来たという自己矛盾すらある。
ゆえに万年筆の世界で効率性の排除を声高に叫ぶことは少々見当はずれなのではあるが、効率性を追い求めて進歩して来た現代の万年筆がすべからく面白くないものになっていきつつあることもまた厳然とした事実なのである。
つまりそれは精神にとって面白くないのである。
あくまで効率性の向上で性能は上がって来て居るのである。
なのに何だか面白いものではないのである。
だからそこが、先ほどの鉄道の話のようなものなのである。
満員電車は効率的に人を運ばないと人をさばけないので其処では効率が重視されざるを得ないのだが、遊びの世界、趣味の話ともなれば其の効率の追求が人間の精神にとって好ましい部分ー楽しく、精神が豊かであることを可能とならしめる部分ーを壊していって仕舞うのである。
万年筆というものはまさにそうした世界に流通しているものの筈なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1458回) ..2013/06/09(日) 10:43 No.4526 |
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ただし、非効率性の中にのみ精神の豊かさ、そうしたゆとりのようなものが感じられるということばかりでもないのである。
たとえば古典の萬年筆はDip Penよりは遥かに効率的だが精神的な豊かさのようなものは常に有して居る。
50年代位までの万年筆は古典の萬年筆よりは効率的だが精神的な豊かさのようなものはまだまだ有して居る場合が多い。
80年代位までの万年筆は50年代位までの万年筆よりは効率的だがそこに最低限ゆとりのようなものが感じられない訳でもない。
問題は21世紀の万年筆が一体どうなっているかという部分である。
実感的に21世紀の万年筆は使ってみて私の心を喜ばせて呉れるようなものが無い。
おそらくは90年代の終わり辺りに効率が精神の豊かさのようなものを減じて仕舞うことの、其の限界点のようなものがどこかにあったのではなかろうかと最近私は考えて居る。
つまりこれ以後に出された万年筆はローカル鉄道での旅の方ではなく満員電車で通勤することの方へと向かって歩んでいく。
ま、万年筆も趣味の世界のことなのであるから、満員電車で通勤することを選ぶよりも常にローカル鉄道でもってのんびりと旅をして居たいものだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1459回) ..2013/06/09(日) 23:56 No.4527 |
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不思議なものであのヴィスコンティにしてからもが次第に設立当初の志のようなものを忘れて何だか変なペンばかりを作って仕舞うようになっていく。
Visconti | Salvador Dali Surrealist Collection http://www.fountainpenhospital.com/Index_Showcase.asp?BOD=/collections/collection.asp%3FCK%3D1651%26MFG%3D39%26utm_source%3Dmania%26utm_medium%3Demail%26utm_content%3D060613%26utm_campaign%3Dmania
其処は何故そのようなことになって行って仕舞うのか、本当に不思議なところである。
然し概ね人間の作る制度、組織、団体というものは大抵の場合そのようなことになって居るものなのであって、長年の間に亘りそれが完璧に機能して良いモノや良い時代を創り上げるということはほとんど奇跡に近いようなものなのである。
そこからしてもあの徳川の三百年に亘る幕藩体制が齎した安定的な時代の価値は本当に大したものである。
ところが最近オマスの方は最近好調であるように感ぜられてならない。 Omas - Arte Titanium Bronze - 2012 https://chatterleyluxuries.com/product/omas-arte-italiana-titanium-bronze-limited-edition-fountain-pen/
こちらは非常に魅惑的なチタン軸である。
軸の方は多分使えるものとなることだろう。 これに古いオマスのニブを付けたら、最高のオマスとなって呉れるのかもしれない。
セル軸は良さそうなものでも場合により完全に崩壊して仕舞うので1930年代のOmasに凝るよりもこちらにして置いた方が賢明なのかもしれない。
Omas - Lamborghini - 2013 http://www.intercontinental.co.jp/Omas/Lamborghini_50th_Anniversary.pdf#search='Omas++Lamborghini'
面白い。いや、何だか凄い。とても迫力がありで。
短そうなペンながら、短いのは短いのでまた独特の魅力があり。
チタン軸というのはまさにオマスの未来の可能性を感じさせて呉れる軸素材である。
おそらくは現代でしか作り得ない素晴らしい軸素材だと言えるこ となのだろう。
ただ異様に高価なペンとなって仕舞うことだけが問題である。
ところで伊太利亜のスーパーカーも最近は信頼性が増して来て居るのではないだろうか。
伊太利亜のものは何でもそうですが兎に角デザインの方はピカイチなので其処に技術的な信頼性さえ加味されればたちまち世界一流のものとなって仕舞うのではなかろうか。
そうした方向性へと伊太利亜のものが進んでいって居るのだとしたら今後はまさしく伊太利亜のものは侮り難いものとなる。
ところで話がガラリと変わって仕舞い悪いのですが、本日昼に私は家でピッツァを食して居りました。
其のピッツァ程伊太利亜を感じさせて呉れるものも無いのでありましょう。
私はピッツァが好きで昔から良く食して参りましたが、最近は体重が増え過ぎたので頻繁に食すことを控えて居ります。
ところが本格的なデリヴァリーのピッツァの店が三年くらい前に出来、それを食してみたところ非常に自然な風味でよろしかった。
尚、これまで日本にあった所謂ピザ屋のデリヴァリーのピザは何やら油っぽくておまけにゴチャゴチャと色々なものが入って居ておまけに値段も高くてで、確かに昔はそれでも屡とって居たのだったが今はもうそういうのは御免です。
然し、このサルヴァトーレ・クオモのピッツァはそうしたアメリカンピザとは違う本物のナポリピッツァなのです。
サルヴァトーレの想い http://fc.salvatore.jp/message/index.html
「世に普及している高カロリーのアメリカンピザではなく、安心・安全・健康的な本場のナポリピッツァを日本の皆さんに食べて欲しい、高級なイタリアンレストランではなく、週に何度も気軽に利用していただけるような店舗を作りたい」とのことです。
しかもその高カロリーのアメリカンピザの値段が高いのです。ピッツァなんて伊太利亜では庶民のおやつみたいなものであるにも関わらずです。
あるいは其処にはイタリアンというと或いはフレンチというと何でも高級な食事と考えて仕舞う日本人の浅はかさということが影響していることなのかもしれません。
本当は和食でしっかりとしたものの方が世界一高級な食事なのだろうと私は思います。
もっともそんな高級な料亭や店には滅多に行けないのではありますが。
http://fc.salvatore.jp/about/pizza.html
「窯の床面にて直焼きする」のでピッツァが結構焦げて居ります。
然しそのゆえにか香りが良く、そしてかなりにもっちりとした歯ごたえを感じさせる生地です。
http://fc.salvatore.jp/about/qualita.html
トマトの香りが良いですね。
モッツァレラチーズの味が余りくどくなくサラリとして居ます。
食べてから数時間後に少し匂いが鼻につく感じはしますがそれも僅かです。
私が注文するのはいつもマルゲリータですが、これこそがなかなかのものです。
尚本日はこのマルゲリータが何と半額でした。
其の半額でも日本でのピッツァ価格が安いとは思いませんが、この半額の時にだけ注文して食して居れば多分体重は増えませんのでそれで万事がうまくいったという訳なのです。
出来ればサルヴァトーレ・クオモのピッツァを毎日食して居たい、そしてオマスのチタン軸の万年筆が是非欲しい。
こうなるともう半分位は伊太利亜人のようなもので、先日伊太利亜の文化には興味は無いとここで言って居た割には案外根強い伊太利亜志向というものが心のどこかにあるようです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1460回) ..2013/06/12(水) 00:02 No.4528 |
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http://www.ebay.com/itm/Ranga-Ebonite-Fountain-Pen-4C-Rounded-Hand-Made-German-Nib-w-Converter/111051488696?_trksid=p2047675.m1982&_trkparms=aid%3D333005%26algo%3DRIC.FIT%26ao%3D1%26asc%3D177%26meid%3D8299542407684329751%26pid%3D100009%26prg%3D1088%26rk%3D2%26sd%3D130746351707%26#ht_4787wt_1155
http://www.ebay.com/itm/Ranga-Ebonite-Fountain-Pen-4C-Brown-Ripple-Hand-Made-German-Nib-w-Converter-/111046222714?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item19dadee37a#ht_2917wt_1172
印度のRanga万年筆については、上記の出品者が上の様に独逸製のニブを付けたより分かり易いモデルを販売しているようである。
ちなみにここの店の方ではかって"Ranga -Bamboo- Leroy Fairchild Wet Noodle Flex Nib, Mottled Brown Matte, C-C-ED"というモデルが売られていたことがあった。
其れはBakul Brown(Rough Finish)といわれる艶消しの軸で軸の形は私が今使って居るJapanese styleのBambooモデルとほぼ同じであった。http://yahoo.jp/box/uhJ6kO
ただしペン先の方は何とDip Penの金ペン先が付けられて売られて居たのだ。
其処にはまさにあのLeroy W. Fairchildの六号のDip Penの金ペン先が付けられて居た。
このように海外では店やオークションなどでごくたまにDip Penの金ペン先が付けられた古い萬年筆が売られて居ることがある。
それらは当然に改造萬年筆だということになる。
それでもそのことが可能であるということに留意して頂きたい。
決して相性が良いとは言えなくても、そのことは可能なのである。
Dip Penの金ペン先を萬年筆に組み込むことは私も屡行って来たことである。
そのようにすると、所謂"Wet Noodle Flex Nib"のペン先となる訳で、其処ではまさに萬年筆を超越したヘナヘナの筆記感が味わえることとなる。
そうした改造萬年筆で書くとかなりに線描傾向が強い筆記を自然と行なうようになる。
其処では否応なく線が変化するから西洋書道つまりカリグラフィーを行うには最適の筆が出来上がる。
ただし其れ等で日本語を書く場合には、逆に少々難しくなるとも言えることだろう。
運筆圧がかかった時に縦線が太く横線が細いという線の変化の仕方でも美しい日本の文字が書けない訳ではない。
それでも充分に書けるのである。
ただし、其処で余りに縦線が太くなる必要などは無いのである。
其の縦線を太くするという部分は、元来カリグラフィーの方で必須とされるシェーディングの為の筆記技術なのであり、日本語の表記の場合にはあの筆の穂先の如くに運筆圧がかかった場合には縦線でも横線でも、いや、そうではなく運筆に応じて全方向的に生じる線が太く変化していかなければならないのである。
だからそういうのが毛筆による軟筆筆記で、其れは西洋由来の硬筆筆記とは根本的に異なる書き方となって居る訳である。
とはなっては居るが、運筆圧がかかった時に縦の線が太くなるのであれば、其処で横の運筆での線変化が望めないにしてもそれなりにカリグラフィーとしての日本の文字の表現が可能となるのである。
だが、其処でもし大袈裟に其のことを行って仕舞うと、言ってみれば其処にかなりに個性的な書道的な筆跡が出来上がって仕舞うことになる。
そのことも行えない訳ではないのだが、それでは実用文字としての範疇を飛び越えて文字の藝術表現の方向へと近づいて仕舞うので萬年筆程度のものでは其れを行う意味が無いのである。
従って所謂"Wet Noodle Flex Nib"のDip Penの金ペン先ではあっても軽い表現に留めて置いた方が美しく見える日本の文字を書くことには向いて居るとも言えることだろう。
それで、其処で軽い表現に留めて置くというのであれば、Dip Penの"Wet Noodle Flex Nib"を自在に操ってむしろ線の変化を最小限にしていかなければならないのである。
それは相当な筆記上の技術が居ることかと思う。
Dip Penの金ペン先の中には相当に柔軟なタイプのものがあるため、それを自在に操るには硬筆筆記の技術よりもむしろ書道の運筆の技術の方が役に立つようになって来るものなのだ。
其の、力を抜いて穂先を運ぶという感覚はまさに書道の運筆上の技術の方に近いものである。
普通に力を込めて書いて仕舞うと、縦の線が太くなり過ぎて日本語のカリグラフィーとしては少し個性的になり過ぎるきらいがあるため余程に力を抜いてペン先を運ぶのである。
其の時の線描の制御の加減が難しいのでこの種の改造ペンやアンティーク萬年筆の"Wet Noodle Flex Nib"を持ったペンの場合にはむしろ書道に見られるが如くに力を抜いた繊細な筆致が其処に必要とされて来るのである。
つまりは"Wet Noodle Flex Nib"というものは元来日本語の表記には余り向いていないペン先だとも考えられるのだ。
然し其れを書道でのように運筆圧制御の繊細な筆記技術でもって御していきつつ美しい日本語を書いていくことは充分に可能なのである。
左様に萬年筆といっても本当に柔軟なニブを持った古典的な萬年筆やこの種の特殊な改造ペンでいざ日本語を書いていく場合には色々と大変である。
もっともそうした筆記が大変だとは思わない人にはそれも逆に楽しくて仕方がない筆記として認識せられて居る筈である。
尚、印度のアイドロッパー方式の万年筆は世間で語られて居るが如くにペン芯のインク制御の能力が貧弱で時折インクを噴き出すことなども確かにある。
然し、私の場合は是れを万年筆だとは思わずに筆だと思って居るのだからして、そのようなことが起こったにせよさほど大きく気になるという訳ではない。
1.私が萬年筆で書くのはプライヴェートなものに限りそれで汚してはいけない文書などに書き込む訳ではない。
2.インクを噴き出すことは屡保管中にも起こるが、其の対策として筆記状態のままで筆用のキャップを被せ直立させた状態で筆筒の方に保管しておく。
3.そのようなことが起こり得るにせよ印度のアイドロッパー方式のエボナイトの万年筆の軸は素晴らしいと言える。特に其の値段の割に物が良い。エボナイトの軸が確かである。
ちなみに次回のRangaはデスクペンタイプのものを考えて居るところですが、無論可能であればペン芯は古典の萬年筆のものに付け替えても良いのである。
またペン先の方はDip Penの"Wet Noodle Flex Nib"を付けてやっても良い訳だ。
印度の万年筆は若干アバウトでつまりは四角四面に合理的ではないだけにこんな風に様々に味付けを変えられる点が私にはとても好ましい部分なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1461回) ..2013/06/15(土) 00:53 No.4529 |
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Dip Penの金ペンを付けた萬年筆は非常に魅力的な筆である。
ただし、この種の筆は其の筆記の目的が特化したものであることを良く分かった上で使っていかなくてはならない訳である。
其れ等は私の印象では要するに線描筆記の為のペン、即ちカリグラフィー用のペンであることを最低限認識していなくてはならない。
http://yahoo.jp/box/dc7RUA
こちらはWirtとWaterman52にDip Penの金ペンを付けた萬年筆である。
ただしWirtは立派に萬年筆として使えているのだが、Waterman52は現在Dip Penとして使っているものである。
尚、このWirtのこのニブのことをDip Penの金ペンとして取り上げるには無理があるのかもしれない。
ひょっとするとオリジナルのニブである可能性もまたあるからなのである。
以前このWirtを取り上げた時に私は改造ニブではないかという結論を下したのだったが、現在はまた分からなくなって来て居り、オリジナルのニブである可能性もまた捨てきれないと考えられて来ているからなのだ。
どのみち其れがどこのものであろうと私には関心が薄い。
この金ペン先がまさに恐るべき線描能力を有して居て、私の持って居る万年筆の中では間違いなく最も線描能力の高い萬年筆であるということこそが最も大事なところなのである。
この金ペン先は萬年筆のニブというよりもDip Penの金ペンの方に限りなく近い。
Dip Penの金ペンは中には硬めであるかないしは剛性感が強く感じられるタイプのものがあるのかもしれないが、私の手持ちのDip Penの金ペンは皆柔軟性が高くありそれだけではなく兎に角線描の筆記が得意である。
即ち戦後の万年筆のニブのように線というよりは面、そうした面が表現されていくニブとは根本的に違っており兎に角書いて居て線の美しさの感じられるニブと成って居る。
尚私は戦前の萬年筆のニブはすべからくこの線描系のニブだと考えて居り、であるからこそ戦前の萬年筆のニブは美しく西洋の言語や日本の文字を書き紡いでいくことが出来るのである。
特にこうした典型的なDip Penのニブの形状をしたニブやまたはステノグラファーのような特殊な用途のニブなどは特に線描能力が高いものと考えられる。
線描というものの向き不向きというものは、萬年筆によって書かれた線から微妙に視覚的な差異が見てとれるものなのであり、其処で明らかに線描向きであると断定出来るものや逆に明らかに線描には向いていないニブもあったりでなかなか難しい判断ながら大体のことは分かると言っていい。
また線描筆記は大抵の場合尖ったタイプのニブが向いて居るように私は思う。
ただし其のニブが尖っていることと柔軟性が特に高いということとはまた別の性質である。
しかしながらニブが尖っていると普通線描には強い。
従ってDip Penのニブの形状をしたニブは例外なく線描には強いと言えることだろう。
尖ったニブは切り割りの長さも長くなり易く、そうなれば見かけ上の反応のセンシティヴィティが増すので其処ではカリグラフィーを行うことがやり易くなることだろう。
兎に角私にはDip Penのニブの形状をしたニブのようにニブが尖って居るものが一番好ましく手に合う。
多分私は元々カリグラフィーには向いたタイプの筆記者だったのだろう。
さて、こうした特殊な萬年筆の扱い方であるが、其れ等で英文のカリグラフィーを行うというのであればまだしも、其れ等で日本語の文字を書き連ねていくというのであれば、其処で完璧に運筆圧を制御したところでの、まるであの書道に於ける面相筆での書き方のような繊細な運筆が其処に必然的に要求されて来ることとなる。
何故そうなるのかということは先にも述べて居るように、日本語の文字というものは、それも現代の日本語の実用文字に於いては、其処で特に大きな陰影の効果が必要とされて居る訳ではないからなのである。
むしろ其れをやって仕舞うと筆跡に於ける個性的な度が過ぎて仕舞い、其れは書道的と言えばそう言えないこともない訳なのであるが、そうではなく日本語の書写に於ける運筆に沿った形での適度な陰影の付加ということの方が、日本の文字というものをより上品に見せ尚且つ線の美しさを生み出していくものだからなのである。
そのような理由でこうした特殊な萬年筆を扱う場合にはむしろ低筆圧筆記で書いていく必要がある。
低筆圧筆記で書いていくのだが、其の低筆圧で書いてもニブが敏感に反応する為運筆の所々で運筆圧がかかり結果的に線描の筆記となり得るのである。
以前私は低筆圧高運筆圧筆記ということを述べていたことがあった筈であるが、其れはまさにそうしたニュアンスでのことなのである。
尚、書道の書き方がまさに其の低筆圧高運筆圧筆記なのである。
いや、むしろ其れは無筆圧高運筆圧筆記なのである。
要するに書くのに全く力は入れていないが筆の重みで自然に穂先が紙を捉えそして所々で結果的に運筆圧がかかり線が変化して居るのである。
ちなみにらすとるむさんがブログの方でFLEX NIBを線描筆記する場合の筆圧を測ってみられて、其の筆圧が普通のニブの万年筆を普通に書く時の筆圧よりも余程に低い筆圧であったというまさに意外な結果について述べられて居ますがまさにそうしたことなのだろうと思う。
柔軟性が高いニブというものは、むしろ低筆圧で書いても線を変化させていくことが出来るのである。
私はそのことをこれまでここで感覚的に得られた部分から述べて居たのである。
つまり特に柔軟なニブには筆圧はほとんど要らずということになるのだが、ただし運筆圧の方は字形に沿った形でかけていかないとなかなか美文字は書けないものなのである。
だが、柔軟なニブに全く力をかけないでつまりは全く線の変化というものを感じさせないような筆跡でもって平面的に書いていくことは書き方の誤りである。
それでは柔軟なニブである意味が無いからなのである。
さて、WirtとWaterman52の話に戻りますが、この二本とも兎に角非常に線描能力が高いということが言える。
ニブの柔軟性は大体同じ位だと言えるが、こと線描能力という点では本物のDip Penのニブを付けたWaterman52の方がより線のキレが良いとも言えそうである。
ちなみにWaterman52にはAIKIN LAMBERTの3号のDip Penの金ペンを付けて居る。
セクションが取れない為に使って居ない軸なのでDip Penの金ペンを付けてDip Penとして使って居る筆である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1462回) ..2013/06/16(日) 23:04 No.4531 |
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http://www.ebay.com/itm/Ultra-Rare-Platinum-70th-Anniversary-Ag950-L-E-Fountain-Pen-157-500/140993806135?_trksid=p2047675.m1982&_trkparms=aid%3D333005%26algo%3DRIC.FIT%26ao%3D1%26asc%3D177%26meid%3D8366527031298138942%26pid%3D100009%26prg%3D1088%26rk%3D1%26sd%3D360449527804%26#ht_1077wt_934
プラチナ70の銀透かしのモデルが出されて居ります。
プラチナの70周年記念萬年筆には縦延べ鍛造?で作られたニブが付けられて居るとのことで、其処は矢張り限定品としてはかなりに力作のものだったのではなかろうか。
私もこのモデルは持って居りますが、いまだ未使用である為筆記感などについては分からない。
New Wancher 3776 Root Multitude Specialized Pioneer Insects shaping BROAD nib FP http://www.ebay.com/itm/New-Wancher-3776-Root-Multitude-Specialized-Pioneer-Insects-shaping-BROAD-nib-FP-/171058146806?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item27d3dc2df6#ht_3971wt_1067
さて、近年プラチナの万年筆、それも比較的最近のものをアイドロッパー化して使ううちにプラチナの万年筆はアイドロッパー化することと非常に相性が良いものであるということが分かって来た。
1.使用中にインクが何処からも漏れ出て来ない。
2.携帯して使っても余程激しい動きを与えない限りはインクが何処からも漏れ出て来ない。
昔からそうなのだがプラチナの万年筆はペン芯の方がよろしくないようで、それでアイドロッパー化して大幅にインク容量を増大させても要するにインクを多く流すことが苦手なペン芯なのでまだインクを多く流しては呉れないのである。
つまりは其の事こそがプラチナの弱点であった訳ですが、ことアイドロッパー化することに限り、其の弱点が逆に長所になって仕舞ったということなのだ。
とは言ってもプラチナばかりではなく多くの現代の万年筆がアイドロッパー化することに向いて居るのではないだろうか。
なぜそのように思うのかと言えば、現代の万年筆のペン芯は概してインクの制御能力が高く決して紙面を汚さないものとなって居るからなのである。
またなぜそのようになって居るのかと言えば、現代社会からの要求で万年筆が紙面を汚して仕舞うことが許されないのであり、そうと決まったら各社一斉にペン芯のインクの制御能力を上げるだろうから昔の萬年筆に比べインクが流れにくい筆となって仕舞って居るのではないだろうか。
つまり、其処でインクの制御能力が高いということはインクの流れ方がスムーズでないこととも言えることなのかもしれない。
実際古典の萬年筆のエボナイトフィードはいたってインクの流れ方がスムーズである。
要するに其処ではインクの制御能力が現代の万年筆のフィードに比べ低いのではなかろうか。
そうしたものであるからこそニブを調整する必要がほとんどなく、逆に現代の万年筆は調整を行わないとインクの流れに不満を感じさせられるような個体が多いのかもしれない。
現代という時代にはそうした一種不合理な構造が存在して居る。
そこではペン芯を進化させてインクの制御能力を高く保って居るのだがそのゆえに逆に書きにくくなって仕舞って居るということなのかもしれない。
無論現代の万年筆の中にも初めからインクが潤沢に出て調整の必要性を感じさせないようなものはある。
それでもどうもそうした書き易い筆の割合が古典のペンに比して少ないように思えて仕舞うのである。
一方で古典のペンには年月の経過や或いは当初からの不具合の面などにより今日での使用が難しい場合などが無いとは言えない。
古典のペンには屡トラブルも生じるのだし、それらは神の如くに万全である訳ではない。
然しそうしたトラブルなどを差し引いても古典のペンはとても書き易い筆であると私は結論づけて居るのだ。
もっとも現代の万年筆の中にもセーラーのペン芯のようにインクを良く流して呉れるタイプのものは在る。
だからそうした万年筆はそのままで使っていけば良いのである。
然しペン芯の方がよろしくない古いプラチナは、まずは調整して使わないと気分よくインクが出て呉れないものである。
ただしその部分に関してはあくまで全体的に言えばということなのである。
プラチナにも最初から調子が良くインクが潤沢に流れて呉れるものは在る。
あくまで普通はインクの出ないタイプの方に当たる確率の方が高いということなのである。
そうした場合に限り私はプラチナをアイドロッパー化して仕舞うことを選んだのである。
ところがいざそうしてみるとプラチナは非常に扱い易いペンになって呉れるのである。
其処ではインクの流れが向上し、連続して沢山の文字を書き連ねることの出来る筆となり、かつ携帯時にもインクの漏れが無い、まさに理想的な現代のアイドロッパーとなって仕舞ったのだ。
おそらくはプラチナのペン芯が元々インクを流しにくいものであり、そこをアイドロッパーとなして半ば強制的にインクを流して仕舞うという訳ですが、そうなったとしても結局元々インクを流しにくいペン芯なので携帯時にペンを運動させてもインクが漏れ出して来ないのである。
http://yahoo.jp/box/LheURd
こちらは先代の3776の14Kの細軟モデルである。
このペンも当初からアイドロッパー化して居りますがなかなか調子が良い。
ただ、アイドロッパー化して居るにも関わらずまだインクの供給がいまひとつである部分さえもがある。
つまりは其処に付いて居る貧弱なプラペン芯のインク供給能力がいまひとつなのである。
インクの制御能力の方は素晴らしいものがあるのに、だからこそなのかインクの流れが完全ではない。
然し、当初かなりに書きにくかったこの3776の14Kの細軟モデルはアイドロッパー化することによりすっかり生き返った。
普通に書いて居る場合にはインク供給能力に不満は無いですが、線描でかなりに太い線を書いていく場合などに筆跡の線が白ヌケを起こしインクが供給されていないことなどが屡ある。
そしてだからこそ携帯してもインクが漏れない万年筆となって居るのだ。
従ってこれこそが素晴らしい現代の万年筆としての実用アイドロッパーの完成なのである。
携帯されることが得意で元々細字の字が細かいので結局これを戸外で使う手帳用の万年筆として選んだ。
手帳は件のモレスキンにも似た中国製の百円手帳である。
ニブの方は柔軟性は高いのだが粘りの方はそれほど感じさせて呉れないニブである。
然しこのニブは今後戸外で大活躍して呉れる筈である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1464回) ..2013/06/19(水) 00:41 No.4533 |
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結局、現在の私はインクの制御が完全ではあるが使ってみてどこか面白みの感じられない万年筆と、インクの制御が不完全ではあるが使ってみてどこか面白く感じられる万年筆とを心の中で天秤にかけて、そこで結局は後者のタイプの万年筆をのみ使ったり収集して来て居ると言っても良いのである。
尚、私は元々書道の方も好きだから多少インクで紙が汚れるようなことがあっても一向に気にならないのである。
無論其れも程度問題で、EDなどで常にインクがダダ漏れの筆ではどうしようもないことだろうが、たまにインクがダダ漏れになって仕舞うこと位は完全に私にとっての許容範囲となることなのである。
ちなみに私は神経質であると自認して居りますが、それにしては許容範囲がなぜそんなに広いのだろうか。
いや、私はむしろ大きいところに物凄く神経質なのであり、たとえば文明の行く末とか日本の将来とかそういうことに対して大変細かく神経質に考えていくタチなのであって、対してたかがEDのインクが漏れるなんてことはほとんど意に介さない部分なのであり、其処でむしろインクが漏れて偶然に紙を染め上げ良い景色の書の作品に仕上がったわなどと考えているのだからまあ矢張り余り常識的な万年筆の考えの持ち主ではないのかもしれない。
尚、私は使って居る紙の方も実に大雑把な感覚をして居て、たとえば滲む紙、そんな紙をむしろ好んで選んで使ってみたりもして居る。
この辺りも要するに書道的な感覚の部分から来て居る部分なのである。
普通硬筆筆記である万年筆の筆記では筆跡が滲む紙は敬遠されることと思われるが、私の場合には其れが苦にならないのである。
むしろ余りに滲まない紙は苦手であり、そういうのは四角四面の合理紙に感じられやすいのであり、同時に味わいの無い冷たい紙に感じられて仕舞うのである。
紙に冷たい温かいというのも変な形容なのだが、実際に紙には筆記感の方をも含めて温かいのと冷たい感じなのとがあると思う。
どちらかというと私は中国やインドネシアで作られた手帳や便箋の紙に於ける筆記感が温かく感じられて好きなのである。
要するに雁字搦めに滲み止めの薬品の入ったような紙でなく、また漂白などされ過ぎて居ない自然な紙を求めているということなのだろう。
特に机上では上記で述べたような趣味、嗜好の部分が強調されて出て来る。
其処ではおそらく萬年筆で実用文字を書きたいのではなく其処で書の如きようなもの、文字の作品のようなものを生み出したいと思って居るのかもしれない。
さてこのところまた急に印度の萬年筆が恋しくなり色々と調べて居ると以下のようなものが出て来た。
Peyton Street Pens-Search results for 'RANGA' http://www.peytonstreetpens.com/catalogsearch/result/index/?limit=80&mode=grid&q=RANGA
ちなみにこのPeyton Street Pensという店では先に述べたようにかってFairchildの6号のDip Penの金ペン付きのRanga萬年筆が売られていたのである。
其れは大変魅力的なRanga萬年筆ではあったが、其処で良く考えてみれば其のFairchildの6号のDip Penの金ペン付きのRanga萬年筆を此処から買うよりは、Ranga萬年筆をもう一本求めて其れに手持ちのFairchildの6号のDip Penの金ペンを付けてやる方が経済的である。
其のFairchildの6号のDip Penの金ペン付きのRanga萬年筆は確か$200以上していた筈だが、対してRanga萬年筆をもう一本求めたにせよ其れは五千円前後で入手出来る。
其処からしてもこのRanga萬年筆の経済性ということは何より魅力的なことなのである。
私はRanga萬年筆が所謂実質的な価格になって居るのではないかと今考えていて、要するに印度のエボナイト自体が安いのと印度のエボナイト 職人の人件費が安いのとで其れは二重に安く、しかも円安になってもまだ安い。
どだい五千円前後のものなんていうものは一ドルが80円だろうが100円だろうが余り大きくは違って来ないものだ。
対して十万円前後のものは流石に大きく値段が変わって来る。
その半分の五万円のものであっても結構違いが大きい。
其の印度の萬年筆の経済性は然しいつまで続くものであるかということが予想しにくい。
印度が近代化に於ける新興国であるだけにやがては二倍、三倍の価格となって仕舞うことが考えられない訳ではないのだし、逆にペン芯のインク制御能力の低さからいつまで経っても価格は変わらないというケースも考えられなくはない。
ただ、今現に安く売られて居るものは今のうちに買い集めておくことが一番確かな経済的な対策となる得ることなのかもしれない。
Ranga Ebonite #4C Rounded Ends - Oversize, Blow-Filler, Choice of Nibs http://www.peytonstreetpens.com/ranga-ebonite-4c-rounded-ends-oversize-blow-filler-choice-of-nibs.html
こちらのエボナイト軸は黄色と緑色の鮮やかなマーブル軸で、ニブはRanga、Wality、Sheaffer No Nonsenseなどのスチールニブのものを選べるようである。
吸入方式をblow-fillerなるものに変更し其処でインクサックを用い、つまりはインクの容量を小さくしてインクのボタ落ち対策にでもしているのだろうか。
何にしても、EDのインクの漏れ、特に所謂ダダ漏れに関してはむしろペン先の取り付け方の誤りの方に問題があるような気がしてならない。
其処で私のRangaに付けてあるSheaffer LIFETIMEのニブの取り付け調整を厳密に行ってみた。
それで今のところダダ漏れは起こって居ないのである。
ただしこの状態で再びダダ漏れが起こるのであれば、矢張りペン芯のインク制御能力の低さということに原因があるということが証明される筈なのである。
http://www.peytonstreetpens.com/other-manufacturers/pen-makers-asia/indian-ebonite/ranga-ebonite-bamboo-parker-modern-duofold-broad-nib-black-smooth.html
"Ranga Ebonite Bamboo - Parker (Modern) Duofold Broad Nib"とのことで何とParker (Modern) Duofold Broad Nib付きである。
"Sheaffer No Nonsense feed and converter. We have fitted the Ranga section with a Sheaffer No Nonsense feed, allowing you the ability to use Sheaffer cartridges or the included converter.
In addition the converter can be removed which will allow you to use the pen as an eye dropper.
Eyedropper. You unscrew the barrel and fill it with ink, then screw the barrel back on and you are ready to go. The barrel holds a lot of ink."
とのことでRangaにNo Nonsenseのfeed and converterを組み込んだということらし い。
またeye dropperとして使う場合にはコンヴァーターを取り去ることが出来るようだ。
さらにその下にはeye dropperのインクのダダ漏れの件に関しても詳しく言及されています。
次回に続く。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1467回) ..2013/06/24(月) 23:01 No.4536 |
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さてEDのインク容量の大きさというものは筆記上の大きなアドヴァンテージであるべき筈のものなのだが、むしろそのことの故に筆記上の問題を引き起こして仕舞うことでもあるのだ。
EDのインク量の減ったことが確認された場合にはまずインクを注ぎ込んで一杯にしておけば良いのだけれど、実際には其の事が面倒でなかなか出来ず、ゆえに結局はインクのボタ落ちが発生することも屡なのである。
然しEDは現代のペンとは違ってインクの制御に関してはすべからく大雑把だと其処で知り、其の大雑把であるがゆえのインクフローの良さや鍛造ペン先のフィーリングの良さなどを楽しんでいく行き方もまた当然にある筈なのである。
現代のペンはまさにそのままに現代の大都会の生活のようなペンが多いが古典のEDは大自然に抱かれた山間の村の暮らしのようなものなのだからして、其処で色んなことを手作業でやらねばならないのだし色々と手間がかかるものだ。
ただし、本質的にはむしろ手間はかからないのである。
壊れるとまさにゴミのようになって仕舞い大掛かりな修理が必要となるのは現代のペンの方なのである。
其れから古典のEDは色々と弄れる部分もあり其処も面白い部分ではないかと思う。
何せ単純な構造の万年筆なので色々なことが出来そうである。
今私が考えて居るのは、古典のEDに現代のペン芯をあてがったら一体どうなるのだろうかということなのである。
現代のペン芯と言っても、其処は無論のことプラ芯では格好がつかないから初期のヴィスコンティやアンコラのペン芯などのエボペン芯を付けてみたら一体どんな感じのペンに仕上がって呉れるのだろうか。
いや、其処は現代のペン芯に限らずレヴァーフィラーのペン芯を組み込むという手などもありそうである。
何にせよ古典のEDのペン芯はどうもインクの制御能力が低いものであるように思えてならない。
尚、先の改造Rangaの話に戻りますが、其れを売って居る先の店ではフィードをシェーファーノンナンセンスのものに替えたりして売って居る訳である。
そして其のフィードは滴る超過インクを吸収する、より良いキャパシティを持って居るということが書かれて居る。
だから原始的なアイドロッパーのペンにはインクの制御能力の高いペン芯を組み込むことがインクのボタ落ちのひとつの解決策になる筈である。
実際現代のプラチナーそれも90年代のものでも、或いは60年代のものでもーをアイドロッパー化すると非常に調子良く使えるようになり、尚且つインクが漏れ出て来ないのである。
このことは其処でプラチナのインクの制御能力の高いフィードが大容量の軸が空になりかけた場合でもインクをせき止めて仕舞って居るから漏れ出ては来ないのである。
そうしたことからも原始的なアイドロッパーのペンにはインクの制御能力の高いペン芯を組み込むことがひとつの対処法として考えられるのであ る。
また一方では先の店ではRangaのアイドロッパーのペンにインクサックを用い、インクの容量を減らしてインクのボタ落ちの対策としていた訳である。
然し、私は個人的にこの対処法は好きでない。
なぜなら折角のEDの大容量が無くなって仕舞い、それではレヴァーフィラーと同じことになって仕舞うからなのである。
実感的にEDの大容量ということは本当に素晴らしいもので、それはまずインクの出方が良いということがあり、次に二ヶ月位使わなくても多少振り出せばすぐにインクが出て書けるという部分がある。
無論振り出さずともすぐに書けるEDも中にはありますが。
さて一週間位前のこと、暫く振りにL.E.WatermanのEDの世界へ戻ってみたところ、矢張り其処では実に実に豊潤な筆記の世界が拡がって居て新たな感動のようなものを与えられたのであった。
其れも何でも兎に角良いのである。
どのモデルでも本当に良い。
そして何故か最近は私のL.E.WatermanのEDからインクがボタ落ちすることが無くなって居る。
というのも、すべてニブを厳密に取り付けの位置調整を行っているからなのである。
いや、本当にそんなこと位でボタ落ちすることが防げるのだとしたら凄いことなのだが、其れは今のところ分からない。
然しニブの取り付け方を厳密に行ったL.E.WatermanのEDは明らかに以前よりも筆記感が向上して居る。
どうも古典のペンというものは時の経過や使用歴などの影響でニブの取り付け方がおかしくなって仕舞って居るものが多いのかもしれない。
尚、現代の万年筆でも、ニブの取り付け方が悪いと正規の書き味なり筆記感なりが出ないものである。
これは自分でやってみると分かる筈である。
ペン先をひっこ抜いてみて、もう一度ニブを差し込んで正規の書き味なり筆記感なりが戻るかというともはや戻らないのである。
非常に複雑かつ微妙な力がペン先には働いて居るので、だからこそ基本的にはニブを弄ってはいけないのである。
然しながら其処を弄らざるを得ない場合というものが愛好家の側にはあるものなのである。
それでちょっとでも弄るともはや正規の書き味なり筆記感なりは戻らないということになる。
ただしそのようになった状態を正規の書き味なり筆記感なりの方向へ、それもほとんど100%戻す方法が無い訳ではないのだ。
そのことは手動で出来ることなのだけれど、兎に角時間はかかる。
この私のWaterman16は4年位かかって今ようやくそんな状態に戻った。
ただし、このことは時間ばかりではないのである。
4年位かかって戻し方が分かったということなのであるから、今は一日のうちに何本も戻せて仕舞うようになって居るのである。
そんな風にして先日多くのL.E.Watermanのニブの厳密な取り付け方の修正を行ったのである。
そうしてみたところ、兎に角皆素晴らしい。
Waterman16の6号ニブは流石に粘りの方があり線描が大得意である。
Waterman5の古い5号ニブはびっくりする程にリッチな筆記感となり、まさにこれだ!と叫びたくなる位の豹変振りだったのである。
以上のことからも古い萬年筆のペン先の整備は厳密に行っておいた方がよろしいようである。
ペン先の取り付け方ひとつで筆記感はまるで異なるものとなるのだから。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1469回) ..2013/06/29(土) 23:35 No.4540 |
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http://yahoo.jp/box/BTMEKm http://yahoo.jp/box/A9eWyj
このRangaのDESK-TYPE-PENはつい先日\7,633 JPYを支払い求めたものだ。
だがコレは一言で言って想定外の化物ペンなのであった。
このペンはまず其のサイズの方が全く非常識である。
全長は筆記状態で231mmで、収納状態では238mmにも及ぶ。
これだけの全長があると、余程に特殊な万年筆使いの愛好家でなければ扱いきれない。
私が其の特殊な万年筆使いの方なのだけれど、それでも少し大きすぎるといった感のすることは否めない。
兎に角長すぎるのである。
そして結構重い。
無論総エボナイト製の軸ではあるのだけれど、重すぎるのである。
其の重量は32gである。
無論異様に重い現代の限定万年筆のように重いという訳ではないのだ。
それでも私にとっては想定外の重さをしていたのである。
だから私は当初このペンを購入したことは失敗だったと判断せざるを得なかった。
もう少しまともなサイズのデスクタイプのペンを予想して居たので、コレは大きすぎて使えないことだろうとまず思ったものである。
然し、このペンには色々と良いところもあった。
1.エボナイトの軸の作りが相変わらず悪くない。いや、明らかに良い部類の作りの軸である。 2.軸にはインクが滅茶苦茶に入る。スポイトで四回分は入る。 3.ブルーのカラーエボナイトの色合いが何とも魅力的な色をして居る。所謂ロイヤルブルーのような色合いでとても良い色だ。 4.WALITYのスチールペン先付きだが、このニブの出来が大変良かった。
それで、暫く使ううちにこのペンにむしろ惹かれていったのである。
最初はとても使えるシロモノではないと思ったのだったが、次第に其の存在感の大きさに惹きつけられていくこととなった。
といっても、本当はもっと短くそして軽いデスクタイプのペンの方が私にとっては良かったのである。
ただ、このような想定外の出来事が起こることは何やら印度らしくて好ましくも感じられる部分である。
ちなみに70年代位までの印度はまさに物凄いところで、其処では動物やら人間の屍やらが普通の街の中にも一杯でもし文明人が其処へ足を踏み入れたのだとして其処で精神的に大きなショックを与えられるだろうことは必定であったらしかった。
らしかったというのは、あの横尾 忠則の印度紀行の本に確かそんなことが書いてあったからで、無論私が当時自分で印度を訪れてそのような感懐を抱いたという訳ではなかったのである。
要するに訳の分からないことが屡起こり得るという部分こそが印度らしくて良いということは言えるかと思う。
それこそが皆同じように小綺麗に整備され動物と人間の区別、また生者と死人の区別がはっきりとしている現代の先進国からははかり知れない印度の摩訶不思議な混沌の様なのである。
そういった混沌の様をこそ目指して、当時印度には悩める若者が世界中から集まって来て居たらしかった。
このらしかったというのも、実際に私がそのことを見聞きした訳ではなく様々な情報の断片を繋ぎ合わせるとどうもそのようであったらしかったというだけのことなのである。
してみると、どうもこの頃の若者の方が世の中に対して純粋に疑問を抱いていたようである。
たとえばここ日本で言えば全共闘世代の方々、この世代の方々は実際に社会制度と真剣に闘っていた訳で其処は我我のような甘ちゃん世代とは根本的に異なって居る。
其の頃に生まれていたとすれば、私の場合は多分闘っていたことだろうと思う。
おそらく勉強などはしないで過激な社会闘争にでも身を投じて居たのかもしれない。
が、其れも実はあくまで空想の範囲内のことで現実にはそんな闘いが怖くて怖くて文学書ばかり読んで居る様な学生に過ぎなかったのかもしれないのだが。
何にしても、この印度のアイドロッパーはそんな際限ない空想を引き出して呉れる程に訳の分からない存在であった。
そして現在でも其の訳の分からないままにこの奇っ怪な筆と日々付き合って来て居るのである。
さてこの軸が重めなのは、ただ大きいばかりではなく軸の肉厚が妙に分厚いことから生じて来て居ることのように思われる。
一体何でこんなに分厚くエボナイトの軸を削って居るのだろうか。
デスクタイプのペンなのだからもう少し軽く仕上げるのが常識というものではないのか。
また何でこんなにペンを大きく作る必要があるのだろうか。
されどそうは言ってもすべてが後の祭りなのである。
このペンに於ける裁量権は印度の職人さんが、或いは印度のペン会社の方が握って居り私のような日本の一愛好家がどうほざこうがそれとは無関係にこのペンはこれからも作り続けられていくのである。
いや、むしろ其処こそが面白いのである。
合理的な予測が不可能である点が混沌の中の印度、いまだに混沌として不合理の渦が入り乱れている新興国の印度としての素顔を彷彿とさせて呉れ何だか逆に安心して仕舞うのであった。
尚、この個体はBakulタイプという艶消し仕上げを選んで居りピッタリと手に吸い付くようなグリップ感で其処は非常によろしい。
然しその故にか汗などで少々軸が濡れるとエボナイト特有のゴムの匂いの方が結構強い。
ただしWALITYのスチールペン先は幾分しなやかで非常に筆記感の良いものである。
従ってこのままで使っていくこととした。
WALITYのスチールペン先と黒いエボナイトのフィードはスペアーの分も付けられていて其処はなかなかに親切である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1470回) ..2013/07/02(火) 00:10 No.4541 |
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結局アイドロッパーのペンとはより合理的なペンであるとは言えないのである。
だから屡インクが漏れるなどの厄介な現象がついてまわる。
其処を嫌う現代人はそんな筆は扱いにくいのかもしれない。
だが私の場合は兎に角アイドロッパーが好きだからインクが漏れようがどうしようが今後もずっとアイドロッパーを使っていくのである。
そこでは特に、インクの流れが充分なものとなるところが好ましく感じられるところだ。
其処でペン先を調整することなくインクの流れが良いという部分が一番魅力的である。
されどそうした筆は携帯することには普通向かないものなのだし、印度のアイドロッパーに限っても其れらを携帯して使ってみようなどとは思わないのである。
要するに机上専用で、しかも毛筆と同じような感覚で扱い筆筒に立てて置いてある。
アイドロッパーはそして災害時などにも強いことだろう。
ちなみにここ日本は地震国でおそらくは今後も大きな地震に見舞われる確率が高い。
そんな折に修理や調整が必要なペンでは心もとないことだが、アイドロッパーには修理も調整も基本的に必要無いからインクさえあればいつでもどこでも使えて書ける。
インクが漏れること、それもダダ漏れする場合には少々困るのだが、まあ其処も何とか誤魔化しながら使っていけるものなのである。
このように原始的なものは何かと確実で安全、安心である。
だからあの原子力発電所なども被災時に原始的な方法で復旧出来るように是非作っておくべきだったのだろう。
そうであれば、海洋を広範囲に放射能で汚染することなどは無かった筈なのである。
其処からしても現代人は科学の力を過信して居るのかもしれない。
すなわち其処では理性、知性の方が働いても居るのだとしても、知恵や智慧の方が働いて居ないのである。
その部分からもアイドロッパーの構造の原始性や原点回帰的な部分からは常に現代人が学んでおくべきところのものなのである。
http://yahoo.jp/box/gwTUVn
このように筍筆Dip PenやJapan Style eyedropperと比べるとDesk Type eyedropperがいかに大きいペンであるかということが良く分かる。
そしていかに美しい色合いのペンであるかということも良く分かる。
古典のアイドロッパーの軸色は黒か朱か、または黒と朱の斑のものばかりなのでこの鮮烈なブルーの色合いの軸が実に新鮮に感じられる。
ブルーの万年筆はありふれているようでいて案外少ないもので、私の巨大な使用する万年筆ケースの中にも実は案外少ないので目立つことこの上ない。
尚このRangaは首軸の方は細いが胴の所からが妙に太いので線描系の運筆は意外と不得意でGT筆記でゆったりと書いていくタイプのペンとなって居る。
そしてWALITYのスチールペン先は金ペン並みに筆記感の良いものである。
ところでアイドロッパーのペンがこうして日増しに増えて来ると、次第に思考傾向もアイドロッパー並みに原始的なものになっていき、つまりは其処で原点回帰の、或いは温故知新というような感覚上の固定軸が設定されて、我はもうスッカリ脱文明の人になったような気がして来るので個人的には其の事が楽しくて仕方がない。
と言うよりも元々私の思考傾向が脱文明的なものであったのでそのことに合わせて万年筆もアイドロッパーを選んでいったと言うことの方がより正しいことなのかもしれない。
そして其の脱文明ペンはやはり印度製でなければならなかったのかもしれない。
尚印度という国は思想、哲学または宗教の上で重要な役割を果たして来た国だったのである。
インド哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6
仏教の開祖釈迦牟尼は現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生したとされているが、釈尊の説いた法にはそもそも解脱という概念が含まれており、それで実際に釈尊は解脱されて仏陀となられたのである。
ところが『解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。 』と上にも書かれて居る様に、輪廻を脱して解脱するという思想は何も釈迦オリジナルのものではなく元々印度の古い思想、哲学には普遍的に見られるものだったのである。
ウパニシャッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
其処には所謂ウパニシャッド哲学といわれるものが古くから存在して居り、釈尊の時代にも印度或いはネパールの地域では其れが幅広く奉じられて居たとされている。
リグ・ヴェーダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80
このようなリグ・ヴェーダという聖典もあるがこれも兎に角その成立年代が古い。
マハーバーラタ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%BF
もっとずっと後のグプタ朝ごろに成立したとされている古代インドの神話的叙事詩が『マハーバーラタ』(महाभारत Mahābhārata)である。
マハーバーラタのあらすじ http://www.mekong-publishing.com/books/arasuji.htm
ちなみにWikipediaには映像資料として『マハーバーラタ』 ジャ ン=クロード・カリエール、ピー ター・ブルック脚本、ピー ター・ブルック監督 1989年(劇場未公開・ビデオ発売、420分)
と書かれて居るが実はこの映像作品を昔私はヴィデオに撮って何度も繰り返し視ていたことがあったのである。
それは非常に興味深い作品だった。ところが残念ながら現在はベータのヴィデオデッキが壊れていて視られない。
然し『マハーバーラタ』関連の映像作品は丹念に探せば出て来るものなのかもしれない。
大気汚染 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89#.E5.A4.A7.E6.B0.97.E6.B1.9A.E6.9F.93
こちらによると現在の印度の大気汚染の状況は危機的なものになっているようである。
其処は古代の思想、哲学、ないしは宗教の発祥地でもあるだけにまことに残念な結果である。
これだけ智慧のある国でも結局は近代化をなして金持ち国家になることだけを望んで仕舞うというのであろうか。
とは言っても現代人は誰しも豊かになり、そして自由に生きていたいと望んでいる訳である。
だから其の考え方そのものが暴走のようなものなのだが、印度のような、深いところでは精神性の豊かな国でさえも結局はそのことを望んで仕舞うという形での大きな自己矛盾のようなものが近代化を目指す多くの国国にはあるようだ。
尚印度は市場経済を導入しているにもかかわらず、「社会主義の国」と今も憲法で謳っているのだそうだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1482回) ..2013/07/25(木) 00:10 No.4555 |
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IPLATINUM プラチナ 万年筆 ペン先:18K ピンク http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/174749703
リング付きの18Kペン先モデルはこちらでも売られているがコレは初期型ではなくもっと後の時代のものと思われる。
曰く、万年筆には正解が無く、人生にも正解が無い。
コレはけだし名言である。
古い万年筆 吸引式 R14K 刻印http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h178799192
このように最近は古い万年筆の方に人気が出て来て居るようだ。
現代の万年筆は本格性という意味で古い萬年筆にはかなわない部分もある為、収集家は必然的に古いぺンの方を向かざるを得ないということもあるだろう。
酒井万年筆なども以前と比べると倍、三倍もの値段で取引されて居るようである。
然し古い萬年筆やインキ止め式の酒井軸は万年筆の中でも特に使い手を選ぶようなところのあるペンである。
其れ等は古い萬年筆の何たるかという部分を最低限知っておかなければ扱い切れるものではないのである。
私もこれまでに色んな万年筆に触れては来ましたが今自分に本当に合って居るなと思われる筆は五本ほどしかなく、しかも其のほとんどをL.E.Watermanのアイドロッパーが占めて仕舞って居るのである。
其処へ一本位ならWahl-Eversharpかプラチナが入り込むことも出来そうなのだがひょっとすると五本の中に入り込むことは矢張り難しく、そこで十本位に幅を拡げてやって初めて其処に入り込むことが出来るものなのかもしれない。
すると、其の十本があれば私の万年筆ライフは完遂される訳なのである。
其の十本だけで良いということだ。
それにそろそろ真の意味での万年筆の断捨離を行いたいと思うことも屡である。
万年筆は大体十本位あればそれで良いのであるからその数にして いくことが最終的な目標なのである。
ただ実際にはそのことは非常に難しいことなのでひとまず百本位まで減じてみようかと思って居るところなのではある。
モノが多過ぎると実はロクなことはなく、モノが多くなればなるほどに次第に心の方は空虚にさえなっていく。
モノが多くなるとあれもこれもと欲望の方に火がつき限りが無くなるものなので実はモノが多過ぎる方が人間は不幸せになるのである。
断捨離を行ってそのあとどうするのかと言えば私の場合は人生の最後にどうしてもまとまった数の詩を書いておかなければならないのである。
其れが私の本当の意味での仕事なのだからどうあろうと其処で詩集の一冊でもものしていかなければこの世に生まれて来た甲斐などはないのである。
其の前に加島 祥造先生に手紙を出さなければならないのだが、ご高齢の先生のことだから其のことは兎に角急いでやって置いた方が良い。
それで65歳になったら下界の人生からは引退して高山市の横の久々野というところにログハウスを建てて独居することに決めてある。
其処で不便な生活に困り果てて野垂れ死のうがどうしようが其れが私が選んだ道なのであるからすべては自業自得のことなのである。
よしんば其処で野垂れ死ぬのだとしても出来れば山の中で是非そうなりたいというのが私の唯一の願いのようなものなのだから無論其れで全く良いのである。
其処へ持っていく萬年筆 ということを時折考える。
其処へ持っていく筆記具は当然に厳選されたものでなくてはならない。
L.E.WatermanとWahl- EversharpとプラチナとRangaは矢張りどうしても持っていくことになる。
後は適当に選んで全部で百本位を持っていくのである。
十本に絞るのは其の後のことなのである。
あのロレンツォデメディチは其れに入るのかどうか分からない。
でもペン先を古いニブにすることが出来れば持っていくことになるのだろう。
ああ、忘れていたがペリカンも最低五本は持っていかねばならな い。
それにアンコラのニブ付きの改造デスクペンや若干の限定万年筆なども是非其処に入れたい。
おお、そういえばSWANのこともスッカリ忘れて居た!
SWANも結構沢山あるから最低五本は持っていく必要がある。
などとやって居ると百本程の空きはすぐに埋まって仕舞う。
自分にとって真に大事なペンという条件で選ばないとすぐに百本をオーヴァーして仕舞う。
けれど其のオーヴァーして仕舞って居る筆達も皆愛着のあるものでおいそれとは断捨離候補に選んでおけないものばかりなのだ。
されど生き抜く為には、この濁世を自称の詩人として清く正しく生きていく為には決意を持って断捨離を断行し、兎に角まんねんひつを出来る限り減らして置くことの意義は大きい。
今よりも物欲を断捨離し、萬年筆の数を断捨離し、それでいつのまにか仙人のような厳しくも清く正しい内面を獲得して、ついでに近くの山にでも出向いて遠くの滝の方まで歩き、其の滝にうたれつつ禅定を行い、身も心もこれ以上無いというほどに断捨離され、あれ、うれしいな、すでに我はここまで神と仏に近づいた。 もはやこれ以上望むべくもない。今こそ我は聖なる詩人としてここに詩をかくべし。
そこでペン箱をゴソゴソと探し回り、それらからお気に入りのペンだけを取り出し、徐に我は自然の詩と仏教の詩を其処に書き記すのであった。
大体上に出て来たブランドなどが其の詩作に用いる為の萬年筆なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1483回) ..2013/07/27(土) 00:29 No.4556 |
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素晴らしい改造万年筆、書く事でこんなに私の心を癒して呉れるペンがこのヴァン・ゴッホ改アイドロッパーなのである。
この改造万年筆で書いていると楽しい。
とてもとても心が癒される。
いつも心中に重いものを抱えて現代の文明の在り方と闘い続けて居る私にはこの癒しの力こそが大きい。
だから改造万年筆も決して悪くない。
それがもし私にとって大切な万年筆になってくれるのなら、オリジナリティーを無視してしまうことも許して欲しい。
http://yahoo.jp/box/Amy700
ヴァン・ゴッホの軸は透明度が高くとても丈夫な軸だ。
其処にタップリのパイロットブラックインクが入っている。
其のことがとても安心だ。
インクの補充をすることなく、どこまでも書いていける。
http://yahoo.jp/box/qxcrzh
ニブは大型の兜木ニブである。
このニブが素晴らしい。絶品である。
二週間ほど前に取り付けの調整を行い、完全な固定位置を得た。
現在のこのニブの書き心地はまさに夢心地のようなものとなっている。
以前よりもペンポイントが優しく当たって呉れ、筆圧に応じて線が変化する訳だがそれも柔らかく変化するのである。
この改造万年筆はとても良い万年筆だ。
インクの出方はかなりにスムースで、ニブの変形に対するインクの追従の能力もなかなかのものだ。
なぜならこの首には英雄のフィードを付けているからなのである。
例のフィンなどの切っていない一見すると安物のようなフィードだ。
然しこのフィードは素晴らしいものである。
インクの制御能力がおそらくは高くないのか、インクを程よく潤沢に出して呉れるフィードなのである。
このヴァン・ゴッホ改アイドロッパーはもうかなりの期間を使ったがトラブルが起きていない。
インクが漏れることがない為手も紙も汚れたりしない。
とてもソフトな書き心地で原稿用紙100枚位は連続して書けるのではないだろうか。
ペン先は兜木銀次郎氏による鍛造ペン先なので戦前のニブの反応の素早さなどに似た特徴を持って居る。
なのにまさに柔軟なのである。
とても癒されるソフトな柔軟性を秘めて居るのである。
ただしこのペンはこのままでは万年筆として使えない。
キャップにはこの大きなニブが入らないからなのである。
それで書道用のキャップを被せて筆筒に立てて保管しておく。
だが、いざ書き出せば私の持っている他の万年筆のどんなものよりも筆記感は良い。
其れはまさに夢心地の書き心地なのである。
だから私は今もこうしてうっとりとしてこの書き心地に酔っているのだ。
インクが漏れることなく手を伸ばせばいつでも使えるこのペンはまさしく私の宝物のようなペンでこれからもずっとずっと使っていくものなのである。
ちなみにもう一本のヴァン・ゴッホの方はノーマルの状態で使って居りますが、この有様ではそちらの方も近いうちにアイドロッパー化してこんな癒しの筆として仕舞うのかもしれない。
ではあるが昨今の兜木ニブ付きの酒井軸の高騰振りからしてこのサイズの兜木ニブをもうひとつ入手することはもはや不可能に近い。
ゆえにこの改造ペンを今後なるべく大事に使っていこう。
こうした改造ペンはなかなか出来ないもので、或いは十本に一本位の割でしか作れないものなのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1484回) ..2013/07/29(月) 00:24 No.4557 |
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理想のL.E.Waterman-2-1
私にとっての理想のL.E.Watermanとはアイドロッパーモデルで5号以上の大きなニブの付いたもののことを言うのである。
其れ等の大きなペン先は柔軟性がさほどではないのだが、日本語を書いていく為にはむしろこの位の柔軟性の方が書き易いのである。
それに4号のニブの方はどうしたものか、イリジュームが欠損して仕舞うことがあり其処がいまひとつなのである。
5号ニブでも欠損して仕舞うことはあるが、そのことは稀である。
6号のニブであれば、私の持ち物に限ってはそうしたトラブルが起きていない。
6号のニブともなれば、実際硬い印象のものもあるのだがそれでも50年代のペリカン400の14Cニブ位の柔軟性はあるから本当に硬いという訳ではないのである。
6号のニブでも、#56にはかなりに柔軟なニブが稀に存在し私はそういったタイプのニブを#16の方に移し替えて使って居るのである。
其処からしても、L.E.Watermanの5号ニブ、6号ニブには稀に柔軟性の高いニブがあるということなのだろうと思う。
さて以前に語ったように、私にとっての理想のL.E.Watermanの一本目はWaterman5アイドロッパーで穂先が長めの5号ニブの付いたものなのであった。
それで今回は二本目の理想のL.E.Watermanということになりますが、其れは今回もアイドロッパーモデルで6号ニブ付きのものとなるのだ。
然し、其れは#16ではない。
本当はこの#16こそが私にとっての理想のL.E.Watermanということになるのでしょうが、このペンは携帯には適して居ないペンであることが少々問題である。
机上専用で使うのならば#16で充分なのですが、其れは兎角インクの漏れ易いペンなのでどう考えても携帯して使う気にはならないのである。
この携帯するか、それとも携帯せずに机上だけでペンを使うかということは実は本質的に異なる性質をペンに求めていくということになるのである。
携帯しなければ、万年筆ではなくDip Penの方を使って筆記しても充分に楽しい筆記が行えるのである。
万年筆は携帯して使うことを前提とした筆記具なのであるから、当然に携帯した状態でも楽しく筆記が出来なければならないのである。
だからこそ携帯時にインクが漏れ出して来たりしてはいけないのである。
ところが其の事を達成する為に、かなりに無理をしてインクの制御を行わなければならなかったのではないか。
其の制御が完璧であればあるほどペンとしてのインクの流れは悪くなり面白い筆ではなくなっていくのである。
だからそんな現代の筆を強制的にペン先調整をすることで我我愛好家は其れ等を何とか使える筆に誤魔化してから使って居るのである。
ところが古典のペンは其処までの無理をまだ行って居ないので概ねインクの流れは潤沢である。
或いは現代のペンでもいざアイドロッパー化して仕舞えばインクの流れが大幅に良くなりスラスラと書き易くなるのである。
また或いは机上専用で使う限定的な用途の改造アイドロッパーペンであれば、つまるところ其処で携帯するということ自体を断捨離して仕舞えば其処で充分に楽しく筆記することの出来る改造ペンが幾らでも出来るのである。
実際最近の私はそのように用途を徹底させた上で万年筆を使って居り、古典のアイドロッパーのペンなどは皆机上に張り付けたままにしてあるのだし、 外へ持ち出すのは主に携帯されることが得意な戦後のペンに限られて居るのである。
だから其れは其れで良いのではないだろうか。
得意な分野で自由にやらせてやった方が万年筆達も幸せなのだしそうしてやれば実際何だか生き生きとして来るものなのである。
つまりは其処で余り多くを望み過ぎない方が良いということを言って居るのだ。
この世の事物はもとより不完全かつ出来損ないであるものがほとんどなので得意なところだけで頑張らせてあげて置いた方が良いのである。
ところが今日語る筆はそうした考えとは相容れないような部分さえある実に実に面白い筆なのである。
其れは謂わば携帯することの出来るアイドロッパーなのである。
型番は#76で、其れはスクリューキャップのアイドロッパーなのである。
結論を言えばこの萬年筆は結構携帯する方もこなせる。
スリップキャップの#16とは異なりペンを運動させるとインクがダダ漏れするというようなことがない。
それでも無論戦後の万年筆のように携帯専用でも使える程に携帯されることに対して強い訳ではない。
されどインクの制御能力は#16などよりは明らかに高性能なのである。
其の姿の方も#16とは全然違って居て、其れはむしろ#56ソックリの格好をして居るのである。
#56のレヴァーを無くしてアイドロッパー化したようなペンがこの#76なのである。
私はこの#76を使ってみて当初からかなりに良い印象を受け或いはコレが理想のL.E.Watermanの一本となるものなのかもしれないぞとそのように思って居た。
私の#76は現在非常に頼もしい存在となって居り、其処は#16のようなインク制御能力が貧弱なところとは少々異なるところなのである。
が、#16は机上専用の用途として割り切って使うのならば、インクの流れの良い、筆記するにはいかにも素晴らしい古典の萬年筆だと言えるものなのだ。
だから#76が常に#16よりも上だということは無いのである。
#76もアイドロッパーらしくインクの流れはまずまずなのだが、キャップが捩じ込めるようになって居ることと、フィードの設計の方も或いは異なるのか、兎に角#16よりも安心して携帯することが出来るようになって居るのである。
即ちこと携帯するということに関しては、#76が#16よりも常に上だったのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1485回) ..2013/07/29(月) 23:57 No.4558 |
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理想のL.E.Waterman-2-2
#76の6号ニブには硬い方のタイプのものがついて居る。
それで兎に角特に柔軟なニブではなく少しだけ柔軟といった感じである。
それでも日本語の表記に於ける線描は充分にこなせる。
いやむしろこの位の柔軟性である方が漢字や仮名は書き易い。
其処からしても万年筆の愛好家はこの辺りの事情をもっと良く考えておいた方が良いことだろう。
即ち柔軟性の高いニブが必ずしも日本語を書くのに適して居る訳ではないのである。
いや、実際には柔軟性の高いニブは確かに日本語を流麗に書く事が出来るものなのだが、然しながら其の場合には硬筆筆記の書き方の範疇を飛び越えて書道的に書き表すこととなるから一種特殊な筆記となって仕舞うのである。
従って一般的にはあくまで程よい柔軟性のニブが硬筆筆記に於ける日本語の表記には向いて居るのである。
左様な訳でこの#76は非常に日本語が書き易い。
普通に書いて居るとさほど線は変化しないのだが、其処でとめ、はね、払いのところで少しづつシェーディングを生じるので上手に日本の文字を書く事が可能なのだ。
そして何やらこの筆には高級感がある。
スリップキャップの#16の方は軸がサラリとして居てノッペラボーなのだが#76の方はネジも切ってあるし#56とソックリなのでもっと本格的な萬年筆に感じられる。
あくまで一般的にはそのように感じられより万年筆らしい筆に見えるということなのである。
何せキャップがネジで閉まるので現代の愛好家にはより分かり易いアイドロッパーとなって居る。
さて私の#76は黒軸だが同じ黒軸の#56と比べると全長が3ミリ程長い。http://yahoo.jp/box/wkSREb
そして首軸の形状が若干異なり#76の首軸の方がクビレが大きい。http://yahoo.jp/box/q8Csm3
然し胴軸の形状やキャップの形状や太さなどは実に良く似て居る。
#56にあるレヴァーが#76には無い訳だが軸の形状自体はまさにソックリである。
この二本を書き比べてみると、#56の6号ニブの方が若干筆記感が軟らかい。
#76の6号ニブの方が地金の強さのようなものがある為かよりしっかりして居る感じがある。
ただしその辺りはニブサイズや個体差の問題もある為一概には言えない部分でのことである。
兎に角ペンを持った感じでは#76の方がよりオールドスタイルでの軸とニブの感触がするということである。
ニブの方は共にNEW YORK刻印付きのタイプだが形状は異なり、#76の6号ニブの方がより穂先が長く見えるものとなって居る。
さらにペン先の幅自体が#76の6号ニブの方が僅かに細身である。
以上のようなことから#76の6号ニブの方がより線描の筆記には適したニブであることが分かる。
ニブに於ける柔軟性の多寡ではなく、形状の方からより線描の筆記に向いて居ると言えるのである。
尚個人的に、線描の書き方に於いてはより細長いニブであることとより尖って居て穂先の長いニブであることが明らかに有利であるように思われてならない。
線描の得意、不得意はあくまで柔軟性ではないのである。
あくまで長くて尖ったニブの方が線描を行って行き易いのである。
軸の太さに於いては、ほとんど同じように見えるのだけれど、実際に持ち比べてみると#76の軸の方が0.5mm位細い感じがする。
其の部分も#76の軸の方がよりオールドスタイルの万年筆であるということを示して居ることなのだろう。
ただし、線描の筆記を行う場合により線の変化をつけられるのは実は#56の方なのである。
#56の6号ニブの方がより線の変化量が大きいのである。
従って英文でのカリグラフィーを行う場合にはむしろ#56の方が向いて居ると考えられるのである。
ちなみにこの#56の6号ニブは私の持ち物の#56の6号ニブの中では最も硬い部類のものだ。
だが#56の6号ニブにはさらに柔軟で線の変化量が大きいニブがある。
そうしたものであればより英文でのカリグラフィーが行い易くなることだろう。
が、あくまで日本語の表記に限るのであればこの#76の6号ニブで充分なのである。
このことからも、万年筆のニブで硬筆筆記的に日本語を書く場合にはヘロヘロの線よりも僅かに線が変化する位のニブの方が書き易いとも言えるのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1486回) ..2013/08/01(木) 00:47 No.4559 |
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ペンの世界のことで最近最もショックだったのはeBayからあのRangaのエボナイト軸のペンが撤退して仕舞ったことである。
この七月から本格的にRangaのエボナイト軸のペンを収集していくつもりであったのだから其の事は全く番狂わせだったのである。
ただし出品者のrangahandmadepensは現在もエボナイト軸以外のペンやエボナイト軸の材料は売って居るから倒産して仕舞ったという訳ではないようである。
何故エボナイト軸のペンの出品を取り止めたのかということを良く良く考えてみるに、其処にはどうもあのPeyton Street Pensの出品物への配慮があるのではなかろうかとの結論に至ったのである。
Peyton Street Pens-Ranga http://www.ebay.com/sch/Fountain-Pens-/13999/i.html?_trkparms=65%253A12%257C66%253A4%257C39%253A1%257C72%253A5271&rt=nc&_nkw=Ranga&_dmd=2&_trksid=p3286.c0.m14&_vc=1
Peyton Street Pensは現在でもこのようにRangaのエボナイト軸のペンを出品して居る。
それでPeyton Street PensがこうしたRangaのエボナイト軸のペンの改造版のペンを売って居ることは勝手に其れをやって居ることなのか、それともrangahandmadepensの承認を得た上で其れを行って居ることなのかという部分が問題となって来る。
もっともどこかでRangaペン会社の承認を得た上でやっているのだということを読んだ覚えがあるのだが確定的には言えないのである。
然し、どうもおかしい。
印度で売って居る安いオリジナルのRangaを共に出して居ては当然にrangahandmadepensのエボナイト軸のペンの方が売れて仕舞うのであろうからあえて出品することを控えて居るのではなかろうか。
それとも本当に出品することを止めて仕舞ったのだろうか。
もしそうだとしたら非常に残念なことである。
何にせよ、五千円で入手出来るあのrangahandmadepensのBambooペンはもはやeBayには出て居ない。
諸行無常とはまさにこのことなのである。
折角これから集めていこうと思って居たというのに。
仕方がないので、とりあえず一本は欲しいと思って居たPeyton Street Pens版の方のBambooペンを落としてみた。
其れがこのペンである。http://yahoo.jp/box/Qr8feI
色合いはpink rippleとのことであるが実際の色合いはバーガンディ色である。
バーガンディのripple軸もなかなか美しく思えたのでこれに決めたのである。
尚もっとヴィヴィッドなピンクの軸のBambooペンもrangahandmadepensの方には出品されて居たのだったが其れも現在は無い。
多分もう出て来ないのかもしれないが、ひょっとすればPeyton Street Pens版の方のBambooペンの在庫がはけた後でまた出て来るのかもしれない。
この私のpink ripple版はペンの表側と裏側でripple模様の濃さがかなりに異なり表側が薄過ぎて余り美しくはないのだがそれでも全く素晴らしいエボナイト軸のペンであることに変わりはない。
これまで使って居た緑マーブルのBambooペンと比べると全長が3ミリ長く、軸の太さは0.5mm程細い。
サイズ的にはこちらの方が扱い易いのでバーガンディのripple軸の方を使い倒すこととし、緑マーブルのBambooペンの方は休ませることとしてみた。
さて、それでは其のrangahandmadepensオリジナルの緑マーブルのBambooペンとバーガンディrippleのBambooペンとの違いを以下に示してみよう。
1.フィードとペン先が別物。今回のは独逸製とされるプラフィードとスチールニブに換装されて居る。http://yahoo.jp/box/NhKQ8r
2.コンヴァーター化されて居る。ただしアイドロッパーとしても使用可能である。http://yahoo.jp/box/_8Dw5l
まずこのスチールニブの出来がかなりに良く、其処で筆記感が大きく金ペンに劣るというものではない。
それからプラフィードは現代のフィードのありふれた感じのもので、そのゆえ当然ながらインクの制御能力の方も高いものがありそうだ。
付属のコンヴァーターを付けて書いてみると、いかにも現代の万年筆らしい感じの筆記感となるが筆記の上では明らかに面白みに欠ける筆記となることは否めず、つまりは其処でインクの流れにいまひとつ満足出来ない感じのものとなって仕舞う。
だが、それでもこの仕様で携帯するのならばどこへでも持っていける筆となるのである。
然し其れではどうしても筆記が楽しくならないので携帯することを考えずアイドロッパーとして使ってみた。
すると矢張りインクの流れは良くなった。
これならば文句はない。
大容量のアイドロッパーは筆記すること自体にかけては兎に角楽しい。
インクの流れが良くなるからこそ楽しくなるのである。
が、インクが減った時のインクの漏れの対策をどう行うかという問題が其処に常につきまとう。
それで、私は其の問題を幾つかの点で防止しつつ大容量のアイドロッパーを使って来て居るのだった。
1.ペンを立てて保管する。
2.ペン先の正しい固定を厳密に行う。
3.インクが減ったらなるべく補充する。
実際1.と3.を行うだけでも大容量のアイドロッパーは使えるものなのだ。
3.ばかりやって居ては折角大容量である意味が無いように見えるかもしれないが大容量であること自体で常にインクの流れは良くなるのだから補充する意味が無いという訳ではないのである。
さて、このバーガンディrippleのBambooペンをアイドロッパーとして使い始めた訳なのだが、なにぶんまだ最後までインクを使い切って居ないのでインク漏れするかどうかについては分からない。
現代のペン芯のインク制御能力の高さからして、インクが漏れたとしてもおそらくは少量ではなかろうかというのが私の予想なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1487回) ..2013/08/04(日) 12:32 No.4560 |
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尚私は深く人間を見つめる眼を失わないようにすることと同じくして深く万年筆を見つめる眼差しも最後まで失わないようにしていきたいと思って居る。
Peyton Street Pens版の方のBambooペンは現代の万年筆の形からは少々離れて居て要するに毛筆の軸のように長い竹の軸の形を模してあるのである。
そしてそれがエボナイト製なのだから頗る安全、安心な軸でしかも素晴らしい感触を与えて呉れるものとなって居るのである。
されどこのBambooペンは一種特殊なペンの形であることは否めない訳で、たとえば竹の軸の扱いに慣れていることだろう書道経験者などには使える筆となって居ることだろうが一般的に其れが向いて居るものであるとはとても言えないことだろう。
私はそういう一般的では無い運筆者なので普通の戦後型の軸の短いペンよりもこうしたものの方が遥かに書き易く感じられるのである。
幸い万年筆はそうした個性的な要求にも応じて呉れる多様性を現在も保って居るので様々なものを其処で試してみて其の都度自分にとっての理想の一本を追い求めていけば良いのだろう。
あくまで私にとってはこのBambooペンは素晴らしい万年筆なのである。
運筆がし易いということに於いて。
だからニブがどうのこうのという問題では無いのである。
其れ以前の問題として、このペンの軸は私の書き方に最も良く適合して居るのだ。
ただ、欲を言えばもっと細身の軸のものであった方がより手にしっくりと来ていた筈なのである。
それこそあの古典の萬年筆達のように。
http://yahoo.jp/box/22v-PH
軸の表側はripple模様が薄く入り何やらかそけき風情ではっきり模様が現れて居る裏側より日本的なのでかえって気に入って居る。
色合いが結構渋く実物は茜色か臙脂の色味にも近く和風なのである。
従って家の母屋の方のような古い日本家屋には実に良く似合う。
五十を過ぎると実際この和の要素というものを生活の中に是非取り入れたくなるもので、たとえばいかにも現代的な現代の万年筆を狭苦しいマンションの一室で使って居ることなどよりは、こうした高雅な色と形の筆を和室で使いこなして居る方が余程に格好良いのであり其の意味ではこの筆はむしろ高級品なのである。
ペン先は金ペンですら無いのだが確かに高級品である。
ちなみにこの種のBambooペンは笑暮屋さんの方にも無論ある訳である。
http://eboya.net/?mode=cate&cbid=1045088&csid=0
然しながら、その値段の方は高い。
笑暮屋にしてもあの中屋にしても貧乏詩人にとってはちと値が張るのでなかなか手を出しにくいというのが実情なのである。
其の点印度製のアイドロッパーモデルであるこのバーガンディーのBambooペンは兎に角安くて長くて軽くて手触りの方も最高である。
それから現代のエボナイトの軸は変色しないらしくペンを丸洗いしても黒い部分が茶色に変色したりしない。
だから黒軸なども案外良いのかもしれない。
ただ私の場合は、古典の萬年筆には求め得ない色合いをこのBambooペンに求めて居るということなのだ。
ゆえに朱やピンクの軸、或いは青や緑のマーブル軸などもそれぞれに魅力的なのである。
さてインクの漏れの問題の方ですが、現在インクが減りつつあるのに漏れは無く快適に使えて居ることからも現代のペン芯のインクの制御能力は流石に大したものなのである。
逆に言えば其処までインクをせき止めて仕舞うからこそ現代の万年筆はインクの流れがどうしてもいまひとつのものとなって仕舞うのである。
現代という時代はかくの如しにすべからくが雁字搦めになって居るからこそ本質的な開放という部分に欠けるのではなかろうか。
自然な流れ、自然な解放、意識しないもの、智慧の結晶のようなものに於ける解放。
其処でより良くするものであるはずの技術的な進歩や制度がむしろ自分で自分の首を締める方向へいつのまにか向かって仕舞うのであるから何とも皮肉な話なのである。
それにこのBambooペンは五万円も八万円もする高額手作り万年筆ではないから改造のベースとしても使える訳なのである。
Peyton Street Pensが行って居るような、コンヴァーター化やニブとフィードの換装といった改造を大胆に行うことが出来る。
無論個人的にやってみたいと思う改造も幾つかある。
1.Dip Penの金ペンを付けること。
2.兜木ニブを付ける。
3.フィードを現代のエボナイトフィードとしてみること。
そんな訳でこれらの改造を行う為に何本かのBambooペンが新たに必要なのだが何せ安い方のBambooペンが撤退して仕舞ったのでPeyton Street Pensから入手するほかなく、されどそれでは一本五千円ではなく一本一万円になって仕舞うのであるからどうしても悩む。
早くオリジナルのBambooペンがeBayに復帰して呉れないかとも思うが、仕方がないから少しだけ待って居るという現状なのである。
それにしてもエボナイトの軸というものは矢張り感触の面で最高のものがある。
このBambooペンは使えば使うほど艶が増しピカピカになって来る。
Bakul仕上げつまり艶消し仕上げの青のデスクタイプペンの方は次第にしっとりとした感じの軸となって来る。
だから其れがまさに高級だということなのだが、ペンの世界では其の高級ということの意味や定義自体が今私がこのペンに於いて感じて居る高級さとは異なる部分にあるので今後もRangaペンはそうは売れないし多くの愛好家が絶賛するペンとも成り得ないのだろう。
然しこのBambooペンはまさに嵌ると嵌って仕舞うペンではある。
朝、昼、晩といつも使って居ても飽きないペンである。
これはまさに和風の筆万年筆として常に机上で使い続けられる美しい万年筆なのだ。http://yahoo.jp/box/57X0Fy
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1497回) ..2013/08/18(日) 12:23 No.4571 |
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日興エボナイト 神龍(インク止め式) 文豪サイズ B(太字) http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u53419312
何やらいかにも文豪にでも向きそうな迫力のある万年筆だ。 が、値段が高いのが玉に瑕である。
尚、本物の文章家というものはむしろ使う道具など意に介さないものではなかろうか。
書く内容の方のことが大事なのであって道具の方に凝れば凝るほどそちらの方に思考上のエネルギーを取られて仕舞ふということはある。
筆記具に凝って居るような文筆家などはたかが知れているということもまたある。
rangahandmadepens http://www.ebay.com/sch/rangahandmadepens/m.html?_ipg=&_from=&_nkw=&_armrs=1&rt=nc&_dmd=2
RangaペンがeBayオークションの方に復活して呉れて居て其処は喜ばしい限りだ。
しかも以前より数が増えていて、まさに選り取りみどりだ。
Rangaペンは手作り万年筆で気軽に入手出来る価格であることが一番良いところだ。
しかも様々なタイプの軸があるので、選択の幅がある。
軸の色合いなどもまさに様々で、派手なものから地味なものまで選ぶことが出来る。
さらにペン芯とペン先は比較的簡単に自分で交換出来る。
従って改造万年筆のベースとしての価値の方も大きくある。
単純な構造であることがそうしたことを可能として居る。
単純ではあるがエボナイトの軸なので基本的にモノが確かだ。
印度の職人が手作りで作ったペンなので一本一本が微妙に違う。
大きくは違わないのだが、細く見れば違う。
精度の方は充分にあるのだが、それでも其れは手作りなのである。
Peyton-Street-Pens Ranga http://stores.ebay.com/Peyton-Street-Pens/_i.html?_nkw=RANGA&submit=Search&_sid=520094
Peyton Street PensのRangaの方はコンヴァーター式が選べて、かつ金ペン付きも選べることからもより一般的な仕様となって居る。
私が使用中のBambooモデルは現代の独逸製フィード付きでアイドロッパーとして使用してもインクが漏れないという美点を持ち合わせて居る。
アイドロッパーとして使用してもインクが全く漏れないというペンは実はこの世にはほとんど無く、古典のペンでも多かれ少なかれ漏れるものなので完璧なアイドロッパーとして機能するのはむしろこちらの方なのである。
尚アイドロッパーでインクが全く漏れないというペンは私が知り限りこの世で最も優れた万年筆となり得るペンである。
其れはピストンフィラー以上にインクの流れが良いのであるし、レヴァーフィラーのようにインクの容量が限定されて仕舞うことがなく、またコンヴァーター式のようにインクの流れが悪いということがなく、其れでインクの漏れが無いのであれば其れはほとんど完璧な万年筆となり得ることだろう。
またピストンフィラー、レヴァーフィラー、コンヴァーター式は時に壊れたりもし部品を交換したりで大変だがアイドロッパーにはそうしたメンテナンスがそもそも要らないと来て居る。
また軸にはインクがタップリ入るのでインクとの対話の密度が増し万年筆というよりも書道の筆を扱って居るが如き感覚に浸ることが出来る。
つまりあの書道、貴方が子供の頃寺子屋で習ったあのお習字の感覚で再び字を書く事が可能である。
それというのも、兎に角墨が軸の中にタップリ入るのでそういうことになるのである。
他の吸入方式ではそんな書道感覚などまず得られはしない。
Varuna Pens http://www.andys-pens.co.uk/varuna.shtml
尚英国でもRangaのペンは売られて居る。
こちらでは輸出ブランドなのか、Varunaと呼ばれて居る。
写真のM.S. Pandurangan氏がペンを作って居る職人さんである。
見ての通り結構お年を召して居るようで、現在は息子さんでエンジニアのMP Kandan氏がペンの販売上のマネージメントを行われているようだ。
Ranga Ebonites & Pen Company http://japanese.alibaba.com/free-suppliers_in110948266
Varuna Bamboo http://www.andys-pens.co.uk/vbamboo.shtml
この Andy's PensのBambooモデルもPeyton Street PensのBambooモデルと同じでコンヴァーター式が選べて、かつ金ペン付きも選べることからもより一般的な仕様となって居る。
然し、それだけではなくアイドロッパーとしても使えるというところが重要であり、其の状態で使ってもおそらくはインクが漏れないというところが最も重要なところなのである。
Peyton Street PensのBambooモデルのインクの制御能力は実際大したもので、是れならば多分携帯してもインクの漏れは無いことだろう。
実感的にはもう少し漏れ出る位にインクが出てくれた方が良い感じなのであるが、然しながらということは結局そのことがインクの制御が非常に高いレヴェルで行われているということの証左なのであろう。
ちなみにオリジナルのRangaのBambooペンは手作りのエボ芯付きで其れはインクの制御能力がかなりに低いものなのでインクはドバドバに流しては呉れるがインクが減った時にインクのダダ漏れを引き起こして仕舞うことがあり其処が最大の問題点となって居る。
Bambooペンに限らず、Rangaのこの手作りのエボ芯付きのモデルは皆同じ欠点を持って居ることだろう。
然し、其処も騙し騙し使いかえって其のインクの制御能力の低さから来る潤沢なインクの流れを楽しむという方法もまたあるのだ。
即ち完全に筆の如くに扱い、筆筒に之を立てて置き、其処で徐に此の長大な筆を手に取り、まるで書の如き書き方で此の印度の筆を攻めるといふ手もまたある。
さてRangaのBambooペンのBamboo軸は意外とサラリとしたもので極めて持ち易く眺めていて常に美しいものである。
笑暮屋のBambooペンのBamboo軸の方がかえって凹凸がハッキリして居て少々持ちにくそうにも見える。
尚、最近私はこのRangaのBambooペンばかりを使って社会問題などについてのメモを取ることにして居る。
そしてこのペンに嵌ると容易には抜け出せない雰囲気がある。
何せデカいペンで存在感があるので他の良い古典のペンよりも目立って居りおまけに高価なペンでは無いので気楽に使える部分がありつい之にばかり手が伸びて仕舞ふのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1498回) ..2013/08/20(火) 23:53 No.4572 |
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Varuna http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%8A_(%E7%A5%9E)
尚Varunaというのは上にあるが如くに古代のインドの神話時代における始源神の名であり、かって私がここに書いていたマハーバーラタという叙事詩にも登場する神のことである。
従って英国で売られて居るVarunaペンとは例えば日本で言うところでのスサノオの尊とかそんなような神の名が付けられたペンなのである。
ところで私のバーガンディのエボ軸のRanga Bambooペンはもう本当に優秀で、最後の一滴までインクが漏れることなく使えるから前回に示したPeyton-Street-Pensの方のRangaは本当におススメなのである。
Peyton-Street-Pens Ranga http://stores.ebay.com/Peyton-Street-Pens/_i.html?_nkw=RANGA&submit=Search&_sid=520094
これらは下手をすると古典のペンよりも余程に安定して居るとも言い得るのかもしれない。
ここからしても現代のフィードのインク制御能力の優秀性は明らかで、其の事はペンに於ける進化、進歩の帰結で其れが決して悪いばかりのことではないようだ。
日頃私の語って来て居る万年筆觀は極端な見方である場合も多く、私が述べて居ることの一方には特に現代的な価値観に照らし合わせた場合に是とされる部分があるということにも配慮しておかなくてはならない。
いずれにしてもアイドロッパーの構造のペンにインク制御能力の高い現代のフィードをあてがうということはほぼ完璧な万年筆を生み出すということに繋がるのかもしれない。
さて、古典のペンの方でありますが、ごく最近はアイドロッパーよりもむしろレヴァーフィラーの方に興味が移って来て居り其処で色々とやって来て居るというのが本当のところである。
レヴァーフィラーの場合は元々インクサックのインク容量が小さく余りインクが漏れ出して来たりはしない。
然しゴム製のインクサックは経年変化でダメになるので定期的な交換がどうしても必要となり其れが少々面倒なところである。
レヴァーフィラーの場合でもインクが少なくなるとペン先の方からインクが漏れ出て来る個体はあるがアイドロッパーに比べ概ね携帯する能力を持ち合わせて居ると言えることだろう。
ただ私の場合はレヴァーフィラーでも携帯して戸外で使うことはしない。
古典の萬年筆を外で使うことは避けて来て居る。
そうでもしなければもはや現代の万年筆の活躍する場が無い。
現代の万年筆はなるべく外へ持ち歩いて使い筆記感などは余り楽しまずに道具として割り切って使って居るといったところだ。
最近気に入って居るレヴァーフィラーの改造萬年筆
http://yahoo.jp/box/vzVwsg
1920年代頃の美しいConway StewartのMTLHRの軸にVANCOの4号ニブを取り付けてみたもの。
元々はスタッブのオリジナルニブが付けられていたがほとんど使用することがなかった。
古いペンのスタッブのニブはそれほど書き味の方が滑らかでなく特に面白いものだとは思われなかった。
ところがこのVANCOの4号ニブは若干硬めながら線描が可能なニブだったのである。
特に昔風の美しい線描による日本語の筆跡で書き記すことに向いて居る。
http://yahoo.jp/box/clEXmy
このペン先が日本語の書き易い素晴らしいニブなのである。
このニブ自体はおそらく昭和30年代のものかと思われるのだが、是れは非常に強いニブで強力な復元力を保つニブなのである。
従ってかなりに運筆圧をかけて書いたにせよそれには全くこたえず元の姿に復元するので実に日本語が書き易く頼もしい14金ペン先なのだ。
多少硬めながらペン先が細面で尖って居りいかにも線描の方が得意なニブなのである。
実際このペンで多少書道的な筆致を行うと、L.E.Watermanをはじめとする西洋の古典の萬年筆群よりもより一層シャープに日本語の楷行体で書いていけるのでむしろ最近は最も頻繁に使って居る古典の萬年筆となって居るものだ。
こちらはWaterman56二本の比較
http://yahoo.jp/box/KntyxK
最近Waterman56が非常に優秀なレヴァーフィラーであることが改めて分かって来た。
以前よりもニブの取り付けに厳密性を持たせてあり非常に書く方の調子が良い。
ただし右側の方のWaterman56にはノンオリジナルのスチールニブを取り付けて居る。
之が通常よりも大きなサイズのニブで、Waterman56に大きなニブを取り付けた場合の相性を見ているといったところである。
http://yahoo.jp/box/Ifis-4
軸の方は右がパイロットブラックによる染付の軸で、左が故意に変色を試みたものでそれがたまたま美しいオリーヴドラブの色に変色したもの。
ただし古典の黒エボナイトの軸を故意に変色させることはかなりに難しく、通常は薄汚い茶色の色味となって仕舞うものなのでなかなかこうはいかないものだ。
其の薄汚く茶色になった軸をパイロットブラックにより染付を行うと右のようなまずまず見られる黒い軸となる。
本当はもっと上手に染め付けられた古典のペンの軸が他にあるのだが、之はあくまでまずまずといったところである。
尚不思議なことに、エボナイトの軸は染め付けた後で艶が無くなっても使って居れば艶がまた復活して来るものなのである。
写真の軸はまだ艶が復活していない状態のものではあるが、それでも元の茶色く汚い色味の軸からすれば全くの大変身なのだと言える。
古典のペンのエボナイト軸の色の復活は専用の塗料で後全く剥げることもなく上手くいく場合もあるのだが、ただし其の場合でも軸の感触という点に置いてオリジナルのエボナイト軸の感触とは若干異なるものとなって仕舞うことは否めない。
其れで私の場合はパイロットブラックによる染付技法というものを編み出し、其れでこのように見苦しい茶色に変わって仕舞った軸を再び美しい黒へと戻し、しかも其の場合に感触自体がほとんど変わらないというまるで奇跡のようなことを日頃から行って来て居るのである。
尚エボナイトの軸をパイロットブラックに浸す時間は変色の程度にもよることではあるが大体二日間位浸けておけばうまい場合にはかなりに美しく黒軸に生まれ変わって呉れるのである。
だから之をやらない手はないのだ。
非エボ軸の現代のペンの軸ではこの染付は出来ない相談だが、古典のエボ軸は其の点が実に柔軟でまさに汚くなった染めましょう、というのが幾らでもできるものなので其処が本当に素晴らしいのである。
つまり、結局永く使えるのだ。古典のペンのエボナイト軸は。
エボナイトの素材が良いので、こうした染付にも耐えうるのである。
ちなみにパイロットブラックはアルカリ性なので部品の金属部などを腐食させて仕舞うことはなく逆に金属部のクリーニングを行ったような感じに仕上がって呉れるのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1507回) ..2013/09/02(月) 01:01 No.4581 |
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http://www.ebay.com/sch/m.html?_from=&_nkw=&_armrs=1&_ssn=rangahandmadepens&rt=nc
Rangaのエボナイト軸の万年筆は相変わらず魅力的である。
あれから二本また増えたのだが、それも相変わらずBambooモデルが増えて居て、そしてまだまだ今後も増えていくことと思われるがどのみち安い万年筆なので増やすのにも大金を使わないところが何より気楽なところである。
最近私は地球の環境が瀕死の状態にあるのに気分的に高い万年筆を求めるような気分にはなれず、それでRangaのエボナイト軸の万年筆を毎月二本位ずつ購入していって、そうすることにより半年位でRangaコレクションを完成させ、かつ其の中の二、三本だけを使用するペンに選びフィードとペン先を替えてみるつもりなのである。
何せ現在すでに二本のRangaのエボナイト軸の万年筆を使って居るので、使うRangaペンの場合はあと二本くらいしかキャパシティがない。
集めた他のRangaのエボナイト軸の万年筆はコレクションとして観賞するつもりである。
私は万年筆をそのままに保存し、其れを時折ただ眺めていることも嫌いではないので、そのままにそのようにするつもりである。
万年筆は持って居る分の全部を使えはしないのだ。
特に多くのペンを持つコレクターさん方ではとても使い切れない。
さて、印度の万年筆と中国の万年筆に私は何故か深く嵌って仕舞った。
中国の万年筆に嵌って居たのはかれこれ10年位前のこととなるが、兎に角其処では色々と楽しませて頂いたので今思うと其の頃のことはまさに良い思い出である。
特に英雄の軸の長さと英雄のニブの反応の良さに惚れ込んだ私は、当時90年代の沢山の英雄を買い込んで置いたのだったがそれらが今でも結構数が残って居る。
使える物は今でも使えニブの方が素晴らしいのが90年代の英雄の特徴である。
うーむ、すると、印度の万年筆にこの頃の英雄のニブなどを付けてみることも面白いことなのかもしれない。
尚、英雄といってバカにしたりは決して出来ないのである。
実際らすとるむさんに手揉みやらフォルカン化やらして頂いた英雄のニブなどは、90年代のオリジナルのニブの付いたペリカンやモンブランなどよりもずっと素晴らしい書き心地をして居るのである。
私が以前語ったことがあったように、万年筆というものは書き味の方まで調整や改造で味付け出来るのであり、其の書き味なり書き心地を純粋に比べた場合には概ね改造されたニブの方がずっと其れは良くなって居るものなのである。
そうした改造ニブを現代のフィードと共にRangaのエボナイト軸の万年筆に組み込んでみれば、これはもう間違いなく一級品の万年筆となることだろう。
或いは兜木ニブを付けていくという手もある。この場合も間違いなく一級品の万年筆となることだろう。
だから印度の安物万年筆だからといって、本当に決してバカにしたりすることは出来ないのである。
もっとも先入観だけで万年筆を選ぶ人は印度の万年筆や中国の万年筆をバカにする傾向にあるのかもしれないのだが。
だがそういうのは多分誤りである。
印度の万年筆や中国の万年筆には値段が安くて良いものが在ることだろう。
Rangaと英雄はそうした部類のペンなのだろうと思う。
ただし英雄は90年代の物のニブだけが良く、現在のニブは多分ダメで、また軸の方は特にセルロイドの軸の場合は年代を問わず崩壊することが多いので注意が必要だ。
されど伊太利亜物のように値段が高くて軸が崩壊する訳ではないのでまあ其のことも本当は許せない筈だがそれでも何となく許せてしまう部分が無いでもない。
実際10万円のセル軸の高級伊太利亜万年筆の軸が崩壊すると其処に感じる怒りの大きさというものは確かに尋常のものではない。
だが当時一万円とか二万円だった90年代の英雄は今崩壊したにせよそれほど大きく怒りがわいてこないものだ。
もう随分使ったので充分に元は取った!というような感じもして居る。
ちなみにセルロイドの軸はプラチナでもセーラーでもモンブランでも一部のペリカンー1935は危ないことだろうーでも崩壊する虞が十分にあるものなのですなわち其れ等は高級品ではないのだと言える。
高級品というのはあくまでエボナイトの軸がベースとなっているペンのことを言う。
尚、エボナイトには品質の差があるそうである。
其のことは例の「萬年筆と科學」の時代からすでに言われていたようである。
其処で渡部氏はL.E.Watermanのエボナイトは特に品質が高いと述べられ其れを大いに褒めて居た筈である。
また内野さんのところでも、其の品質の差について書いてある部分があります。
其処では内野さんの万年筆には良い品質のものを使って居る旨についても書かれて居ます。
対して確かにRangaのエボナイト軸の万年筆には其処までの品質は期待出来ないのかもしれない。
何せ其の値段からしてもそう考えるのが妥当というものだ。
然し、実感として之は悪くないカラーエボナイト軸なのである。
元々エボナイトの軸は、戦前には黒エボナイトの品質が最高で色が混ざったものや赤いものはそれには及ばないとされていたのである。
だがそれも現在のカラーエボナイト軸についてはそうしたことが言えるのかどうか、其処は詳しく調べてみない限り分からない。
現代のカラーエボナイト軸は鮮やかな色合いのものが幾らでも選べ、そしてまだ短期間ではあるが私が使う限り悪いところは全く無くまさに素晴らしい素材である。
RARE-RANGA UNIQUE HANDCARVED SPL PRECIOUS EBONITE RIPPLE DESIGNER FOUNTAIN PENS http://www.ebay.com/itm/RARE-RANGA-UNIQUE-HANDCARVED-SPL-PRECIOUS-EBONITE-RIPPLE-DESIGNER-FOUNTAIN-PENS-/130961093406?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item1e7de3b31e#ht_20660wt_1165 いかにも印度らしいデザインのペンだ。部分的に似ているのでベースはBambooモデルなのかもしれない。
Ranga Model #3 - Sheaffer Lifetime Fine Nib, Olive Ripple Smooth http://www.peytonstreetpens.com/indian-ebonite/ranga-3-duofold-sheaffer-lifetime-fine-nib-olive-ripple-smooth.html 私はRangaのBambooモデルの緑の軸の方にSheaffer Lifetimeのペン先を付けて居りますが、何とこちらでも其の同じペン先が付けられて居ました。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1511回) ..2013/09/07(土) 18:34 No.4587 |
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伊太利亜のペンの場合、私の場合はどうしても其処へ戻ってみる癖がいまだにあって、其れで常に何がしかの伊太利亜のペンを机上に置いて居るということはある。
伊太利亜のペンとの付き合いは他の国の万年筆との付き合いとは基本的に異なり、一言で評せば其れ等は真面目な万年筆には無い妖しい魅力を持って居るものだと言い得るのかもしれない。
が、其の妖しい魅力はヤバい女の魅力のようなもので、情にほだされてついつい手を出してみたら其の女の情夫のヤクザ者が突然現れたりするようなもので、いやはや、其れ等はじつに危険でありそして不安定で長持ちしないものだと考えて居た方が良いのである。
私はここで伊太利亜のペンのことを書き始めた十年以上前の時でさえも、伊太利亜のペンは壊れ易くて危険である、というようなことを始終述べて居た筈なのである。
其れを重々承知で伊太利亜のペンの色香に惑わされて居た私は今思えばなかなかの強者愛好家でもあった訳である。
あれから十年が過ぎ、伊太利亜のペン達は次々と死んでいって仕舞ったのではあったが、部分的には皆生き延びて様々な他の万年筆の部品となったりして居るのだから其の生命力たるや実際大したものである。
無論ボロくなっては居てもまだオリジナルのままで生き延びて居る個体も何本かはあり、そうしたペンを見るにつけつい拍手をしたくなって来る程だ。
伊太利亜のペンはリスクが大きくあり長く安心しては使えないものが多いが独特の魅力がある。
特にセルロイド軸のものはマズい。
伊太利亜のペンをわざわざ買うなら矢張りエボナイトの軸のものに限る。
金銀装飾のペンでも良いのですが、ベースにセルロイドが使われて居たりすると其のセルロイドが分解して腐蝕ガスを発生させ金銀が曇ったり錆を発生させたりもする。
それで結果的に金銀の軸もボロボロになって仕舞う。
つまり金銀装飾のペンでも死に至ることが屡々である。
ところが私の場合伊太利亜のエボナイトの軸のペンを一本だけしか持って居ない。
其れはMarlen Matisseという限定万年筆で今や検索しても何処にも情報が載って居ないという超マニアックなペンなのである。
昔このペンのことをここで詳しく書いた覚えがありますが、何せもう久しくこのペンを眺めても居ないほどでそれで当然ながら写真の方も無い。
このペンを最近使いたくなって来たのではありますが、何せ使って居るペンの数が多いのでついおろすのを躊躇って仕舞う。
それで相変わらず日頃から使って居るVisconti Augusta改アイドロッパーにインクを入れていたところ、インクを入れ終えて書き始めた途端に首軸が折れて仕舞った。
このペンはセル軸ながら、其のセルロイドが破断したのではなく首のネジの方の別の樹脂部が折れたのであった。
このことからもViscontiの限定万年筆の首軸部は構造として非常に弱い。
折れたのはこれで三本目である。
おそらくはほとんどのモデルの首軸部が弱いと考えられる。
以前にWall-Streetの首も折れたので、今世紀になってからのものでもおそらくはダメである。
Visconti Augusta改アイドロッパーにはViscontiの初期タイプのニブが付けてあり非常に調子が良かっただけに残念である。
そう思いながらもすぐさま其のペン先をオマスの軸の方に移してみた。
E.E.Ercolessiという1920年代の萬年筆を復刻した、知る人ぞ知る限定万年筆である。
そしてこちらもセル軸である。
何でか知らんが兎に角セルロイドの軸のものが多い。
この選択が正解であった。
素晴らしい。書き易い。
Viscontiの初期タイプのニブは万年筆のグレードを一段階上げて仕舞う程に良いものである。
さて、ペン先が無くなったAugusta改アイドロッパーにはモンブランNo.146の14C Bニブを付けてみた。
古いものなので多分鍛金されて居るニブである。
之は筆記上の反応が鋭く、かつキレが良く今のニブとは全然別物である。
こちらもまた正解であった。
書き易い。素晴らしい。
そんな訳で二本の伊太利亜セル軸万年筆が本日新たに誕生したのであった。 http://yahoo.jp/box/XBasRb http://yahoo.jp/box/KL_3Uz もっともこれらのセル軸は、五年後、十年後には多分もうこの世に存在して居ないものであることだろう。
だからこそ愛する。
限定された時間を共に過ごすことへの愛着はまたひとしおである。
してみると、其れは人生と同じことのようでもある。
愛とは限定である。
いつかは別れるものに執着することが愛の本質的行為である。
だから私は伊太利亜セル軸万年筆をこうして愛おしく思いつつ日々使って居る。
嗚呼、書くのを忘れて居りましたが首が折れた筈のVisconti Augusta改アイドロッパーは無事再生して居ります。
無論例の瞬間接着剤で即直って居ります。
以降インクの漏れなども無し。
このように瞬間接着剤で直って仕舞うのも伊太利亜セル軸万年筆の凄いところだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1520回) ..2013/09/22(日) 16:56 No.4596 |
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今の私にとって萬年筆はほとんど何でも良いのですが、好きな万年筆というものはまた確かに在る。
今日はたまたま目にとまった、そうした万年筆のことを書いてみようか。
其れは英雄のH2010Aのことである。http://yahoo.jp/box/nYKjBu
私は今日、此の万年筆の素晴らしさに参って仕舞った。
おそらくは十年位前のモデルだろうと思う。
2003年度版の英雄の型録に確り同じものが載って居る。http://yahoo.jp/box/Idcv8Z
このペン、中国のペンとしては明らかに使える方のペンである。
1.普通の重さで普通のバランス 2.ペン先が素晴らしい http://yahoo.jp/box/XOOOnL 3.軸が腐らない 4.安かった
ということから素晴らしい万年筆であると言える。
其れも二本とも同じように良い。
1.重さが29gで中華ペンとしてはまともな重さの方。長さは156mm程で小さいペンなので重いと言えば重いのだが非常に重いという訳ではなく 普通に使える。
2.ペン先の方は現代の万年筆としては最高の性質のものが付いて居る。ペン先の本質的な性質が素晴らしいということ。特に柔軟では無いのだが、柔軟と言え、しかも素晴らしい反応を見せる。 こうした金ペン先の本質的な性質は私のように書道的な運筆をあえて万年筆に於いても行って居る書き手でなければ分からない筈である。まさにそうした書き手である私にはこのペン先は素晴らしいとしか思えないということなのである。 尚フィードの方は例の溝ナシの扁平のフィードで其れの小型版のタイプが付いて居るが、このフィードがまた何故か素晴らしいものである。ことインクの供給という面に限れば文句ナシのフィードである。
3.この軸はどうもセルロイド軸では無いようだ。だから年月を経ても軸が腐らない。ゆえに其の軸の美しさはずっと変わって居ない。
4.当時から安いペンだった。幾らだったかはもはや覚えが無いのだが、其の値段からすれば驚異的にイケているペンなのである。
現行の万年筆など、モデルによっては其処で高級だなどとも屡言われるが戦後の高級万年筆に真のそのような高級な万年筆を見つけることはほぼ不可能なことである。
大抵は万年筆にとっての非本質的な領域にお金をつぎ込んでいるモデルだろうことなので其処に真の高級な万年筆を見つけることは能わないのである。
独逸物、伊太利亜物、日本製、現行の物はどれもこれも大したものは無いと考えておいた方が多分当たって居ることだろう。
私はかってそうした現代の高級万年筆の世界にドップリと浸かって居た愛好家だったのである。
で、其の世界の嘘臭さ、非本質の世界の空しさのようなものに人よりも少しだけ余計に気付かされていったのである。
然し、この英雄はどうだろう。
そういうのとは対照的な清しきペンなのである。
このペン先であるが、どうも鍛金されて居るのではなかろうか。
筆記感がどんよりとはして居らず反応が鋭く全体的に強いのである。
当時英雄は自社でペン先を作っていた可能性もある。
確か90年代の英雄の大型18Kペン先は自社製だった筈である。
ただ其のことは確定的な情報ではないです。
所謂うろ覚えの情報ゆえに。
軸の色合いも頗る美しい。
橄欖石のような緑色と、たなびく白雲のような白色だ。
まあ何てお上品な色合いなのでせう。
このペンで筆記することは何より楽しい。
インクの出方が違うのである。
一言で表現すれば、現行の万年筆と戦前の万年筆の丁度中間辺りの筆記感だと言っていいものだ。
いや、むしろ戦前の万年筆の方に近いとも言えるのかもしれない。
今の万年筆は、ペン先を変形させて書くような書き方が想定されて居ない訳である。
より合理的に、平面的な運筆でもって書かれることが想定され其のように万年筆やペン先自体が設計されて居るのである。
然し戦前の萬年筆はそうではなく、特に1920年代以前の古典の萬年筆にはお習字ペンみたいなものがゾロゾロと出て来る訳だ。
私は結局そうしたペンの専門コレクターとなったのであるから、ペン先を変形させて書くような書き方自体が得意でかつそうした書き方の出来る万年筆を見抜くことにも当然ながら長けて居る。
其れで、この英雄H2010Aはそんな古典的なニブの扱いが充分にこなせるペンなのである。
だから筆跡にメリハリを付けて書く事が出来、しかも其れが非常に微妙な話なのだがどうも本質的に書道的なのである。
其の書道的というのは、流石に其処は中国という国の書に於ける伝統ということが明らかに関係して居ることなのであり、そんな要素は独逸物や伊太利亜物からはまず絶対に出て来ない筆記上の要素なのである。
より簡単に言えば、この英雄H2010Aで書くと、漢字や仮名が非常に美しくより本来の運筆が行えた上でそのように書けるのである。
ここからしてもこの種の英雄の小型ニブの優秀性は明らかなものである。
実際、現在私が英雄で一番良いと思って居るのはこうした小型の金ペン付きの万年筆なのだ。
其れ等には12Kと14Kのペン先のものがあるがH2010Aは14Kペン先である。
H2010Aに限らず此の小型の14Kペン先付きのモデル、また12Kペン先付きのモデルの場合であっても、兎に角英雄の小型の金ペン付きの万年筆の場合は皆役に立つだろうことうけあいである。
どうもペン先に復元性があり、本質的にしなやかである。
切り割りはガバッと開かないので線の変化が大きく出る訳ではないが、漢字や日本語をより本来的に美しく書き表すことの為にはまさに最適の万年筆である。
そうした筆記の目的の上で古典の萬年筆とこのH2010Aのどちらがより日本語をより本来的に美しく書き表すことが出来るのかともし問われたのだとしたら、其処でどう答えるべきなのか悩んでしまうようなペンでもある。
尚裏技としては、もう少しペンを軽くする手がひとつだけある。
其れはコンヴァーターが金属製のクロームメッキでシリコンサック入の例のタイプなので之をもっと軽いコンヴァーターに替えれば或いは1g位は重量を削れる可能性はあるということだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1521回) ..2013/09/25(水) 00:32 No.4597 |
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まさに邪道の話となって仕舞うのだろうが、近頃私が頻繁に使って居る萬年筆はWatermanのオリジナルモデルではなく改造萬年筆なのである。
其れはペン先を付け替えてあるもので、Waterman56改 with a NETTUNO nibというものである。
NETTUNO nibというのはStipula NETTUNO SUPERBAという限定万年筆に付いて居たペン先である。
尚このペン先、万年筆の玄人筋に大変評判が良い。
普通のStipulaのペン先とは別物だと思っておいた方が良いのだ。
兎に角このペン先は全然違うのである。
90年代製だとは言え、筆記感の上での注文の難しい愛好家でも充分に使えることだろうペン先である。
私が90年代以降の伊太利亜物の中からペン先を選ぶとしたら1.ヴィスコンティの初期タイプ18Kニブ2.Stipula NETTUNOの14Kニブということになります。
共に絶品だと思って居ります。
この二種のニブは兎に角一級品なので、独逸物の往年の名作ニブや古典の萬年筆のニブにも見劣りすることが無いです。
このペン先が付けられて居るオリジナルの軸は確かセルロイド製ではなかった筈だと思って居たのだが、キャップの中の匂いを嗅いでみたところ明らかにセルロイドの匂いがして居る。
尚NETTUNO SUPERBAの軸の形状をそのままにして後に作られたStipulaの少量生産の限定品数種の場合も確か皆セルロイド軸になって居た筈である。
ーちなみにこれらのモデルには普通のStipulaの18Kニブが付いて居るだけなのである。だからこれらの限定品を買ったとしてもこの絶品ニブを入手したことにはならないのである。あくまでNETTUNOモデルに付けられて居る14Kニブを手に入れなければダメなのである。ー
とりあえず、ニブは最高に良いのですがどうも軸の方がよろしくない訳である。
セルロイド軸であることが不安であるし、其れに筆記状態で短めの軸なので私の好みでは無い軸なのである。
そこでどうしたら良いものか、実はこの二年ほども考えて居たのである。
NETTUNO SUPERBAの首軸のネジ部の径が太くて、大抵の万年筆の軸には嵌らないから胴軸を長く出来なかったのである。
竹の軸に嵌めるということも一時期考えて居たのだけれど、どうも其れでは勿体無いような気がしないでもない。
それで結局、ペン先を引き抜いて何かの軸に付けるということに相成ったのである。
すると、其処へ丁度うまい具合にスチールペン先のWaterman56が一本あることに気づいたのである。
之は、元々はWaterman16の方にペン先を移し替えたもので、ペン先が無かったゆえ大型のスチールペン先を付けていたものである。
其のWaterman56にNETTUNO SUPERBAのペン先を付けて仕舞うことに対して今の私にさして躊躇いは無い。
古典の萬年筆は基本的にオリジナルの状態を保つべきものであることは分かって居る。
が、其れは売買に供する個体に対して言えることなのであって、自分で使う分はどうあろうと自己責任でやっちまえという話なのである。
http://yahoo.jp/box/pRxrsn
こうしてWaterman56改 with a NETTUNO nibモデルは出来上がった。
軸に比してペン先が大きく感じられる萬年筆に仕上がった。
此の14Kニブは本当はもっと大きい。
ペリカン800のニブよりも大きい位なのである。
が、Waterman56はニブを深く挿し込むタイプの萬年筆なのだ。
だからこの位の感じになって居るのだが、それでも兎に角大きいニブ付きなのである。
http://yahoo.jp/box/L5AOzl
このようにとても大きいニブなのである。
軸に比してニブが大きい万年筆の書き心地は、私の経験上ではとてもリッチなものとなり易いようだ。
其の逆に軸に比してニブが小さい万年筆の書き心地は、私の経験上ではどうしてもプアーなものとなって仕舞うようだ。
だから私は古典のペン、戦後のペンを問わず軸に比してニブが大きい万年筆が好きでなるべくそうしたタイプのペンを探し求めて居るのである。
http://yahoo.jp/box/PBpRLd
このようにオリジナルの6号ニブと比較しても矢張りNETTUNO SUPERBAのペン先の方が大きい。
そして其の大きさの割にキャップへの収納は普通に可能である。
http://yahoo.jp/box/1rdFfy
この改造ペンの書き心地はまさに秀逸である。
軸も良いが、ペン先も良い。
オリジナルの56とはまた違った風味の書き心地で、其れがまさに素晴らしいものとなって居るのだ。
私は先月だったか、オマスE.E.Ercolessiにヴィスコンティの初期タイプ18Kニブを付け其の改造ペンを良く使って居るのだけれど、之がまず一級品の書き心地をして居る。
そして今回のWaterman56改 with a NETTUNO nibモデルの方も紛うことなき一級品の書き心地をして居たのである。
此れ等二本を交互に書いてみると、全く凄い。
一級品の一級の書き心地が交互に感知されるので何やら夢の世界に迷い込んだかのような気分が味わえる。
共に凄いのだが、特に此のWaterman56改の方は凄い。
ペン先に於ける鍛金の有無は分からない。
されど大変しなやかで書き心地の良いニブである。
とは言っても実はオリジナルの56の6号ニブにも同じくらいのしなやかさはある。
また線の変化はオリジナルの56の6号ニブの方が顕著である。
戦後の柔軟なニブは矢張り線の変化ということに対しては余り得意では無いようだ。
でも書き心地の方はむしろWaterman56改の方が優れていると言えるのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1526回) ..2013/10/02(水) 23:12 No.4602 |
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Ranga Bamboo Premium Ebonite Pink with a GINJIRO 14K nib http://yahoo.jp/box/WB2o7b
今の私にとっての究極の万年筆の一本。
仕様諸元
軸・・・Ranga Bambooモデルのピンク軸。ただしJapan StyleでのBambooモデルー以前に登場させたバーガンディや緑の軸の物とはまた別物。ー 重量が31gあり若干重く、全長が5mm程短い。Japan Styleモデルは26gで5mm程長い。
ペン先・・・Walityのスチールペン先付き。フィードは手作りのエボナイト製。フィードをそのまま残して、14Kの兜木ニブーGINJIROニブーを装着してみた。GINJIROニブはモリソンのギャラクシーモデルに付けられて居た物。 モリソンのギャラクシーは加藤製作所製のセル軸で黒に銀の筋が入る美しいもの。信頼出来るセル軸だが私が好むような長い軸ではない。http://yahoo.jp/box/7iV_Vz
アイドロッパーの機構・・・インクのダダ漏れを防ぐ機構付き。首軸内部が壁のように塞がれ其処に小さな丸い穴が開けられて居る。其の穴からのみインクがフィードの方へ導かれる。だから其れはインク減少時のダダ漏れ対策なのだと思われる。其の事により、インクを満タンに入れた場合には振り出さないとインクが出てくれない様だ。然しインクが減って来ると次第に良いインクフローとなって来る。
軸の感触・・・何故かJapan StyleのBambooモデルよりも一枚上手で、ピンクのエボナイトの軸が軟らかく感じられる。しっとりとした非常に良い感触だ。然し同時に言えることなのだが或いは表面硬度が低くて鏡面仕上げが落ちて仕舞い易いのかもしれない。が、其れは気のせいなのかもしれず現時点では確定的には言えない。
ペン先の印象・・・GINJIROニブは流石に素晴らしい。本質的性能が高いのでキレがある。無理をすればカリグラフィーも出来ない訳ではないが、普通に書いても美しい日本語が書ける。鍛金ニブはしなやかで復元性がある訳だからどう書いたにせよ筆記が楽しくなる。ちなみに少々無理をすれば現在ヴァン・ゴッホに付けて居るより大型の兜木ニブが装着可能であるのかもしれない。
いずれにしても兜木ニブ付きのBambooモデルは一種究極の万年筆であることは間違いない。http://yahoo.jp/box/AgCTLC
ソリッドカラーのピンク軸は個性的な色合いで実に目立つ色合いである。
他にオレンジなどのヴィヴィッド・カラーもある。
ただしオレンジ系は古典の万年筆の赤軸がオレンジに近い色合いのものも多いためかさほど新鮮味は無いのかもしれない。
が、ピンク軸は他に無い色合いなのではないだろうか。
その点からも満足感の高い軸である。
14Kの兜木ニブは相変わらず良い。http://yahoo.jp/box/QvDo9n
之はどういう軸に付けても筆記が楽しくなることだろうニブである。
ちなみにこのペンの場合は若干重量があることからもカリグラフィー的な運筆を行うよりは普通にメリハリを付けた運筆でもって日本語を書いた方がよろしいようだ。
対してJapan StyleのBambooモデルの方は26gと軽量なのでDip Penの大型金ペン先のような柔軟でカリグラフィーの得意なペン先を組み合わせてもまた面白いのではなかろうか。
ところで重量のあるペンはペンを三次元的に動かされることが元々苦手である。
其の逆に軽量のペンは三次元的に動かされても平気である。
つまりより大胆なカリグラフィー的な筆致を行う為にはなるべく軽量のペンを選ぶべきなのである。
低筆圧の横滑り筆記を行うのであれば、其の逆に重いペンの方がそうした書き方には向いて居るように思われる。
またペン先の方は、カリグラフィー的な筆致を行う為には矢張り薄い鍛金ニブである方がそうした書き方には向いて居る訳である。
其の逆にGT筆記で行くなら現行の分厚い18Kや21Kのニブでも十分である。
本格的な製法の金ペンには筆記技術を伴う書き方で対するべきなのであるし、現行の合理化された金ペン先で書く場合には特にそうした特殊な筆記技術が必要とされる訳ではないことだろう。
いずれにしても此のRanga Bamboo Premium Ebonite Pink with a GINJIRO 14K nibは今の私にとっての究極の一本である。
此のペンを使って仕舞うと古典の萬年筆以外のすべての万年筆が色褪せて仕舞う。
全く恐るべき万年筆なのである。
ただし、Ranga Bambooモデルを使った改造ペンは此れ以外にも様々に制作出来そうである。
例えばDip Penの柔軟な金ペン先を付けてみたり、兎に角なるべく大きな金ペン先を付けてみたりと今後様々にやってみる価値はある。
然し現在のところは此のピンクのBambooが一番書いて居て楽しいペンであることは言うまでもないことだ。
ピンクのクラウン、1か月で650台を受注 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131002-00000078-rps-ind
何故か最近、此のピンクのクラウンに乗ってみたくもなって来て居る。
ーお知らせ 多忙の為3日間程書き込みをお休みします。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1527回) ..2013/10/06(日) 22:17 No.4603 |
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ちなみに石原 慎太郎日本維新の会代表はワープロ普及以前はプラチナ製の万年筆を愛用していたことが自身の記録により明らかになっているのだそうだ。
なる程ね。さもありなん。
ところで私はプラチナの万年筆、其れも60年代物のプラチナが大好きなのである。
其れは何故かと言うに、私が学生時代に使って居た70年代製のプラチナとは其れ等が似て非なる物だったからなのである。
とは言っても、全然違う物だということではなくまあ大枠では似たようなものではあるのだろうが、其れでも70年代製のプラチナには無い何かが60年代物のプラチナには確かにあるからなのである。
60年代のプラチナと言えば例の銀製の軸のものが有名なのだが私は今其れを一本も使って居ない。
何故なら銀製軸の物は私には少しだけ重く感じられるからなのである。
とは言え、かって私は此の銀製軸のプラチナを2本も3本も常用して居たのである。
かっては其れ程重い万年筆には思えなかったのだったが、万年筆での筆記上の経験を積むうちになるべく軽い万年筆を好むようになっていったのだ。
また歳の方が五十代になると其の傾向がより顕著になって来た。
万年筆の扱い上手はより軽い軸を好むという概念が最近は形成され、万年筆の扱いが下手な奴ほど重い軸が向き、逆にお上手な人程羽根のように軽い軸でも上手に扱えるものとそう信ずるに至った。
其の点からも60年代の軽い軸を持ったP-250やP-300といったプラチナ18シリーズのモデルは私の一番のお気に入りの戦後のプラチナなのである。
今では其れ等の本数も持って居て、多分10本くらいはあろうかと思われるのだが使って居るのはそのうちの3本のみなのである。
そして其の3本共アイドロッパー化してある。
それで其のアイドロッパー化した3本のP-300が現在絶好調である。
元よりアイドロッパー化することは完全な邪道であることと思われる。
然しながら、其のかんたん改造により60年代のプラチナが実に楽しく使えて居るのである。
其れも万年筆本体には何ら影響を与えて居ない。
どこも弄っては居らず、ただ軸に直接インクを入れて、それでもって首軸のネジ部にK-1を塗りこんでインクの漏れを防いでいるだけなのである。
そのようにして居るだけなのでインクがキャップの中で洪水を引き起こして居ることも稀にあるが机上限定で使う分にはさほど気になる頻度でもなくそんなことよりも楽しく使えるペンとなって居ることの方が余程に大きいことなのである。
それで、二ヶ月振り位ではあるが其れ等3本のP-300を使ってみたところ何とそのままに使えるではないか。
スッとインクが出て、普通に書ける。
之は驚異的なことなのである。
特に古いプラチナにとっては全く新鮮な現象である。
ゆえにP-250やP-300はアイドロッパー化するに限る。
ただし自己責任に於いて、しかも使って居るものに限り。
此の3本にはMUSIC、SIGN、SCRIPTのペン先が付いて居る。
いずれも個性的な書き味のする珍しいペン先ばかりだ。
他に細軟のペン先も使って居るが、そちらはデスクペンタイプとなって居る。
そして無論のこと其れもアイドロッパー化してあり大変書き易くなって居りインクも漏れ出て来ない。
だから60年代のプラチナに関しては此れ等だけで充分に満足して居るのである。
然し、私には以前からどうしても欲しい60年代のプラチナがあったのである。
其れはプラチナ18シリーズの初期型と俗に云われているモデルで、P-250やP-300とは仕様が異なる別物の万年筆なのである。
ところがこのモデルは私にとっては入手困難なものだった。
オークションにはほとんど出て来ないものなので入手が難しいのである。
とは言え、専門店などには置いてあるものなのかもしれない。
が、それでもたとえばL.E.Watermanのレアーなモデルよりも入手するのが難しそうな気が何故かいつもして居たのである。
ところが今年に入って此の初期型のプラチナ18を二本手に入れることが出来たのだった。
其の事は以前にも書いて居る通りである。
共にオークションで手に入れ、二本目は余り程度の良いものではなかった。
が、所謂悪い中での良しとすることの出来るような個体だった。
どういうことかと言えば、悪くは見えるが実は悪くなくて良いという個体なのである。
万年筆の中古品には、其の逆に良さそうに見えて実は悪い、といった部類の個体もある。
中には悪そうに見えて実は基本は悪くないというものが確かにあるのだ。
ところが、流石に悪いだけにペン先が片方だけ折れ曲がって居り書けないシロモノではあった。
プラ製の例のフィードもダメージを受けて居るようだ。
が、ペン先も軸もオークションの画像よりはむしろ綺麗で使い古されているという感じではない。
私は七月にメーカーへ修理を依頼すべく松坂屋へ持っていった。
最近の丸善は何となく気に入らないから松坂屋にメーカーへの取次をして貰うのである。
其の一ヶ月後位にプラチナの方からゴチャゴチャと伝えて来た。
曰く、このペン先は曲がって居るから直すのが難しい、フィードはもう部品が無い可能性が高い、などなど。
それで私は言ってやった。
此の万年筆は私が幼い頃に作られただろう物凄く貴重なものなので直さずには居られない。
修理代は五千円位は払っても良いから兎に角直してみよ。
我は四十年来のプラチナのファンでプラチナにとっては普通の人間では無い。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1528回) ..2013/10/06(日) 22:17 No.4604 |
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それでまた一ヶ月が経過した。
うーむ、はや二ヶ月以上が経過したがそういえばあのペンは一体どうなって居るのであろうか。
どこぞに紛れ込んであの20年程前の時のように紛失という憂き目にあって居るのではなかろうか。
もしそうだとしたら大変なことである。
我はあのペンと共に老後を過ごすつもりであるというのに、失くなりでもしたら其の計画がおじゃんである。
そう思い松坂屋へかけてみたところ、早速メーカーへ問い合せてみます、とのこと。
そして其の問い合わせの結果、丁度今名古屋に入ったところです、とのこと。
然しそんなうまく丁度今入って来ることがあるのだろうか。
修理の出来上がりの連絡をするのを忘れて居ったのではないのか、ひょっとすると。
そんな若干の疑問を感じながらも修理費を払い感謝してペンを受け取り、家に帰って書いてみるとあれあれ、何とも良い書き味だ。
うーむ、之はソフトだ、ソフト。ソフトタッチだ。
フェザータッチと言うよりもソフトタッチの方が分かりやすくて良い。
ぐわっはは、良かった、やりましたー、之で我の老後の幸せは約束されたようなものだ。
ただ、少しキモい話ではあるのだがこのペンは少々臭う。
中古のペンにはたまに臭いペンがあるものだがコイツがまさに其のタイプだったのである。
ただし他には何も問題は無い。之は実に良く出来た古き良きプラチナである。http://yahoo.jp/box/Ts-HJ3
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1529回) ..2013/10/08(火) 10:36 No.4605 |
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プラチナ18の初期型といわれるモデルはおそらくは昭和37年頃から作られて居たのではないかと思われるのですがどの位の期間作られたかということは不明である。
昭和37年といえば私はまだ幼稚園へ通いはじめた位の頃で、物心がつく以前の話なのであらゆることに対して兎に角何も覚えて居ないのである。
従ってこの、昭和三十年代後半の頃のことが私にとっての最もミステリアスな時代なのである。
其の頃こそが私がタイムリーに経験し得て来た時代の中で最も不透明な時代となって居るのである。
この頃は色んな歌謡曲なども流行っていたがそれ等を今聴いても皆妙に大人の曲であるかのように感じられるのである。
もはや自分がジジイの域にさえ近づいて来て居るというのに、其の年代の歌謡曲だけは自分が絶対に到達できない大人の世界の有様を歌いこんだものそのものでさえある。
其のことは戦前とか、19世紀末とか、そうした歴史的な時代のこととはまた違うのである。
そうした我の知らない時代のことは極言すれば何とでも言えるものだ。
然し実際に自分が体験して来た時代のことはそうはいかない。
其れは何より自己が共に歩んで来た時代の重みをこの身自身に感じて居るからにこそほかならないのだ。
昭和37年-再び社名を「プラチナ萬年筆株式会社」に変更。18金ペンの「プラチナ18」発売。18金ペン先時代、始まる。 http://www.platinum-pen.co.jp/company_history_top.html
ここにある広告で中田氏が持って居られるのが其の初期型のプラチナ18である。
初期型のプラチナ18には幾つかの特徴がある。
1.キャップ付け根に社名ロゴが横に長く刻印されていること 2.ペン先にアヤメの紋章の刻印がある 3.首軸後端にスリットが刻されたリング付き 4.18金のニブはP-300のものとは別物のより大きなニブ
ということになる。
そして此の初期型のプラチナ18は現在非常に稀少な万年筆として認識されて居るものらしい。
ということはほとんど情報の出て来ない万年筆だということでもある。
つまり多くの人が知らない万年筆だということなのである。
実際オークションなどを覗いていてもまず出て来ないペンなのである。
もっとも私の場合は何故か今年二本入手出来たのだったが、通常はオークションにもまず出品されて居ないものである。
従って何年待っても出てこないというものでもあり得る訳だ。
おそらくはこのモデルの生産期間が短かったものと思われる。
其れとも余り数が出回らなかったのか。
ところが、そうしたものに限ってモノが良いものと相場は決まって居るものなのである。
実際何でもそうなのだが、多くの人には知られていないというものの中に素晴らしいものがあるということは言えるかと思う。
実際此の初期型のプラチナ18は凝った作りでP-300に比べより高級感がありかつより本格的な万年筆に仕上がって居る。
戦後のプラチナで、それも五角絞りの18金ペン先のものの中で最も良い万年筆は此の初期型のプラチナ18である。
尚私が使用する黒軸金色キャップのモデルには胴軸にP-600という刻印がある。
だから之がP-600モデルであることはほぼ間違いないことなのだろう。
さて此のP-600ですが、先にも書いたようにペン先が大きくP-300とは別物となって居る。
其処をより詳細に言えば、ペン先ばかりか首軸自体がP-300よりも太く、フィードもP-300のものより一回り幅広のものが付いて居る。
そして大事なことは、其のペン先が柔軟であることである。
其れも、P-300の細軟と同じ程度に柔軟である。
私のP-600は中字かと思われますが、それでもP-300の細軟と同じ程度に柔軟である。
しかも、其のペン先が大きいので筆記感はよりソフトなものに感じられる。http://yahoo.jp/box/ELStR3
P-300の細軟よりもゆったりとしていて、より楽に筆を運べる感じである。
そしてこの筆記感こそは秀逸なものである。
後にプラチナのペンは固く感じられるような筆記感のものが多くなっていくのだったが、此の初期型のプラチナ18の場合はそうしたものとは別物の筆記感を持つものだったのである。
私は兎に角意外な迄の此のプラチナのソフトタッチに魅了されて仕舞い、このところ此のペンばかりを使って居るのですがおそらくは今後も何度書いても飽きないことだろう実に良い筆記感のするペンなのだ。
そしてこの際はっきり言っておこう。
この初期型のプラチナ18があれば他社の60年代物などは一本も要らない。
いや、P-250やP-300でさえも要らない。
此のP-600のみをもう一本だけ欲しい。
それも黒軸で金色キャップの、そしてデカい18金ペン先の付いたP-600の程度の良いものを是非にでも。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1530回) ..2013/10/08(火) 21:45 No.4606 |
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http://yahoo.jp/box/zps3EA
初期型のプラチナ18の二本を比べてみるとこのようになる。
上の方が私が今使って居るP-600で、下の方がフラワーリング付きのモデルである。
此のフラワーリングというのが実は非常に凝った作りとなっていていかにも精緻で立体的な意匠となって居る。
今の実用万年筆はこうした細部のディテールに凝るということが稀なので其れを見て居るだけでも新鮮である。
此の頃はどうも万年筆を本気で作って居たのではなかろうか。
其の本気というのは、銭金だけでは無いという意味での本気なのである。
今の商品は特にマスプロダクツのものの場合にはいかにも銭金の為に適当に作られて居るという感じがどうしてもして仕舞うものなのだが、60年代位まではそうではないモノづくりの哲学のようなものが存して居たのかもしれない。
其れも数の出る商品ではあっても其処からそうした哲学のようなものを感じさせて呉れるのである。
http://yahoo.jp/box/HK_AEq
フラワーリング付きのモデルの方が少し筆記状態で短いので或いは女性を意識したモデルであったのかもしれない。
ただし首軸とペン先の部分の大きさは等しい。
だからおそらくは筆記感などもほとんど同じだろうと思われる。
ちなみにフラワーリング付きのモデルの象嵌部が曇って居るように見えるのだが其れは後で拭いてみたら取れたのだった。
またP-600のペン先の方が傷が多いのだがペン先の調整でメーカーに苦労をかけていることもあり多少の傷位は大目に見てやるべきである。
http://yahoo.jp/box/5GMR0q
P-300とのペン先の比較。
ただしP-300のペン先の中でも大きめのMUSICとSIGNで比較してあるから真ん中のP-600のペン先が余り大きく感じられないかもしれない。
が、実際にはずっと大きく感じられるものとなって居り、筆記感の方もまた全然違うものとなって居る。
だが書き味自体で比べれば、アイドロッパー化されたP-300のMUSICとSIGNもまた凄まじく、むしろこちらの方が上だとも言える。
書き味の良さと言うよりも総合的な筆記感の方でP-600の大型ペン先は優れて居る。
そして万年筆の大きさ自体がP-300よりもP-600の方が一回り大きくより本格性のあるモデルであるように思える。
http://yahoo.jp/box/BPAhXF
P-600の場合は、アイドロッパー化することなく大型カートリッジでもって使用中である。
此の大型カートリッジは現行のカートリッジよりも古いもので、おそらくはプラチナがこのタイプのカートリッジを出した時の最初のタイプだと思われる。
私は80年代の後半に地元の文房具店をつぶさに回って古いプラチナの万年筆を中心としながら色んなものを買い漁って来たのだったが、其の折にこのタイプのカートリッジを箱入りで大量に発掘し現在もそれ等を持って居るのである。
ところがこの大型カートリッジはP-300には使えないものなのであった。
従って20年以上にも亘りまさに宝の持ち腐れというところだったのだが、今回のP-600には使えるということなので其の事が全くもって嬉しくて仕方がない。
其の大型カートリッジにスポイトでパイロットブラックを注入しつつ現在使用中なのである。
尚、このプラチナのカートリッジは一種のアイデア商品で良い物だと個人的には思うのですが、余り長く使い込んで居たりするとトラブルが発生することもある。
カートリッジの先の方でカートリッジが破断し、其の切れ端が首軸の内部に残り取れなくなるということが屡起こり得る。
従ってスポイトでインクを注入しつつ使う場合にも定期的にカートリッジを交換していく必要がある。
大型カートリッジは何せ現行のものと比べ大容量なので非常に良いものである。
すぐにはインクが無くならないので安心して使って居られる。
ところで何故この大型カートリッジは消えて仕舞ったのだろうか。こんなに良いものであるというのに。
さて18金のペン先と云い、カートリッジと云い、此の頃のプラチナの万年筆はある種邪道の方向性を向いて居た訳である。
其れは万年筆の本格性という意味に於ける邪道の方向性のことだ。
なんとなれば、万年筆のペン先は14金のものが最良であるのだし、インク供給なども吸入式の方が有利であることは分かって居ることだった筈である。
其処をあえて18金のペン先にし、カートリッジ式にしていったところに誰しも疑問を抱くだろう筈なのである。
其の訳の分からんような戦後のより近代的な意識が万年筆に組み込まれ、これ以後万年筆はより訳の分からん金ペン先に於ける品位競争やショートタイ プ、ポケットタイプと云われたところでの携帯に特化したタイプの万年筆を誕生させるに至ったのである。
従って其の邪道振りを、古典の萬年筆を愛する自身の立場からは見過ごすことが出来ないのではあるが、其れでもプラチナの邪道ペンの中では最も良いものと思われる初期型のプラチナ18モデルにこうして接するに、其れ等が実に手の込んだ望ましい万年筆にも思えて来て、其の事に矛盾と言えば矛盾を感じて居る今日この頃なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1531回) ..2013/10/09(水) 23:45 No.4607 |
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逆に言うと凝ったフラワーリング付きの初期型のプラチナ18は万年筆の本質の方を向かずに変な装飾性の方にお金をかけて居たのだとも言える訳なの である。
が、この頃の万年筆にはまだまだ魅力がある。
おそらくは実用性と装飾性との間に適度で良好なバランスが存して居たからなのだろう。
そういうことは大事なことである。
また何に対してもそうなのである。
たとえば自然と文明の間にも其の適度で良好なバランスを齎すように努力することこそが真の知恵者というものなのである。
さて、私が近年モノとの関係性に於ける指標にして居る考え方がある。
其れは頑張り過ぎないでなるべく大きく果報を得る。
ということである。
或いは、安上がりに最大の成果を得る、ということでもある。
何でもほどほどにしておくが実は求めても居る。
そのくせ本心では強くは求めては居ないのだけれど結果的には得られて仕舞う。
という様な一種分かりにくいような境地を歩んで来て居るといっていい。
其れは元々相当に万年筆に拘って居るのだが其の拘ること自体を客観視する余裕を持つというようなことでもある。
だから以前より万年筆に対してより自然体と言うか一種いい加減でもあるのだが其の事が段々と居心地よく感じられるようにもなって来て居る。
その辺りでの境地に、印度製のRangaペンはピタリと合って居るのだと言える。
然しふとRangaペンでほとんど使って居ないものがあることに気付いた。
1.このペンをどう使えるペンにしていくかということがひとつの大きな愉しみである。
2.相変わらず確かな、そして美しいロイヤルブルーのエボナイト軸である。
3.相変わらず何も考えなくて良いアイドロッパーでインクを入れること以外は実際何もすることがない。
1.私の場合は改造でやり過ぎてはいけないのである。
軽く弄って、別物の万年筆に生まれ変わらせることが理想だ。
2.少し重いのだがとても良い長い軸である。
これ以上長い万年筆はおそらくはそうそう無い筈である。
3.アイドロッパーであればあれこれと余分なことを考えなくても良いので筆記に専念出来る。
Rangaのアイドロッパーはまさに安心、楽ちん、低価格と三拍子揃ったペンなのである。
http://yahoo.jp/box/u7KAsn
つまりはこのデスクペンタイプのRangaを使って居ないことに気付いたのであった。
ペン先はスチールニブながら悪くない筆記感をして居た。
が、矢張りより魅力的なペンとする為には是非とも金ペンにすべきであるという結論に達したのだ。
それで結局、モンブラン146の14CのBニブがこのペンの為に選ばれることとなった。
他のペンに付けて居たのだったが、どうもフィードとのマッチングはこちらの方が良さそうである。
取り付け後も取り付け位置の微調整を繰り返し現在ようやく完調となりつつある。
ペン先の取り付けは非常に難しく其処には曰く言い難い部分での苦労がある。
ペン先を正しく入れ直すことは多分プロの方でも難しいのだろうと思う。
http://yahoo.jp/box/o-ymnW
このオールドペン先が実に良く合って居る。
久保工業所で調整済なのでインクフローの方も申し分ない。
書いてみると実に書き易い。
そして書き味の方もなかなか滑らかである。
尚、私は同じペン先をあちこちへ付け替えたりはして居ますがここぞというところにあてがったペン先はもうずっとそのままで書いていくのである。
このRangaのブルーエボナイトの軸とモンブラン146の14CのBニブとは結局そういう関係になることだろう。
今私はこのブルー軸で筆記感の良いオールド14金ペン先のRangaに大きな魅力を感じて居り、あのピンク軸のRanga同様いつも机上に置いて使って居る。
全く素晴らしい万年筆で実に癒される。
あれ、いつのまにか万年筆にも深く癒されるようになって来て仕舞った。
9月は精神的に少々大変なことがあり、其れで鉱物の方で癒されていたのだったが今は万年筆でも其れと同じ様な深い癒やしが得られるではないか。
全く嬉しい限りだ。
それに此のブルーのRangaで癒されることがこんなに素晴らしいことだったとは。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1533回) ..2013/10/12(土) 17:42 No.4609 |
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お知らせー前回分が未完の形でしたので書き加えました。
さて、このほど、念願の万年筆の本を手に入れることが出来た。
其れは「ステイショナリーと万年筆のはなし 東京アドバンク編」 昭和56年初版発行 である。
著者はあの梅田 晴夫氏である。
この本、実はアマゾンでも扱って居るのだけれどいかんせん其れ等は高価であり過ぎた。http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4924528064/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used
其れでオークションの方にたまたま安く出されていたので落札してみたのである。
その結果まずまずの程度の良い本を安く入手出来嬉しくて仕方がないのである。http://yahoo.jp/box/9KAU_C
この本は矢張り素晴らしい。http://yahoo.jp/box/X6QPEg
いつもの梅田節、梅田萬年筆ワールドが其処に拡がって居たことにまずは安心した。http://yahoo.jp/box/MFj-ki
然し、この御本は梅田先生の絶筆となった万年筆に関する本なのである。
この本が出版された1981年にはすでに梅田先生は亡くなられて居り、一方私はと言えばまだ学生をやって居る最中で万年筆のコレクターにはなって居ない頃なのであった。
私が曲りなりにも万年筆のコレクターのようなものになったのは1985年頃のことである。
そして80年代の終わり頃から90年代の初め頃にかけて、地元の図書館へ行き其処で梅田先生の本を借りてきてはせっせと本をコピーして居たのである。
自宅にコピー機があったので其れでもって兎に角全ページをコピーして仕舞うのである。
其れも梅田先生の文学方面での本をコピーするのでは無く万年筆に関して書かれた本だけをそうするのである。
従って今でも当時コピーした其れ等の分厚いコピー紙が部屋の片隅に積んであったりもする。
其の後地元の古本屋をめぐるなどして実物の本の方も探し出し結局コピー分は不要になったりもしたのではあったが何にせよ其の分厚いコピー紙こそが当時の私の万年筆に対する情熱を何より物語って居るものなのだと言える。
兎に角当時は万年筆に関する情報が少なく、万年筆はむしろ斜陽産業で今よりも余程にダメな分野だと思われて居たのではなかったか。
ところが80年代終わり頃からの限定万年筆の発売と90年代からの限定万年筆ブームですっかり万年筆は息を吹き返したかに見えた。
ところが限定万年筆には元々様々な問題が内包されており、またバブル崩壊後の不況や其れに伴う賃金の伸び悩みの影響などで90年代のように高額限定万年筆がポンポンと売れる時代ではなくなっていったのだった。
今でも覚えているが、90年代に丸栄百貨店ではモンブランをはじめとする高額な限定万年筆が飛ぶように売れ、其のことにより万年筆売り場の皆でハワイへ旅行して来た、などということが実際にあった時代なのであった。
其の丸栄百貨店の万年筆売り場はとっくになくなり、あの丸善でさえおそらくは今高額な万年筆を売ることが難しくなって居る筈なのである。
結局90年代の限定万年筆ブームはバブリーなものに終わり、今は元の落ち着いた万年筆の趣味へと戻りつつあるのだろう。
然し、無論のこと今後も万年筆の凋落傾向には歯止めがかからないことだろう。
万年筆の本質を求める一部の万年筆のコアなファンはより専門化、細分化して行き、すなわち其処で全体論的な万年筆論が出て来ることは考えられにくく、非常に狭い範囲での愛好の度の深まり方がいや増しになって行くだけのことであろうと思われる。
昭和40年代のように一家に一本は必ずあった万年筆は平成の御代となるに及んで次第に姿を消し、いかにも現代チックでバブリーな限定万年筆という 非本質の儲け主義の万年筆の時代を経ていままさに寂滅の方向へと舵が切られんとして居るのではなかろうか。
寂滅とはまるで法話の話のようで縁起でもない話しながら、いや、実は其の寂滅に至ることこそが万年筆にとっての必然の道、万年筆は百年も前の過去のもので合理主義の時代の産物にはあらず、であるからこそむしろ其の非合理性のねちゃねちゃの世界に耽溺することも出来、こうして三十年以上も前に亡くなった梅田先生のことを其の著作から偲ぶことも出来、またこんな時代に真顔でもって古き良き萬年筆たちのことを話題にしたりすることも出来ようというものである。
滅び去るものは常に儚くも美しい。
寂滅するだろう筈の萬年筆たちを見て居るとつい哀しみにとらわれて仕舞うのだが、其の哀しさは我の心が明知に至って居ない為の無明の哀しさであるに過ぎないのである。
やがて滅びようがどうしようが萬年筆の存在は歴史として偉大なのだし其れは現在の我にとって欠かすことの出来ない重要なアイテムのひとつである。
従って萬年筆と共に世を去ることを考えよう。
其の好きなものの寂滅に付き合う形で我自身の心をも寂滅させることは叶わぬだろうか。
http://yahoo.jp/box/UC2xvc
http://yahoo.jp/box/iKZOCO
尚、今回此の本を読んでいて一番驚いたことは以上のようにL.E.Watermanの古いペンが挿絵として沢山本に載っていたことである。
昔図書館から借りてきてこの本をコピーした時には全く気付かなかったのだが、其れも今となっては良く分かる。
ここからしても、まさにあのL.E.Watermanの古いペンこそが万年筆の基礎であり基本なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1534回) ..2013/10/14(月) 18:06 No.4610 |
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結局万年筆というものは私にとってもいまだに良く分からんものである。
人生とは何たるものかということが多分生涯分からないことであることと同じくして万年筆ということも結局は分からん。
ただ其の大元が分からんなりにも部分的に細く分かって来るということはあろうかと思う。
ところで私は最近本当に不思議な体験をして居て其れは頭の方で考えても全く分からない部類のことなのである。
其の現象を一言で言い表すとすれば、謂わば嫌いな万年筆が私に擦り寄って来て居るとでも言える。
それと言うのも、元々私は兎に角お習字ペンが好きな訳である。
まさに1920年代以前のエボ軸14K鍛金ニブ付きの軸の長い黒い萬年筆群を一番好んで居る訳である。
然し、これらのペン達は携帯には向かず戸外で使う訳にはいかないのである。
それで私は当初外ではボールペンやシャープペンシルに活躍して貰って居た。
其の後携帯に向いた70年代の国産ショートタイプの万年筆を外で使うようになり、やがてペリカンなどの小型のピストンフィラーを其の任に当たらせることとしてみた。
また其の後にそれでは飽き足らなくなり、Parker Vacumaticを使うようになった。
Parker Vacumaticはセル軸ながら優秀で、軸も良いが特にペン先が良く結構細かに綺麗な字を手帳に書く事が出来た。
そんな訳で今私がメインのペンとして戸外で使って居るのは其のParker Vacumaticなのである。
其れもオリジナルの吸入方式で使って居るのではなくアイドロッパー化して使って居るのである。
ところが、私の万年筆觀での上から言えばVacumaticsは余り好きではないタイプの合理的万年筆である筈なのである。
然し、其れこそが今私にとっての大事なペンとなって仕舞って居るというそもそもの矛盾が其処にある。
さらに、私が今オリジナルの状態で結構大事にしつつ使って居る古い伊太利亜物のペンが一本だけあり、其れがStipula ETRURIAである。
此のペン、実は私が最初に求めたStipulaのペンで、多分90年代の前半位に求めて居た筈なのだが胴軸には1986との刻印があり或いはもう少し古いタイプのモデルであるのかもしれない。
此のペンもズングリしたバランス型で短いペンなのでそんなに好きなペンではなく余り使って来ていなかった物だった。
ところがこのペンが今私にはまさに宝石のように価値あるペンとして見えて来たのである。
1.軸は非セル軸で長年使用しても問題が生じない。http://yahoo.jp/box/0n4BrK
2.装飾部が質素で確か、そして何かとお上品な軸。http://yahoo.jp/box/Vr0jdR
3.18Kのペン先の書き心地が矢張りお上品。http://yahoo.jp/box/jigPEz
4.元よりペンとしての作りは独逸物や日本製の作りの精度にまでは至らない。だが丈夫で長持ちして居る。 伊太利亜物でここまでやれれば全く大したものである。
1.多分もう14、5年も使って居る筈だ。それなのに軸に狂いが生じて来て居ない。まさに非セル軸であることの恩恵である。非セル軸なのに質感、 感触ともに悪くない。全然安っぽく感じられない。色合いも非常に美しい。 2.キャップリングがシンプルながら立体的な意匠で美しい。銀製なのでうまく黒変しており美しい。いわゆるいぶし銀の味わいがあり。クリップもまた同様である。 3.スティピュラのニブとしての節度ある上品な書き心地を維持して居る。もっとも余り使って来て居ないのでまだまだこれからと言ったところである。 4.これまでに使った伊太利亜物の軸の中で最も丈夫な軸である。そして短めながらとても美しい色合いの軸である。
以上のことからも、実際ペンの上では理屈で割り切れないことも往々にして発生して来るのである。 其れも兎に角長い間ペンと付き合って居ると色んなことが引き起こされて来るのである。
ゆえにブランドや評価でペンの価値を断定する必要はない筈である。
実際何があるか分からんものなのである。ペン趣味に於いては。
ところで限定万年筆のことを書いて居た頃、私は初期物の限定万年筆は良いということを始終語って居た筈ですが、其のことは今でも確かに通用することの筈である。
此のETRURIAは限定万年筆ではなかったのだが初期型の筈である。 http://yahoo.jp/box/qcn7a7
其の初期型の90年代物は万年筆としては後の物よりも良いだろうというのが私の実感となって居る。
そして無論之だけが良いのである。
後にETRURIAにはセル軸のものが沢山登場した訳だったが、そんなものはダメで、結局この初期型の軸のモデルが最高である。
このペンは比較的軽くて、バランスの方も良い。
バランス型の所謂作家向きのタイプの軸なので長時間筆記型のGT筆記でペン先を滑らせて低筆圧筆記していく書き方こそが向いて居る。
謂わば古典のお習字ペン達とは正反対のペンなのだが、其れは其れで書き方をペンに合わせてやれば非常に書き易いペンなのだと言える。
尚このペンの弱点はピストンフィラーの完成度の低さにある。
このペンも現在は物凄く力を入れて吸入する必要がありそこからもおそらく何年ももたない筈である。
されどギリギリ吸入することが出来る。
伊太利亜物に限らず、たとえ独逸物でもピストンフィラーは万全ではなく十年位使うと壊れることが多い。
すると其の度に高額の修理費や長期の修理期間が必要となるなど手間がかかるから万年筆を多く持って居る人には其処が何より問題となる吸入方式である。
だから本当はアイドロッパーの方が手間要らずでより完全な吸入方式なのだと言える。
だから本当はこのペンをアイドロッパー化して使っていきたいのだけれど、どうも首軸が取れないようなのでそうすることは難しいようだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1535回) ..2013/10/17(木) 23:04 No.4611 |
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Ranga Japan Style Bamboo with a Coklin nib
例のバーガンディのBamboo軸に限定品のニブを付けてみたもの。
結局、Rangaは金ペン化するに限る、ということからこのような仕様が誕生した。
赤系の軸に銀色のニブが良く映えて美しい。
されどこのペンは、書くのが極端に難しい。
実は意図的にそうしてあるのだ。
私はこのペンでペンに於けるある実験を行って居るのだ。
此れはニブを弄って居るのである。
ニブを変形させPayton Street Pensが差し込んだフィードとの密着度を高めて居る。
Coklinの18Knibは下方へ少し曲げてある。
Coklinと言ってもViscontiのニブで、之がクネクネと曲がる柔軟なタイプのものである。
ところが其のクネクネを堪能しようとして以前に書いているうちに次第に上方へ反り上がって来たニブだったのだ。
それで其の変形分を直しついでに少しだけ下方に曲げて筆記時のニブの変形に耐えられるようにしてみたかったのだ。
ところがこのペン、書くのがかなりに難しい。
要するに普通に書くと書けないのである。
ではどのように書くのかというと、丁度お習字のような書き方をしてみるのである。
すると書ける。
どういうことかというと、切割りが仕舞って居るので普通に書いてはインクが出ず書けないのである。
然し柔軟なニブを筆の穂先のように扱いながら運筆圧を常にかけて書くと其の圧力に応じて切割りが開かれるのでインクが出て書けるのである。
つまり現代のニブにとっての邪道の使い方をあえてしなければこのペンはまともに書けないのである。
それで、このペンを書くにはかなりの力が要る。
今のペンを書くときの常識である、万年筆は力を入れずに書くということの逆をあえてしている。
ところが、結果的にこのペンでは美しい日本の文字が書ける。
運筆を立体的に行い書道のように書いて居るので、字が美しくなり昔風のくずし文字なども書き易い。
さらに線描の筆記も行える。
細い線と太い線を運筆に伴い書き分けることさえ可能なのだ。
つまりはこのペンは現代の日本のペン趣味の上での常識に対する私の疑義を具現化したものなのである。
万年筆は確かに力を抜いて扱うべきものなのだろうが、然しながら、そのような書き方で本当に美しい日本語を書く事は可能となるのだろうか。
運筆圧が全くかからないような日本語の書き方では、其処で適当な日本語つまりダイジェスト版の日本語は書けても真に美しい日本語が書けて居るとは言えないのではないか。
確かに書道では力を抜いて筆を扱うものだが、実は運筆に伴ってかなりに穂先が紙の中にめり込んでいく。
穂先が変形する訳だから其れは結果的には運筆圧がかかっているということである。
其処を無視して、西洋流の硬筆筆記候の書き方で万年筆を扱っても本来の日本語の美しさは表せない。
より厳密な筆記というのは何より日本語の表記に於ける伝統のカリグラフィーの要素を充分に意識した書き方を行うことにほかならない。
そりゃ確かに万年筆は硬筆筆記具であり軟筆である書道の筆とは全く異なるものである。
然し万年筆はニブを変形させて書く事の出来る稀有な筆記具でもあり得る訳だ。
ニブを変形させて書く事の意味とは、其れは書き味がどうのこうのということではなく美しい抑揚のある線を引く為のことである。
そして其のことが日本語の表記に於いても限定的に万年筆で行うことが出来ると私は言って来て居るのである。
ただし其のことを行う場合には、ニブの本質的な強さが必須となる。
ところが現代の18K以上の高品位ニブは、其の製法上からも頼りないものばかりで積極的にニブを曲げていけるようなシロモノでは無いのである。
だからひとつ間違うとニブが曲がり元へ戻らなくなる。
所謂復元力が其処に無いか弱い訳である。
然しニブにはかって強いものが沢山あり、そうしたニブであればグニャグニャとニブを曲げて筆記しても元へ戻って仕舞うという復元力を持ち合わせて居る。
従ってそういうのこそが本物の萬年筆のニブだ。
対して今の万年筆のニブは弱いからニブを曲げて筆記するとニブ自体が曲がって仕舞う。
従ってそういうのこそがダイジェスト版の万年筆のニブだ。
そして此のCoklinの18Knibとは実は典型的なダイジェスト版の万年筆のニブである。
本質的に軟らかくて、運筆圧や筆圧などを強くかけると次第に曲がって仕舞うニブである。
ただ、其の弱い現代の18KニブをFLEXニブに仕上げられないものだろうかと私は考えたのである。
下方へ曲げてバネ性を増しニブを曲げつつ書いてもニブ自体が曲がらないニブとしてみたかったのである。
其の目的は今のところ達成されているようだ。
かなりにニブを曲げて書いても何とか復元性があるようだ。
ただし其処ではやり過ぎない方が良いことだろう。
このニブは元より14Kニブでもなければ鍛金ニブでもないのだ。
やり過ぎて仕舞えば次第にニブは曲がって仕舞うことだろう。
それに以上のような訳で至極書きにくいニブであるのだから、現在はあくまで実験としてこのような形で使って居るものなのである。
このニブをずっと使っていくのならば、フィードを替え切り割りを開いて調整すればもっと書き易くなることは分かって居る。
或いは古いペン先や兜木ニブにすれば筆記感はまた全く異なるものとなる。
それでも今この実験を継続してやって居るのは、何ともこのニブが面白いからなのである。
力を入れずに書くと全くインクが出ずつまりは書けず、力を入れて、或いはFLEXさせつつ書くと普通にインクが出て書けるということが全く新鮮なことなのである。
古典の萬年筆の鍛金ニブというものは要するにこのCoklinの18Knibとは本質的に異なる地金の性質からFLEXさせることが可能なニブとなって居るのである。
其処からしてもこのニブはインチキニブである訳であるが、インチキだろうが何だろうが現代の万年筆のニブで常時こうしたカリグラフィーを行なって居ると一体どうなるのだろうということを今調べあげて居る最中なのだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1536回) ..2013/10/19(土) 18:31 No.4612 |
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http://yahoo.jp/box/4viODQ
http://yahoo.jp/box/a-SqUw
3本のRanga Bambooにそれぞれに金ペン先を取り付けてみるとこのようになる。
上から、Ranga Japan Style Bamboo with a Coklin nib、Ranga premium ebonite Bamboo with a GINJIRO nib、Ranga Japan Style Bamboo with a Kabutogi special nibである。
リップルのバーガンディ軸のBambooモデルは前回述べたように筆記上の特殊な試験、実験を行なって居るものである。
なのではあるが、その割に結構本当に柔軟なニブで、実は他の二本の兜木ニブよりもずっとしなり易いニブなのである。
だからこそ線描筆記の可能性につき調べて居るのである。
現代のニブで線描筆記を真の意味で行うことが出来るかどうかということを調べて居る。
従って実はこのバーガンディ軸が一番筆記上は面白いのである。
だから何でもそうなのだが先入観だけで万年筆を見てはいけないのだ。
銀次郎ニブ付きのピンク軸は若干ニブの取り付け位置を変えたが相変わらずキレの良い兜木14Kニブの反応で筆記感の上では申し分ない。
ただし線描ということに関しては、戦前の海外メーカー製のニブの方が得意である。
L.E.WatermanやSWANの柔軟なニブ付きのモデルの方が常に線描は得意である。
兜木ニブは線描というよりも日本語の文字表現に軽く抑揚を持たせながら質の良い筆記感を楽しむ為のニブである。
然し、兜木ニブは現行メーカーが採用している18K以上の高品位ニブとは別物で復元力が確かなニブである。
だから今となっては大変貴重なものだと言い切れることだろう。
現行の万年筆を、それも高い金を出して其れを購うというのであれば、それよりも例えばオークションで兜木ニブ付きの酒井軸の万年筆を是非買っておくべきなのである。
もっとも最近は其の兜木ニブ付きの酒井軸の万年筆が妙に高騰して仕舞って居るのだけれど。
Ranga Japan Style Bamboo with a Kabutogi special nib
之は兜木ニブでも最も大型と目される14Kニブを装着したオリーヴブラウンカラーのBambooモデルで本日誕生したばかりの万年筆である。
元々は私が十五年位前に京都の丸善で購入して来た酒井軸の極太のモデルに付いて居たものだった。
このニブが素晴らしい。
モリソンに付けられて居た銀次郎ニブより一回り大型でより繊細な筆記感を感じさせて呉れるものである。
私は之をアイドロッパー化したヴァンゴッホに取り付けてこれまで楽しんで来て居たのではあったが、今回矢張りどうしてもJapan Style Bambooモデルに装着してみたくなり本日急遽そうしてみたものである。
だがまだ使って居ない。
この軸に付ける前にピンクのBambooモデルの方に付けてみたのだったがフィードとの適合の問題があり結局こちらの方に付けたものである。
尚より完璧な改造を行うのであれば、酒井軸に付けられて居たオリジナルのフィードをBambooモデルに移植するという手も無論のこと有る。
さて問題は、こうして自分にとって気に入ったエボナイトの軸に真の意味で良いニブを次々に組み込んでいくと次第に新たに付ける良いニブが無くなって来て仕舞うということである。
実は二ヶ月位前にヤフオクに酒井軸の極太のモデルが比較的安価に出されていて其れを是非入手しておくべきだったのだが忙しくてつい手が伸びるのが遅くなり逃して仕舞った。
其の時に其れが入手出来ていればもうひとつ大型兜木ニブが手に入った訳だったが其れも後の祭りである。
其処であれこれと良さそうなニブを探して居たところ、ついにこれはというものを見い出したのだった。
其れは英雄の14K大型ニブである。
尚之は英雄の高額モデルに付けられて居た18Kタイプのニブとは別物である。
英雄の螺鈿軸、930など900系の太い軸のモデルに付けられて居た14K大型ニブである。
このニブがなかなかデカく、それこそ大柄なRangaの軸には良く似合いそうなペン先なのである。
以前にも述べて居るように中国の万年筆の軸の作りは伊太利亜物同様に悪く、其の事は所謂高級版の万年筆に関しても全く同様のことなのである。
然し、これも以前に述べた通りに、中国や伊太利亜の万年筆のニブは独逸物のニブとは違った筆記上の味わいがあり決して軽視出来ないものなのである。
中国や伊太利亜の万年筆は悪いともし決め付けて購入を控えて居たのであれば、私はそれらの独特の良い筆記感には巡りあえなかったということになる。
此の英雄の14K大型ニブですが、実に良いニブである。
其の筆記感は90年代以降の万年筆の中で最も兜木ニブに近いとさえ言えるものなのである。
之はひょっとすると鍛金ニブなのではあるまいか?
なんとなれば筆記感にはかなりにうるさい筈の現在の私が使ってみて80点位は付けられるニブなのであるから。
本質的にしなやかで運筆圧で曲げられても復元性に富む素晴らしい性質のニブなのである。
私は昔からこのニブを大いに評価して居て、かつ大好きなニブだったのである。
http://yahoo.jp/box/wApI0C
其の英雄の14K大型ニブを現在は英雄の唐木軸に付けて使用中である。
もっとも最近は使用する頻度が下がったのだが、本日たまたま使ってみたところ何とも素晴らしい書き心地だった。
それも其の筈で、此の英雄の14K大型ニブはらすとチューンが施されたスペシャルニブであるからなのだ。
http://yahoo.jp/box/9c_8Cp
いや、確かにらすとるむさんによるらすとチューンにより書き心地が向上しては居るのだが元のニブの本質的性質が良いからこそここまでのものとなるのである。
実はノーマルでもかなりに良い書き心地なのである。
ただし、ここまでニブが軟らかくは感じられない。
らすとチューンにより何と兜木ニブのレヴェルにまで柔軟になって仕舞って居るのである。
此の英雄の唐木軸は元より廉価版、つまりは安物で大したものではない。
ただし木の感触だけは良いので、其れと英雄にしては軽い軸なので螺鈿モデルの軸からこちらへニブを移植して使って居たのである。
だからこの英雄の14K大型ニブを今後入手するRangaに付けていくという手がある。
幸いこのニブは未使用のものを含めると片手以上の数を持って居る。
それに難しいのかもしれないのだが英雄のオリジナルフィードと共にRangaにもし組み込んでいけたとすれば最高である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1541回) ..2013/10/27(日) 01:15 No.4617 |
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Ranga Bamboo with a HERO 18K nib
かっての英雄の大型ニブは14Kだった。
たとえば900には其の14Kニブが付けられ、903の赤軸や螺鈿軸にも14Kニブが付けられて居た。
英雄には他に18Kのニブもあり、其れは2002、2003、2006などに付けられて居たがこちらは特に筆記感の良いニブだった。
ただし此のニブは14Kニブとは大きさが異なる。
14Kニブの方が一回り大きい。
其の特に筆記感の良い18Kのニブを今回バーガンディのBambooモデルに付けてみた。
http://yahoo.jp/box/llFhYW
何故より大型の14Kニブにしなかったのかと言えば、其処には少々複雑な事情がある。
元々此のバーガンディのBambooモデルは印度のRangaのオリジナルモデルではなくPeyton Street Pensの為に作られた海外版のモデルである。
即ちアイドロッパーとしてだけではなく、コンヴァーター式として使えるのである。
又は両用式として。
英国の店でも其のようにコンヴァーター式として使えるVarunaペンが売られて居ることからしても、おそらくはRangaの方で其のように作った首軸を付け出荷して居るのだろう。
此のPeyton Street Pens版の首軸にはソケットが嵌って居り、其れを回すとニブユニットが取れる。
つまりはペリカンのように回すと取れるニブユニットとなって居り、其処にフィードとニブが組み入れられて居るのである。
ただし其うしてある分、Rangaのオリジナルのエボナイトフィードを組み込むことが出来ないのである。
より細いフィードでないと入らないのである。
いずれにせよ、そうしたことからも少し小型の18Kのニブの方をバーガンディのBambooモデルに付けてみた。
Peyton Street Pens版のBambooモデルを私の場合はアイドロッパーとして使って居る為、結局オリジナルのRangaの方が値段も安くエボナイトフィードが使えるということからもより望ましかったのである。
ただしオリジナルのRangaの方でしかもオリジナルのエボナイトフィードで使う場合にはインク漏れが引き起こされる可能性もまたある。
従って其の辺りが微妙な選択である。
海外版仕様でしかもコンヴァーター式で使えばおそらくインクの漏れは無いことだろう。
然し其の代わりに潤沢なインクの流れではなくなる。
まさに其れは道理である。万年筆に於ける真理である。
古典のアイドロッパーのペンは皆インクフローが良いのですが、其れも道理である。
要するに現代のペンはインクの容量が小さ過ぎ、かつインク制御能力の高いプラフィードばかりなので元々インクの流れが良くない万年筆が多くなって居るのだろう。
もっとも笑暮屋などではインク止め式の万年筆も現在作っているようですが、其れ等は正直余りにも高価で手が出ない。
対してのRangaのBambooモデルは五千円から7千円弱までのお値段。
比較にならない程の低価格だがモノが悪いという訳では決してない。
http://yahoo.jp/box/qZrEnk
かっての英雄のニブは素晴らしいもので、14Kに比して少し小型の18Kニブの場合には書き味の方が兎に角良くなる。
驚いたことに、兜木ニブ付きのピンク軸よりもこちらの方が書き味自体はずっと良い。
此処からも書き味というのは、どう見ても高品位ニブの方が良くなるのである。
ところがニブの反応などを含めた総合的な筆記感に於いては14Kニブに優るものは無いのである。
ちなみに私の場合限定的にではあるが18Kニブの存在も認めて居る部分がある。
が、大抵の場合18Kニブは書き味偏重となって居て本質的性質が弱いものが多いからカリグラフィーをする場合には充分に注意する必要がある。
つまり18Kニブの方が復元力が弱く曲がり易いニブとなるだろうことは明らかなのである。
ただし其れも現代の万年筆の場合にはそうした類のニブが多いという話で、戦前の18Kニブの場合はおそらくは鍛金されていて充分な強さを持ち合わせて居るのではなかろうか。
兎に角此の万年筆の書き味は最高の部類のものだ。
兜木ニブや古典の萬年筆のニブよりも遥かに上の書き味をして居て、まさに筆記マニアが泣いて喜びそうな上質な書き味を示して居る。
http://yahoo.jp/box/k2CIMA
フィードは何とセーラー銘木シリーズのものである。
当初、ソケットの中に組み込む適当なフィードが無く往生して居た。
どれもこれも太過ぎて入らないのである。
ところがたまたま春に首軸が破損したセーラー銘木シリーズのフィードが目に留まった。
其れを組み込んでみたらOKでしかも英雄の18Kニブにも合って居たのだ。
このことからも部品というものはどこでどう、何が何と合うかということは分からないものなのである。
http://yahoo.jp/box/KSCOHx
其れでようやく完成した此のRanga Bamboo with a HERO 18K nibで書いてみると此のようにスラスラ、サラサラとうまい具合に書ける。
そして書き味の方が全くもって最高である。
ただひとつ、僅かに心配なのはセーラーのフィードはインク供給が多い、つまりインクの制御能力が高いものではないと思われることから、インクの減少時にボタ落ちが生じないかということである。
尚、英雄のフィンが切って居ないのっぺらぼうのタイプのフィードもインクの制御能力が低くインクを良く流して呉れる。
然し其れを使っても矢張りインクの減少時にボタ落ちが生じないかということはある。
さらにRangaのオリジナルのエボナイトフィードや古典の萬年筆のフィードもインクの制御能力が低くインクを良く流して呉れるがボタ落ちが生じるおそれは常にある。
だがセーラーのフィードの場合は多分其処まで心配する必要は無いのかもしれない。
何といっても其れは21世紀になってから作られたフィードなのだから。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1544回) ..2013/10/30(水) 00:33 No.4620 |
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http://www.ebay.com/itm/WATERMAN-No-7-RIPPLE-1920s-RARE-PINK-FINE-FLEXIBLE-NIB-WORKING-/400563464981?ssPageName=STRK%3AMEWAX%3AIT&nma=true&si=knwloeCfdvRzIOMd%252BNuwKhEu5F0%253D&orig_cvip=true&rt=nc&_trksid=p2047675.l2557#ht_13731wt_1158
ここまで高価では矢張り現在ではL.E.Watermanの収集もなかなか大変である。 それにしても相変わらずカリグラフィーの方が美しい此の名物出品者のオークションである。
さてRanga Bambooモデルですが、内実を言えば実は之もなかなか入手するに難しいペンなのである。
と言うのも、先にも述べたように此のRangaペンは印度の万年筆職人M.S.Pandurangan氏の手になるもので基本的に一日に2、3本しか作れない物なのだそうである。
ところが電話や文書による注文やインターネットによる注文が月に百件程あるのだそうで、そこからしてどうも元々品薄の状態であるようなのだ。
従ってイーベイで売られて居るすべてのペンがすぐに用意出来るというものでも無いらしい。
Bambooモデルは特にプレミアムカラーの場合現在完全な軸の物が無いということである。
即ちキャップを挿して筆記状態にすることの出来る物が現在品切れであるということなのだ。
其の事は例えばピンクのBambooモデルでも然りで、私のピンクのBambooモデルのようにpostedの状態に出来る物が無いとのことである。
してみると、此の私のピンクのBambooモデルー兜木ニブ付きのーは結構貴重なペンだとも言えるものだ。
どだいPandurangan氏はご高齢でいつ病気になるか分からないような職人さんなのでもある。
酒井軸を作る職人さんが居なくなれば自然酒井軸の万年筆が高騰するということからも、Pandurangan氏がこの世を去れば必然的にRanga Bambooモデルもこの世から消え去り、高騰はしないまでも倍位の値段で取引されるようになるのかもしれない。
いや、其処でPandurangan氏が手作りでエボナイト軸を挽くRangaだのVarunaだのいった印度ペンはほとんど誰も知らない部類の原始的な万年筆なのであるから、例えばこの私のような一部の熱狂的なファンだけにそもそも評価され支持されて居るペンに過ぎないのであり、其れで結局このペンがこの世から消え去ろうがどうしようがほとんど誰も関心が無いというまことに寂滅的な終わり方を迎えるものであるのかもしれない。
逆に言うと私などは多分世界でも稀な熱狂的Rangaフリークで、もう兎に角Ranga、Ranga、寝ても覚めてもRanga、毎食後にRanga、坐禅の後にもRanga、という一種お目出度くも見える程Ranga一色に染まって仕舞って居る。
其れで最近はスッカリ他のペンの出番が無くなって仕舞い、あのロレンツォ・デ・メディチでさえ二ヶ月に一度使うか使わないかという位で、もっともL.E.Watermanの場合には流石にもう少し出番はあるが、其れでも最近はこれらのRanga共にしてやられっぱなしなのであり、 Ranga、Ranga、兎に角Ranga、ピンクのRanga、グリーンのRanga、ブルーのRanga、とフル回転で使用中なのである。
Rangaペンはエボナイト製で軸が長く軽いことが私にはピッタリなのである。
また其のエボナイト軸がカラフルであることも何より私には合って居る部分である。
ちなみに息子さんのMP Kandan氏が万年筆を製作出来るのかどうかは分からない。
然しどうも出来ないのではなかろうか。
だとすると矢張り安価なRangaペンと雖も其れをバカにして居てはいけないのである。
何だ、こんなものいつでも買えるわ、などとバカにして居るとそのうちに寂滅する恐れが大のペンなのである。
もしも寂滅したらもう一本も入手出来ないのである。
そのようなことを考えつつ此のRanga Bambooペンを使ううちに、いつしかある宗教的な感情がわたくしに芽生え、其れはかの印度を愛する心、数々の宗教を生み出した東洋の精神の母国としての印度、かってあのヘルマン・ヘッセが憧れし偉大なる精神の国への尽きせぬ恋慕の情、2600年前に釈尊が法を説いた真理が宿る地への深い思い。
それからRangaのエボナイトモデルの系譜としてはBambooモデルは最も新しいタイプ、つまり最新モデルなのだそうである。
結局此れは酒井軸か笑暮屋の竹軸を真似て作ってみたのかもしれない。
然し、此れは日本の竹モデルよりもサラリとしたデザインで非常に使い易い軸に仕上がって居る。
要するに軸がゴテゴテして居ないので持ち易いのである。
Ranga社ではエボナイト製の万年筆を制作するだけではなく、他にエボナイト製のDip Penも作って居りこちらの方が海外では屡話題に上ったりもして居る。
それから古いセルロイド・ペンを復活させるという面白い試みも行なって居るようである。
此れはどうも古いセルロイド・ペンを収集家から買い集め、其れ等をレストアして販売するということであるらしい。
が、私は其の試みには興味は無くむしろ自分の古いセルロイド・ペンを是非Ranga社に買い取って頂きたいと思って居る位だ。
いずれにせよ安価なRangaだと雖もそう簡単に欲して居るペンがすぐに手に入るという訳でも無いのである。
ですが私の場合にはすでにRanga社にとってのお得意様なので例えば注文時に色々と便宜を図って貰うことなどが可能であるのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1546回) ..2013/11/01(金) 23:42 No.4622 |
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http://yahoo.jp/box/kMKxB1
RangaのウルトラサイズのEDは筆記時全長が204mm、重量が47gある巨大な万年筆である。
軸の一番太い所では18ミリあり、非常に太くそして重量感のあるモデルである。
RangaのウルトラサイズのEDにはもっと筆記時に長くなるモデルもある。
然しそちらはプレミアムカラーではなくレギュラーカラーの軸となる。
そしてプレミアムカラーの軸はどうも重く表面硬度が低いようだ。
どちらかと言えばレギュラーカラーのエボナイトの方が軽くそして表面硬度が硬い良いエボナイトのように感じられる。
が、ファンシーカラーと言うかパステルカラーと言うか、兎に角そうした変わった色合いの軸を求めていく場合にはそうした部分は仕方がないということになる。
http://yahoo.jp/box/3V0U4b
元より巨大で重量感のあるペンなので其れでもってカリグラフィーを行うような代物では無い。
GT筆記でもって、インク容量の大きさを活かし沢山の文字を書いていけるようなペンなのである。
此のプレミアムエボナイトの感触はかなり軟らかい。
レギュラーカラーのエボナイトに比して軟らかく感じられるのだ。
Rangaの場合、そうした軟らかく感じられるプレミアムエボナイトの場合には何故か重量が重くなって居るようだ。
もっとも其れも、このペン程胴軸が肉厚であると単に其の事による重量増だと言えなくもないので確定的に言える訳ではない。
さてこのペンのフォルムから齎されるバランスは秀逸なものだ。
ペンを握った時にしっくりと来る良いバランスをして居る。
重心位置は全長の6対4の位置にある。
だから普通の万年筆と同じ様な感覚で扱うことが出来る。
非常に大きいペンだということだけを除けば。
インク容量はおそらく6ml入ることと思う。
Bambooモデルが3.5mlであり、3号や4号のサイズのペンが4.0mlである。
意外にBambooモデルの容量が小さいことが其処からも分かるが、それでもBambooモデルで頻繁にインクの補充をする必要などは無いのである。
逆にひとつの問題点として、容量の大き過ぎるEDはボタ落ちが屡発生するということがある。
従って此のウルトラサイズのEDの場合も其のことと無関係では居られないのである。
事実インクが減って来るとキャップの中にインクが滲み出して来る。
然し其れは大容量のインク保持能力を持つペンの宿命のようなものである。
其の場合にはインクの制御能力の高い現代のプラフィードに替えれば或いは解決する問題なのかもしれない。
が、エボナイトのフィードの方がインクの流れ方がより自然であり楽しい筆記を行う為にはそちらの方がより望ましい。
http://yahoo.jp/box/a7aI_m
ペン先は結局またConklinの18Kニブを付けることにしてみた。
今回は前回と違ってフレキシブルニブとしての取り付けを行わず、GT筆記でもってインクフローを良くした状態で書けるようにニブを調整、取り付けしてみた。
特にインクが減って来ると現代の軟らかい18Kニブ特有の滑らかな書き味が味わえる。
オリジナルのエボナイトフィードは現代のニブとの相性が良く、このようにヴィスコンティのニブ、英雄のニブなどとは特にマッチして居るようである。
或いは他にスティピュラやオマスのニブなども付けられる可能性はある。
スティピュラの反応の良いフレキシブルな14Kニブなども付けてみれば結構面白いペンに仕上がるのかもしれない。
ただし其の場合にはBambooモデルの方が適任である。
いずれにせよ、インクの容量が大きい此のウルトラサイズのRangaは、オリジナルのエボナイトフィードを付けて居る限りはインクのボタ落ちが避けられないものと思われる。
従って此の侭で使う場合には頻繁なインクの補充やペンの保管を立てて行うなどの対策を取りながら使うことを要求されることとなる。
元々私には少し重過ぎるペンなのではあるが、其の重さに慣れるとバランスの良さからも非常に書き易いペンである。
そして何より巨大なペンなので大きく存在感がある。
太くて大きなエボナイト製のペンを求めて居られる方にはなかなか似合いそうなペンである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1547回) ..2013/11/03(日) 23:08 No.4623 |
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http://yahoo.jp/box/ojSwEJ
こんな風に色とりどりのRangaのエボナイト軸の万年筆が集まるとなかなか華やかなものである。
此の中で個人的に良いと思うのは矢張りJapan Styleの柄入りのBambooモデルである。
此れは値段も安く、おまけに軸の表面硬度が高く使って居ると鏡面仕上げがより輝くようになって来る。
対してプレミアムカラーの軸の場合には軸の表面硬度が低くなり、使って居ると少し艶が落ちて艶消しのような軸となって来る。
不思議なもので、細かいことを言えば其のように軸材の性質が異なるのである。
然し実用する場合には逆に艶消し仕上げの方が手にしっくり来る場合もあるのでその辺りは何とも言えない部分だ。
此の写真で言うとピンク、青、パステルグリーンの軸の物がプレミアムカラーの軸の物である。
対して柄物軸のバーガンディと緑の軸の物がJapan StyleのBambooモデルである。
値段は平均すると送料込みで大体六千円位となる筈である。
ただし柄物軸のJapan StyleのBambooモデルは一番安くて送料込みで五千円以下となって居る。
其の分エボナイトの肉厚が薄いので大変軽く作られて居てカリグラフィーでの書き方にも向いて居る。
対して先日語ったところのウルトラサイズモデルは太くて重い万年筆となる。
おそらくはGT筆記でもって作家のように多くの文字を書き連ねていくことに最も適して居ることだろう。
その逆に詩人向きなのは矢張り柄物軸のJapan StyleのBambooモデルだ。
これならば現代詩にせよ、或いは俳句や短歌にせよ、何でも軽々と書いていけること請け合いである。
ただし其処で作品が生み出せるような心理状態、精神状態であることが無論一番大事なことなのではあるが。
http://yahoo.jp/box/yZZJUc
ニブの方もこんな風に様々な金ペンが付けられて居ると何やら見て居るだけで楽しくなって来る。
其れも、日本、伊太利亜、独逸、米国、中国と国際色豊かな金ペン先がそれぞれに付けられて居るのでまるで世界的な視野が其処に展開されて居るようでみみっちくなくて良い。
また古今東西に亘る世界的な博覧会が机上に展開されまるでお祭り騒ぎをしているようにも見える。
そして金ペンが作られた年代もそれぞれに違うのでまるで万年筆の歴史の世界を旅するトラベラーのような気分でそれぞれの時代のペン先の筆記感を味わうことなども可能である。
尚、緑色のモットルド軸のBambooモデルは一番最初に購入したもので、他のBambooモデルよりも若干軸の長さが短い。
ニブは1920年代のLifetimeの硬いものを付けて居るが、柔軟なペン先に比べ其の書き味の方が劣るというものではない。
まさに独特の抵抗感のある良い書き味を持つもので、これはこれで個性的な素晴らしい書き味を持つものである。
ところで柔軟なニブを筆記マニアが好むのは、書き味というよりも総合的な筆記感つまり書き心地の方の良さを重視して居るからではなかろうかと私は考える。
私の考えるところでの書き味というのは、ペンポイントが醸し出して居るところでの筆記感のことなのでニブの柔軟性などについては関与して居ないことなのである。
が、総合的な筆記感つまり書き心地の方にはニブの柔軟性の多寡ということが大いに関係して来る。
ゆえに書き味というものは後でペンポイントを加工したりすることでかなりに向上させることが出来るものなのだ。
けれどたとえばニブに柔軟性がなければ書き味は良くならないと思い込むことは誤りである。
硬いニブの万年筆にも書き味の良い万年筆があり、特に戦前の萬年筆にはそのようなモデルが屡存在して居る。
ところで現代の万年筆のニブなども良く硬いと愛好家の間で語られていたりするものだ。
現代の万年筆のニブは何と言うかつまりは無表情でぶっきらぼうである。
謂わば生き物であるという感じがしない。
戦前のニブはたとえLifetimeのニブのように硬いものであっても、其処に本質的に秘められた表情が在る。
特に現代のニブの高品位のニブは余計に無表情である。
其れから現代のニブの高品位のニブは特に弱い。
根っから弱いので書き方によっては曲がって仕舞うものがある。
対して戦前のニブはどう書かれようが曲がりはしない。
其れも曲げようと思って滅茶苦茶やれば無論のこと曲がって仕舞いますが、普通に書いて居る分にはまず曲がらない。
戦前のニブー本質的に柔軟で強いニブ
現代のニブー本質的に非柔軟で弱いニブ
というのが現在の私のニブに対する感想だ。
戦前のニブは軟らかいのではなく柔らかく本質的には表情豊かである。
対して現代のニブは軟らかいが柔らかくはなく本質的には表情に乏しい。
書き味中心でニブを評価すれば其れはむしろ現代のニブの方が優れて居るものである。
戦前のニブはむしろ書き味など作り込まれて居らず、要するに書き味の面ではむしろぶっきらぼうで、然しながら本質的に柔軟な地金だから筆記感や筆跡には表情が出せるのである。
対して今のニブには無表情なものが多く、其れはたとえフレキシブルなニブだとしてもそうなって仕舞って居る。
よって最近作られたフレキシブルなニブを私はほとんど評価して居らず、従って其れ等を使うこともまず無いのである。
つまるところ書き味にはむしろ無頓着なのに全体としては表情豊かな筆記感の楽しめるのが戦前のニブであり、書き味はそれこそ至れり尽せりなのに全体としてはむしろぶっきらぼうな筆記感のする現代のニブという感じが私には強くして居る。
だから書き味の良さとは単独としては其れは非本質的なニブの上での要件であり、万年筆にとって本質的に大事なことは本質的にしなやかで表情豊かな強いニブを作るということにこそ尽きて居るのだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1548回) ..2013/11/05(火) 23:31 No.4624 |
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Ranga EDの問題点は矢張りインク容量の大きさとオリジナルのエボナイトフィードの完成度の低さから来るインクの漏れが発生するところにある。
軸内のインクが少なくなるとどうしても漏れ出て来て仕舞う。
だから其の事が我慢ならない御仁は米国か英国で販売されているVarunaかRangaを選ぶべきなのである。
此等には独逸製のプラフィードが付けてあるからたとえインクが漏れたにせよごく少量で済む筈なのである。
実際には私の米国版のBambooモデルの場合、オリジナルの状態ではインクを使い切るまでインクが漏れることは無かった。
然しインクの制御能力の高いプラフィードとスチールニブーただしスチールニブとしては上等の物ーの組み合わせではどうにも筆記が面白くならないので私の場合は金ペンに替えて仕舞ったのである。
されどそうした弱点の部分に余り神経質にならない限りRangaは常に楽しい万年筆で色々と改造することなども出来る面白いペンなのだ。
そうすると私の机上でのようにRangaワールドがいつのまにか出来て仕舞い、其処では実際色とりどりで実に綺麗だわ、軸が硫化ゴムだからセル軸のように分解はしないわ、書き味の方も国際色豊かでまさに毎日万国博覧会巡りをして居るようだわで、全く一本五千円のペンでこんなに遊べて仕舞って果たして良いのだろうか、そのうちに何ぞバチでも当たりはせぬかと気を揉む程に幸せいっぱいの万年筆ライフが送れて仕舞うのである。
ただし、其の価格からしても当然のことながらRangaは決して高級な万年筆では無いのである。
決して低級な万年筆だとは思わないが、そうかと言って間違っても高級な物では決してないのだ。
だからRangaはコレで良いのである。
この机上のままで良い。
ただ、今夜母と良い物という話題につき話して居てひとつ重要なことを忘れて居ることに気付いた。
我は昔所謂高級限定万年筆のコレクターだった訳だが、ハテ、何で今はこんなことばかりして居るのだろうか。
其れは現代の所謂高級万年筆が真に高級な万年筆ではないことに気付いたからなのではなかったか。
謂わば其れ等は高級そうに見せかけて居るだけなのであり、内実は作りがいまひとつで職人技も発揮されていないような大量生産の品ばかりである。
なので大抵の場合十年位使うとボロが出て来て壊れて仕舞う。
表面だけが物凄く綺麗で、いかにも購入意欲をそそられる外観をしては居る。
ところが本質的には軸の方もニブの方にも手間がかかって居らず其れ等は謂わば売るためにだけ売って居るペンであるに過ぎなかったのだ。
とは言い過ぎなのかもしれぬが兎に角そんなところが現代のペンに傾向として在ることだけは確かなのだ。
多かれ少なかれそうした部分は在るということなのである。
ではどんなものが本当に良い物なのだろうか?
其のことを母が言うには、所謂華奢な物は良いとのことである。
無論其のことは私にも分かる。
私も前々からそう思って居て、屡此処でもそう語って来た筈である。
母は私とは性格が異なり細かいことには余り拘らない人である。
然し、一応は茶人だからこれまでに良い茶道のお道具などを沢山見て来て居る筈だ。
京の都などへも屡出向き、立派な茶会の席などでも良いお道具や列席者の高級な着物の類などを嫌というほど見て来て居る人である。
また以前は公立高校で講師として茶華道を教えて居た位なのだから兎に角並の眼力では無い筈である。
其の母が印度万年筆は自分の使って居る中華万年筆ほど華奢ではないと言う。
其の母の言うところでの華奢か否かというのは単にサイズの問題ではないかともちらりと思うのだが、まあ一応は参考意見として拝聴しておくこととしてみたい。
実は以前から私も印度万年筆つまりRangaは少々大味なところがありはしないかと屡思って居たのである。
然し其の事は単にサイズの上での問題であるのかもしれず、確定的に言えることではなかったのである。
だがどうも其の事が気になったのでつい先程日本の万年筆とRangaとを書き比べてみた。
すると、Rangaの方がヤッパリ大味でしたー。
が、其れも矢張り比べた万年筆が悪かっただけなのかもしれぬ。
いや、実はRangaのウルトラサイズモデルとパイロットの大型漆ー五十号ニブ付きーとを書き比べてみたのである。
うーむ、然しながら、何と良い万年筆であることか、此のパイロットの大型漆の方は。
いや、Rangaが悪いと言って居るのでは決して無い。
そうではなく、比べて仕舞へば其れ等は比べ物にならなかったとそう言って居るだけなのである。
そんなこんなで今夜はこのところ久しく続いていたRanga祭りの気分が少しく削がれた訳ではあるが、其れでも其処で冷静になって良く良く考えてみるに、そも十萬円の大型漆ー当時の値段は確か十万円だった筈ーと六千円のRangaウルトラサイズを書き比べること自体、矢張り其処にはいかにも無理があろうというものである。
どだいたかが六千円のRangaウルトラサイズはその値段からすればどう考えても最高の現代の万年筆の一本だと言えるものなのである。
ただし其れは華奢な物であるとは言えないのだが。
ちなみにRangaウルトラサイズとパイロットの大型漆の軸のサイズは若干大型漆の方が大きい位で其れ程大きくは違わない。
もっともペン先の大きさだけは大きく異なり、大型漆の五十号ニブは兎に角巨大で、Rangaの方は普通の大きさのConklinニブなのではある。
それで当然ながら書き味、書き心地の方も全然違って居て、五十号ニブの方は兎に角リッチな書き味、書き心地で、Conklinニブの方は兎に角並の書き味、書き心地をして居たのであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1552回) ..2013/11/11(月) 01:24 No.4630 |
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とは言え、Rangaのエボナイト軸の万年筆は矢張り丈夫で長持ちすることだろう素晴らしい廉価万年筆である。
どだい今時五千円で一体どんな万年筆が買えると言うのだろう。
いや、確かにイーベイでなら予算五千円でも良い戦前の萬年筆を引っ張って来られる可能性は常にある。
然し万年筆が高級品として認知されているであろう先進国のメーカー品では予算五千円でもってちゃんとした万年筆が買えようはずもないのである。
前回私はRangaは少々大味ではないかという疑問符をあえて付けてみたのだったが、何よりも其れは私自身がRangaを誤解しない為の布石でもあったのである。
あくまでRangaは気軽に付き合える普段使いの筆ということで良いのである。
其処を勘違いして、之が最高の万年筆だとか、そのようには思わない方が良いのだ。
Rangaは素晴らしい万年筆なのだけれど、其れは高級品では決してない。
オリジナルのペン先はスチールニブが付けられて居る。
悪くはないペン先ながら、其れはあくまでスチールニブなのである。
然したとえばピンクの軸のBambooは現在素晴らしいペンとなりつつある。
何故かインクが漏れない軸で、おまけに銀次郎ニブ付きなので之はもうほとんど完璧な万年筆である。
さらに其れよりも書き味の良いのがバーガンディの軸のBambooで、こちらには英雄の18Kニブが付けられて居るのだ。
此の万年筆も下手な戦前の萬年筆よりもずっと調子良く使えて居る。
ただしRangaは基本的にインクが漏れる万年筆なので、あえてこの二本とも筆筒に立てて保管し、使用する時だけペン先を下げて使って居るのだ。
ウルトラサイズのモデルも矢張り筆筒に立てて保管して居るが、このペンで感心したのはインクを使い切る最後まで結局インクが漏れ出て来なかったことである。
これだけのインク容量で漏れが無いというのは実際大したものなのである。
軸の色合いの方もピンクだのパステルグリーンだのという少々オモチャっぽい色あいながら、独特の色合いはそれ等に一種病みつきになる部分も否めず、まさに色エボナイト軸を堪能しつつ使っていくことが出来る。
尚ニブの方はあれから他にも色々と候補が出て来て結局今後Rangaの軸が増えていっても困るようなことは無さそうである。
Rangaを完璧に使いこなすならば、キャップを被せたままで常に筆記状態としておき、保管中は其処に筆用の透明かまたは半透明のキャップを被せておくと余計にインクがキャップ内に漏れ出て来ることを防ぐことが出来る。
だから感覚としては全く筆である。
印度の筆だと思って私はこれらのRanga達と付き合って居るのだ。
どだい万年筆は携帯しなければならないというものでも無い筈である。
携帯出来なければ其れはまともな万年筆ではないという基準も確かに成り立たないでもないのだが、私の場合はそうした基準には全く拘らないことにして居る。
むしろ携帯出来ないかし辛いペンの方が筆記が面白くなる傾向がある。
完璧に携帯することが可能な両用式の現代の万年筆は多くの場合筆記すること自体が楽しくならない。
もっとも其れも絶対とは言い切れないが何せアイドロッパーのインクの流れの自然さ、インクフローの良さはどう考えても両用式に対するアドヴァンテージとして認め得る部分なのだ。
ちなみに携帯して使うペンの方はまた全然別のものを現在私は使って居る。
パーカーのヴァキューマチックはこの半年位使って居り、二ヶ月位前はモンブランのNo,121やNo.72なども良く使って居た。
然し古いモンブランはピストンフィラーの吸入が怪しくなって来て居て困る。
そうこうするうち、No,121をどこかで落として仕舞った。
此れはかなり程度の悪い個体でペン先の方もヨレヨレのものだったのでさほど惜しくは無い。
然し此のタイプのペン先が大好きな私は使って居なかったNo.225を引っ張り出してインクを入れてみたのだったが、何と首軸の方からインクが漏れ出て来て居る。
要するに首軸のプラスチックの劣化かまたは構造的な欠陥で首軸が数箇所で割れ其処からインクが漏れ出て来て居るのである。
どうも60、70年代のモンブランのプラ首軸のモデルは此処にこそ欠陥が存して居るようだ。
其れで現在は60年代か、或いは70年代のものか、セーラーのMagnaというオールドモデルを使用中なのですが之が最高に良い部類の携帯用の万年筆となって居る。
小さな14Kペン先付きの太めの軸の万年筆で、細字で細かく字が書けペン先の強さがあり其れが実に良い感じである。
そして此のペンは勿論カートリッジで使って居る。
此のペン先はセーラーの現行の21金ペン先などよりもずっと良いと思う。
書き味の方は比べ物にならない程貧弱なのですが、ペン先の性質の方が良いから全体としての書き心地がとても優れて居るのだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1554回) ..2013/11/16(土) 10:46 No.4632 |
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Wikipedia-銘木 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%98%E6%9C%A8
『観賞用木材としての銘木は、黒柿や花梨の瘤材(こぶざい)などのように、木の生長プロセスで杢や色や形が特殊に変化したものが珍重される。そのため、杢や形などの「珍しさ」や「美しさ」や「面白さ」などが価値基準となり、あまり珍しくない松などの樹種でも、銘木とされることもある。
また、優れた性質をもつ特定の樹種が大量に消費され、乱獲で数が減りその希少価値から、銘木と呼ばれることもある。』Wikipedia-銘木より引用
木製の軸の筆記具を使うことは、結局筆記具趣味の行き着くところであると言えるのかもしれない。
特にわたくしのような所謂animistにとっては、自然由来の軸素材こそがそれこそ究極の選択であるように思われない訳でもないのだ。
然し、以前に銘木軸のことを話題として取り上げた時にも述べたように、自然由来の軸素材、特に銘木軸の場合は軸のサイズの選択の幅が小さいことが私にとっては最大のネックとなる部分なのである。
つまるところ私の場合にはサイズの方で選択出来ないので、余り積極的に銘木軸の方へ向かう気にはなれなかったのである。
どだい市販されて居る銘木軸の万年筆やボールペンの軸は太過ぎるのだ。
其れは割れ易いという木材の性質上仕方がないことなのかもしれない。
でも私の場合にはどうしても太過ぎるペンは扱い辛く、出来れば其の辺で売って居る筆位の細長い軸の方が基本的に書き易いのである。
其れでも最近はRangaのウルトラサイズの軸のように極太のペンも使うようになって来て居る。
けれどRangaのウルトラサイズの場合は太くても20センチ以上ある長いペンだからまだ何とか使えるのである。
矢張り太いペンでも短いものは生理的に受けつけないことだろう。
其れから上にもあるように、余りに杢や色などを重視することなども何だか陳腐であるような気さえして来る。
木なんて何でも同じだからどれを選んでも同じだという位の気分が無ければとても自称の詩人などはやって居られない。
私はモノを偏愛する場合もありますが、実はあくまでモノを醒めた目で眺めている部分もある人なので本当の意味での物のコレクターや愛好家ではないのである。
むしろそちらで居る方が格好良いとさえ思って居る。
余りにモノの方に傾き過ぎると志を失うような気さえもする。
それから乱獲や自然破壊による銘木の絶滅の問題もまたある訳である。
詳しくは知りませんが、あのブラジリアン・ローズウッドは前々から絶滅の危機に瀕しているようで、また黒檀なども印度産の真っ黒なものはもはや入手が難しいものらしい。
ここからしても人間は海のものでも山のものでも兎に角何でもかんでも絶滅に追い込んで仕舞う生き物なのでつまりは一番恐いものである。
お化けや宇宙人よりも何よりも兎に角人間存在自身が恐ろしいものなのである。
然しそうは言っても木製の軸の筆記具は矢張り良い。
其れは自然派にとってどうしても嵌って仕舞いそうな分野だ。
それから木製の軸の筆記具を好んで使うことが即絶滅を加速させるということでは無いと思いたい。
自然そのものを壊すのはそういうことではなしにもっと大きな加工力、科学技術的な力の方であることだろう。
♪91年オマスOMAS アメリゴ・べスップッチ木軸万年筆 http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d145993763
♪95年オマスOMAS レーニ・プレジァティ木軸(トゥヤ)万年筆 http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u52699547
此等はなかなか素敵なオマスの木軸ですが二本とも高い。
昔オマスの丸いブライヤー軸のものを何故か売って仕舞ったので此れ等も興味津々である。
Wikipedia-香木 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%9C%A8
尚、個人的には香木の方にも興味があります。
何せ此等は仏教とは縁の深い木であるだけに昔から非常に興味がある。
以前に長野県のとある寺で白檀製の文房具のようなものを見たのだったが其れが何であったのかはすでに忘れて仕舞った。
ですが其れが素晴らしいものであったことだけは明瞭に覚えて居る。
だから前々から私は白檀や沈香の軸を使った軸の筆記具を一本は持ちたいと思って居る。
果たしてどこかの寺にでもこんなもの売っていないのかしら?
確かボールペンでは以前ネット上のどこかで売っていた筈だったのだが、今回は万年筆の方で探してみたら何と地元の店の方で売って居りました。
トモエ工房ー百壇万年筆 110101 http://tomoemoku.cart.fc2.com/ca5/8/p-r5-s/
うーむ、何やら煩悩を過度に擽られるペンである。
明知に近づく為にこのペンを購うのか、其れとも明知から遠ざかる為にこのペンを買っちまうのか、といった問いが其処に生じるが本気で買う段になれば勿論後者のこととなる。
此の百壇万年筆をもし買えば物質的欲望と共に香りという感覚的欲望も其処で成就されますます菩薩や阿羅漢、ひいては仏の心の境地からは遠ざかることだろう。
然しながら、どうしても一本はこんな香木軸が欲しいのだ。
15年くらい前から実はそう思って居た。
仏様に許しを乞い、このペンを買ってしまうかどうか、おそらく半年位は悩みそうな究極の仏教ペンである。
もっとも金具部品のところがいかにもチャチな感じではありますが。
平井木工挽物所 雲舟シリーズ プレーンキャップ てちがい紫檀 万年筆 http://www.nomado1230.net/item/6130plcfpsita/
そうこうしながら結局今回入手したのがこちらのペンでした。
そして半分眠りながら深夜に注文を入れたので何故かてちがい紫檀というモデルを買って仕舞った。
本当は紫檀の軸の方が良かったのだがこちらの方が安かったこともありついこちらを選んで仕舞った。
平井木工挽物所 http://www.oct.zaq.ne.jp/afara208/
結果的にこれらのペンはサイズと重さの方が私には合っていました。
てちがい紫檀モデルは筆記時の長さが180mmで、重さが25gでした。
其れでなかなか書き易く感じられました。
太さの方はキャップが太いと言えば太過ぎるのですが、大きくは気にならない。
其れよりも何よりも木の軸の万年筆を、其れもこうした大きな万年筆を購入したのは十年振り位のことだったので存外興奮致しました。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1556回) ..2013/11/18(月) 22:22 No.4634 |
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おそらくは私に限らず物の愛好家は後になって色々後悔して居る部分もあろうかと思う。
不思議なもので其の時には分からず、後になってようやく分かって来るものと相場が決まって居るものなのである。
然し、私の場合には今、分解したセル軸の伊太利亜や中国の万年筆のニブが大活躍して呉れて居るのだから本当は後悔などしては居ないのである。
Rangaや、紫檀の軸の廉価万年筆に其れ等のニブを組み込むと全く素晴らしいペンになって仕舞うのである。
私が結局何を言いたいのかというと、結局万年筆とは手の個性だということを言いたいのだ。
それで、其の手の個性的な要求に基づいて万年筆の要件を定めると、私の場合には、長くて軽いペンが好きだ、ということに集約されて来るのである。
太さの方も本当は細い方が良いのですが、極言すれば長さと軽さということが最も大事なこととなるのである。
ところがこの要求に自らが気付いたのが今世紀に入ってからのことである。
万年筆を沢山買って居た90年代には全く其れが分からなかったのだ。
此の間に私は自分の本当の要求を知らずに合いもしない短い限定品や重い限定品を、またたとえ合うにせよ材質的にヤバいセル軸の限定品ばかりをよりによって沢山買い込んで居たのである。
ここからしても万年筆は自分の手にあくまで正直に、自分の書き方と合うペンだけを選んでいくべきである。
そして良い素材のペンを選ぶべきである。
エボナイトや竹、木などは確かに其の良い素材と言えるものなのだろう。ーただし木には色々と難しい面もまたある訳である。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1560回) ..2013/11/24(日) 00:01 No.4638 |
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Omas Precious Wood Collection Maple Paragon Fountain Pen
http://www.bonhams.com/auctions/19242/lot/90/
Lot 90 OMAS Collezione "Legni Pregiati" (Precious Wood Collection) Limited Edition Series of Fifteen Fountain Pens US$ 7,000 - 9,000 JPY 710,000 - 910,000
以上によるとOmasのPrecious Wood CollectionはLegni Pregiati(銘木)コレクションとも呼ばれ15本のペンが入る限定版500セットで売られたこととなる。
生産年は1995年から1997年にかけてとのことだから丁度私が限定万年筆を買い集めて居た時分でこういうものが出されたということは無論のこと私自身が良く知って居たのである。
ただ、之は15本もあるのだから当然ながら高価なセットだった。
其の後2010年位までの間にバラ売りの物を十回以上見ていたことと思うが、先にも述べたように私はブライヤー軸のColomboIIを当時3本-結局手元に残ったのは2本-、他にもmomaというブライヤー軸のモデルを持って居たから結局それらに手を出さなかったのである。
バラ売りのPrecious Wood Collectionは結構値段が高く、八万、九万といった結構なお値段で売られて居たように思う。
ココボロウッド製のParagonモデルだけは何とか入手したいと思っては居ましたが何故か縁が無く今日に至って居る。
もっともココボロウッド製のParagonモデルは今でもイーベイに出て居るのだが矢張りどうしても値段の方が高い。
オマスのピストンフィラーは壊れることが多いように個人的には思われるのでもう少し安いペンでも良いように思われるのですがオマスに関しては何故かそうなっては居ない。
そうこうするうち、メイプルのバーズアイの軸のモデルがイーベイに出て居り之に応札したところ見事安く落札出来た。
そして何と四日で米国から家に届くという離れ業でもって其のペンはすでにわたくしの手元にある。
それでは此のペンを観賞しつつ評価してみよう。
http://yahoo.jp/box/QNODiy
バーズアイという杢が出て居るなかなか美しい材ですが良く見るとバーズアイの杢と縞の杢の両方が表面に浮かび上がって居る。
バーズアイの杢の入り方が均等ではなく偏って入って居るのでかなり個性的な印象を受ける軸だ。
然しメイプルの材は軽くそれなりに美しい。
矢張り木製の軸のオマスの万年筆は魅力的である。
少々意外だったのは筆記時の全長が短かったことだ。
其処で5mm程長くなるようにとりあえずしてみた。
其の状態で175mmとなる。
太さはセル軸のParagonモデルよりは太い。
加工精度は素晴らしいと言える程のものではないが悪いとも言えない。
重さは18.5gである。
従って非常に軽く感じられる筆である。
重い万年筆が好きな方には合わず、軽い万年筆が好きな方にはピッタリの実に軽い軸である。
重心位置は軸長の真ん中の辺りにあり、ということは前重心で非常に珍しいタイプだと言える。
が、私にとってはむしろこの位の方が書き易いのである。
前重心のペンは、筆記角度を高く保つということには向いて居る。
実際このペンは高筆記角度で書いていってもなかなか書き易い。
またこれだけ軽く、前重心である軸はもう少し長さがあればカリグラフィー的な書き方にも向いて居る。
されど無論のこと此のオマスの18Kニブではそんな書き方は出来ない。
だから普通に書いていくペンなのですが、筆記の方はそれだけでも結構楽しめるのだ。
http://yahoo.jp/box/2QwDFb
18Kニブの方は基本的に硬いものではあるがしなやかさも持ち合わせて居り僅かに線を変化させることも出来る。
またFニブなので細かな運筆上のテクニックを用いて美しい字を書くことも出来る。
決してフレキシブルなニブではないのだけれど、そこそこ楽しく書いていけるニブとなって居る。
http://pencluster.com/pen/omas/omas_vintage/omas-ogiva-precious-wood-collection-maple-wood/
尚こちらは同じPrecious Wood Collectionのバーズアイメイプル軸のモデルですが面取り軸ではない。
それにしてもペンクラスターでも矢張り84000円と高い値段で売られて居る。
私のバーズアイメイプル軸のパラゴンは其の半額以下。
しかも未使用品で。
ただし箱は無し。
http://www.ebay.com/bhp/omas-wood
オマスは他にも色々と木製軸のペンが出品されて居る。
高価なものが多いので収集は大変だが、こうしたものを集めていくのも悪くない万年筆趣味なのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1561回) ..2013/11/25(月) 23:21 No.4639 |
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"Legni Pregiati"のメイプル軸は相変わらずなかなか好調です。
素晴らしいバーズアイの杢の軸は実際見て居るだけで癒されます。
エボナイトの軸や金銀の軸もまた素晴らしいのだけれど、それとはまた違った自然的な魅力が其処にはあり之を握ると地球の膚のようなものに直に触れて居るような感じが致します。
ただし此の万年筆には結構分厚く透明な塗料がかけられて居て感触としては木の肌そのものの感触ではありません。
ですから其の塗料を剥がしていくという手もまたある。
が、何せ面取りの軸なので其れはかなりに難しいようだ。
また使ううちに個体的な問題点というものが出て来た。
どうもニブの固定が甘いようだ。
経年変化なのか、其れとも元々そうだったのか、兎に角ペン先の固定の具合いが緩い。
其処で迷わずニブを引き抜き、WatermanのEMBLEMのニブに付け替えてみた。http://yahoo.jp/box/cM_Qjn
いや、其処ではオリジナルの状態がどうのこうのという話ではないのです。
要は使う分のペンが自分にとって良い万年筆になって呉れれば其れで良いということに尽きる。
1.私は此の木製の多面体軸が欲しくてこのペンを買ったのである。 2.それで後にはオールドか戦前のオマスのペン先を入手して付け替える予定だった。 3.軸の方は確かに自然の風味がして良かった。問題は筆記感の甘い現代のニブの方にこそある。
ただし当初は固定の方が良ければオリジナルのニブでも充分に使っていけると判断して居た。
4.でもオリジナルのニブで固定が緩いということは、若干大きめのペン先が付けられる筈である。 5.WatermanのEMBLEMのニブはオマスのニブよりも幅広で、しかも全体的には細長い外形なのでいかにも合いそうに思えた。 6.結果的にWatermanのEMBLEMのニブはオマスのエボナイトフィードにピッタリと適合し、丁度良い感じで首軸に固定することが出来た。
ニブを替えると無論のこと筆記感はより鋭く澄んだものとなりました。
鋭いというのは、反応が良くセンシヴィリティに溢れて居るということだ。
澄むというのは、たとえば刃物で喩えると炭素鋼刃とステンレス刃の違いのようなものだろうか。
勿論切れ味の方が澄んでいるのは炭素鋼の方で、何やら切れ味に雑味が感じられるのがステンレス刃の方です。
また無論のこと戦前のニブというものはスッキリした炭素鋼の方に喩えられ、最近のニブは雑味のあるステンレス刃の方に喩えられます。
それでも90年代中頃のオマスのニブは最近のニブよりは良いように私には感じられる。
が、それでも戦前のニブのビンビンと伝わって来る反応のストレートさにはとてもかなわない。
EMBLEMのニブはおそらくは1920年代後半から1930年代にかけてのものと思われ、私がいつも使って居るフレキシブルなL.E.Watermanのニブと比べるとずっと硬い部類のものである。
然し現代のニブと比べれば本質的にはむしろ柔軟性がある方だとも言える。
其の証拠に、EMBLEMのニブで少々大袈裟に書いてみると、90年代中頃のオマスのニブよりもはるかに線を変化させることが出来る。
即ち硬くても線描が行えるという、典型的な古典のタイプのニブなのである。
之はこれまで様々な軸に付けられて来たのだったが、どうやらこれでやっと居所が定まったようである。
そして此の万年筆、全く素晴らしいのである。
ほぼ理想的な、現代の万年筆をベースとした改造万年筆である。
軸は長く軽く重心は前重心であり、ペン先は戦前の強い金ペンー多分鍛造ニブーが付けられたものである。
うーむ、どうも此の一本は私にとっての究極の一本になりそうな気さえする。
現代の万年筆に於ける究極の一本に。
尚、以下はペン先を付け替える前にColomboIIと比較した画像である。
http://yahoo.jp/box/sDlrBD
筆記時の全長を5ミリ程長くして居るにも関わらずこの様にColomboIIの方が全長が長く180mmある。
尚万年筆としてはColomboIIの方が明らかに出来が良い。
各部の仕上げなども丁寧で、そしてより長い万年筆であることもあり大変美しく見える限定万年筆である。
ちなみにもう一本のColomboIIの方の筆記時の全長もほぼ同じ長さである。
ColomboIIはブライヤー貼りの軸ながら杢の入り方も均質で大変美しく完成度の高いペンである。
最近私は此のColomboIIこそが90年代のオマスの限定万年筆のベストモデルではないかと考えるようになった。
http://yahoo.jp/box/JyDNrg
然しこうして比べてみると、"Legni Pregiati"のメイプル軸にも独特の木軸の魅力があり其の魅力はColomboIIにも匹敵し得るものであることが良く分かることかと思う。
バーズアイメイプル軸のパラゴンは矢張り非常に魅力的な現代の万年筆の軸なのである。
このように側によってはバーズアイの杢ではなく縞の杢が入って居ることが良く分かる。
其の縞の杢でも大変美しく眺めて居て飽きないものとなって居る。
そして其処に現在はWatermanのEMBLEMのニブが付けられて、私にとっての究極の万年筆に仕立て上げられて居るのである。http://yahoo.jp/box/_opA7L
さて、此のペンの吸入方式は一体何だと思われますか?
常識的に考えてピストンフィラーだと思ったら大間違いで、実はアイドロッパーとして使って居る。
其れも改造することは無しでアイドロッパーとして使って居る。
其れは何故か?
其の答え。
此の個体はたまたま首軸が簡単に回って外せたからなのである。
しかも尻軸を回してみたところ、何とも頼りないピストンの動き方で其処はいかにも古いオマスらしいところだった。
其れで即座にアイドロッパーとして使うことを決めた。
そしてアイドロッパーとして使えるオマスの場合に限り其のピストンフィラーとしての頼りなさは消し飛んで仕舞う。
アイドロッパーとして使えるオマスの場合は多分より長く使え、そして吸入に関する余計な心配事が無い分筆記により専念出来ることだろう。
従って其の点からも此のペンこそが私にとっての理想のオマス万年筆の一本なのだと言える。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1562回) ..2013/11/26(火) 23:41 No.4640 |
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http://www.ebay.com/itm/EXTREMELY-RARE-FANTASTIC-LIMITED-EDITION-OMAS-PRECIOUS-WOOD-PAINTED-by-Monrosty-/200991430474#ht_801wt_880
こちらは非常に面白いオマスの木製軸モデル。軸に手書きでのアートが施されている。
さて今後現代社会はますます効率性を追求し、かつ経済的な価値つまり利益を追求する社会となっていくことだろう。
実際に現在すでに一部の企業や病院では情報端末が労働者に取り付けられ、一日の行動が全部データとして取り込まれたりもして居るのだそうだ。
何の為にそんなことをして居るのかというと、煎じ詰めれば其れは企業にとってのより効率的な利潤の追求の為にそのようなことをして居るのである。
また現在現代社会は監視社会化されつつもある。
まさに様々な所に監視カメラが取り付けられ、個々人の動きが情報として保存されていく。
そしておそらくは今後もそういった社会の方向性は助長されていくことだろう。
そのうちにそうした様々な情報が個人の行動を規定する、即ちコンピューターが欲するところでの行動を人間存在が履行しなければならなくなる。
そうした究極の効率化が次々と図られ、其処で人間存在はますます窮屈に生きざるを得ずまさに人間性を疎外された社会に住していかざるを得なくなる筈だ。
現在はおそらく其の走りとしての時代にあたるのだろう。
本来人間に便利さをもたらしより楽に生きられることを目指していた筈のテクノロジーが逆に人間から人間としての尊厳を剥奪しテクノロジーの監視下に置かれるという世界が実はすぐそこのところまで来て居る。
其のような時代にあって、木製の軸の筆記具を使うことは、どう考えても其れは大きな癒しであろう筈なのである。
そう自然こそは癒しであり、自然由来の物も其の大いなる癒しの中にこそあるものだ。
ところで私は近頃自然由来の物への撞着が甚だしい。
たとえば万年筆では、あの元々はゴムである筈のエボナイトも相当に良いが其れと共に矢張り竹や木の軸への思いというものも深くある。
そうは言ってもこれまでに竹や木の軸の万年筆を重点的に集めて来た訳ではない。
其れはむしろこれから少しづつ増やしていこうかと思って居る分野なのである。
アナログである筆記具の中でも特に優しい感触のする竹や木の軸の万年筆はひとつの究極の筆記趣味の選択と呼べるものなのかもしれない。
先にも述べた如くに、常に監視され、効率に基づいて行動を規定される社会に於いて其れ等は常に逆向きの波動を人間存在に投げかけて居て呉れる筈である。
尚、木の軸の筆記具は何も万年筆だけに限ったことではない。
そういえばあの鉛筆というものはまず基本的に木製軸である。
我々が子供の頃に使って居た、懐かしいあの六角の軸や丸い軸の鉛筆が、である。
然し鉛筆を最近めっきり使わなくなった。
特に私の場合普段は鉛筆を使わず芯ホルダーの方を使って居るということもある。
軟らかい芯付きのものならば最も優しい使用感が味わえることだろう鉛筆も良いと思うのだが、何せ軸の長さが随時変わって仕舞うということが私にとっては少々問題なのである。
私の場合は筆記具に於いて筆記時の全長ということを最も大事な要件に据えて居るのである。
だから其れが余り激しく変化するものは好まない。
確かに鉛筆の筆記感は至極優しいものなのだが、使い込んでちびた鉛筆程情けないものもまたないように思われる。
だから主に芯ホルダーの方を使って来たのだったが、二、三年前だったか、イオンの文房具売り場で素敵な鉛筆をみつけて仕舞った。
其れは大人の鉛筆と名付けられた製品で、東京葛飾区の北星鉛筆株式会社が作ったものである。
が、私は其れを買わなかった。
それは値段が高過ぎるように感じられたからなのである。
それから二年程見るだけにして居て、其の度に良さそうだなと思うのだが何故か手を出さない。
けれどつい先日とうとう買って仕舞った。
良く良く見ると私の好きな二ミリ芯のホルダーだったので買わざるを得なくなりそうなったのである。
この筆記具は筆記時の全長が私の手に合う。
芯の長さをも含めると、全長が164mmとなる。
結構長めなのだが、芯ホルダーの長さとしては此の位が一番書き易い。
そして軸はあくまで鉛筆の軸のようなので細く8mm程である。
重量は10gで、特に軽いとは感じられないが結局は軽い部類の軸である。
重心位置が全長の4.5対5.5位の前重心であり軸を立てて筆記し易い。
何せ鉛筆モデルなのだからそうなって居るのかもしれない。
ノックはしっかりとした手応えでもって行え其のフィーリングも良い。
ただし此のノック部と軸の内側との遊びが大きくペンを少し振るとカタカタと鳴るところが唯一の欠点である。
然し全体として作りも良く、実に気分良く使える芯ホルダーなのだ。
そして無塗装の細い鉛筆のような軸を握るとほのかに香るインセンスシダー材の優しい感触が現代人の疲れを根本から癒して呉れる。
大人の鉛筆 http://www.kitaboshi.co.jp/home/otonanoenpitu.html
決して高級筆記具とは言えないことかとは思いますが、特に自然派の人にとっては精神上殊に有り難いホルダーとなって居る。
尚、私は無塗装の軸を選んだのだったけれど、黒や青や赤の塗装を施された軸のものもあった。
現代の筆記趣味はこうした筆記具のお陰でまさに芳しく、そして癒されるものとなって居るのだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1564回) ..2013/11/30(土) 22:59 No.4642 |
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思うに万年筆というものは一種思い込みの激しい世界でのものでもあり、私の場合特に最近は印度のRanga万年筆に執心中であり其れで頭の中の計画通りに毎月二本づつ此のペンを集めて居る最中なのである。
此のペンは二本買っても一万円位しかかからず全く経済的なペンなので集めていくのが実に楽で楽しくもある。
其れが悪いペンかと言えばそうではなく、精度の方も充分で軸が曲がって居たりどこかが欠けて居たりするということも無い。
そうかと言って以前にも述べた通りに決して高級なペンだとは言えないことだろうが、廉価万年筆というカテゴリーで見れば之は明らかに高級廉価万年筆の部類のものなのである。
つまり私は其の部分での高級さを楽しんで居る訳なのであり、昔のように価格だけは高いといった所謂高級限定万年筆に於ける常識的、固定観念的な高級さを追い求めて居る訳では元より無いのだ。
謂わば世間に於ける高級さにはむしろ背を向けつつこうして独自の視点、観点からの高級な印度万年筆の世界を遊んで来て居るのだ。
今回語るペンはModel4とされる大振りのサイズのペンである。
http://yahoo.jp/box/AvfT2V
このサイズで黄色と黒の虎柄のペンが是非欲しかったので購入してみたものである。
然し届いたペンは非常に個性的な柄で、其れは虎の毛皮のような動物っぽさを感じさせるものではなく何やら抽象絵画のような趣でなかなか高尚な軸景色なのであった。
其れに首軸と天のところがかなりに黒い。
之はそういうモデルなのではなくたまたま私の個体がそういう風になって居たのだ。
事実首軸と天には良く見ると黄色の筋も入って居るのだが、其れが余りにも細い筋なので真っ黒に見えて仕舞うのである。
そんな訳でこの柄が結構気に入って仕舞った。
筆記時の全長は182mmで重さが36gである。
ではあるが、大きいペンなのでそんなに重くは感じられない。
こうしたペンはクリップ付きで普通の万年筆に近い、いや、普通の万年筆そのものの姿をして居る。
従って普通に扱い易い。
重心位置は全長の6.5対3.5のところにあり後ろ重心である。
此の点も普通のペンと変わらない。
ゆえにこれまで此処で登場させて来たBambooモデルやウルトラサイズモデルのような特殊性は影を潜め、至極当たり前の感じのオーヴァーサイズのペンとなって居る。
またクリップ付きなので余計に普通の万年筆という感じである。
此のクリップはおそらく軽合金製かと思われるがシンプルで非常に丈夫そうである。
見た目は余り良くないのだけれど、大メーカーの作る一見洗練されたクリップよりもおそらくはずっと長持ちすることだろう。
軸は太めで、胴軸の一番太いところで16mm位はある。
全体として太くて大きめのペンという印象だ。
http://yahoo.jp/box/jOGW-T
ペン先の方は今回Viscontiの大型18Kニブを付けてみた。
本当は14Kニブの方が良いと思われるのですが、こと書き味という面では18Kニブの方が良くなることだろう。
それで、流石に素晴らしい書き味となった。
之に限らず現代の伊太利亜の万年筆のニブの書き味は優れて居るものが多い。
だから他にもデルタやスティピュラなど、色々と付けられる金ペン先はあるものと思う。
中でもViscontiの大型18KニブとRangaのオリジナルのフィードとの相性は良いようだ。
ただしインクが満タンの時にはインクが少し出渋る傾向がある。
いや、其れは此の個体に限らずほとんどのRangaで言えることなのだ。
でもインクが容量の半分以下となると物凄くスムースにインクが流れて呉れる。
尚此のペンのインク容量はさほど大きくはない。
入るのはスポイトで二回分位だろうか。
ちなみに私の持って居る改造ペンで最もインク容量の大きなペンはRangaではなく呉竹の筆ペンの長大な軸を使った改造EDであり、其れは何とスポイトで4回分も入るのである。
其の二本の呉竹の軸にはアンコラや現代のWatermanの18Kニブが現在組み合わせてありますが、おそらくはこうしたニブもやがてはRangaの軸に付けられることとなるのだろう。
http://yahoo.jp/box/f77GQb
こちらは今回得た二本のRangaで、Model4とModel3に似たDuofoldタイプのモデル。
後者は或いはModel3そのものなのかもしれないのだが、プレミアムエボナイトモデルである。
プレミアムエボナイトモデルは若干重くなって居るのではないかと思われる。
Model3のペンは、このオレンジカラーの個体よりも若干軽く作られて居る可能性がある。
Duofoldタイプのモデルのオレンジカラーは古典の万年筆の所謂赤軸に良く似た色合いで矢張りさほど珍しい色合いではなかったのだがそれでも充分に美しい色合いの軸である。
そしてペンの形としてはこのモデルが最も普通のペンに近いものとなる。
従ってこのタイプが通常は最も扱い易いペンとなることだろう。
プレミアムエボナイトモデルで筆記時の全長が179mmで、重量が30gとなり矢張り次第に普通の万年筆の持つ数値に近づいて来て居る。
http://yahoo.jp/box/_NicSr
ペン先は今回オマスの18Kニブを付けてみましたが、細面のオマスのニブではどうしても固定が甘くなる。
その点からもヴィスコンティや英雄の大型ニブなどの方が合って居ることだろう。
ところで何故だか分からないのだけれど、私の場合Rangaの軸に付けた現代の18Kニブに対しては余り不満を感じないという不可思議なことが其処で起こり得て仕舞う。
軸の長さが基本的に私には合って居るので、ニブの方は余り細く気にならないということなのだろうか。
従ってRangaの軸にはどんな金ペンを付けても良いということになる。
とはいっても流石にL.E.WatermanやONOTOなどのペン先を付ける気にはならないから、90年代の伊太利亜物や中国物の金ペン先辺りを付けて置くのがRangaには丁度良いということも言えそうである。
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| 投稿者: オノト (助教授/51回) ..2014/01/06(月) 03:35 No.4667 |
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Siriusさん、あけましておめでとうございます。1年が経つのが早いですね。昨年は、私事で恐縮ですが、入院、手術、療養と大変な1年でした。一番大変だったのは、どこで手術を受けるかということで、20年間お世話になった大学病院に紹介状を書いてもらって別の大学病院で手術を受けました。この間、かなり悩みました。昔なら、大学病院から別の大学病院へ紹介状で移るなどというのは難しいことでしたし、現在でもまだその風潮は残っています。でも、一番良い専門医に手術をしてほしいと、それだけを考えて転院しました。無事、夏に手術を受けて現在までのところ順調にきています。ただ、気力の充実ということからはほど遠く、老体に鞭を打って働いています。とはいえ、あと1年で定年になります。今、定年後どうしたらよいかを考えています。非常勤でどこかに勤めるか、老後をのんびり暮らすか。何か老けた話になってしまい、申し訳ありません。 万年筆の方は、相変わらず木軸のペンを作製したりしていますが、これで体を痛めてしまい、右肩痛がひどく眠れぬ夜がこの3か月ばかり続いています。木軸ペンは現在80本ほどになりました。何十年前の希少な木軸というのは味わい深いものがあります。 万年筆には3つの異なる意義があると思っています。(1)世界標準で価値あると認められているかどうか(資産価値)(2)万年筆としての完成度(実用的価値)(3)改造、自作の楽しみ (市場価値はないが自己満足が大きい)私の場合は(2)から入って(1)そして(3)に至りました。現在私の所有する万年筆の半数は市場価値のないもので、(1)に属する万年筆は手放していく方向にあります。それでも、(1)の万年筆がなくなってしまうことはないはずです。これが核です。核があるから周辺があってもいい。 核と周辺というのは万年筆に限ったことではなく、生活面でも言えることで、自分の核を失わないようにしないといけないと思います。周辺的なことにばかりに埋没しがちな私ではありますが。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1586回) ..2014/01/08(水) 14:27 No.4668 |
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オノトさん、お越しいただいて有難うございます。 オノトさんが昨年そんなに大変な状況にあったということは初耳です。今後もどうかお健やかにお過ごし下さい。 思えば私も昨年は色々とありました。 でも私の場合は今のところ結局精神の方がいつも色々と大変であったということなのかもしれません。
尚今年私は少しあっけらかんとして生きていこうかとも思って居ます。 細かい部分と大きい部分とを両立させつつ生きていくのは負担のかかることなので、細かい部分を徐々に全体化、現実領域化して、つまりはその場その場で適当に場の雰囲気に合わせて生きていく、其処であえて世の風潮にも流されてみようかといったところです。 おそらくは夏位までは社会的に大きな責任が私に任されるという訳でもなく、それで暫くの間は行けなかった美術館を巡ってみたり万年筆で遊んでみたりで適度に生活を楽しみつつ生きていられたらという感じです。 ですがその割に精神の上での飛躍、跳梁ということがどうも甚だしく、其れで相変わらずまた訳の分からないようなことを此処へ書き込んで仕舞うこともあるかとは思いますが其処は皆様良く良くご承知のことでしょうから其の部分に関しては甘んじてそうして居たいとも思って居ります。 人間には誰しも与えられて在る今という現実を成り立たせていくに値する努力を行う必要があり、其の事は無論大昔からのことではあった訳ですが近代的世界には近代的な世界としてのそうした努力を行う必要があるということなのでしょう。 ところで生老病死ということは其れが実感されるレヴェルのものとなると本当に寒気がして来るほどに大変なことです。
自分の病気などもそうですが、親の具合の悪いのや知り合いや子供の状態の悪いのや、全く因果なもので生きて居るだけで人間には様々な苦が生じてまいります。 然し其の苦と向き合っていくしかないのですね。 人間存在は常にそうしたものと闘っていく宿命のようなものを背負わされて居ます。
が、勿論そればかりではなくおもろいこと、バカバカしいようなこと、暇つぶしのようなこと、猥談、などということも実は大事である。 また自分の好きなことを追求することも、其の抜き差しならぬ生老病死の悩みを相対化することには役に立って居る。 実際古典の萬年筆を神のごとくに崇めて居るのも良いが現代の万年筆の美点を発見するとつい褒めてあげたくもなり其れは其れで良いという部分もまたある。万年筆の趣味を相対化するという意味に於いては。
尚オノトさんの万年筆のお話の方で少々驚いたのは、資産価値のある万年筆を手放されている方向性にあるということでした。 おそらく数を整理されているということなのかなと思います。 あくまで核としては残されるということなのですね。 改造、自作の万年筆の楽しみということは私も最近ようやく分かりかけて来たことで、実際観念を離れた休息、暇つぶしの意味で面白いと云えば是ほど面白い分野もなく、また真に自己の手に合う万年筆を得るという意味に於いても万年筆の趣味はココにこそ極まれりといった感じも致します。
然し万年筆を完全にパーソナライズする、すなわち自己化して仕舞うわけですから其処で確かに普遍性は失っていって仕舞う訳です。 其の自己領域の万年筆を本来ならこうした掲示板で披瀝して居ること自体が邪道でもある訳です。 そうであるとは知りながら私が細々と其の改造としての自己化の過程を書き込んで来て居るのは、結局万年筆とは個の選択でありその選択に洩れたものは普遍的価値や実用的価値でさえもが其の意味を失うということを逆説的に言いたかったからなのでもあります。
然し、其の自己化の選に洩れ使わなくなった万年筆達を普遍的価値や実用的価値に再度照らし合わせて売買することなども出来る訳です。 万年筆の自己化の領域はお金は余りかからないのですが時間的余裕と心理的余裕のあることが前提となることのようにも思います。 つまりどちらかと言えば万年筆の遍歴を一通り終えてはじめて到達することの出来るような趣味なのではないでしょうか。 普遍性や実用性ばかりには縛られない、一種自由なパーソナライズの領域が其処に拡がって居るということです。 すると、其れはあの独居詩人の領域でもある。自由気ままな万年筆独居詩人で居られるということだ。 或いは万年筆仙人の誕生ということなのだろうか。
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| 投稿者: オノト (助教授/52回) ..2014/01/30(木) 18:07 No.4682 |
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Siriusさん、こちらのスレッドに書かせていただきます。いつもSiriusさんの哲学を拝読させていただいています。様々な万年筆を通して多角的な切り口で事物の本質を論じておられて、私はいつも感心しています。私は、木軸の万年筆をやっとほぼ卒業いたしました。日本文化の独特な点として木の箸を使い、ほぼ誰もが自分だけの箸というのを持っていることが挙げられます。ナイフとフォークの文化と木箸の文化の違いは本質的に相容れないカテゴリカルな違い(私は範疇的と連続的を峻別して物事を考える癖があります)です。年をとってくるにつれ、日本的な事物に対する関心が高まり、 万年筆で言えば、黒柿をはじめとする木軸に1年ほどはまりました。 移り気な私は現在、安くなったモンブランの限定品を再度集め初めています。和とは真逆の西洋的象徴とでも言えるモンブラン限定品、パトロンシリーズや作家シリーズを今こともう一度収集したいと思っています。Siriusさんに譲っていただいたメディチはさすがにまだ高値安定ですが(2本目はまだ難しいです)、Octavianなどは急激に日本市場で安くなっています(ebayではまだ高いですが)。さっそく、楽天で1本入手しましたが、感動ものでした。蒔絵に匹敵する工芸品です。そこで、あれこれウェブを調べていくと 以下のようなサイトをみつけました。 http://benlybenis.com/p-168.html Catherineが7万円程度とあまりにも安すぎで、偽物ではないかと思いましたが、そうでもなさそうです。ただし、ペン先をみてがっくり。ペン先の切割がシメトリーというか均等ではありません。さらに、ヤフー(楽天でも同時に売っている)に出ているOctavianも同様でした。 http://page12.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/p364801038 画像で判断するのは撮影角度等の要因もあって難しいのですが、まずペン先は不良品に近いものです。少しくらい切割が均等でなくても許容できますが、度を越してしまいますと不良品だと考えています。安くなっているのにはそれなりの理由があるのかもしれません。(私が入手したOctavianはまったく問題ありませんでした。画像をしっかり見て購入したからです。)私はこの切割の均等さに西洋物の万年筆を買う時はかなり気をつけています。ペリカンは特に気をつけないといけません。いろんな画像をみただけですが、モンブランもどういうわけか限定品に割合切割不具合が多いように思います。パイロットにはまず切割不具合はありません。セーラーは許容範囲内の切割不均等が時々見受けられます。切割不均等でも書き味がよければよいという人(だいたい販売員)がいますが、これを許せない気持ちというのはやはり根は日本的精神からきているのではないかと思うのですが。西洋人はもっと大まかですからね。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1597回) ..2014/01/31(金) 00:00 No.4683 |
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オノトさん、こんばんわ。
Octavianという魅力的な限定品を得られたこと、おめでとうございます。モンブランの限定品は流石にきっちりと作られており万年筆としては良いものが多いように私は思います。
現在私が残して居る限定品もモンブランとペリカンのものが一番多く、ついで伊太利亜物ということになるかと思いますが伊太利亜物の場合は保管中に不具合が生じる場合すらありますので早く使ってやった方がよろしいようです。
尚、モンブランの限定品で私が今興味があるものはドストエフスキーです。之は以前手放してしまいましたが私にとって手放すべきペンではありませんでした。軸が長めでそして軽いペンで、今の私にはおそらく快適に使えるペンとなることでしょう。
さて、そうは言って居りますが、実はモンブランやペリカンの限定品の処分を丁度今検討して居るところなのでした。 昨年より蒔絵万年筆の方の趣味に嵌って仕舞い、まだまだ欲しいものがあれこれとあるのです。 それでそろそろユーロボックスの方にペンを纏めて送ろうかななどとも考えて居ります。
あのメディチの未使用品の方も手放して仕舞う可能性があります。メディチの素晴らしさは重々分かって居るつもりですが、それ以上に欲しい古典の萬年筆や蒔絵萬年筆が色々とあるということなのであります。
尚、激安店には詐欺サイトがあり要注意です! 情けない話ですが私は其の罠に引っ掛かりました。 ただしオノトさんが挙げられた上記サイトがそうであるかどうかは分かりません。
結局専門店や楽天やオークションが最も安心で信頼できます。
切割りのお話は興味深く伺いました。 私の場合は切割りの不均等などは矢張り気になります。特に高額なペンについては、限定品にせよ古典のペンにせよ大きく気にして仕舞います。 使う分の廉価ペンについてはその限りではなく余り気にしてはいないのですが。
いずれにせよ未使用のアガサクリスティやオスカーワイルドなどは多分処分してしまう事となることでしょう。 オクタヴィアンはどうしようかということを実は考えて居た矢先でした。かって底値だった頃は本当に安くなって仕舞った筈でしたが、今は少々値上がりして居りませんか?
いずれにせよ万年筆の趣味も色々と変動、収集の上での方針の転換ということがつきもののようですので、いざこうと決めたらやってしまおうと思って居るところなのです。
多分そのうちに銀座へ送るんだろう、段ボール一杯の限定品をね。
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| 投稿者: オノト (助教授/53回) ..2014/01/31(金) 02:24 No.4685 |
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Siriusさん、蒔絵に興味があって、モンブラン限定品を手放されるとお聞きして、明日朝早いのですが、ちょっと心配になって書き込みます。Siriusさんもご存じのように蒔絵の万年筆は吉田久齋が現代の最高の蒔絵マスターです。以前の干支の万年筆は3本久齋が手掛けていて、安価(10万円ですが)なほうで、現在市場に出ている久齋の蒔絵万年筆は余りにも高価です。他の蒔絵師、坂本、林の古株や若い蒔絵師にも上手いのがいますが、久齋にはかないません。海外の評価も概ねそうだと思います。私は将棋をさしますが、将棋の駒などはどれも同じように見えますが、作者によって値段はひとけた違ってきます。木地の良し悪しもありますが、影水という名の作者のものですと、本物は100万円くらいします。この人は若くして亡くなったので、あまり作品の数が多くなく、それに静山という影水につぐ有名な駒師がいろんな事情で影水の名を使って作品を作ったりしているものですから、この世界もややこしい世界です。錦旗とかの字型というものがあってこれを木地に掘り漆を塗るだけなのです。ですから、誰が作っても同じようになるはずですが、そういうわけにいかないんです。将棋駒の値打ちというのは名人戦に使われたりすると高くなるのですが、そのような駒をつくる駒師はほんの数人だと聞いています。カヤという盤に駒を並べてしっかりした絵図になるのは、やはり影水や静山の作った駒だからこそだそうです。将棋駒の世界が奥深く一種の危うさをもっているように、蒔絵万年筆もかなりの危うさをもっていると思います。近代蒔絵はわかりませんが、ナミキの本格的蒔絵は伝統的な「絵柄」があって、絵柄の紙を軸に巻き、絵柄をそのままなぞっているようです。私の所有の「鵜」などは昔のダンヒルナミキの頃の絵柄そのものです。いままで10本程度しか所有していませんが、それだけでも何かもう「しんどい」という気持ちが強いです。と言いつつ、楽天で蜂鳥の蒔絵万年筆が1年以上の長きにわたって売れ残っているのをみるにつけ、欲しいと思う気持ちもあったりと複雑です。ただ、その気持ちもある事件でなえました。 私の所有の唯一のダンヒルナミキは軸に割れが生じたためにパイロットに送りましたが、修理不能ということでお釈迦になったということもあり、蒔絵万年筆は怖いということをSiriusさんに申し上げたかったわけです。未使用のメディチなどはeBayではまだ天文学的値段がついています。手放してしまうと二度と入手できないのではないでしょうか。それが心配です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1599回) ..2014/02/01(土) 23:11 No.4686 |
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http://www.ebay.com/itm/MONTBLANC-MONTBLANC-PATRON-OF-ART-LIMITED-EDITION-YEAR-1992-LORENZO-DE-MEDICI-/201029745600?pt=LH_DefaultDomain_186&hash=item2ece4e7bc0#ht_1426wt_1130
オノトさん、イーベイを覗いてみましたのですが確かに未使用品は八十万、九十万、百万といった物凄いお値段が付いて居りますね。また上の物は使用品でもこのお値段なのですね。 それにメディチに限っては日本の相場でガクンと下がった時にもイーベイではそんなに下がって居なかったような気も致します。 ただ、此の限定万年筆は私にとっては少し気になる部分もございます。後方重心過ぎるところとプラスチックの色合いが悪いのと硬度が低く他のモンブランの限定品のように漆黒で硬度の高いプラスチックを使って居ないことです。が、それでも限定万年筆の王様は此のメディチ限定万年筆なのだろうと思います。ペン先は現代のものとしては最高の出来のものだろうと私は思います。其れで素晴らしく美しい字が書けますですね。 私の未使用メディチは米国で販売されて居たもので其れを関西地方の方が買って来られ確か十年位前にヤフオクに出されていたものを私が落札し手に入れたものです。箱も付属品もすべて揃っていますが所謂シールド物ではありません。でもシールド物は場合によっては銀軸がひどく硫化して汚くなることがありますので注意が必要かと思われます。 尚私はかって香港で販売されたメディチの未使用品も持って居りましたが其れはヤフオクに出品し売れて仕舞いましたのです。ちなみにこのメディチは細めのFでしたが、現在の未使用のものは普通サイズのMです。今使用中のMのメディチはかって中古で手に入れたもので大きめで太いサイズ です。 非常に細かな感覚の上から述べるとそのようにメディチには大きさの個体差があるということなのです。勿論限定品のサイズとしては誤差の範囲内のことなのでしょうが、其処をあえて細かな感覚で述べるとそのように一本一本明らかに違うということです。結局未使用メディチは矢張りずっと手元に置いておきたいものです。
将棋のお話、また蒔絵万年筆のお話は興味深かったです。実は将棋の箱、あの駒を入れる箱なのでしょうか、杢のある木の箱、其れに興味があり昨年は時折ヤフオクで覗いて居りました。其の箱に万年筆を入れて保管しておきたい訳です。ところが内部の形状的に少々無理がありそうなのと、単なる箱でも物凄く値段が高いのとで結局諦め春慶塗の箱をいくつか入手してそちらに万年筆を入れて保管して居ります。
尚、蒔絵の場合は私の場合基本的に七、八万円までで買える戦前のプラチナだけを集めていこうと思っています。 ところが、つい先日、早くも失敗して仕舞いました。ヤフオクに大きな戦前のパイロットの蒔絵やVANCOの漆塗りのものが出されておりつい全部落札して仕舞いましたが、其処は矢張りパイロットには手を出さず丸善のニブ付きのプラチナの乾漆古銭モデルを落としておくべきだったのです。さらにユーロボックスにあった素敵な乾漆ではない蒔絵古銭モデルが是非欲しかったのに今日確認してみたところ何とこちらも売れてしまって居た! まあ、何たる運のめぐりの悪さよ。ようするにたまたま目にとまった蒔絵ものを懸命になって入手しどうしても欲しい蒔絵ものの方を全部逃して仕舞っていたのです! ここからも蒔絵万年筆は私にとってはどうも畑違い、専門分野ではないのかなあと思いますのですね。一体何をやっているのやらといった感じです。
オノトさん、従って私の場合蒔絵万年筆は蒔絵の作者や絵の出来にはほとんど拘らず、とりあえずは安価な使える蒔絵万年筆を一本欲しいのと、 二、三年かかっても良いから戦前のプラチナの蒔絵万年筆をあと二、三本欲しいといったところで本当に大したところのないサラリとした蒔絵万年筆趣味なのです。 ですが様々にアドヴァイスして頂き感謝して居ます。蒔絵万年筆の趣味や或いは金銀軸のヴィンテージ萬年筆などもそうなのかもしれませんのですが、奥の方へ行けば行くほど難しい部分が拡がって居るということがあるようです。私もヴィンテージ萬年筆の方では其れを少しは経験して来たことかと思いますが、蒔絵の方はまだまだこれから、というよりも私の場合はそもそうした深い世界に入りきらないところで終わって仕舞う様な限定的蒔絵万年筆趣味ではないかと思われます。
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| 投稿者: オノト (助教授/54回) ..2014/02/25(火) 19:33 No.4704 |
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Siriusさん、こんばんは、オノトです。Siriusさんの蒔絵万年筆賛歌(別スレッド)が刺激になって、私がずっと気になっていた蜂鳥の蒔絵万年筆を楽天(1年以上買われずに残っていました)購入いたしました。画像でみるより実物ははるかに美しく、買ってよかったと思っています。Siriusさんのお好きなプラチナの蒔絵ではなく、私はNamikiの国光会のものが好みで、現在所有の7本はすべてNamikiパイロットの蒔絵万年筆です。そのうち吉田久斎作のものは3つもっていますが、久斎のものは躍動感があって、見事です。鳳凰もずっと入手したかったのですが、こちらは画像だけは何度かみましたが、まだ一度も実物をみたことがありません。ただ一本一本の値段が高いので、7本が限界かもしれません。 いろんな意味で対極にある木の万年筆はSiriusさんの言われる「病気の」根瘤というのが万年筆の材料としては高価とされています。(例 セーラーの屋久杉根瘤)花梨などは紅白半々出ているものが最高とされていたりと、少し病的なのかもしれません。ただし、ユーカリの根瘤の白いところは病気というわけではなく、何らかの菌によってできた「斑」とも言えるのかもしれません。根瘤はいろんな杢模様をもつのと、とても堅い(例 ブライヤー)ので、重宝されています。将棋駒箱の御蔵島桑の最高のものは根杢がきれいに出たものでとされています。黒柿に限らず、孔雀杢、虎杢、栃杢など根杢でなくても良い杢ももちろん存在しています。もはや、木の万年筆の収集、作製はやめましたが、私の結論としては、黒柿、島桑、屋久杉、ハカランダ(本物かどうかわかりませんが)がすばらしい。私の一番の好みは奇抜なスネークウッドです、ヒョウ柄にみえるものもあります。プラチナ70周年のレターウッドも入手していましたが、かなり上質のスネークウッドで、プラチナ社の当時の本気度合がよくわかりました。昨年手放してしまいました。 スネークウッドはいつひびが入ってもおかしくない代物で、保管が一番難しく厄介です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1617回) ..2014/02/27(木) 16:08 No.4705 |
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オノトさん、蜂鳥の蒔絵万年筆とはNamikiの国光会のもので最近のものなのでしょうか?それとも古いものなのでしょうか。 出来たら個人的にはオノトさんの蒔絵万年筆のコレクションを是非画像で拝見してみたいところです。特に久斎作のものをです。
鳳凰は軽くてしかも華奢で私の手には合っています。でも勿体なくてまず使えないです。 其の蒔絵は何と言いますか、一種独特の高雅さを感じさせて呉れるものです。高蒔絵なのか意匠に立体性があり由緒正しき本物の蒔絵といったところでしょうか。
パイロットの津軽塗りの方はそんなに手の込んだ雰囲気のものではなく、たとえば酒井軸で言えば鎌倉彫りのような感じの実用的な意匠のものです。将来的にこちらの方は使うことも出来るのではないかと思います。
ところで丁度趣味の文具箱の最新版No.28の方でヴィンテージ蒔絵万年筆の特集が組まれて居ます。 其処にはまさに絢爛たる蒔絵の萬年筆の世界が展開されて居り、それこそ百万円を超えるお値段のパイロットやダンヒルナミキの名品が所狭しと並んで居たりもします。
然しそういうのは安月給取りの庶民にとっては矢張りどうしても高値の花となって仕舞います。 たとえ其れ等のうちの一本を幸運にも得られたにせよ其れは鑑賞して眼福を得る為にあるようなもので普段使いして蒔絵を楽しむような部類のものではないと思われます。
ところがもっとポピュラーな蒔絵万年筆であれば撫でさすりつついつも机上で実用できる楽しみがあります。 現行のものでも良いし古いものでも比較的求め易いものがあるということです。 特にプラチナの蒔絵萬年筆は今のところ戦前のものでも比較的求め易い価格設定であると言える。
また現行のものならば各社二万円台から色々と出て居りますね。ーオークション価格でー
実を申しますと、私の場合は蒔絵万年筆自体のことよりも其の蒔絵万年筆に接して居るであろう筈の現在の日本人の精神性に潜む問題の方により興味があります。 それで自らが率先して蒔絵万年筆を使うことで自分にどんな気分の変化が起きるのかということを今調べて居る最中です。 蒔絵万年筆という物質的形態の向こう側に拡がって居るのはそうした日本人としての精神的アイデンティティの問題でもあり得る訳です。
蒔絵万年筆は確かに単なる物質ではあるが花鳥風月の世界を愛し続けてきた日本人としての感性を其処にとどめ得るものでもある。 そうした感性は今後の即物的でより合理的な社会の中で鈍麻していって仕舞うのだろうか、それともしぶとく生き残っていくのだろうかという方向性を見極めたいのです。
屋久杉の杢はオークションの品の万年筆か何かで物凄いものを見た覚えがあります。個人的に屋久杉は軽い素材なので好きです。でも万年筆で凄い杢の出て居るものはたとえば個人が作成した手作り万年筆であるとか、謂わばメーカー品ではない兎に角そうしたものでなければ得られないようですね。
ハカランダは昔アコースティッ クのギターが好きだった頃に良く聞いたように思います。確かマーチンのギターとか、或いは国産の良いギターなどに屡使われて居た材ではなかったか。今や幻の部類に入る材ではないかと。 http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%8F%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80&rkf=2&aucmaxprice=999999999&thumb=1&s1=score2&o1=a&mode=1
スネークウッドのものは何も持って居りませんので一本位は是非筆記具で欲しいところです。プラチナの70のレターウッドモデルは前々から探して居りましたが近頃特に高価となりもはや入手を諦めかけて居ります。 オノトさん、プラチナの70のレターウッドモデルは通常より大きなサイズとのことですがどの位の大きさだったのでしょうか。またペン先は他のモデルと同じ大きさのものですか。 ー参考ー ジャンク扱い■プラチナ万年筆創業70周年記念 ウッド K18-K14 http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d151506399
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| 投稿者: オノト (助教授/55回) ..2014/02/28(金) 01:17 No.4706 |
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Siriusさん、こんばんは。私の所有する7本の蒔絵万年筆の画像は時間を見つけて1週間後くらいに私のyahoo boxにいれておきますので、またその時お知らせします。ハミングバードの蒔絵万年筆は(確か?)2001年に出たもので、正樹という蒔絵師が作っています。吉田久斎の万年筆は干支のうさぎ、そしていのししの蒔絵、もう一本は現代的なデザインのものです。久斎以外では林勝の寅、限定のフクロウ、鵜の蒔絵で、1本を除いてすべて生物を描いた蒔絵です。(私はゴッホの絵が好きで、ロンドン、エディンバラ、パリの美術館で鑑賞してきましたが、特徴的なのは、絵の具が分厚く塗られていて、下から絵をみると絵の具がテンコ盛り状態で、こういうのは他の画家には見られません。ダビンチももちろん大好きで、こちらのほうは俗っぽいゴッホと違って、霊験おごそかで、特に、Virgin on the rockという絵はロンドンとルーブルで何度も見ましたが、こちらは見れば見るほどいい絵です。というわけで、私の場合は、なんらかの形で日本的なものを見出すというより、俗人の私の近くに何か素晴らしい芸術的なものがあるだけで心ときめく自分がまだ存在するということを確認したいだけのような気がしています。)
プラチナの70周年記念のレターウッド万年筆のサイズはほぼ149に相当するものだったと思います。ペン先は装飾は違いますが、3776と同様のサイズです。吸入方式がピストン式といいますか、独特なものでした。スネークウッドは保管が悪いと、模様が消えて薄くなりますが(ヤフーのジャンク扱い品のように)、手放したものはしっかりした模様でしたし完全動作品でした。高値になっているということを知らずに手放してしまいました。市場価値が低いのですが、同様のスネークウッドの万年筆を数本もっていたためです。ただよく考えてみると、惜しいことをしたかもしれません。メーカーがスネークウッドで万年筆を作ることはまず今後不可能です。海外のメーカーには存在していますが、それらはスネークウッドと呼ぶにはあまりに模様が薄いか名ばかりのものです。レターウッド万年筆を発売した当時のプラチナは大変な思いでこれを決意し断行したのだと思います。今後はまずこのような「利益を無視したやり方」はメーカーには無理だと思います。(通常は、何年もかかって十分涸れた木を使うのですが、最近はどうも乱獲が進んでいるようで、その意味でも木製万年筆をあまり広めるのもよくないと反省しているところです。)
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1618回) ..2014/03/01(土) 11:40 No.4707 |
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吉田久斎の万年筆で干支の猪というのは興味あります。私は亥年生まれなので。画像の方はどうかお手すきの折にご無理のないようお願い致します。
プラチナの70周年記念のレターウッド万年筆は何とか入手したいとは思いつつすでに二十年程が経ちましたが結局縁がありませんでした。然しその代わりに他にも色々と有りますからそちらの方で満足すべきものなのかもしれません。何せ使って居ないプラチナも多いので。
「利益を無視したやり方」というのは万年筆の世界にはかって屡存在して居たようですね。例えばパイロットのウルトラスーパーなどはオリジナルのもの、限定品のものが共にそうだったようです。
今後は逆に「利益を重視したやり方」で各メーカーがしのぎを削っていくのでしょうから、其処では必然的に面白いペンは出て来なくなることでしょう。利益を出す為には生産工程だけではなく設計思想の方も徹底的に合理化する必要があるので思想の規格化も進みたとえばリスクのある素材などは使われなくなっていくことでしょう。
でもリスクがあるから面白いということもまた一方にはある訳です。たとえば私が愛好するプラチナのペンはかなりにリスキーなのですが面白い部分もまたあるのです。
ただ、リスキーなのは未完成であるということにも通じる部分がありこれもまた実に難しいところです。万年筆が完成されていてあらゆる面でバランスが取れしかも万年筆の本質部分から離れて居ないのはたとえば80年代辺りのパイロットなのかもしれないな、などと近頃私は考えて居ます。
然し何でか分かりませんが此の頃のパイロットはインクがペン先の表面ににじみ出てくる量が多過ぎる。ー大容量コンバーターとの兼合いの問題なのかー逆にプラチナはフローが良くないのでそうしたことは起こらず安心して居られる。ープラチナは兎に角使い込んでフローをまともに保つことが大事なペンー
オノトさんがロンドン、エディンバラ、パリの美術館でゴッホの絵を鑑賞されて来たお話はとても興味深いです。自分が行けやしない世界のことをこうしてお聞きすると何だか楽しいということです。
私は絵画鑑賞が特に好きで、其れがたとえばベートーヴェンと比較してどちらがより好きかと問われると困るのですが、案外音楽を聴きにいくことは稀でー丁度一年くらい前に十年振りに行って来ましたがー其れと比べると足繁く美術館に通って居ります。
さてゴッホの内面の苦悩とベートーヴェンの内面の苦悩とではどちらがより深いものでしょう?と問われると実に困る位に彼等は悩んで実人生を送った表現者達でした。然し此の、悩む人間というのが現代社会では減って居るような気が致します。
藝術の上では実は人間が悩むと表現が深くなるのですが、悩まないか或いは悩むことを止めて違う方向を見つめて仕舞うと次第に藝術が工芸品化していきます。
詩人の誰かが詩なんか特殊な悩みを心に抱えた人のもので一般性のあるものでは決してない、とかかって言って居た筈ですがー多分吉岡 実氏がー、其の事は確かに一面では其の通りのことなのです。 ー逆に詩は万人の為のものであるということも言えます。誰もが知って居る詩、時としてふと心に浮かぶ詩のフレーズというものもあります。ー
私はそうした一般性のない悩みを深く抱えて生き其れをそのままにー正直に外部へ吐き出し苦悩を普遍化したー藝術家が一番好きなのです。
ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』は十年位前だったか、西洋の宗教画に凝ってパソコンで画像を検索して居た時に良い絵だと思い暫く壁紙に使って居たこともあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%AA%9F%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D
勿論是非本物を是非見たいところではありますが其れもかなわないのでつまるところは壁紙です。
ダ・ヴィンチの絵画では個人的に『受胎告知』が最も好きです。 http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci_annunciazione_u.html 此処での大天使ガブリエルの一種謎めいた表情がひどく印象的なのです。 神の意思として神の子が地上に遣わされることへの絶対的な確信が其の表情の内にはありそうしたものが私の奉ずる仏教的世界観とはまた異質で至極強固なものだと強く気付かされたのでした。
http://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/index.html 尚、丁度此の春に愛知県美術館に少しだけゴッホの絵画が展示される予定です。無論私も出向くつもりでしたが、そんなさ中でのオノトさんのお話でした。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1656回) ..2014/04/17(木) 22:59 No.4750 |
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此の世には素晴らしいと言える物は確かにあります。
間違いありません。
其れはあるのです。
もっとも其れがどんなものであるのかということは人それぞれのこととなるのでしょう。
或る人には其れがクラシックなカメラであったり、上質なオーダーメードのスーツであったり、或いは絵画であったり他の何かであったりすることでしょう。
万年筆党であればたとえばとある限定品の一本であったり、または古い萬年筆の一本であったりすることでしょう。
ただし私が此処で言っているのは其れがあくまで物であるということなのです。
精神性、観念性抜きで単純に素晴らしい物質は確かにあるのだということを言って居るまでのことです。
私には其の事がつい最近分かりました。
其れで此れまでは其の事が全く分からず、此の世の中で一番素晴らしいものは物質的なものではないだろうことを頑なに信じようとして来て居ました。
然し其の事も確かに一面では其の通りのことなのだろうと今でもそう思うのです。
此の世の中で一番のものは多分家族の愛だとか、不正に立ち向かう正義感のようなものだとか、或いはたとえ人間嫌いでも動物を大変愛して居る人などがたまに居られますがー私はそうではありません。私は特に動物好きではありません。むしろ植物の方をこよなく愛する者です。ー、そうした心の美しさ、心根の優しさのことを言うのではなかろうかと、月並みではありますがそう思うのであります。
ーただし本物の仏教では家族愛などというものは本来否定されていてしかるべきものなのです。本物の仏教は所謂常識とは全く異なります。特に愛などというものは此の世に執着する最も危険な概念となる為、仏教に於いてはまず真っ先に捨て去らなければならないこととなります。また其れは物への愛についても全く其の通りのこととなります。ー
それでもだ、それでも、あったのです。
私には此の世に素晴らしい物があるということが分かったのです。
しかも其れが萬年筆だった。
其れも皆様のご期待に応えるべく探して居たという訳では金輪際なかったが何故かそうなって仕舞った。
私はこれまでに多分のべ五、六百本位は万年筆を使って来た筈です。
其の数や一般人のレヴェルから言えば勿論物凄い訳ですが、此の道の人の中では決して多くはない数であったことだろう。
其れも私の場合は使って来たペンの分野が幅広かったということが言えることかと思う。
限定品から中華万年筆まで、また五十年、百年前の古いペンからそれこそ百五十年位前のDip Penまで、兎に角ありとあらゆる分野に手を出して幅広くペンを味わって来たと言える訳なのです。
左様に私の場合ことペンに関しては其のように何故か守備範囲が広いのです。
然しながら、ま、そんな事はこの際どうでもよろしい。
ただ、今私はコレクターの方、愛好家の方々に是非問うてみたい。
貴方様はこれまでに本当の本当に素晴らしい書き味の、其の納得出来る、心底納得し得るペンと巡りあえて来て居られるのだろうか。
私は其れが無かったですね。
つい一週間位前まで其れは無かった。
私が究極の、其の究極の書き味の萬年筆に巡りあったのはつい一週間前だったのだ。
其れは私の定義で云う所謂筆記感の方が究極的に優れた萬年筆である。
しかも其れを新たに買ったのではない。
前からある萬年筆のペン先の取り付け方を変更しただけなのである。
それでは書いてみよう。
其れは以前にも語ったMASTER萬年筆と思しき古い日本の萬年筆である。
此れは其の大きなペン先が強くて柔軟である。
そして其のペン先の取り付け方を何度も何度も変更して来て居るのだ、此のペンは。
ところがつい先日完璧な筆記感をもたらすツボのようなところへペン先が嵌った。
ようやく嵌った、実に目出度い。
では書きますよ。
嗚呼、おおー、何て良い感じなんだ。
ニブの全体のしなり方と言い、線の出方と言い、其れに伴うインクの追従力の高さと言い全く素晴らしい。
完璧な一本が、其の完璧な一本が今、今わたくしの手に握られて居るのだ。
はあー、まるで夢のようだ。
夢のように素晴らしい筆記感。
これだ、これだったんだ、私が都合四十年もかけて探し求めて来た筆記感とは結局コレだったのだ。
此の萬年筆はまだまだ使える、まだまだこれからの萬年筆である。
だとすると、私はこれからもずっと此の理想の筆記感の萬年筆を使っていくことが出来る筈だ。
早死にしない限りは。
ああ、でもいい。
そんなことはもうどうでも良い。
たとえ早死にしたとしても余はこれでもう満足である。
完全に満足。百%コレでOK。
あの世におわすことだろう仏様、仏道修行が未熟な私めに最高の萬年筆をお授け下さり眞に有難う御座居ました。
ー合掌ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1659回) ..2014/04/22(火) 23:40 No.4753 |
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不思議なことに此処でこうして万年筆のことを書き続けて居るうちに私の持って居る万年筆が皆調子の良いものになっていったのだった。
万年筆について様々に批判を重ねながらふと気付くと万年筆などもう何でもよい、どれでもOKという感じになり、尚且つ何でか知らないが段々と書き易い筆ばかりになっていったのだった。
そしてそうこうしながら私は思うのだ。
矢張り褒めるばかりが能ではない筈なのだ。
何でも批判に批判を重ねてこそ其の批判の対象物が磨かれていく。
全く人生何だってそうだ。
多分仕事も恋愛も何だってそうだ。
無論のこと現代文明についてだってやっぱりそうだ。
現代文明は良いよ、楽しいよ、ではなく現代文明は悪いよ、危険だよ、という視点を私の場合は多分死ぬ迄持ち続けていくことだろう。
私の人生はそれで良いのだ。
私は昔教師になることを断念して自称詩人でいくことを自ら選んだのだからそれで良いのだ。
だから私は今後も現代文明批判を続けていくことだろう。
其れは私の性格が悪いということではなしに、現代文明自体が事実悪いのだから其れを正直に述べて居るということに過ぎないのだ。
批判ということは本当は批判されるものを貶めるために行うことではなく逆に良くするために行うことなのである。
日本人はどうもそういうことがそも分かっていなくって、批判されると即攻撃されて居ると勘違いして仕舞うものなのである。
然し日本人が自立した近代的自我を持つためには其の批判力こそが多かれ少なかれ必要となることだろう。
そして其の批判力を万年筆の世界に於いて発揮したりしても勿論良いのだ。
なぜなら万年筆の世界ばかりがいまだに幕藩体制ではそりゃチョット了見が狭過ぎるのだぜ。
でも本日は万年筆への批判ではなくして、万年筆の鑑賞を大人しくしていくことと致します。
ー多分、万年筆の話はコレを除けばあと一回だけとなる筈。其の最終話だけに。ー
http://yahoo.jp/box/5g9Cka
尚プラチナの80周年の赤壁、此の螺鈿の仕様の限定品は正確には蒔絵万年筆ではありません。 然しこうして見ると矢張り天皇即位記念の鳳凰は素晴らしい現代の蒔絵万年筆です。
http://yahoo.jp/box/klCx_G
左より、パイロット製丸善朱漆塗り、プラチナ乾漆古銭蒔絵、プラチナ尾長鳥蒔絵、プラチナ紅葉山水蒔絵といった戦前の萬年筆の数々。
尾長鳥蒔絵は小振りの萬年筆ながらまさに宝石のように美しい蒔絵萬年筆である。 此の尾長鳥蒔絵についてはまた詳細な写真を交えながらブログの方でも語ってみるつもりで居ります。 また紅葉山水蒔絵についてもそのようにしていく所存です。
http://yahoo.jp/box/HutUh5
パイロットの大型蒔絵萬年筆で本金銀浜松蒔絵とVANCO萬年筆の八雲塗りのものを二本。
http://yahoo.jp/box/MWBgeI
プラチナの乾漆古銭蒔絵の三種三本とセーラーの漆塗り萬年筆白ペン付き。
プラチナの乾漆古銭蒔絵は握った時に手が滑りにくく、それにペン先が柔軟で穂先が長い為日本語の表記に於ける線描が素晴らしく美しく出来る。
それに同じ乾漆古銭蒔絵でも様々な仕様の違いがあり集めてみるとなかなか面白い。
乾漆古銭蒔絵は重点的に集めて来たつもりだったが最近に限っても二本ばかり売り物を逃して仕舞った。
ちなみに其の筆記感などについては其れもまたブログの方で述べていく予定です。
ーただしブログの方は基本的に万年筆のことをメインに据えたブログではありません。ー
http://yahoo.jp/box/lm22SL
Waterman76とWaterman416。
L.E.Watermanで一番好きなペンが此の#416です。
#416は二本あり、一本を使って居りますが全く素晴らしい、私にとっての理想的なL.E.Watermanである。
ペン先はマイルドに柔軟で日本語を書くには丁度程良い位である。
ただし程度の良い個体は入手するのが難しい。
Waterman76も思ったよりもずっと良いペンだった。
これも使用中ですが、ガラス製の筆筒の中に専用の布袋に入れて保管してある。
Waterman76のようなスクリューキャップのEDでも屡インクの漏れが起こり得る為其のようにして居るのである。
古典のペンのEDの場合はペンを立てて置いておくのが結局一番である。
http://yahoo.jp/box/HiCqeH
今や理想の筆記感となったMASTER萬年筆。
美しい茶に変色した古き良き日本の萬年筆である。
ただし私の場合は邪道のED改造をあえて行い此のペンを使用中だ。
然しながら何遍書いても全く素晴らしい筆記感である。
然し、此のペンと甲乙付け難い筆記感を持つペンは他にあり、其れはプラチナの古銭蒔絵モデルである。
というよりも、穂先の尖った柔軟な鍛造ニブを持つ戦前かまたは戦後暫くの頃の日本の萬年筆の筆記感は基本的に皆素晴らしいものがある。
其れ等は戦前の一流海外ブランドのペン以上に日本語の本来的な表記を行い易いものだと言える。
つまり、こと日本語の表記に限れば戦前かまたは戦後暫くの頃迄の日本の萬年筆は超一流品だということになるのではないか。
また其れは軸以上に金ペンの出来が真に日本語の表記に合って居るからこそ其のようなことが言えるのである。
http://yahoo.jp/box/OEK3xs
こちらはオマケの画像のマーレンのマティス限定万年筆。
多分今最も入手が難しいとされる限定品のうちの一本だと言える筈である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1660回) ..2014/04/25(金) 10:58 No.4754 |
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最終話-1
Viscontiというメーカーのペンは、実際に購入して使ってみると色々と不具合が多く発生して世界一流のペンだとはとても云えないような代物が多い。
それでもViscontiというメーカーの存在意義は戦後の万年筆の軽薄さに対するアンチテーゼであったという其の部分にこそ存して居るのである。
Viscontiのペンは、特に90年代のViscontiの限定品は、戦後のペンには感ぜられなくなっただろう妖しい万年筆としての魅力を濃厚に漂わせて居た。
私は其の魅力にこそ参り、其の危ないとされて居るViscontiの怪しいペン共と飽きもせずにこうして付き合って来たのだ。
そして其の経験は少なくとも私にとって大きいことだったのだと言える。
経験というものはプラスのことばかりでは実はダメで、むしろマイナスの経験こそが精神上のことを高めて呉れるものなのである。
其の経験なくば、私はVintage Watermanという一種究極の万年筆の世界には踏み込めなかったのだろうし、こうして萬年筆の体験を一通り済ませて高所に憩うて居るような、そんな一種達観した境地にはとても達することがなかったものと思われる。
尚最近の世相で気になるのは、そうしたマイナス面での経験をおざなりにして居るとでも言うのか、或いは所謂成果主義でテストで百点とったら其れで○、金メダルが取れれば其れで国民栄誉賞、契約が取れれば残業代も全部払うが成果無ければ残業代はタダ、などという実に外面的な、また一方通行的なグローバル的短絡思考が幅を利かせて居ることなのである。
そうではなく、此の世には苦しみということが有るのであれば、其の事に真正面から向き合って生きたかっての純文学系の作家達のような、そうした内面の苦しみ、むしろ一文の得にもならぬようなそうした人生との格闘、其の面を忘れて仕舞うからそんな一種短絡的な制度に陥って仕舞うのであり、第一其のような軽薄な制度を定める者達は純文学のことなど何も知らない輩が多いだろうから其処ではそも何も分かって居ないのである。
そうではなく、此の世には苦しみということが有るのであれば、其の事に真正面から向き合って生きたかっての宗教家のような、そうした内面の苦しみ、むしろ一文の得にもならぬような真摯な宗教の上での人生との格闘、其の面を忘れて仕舞うからそんな一種下らない制度的な退廃に陥って仕舞うのであり、第一其のような軽薄な制度を定める者達は宗教のことなど何も知らない輩が多いから其処ではそも何も分かって居ないのである。
そして大事なこととして、現在の軽薄短小の世相に対する重厚長大なかっての視点はむしろマイナス面での経験から磨かれることが多かった筈である。
人間はマイナスの面をしっかりと見、尚且つ其れを体験することにより全的に大きく成長することが出来る。
ところで何でそんな一番大事なことを教育者は子供らに教えられないのだろうか。
私が教育の世界から意図的に外れて行ったのは、確かに他にも細々とした理由はあったのだったが、大前提としてまず其の事が存して居たのである。
確かにViscontiのペンをマイナスと決め付けることには少々問題もあろうし、人生のマイナス面ばかりを見つめて行くこともまたどうかとは思うのですが、何にせよ此の世での出来事を狭い了見で価値化することには大きな無理があり、其の事をそのまま続けていけば必ずや制御不可能な大問題に発展するだろうことは想像に難くない。
事実現状が其の通りでのことになりつつあるのだ。
さて今私が一本だけ欲しいと思って居る限定万年筆があり、其れはVisconti Alhambraである。
これまでに何度も何度も入手する機会はあったのだったが結局逃して来て仕舞って居る。
ですが此のペンは多分良い。
おそらく限定品でも五本の指に入る程に良いことだろう。
確かに例の桁付きのクリップはいただけないのだし、パワーフィラーなるヴィスコンティのプランジャー式の吸入方式は信頼性がいまひとつだ。
其れでも結局此のペンは崩壊することのない朱のエボナイトの軸なのである。
さらに其処に繊細な美しいフィリグリーの装飾が施される。
其のフィリグリーは、古典のペンの意匠を模したもので見る限りはなかなか精緻なものだ。
フィリグリーの古典のペンは実際に使ってみると其の真の良さ、素晴らしさが実感として分かって来る。
フィリグリーのペンの軸は何より軽く仕上がって居て、其のほとんどがエボナイト製で素材としての本質的性質に優れて居る。
http://www.ebay.com/itm/VISCONTI-ALHAMBRA-GOLD-AND-SILVER-LIMITED-EDITION-SET-/141265810769?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item20e4193551#ht_637wt_1121
http://www.ebay.com/sch/Pens-Writing-Instruments-/966/i.html?_nkw=Alhambra&_armrs=1&_dmd=2&_from=R10&_ipg=&_pcats=1
ところが此のペンは今や異常なまでに値が上がって仕舞って居る。
其れは相場として上がって居るということよりも、今では極端に需要の少ない特殊な限定品であるからこそ言い値で売って仕舞い易いという部分が此の値上がりに含まれて居ると見ておいた方が良いのかもしれない。
尚私が様々な限定万年筆を使ってみて気付いたこととは、其れ等には古典のペンのような本質的なモノの良さが無く、最初のうちは満足出来るペンのように思えても、使い込むうちに次第に其の本性が顕になって来てむしろ悪くなって行って仕舞うペンが多かったということなのである。
逆に古典のペンや60年代位までの古いペンは、最初はむしろとっつきにくく理解し難い部分があるように感ぜられるものが多いのだが、其の個体に手をかけて調整していくことによりむしろかけがえのない、此の世でコレ一本だけが素晴らしいというような、そんな確信を持って真に安心しかつ満足して使えるようなペンとなっていったことなのである。
ちなみに其の事は人間でも全く同じことである。
外面的なことに多分に気を遣って居る人間、周りばかりを気にして行動して居る人間は実は底が浅く浅はかであることが多く、逆にとっつきにくいが真面目に物事を捉えて居る人間の方が真に内面性は豊かで信頼できる人間であることが多い。
そして現代の文物はすべからく前者のタイプの方へと流されて来て居る。
其の事は物に於いてもまた人に於いてもすべからくそうなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1661回) ..2014/04/25(金) 22:52 No.4755 |
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よって現代は物事の或いは人の本質的な価値、本質的な力ということを問わないー問えないー時代となって仕舞って来て居る。
其の本質とは何かということ、其の追求自体を忘れて居るか或いは失っていったのである。ー意図的にか或いは必然的にかー
ただし元より万年筆を趣味として居るような人は基本的に自らの頭で考えることの出来るような所謂学のある方々が多い。
特に此処は一種学際的でもある掲示板でもあったので、多分私よりも知能の高い方々が屡訪れて読んで下さって居たのだろうとそう思う。
だから其処はまさに釈迦に説法だったのだったが、其れでも此の私という自称の詩人の直観に於いて得られたところでの万年筆の真相、真実と現代社会の真相、 真実ということを、あえて此処に於いて語ることには何らかの意味があった筈である。
真理方面でのことというものは、其れを捉えるのは至難の業で知能が高ければ其れでもって其れが捉えられるというものではない。
ー詩人や宗教家には大学なんて出て居なくても間違いなく詩人であり宗教家であるというタイプの方々が実際に居られることからしてもー
詩人や宗教家には元々そうした直観力のようなものが備わって居るものと思われるのですが、其のような力は認識の一般性を離れた力でもあるからして一般にはなかなか理解しがたい領域のものでもあることだろう。
さてVisconti Alhambraの方の話へと戻ろう。
Visconti Alhambraを将来的には得たいという望みが私にはある。
然しVisconti Alhambraは高価で、現実的には其れを得ることはなかなか大変である。
其処で例のVisconti Uffiziの銀製のフィリグリー装飾、之を何とか活用出来ないものかと私は考えた。
現在私の手元にはUffiziは一本も無く、あるのはただ三つのフィリグリー装飾部だけで、そのうち銀製が二つで残る一つはヴァーメイル製であ る。
銀製は新しいものと古いものがあり、新しいものはいまだにピカピカで其れはWaterman16の方に付けてある。
古いものは色んな万年筆に付けて来て居て、最近まではヴィスコンティの廉価万年筆の方に付けて居たのだが軸への固定の方が緩かった。
つまりはユルユルなのである。
実はWaterman16の方も少し緩く、どうしても装飾が軸から浮いて仕舞う。
然し其れは元々別の部品なのであるから致し方ないことなのである。
其れで其の古い方の銀製のフィリグリー装飾をStipula Sol Levanteの方に付けてみることにした。
すると、何とピッタリではないか。
正確には部分的に若干の浮きも生じるが固定が確りと出来て居るので筆記上は全く安心である。
それも、良く見ると何やらあのVisconti Alhambraに似ていなくもない訳である。
仕様的には、朱のエボナイト軸に銀製のフィリグリー装飾付きということなので同じなのである。
しかもフィリグリー装飾を被せたことによりキャップの固定位置が後ろへ移動し全長が長くなりより古典的な長さの比のペンとなった。
へへへ、また、やりましたー。
最後にまたタダで凄いペンを作って仕舞いましたー。
何故凄いペンだと言えるのか?
1.銀の装飾付きで美しい。高雅だ。 2.ペン先はNETTUNO A.C.V.14ktペン先で私がStipulaのベストニブだと考えて居るもの。http://yahoo.jp/box/BPF9E2 3.ED改造されて居り、インクフローが良く大変書き易い。
1.勿論使って居ないUffiziのヴァーメイルのフィリグリー装飾を被せることも出来た。が、何せクリップが銀製である。 2.本質的性質が素晴らしく若干ながら線描能力さえある比較的強い金ペンである。 3.クレセントフィラーを改造してED化し軸に突起物がなくなったからこそフィリグリー軸化することが出来た。
それでVisconti Alhambraを手に入れるまでは、此のペンで充分に満足して使えることが分かったのである。
ゆえに此のペンこそは今の私にとっての究極の伊太利亜物なのである。
そしてもう一本、同じ位に大事な伊太利亜物のペンがある。
其れが先にも書いて居たOmas E.E. ErcolessiにViscontiの初期型の18Kニブを取り付けた改造ペンだ。
1.何故かセルロイド軸が安定して居て変色、分解などの兆候が認められない。 2.美しいフォルムの古典的なバランスの万年筆。オマスの限定品ではまさに知る人ぞ知るペンである。 3.ピストンフィラーが意外と確りして居り今のところは全く不安なく吸入できて居る。
そんな訳で今の私にとって究極のセル軸万年筆ー現代のーが此のペンなのである。
尚Viscontiの初期型の18Kニブ-M-は全く素晴らしい筆記感をして居て若干ながら線描の能力さえもがある。
従ってオリジナルのニブの時よりずっと筆記感の良いペンに仕上がって居るのだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1662回) ..2014/04/25(金) 22:52 No.4756 |
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http://yahoo.jp/box/ppKLJp
上記の二本が、1995年辺りから伊太利亜の限定万年筆を遍歴して来て辿り着いた究極のペンであり同時に現在の私の究極の伊太利亜物に対する拘りであり深い愛着を示したものなのである。
それにしても、私と伊太利亜物のペンとの関係もいつのまにかもう二十年近くにもなったのだね。
ちなみにセル軸の万年筆については、今や普通に好んで使うペンとなって居る。
セル軸だからといって敬遠したりはして居ないということだ。
ただしセル軸は時として崩壊が早く起きる場合もあるので兎に角早く使い倒してやった方が良く、其れは戦前のセル軸のものでもまさしくその通りでのことなのである。
エボナイトの軸の安定性は常に高いものがあるが、モットルドのタイプや色エボナイトの軸の場合は時として曲がったり割れたりすることもあるからその点は気を付けておくべきである。
だから万年筆の軸で最も良いのはただの黒いエボナイトの軸のものなのである。
だから人間の方も黒いエボナイトの軸のような地味でいてしかも質実剛健でいかにも堅いような、そんなタイプの人が一番なのである。
ちなみに私自身はそうした部分も多分に持っては居るが其のタイプとは少し違って矢張り物思いにふけるのが得意なタイプだろうと思う。
あの釈迦は若い頃から物思いにふける癖があり其の事を心配した父王が早めに妻子を持たせたが結局王子は観念上の追求から離れられず理想ないしは真理を求めて俗世間を捨てたのであった。
いや私は私の性格が釈迦と同じだなんて全然言って居ないのである。
ただ精神の傾向性とでもいうのか、其の心の根の部分が似ているのではないだろうかとそう言って居るだけなのである。
性格というか人間の傾向というか、そうしたものがどうも似ているような気がしてならない。
だから私は今後も自己に出来る範囲で真摯に仏教を研究して行くつもりである。
そうしたお勉強の時には大抵は右手に古典の萬年筆を握って居ることかと思うが、其の場合に場合によっては今回の二本のペンのいずれかが握られて居ることだろう。
ー此の万年筆の物語は、次回のセーラーの分で終わりになりますが、ブログの方ではたまに万年筆を語ることもあろうかと思います。また鉱物の方も勿論語っていくつもりです。ただしブログは長く続けたとしても二、三年、或いは一年未満で終了する可能性もあります。あくまで限定的なものとして、やっていくつもりです。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1666回) ..2014/04/30(水) 01:05 No.4761 |
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此処で私は長いこと万年筆や文明についての本質的な面のことを論じて来たのだった。
そして何にでも其の事はあり、本当の本当は何でもそちらの面のことをこそ重視して語り継いでいかれるべきなのである。
ところが現在文明はいつしかおかしな所に入り込んで仕舞って居るかのようで、まるでわざと其の本質面を外して見て居るかのように見当違いな面にばかり人々は群がり其れを延々と論じて居るばかりなのである。
私の場合はそうした本質のさらなる多元化主義というか或いは非本質主義による価値観の相対化とでもいうことをむしろ嫌うのである。
ポストモダニストであり文化相対主義者であるにも関わらず、そうした価値の多元化、または何でもアリ、例えれば誰でもが批評家であり評論家だという状態を好ましく思って居ないのである。
此のグローバル非本質主義というものは、現代社会をますます分かりにくいものにし、そして現代社会の社会的自我をますます偏狭かつ低俗なものとしていきつつあることだろう。
であるからこそ本当の本当は本質はひとつなんだ。
本質というのは学問から導き出されたところでの論理的な結論とは少し異なる、本当の本当である、物或いは物以外のものにとっての素の姿のことなのである。
さて私が近頃世界の認識方法としてより望ましいことではないかと考えて居る要素には二つがあって、其れは以下のこととなる。
1.本質を探る 2.全体を見る
というこんなにスッキリとした実に簡単なことなのである。
然しどうも此の二つの要素がリンクして居るように感じられるのだ。
即ち本質を探っていくと全体が見えて来るのであり、全体が見えて来るとまた事物の本質の方がこれ以上なく明瞭に浮かび上がって来るのである。
逆に言うと本質を抽出することが出来なければ全体の把握も出来ず、また全体を見通せなければ事物の本質もぼやけていって仕舞うということだ。
其れで現代という時代は、特に21世紀からの此の今の世の中は、どう考えてもやっぱり其のどちらも行われて居ないのではないかとの疑いが日増しに強く感じられて来ても居る。
今私に言えることは、此の世にはこうした関係性での真理の構造が確かにあって、其れはおそらくはどちらか一方が失われればもう一方も失われるということとなって居るのではなかろうかということなのだ。
尚、昔の思想、たとえばかの荘子などは非常に此の全体性での見方が強く出ていて、其処では常に思想としてのスケールが兎に角大きい。
ー荘子は当時ですら其の思考のスケールの大きいことを批判されていた位である。なぜならスケールの大きいことと大言壮語ということとは無関係ではない場合もまたあるがゆえに。ー
そしてだからこそ其処で事の本質面に照準を合わせ易かったのではないのだろうか。
其れから原始仏典の方にも矢張りそんな記述が出て来る。
原始仏典には例の「群盲象を撫ず」-「群盲象を評す」「群盲象を模す」-ということの記述が出て来る。
Wikipedia-群盲象を評す http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%9B%B2%E8%B1%A1%E3%82%92%E8%A9%95%E3%81%99
此処にもあるように此れは真実の多様性や誤謬に対する教訓となって居る喩えだとのことである。
つまり、実体ー本質ーが見えて居ない者が幾らあれこれと事の全体性を論じても其れは本当の全体像には重ならず誰もがもっともなような、然し実は誤った全体像を描いて居るばかりなのである。
私は現代文明の認識方法につき、ひょっとすれば其のような隘路のような所に入り込んで仕舞って居るのではないかと前々から考えて来ていたのである。
本当の本当は真実はひとつでつまり事の本質も全体の真の姿もひとつで、それなのにこんな全体の姿だったと心の盲目の人々がそれぞれに宣うのである。
しかも其れを知的レヴェルが高い人々でも平気でそうして仕舞う訳で、それだからこそ余計に人々は様々に入り組んだ全体像に惑わされ、つまるところそんな部分論に幻惑されて仕舞うのである。
然しそんな風潮に対しては此の象での喩えを使った格言がキツーいお灸のようなものとなって現代人の目を覚まして呉れるのではなかろうか。
第一此の格言は上にもあるように仏教に限らず他の多くの宗教でも語り継がれて来て居るものなのである。
其のようなものこそは、多分人類にとっての最も重要な教えである筈のものだろう。
国や宗教の垣根を越えて語り継がれて来て居るものとは其れ即ち普遍性を持った真理なのであろう。
私が此処で示していきたかったのは結局上記のようなことなのである。
たとえば万年筆の世界でもそれこそ其の個々のめいめいの意見ばかりがかまびすしいのだが、ホントのホントは、其の万年筆の真実ー本質と全体像ーはおそらくたったひとつの姿であり考え方なのであろう。
そして文明の世界の認識方法でも其れと全く同じで、ホントのホントは、其の文明の真実ー本質と全体像ーはたったひとつの姿であり考え方なのであろう。
其れで私は其の概念に基づいて此処で万年筆論と文明論を展開して来たのだった。
されど、其処まで考えて折角論を張って来たというのに、それでもまだ分からんことがひとつ残った。
難しい言葉で言えば其れは愛の不条理性のことで、或いは其れをカンタンに言えばリクツでは割り切れない現実の愛の形としての腐れ縁のことなのである。
これでもまだ何を言って居るのかサッパリ分からないことかと思いますので早速説明させて頂きます。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1667回) ..2014/04/30(水) 01:05 No.4762 |
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http://yahoo.jp/box/vPU0aD
例えば此のセーラーの緑ちゃんは私が認めて居ない21金ペン先付きのもので勿論理論上は私が愛好するようなことがあってはならないものなのです。
何故なら私は万年筆の全てを観念化して捉えることにすでに成功して居り、其れで14金ペン先以外の万年筆は本当はダメなんである、との論を此処でしつこく張って来て居りました。
勿論其れは真理、つまり本質を見るということであり其の事は多くの万年筆を幅広く使うことで万年筆としての全体性の中から導き出されて来たことでもあった。
ところが此のセーラーの緑ちゃんが其の本質の世界をぶち壊し今や私の愛用の一本となって仕舞って居るのだ。
だから真理、真実と現実とは大いに違うと云うことなのだ。
現実とは本質的に自己矛盾性を自ら孕むことへの方向性が何故か大好きで其処ではどうしてもリクツでは捉えきれないことが往々にして出て来るという世界のことでもある。
そうか、そうであったか、まさにさもありなん。
されば理屈では割り切れないことなどもチョットだけなら現実に残されて居ても良いのではなかろうか。
其れで飛び切りの寛容性を発揮して私は此の筆を生涯使っていく筆とすることを決めたのであった。
ー90年代のHMの普通の21金ペン先付きモデルでセーラーの中では相当に自然な筆記感のする地味なモデルですが、軸の作りが良くかつペン先の方も良くインクフローが相変わらず良く書き易い。ただし、14金ニブ付きのもっと良い万年筆も他に沢山ある訳です。21金ペン先はあくまで私にとって良いとは思われないが90年代のものに限れば筆記感が少し渋くてなかなかよろしい、ということなのです。其れからこれからの季節にピッタリの緑色の軸が目にも鮮やかで大層美しい。左様に美しいということは人間が絶対に捨てきれないことなのでもある。ー
それでは皆様、ごきげんよう。
ーはいちゃー
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続・尾張文化論
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1245回)
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2012/05/05(土) 22:22 No. 4234 |
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花に染む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に 西行
【通釈】花に染まるほど執する心がどうして残ったのだろうか。現世に執着する心はすっかり捨て切ったと思っている我が身なのに
以前にも述べた様にかって西行はこのような歌を詠んだのであった。
が、今のわたくしなら花に染むというところを緑に染むと言いかえて仕舞いたい位なのである。
緑に染む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に
でもこれでは字余りなのでほんたうは草とか木々とかそんなものを宛がう方が良いのかもしれない。
わたくしは最終的には花は捨てられそうな気がしているのだけれど、美しい緑の世界、一面の新緑の、または万緑の世界というものは決して捨てられないのである。
それも兎に角一面の緑の世界がお気に入りなのである。
ということはつまりは山が好きなのであるから、山に籠って仙人にでもなることを目指すべきかとも思うのだが、そこで改めて自問自答してみるに、一面の緑はどうも標高が高過ぎても余りよろしくはないらしいのである。
そうわたくしは山よりも森が兎に角好きなのである。
それも林のようなのではなくてまるでジャングルのような自然林が大好きなのである。
そこに豊かな生態系が保存されている森が好きだ。
動植物がぐちゃぐちゃに入り乱れて生きて居るような、人の手が入って居ない無垢のままの森が大好きだ。
ほんたうはそうした純粋なものにしか興味がないのである。
なにしろそんな御仁なのだから連休になっても観光地などには行かない。
実際観光地へ行き人間に揉まれているだけでわたくしは吐き気がしてまいります。
もっとも10年前位まではそんな風ではなかったのだが、近年より偏屈化、爺さん化してそんな隠遁の気風がますますひどくなって来た。
だからこのままでは文明人を続けていけるのかどうかさえ不安だが自分の中でそう進んでいるものは如何ともし難い。
その爺さんは最近兎に角地元志向が強く、自宅から二、三キロの範囲の動植物の美、ということに最も高い関心がありヒマがあればいつも自転車でその辺りをサイクリングするようになった。
自宅から二、三キロの範囲の美人や飲み屋などには全く興味が無く、あくまでその範囲の動植物の美、ということに強い関心があるのである。
しかしながら、この件について詳しく話し始めると随分長く続くこととなってしまうのでそれはやめておこう。
そこで今回は是非写真を貼り付けることとしてみたい。
それでわたくしがいつもどこをほっつき回っているのかということが良く分る筈なのである。
たとへば次なる画像はわたくしが今日行って来たサイクリングコースの道程を示したものなのである。
が、余りに地味で面白く無い写真だろうからどうも興味が薄いなと思う人は見ない方が良いのかもしれない。
くれぐれも言っておきますが、是はわたくしの「哲学の道」のようなものなのである。
キーコキーコと自転車を漕ぎつつ何も考えていないようで実は常に哲学をしているわたくし。
そのわたくしの「哲学の道」には所謂煽るようなものはほとんど何も無いと言っていい。
むしろ其の煽るようなものを極限まで削ぎ落とす為にわたくしは戸外へ出て万緑と戯れて来るのである。
もっともそれもここは都会なのだから限界はある。
山奥のようにほんたうに静かなところではないのだからそれらは元々たいした自然ではない。
それでもこの五月の連休にふさわしく緑が多いところばかりなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1290回) ..2012/08/08(水) 19:19 No.4313 |
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さて今日で私の夏休みも終わり。
明日からはまたあの訳の分らん、まさに目の回るような忙しさの中に逆戻りである。
今年の私の夏休みは天候にも恵まれいかにも夏らしい風情の中に遊ぶことが出来た。
その様やまるで学生の頃の夏休みに戻ったかのようだった。
と言っても、その頃のように海や山に遊んだ訳ではない。
何せすでに若ジジイなのであちこち体の具合が悪い。
一番困っているのは五十肩がひどいことで、こいつは兎に角肩や腕が時にひどく痛い。
それもこの四月からずっと続いているので全くもって嫌になって仕舞う。
されど夏休みは夏休みでいざそうなると不思議と童心にかえって思い切り遊んでみたくなる。
何せまだお迎えが来るにはちと早い年齢である。
もっとも詩人は寿命が短いものと相場が決まっているものなのだが、それでも矢張りちと早い。
そんな訳で肩が痛く全く情けない若爺はそれにもめげずこの夏に色々と遊んで来たが、今日のお遊びは中でも飛び切り楽しいものとなった。
だがお遊びといってもあくまで真面目な藝術鑑賞である。
岐阜県美術館 開館30周年記念 象徴派−夢幻美の使徒たち http://www.kenbi.pref.gifu.lg.jp/page3613.php http://www.kenbi.pref.gifu.lg.jp/page3610.php
本日ここで象徴主義の絵画を沢山鑑賞して来たのである。
象徴主義の絵画はわたくしにとって特別なものである。
それ以前の絵画やそれ以後の絵画にここまで惹きつけられるようなものは無い。
尚わたくしは以前象徴主義の文学の方に親しんで居たのである。
だから象徴主義の絵画の方にも深く興味がある。
よって象徴主義の絵画につきあれこれと言葉を弄して語れぬ訳でもない。
いや、語ろうと思えば幾らでもそれを語ることが出来る。
それもなるべく難しい言葉を使って。
だがそんな論評などはどうでもよろしい。
何せ夏休みだ。
夏休みは勉強ではなく外へ行って遊んで来ることこそが大事だ。
もっとも三十年近く前の塾の先生の頃には夏休みこそ勉強するんだと自ら言って毎日補習授業ばかりしていたものだったが、今思えばそこはこのクソ暑いのによくやっていたものだった。
JRで西岐阜まで行く。
快速電車なので金山から35分で到着する。
岐阜市は周りに山が見える素敵な地方都市である。
美術館までは少し急げば徒歩で10分ほどだ。
何せ快晴で暑いには暑いのだが、実は名古屋程は暑くない。
名古屋は産業都市で空気がさわやかでは無いから余計に暑いのだが、岐阜は空気が良いのでたとえば同じ三十五度ではあっても名古屋人にとってはさほど暑くない。
岐阜県美術館は木立に囲まれた素敵な美術館である。
あの黒川 紀章が設計した名古屋市美術館よりよほどに上品なたたずまいで以前からわたくしは大好きなのだ。
実は今回で三度目の来館である。
その理由は、岐阜県美術館にはあのオディロン・ルドンのコレクションが多数収蔵されているからなのだ。
つまり、岐阜県美術館は象徴主義絵画の専門家のような存在なのである。
だからわたくしのように名古屋からも、あるいは東京からも、はたまた遠く北海道からも象徴主義趣味人が駆けつける美術館となっているそうだ。
美術館の売店のどこか上品な初老の女性の店番の方がそう教えて下さった。
我はといえばどう見ても体育会系のように見えるがっしりした体格のイチローカットでもってしてとても象徴主義の文学の趣味人には見えないのであるが、それでも一応は象徴主義文学の専門家のようなふりをしつつそのお話をふむふむと聞いていたのであった。
その売店ではいつものようにルドンの絵の絵葉書を贖い、ついでにルドンー生涯と作品ーという本を求めた。
何せ図録が高くて買う気が失せたので代わりにそれを求めたのである。
さあ、帰ろう。
都会の喧騒を離れて木立の中の美術館に一人遊んだひと時の夢の体験は終わった。
もう私の夏休みは終わったのだ。
この抜けるような青空の下を歩いてあの暑苦しい名古屋へと帰ろう。
しかしながら、時間が無い。
あと10分では14時05分発の豊橋行き快速電車には間に合わぬ。
そこをマラソンをして間に合わせた。
マラソンをしたためなのか、帰りの車中では兎に角左肩が痛くずっと右手で痛いところを揉んでいた。
それが15時15分位にはもう家に着いていた。
一時間と少し前には我は遠く離れた岐阜に居たのに今はもう家で焼きそばなど食して居る。
まこと象徴主義の時代には考えられぬことではあるが、現実に現代の鉄道力というものにはその位の威力があるものなのだ。
のみならず車窓にはさながら象徴主義の絵画のような夢幻の景色絵巻が繰り広げられていた。
遠くにかすむ岐阜の山並み、清い木曽川の流れ、あの信長を思い出して仕舞う清洲城の景観などが。
それが名古屋へ戻ると、おやおや、ここは何だかひどく都会だな。
東京や大阪へ行ってから名古屋へ帰ると何やらふるさとの田舎へ戻ったなという感がするものなのだが岐阜から名古屋へ帰るとそれは一級の都会へ戻るということなのだ。
https://box.yahoo.co.jp/guest/viewer?sid=box-l-pvc74txpcj7qwqyludwvupdvj4-1001&uniqid=7d73604b-6666-4a94-9bed-00280e45fe2e&viewtype=detail
ちなみにわたくしは兎に角ルドンの絵画が西洋絵画の中では一番好きである。
中でも岐阜県美術館が収蔵する『眼を閉じて』という作品が大好きである。
無論それも今日イヤというほどじっくりと鑑賞して来たのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1291回) ..2012/08/10(金) 23:39 No.4314 |
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Wikipedia-岐阜県美術館 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A8
岐阜県美術館は以上にあるようななかなか素敵なところ。
ところで夏休みがもう少し続き、また肩の痛みが無ければ以下のようなところへも是非行ってみたかったところだ。
が、現実にはなかなかそうもいかない。 現実とは常に厳しいものである。
北澤美術館 http://kitazawamuseum.kitz.co.jp/
この北澤美術館は私のお気に入りのところで、かってここを何度も訪れてアール・ヌーヴォー期のガラス工藝作品を鑑賞していたものだった。 勿論ここに出ているところは全部行っていた筈だ。
信州とっておき情報 http://www.mtlabs.co.jp/shinshu/museum/kitazawa.htm
が、こちらによると清里の美術館の方は今年になって閉館したのだそうな。 この清里の美術館は森の中にありすっばらしくお洒落なところであった。
ここはまさしくあなたのようなモテる初老の紳士のためのお忍びのデート場、密会場として機能する完璧な隠れ宿的美術館であった。
事実我が十年程前の夏に訪れた折には美術館の中に若い女共が溢れかえって居り館内があまりに女臭くて息が詰まったほどであった。
いや、しかし今思えばそれは全く素晴らしい体験であった。
北海道ガーデン街道 http://hokkaido-garden.jp/about.html
夏休みならば一応はこういうところへも是非行ってみたい。
が、何でもイングリッシュガーデン風にしてしまうのは実はきらいである。
北海道ガーデンということだからもっと日本風の庭に出来ないものだろうか。
たとえそこに洋風の植物を植えたのだとしてもどこか日本風にして仕舞いたいのである。
戦後の日本人は自国の文化の根の喪失に対して不感症になって仕舞っているから兎に角すぐ軽薄に洋風化をしたがる。
洋風化をすればそれが格好良いことだと思い込んで居る。
だがソレ、実はかなりに格好悪いことである。
国が侵略された訳でもないのになぜそんな文化的なシフトを自ら好んで行う必要があるのだろうか。
わたくしは何せ思想的に屈折しているのでたとえば北海道で西洋の仕方を真似ただけのアウトドア生活をしている人などが余り好きではない。
たとえば妙にバタ臭くペンションとかやりつつ自然ガイドとかしている奴らも余り好きではない。
またL.L.BeanとかCOLEMANとかの高いアウトドア服とアウトドア用品に身を固めて山や川で遊んで居る奴が好きではない。
むしろ大昔に買ってもう要らない腐ったような服を着込んでわたくしは山へ入りたい。
リュックなんぞは四十年前にカブスカウトで使ったボロいやつを使って山へ入りたい。
きっとその方が格好良いことだろう。
靴の方はたとえば地下足袋に長靴などが良いのかな。
マタギ用のナタなどがあるとさらに格好良い。
寝るときなどは本当は原野でひとり寝をしてみたいところだがクマに襲われると怖いのでやはりペンション泊まりかな。
いや、北海道にもおそらく民宿があるはずである。
格好をかまっていない格安の民宿、それが一番だ。
左様に自然派の上級者はいかにも今風の自然派候とはしていないものなのである。
だが上でのようなことはただ夢みているだけで実際にはわたくしはどこへも行けやしないのである。
何しろなすべきことは山積しているのだし、肩は相変わらず痛いのだし、一緒に北海道へ行って呉れる彼女も居ないわけでただこうしてボーッと北海道に遊ぶ夢を見続けて居るだけなのである。
けれどそのように夢想の時を暫し持つだけであらあら不思議、何やら次第に自分が本当に北海道の地に遊んでいるような気がしてまいりました。
あるいはあの諏訪湖のほとりの北澤美術館でガレやドームの作品を鑑賞している気がしてまいりました。
と言いますか実際には北海道にも行けないのにこういう空想話をここに書く事で日頃たまりにたまったストレスを解消している自分にようやく気付けました。
何、お前のそんな空想話なんぞ聞きたくはないと仰る?
でも岐阜県美術館と北澤美術館と北海道ガーデン街道へは今日行けたのではないですか。
それらも畢竟わたくしの空想力が結びつけた美しいものの羅列に過ぎない。
だが実際その空想力のおかげでどこへだって行けるのだ。
そしてその空想力にこそ文学つまり文字の上での芸術の根っこがある。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1302回) ..2012/09/04(火) 21:07 No.4330 |
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本日は自らに発症した帯状疱疹をネタになるべく楽しく書いてみます。
だが帯状疱疹そのものの話などはそんな気持ちの悪いもの誰も聞きたくもないのであるからして、それを治療して下さるお医者さんの話や病を得た自分の心理などについて書くのです。
まず帯状疱疹ですが是れが実に分かりにくい病気である。
急に腫れものが体に出来るのでなんぞ悪い虫に刺されたか何らかの植物にかぶれたのでないかと思って仕舞う。
特に私のように暇さえあれば自転車で公園や林のようなところを彷徨っている人間にとっては両方共大いにあり得る話なのである。
其の腫れものがポツポツと出来、それらが赤くていやらしい感じだ。
そのうちにカサブタのようなものが出来、何やら余計にいやらしいものとなる。
それも悪いことに私の場合顔面にそれらが出来て仕舞ったのであった。
先の日曜日に流石にこれはヤバいと思い瑞穂区の休日診療所へ行ってみた。
そこは私がいつもサイクリングをしている山崎川の脇にある。
こんなできものは診て頂けますかと受付で聞くとまず医師にみせて下さいと言うので医者に顔を見せたところ診察OKとあいなった。
その医師がなかなか感じの良い方でさわやかであった。
三十五歳位の若い男性医師でおそらく公立の病院の医師ではないかと思われる。
この先生がおそらくは帯状疱疹ですので処方を出しますから薬を服用し軟膏をできものに塗って下さいと仰った。
どうも顔の神経に沿ってできものが出ているらしい。
ちなみに私の場合元々神経の方はどうもヤバいのである。
それも二重の意味でヤバい。
ひとつは神経症的傾向という精神的な領域の方でのヤバさ。
神経過敏、不眠、幼い頃にあった不潔恐怖症などからもそう言える。
もうひとつは原因不明の軽い神経痛のようなもの。
もっともこれはこの二、三年のことで、結局これもこの帯状疱疹のウイルスが悪さをしていたことだったのだろうか。
が、今回の私の帯状疱疹はほとんどが口の周りに出ていてマスクで隠せば分かりゃあしない。
そしてあるとされている筈の痛みがほとんど無いのである。
痛いどころか、むしろまだ毎日暑いので汗だくでマスクをしているとむしろ患部が痒いような程だ。
二、三人のお年を召した看護師さん方が居てそちらでは芝居見物の話なども出て何やらノンビリムードだった瑞穂区の休日診療所は逆に私を安心させてくれた。
それに帯状疱疹ならばまず人に感染することはない筈である。
帰りにスギ薬局で薬を貰い家に帰ってすぐ飲んだ。
本日は病名を確定する目的で午前中に中村皮膚科へ行った。
ここも家から自転車で十分でいけるお医者さんである。
ここは以前偏屈の先生が居て訪れた父や母に病を治すなら兎に角毎日来いと言っていたそうである。
その先生はもう居ないらしく、そのかわりにアンケートで男性医師と女性医師を選ぶ欄があったので我はどちらも可とこたえておいた。
名前を呼ばれたので診察室に入るとそこにはすげえ上玉の女性医師が座って居りびっくりした。
物凄く美人である。
その美人に汚いボツボツの顔を見せていること自体が何やら官能的でさえあった。
その先生は本当に若くて滅茶苦茶綺麗である。
この人はまさしく東京でタレントになれる顔である。あの西川先生などよりもずっと美人なんだ。
その顔がときおり私の顔に接近するのでそこはああ、なんとも良い感じだ。
いや、久しぶりに美しい人間の顔に接近遭遇致しました。
夢ではあろうがもしこういう若くて綺麗な奥さんが貰えたらほんたうに幸せだろうなと考えつつ会計を待っていると、診察室を出たところの壁面に大きな油絵が飾ってある。
そのサインを見るとKUMEとある。
つまりKUME一族の誰かが描いたものだ。
何となく象徴主義の絵画のようにも見えるその巨大な絵は久米先生の親族の誰かが描いたものである筈だ。
なぜそう言い切れるのかというと、元々中村皮膚科と久米医院は親族か何かなのである。
久米先生は私のかかりつけのお医者さんである。
久米クリニックというのをやっておられて、そこは家から自転車で5分位で行ける。
私の二つ上で中学校の先輩である。名古屋市立萩山中学校の。
久米先生が萩中へ通っていたその姿を私はまだしっかりと記憶している。
しかし久米先生はたしか名古屋大学の医学部を出ておられた筈で医学の勉強の方は頗る出来る医師であられる筈である。
事実私はかってこの先生に救って貰ったことがある。
それこそ精神的、肉体的にボロボロだった時に救って頂いたのであり、その時から久米先生は私のかかりつけの医者となったのだった。
先生の専門は神経内科であった筈だ。
美人の皮膚科の女医の見立ての方も矢張り帯状疱疹だった。
帯状疱疹と言っても顔面の目の近くに出来たりすると失明などすることがあり頗るヤバいことになるそうである。
また職場などでも帯状疱疹が額に出来たりするものもたいそうヤバいということを聞いた。
しかしながらこの私の帯状疱疹は次第に良くなっている感じがするのでおそらく大丈夫である。
が、その後も神経痛のようなものは治らないのかもしれない。
ただし、その神経痛とは帯状疱疹自体からのものではなく、前々からある左の頭の中で感じられる偏頭痛のようなものなのである。
それが時にズキッとするのである。
しかし、ややこしいことに私は七、八年前に自宅の階段で転んで首を後部から強く打っているのである。
その後に手足の痺れやら何やらで兎に角大変だったのだが今は余り気にならなくなって来ている。
整形外科や大病院で何ともならなかったその症状を緩和する方向に導いて下さったのが久米先生である。
しかし、当初久米先生は私のトシを六十何歳とパソコンに打ち間違えておられ、かの久米クリニックでは何とわたくしは長年に亘り先生より年上の人だと思われていたのであった。
先生、私は先生が萩中に通っていた頃から存じておりますし先生が三年生の時にはまだ一年生だったのですよー。
あれ、間違ってたね。じゃ、直しとくね。ホントは幾つでした?
久米先生は何というかいまだにいかにもオボッチャマという感じの方で兎に角鷹揚というか危機感がないというかそこが良いのである。
つまり、外見上に限るが私に似たタイプなのである。
久米クリニック http://www.kumeclinic.com/greeting/index.html#news おお、こんなの出来て居ましたー。
私の中学校の先輩の久米 明人先生は本当に見た目以上に名医です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1303回) ..2012/09/06(木) 21:52 No.4331 |
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中村皮膚科医院 http://nakamura-hihuka.com/ ココの一番下に私が診察して貰った美人先生のお写真がある。ガーン、何と二児の母ということだそうである。矢張り美人は早く売れるんだな。
ところで医学とは人間にとって何だろうと思うことも屡である。
ちなみに私は教育と医療の世界については一般のレヴェルよりはほんの少しだけ知識があると言っても良い。
なぜなら若い頃私は公立の学校の御用聞きや塾の先生をしていたのだったしそれとは別に実は製薬会社のプロパーの見習いをしていたこともあったのである。
もっとも其の製薬会社のプロパー見習いをしていた期間は長くはなかった。
その頃はクスリの正確な知識を蓄えるのがまずプロパーの見習いとしての日課だった。
ただしそれらの知識も今ではもうほとんど忘れて仕舞いましたが。
だがその時に名古屋市内や名古屋近郊の開業医や病院をつぶさに回っていたからこの地方のお医者さんのことを少しは知っているのである。
もっとも医者の中にはそれこそ偏屈で鼻持ちならない御仁も居て、クスリのひとつを持っていくだけで粗相の無いよう滅茶苦茶に気を遣う必要があるところもあった程だった。
塾の先生も製薬会社のプロパーも所謂肉体労働ではない訳でそこは元々私のような文弱の徒には向いていたのである。
ただ、製薬会社のプロパーには営業力が必要だったから元々営業力の無い私にはそこが負担となったのだった。
私はものごとについて考えること、ものごとについてお勉強したりすることは大好きなのだが何かを売ったり何かについて宣伝したりということがとても出来ない人間なのである。
だがそんな訳で医療の世界は元々私にとって全然関係の無い世界ではなかったのである。
後に万年筆のコレクターとなって万年筆の取引をするようになると、その頃に薬を配達していた医院の先生が私の万年筆を買って下さったこともあった。
何せこちらは先生のお名前を良く存じ上げておりますからすぐにそう分かるのである。
ちなみにその頃私が配達したり宣伝していた医薬品は市販の医薬品とは異なる医家向け医薬品と呼ばれるものである。
これはおおまかに言って市販の医薬品よりも効力がある薬だと言える。
一般にお医者さんで貰って来る薬は市販薬よりも良く効く。
【医家向け医薬品は薬局で入手できる薬(一般用医薬品)に比べて効果が高い(効き目が強い)代わりに副作用の危険もあるので、疾患知識、医療知識のある医師の処方がなければ、入手・服用することができません。】
もっとも今はそれにもジェネリック医薬品という分野が出来て居る。
ジェネリック医薬品 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%8C%BB%E8%96%AC%E5%93%81/
私などは最近薬はこのジェネリック医薬品ばかりを服用して来て居る。
これは兎に角値段が安い。
そうかと言って危ない薬なのではなくむしろ安心な薬なのである。
今回の私の帯状疱疹のお薬が新薬の方で五千円近いのに対して、ジェネリック医薬品だと何と千五百円であった。
安くて良いものが大好きなわたくしはこういうものにはすぐに飛びつく。
安価なジェネリック医薬品でこのイヤラシイ帯状疱疹をやっつけることが出来ればそんなにスバラシイこともない。
なお突然思い出したのだが当時の上司と一緒にプロパー営業をしていたことがあり、この方がまたいかにも製薬会社の課長さんらしくクラシック通である。
それで一緒に車に乗って居る時はいつも車中にクラシック音楽が流されており、それでこの曲はなんでしょうか、今度のはなんでしょうかと矢鱈と試験をされるのである。
まあ私も一応はクラシック派だったのでそんなことになったのだったが、それも今思えばなかなか楽しい経験だったのだと言える。
シューベルト ピアノ五重奏曲 「ます」 第四楽章 http://www.youtube.com/watch?v=jx57veQRbwA&feature=related
サテ、ではこれなどは何でしょうか?
うーむ、何やら良く耳にする曲ではありますが、どうも曲名の方がスっと出てまいりませんのですが。
へへへへ、「ます」だよ、「ます」。コレがあのシューベルトの「ます」なんですねー。僕はね、この曲が好きなんだよねー。
そうか、これが「ます」だったのか。それではこの際よーく覚えておこう。次に出てきた時にスっと答えられるようにしておこうっと。
こんなことを車の中で一週間程続けていたのであった。
ちなみに薬の世界とクラシック音楽の世界というものにはなぜか昔から親和性があるものなのである。
太田胃散CM http://www.youtube.com/watch?v=FUuJEKQo38Q&feature=related
昔からのおなじみのこの曲も実に良い曲ですねー。
ショパン 前奏曲集 7番 Prélude A-dur, イ長調 op.28-7 pleyel 1831製 http://www.youtube.com/watch?v=Br60whJpegY&feature=related
とのことで、これはかのショパンでありました。
Wikipedia-日医工株式会社 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%8C%BB%E5%B7%A5
当時私が居た会社は今では東証一部上場企業となりジェネリック医薬品の最大手となって居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1305回) ..2012/09/09(日) 22:41 No.4333 |
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フジ子ヘミング ショパン 黒鍵 http://www.youtube.com/watch?v=Iah3retGZvs&feature=related フジコ・ ヘミング ショパン ノクターン第2番 http://www.youtube.com/watch?v=pcJM4Uu2j_0&feature=related CHOPIN : nocturne no.19 op.72 Fujiko Heming http://www.youtube.com/watch?v=fXOJwGO9sEg&feature=watch-vrec Fujiko Hemming - Chopin: Nocturne No.20 cis-moll Op.posth http://www.youtube.com/watch?v=B6HamdhRur4&feature=related
久し振りに聞くショパンも良いものだ。
ところで、病院や医院にもクラシック音楽を流して居るところがありますがあれは本当に良い。
クラシック音楽を聴いているとわたくしは心が休まる。
病のさなかにある時クラシック音楽は特に心を落ち着けて呉れる。
私にとってのクラシック音楽とは結局べートーヴェンのことだ。
だからべートーヴェンのことをいつかは語らなくてはならないのだろうが、最近はほとんど聴いていないので語ろうとする熱の方が全然高まらない。
最近はむしろ自然からの音楽ということに耳を澄ませていることが多い。
自然からの音、自然からの癒しの音ということにより興味がある。
それはあるいは音楽ではないのかもしれぬが、いや、それでも矢張りそれは音楽である。
絵画も音楽も詩も元々みなこの自然の音楽性のようなもののところから発せられて来て居る筈だ。
森羅万象のざわめきのようなもの、そのこまかなさざなみのようなものどもから。
さて話は変わりますが、先月家の近くにコンビニがOPENした。
セブンイレブンである。
セブンイレブンといえばごく普通のコンビニのように思われることだろう。
だが実はこの名古屋に限りセブンイレブンは少ないのである。
それに名古屋からはあのイトーヨーカドーも撤退して仕舞った位である。
ところで、その新規OPENしたセブンイレブンの地所には以前尾関医院という内科の医院があった。
そこは若い頃の私にとってかかりつけの医院だったところだ。
私は昔から良く風邪など引く方だったので、尾関医院の尾関先生には屡診察して頂いて居た。
尾関先生は恰幅の良いいかにもお金のありそうな上品な印象のお医者さんで、かっては公立の病院の病院長をされていた偉い先生であられたそうだ。
その尾関先生は十年程前に亡くなられたのである。
もっともその前から医院の方はずっと閉められており、その医院とは棟続きのご自宅の方で闘病生活を送っておられた筈である。
尾関先生には娘さんが居られかって養子としてあるお医者さんを迎えられたのだったが、その娘さんが早くに亡くなって仕舞われたことで尾関医院の後継者も居なくなって仕舞ったのである。
私は今でも尾関医院のことを良く覚えているし尾関先生のことも確りと記憶している。
そこは何やらオールドスタイルの医院であった。
所謂昔風の開業医なのである。
そこはすべからくがそうだった。
診察室がどことなく薄暗くてそれが逆に居心地が良かった。
尾関先生は何となく信頼感の持てる先生だった。
元々偉い先生でもあったのだし。
そしてその尾関医院へも、私は薬を配達していた。
例の薬の会社でプロパー見習いをしていた時に、幼少時から通ったこの尾関医院へも屡薬を持っていっていたのだった。
ただし薬を渡していたのはいつも受付の看護婦さんへだった。
ここも何故かベテランの看護婦さんばかりで、そこが今思えばかえって安心感に満ちておりなかなか良かった。
最近の医院、病院は何やら妙に明るくして仕舞い私などはかえってストレスをそこで感じて仕舞う。
そうではなくどことなく薄暗くて医院の周りに植え込みとかが多かったりで落ち着ける環境が病人にとっては実は一番である。
一種マニアックな話ではあるが私は一時名古屋の古い医院ばかりを見に行こうとしていたことがあり、たとえばそこへたどり着いたとしてその中にクラシッ ク音楽などが流れていたとするとそれはもう最高であろうかと思う。
兎に角そんな病人に対する気遣いを大事にしているお医者さん、またはもうすぐ潰れそうな古い医院などが大好きである。
最後に尾関先生を拝見したのは、高木病院でのことである。
その頃私は階段で転んだことによる手足の痺れやひどい便秘に悩まされており、心身ともにボロボロの状態だった。
それでその便秘のことで胃腸科の高木病院へ通っていたのである。
そこの診察室で、何とあの尾関先生を見かけることとなった。
私の数人前の順番で診察を受けられているではないか。
尾関先生は高木先生にあれこれと問診を受けられていた。
あのかっては偉かった尾関先生でも結局はそうなるのである。
立派な医師も年老いて病を得れば他の医師に診て貰わなければならないのである。
私はその時にこれで尾関先生とはお別れになるかもしれないなと直感したのだったが、事実その半年後に尾関先生は身罷られたのであった。
その後尾関医院は誰もそこに住むことなく長年に亘り空家となっていたが、今年になりついにとり壊されセブンイレブンに変わって仕舞ったのである。
ショパン 別れの曲 http://www.youtube.com/watch?v=0gM4dWVc0fM&feature=related
Fryderyk Franciszek Chopin(1810-3-1〜1849-10-17)- 死の直前に撮影された写真 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/11/Frederic_Chopin_photo_sepia.jpeg
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1308回) ..2012/09/14(金) 21:28 No.4336 |
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ピアノ協奏曲-Piano Concerto-
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2
Piano Concertoとは以上のようなものである。
Beethovenには素晴らしいピアノ協奏曲が五曲あるのだが、一番有名なのはPiano Concerto No. 5 in E-flat major, Op. 73 "Emperor"で、これが所謂『皇帝』である。
上にも述べられているようにNo.4とNo.5 が優れているとされていて確かにそのことも言えるかと思うのだが長年に亘りBeethovenのPiano Concertoを聴き続けているとどれも皆同じほどに良く思えて来る。
それぞれに良い点があるので、優劣をつけられないのである。
それに私はむしろNo.1、No.2、No.3を良く聴いて来て居る。No.1、 No.2、No.3の方が好きである。
尚BeethovenのPiano Concertoは演奏時間が長い。
だから以下のものを全部通して聴くことは実は大変なことだ。
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 1 in C major, Op. 15 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=8M6hJYe7kGY
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 2 in B-flat major, Op. 19 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=Jy6xNny5kYk
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 3 in C minor, Op. 37 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=39kubVBZa2Y
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 4 in G major, Op. 58 (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=yj66a5res6U
L. v. Beethoven - Piano Concerto No. 5 in E-flat major, Op. 73 "Emperor" (Buchbinder, VPO) http://www.youtube.com/watch?v=atCPmacJDDY
上のものはどうも由緒正しきBeethovenのPiano Concertoといった雰囲気でかなりに良い。
Beethoven Piano Concerto No 1 C major Paul Lewis BBC Symph Jiří Belohlávek http://www.youtube.com/watch?v=AkNZ4dquYSM
Beethoven Piano Concerto No 2 B flat major Paul Lewis , Birmingham Symph N Andris http://www.youtube.com/watch?v=d4TSz57nruY
Beethoven Piano Concerto No 3 C minor Paul Lewis, Halle Orch Mark Elder http://www.youtube.com/watch?v=XhuohHMLeFI
Beethoven Piano Concerto No 4 G major Paul Lewis BBC Symph Jiří Belohlávek http://www.youtube.com/watch?v=HEh9_LGS-LQ
Beethoven Piano Concerto No 5 E flat major Emperor Paul Lewis Royal Scottish National Orchestra http://www.youtube.com/watch?v=paIwbG1NHP8
私はこの英国のPaul Lewisという若いピアニストを全く知らず、ここでも初めはBeethovenのソックリさんを冗談で出演させているのかと思って居りました。
そう思わせるほどにこのピアニストはあのBeethovenに顔の雰囲気が似ている。
それにその迫力のある演奏には本当に参りました。
下でのDaniel Barenboimの演奏と聴き比べてもむしろこちらの方が良いような気がする。
より情熱的でより深い苦悩を感じるからこちらの方が良い。
BeethovenのPiano Concertoは一級の藝術作品だから無論そこには洗練されたものも必要なのだが、Beethovenの音楽は所謂サロンの音楽ではないのであって人生と闘い深い洞察を重ねていく人にしてはじめて生み出すことの出来る音楽の世界なのである。
BeethovenのPiano Concertoはただ美しいのではなくその奥にあるのはBeethoven自身の人生との格闘の記録のようなものだ。
そこで我々はそうした闘いを経た上で醸し出された音を聴いているのである。
それはお金持ちのひまつぶしの遊興の為の曲ではなく人間存在の苦悩にまで響くほんものの藝術作品なのである。
本物の藝術とは常にそうしたものである。
それは重みがあり深さがありそしてどこまでも高く澄んでいる。
Ludwig van Beethoven - Piano Concerto No. 1, No. 2 and No. 3 - Daniel Barenboim, piano http://www.youtube.com/watch?v=NhzuQ46ceoI&feature=related
Barenboim Beethoven Piano Concertos 4-5.avi http://www.youtube.com/watch?v=kVMlGqwXozo&feature=related
ベートーヴェン、ピアノ協奏曲第5 "皇帝" Op.73フリードリヒ·グルダ(ピアノ) http://www.youtube.com/watch?v=FYkd_3q3IfU&feature=related
こちらはオールドスタイルでのBeethovenのPiano Concertoです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1315回) ..2012/09/27(木) 00:39 No.4348 |
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今年は兎に角多忙であることが多く、私にとっては是非必要な山歩きなども出来ないのだしまして好きな鉱物採集をすることなども難しい。
兎に角そこまでの余裕が持てない。心理的な余裕と、時間的な余裕との両方が無い。
然し、依然として石は大好きである。
ところでNHKオンデマンドの方で石の趣味を取り上げた番組が流されていて、それをつい先日見た。
女優のとよた 真帆の石趣味を取り上げたものだ。
おふっ、とよた真帆 石は地球のプレゼント http://www.nhk.or.jp/bswomen/blog/off20120911.html
とよた 真帆は猫が好きであることは知っていたのだが、石の方も好きであることは初めて知った。
この人、石についても結構つっこんだ視点から色々と語れる人である。曰く、
『石に触れることは地球に触れること。』
『地球の一部である石を通して、古代の地球を妄想出来る。』
『私たちが居る今は借り物のようなものなのだから大事にしなくてはならない。』(と石が教えて呉れる。)
女優なのではあるが、おそらく変わり者の一種なのだろうだから私の趣味などとも重なり合うのかもしれない。
そんな訳ですでに人妻のとよた 真帆ではあるが彼女の中には似たものどうしのような部分も見えるから嫌いではない。
面白かったのはドラマのロケなどで山へ行くとドラマのことなどよりもまず落ちている石のことが気になると言っていたことだ。
そこまで行くとすでにかなりの石マニアである。
ちなみに私は市内でも小山などで舗装されていない道などを歩いている時は、大抵道路に敷いてある石、あるいは落ちている石の表面などを良く観察している。
無論良さそうな石が落ちている場合にはそこで拾って帰れそうな石を無意識のうちに探しているのである。
かと言って、私はタダの岩石には興味がなく結晶鉱物のコレクターなのだからなかなかそんな高級な石は道端に落ちていたりはしない。
ところが今ではそうした高級な石もオークションでひっきりなしに出品されている。
国産鉱物9762 北海道稲倉鉱山産一級品の稲倉石 http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r94385595
国産の菱マンガン鉱の良品かと思われる。 菱マンガン鉱は世界的に価値の高い結晶鉱物である。 しかし私はパイロクスマンガン鉱の方を集めているので菱マンガン鉱は持っていない。
尚この標本、海外の一級品のものなどは非常に高価なものとなる。
国産鉱物9747 田口鉱山一級パイロクスマンガン http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g113548552
これではとても一級品には見えないが二、三級品としては比較的良品。 ただし結晶が細かくて迫力はない。
田口鉱山産のパイロクスマンガン鉱は年々良いものが市場に出回らなくなっている。 今後は良品を得ることがほぼ不可能なこととなっていくことだろう。
TC国産鉱物 岐阜県産 柿野鉱山 緑水晶(美) http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b139512905
一級標本。こういう標本はとても高くなることだろう。
国産鉱物9742 和田峠産一級品大きなざくろ石 http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f120129905
まさに一級標本。こういう標本はとても高くなることだろう。
尚八月の終わりには毎年恒例の名古屋ミネラルフェアに行って来た。
二年振りにである。
そこでパイロクスマンガン鉱の標本をひとつだけ購った。
それは個人の鉱物収集家が出されていたもので、その方のコレクションのひとつであるということだった。
品質の方はとても一級品には届かないのだが、それも今なら良品と言えるものなのかもしれない。
その方は川辺 伸一さんといわれ、鉱物の本まで出されて居る地元の愛好家である。
標本の値段をまけていただくことは出来ず、その代わりに『鉱物化石アルバム 鉱物編』という冊子をおまけに付けて頂いた。http://outdoor.geocities.jp/kuromaoko/atenoisi.html
その川辺さんの販売ブースのところで石談義に花を咲かせていたところ、二十歳位の青年がやって来てしきりと私が見て居るパイロクスマンガン鉱の標本のことを気にしているので、そこはこちらが物色中ながら嫌がらずに見せてあげた。
そしていつしか色々とこの石の良さを講釈する側に回っていた。
「この結晶は真の意味で価値があるのだ。ほかの石を買う位ならこの地元のパイロクスマンガン鉱の結晶を是非求めるべきなのだ。」
川辺さんは私より十歳位年上の方で以前は県立の学校の教師をされていた方である。
今はご自宅で爬虫類を含めた動物などを色々と飼っておられるらしい。
石の方では何せ、共に田口鉱山へは何度も入坑したことのある立場である。
だから田口鉱山のパイロクスマンガン鉱の結晶の魔力のようなものについては互いに良く知って居る訳である。
そうこうするうちに、二十歳位の青年は予算の面からパイロクスマンガン鉱を諦めアンモナイトの化石の方の値段交渉をし始めて居た。
それで私はそのパイロクスマンガン鉱を贖うことにした。
それは結晶の大きさはまずまずでもびっくりするような標本ではないのだがいかにも坑道内で石を割って採った標本らしく母岩が大きいものである。 http://box.c.yimg.jp/res/box-s-pvc74txpcj7qwqyludwvupdvj4-1001?uid=2da0cff6-5b1a-4433-98e2-f05b2d08ae0f&etag=263f737c1348664084121168
川辺 伸一さんは他にも色々とパイロクスマンガン鉱の良晶を持っていられる様子である。
それを見てみたいなと思っていたところ、「また家へ来て頂ければお見せしても良いですよ。」と言われ感激である。
いずれにせよ鉱物の世界もこうした稀産鉱物の場合は人づてに良晶が舞い込む可能性もまたある訳である。
近いうちに是非川辺さんのお宅を訪れてパイロクスマンガン鉱のコレクションを拝見してみたいものだ。
ちなみに名古屋ミネラルフェアは良いパイロクスマンガン鉱と巡り合う確率が世界で最も高い鉱物フェアである。
パイロクスマンガン鉱の良晶の地元に住んでいてほんとうに良かったな。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1319回) ..2012/10/01(月) 22:59 No.4352 |
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私がこんなに石のことを好きなのは、それは単に物欲というよりもつまりは地球を愛する気持ちの表れなのではないかと思わないでもない。
私は他に化石ーそれも三葉虫ーなども少しだけ好きなのであるが、それは地球を分析して調べたいという理科系の人間の探求意欲から発していることではなく 単に自分のカラダの延長線上にある花鳥風月山川草木の世界が大好きだということに過ぎないのである。
ただそれが現生のものよりも古いもの、古い起源を持って生成されたものであることがなぜか私の感性にはピタリと来るのである。
石なども兎に角古いものであるのだから、この私の先祖返りのような思考方法とどこかしら相性の良いところがあるのやもしれない。
私は昔星星の世界が好きだったのだけれど、その星星の世界は生命の存在しない冷たい世界であった。
恒星のように常にボウボウと燃え盛っているにしても結局それは冷たいのである。
ところがこのイノチに満ち溢れた地球の石はどうも冷たいばかりではないような気がする。
その点地球は少し特別である。
大昔にコペルニクスやガリレオのおかげで人類は地球だけが特別な天体ではないという近代的かつ理性的な宇宙観を手に入れたのではあったが、私は今それとは逆方向へ戻るような考えを持ち始めているのである。
すなわちどうも地球は特別である。
そう考えておいた方が何でももっと地球上のものを大事にしていける気がしている。
私は今理性のみに傾き過ぎた現代人の認識方法に大きな違和感を感じて居る。
だから地球にもその子である石にもタマシイのようなものがあっていい筈だ。
そこには無論精神の働きなどは無いがたとえば石魂のようなものがあるのではなかろうか。
無生物と生物の境目は現代科学の力を持ってしても依然として曖昧である。
無論石が生きて居るはずもないことだが、たとえば我々のカラダの中には石を構成するものと同じ成分が随分詰まっている。
骨だって、歯だって、それらはほとんど石のようなものではないか。また胆石というのは結局石なのでしょう?
ところで私は今緑水晶に凝っている。
緑色の石が特に好きな私は緑水晶にも前々から興味を持っていたがなぜかこれまでは余り縁がなかったのである。
緑水晶なんぞよりも緑柱石ーつまりエメラルドーの方によほど興味があり緑柱石の原石だけは少しばかり集めてきているのである。
エメラルドの良質な原石は常に憧れでもあるのだが、エメラルドの良質な原石は大枚をはたかないと手に入らない。
質の良い大粒のエメラルドは世の金持ちの男共が大枚をはたいて求めソレを八頭身の美女に呉れてやったりすることのためにこそ在る。
TC国産鉱物 岐阜県産 柿野鉱山 緑水晶(美) http://page2.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/b139512905
さて久し振りにヤフオクで石を落札致しました。
矢張り柿野鉱山産の緑水晶は魅力です。
ヤフオクで柿野鉱山産の緑水晶の良品を見かけるのは三度目でしたのでつい応札して仕舞いました。
まだ石は来ておりませんが、何やら楽しみです。
鉱物界の有名人の杉森氏の個人コレクションだった石なのだそうで、そこは年甲斐もなく結構ワクワクしています。
緑水晶がとても魅力的なものであることを知ったのは一昨年の名古屋ミネラルフェアでのことだった。
小さいがとても美しい色の緑水晶がとある店に出ていたのだったが、安かったにも関わらず購入するかどうか迷っていた。
すると私の横から急に白いしなやかな腕が出て来て、その標本をかっさらっていったのである。
若い女性がその標本を買って行ったのである。
その時に私は、その緑水晶の美しさはその女性にこそ良く似合うだろうとなぜか思った。
それはとても繊細な標本だったのである。
男性的ではない、まさに女性的な美しさを持った標本だった。
ちなみに鉱物フェアには女性が沢山来て居る。多分来場者の半分位は女性である筈。
岐阜県柿野東洞の灰鉄輝石と緑水晶 http://mineralhunters.web.fc2.com/higashihora03_12.html
柿野鉱山跡では灰鉄輝石と緑水晶が採れるはずでこれがどちらも緑系の渋い色の鉱物で私好みのものなのだ。
以前から一度は行きたいと思っていたところながら、結局は行けずじまいで終わって仕舞いそうだ。
今でも行けば何かは採れることかと思われるのだが、何せ日本の鉱山の規模は小さくそれも大昔に石を掘っていたところでのその捨て石の中から石を探し出すのであるからそんなものはやがて採集者に採り尽くされて仕舞うのである。
だから日本の鉱物採集趣味はおそらく今ほとんど末期状態の様相を呈しつつあるのではないか。
地元愛知の石はもう採れないのだし、おそらく岐阜や三重の石ももう採れないことだろう。
兎に角石の愛好家が全国からひとつの有名産地に集中して訪れたりもしているので、そこでは良い石などすぐに無くなって仕舞うのである。
特にネット時代になり余計にそれがひどくなりつつある。
そこに産地の情報が載るから高速道路を使って遠いところから石を採りに来るのである。
然し、今はネットで現金採集をすることも出来る訳だ。
地元の石のみならず世界中の石をネットで集めることも出来るのだ。
http://box.c.yimg.jp/res/box-s-pvc74txpcj7qwqyludwvupdvj4-1001?uid=836aa8a4-c592-4cb7-ab6b-79b1e5e1545d&etag=6b4c49911349096038112543 尚私が持って居るこの緑水晶の標本は甲武信鉱山産のものだったと思う。 緑水晶は実物の方が良くまた渋い色合いなので一種玄人好みのする水晶趣味である。
緑水晶いろいろ http://voidmark.fc2web.com/quartz/quartz4-2.html
ここにもあるように緑水晶の緑色は石の中に混じった内包物の色だということらしい。その内包物にも色々と種類があるようだ。
緑水晶 553<ギリシャ> http://www.ns-mineral.jp/item_view.php?i_id=14578&PHPSESSID=373e23097dabed794359cad5088ff141 ギリシャ産の緑水晶はことに有名である。
私もこれをひとつだけ持っていて、それはどこかに仕舞ってあった筈である。
緑水晶を眺めていると心が休まる。 色々と疲労がたまっている時などは特に優しく癒して呉れるようだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1320回) ..2012/10/02(火) 22:12 No.4353 |
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玉には軟玉と硬玉があり、高級限定万年筆の軸などに使われるのは主に軟玉の方である。
ところが純粋な意味で宝石となるのは硬玉の方で、こちらの方が本翡翠と呼ばれるものである。
翡翠は世界でも産地が限定されており、東洋や中米などにしか宝石質となるものが産出しないのでそれは白人種の為の宝石ではなく有色人種の為の宝石であるように見受けられる。
実際翡翠は東洋人には人気が高い。
特に日本人は翡翠が大好きなのだそうである。
日本人のお金持ちの家には良い翡翠のひとつ位は大抵ありそうなものなのである。
尚家は金持ちではないが本翡翠の指輪のひとつ位はある。
それは無論私のものじゃなく母のものですが。
実感として、翡翠は本当に特別な石だという感じがする。
この石、微細で緻密な結晶が絡み合ったような形でできており、だからこそ物凄く丈夫で、つまりは堅い。
実際の硬度の方は実はそれほどでもないのだけれど、兎に角強靭な石で割ろうと思ってもなかなか割る事が出来ないのである。
そして翡翠の表面にはその微小な結晶が浮き出ているものが多くそれがキラキラと輝いていてなかなか美しい。
あるいは滑らかなスベスベの肌のようになっているものもあり、こちらの方はまた物凄く手触りが良い。
実際翡翠というのは触ってみるととても気持ちの良い石なのである。
またその気持ち良さが、他の結晶宝石鉱物と比べると何となく温かいような類のものになる。
だから翡翠は握り石にすると大変気分がよろしい。
握り石というのは私の場合何か考え事をしている時に左手の方で握っている石のことを言う。
無論右手の方には万年筆を持っているが、左手の方には何らかの石を握っていることが多い。
されど本翡翠の世界は奥深い。
本翡翠にはピンからキリまであり、上等な石は数百万円程することもザラにあるのだしその一方では採集品の翡翠などはヤフオクで千円程で買えないこともない。
つまり翡翠はその質や価値に大きく幅がある。
また翡翠は鑑定の方も極めて難しい。
そこは翡翠のプロでも間違ってしまうこともあるらしい。
糸魚川産 翡翠 http://www.moonmadness.jp/itoigawahisui.html
こちらは翡翠のことが非常に分かりやすく、詳しく書かれている。
特に糸魚川産の翡翠のことについても色々と書かれているのでその部分は貴重な資料となる。 ちなみに現在でも採掘が続けられているミャンマー翡翠にはごく稀に素晴らしい宝石質の石が採れてもいるらしい。
一方糸魚川産の方は現在天然記念物に指定されて仕舞って居るので、それをどこぞで掘って採った来たり川原の石を持ち帰ったりするとすれば即お縄となる。
糸魚川産の翡翠の場合かっては素晴らしい石が採れていたことだろうが、何せ今は天然記念物指定区域外の海岸などで根気良く探して拾ってくるほかないのである。
そして日本人の鉱物コレクターにとってはどちらかと言えば糸魚川産の良質の翡翠を得ることの方がより価値が高く感じられる。
ただ、ミャンマー翡翠の最高級の石はそれこそもうとんでもなく美しいもので、そこは日本人の鉱物コレクターだろうが何だろうが即座に飛びつきたくなるほどの魅力を持って居る石なのだと言える。
尚翡翠というのは隣国の中国でも古来より珍重されて来た石なのである。
ただし、中国では本翡翠は採れず本国で採れているのは軟玉の方である。
それでも清朝の装飾品などには本翡翠の極上の石を使ったものが多くあったのである。
中国は丁度今日本とは関係が悪化しているところなのだが、そこは同じ翡翠を愛する東洋人同士が何でもっと仲良く出来ないものなのだろうか。
私も昔中国の万年筆を良く買ったのでとある中国人の出品者の方が中国の天目茶碗など下さったりしてそのことがとても嬉しかったのだったがそうした関係がなぜ築けないのであろうか。
尚その中国で、少し前から翡翠が高騰しているということをご存知だろうか? 翡翠の価格はこの十年で十倍に高騰しているのだそうだ。 今では1オンス(約28グラム)あたり3000ドル近いのだそうだ。
また本翡翠の産地のミャンマーにおける翡翠のオークションでは実質上中国人に翡翠が買い占められているそうである。
だから本翡翠の何かを沢山持って居る日本人のお金持ちの方は、今すぐに中国へ行きそれを全部売って来れば随分儲けることが出来る。
が、この翡翠高騰の風潮が日本にもやって来ると当然日本の市場でも翡翠が値上がりすることになる。
ただしこの翡翠によるマネーゲームはなんだかバブリーなものでいつ終わりを迎えるものか分からないようなものでもある。
恐るべし、この本翡翠。
だが翡翠は常に美しい。
この石には様々な色合いがあり、極めて美しく、そして堅牢で価値のある特別な石なのである。
日本翡翠情報センター http://www.japanjade-center.jp/archaeology2.html
こちらも読み応えのある日本産翡翠の情報サイト。 ここを全部通して読んでみると勉強になります。
お知らせー多忙の為3日間ほど書き込みをお休みします。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1327回) ..2012/10/12(金) 23:00 No.4360 |
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熊さんが言うには、大橋堂のIさんはガレやドームのガラス工藝作品が大好きなのだそうな。
なるほど、まあ確かにガレやドームの趣味は高尚な西洋アンティーク趣味である。
大橋堂の手作り万年筆が沢山売れるとすればたしかにガレやドームのひとつやふたつは買えそうである。
その大橋堂から丁度我が家にも手紙が来て、そこにはこの10月に名古屋丸栄百貨店に来るということが書いてあった。
ちなみに名古屋丸栄百貨店にはかって私の行きつけの万年筆売り場があり、その関係で丸栄百貨店の催し物の際に私の万年筆を二度程展示させて頂いたことがあった。
万年筆売り場に入っていたその会社は丸栄からは撤退したが今でもアマゾンなどを中心に万年筆を売っている。
http://www.junkudo.co.jp/tenpo/shop-maruzen_nagoyasakae.html
その丸栄にはなんと今あの丸善が間借りをして入って居る。
丸善が入って居たビルは今建替え中らしいので、多分新たなビルが出来るまでのことなのだろう。
もっとも私は近頃どこにも行かなくなって仕舞った。
今物はネットで手に入るので物の入手の為にわざわざ動くのが億劫である。
が、熊さんは行きつけのアンティークショップがありいつもそこへ行っているのだという。
アンティーク 益源 http://locoplace.jp/t000097908/
熊さんは週に一回位の割合でこの店に通っているのだという。
それで私も先日熊さんと一緒に訪れてみたが意外と小ぢんまりした店で万年筆に限ってはほとんど何も無い店であった。
ただし腕時計の方は色々と置かれている店である。
だが万年筆はおそらく60年代の物と思われるパーカー75が一本あるきりだった。
我はと言えば傍若無人にも店に初めて訪れておきながら自分の万年筆をケースの上に並べたりしてつい熊さんに講釈をしてしまったため、多分物凄く悪い印象を店の人に与えたことかと思う。
どのみち万年筆は無い店なので以後頻繁に行くようなところではない。
が、ガレとドームだけは僅かながらあったのでそれを見に今後も年に一度位は行くことになるのかもしれない。
アウトドアクラブーウイリアム ヘンリー作 http://www.odclub.net/knife/knife_wh.html
その益源の近くに移転した熊さんの行きつけのナイフショップのアウトドアクラブへも共に行き、そこで様々なナイフの数々を拝見したのであったが、 その中ではことのほかこの作家物ナイフが気に入りそこに強い物欲を感じたのであったが、何せ値段の方がべらぼうにお高く入手することは現実的ではない。
それでも手にとって見せて頂いたところ、それは本当に素晴らしいものだった。
元々私は机上でも文房具として使えるような小振りのナイフが好きでこのナイフもそうした類での上限のサイズのナイフにあたるものだ。
尚文房具としてのナイフという面では、古い英国製の小振りのナイフやかってカスタムナイフメーカーの鹿山氏が作ったという小振りのナイフなども幾つか置いてあった。
http://www.odclub.net/knife_custom/knife_shikayama.html
その古い英国製の小振りのナイフの方は羽根ペンを削るナイフから派生したものだと熊さんは言う。
だとすればそれはナイフであるとはいえ元々ほとんど文房具のようなものなのだ。
またこうしたものはあのヴィクトりノックスやウェンガーなどの徳用ナイフなどよりもまだ華奢に作られている。
これで戦闘などはどう考えても出来ないからこれらはナイフでも文房具の一種のようなものなのである。
私は昔からそういうナイフが一番好きなのである。
机上で鉛筆などを削るのに向いた、そして上品な装飾が施された華奢なナイフが好きなのである。
謂わば万年筆と並べて置いてみていかにも似合うような文房具としてのナイフが好きなのである。
従ってそこは無論日本製の肥後守などでも良い。
良いのだが、もう少し趣味性の高いナイフとして、たとえばアンティーク萬年筆と並べて良く似合うような文房具としてのナイフが一番欲しい。
ああ、然し、確か我はすでにそうしたナイフも持っていた筈である。
それは小振りのナイフでラピスラズリの限定ハンドル材のものがどこかにあった筈だ。
全くいざジジイとなると物忘れ=物を持って居ること自体を忘れる、という現象が増えてくるので実に困る。
和式ナイフ http://www.odclub.net/knife/knife_wasiki.htm
たとえば山や森などでハードなアウトドア生活を行う場合にはこの和式のナイフが一番重宝することだろう。
いずれにせよ、万年筆にせよ、ナイフにせよ、はたまたガレやドームにせよ、趣味の世界のものはやはり見ていて楽しく一種夢のある世界のものである。
最近現実の世相の方が余りに夢の無いものになってきているので、たまにこうした趣味の世界に暫しの間遊ぶともう楽しくて楽しくて仕方がない。
究極的にはモノは己を救って呉れる訳でもないとしても、夢の拡がりのある世界はいつも甘美で私をうっとりとさせて呉れるのである。
その後熊さんとは仕事の上での悩みを互いにさらけ出しながら本音で語り合った。
全く生きていくための本当のところは人生悩みだらけで甘美なことなんぞ少しもありはしない。
人生は九割方位は常にキビシイ。
だが甘美なものである何かもまた一方に確かにあるのではないか。
それが何から得られるものであるかは人それぞれであるにせよ、この私や熊さんのようなモノオタクの場合には物から得られる安らぎのようなものも確かに大きいのである。
もっともモノなんぞ必要ないと言って酒ばかり飲んでいる人も会社には居るが、この二人のオタク振りはそれと比べればいかにも罪の無いものなのではあるまいか。
飲む、打つ、買う、ことはせずにいまだに母と同居している共に五十過ぎの熊さんと私はこうして休みの日にモノによる甘美な世界を求め続けて市内のあちこちを彷徨って居るのであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1333回) ..2012/10/25(木) 00:10 No.4368 |
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現代における諸々の悩みが自己の内側に限れば気にならなくなって仕舞う様な特権階級層であるならばまだしも、私のような庶民はこの狂おしくもバカバカしい人生の悩みをたとえば有り余る程の金のチカラで紛らわせてみたり、或いは自らに与えられし肩書きすなわち権威的なチカラで紛らわせてみることも出来ない訳で、それでは一体何でストレスの解消を行うのかという段になれば、結局普通庶民的には所謂飲む、打つ、買うのいずれかでそれを解消したりして居るものなのである。
が、それもすでに昔の話となりつつあり、今の男性庶民諸氏は兎に角すべからくに雁字搦めにされつつありそんな豪快な遊びの中には逃げ込めないのが実情なのであろう。
その点私は女房も居なければ子供も居ないので、その分その雁字搦めの度合いが普通よりは緩いかとも思われるのだが、その分思索や文学やといったより大きな視点、ないしは宗教などといったそれ以上の大きな視野へも首を突っ込んで居るのでむしろそちらの方面での雁字搦めの度合いが大きく実際にはワタシもアナタと全く同じで身動きなど取れやしない。
もし私がプロの作家か詩人であるならそのプロの作家か詩人であるという権威の中にでも逃げ込んでそこで諸問題につき言いたいことを言っていれば良いのであるからそこはもう少し楽なのかもしれないがそれもすでに五十を過ぎてそうはなれなかった男の言って居ることではない。
それで我は一体何でそのモヤモヤを解消するのかという話となり、モヤモヤは自称の詩人として結局詩を書く事で解消できるのではなかろうかと思いそのようにしてみたのだが昔と違ってなかなか切れのある詩などは書けやしない。
いや、それでもほんとうは書かなければならないのだけれど、それは書こうと思って書くのではなく自然に湧きいずるようなものなのでそういう意図的で不自然なのはよろしくない。
では何でこのモヤモヤを解消するのだ?
あの久米先生みたいに金持ちならばバセロンコンスタンチンかパテックフィリップでも買って左手に巻きつけて居れば良いのだろうが自分の経済力ではあいにくそれは出来ない。
自然?
なにより自然は一番だが何せ自然に親しんで居る暇が無いと来て居る。
仕事?
アホか。仕事で与えられるのは消耗だけなのだよ。
万年筆?
すでに現代の万年筆には飽きたから興味ありません。
萬年筆?
古典のペンには大いに興味はありますが萬年筆でタマシイまではなかなか救われません。
宗教?
まあ昔は首を突っ込んで居たこともあったが今はどうもね。兎に角暇もないのだし。
女?
女は罪深すぎて元々わたくしの性には合わない。
なんだ、すると結局すでにどうしようもないジジイではないか。
飲む、打つ、買う、または高額消費することが出来ずかつ詩を書くことも出来ないただの若ジジイ。
その若ジジイが、二週間ほど前に急に思い立ってゴルフ練習場へ行ってみたのである。
二年ぶりにである。
25年もの間続けていたゴルフをやめたのは色々と理由があった。
まず青年の時の世の中ぜんたいに対する真摯な思索の姿勢を取り戻そうとして意識的に昔の自分に戻ろうとしたこと。
それで哲学や宗教のことを再び考えようとしていたのだ。
まあそれはそれでひとつの立派な志である。
なぜなら五十過ぎのひとり身の奴は段々としなびて行くんだ。
少なくとも私の周りではみなそうである。
段々汚くなっていく。
そうしたところに落ち込まないようにするには不断の努力が必要だ。そこに強固な意志の力が必要である。
だから無論そこは宗教などでその状態を保ってもいい。
が、どうもカラダの方がガタガタだ。
五十肩、歯槽膿漏、水虫、関節が痛い、など聞いているだけで胸が悪くなる話ばかりだ。
この有様で一体どこが自称詩人なのだ?
この図書談話室はその歯槽膿漏と水虫の巣窟なのか。
読者の皆様がなんぞ高級な話を期待されてここを覗かれているというのにそこで槽歯膿漏と水虫の話しかできぬのか。
それが、不思議である。
金木犀の植え込みに囲まれた広大な山の中の練習場で私は生き返った。
アレ、なんと爽快なんだ。
実際五十肩も歯槽膿漏も水虫もみな治まった。ーように感じられる程に気持ちいい。ー
左足の足首の関節の痛いのだけは流石にかえって悪くなりそうなのだがまあそれも動いていれば治る、治る、きっと良くなることだろう。
嗚呼、なんて気持ちがいいんだ、体を動かすことは。
私はその時に至福の感覚を与えられた感じがした。
やはり人間は観念の世界にだけ生きて居られるものではない。
かなりに観念的な人間であろう筈の私から見てもそのことが明らかに言えるのである。
結局それから三度も練習場へ通っている。
かぐわしいあの金木犀の香りに包まれて、一心不乱にあの小さな球を打ち続けて居る。
なんだ、文学より、あるいは宗教よりこちらの方が余程に良いのじゃないか。
いや、それはそうなのではなく、あくまでバランスの問題なのである。
文学や宗教だけが私にとって大事なものである訳ではないのである。
実はゴルフの方も私にとっては大事なものだったのである。
よし、これで独身として崩壊していくことを止めてみることとしてみよう。
ちなみに適度に行うスポーツがいかに体に良い影響を及ぼすかということが以下に書かれている。
スポーツと健康の話 http://www.hospital.ne.jp/regular/sports/sports.html
こちらが真の健康の為のスポーツについて書かれている部分。
スポーツと健康 http://www.okinawa.med.or.jp/old/ippan/saijiki3/sai34.htm
ただしやりすぎたりするとかえって良くない。実際競技スポーツは何らかの権威化のために行う倒錯のスポーツである。
特に世に言われるところの所謂文弱の徒は詩などばかり書いていないでスポーツをした方が良いのである。
自称の詩人に限れば、詩はいつでも心の底の方に溜まっているものなのでそんなものはいつでも書ける。
迸り出る時が来ればそんなものはいつでも自然に書けるものなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1375回) ..2013/01/14(月) 23:51 No.4427 |
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昨夜2009年に公開されたジェームズ・キャメロン監督の映画『アヴァター』(Avatar)を初めてTVで視聴した。 しかしながら実は途中で用事が入り三十分程は見られなかったのだったが、その後は無論最後まで視た。
非常に面白い映画だった。 何が面白いのかと言えば、現代社会に対するメッセージ性が込められているという点で特に感心した。
流石はジェームズ・キャメロン監督の映画である。
この映画に於けるそのメッセージとは、つまりは環境問題のことである。
それも未来に於いて宇宙規模で繰り広げられている人類による環境の収奪行為に対する批判が鋭く込められて居る。
この映画には参った。
こんなに凄いものだとは全然思っていなかった。
どうせ3Dという映像新技術を駆使したただの客寄せの二流SF映画だろうと思っていたのでまさかという感じだった。
映画の世界は凄い、と改めて思い至らせて呉れたのがこの映画だ。
だがこの映画が史上最高の興行収入を記録しているということについてはかえって分からなくなった。
なぜならこの映画の筋が一般性のあるものだとはとても思えないものだったからなのだ。
それは文化相対主義を標榜するかのレヴィ・ストロースによる文化人類学的な発想のものである。
Wikipedia-文化相対主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%8C%96%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9
それは欧米中心の価値観による世界侵略を許さない構えのものである。
だからそのことが分かった上で一般大衆がこの映画を視ていたのかどうかという点についてははなはだ疑問である。
きっと分かっていない人も多かったに違いない。
この映画は私のような変わり者であってこそ初めて真に受けるような内容となっていて、それはある意味で欧米中心の価値観であるキリスト教という一神教とそれに基づいて組織された諸々のシステムを否定しているものだ。
実際この映画では地球の軍隊は惑星の侵略に失敗して全部滅びるのである。 そして惑星の原住民=宇宙人が原始的武器でもってして地球の未来兵器に立ち向かい勝利を勝ち取るのである。
それはたとえばかのアメリカ・インディアンが白人の軍隊を絶滅させるようなものなのだ。
だからこの映画は西欧中心の価値観を破壊しているという点で、しかもそれを一般大衆に向けて発信しているという点でまさに画期的な作品だったのだろうと思う。
そして戦いに勝った側の原住民=宇宙人たちは何と汎神論的な世界観の持ち主だったのである。
「自然の中に神が宿る」という惑星の原住民=宇宙人が持っている思想はまさにアニミズムの思想なのでありそれは「自然の中に神と佛が宿る」という私自身の思想と共鳴するものでもあり得る。
だから私は心の底から気分よくこの映画を視て居られたのだ。
まさに爽快な気分でこの映画を最後までみることが出来た。
そしてその直後に私はアマゾンの買い物リストにアヴァターのDVDをしっかりと入れて居た。
無論もう一度是非全部通して視てみたい映画だからこそそうしていたのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1398回) ..2013/03/06(水) 01:15 No.4458 |
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私は今職場で「先生」という渾名で呼ばれて居る。
その渾名を付けたのは大学の先輩のSさんである。
何でも私がその甘ちょろい風貌に似合わず大所高所からものを言う癖があるのでそう名付けたものらしい。
それと、一緒に居るとどことなく学校の先生の雰囲気がすることもあるのだそうだ。
ただしその渾名には多分に揶揄の部分も入っており、それはいつも作家のようなことを言っている癖に本物の作家ではないことを茶化した意味が込められて居る。
つまり「ニセ作家先生」というのが短くなって「先生」となっているらしい。
だが私は本当はニセ詩人の方なのだ。
だからつまりは似非作家で似非詩人の似非先生なのだ。
然しながら世を憂うる気分に偽も本物も無い。
その本物の世を憂うる気分を持って居る者こそが作家であり詩人なのである。
先輩は4つ年上で私が大学へ入った時にはすでに卒業していた人である。
学部は違うが、兎に角先輩である。
この先輩がなかなかユニークな人だ。
営業畑の出身の人で、組織の上での社交術などは元々シッカリ身につけて居る。
つまりは人のご機嫌をとるのが上手い。
そういうのは元々の彼の性格かと思っていたのだったが、一年以上一緒に仕事をしてみるとどうもそうではないと感じられるようになった。
どうも一種の重苦しい部分さえ心に抱えているのではないだろうかと私には感じ取れるようになって来た。
S先輩は、現在の仕事上での私のパートナーである。
職場では比較的古株で色んなことを良く知って居る。
だが、彼は余り皆から尊敬されたりはしていない。
その代わりに、皆に好かれている。
そこが先輩の人間力としての価値のようなものなのかもしれない。
私はといえばその逆で人に好かれることなどは稀である。
所謂人好きのしない奴、とっつきにくい奴なのである。
もっとも私はそのとっつきにくさを変えていく気などサラサラ無いのだ。
そのとっつきにくい人間だからこそ見えているものが違うということはある、と固く信じて居る部分さえもがある。
だから私は職場でも適当にその場の雰囲気に合わせたりはしないのだ。
いつも職場を根本的に改善しなければならないとそのことにばかりエネルギーを注いで居る。
ちなみに先輩は血液型がO型で、私は典型的なA型人間だ。
彼は外面が良すぎるというのか、実際妙に愛想が良く、それで当初この人はアホではないかといつも思っていたのだったが、結局そうではないことが分かりそこで初めて心の絆が結ばれた気がした。
そうなる前は口喧嘩ばかりで本当に酷かった。
なんだ、お前は。妙に神妙なその顔つきばかりでなく考え方自体がとっつきにくいんだよ。少しは融通がきかんのか、融通が。
なんだ、アンタこそ先輩ツラして一体何やってるんだ、この真昼間からウツラウツラしたりせずにちゃんと真面目に仕事しろよ、真面目に。
ところが、あることがきっかけで喧嘩しなくなった。
それはひょんなきっかけでS先輩が私の側の世界に入ってきたからなのだった。
数ヶ月前、我々は職場でTVを視ていた。
先輩が相変わらず民放のくだけた番組をみたがるので、私は時には一緒にお勉強しましょうと言い教育TV(今のEテレのこと)の方にチャンネルを変えて仕舞った。
すると、そこではかの「夜と霧」に関しての番組をやっていたのだった。
言うまでもなくそこではナチスが行った暴虐の行為の数々や著者である精神科医フランクルの強制収容所体験とそこから導かれた思索などが語られていた。
その重く深い内容はそれだからこそ先輩の心の扉のひとつを開いていったのである。
其の後それまで職場では開いていなかった心の部分を先輩は私にだけ開くようになってくれたのだった。
以降我々は多くの社会問題について語り合った。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1421回) ..2013/04/18(木) 00:50 No.4487 |
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Wikipedia-トパーズ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BA
嫋やかな野の花たち http://www15.plala.or.jp/gemuseum/gestry-wldflwr.htm
薔薇に刺ありーバラにとげがあるように、美しいものには人を傷つける恐ろしい一面があるということ。西洋のことわざで、“No rose without a thorn.(とげのないバラはない)”の訳語の一つ。どんな美しいものにも醜い一面があるの意にも解する。ーというが、転じて美しいものには刺があるというふうにも言えなくはないことだろう。
だが、美しいものは本来美しいのであって、そこでどうも完全に美しいと言い得ることも出来る筈だとわたくしなどは思うのである。
それはどういうことかというに、自然物である美はほとんど永遠にそのままに美しいということを言って居ることなのである。
美しいものにトゲがあるのは、それは欲望やら妬みやら金の力やらが絡む醜い俗世においてのことで、天然無垢、無垢清浄の完璧な調和の中にある自然そのものの美にはそんないやらしい醜い一面は、そこで持とうとしても持てないことではないかと思うのである。
つまるところ恐いやら汚いやらトゲトゲなのは常に人間の心の中の側にあることなのであって、自然物そのものの清浄にして静謐な美の世界のことはそれらと完全に切り離しておくべきだと私は常常考えて居るのである。
そのような視点で、この薄汚れた人間界でお仕事をして来たことのための其の疲労を除こうと思い、こうして夜に人知れず鉱物と戯れていることほどすがしいことはない。
こうしてここにある、私が集めて来た宝石鉱物は美しいが矢張り刺は無い。
これらは金や銀とは違って資産価値が生じるようなものではない。
無論宝石鉱物でも極上のエメラルドやルビーの原石であるならばその限りではない。
そういうのは原石でも大変な価値の石となることだろう。
だが私は金持ちだという訳ではなく、むしろ常に金欠病の方の人間なのでそんな石などは買いたくても買えず自分に見合った石だけを集めて来て居る。
それももし鉱物の方がメインの趣味であるならもう少し良い石が集めて来られたのかもしれなかった。
然し、わたくしのメインの趣味は萬年筆の収集と決まっているのだ。
しかもゴルフの方もやる。
そうした金のかかる趣味を複数持ちながら、何と宝石鉱物の収集にまで手を出して仕舞っているからそこでは一級品の石などは集まって来ない。
だが、石に夢を見られること、その夢である現実の石が私の荒れた心の内側を優しく癒して呉れること、そのことの為に、そのことの為だけにこうしてわたくしは今宵も石たちと戯れて居る。
さて私の好きな石のひとつにトパーズがある。
これは黄玉と訳されるが、実際にはブルーもありレッドもありゴールドもありで華やかな色合いを持つ華麗な石である。
その華麗な石は主に海外産のもので、これは原石の質の良いものでも比較的安価に売られていたりするから収集し易い。
原石の質の良いものであれば高価なものとなりやすいエメラルドやルビーよりも楽に集められるところが威張っていなくてなんだかよろしい。
それにトパーズは指輪になっても比較的安価でどこか清貧の匂いのする宝石だ。
それでわたくしは夜それらのトパーズを眺めて心を癒して貰っていることが多い。
私は当初ブラジル産のインペリアルトパーズなるものに凝ってそれの大きな結晶なども集めていたのだったが、やがてそれらがgem qualityのものであっても何となくケバケバしく感じられて仕舞う様になっていった。
それで次に凝ったのが苗木産のトパーズ、すなわち名古屋文化圏でもある岐阜県苗木地方から採れる地元の石を特に愛好していくようになった。
6、7年も前のことだが、私の石仲間に宝石の販売業者が居て、この男がその頃岐阜中津川の関戸川という小川へよくトパーズを浚えに行っていたものだった。
小川で川砂をふるいがけすると、そこにキラキラとした小さなトパーズの結晶が拾えたのである。
中には2センチ級の大きなトパーズが見つかる場合もあったらしい。
そのトパーズが、なかなか美しい。
小さくて透明度があり、スッキリとした結晶となったものや塊状の不定形のものまでありそれぞれがとても愛らしい。
無論私もトライしてみた。
然し良いものは採れなかった。
そうこうするうち、その関戸川のトパーズ産地は採集禁止となって仕舞った。
さみしいことだけれど、その頃の良い思い出が残ったというべきだろうか。
トパーズは国内でもごく限られたところに産する鉱物で、主に岐阜県の苗木地方と滋賀県の田上山に産し、他には三重県の宮妻峡に少し産する位のものなのである。
其の貴重な国産のトパーズにわたくしは今でも癒し続けられている。
http://yahoo.jp/box/nLKjga
どこまでも淡い色合いのトパーズ、日本の野山の春の色合いのようなその優しい様。
硬度は8と高くシャープな印象のある鉱物結晶であるトパーズではありますが、こうして色とりどりのものが集まるとなかなかカラフルで美しい。
比較的入手し易いトパーズでもピンク系のものやグリーン系の石は稀で入手することは難しい。
では価値があるのかって?
無論、金銭的な価値などはたいしてありません。
それはブラジルのインペリアルトパーズやブルートパーズ、またはロシアのレッドトパーズの良品などであれば相応の金額は付きます。
然し、そうした価値ではない地元の石の価値がこの苗木のトパーズには確りとある。
その価値こそは逆に海外の石の良品を遥かに凌ぐ価値となるものなのだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1422回) ..2013/04/20(土) 00:43 No.4488 |
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http://blogs.yahoo.co.jp/pencil_0129/GALLERY/show_image_v2.html?id=http%3A%2F%2Fimg5.blogs.yahoo.co.jp%2Fybi%2F1%2Fdd%2F7f%2Fpencil_0129%2Ffolder%2F495577%2Fimg_495577_8591681_8%3F1360906875
こちらは米国のツーソンショーの画像ですが、滋賀県田上山産のブルートパーズの一級標本が展示されている様である。 まさに素晴らしい結晶で、透明度が高く深い青のブルートパーズである。おそらく世界的に見ても最高のブルートパーズだと考えられるものだろう。
ここからしても、日本の石のレヴェルは高いと言い得るのではないか。また他にも岐阜県苗木地方産のトパーズが海外の博物館に保管、展示されている例などもある。
◆◇国産宝石鉱物 滋賀県田上山のブルートパーズ(濃厚!)◇◆ http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h175597199
ところが現在ではこの程度の標本を得ることですら難しい。
事実明治時代に国内の最大の産地である滋賀県の田上山を訪れたヨーロッパの地質学者らがトパーズの良晶を大量に本国に送ったという逸話が残っているそうだ。 そこからしてもここ日本ではどうやらトパーズは余り大事にされない宝石だったようだ。
ところが欧米では近代以後に特に珍重された石だったのである。
トパーズは硬度が高いので無色透明でくっきりとした結晶を触っていると少し冷たい印象さえ与えられまさに宝石という感じのする石である。
しかしこの硬度が高いということは宝石として大事なことなのである。
上等な宝石であればある程あの水晶などよりはずっと硬くなければならないのである。
宝石.Jp-トパーズ http://www.houseki.jp/topaz/topaz.html
尚、こちらにはトパーズに対する人為的な着色のことなどが詳しく書かれて居る。
トパーズの指輪は比較的安価な訳だが、そこではトパーズは質の良い大きな結晶が多く採れるということだけに限らず人工着色だから安いということにも繋がるのだろう。
ちなみに私のような鉱物愛好家は自然そのものである鉱物結晶の美を愛でるだけなのでそうした人為的にこねくり回された処理石には全く興味が無い。
だから当然私も指輪の石のように磨いて仕舞った石に興味は無い。
どだいただ綺麗になるからという理由だけで神の造形物である筈の鉱物結晶に勝手に手を加えて仕舞ってよいものなのだろうか。
愛する女にコテコテの人工着色のトパーズの指輪を嵌めさせて喜んでいる人類のオス共の頭の中の浅薄さはかなりのものであるとそこで断じざるを得ない。
どだいキリスト教徒が多い筈の欧米の鉱物愛好家は神の造形物そのものである筈の鉱物結晶をそうしてこねくり回して来てそれで神様を冒涜していることにはならないのだろうか。
我などは仏教徒だというのに自然に対しては物凄く謙虚で自然の造形はなべて神仏の意志であるという位の実に厳密で慎ましやかな思想を持っているのだが矢張りそれとは大違いのことではないのかね。
実際市販されて居るブルートパーズの指輪の石はほとんどが処理石でブルーに熱処理された黄色のトパーズだという。
だが我はその辺りに関しては潔癖症なので自分で持つものについてはそうしたものを一切認めない。
というよりも、鉱物結晶の場合はその熱処理なり放射線照射なりが実際どこまで行われているものなのかうかがい知れない部分があるが、今後は是非その部分をハッキリさせていくべきだといつも思って居る。
UWA宝石辞典-ピンクトパーズ加熱 http://www.suwagem.com/jp/dictionary/quality/book1-20/1.html
何にせよ、宝石の世界に於いてまず問題となることがこの現代人が行う人為的改変の部分にあるだろうことはまず間違いない筈だ。
美しい石には、それ自体に刺は無くどこまでも美しい筈だと前回私は述べたのだったが、人為的に石の価値を上げたりすることで何やら次第にその刺のようなものが次々に生えて来るような気がしてならない。
そうまでして美しいものを得たいのだろうか?
いや、ワシがそれを得たいのではなくワシの女がそれを欲して居るのでワシはただそれを呉れてやるだけなのじゃよ。
そうまでして其のバカ女の気を引こうとしていなさるのか?
今私が問題として捉えていることとは、なぜ現代人はここまで加工品が好きになって仕舞ったのだろうかということなのである。
自然そのものではダメなのだろうか。もっと綺麗で格好良くないとダメだと皆が考えて居るのだろうか。
だが実際にはこの唯一無二の生まれたままの馬鹿さ加減で充分なのではないだろうか。
無論綺麗な石は綺麗だがそれはごく僅かで、大半はごくありふれた色の石に過ぎない。
ならばそのままにそのことを認めておけば良いのではないか。
加工せず、何も奪わず、何でも自然体でいくのが一番なのではなかろうか。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1425回) ..2013/04/26(金) 00:24 No.4491 |
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中島 義道氏が戦う哲学者であるのならば、私はまさに戦う自称詩人でありたい。
何と戦うのかといえば、無論それは文明のあり方と戦うのである。
それも古い文明のあり方と戦うのではなく、この近代文明と戦うのである。
だから私は車にも乗らなければ、携帯も持たない。
スマホにも興味がなければ、その他のいかなる新しいものにも興味がない。
その様やまるで病気かと思うのだが、この病気は神仏が私に与えて呉れた大事なものであるという気さえして居て、だからこそそう簡単なものではない。
中島氏も自分は精神の病気であると言っておられるようだが、どだい哲学や文学の世界には病気の一歩手前位の人の方が入りやすいものなのである。
芥川 龍之介も太宰 治もありゃあ皆病気だぜ。
ニーチェなどもあきらかに病気である。
詩人もかのヘルダーリンなどは完全な心の病だ。
フリードリヒ・ヘルダーリン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
尚、私が高校生の頃に母がある高校の先生からこんな話を聞いたのだそうだ。
曰く、本を読むということは良いことのように思われているが実はそうではない。
本を読むということがむしろ学生を追い詰めることさえ屡ある。
本を読むことでいざ物事を深く考えて仕舞えば、確かにそうしたことも起こり得る。
ちなみに母は文学少女で、かってはあの杉原 千畝が卒業した学校へ通って居た。
だから私に文学の縁があったのは、母の血筋である。
一方父は学生の頃哲学の本ばかりを読んでいたのだそうだ。
後年の父からは想像もつかない話であるのだが。
ものに全くこだわらず、服装なども適当で、ゴルフは好きだが道具にはこだわらず、そこで何にこだわるのかといえば酒を飲むことだけに拘る。
ただし社会的な地位の高かった人なので結構良い酒ばかり飲んでいたのかもしれないのだが今となってはそいつは分からない。
その若き日の父の哲学的な思索がこの我に乗り移り結局我も哲学のことが嫌いではない。
なんだ結局全部血筋だぞ、血筋。
ついでに爺ちゃんなども出てくるぞ。
在野の仏教研究者だったお爺さんのことだ。
この爺さんの仏教好きが我に完全に乗り移って来て居るのだ。
自宅に物凄く立派な本棚、書架をしつらえ、そこに絢爛豪華な仏教全集やら何やらの類を収め、そこへ来た坊主が皆驚いて感心したというあの爺ちゃんだ。
25年位前、その爺ちゃんの臨終の間際に病院へ行った我は、そこで爺ちゃんに仕事はどうだと聞かれてつい仕事はつらいよなどと答えて仕舞った。
ま、今でも仕事は辛いのだからその通りのことを述べているのに過ぎないんだ。
あ、婆ちゃんの方はどうなった。
婆ちゃんは二人居るが、一人は人嫌いではあったが家事をきちんとこなすそして案外家族には優しい婆ちゃんであった。
その辺りの性質は明らかにこちらの婆ちゃんから乗り移って来ているね。その内弁慶のところがね。
もう一人の婆ちゃんは農家の出で逞しく良く働く婆ちゃんでしかも信心深く、何かのお講にも参加しているような人だった。
この婆ちゃんが読経中に時折神がかり状態つまりトランス状態になるということで有名な人であった。
それもどうも神がおりるのではなく仏壇に祀ってある位牌から先祖の霊がおりてくるのである。
人嫌いで、詩人として文学的なトランス状態に陥り易い我はあきらかに二人の婆ちゃんからの乗り移りの部分を持っている。
ここからしても、どうも我は我のジジババや我の父母の創作物に過ぎぬものらしい。
どうも自分で作った人格ではなく、ここに与えられてあるものなのだ。
そう考えた方が気が楽になれるから良い。
だから近代文明と戦うのは我のジジババや我の父母でもある筈なのだ。
嗚呼、仕舞ったわ。
もう一人の爺ちゃんについて語ることをつい忘れて居た。
その人は、何とホトケの○つぁんと良く人に言われていた。
温厚な性格で、自営から興した会社を経営していた社長の爺ちゃんだったのである。
それがもう、今記憶を辿っても兎に角ニコニコしたその爺ちゃんの顔しか思い浮かばないのである。
そして実はその温厚さは私にも乗り移って来ているのだ。
私はホンライナラバホトケの○ちゃんなのである。
それが何故いつもここまで気難しく尖っているのかというと、それは根はホトケでも戦わなくてはならない時がある、ということからなのだ。
そのホトケの○ちゃんは今日もこうして近代文明と戦って居るんだよ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1447回) ..2013/05/23(木) 00:16 No.4514 |
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http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u47180171
いや、懐かしい。
懐かしいものにはこのように需要があるものです。
私がゴルフを始めた二十代の前半の頃は、このようなパーシモン材のドライヴァーがまだまだ売られていました。
従って私もパーシモン材のドライヴァーでゴルフを覚えました。
パーシモン材のドライヴァーは球が良く曲がるので実は初心者には向かないのでありますが、その通りに良く球を曲げてそこで自分は悪い打ち方をしているということが良く分かったものでした。
その後暫くしてメタルウッドの全盛期となり、同時に球は曲がりにくくなり、その後にカーボンやチタンフェースのドライヴァー、ヘッドがすべ てチタンの鍛造ドライヴァーなどが出るに至り、余計に打ち易く球が曲がりにくいようになって行きました。
さらにその後に複合素材のヘッドなどが出て来てドライヴァーのヘッドは大型化されていきました。
つまりはより打ち易くなるようにとスゥイートスポットを拡げる方向にゴルフのクラブは進化して行きました。
ですが、我我のようなアスリート系のゴルファーはそうしたバカでかいヘッドで妙に軽いドライヴァーは大抵の場合嫌って居るのであります。
自分が打つ球の球筋をプロの打つ球筋に近づけるべく長年努力して来た私なども勿論そうです。
私などはいまだにMIZUNO PRO 300Sという、あの中嶋 常幸が全盛期に使用したチタンドライヴァーを使って練習しています。
これがハードスペックで、シャフトが特注のTABCシャフトーフレックスはX相当でD3位のバランスかと思いますがーでその重さが何と347gもあります。
で、これと合わせているアイアンセットが同じくMIZUNOのPRO2000アイアンで、無論のことこちらの方も超ハードスペックです。
こちらもドライヴァーに同じくシャフトが特注のTABCシャフトでフレックスはX相当で、多分バランスはD3位で重さが7Iで425g、5Iで415gです。
五ヶ月くらい前ですがこのクラブスペックで練習していたところ、機械担当か何かのおじさんー天白ゴルフ練習場の職員の人ーが近くへ来てクラブをしげしげと見て居ります。
いやー、これは然し、まるで大学のゴルフ部の兄ちゃん達のようなハードなクラブをお持ちですがいつもこれで練習されているのですか?こんなハードなものを今使って居る人は見たことありません。
ハイ、私はじき五十も半ばになりますがどうも体の方はまだ若いのかいまだにこんなものが振り切れるのです。
いや、かえって10年前は振り切れずで、それを10年ー正確には13年ーここで一所懸命に練習して振り切れるようにしていったのです。
もっともここ二年位は五十肩がひどくてとてもゴルフどころではありませんでした。
つまり道具に技量を合わせるか、技量を道具に合わせるかの違いなのである。
私は何でも軽薄短小は嫌い、謂わば重厚長大な人間なのでそこで迷わず道具に技量を合わせる方を即座に選ぶのだ。
使いこなすには高い技量が必要とされることだろうプロモデルのアイアンやドライヴァーをあえて使って、それらを必死になって練習することで使えるようにしていって仕舞うのである。
それが私のやり方だ。
安直な方へは流れないということ。
ちなみに私は萬年筆でも一般性の無い、軸が細くペン先がヘナヘナの、つまりは筆記がより難しいことだろうアンティークの筆の方が性に合う。
だからそういう人間なのである。
ヘナヘナのように見えるその見た目とは違い相当な頑固者なのである。
其の私のハードスペッククラブが今私にドンピシャリと合って来て居る。
ほぼ完全に私のものになって呉れて居る。
いや、そうではなくクラブの実力の方に私の技量がようやく追いついて来たのだ。
私のMIZUNO PRO 300Sドライヴァーは特注でフェース面を無塗装にしてある。
良く使って居るのはここ五年ばかりで、それも五十肩の期間を除くと三年余りなのである。
というのも、その前にはMP-001という同じくMIZUNOのカーボンコンポジッドのドライヴァーを使って居て、こちらの方が遥かに良く飛 んでいたのだったが、これはやがてフェース面に亀裂が入って仕舞ったのである
それでその遥か前に特注で作っておいたMIZUNO PRO 300Sドライヴァーの方に戻したのである。
ちなみに最近のドライヴァーの重さは重いものでも大体320g台位かと思う。
MP-001の重さは329gなので大抵はそれよりも軽くなることだろう。
普通軽いドライヴァーはHSを増し飛距離が出るようになるものだ。
然し、元々HSの速いハードヒッターにとってはどこへ飛んでいくか分からないものとなって仕舞う。
女性や還暦を迎えて以降の男性には軽い道具は良いのかもしれないが、私はまだまだパワー十分なので軽いドライヴァーはごめん被りたい。
この重いドライヴァーをブンブン振り回して天白ゴルフ練習場の、その250Y先のネットの中段以上に突き刺さるような球を打ち続けて居る。http://www.tempaku-golf.co.jp/
我は兎に角このスポコンでいく。誰もやっていないようなことをあえてやる。
ちなみにゴルフを知らない方の為に少し補足説明をしておきます。
今のプロ向きでハードスペックのドライヴァーが325gなのだとして、私のMIZUNO PRO 300Sドライヴァーは347gである。
ゴルフをやって居られる方にはその22gの違いがどれほど大きいものかお分かりの筈である。
その22gの差は、実は月とスッポンの差、なのである。
或いは大人と子供の差だ。
http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w86613892
おお、こんなところにかの300Sドライヴァーがいまだに売られていたが、何と落札されているではないか。
多分15年位前の中古ドライヴァーである。
300Sは一部のマニアックなアスリートゴルファーにまだまだ人気がある。
尚、私の使うMIZUNOのPRO2000アイアンはマッスルバックの軟鉄鍛造アイアンで全くキャビティタイプになっていないもの。
いまやプロでも使わないシロモノ。
プロを目指す大学のゴルフ部のムキムキの兄ちゃん達位しか使えないだろうようなクラブだ。
それが使えるといって私は威張っているのではなく、楽をするよりもそうした風に自分の技量を上げていった方が楽しいことではないかということをここに提唱しているのである。
ゴルファーもそうだがペンの方でもそう、はたまた主婦などでもそう。安易に電化製品に頼らず人力でよりきめ細やかで完璧な家事をこなすことにこそ専念すべし。
実際は何でも軽薄短小化していく。
せめて自分の追求していること位はムキムキでいきたいものだ。いや、重厚長大でいきたいものだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1466回) ..2013/06/22(土) 00:09 No.4535 |
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春の特別展「東三河のきらめき鉱物」展 −横山良哲が愛した郷土の鉱物たちー http://www.city.shinshiro.lg.jp/index.cfm/8,3122,118,663,html このような催しが行われていたとはついぞ知らなかった。
無論知っていたとすれば必ず出かけた筈だったが、全く惜しいことをした。
さて、先頃数々のパイロクスマンガン鉱の美晶を産出したかの田口鉱山がついに立入り禁止となったそうだ。
もはやここへ出向き心ときめかせつつパイロクスマンガン鉱を探し回ることなどは叶わない。http://yahoo.jp/box/6psHpB
パイロクスマンガン鉱と私とは切っても切れない深い縁が結ばれており、この美しい鉱物を得る為に一体どれだけの熱意と行動が必要であったことか、そのことは簡単には説明出来ないことなのであり、何よりそこには長い年月をかけた私の執念のようなものがはっきりと見て取れる形での深い縁の形だったのである。
元よりただの石であり観賞する以外は何の役にも立たない筈のこの鉱物にそこまで入れ込んでいたことには歴とした訳があり、それはこの石が兎に角美しいものであったこと、それもそんじょそこらにある美しい石なのではなく世界中で唯一この田口鉱山のパイロクスマンガン鉱のみが美しい結晶として産出するというその一点に於いて私の情熱と関心のすべてがそこに注がれていたのであった。
それは私にとって単なる石というよりもまるで美そのものであるかの如き鉱物だったのだ。
美しい石は世界中に幾らでも存しているが、パイロクスマンガン鉱の美晶はただ美しいだけではないのである。
それは地元の石でもある。
確かに三河地方は尾張地方とは距離は少し離れてはいるが同じ愛知県なのだから地元産の石である。
私がこの石の存在を知ったのは90年代の初め頃だったかと思う。
私は古くからの鉱物愛好家ではなく、鉱物の愛好歴はまだ20年程に過ぎないのだ。
一方万年筆の愛好歴は40年にもなるが、鉱物の方は昔から集めていた訳ではなかった。
昔はもっと観念性の強い自称の詩人だった為、詩の方は良く書いていたが物を集めるということには縁遠いような人間だった。
今よりももっと純粋で、余程に小難しいことを考えていた。
だからその頃の私と比較すれば、今の私は精神的に堕したような感じのすることは否めない。
それでも万年筆と鉱物に縁があって本当に良かったと今となっては思う。
物質の方に傾くということの精神の上での危うさと、現実的な意味での心の潤いを与えられるということを天秤にかけると矢張りどうも後者の方を選んでおきたいところなのだ。
そうでもしなければ私はかって住していたところの精神の切岸のようなところへ再び舞い戻っていかなければならないからなのだ。
特に鉱物の方はそれまで知らなかった自然の一側面をはっきりと私に知らしめてくれた。
確かに私は自然の愛好者として多くの野や山に遊んで来たのだったが、当初は命のない石などに大きな興味を持っていた訳ではなかったのだ。
命あるもののダイナミズムとは対照的な無機的で静謐な石の世界。
然し、それでもなお石は私に語りかけてくれる。
その言葉は生命の発している言葉とは違うものであるのだけれど、たしかにこの宇宙を貫いていることだろうひとつの言語なのである。
今思い出したのですが、そういえば昔、おそらく二十歳前後の頃だったか、フランクリンミントの鉱物標本を通販で購入したことがあった。
ところがそれが余りに貧弱な石の標本だったので全部返品して仕舞ったことがあったのだった。
その頃の私はどんな石と結ばれるべきものなのか、全くもって分かっていなかった。
だが今となってはそれがパイロクスマンガン鉱であったということがはっきりと言い切れるのである。
そういう段階に到達したのだ。いや、もうすでに終わった。
パイロクスマンガン鉱との深い意味での格闘の記録ははや終焉を迎えた。
諸行無常というけれども、本当にそれはその通りである。
この世に常態として存在する縁は何も無いのである。
たかが石の話、鉱物産地がひとつ入山禁止となっただけのことであるのに、それが何とも寂しい限りのことである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1473回) ..2013/07/04(木) 23:40 No.4544 |
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国内男子ツアーの方では現在魅力的な若手選手の活躍が目立って来て居る。
中でも松山 英樹プロの活躍がめざましい。
だが彼ばかりではなく、あの石川 遼プロも良い時は良い。
この二人は世界で戦える選手なので今後が楽しみなのである。
また小平 智プロが日本ゴルフツアー選手権を制して居る。
さらに藤本 佳則プロなどもスイングは個性的ながらなかなかの実力者だ。
小平 智プロはいかにもアスリートゴルファーらしくいつもクールにプレーしている姿がとても格好良い。
アスリートゴルファーは試合で優勝しても遼君みたいに余りTVに出たりはせず兎に角練習、練習で是非一流のスイングを創り上げるべきである。
そうした意味では松山 英樹プロも完全にアスリートゴルファーで、CMなどには今のところ出ていないところなども良い。
ゴルフは兎に角戦いであり、闘いである。
だからお遊びのゴルフなんてのは面白くないのであり、勝つか負けるか、それもまずは己に勝てているかそれとも負けているかということが大事なのであって、其処で歯を食いしばって練習してこそまさに己に勝てるような球筋が生まれるものなのであり、そのことはトッププロでも三流プロでも、はたまたトップアマチュアでもアベレージゴルファーでも全く変わらない心構えなのである。
ゆえに気楽にゴルフと向き合うな。
というのがまくまで私の考えである。
練習場に行ったら、最近の私などは三百球程球を打って来る。
少ない時でも二百球位は打つ。
ゴルフは兎に角練習だけである。
だがオジサンゴルファーさん方はそういう私とは対照的に練習嫌いの人が結構多い。
そしてビールでも飲みながら遊びのゴルフをやりたがる方々が多い。
はい、それではサヨウナラ。
私は誘われてもそういうゴルフは致しません。
前々から語って居る様に、私のゴルフはスポコンのゴルフである。
だが、この度其の方向性を少々修正することと相成った。
何故かというと、今のゴルフクラブの楽さ加減ということを思い知るようなことがあったからなのだ。
先日私はO氏と共に練習をして居た。
O氏はHS48m秒のハードヒッターで、ドライヴァーにて天白練習場のネットの中段位まで球を運べる人である。
つまりは私と同じくらいの振りの鋭さを持って居られる。
彼はゴルフには並々ならぬ思い入れを持って居て、そこはどう考えても私と同様にアスリート系のゴルファーなのである。
ところが彼には色々と実人生上の悩みがあり、本当はゴルフどころではないようなところもある。
でも半年くらい前まではゴルフ練習場のインストラクターになりたいと言って居た人である。
私の一つ上で、一流大学出で体の大きい人だ。
元は大きな学習塾の経営者だったのだが、今は職場の方にアルバイトで来て貰っている方なのである。
然し彼のお友達の方々には裕福な人々が多い。
それで誘われて月に3回位はコースに出て居るのでいつもお金が無いのである。
然し、元塾の先生である我我は話が合う部分も当然ながらあり、最近になって一緒にゴルフの練習を行うことにしたのである。
されど其れは甘い練習では無い。
我我の練習はまさにスポコンである。
この五十も半ばのジジイ二人が、HSだけはトップアマ並みなものでネットの中段へポンポン球を突き刺していくのだから傍から見ていても其れが実に壮観なのである。
そんな奴らはまず他には居ない。
尚、我我はかって塾の先生だったこともあり、そんなハードな練習の折にも互いにかけあう言葉の使い方が丁寧なのである。
O先生はかって英語の先生で、私はかって国語と社会を教えていたのであった。
O先生、なんじゃこりゃー、こんなんで球が打てまっかー。
打てます、打てます、其のUFOドライヴァーで必ず打てます、K先生。ちゃんと信じろや、この野郎。
打ってみると、本当に打てる。
一発目は真っ直ぐに飛びネットの中段より上へ突き刺さっていく。
私の十年以上前のドライヴァーとは球筋が全然違う。
つまりはより簡単に打てて楽に飛ぶ。
二発目は僅かに右に逸れたが珠にスピンがかかりネットを越えるかという程に高く上がり、それでも結局は中段に突き刺さった。
其の時の球の上がり方が凄かったのでO先生がおおおーと声をあげられた。
O先生のテーラーメードのドライヴァーは私から見るとまるで大きなUFOそのもののようで、とても球を打つシロモノには思えないのだが実はそんな風に全く凄いものであった。
最近のゴルフクラブはまさしくゴルフに於ける新時代を戦う為の新兵器だったのである。
うーむ、コイツは凄い。O先生、このドライヴァーを私に下さい。これなら多分コースでも280Y位は飛びます。もしそうなれば私のゴルフが変わります。進化します。じつは進化は根っから嫌いだがゴルフの進歩だけは認めます。
一万円と少しで売っておりますよ。いまやドライヴァーも安いのですよ。然し、あの飛び方では一緒にコースを回った時にアウトドライヴされる恐れも出て来た。これはいかん。私はこれまで一度もアウトドライヴされたことなんて無いのですがね。
ちなみにO先生にも私のドライヴァーやアイアンを打ってみて貰ったことは云うまでもない。
だが其れ等のクラブはハード過ぎてO先生には打てなかったのである。
ただしO先生ほどのHSがあれば無論練習すれば打てるようになるのである。
然しハードなクラブはもはや完全に時代遅れになって居たのだ。
私は其のことにようやく気付かされ愕然としたのであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1474回) ..2013/07/08(月) 23:33 No.4546 |
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私のゴルフ歴は凡そ30年、思えば其れは長い道のりだったのだと言える。
ゴルフに真の意味でハマったのは1990年頃にMIZUNOの軟鉄鍛造プロモデルアイアンのTN-87を入手してからのことである。
当時は中嶋 常幸プロの全盛期でもあり、中嶋派の私は中嶋プロが使って居るクラブそのものを使いゴルフを極めたいと思って居たのだった。
1990年頃といえば私はまだ三十そこそこでパワーの方も充分にあった。
元々HSが速く50m秒前後もあった。
要するにアマチュア離れしたハードヒッターだったのである。
ところがまだ技術の方が伴っていないのでドライヴァーショットなどはどこへ飛んでいくか分からないタイプなのであった。
当時は練習場をハシゴして一日中球を打っていることなども屡だった。
それは限定万年筆を集め始める前のことだったので其処ではまずはゴルフが第一の趣味だったのだ。
90年代にはコースの方もかなりに回って居た。
ロングホールを2オンすることも屡だったが、スコアの方は余りまとまらなかった。
それでも初ラウンドで100を切りベスグロは82という悪くない数字も出して来て居る。
TN-87アイアンは当時プロやトップアマ、上級者などから高い評価を与えられていた軟鉄鍛造プロモデルアイアンだった。
これを当時知り合いのゴルフ用品の行商をしている人から購入した。
高価なクラブなので無論ローン払いで買ったのである。
このTN-87アイアンは今や伝説の名器となっていることかと思われるが、家にはまだある。
10年間ボロボロになるまで使い込んで、ついにお役御免となったものである。
アマチュアゴルファーは大抵の場合ダウンブローの軌道でアイアンが打てていないが、私はこのクラブでトコトン練習してダウンブローの打ち方を習得することに成功した。
ダウンブローの打ち方を習得しなければアイアンなんて何を使って打ったとしても強く正しく球が飛んでいかないものなのである。
だからゴルフは兎に角練習だけなのである。
当時の私は一度の練習で三百球は必ず打っていて、それから二十年後の今も其の三百球を打ち続けて居るのである。
ミズノ 軟鉄鍛造アイアンの歴史 http://www.golfersland.net/nantetsu/history.html
ここの9番のところに1988年に発売されたTN-87が載って居る。
ただし私のTN-87はシャフトがRシャフトであり打ち易かった。
無論ヘッドの方はマッスルバックで芯が一点しかないという難しいプロモデルなのではある。
然しこのTN-87は完成度が高くクラブのバランスが良いので意外に打ち易かったのである。
其の後2000年頃にTN-87から現在のプロ2000モデルに替えた訳である。
だがこのプロ2000アイアンは、実はTN-87アイアンの復刻版のモデルだったのである。
従って私はもう四半世紀近くアイアンはTN-87だけを使って来たと言っても良いのである。
ではどこがそんなに良いのだろうか?
私は何故そんなにこのモデルに執心して居るのだろうか。
音を聞き比べて下さい http://www.golfersland.net/nantetsu/
まず軟鉄鍛造製法のアイアンは打感が良い。
ここでは打音の良さということが語られていますが、それが即ち打感が良いということに繋がって居るのだと思われる。
こだわりの素材、製法、形状が生み出したこだわりの音 http://www.golfersland.net/nantetsu/sound.html
MIZUNOというメーカーはこのようにゴルフクラブの本質の部分に徹底的に拘る。
打音や打感が良いというのはそのように感じられるように誤魔化してあるのではなく、其処で本質的に良い素材を用い良い製法を採っているからこそそのようになるのである。
つまりは本物だということなのである。
本物の品であるからこそ、プロやトップアマ、上級者などから高い評価が与えられて来て居るのである。
ここの部分、何やら万年筆の話と共通するものがあるのではなかろうか。
萬年筆で私が一番良いと思うのは戦前のエボナイト軸の、それも鍛造ペン先付きのものなのだけれど、其れ等とミズノの軟鉄鍛造プロモデルアイアンとは何やらどこかが良く似て居るような気がしてならない。
要するに其れ等こそが本物の道具なのである。
http://www.golfersland.net/nantetsu/process.html
http://www.golfersland.net/nantetsu/sozai.html
http://www.golfersland.net/nantetsu/tokkyo.html
道具をつくる際に素材や製法に徹底して拘るということ。
其の拘りの姿勢こそが好きなのである。
其処で妥協しないこと、突き詰めていくこと。
安易な方へは流れず、本物であることを常に追い求めていくこと。
尚、ミズノはアイアンだけではなくドライヴァーの方もチタンの鍛造ドライヴァーをつくるのがお得意なのである。
私が今使用している300Sドライヴァーも、これから求めようとしているMPシリーズのドライヴァーもチタンの鍛造ドライヴァーである。
鍛造、いや、このコトバに私は本当に弱い。
道具に於ける金属は鍛造してあるものが一番作りの方が良くなる訳であり、それでこそ使い手が長年に亘り使い込んでいけることだろう本質を備えた道具たり得る筈なのである。
そしてそうした道具しか、私は使いたくないのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1475回) ..2013/07/09(火) 21:32 No.4547 |
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実はウチの職場にはゴルフが好きな人が多い。
アスリート系が私とO氏とM氏の三人で、あとの二人はオジサンゴルファー系である。
つい先日そのうちの一人であるS氏とも天白練習場で遭遇し、その球筋を見させて頂いたのだったが、まあまさしくそれはオジサンゴルファーの域を出て居ないような球筋であった。
然し、S氏は練習熱心であるところが素晴らしい。
それに年齢にしては飛んでいるとも言える。
本間のチタンドライヴァーを使って居られたが、多分220Y位は飛んでいるのではなかろうか。
その位の距離を安定して飛ばせれば、むしろ私などよりも良いスコアで上がれる可能性もある。
されど私のゴルフは兎に角ハード系のゴルフなのである。
兎に角ぶっ飛ばしでいくのが私のゴルフだ。
ぶっ飛ばすのは誰でもそうそう出来る訳でもないのであるから、其の稀有な才能の部分を花開かせることにこそ専念して来て居るのである。
それに今のゴルフは飛ばないと話にならないゴルフなのである。
ゴルフコースはそれぞれに結構距離があるから其処でバーディをもぎ取る為には飛距離が出ることは最も有利なこととなる。
尚私の定義で言う飛ばし屋とは本コースで280Y以上の飛距離を打てる人のことである。
それもコンスタントに其の飛距離を出せなければならない。
ということは練習場ではネットの最上段にぶち当たる位の球を打つパワーが必要である。
幸いなことに私には其のパワーがある。
まともに当たれば常に280Y以上のドライヴァーショットを放つことが可能だ。
されど、どうも安定感が無くすぐに球がバラけて仕舞う。
そんなことをこの30年間繰り返しやって来て居る。
まあそれはハードヒッターの宿命、持病であるような部分でもある。
普通HSの速いハードヒッターの人は球がバラけ始めると歯止めが効かなくなりOBを連発したりするものなのである。
まあそこは私もその通りのことである。
だからいまだ70台のスコアでコースを回ったことなどはない。
だから私はいつまで経ってもシングルプレイヤーにはなれないのである。
然し、私のゴルフとはそういうゴルフなのだ。
たとえ年をとっても、兎に角ムキムキの飛ばし屋でいく。
然しOBを連発ではゴルフにならないから兎に角もっと球筋を安定させたいのである。
その故に兎に角練習場で多くの球を打ち安定したスイングをつくりこんで居るのである。
だが30年かけてもまだ完璧には分からない。
どのようなスイングをして球を捉えるか、という其のイメージの構築の部分が完全には成らないのである。
其処が分からないでただ漫然とスイングをしていても完璧に球を捉えられない。
当たったとしてもそれはたまたまのことで、コンスタントに常にそのように打てるというものでもないのだ。
だからゴルフスイングとは其のイメージの揺るぎない構築の部分だけが重要なのである。
ちなみに最近の私はひとつの究極の打法を試して居るところである。
それは結果的に部分論ではなく全体論的なイメージの構築のものとなった。
こう手を動かして引くとか、或いは手を逆に左へ引くようなイメージで始動することであるとか、或いは球へグリップを突き刺すようなイメージで始動するであるとか、まあ色々とこれまで長い間やって来たのだったが結局イメージを固定化するつまり構築して仕舞うことが出来なかったのである。
それで今はどんなイメージでスイングをして居るのかと言うに、其れは非常にカンタン、一言で言うと『素振りのままで打つ』というイメージなのである。
然し、この『素振りのままで打つ』ということは、実はかなりに難しい打法なのである。
何故なら素振りでのスイングと実打をしているスイングは別物になって仕舞って居ることが多いからなのである。
特にアマチュアゴルファーでは其のことはまず不可能に近い位のこととなる。
なんとなればアマチュアゴルファーはいざ球を打つ場合にはおかしな所に力を入れて仕舞うものなのであり、だからいざクラブが球を捉えた時には実は乱れに乱れ崩されたスイングの軌道でもって打って居るからこそクラブの真芯で球を捉えられないのである。
即ち其の意識性こそが病気なのである。
まるであの、我は無いのに我が在ると見る、仏教でいわれる所での倒錯のものの見方のように、アマチュアゴルファーはいざ球を打つ場合にはおかしな所に力を入れて仕舞い存在して居ない筈の球の場所にクラブを振り下ろしそれでダフったりトップしたりはたまた右や左に大きく曲げて仕舞ったりして居るものなのである。
其処で、其の倒錯の意識性をどのように治すのかということであるが、其処では要するに無念無想になるほか無いのであるからまず球が在る、其処に置いてあるという意識を完全に消し去るのである。
そして其の次に其処で素振りを行う。
ところが、其の素振りを行う振りをして実は球を打つのである。
すると、私の場合は正しく球を捉えられるようにようやくなり、ロフト9度でX相当のシャフト、347gものハードなドライヴァーでも球が上がるようになった。
のみならず、兎に角当たりが良くなり、まさにプロの球筋に近いような重い弾道が打てるようになった。
そして何より球筋が安定し始めたのである!
何球打っても、同じ様な球筋で打てる。
が、それも完璧では無論ない。
崩れる時には崩れクラブの芯に当たらない場合もある。
然し、この打法は凄い。
ひとつの究極の打ち方であるのかもしれない。
私が30年かかって辿り着いたひとつの究極の境地であるのかもしれない。
具体的にではなく、故に部分的にではなく、あくまで全体としての、そして無念無想の、まるでかの禅家の問答のような深みのあるイメージの構築なのである。
そして実はこの打法は15年程前に屡試していたものなのである。
されど其の頃には結局モノにならなかった打ち方だったのである。
だが、現在はこの打法がなぜかモノになりそうな状態にある。
きっと其の間に我の内部で思想的なものが熟成されてモノになりそうな状態にあるからこそ打法の方もそのように煮詰まって来て居るのかもしれない。
只、素振りのままで打つ。
只、座る。只管打坐。
道元 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%85%83
まるでかの道元禅師の思想のような打法である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1477回) ..2013/07/14(日) 09:30 No.4549 |
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『自分のパワーでしっかり振り抜きたい人と相性が良さそうだ。』
『市販品の中では見た目通りかなりハードスペックなドライバー。アマチュアがクラブの性能を100パーセント引き出すには、かなりのパワーが必要なドライバーだ。』
と先の試打インプレッションのところに述べられているように、S-1ドライヴァーはまさに私の個性的な要求にピタリと一致している道具だったのである。
このように道具とはまず使用者の個性的な要求と一致する仕様を持って居るものであることが一番大事なことである。
さて、夏場を迎え何故かゴルフ熱の方が燃え盛って居る私は昨日古いクラブの整理を行って居た。
其処で色々なクラブが出て来たのだったが、今となってはハード過ぎて使えないような古いクラブが多かったのだ。
http://yahoo.jp/box/lOjUpx
まずこちらはこの十年と少し位の間に私が使って居たミズノのドライヴァーを並べてみたものである。
右からTour Spirit III、300S、MP-001、MP S-1ドライヴァーである。
シャフトはすべてX相当の硬いシャフトで一般的な仕様のモデルよりも重くハードヒッター向きの仕様である。
こうして並べてみると次第にドライヴァーのヘッドが大型化されていったことが一目瞭然である。
一番左は今回入手したMP S-1ドライヴァーですが、矢張り他の3本と比べるとかなりにヘッドが大型化されている。
然し、これでも最近のドライヴァーの中では最も小さい425立方センチメートルであるのだから最近のヘッドの大型化はまさに恐るべしである。
ここからしても今世紀のゴルフは明らかにより楽に飛ばせるという方向性に進歩して来て居ることが良く分かる。
より楽により誰でもがゴルフの醍醐味である飛ばしの要素を享受出来るようにしようという考えで道具が作られて来て居る。
だが反面そこでは道具の軽薄化つまり粗造乱造気味の部分が垣間見えることなども否めない。
皆が打ち易いクラブを作れば、それは一部の拘りゴルファーには何となく軽薄短小なクラブに感じられて仕舞うということも確かにある。
尚私は近代以降の自由や平等などという人間の基本的人権もひょっとするとそんなことのように一見良いこと、大事なことのように見えて実はその一方で逆に大事な何かを失う方向性に歩んでいることなのではないだろうかと時に思わないでもないのだ。
それはかなりに穿った見方なのではありますが。
ゴルフの道具なども昔は作りが良くて仕上げが丁寧であったという部分は確かにあったことだろうと思う。
そうした世界にハマった人はクラシッククラブなどを収集する方向へ行ったりもしているのである。
あの尾崎 将司プロなどはかって相当数のクラシッククラブのコレクションを持って居られたそうである。
クラシッククラブの世界などというものはもはや化石趣味と言っても良い位のもので、特にここ日本ではごく一部の特殊な愛好家の世界のものになって仕舞って居ることだろう。
然しゴルフは元々英国起源の紳士のスポーツで、だからこそ今でもトーナメントでの勝利者にはブレザージャケットが贈られるのであり、また日本のゴルフコースにも歴史のある名門コースというものが確実に存在しているのであり、そうした名門コースをもし回れることになったのだとして、そこで安物クラブなど担いでいっては余りに恥ずかしいのであり、そこは矢張り伝統と格式に培われた高級クラブなど持参しないと格好がつかないというものであろう。
もっとも私はそんな高級なクラブなど持って居ないがそれに近いような古き良き、手作りに近いようなクラブは何本か持って居る。
http://yahoo.jp/box/F3MUzE
左からコブラ、ミズノMS-1、ウィルソンのパーシモンのドライヴァーである。
だがパーシモンのドライヴァーはヘッドが小さくてもはやとても打てない。
当たったとしても多分200Y位しか飛ばない筈である。
なぜならシャフトの方もスチールで重いものが多いからだ。
ただしこのミズノMS-1のシャフトはカーボンシャフトで250Y位までいけそうである。
ミズノプロ MS-1は名器とされていたパーシモンのドライヴァーである。
一番右に写っているのはミズノのアイアンの名器中の名器、ゴールドメダル インペリアルアイアンである。
これを探し出して購入したのは15年位前のことだった。
一本だけではなくちゃんと一セット持って居る。
http://yahoo.jp/box/1Qzbvr
おお、何と美しいお顔なのでしょう。
兎に角何やら物凄く手が込んでいる雰囲気があります。
1962年発売で、半世紀前のクラシックアイアンである。
グリップは本革巻きで、ホーゼルにはピンが打たれて居る。
余りに美しいアイアンなので私にとっては純然たる観賞用である。
このグリップの革巻きというのが物凄く美しいのだが、一部のクラブの皮が剥がれて来て仕舞い直す必要がある。
ゴルフ趣味もこうした部分まで範囲を拡げてみるとまことに奥深いもので、ひょっとすれば金力のある実業家ゴルファーなどはこうしたクラブばかりを買い漁り、それであの川奈のような名門ゴルフ倶楽部でプレーをして居られるのではないかとも思われるのだ。
残念ながら我には川奈を回れるような資金力、財界力は無く、あまっさえ地元の名門コースの三好や和合を回れる程のステイタスも無く、それでクラブだけはインペリアルを持つというそうしたただのオールドクラブへの憧れだけを持って居る庶民ゴルファーなのである。
ただハードヒッターなので金持ち財界人の爺さん達より遥かに飛距離は上だ。
ザマアミロ、我は金は無いが飛ばす力だけはある。
尚、かって父は和合で何度もプレーをしていた。
家の知り合いに和合コースのある東郷町の名士の方が居られて、その関係でその頃ならば和合でプレーすることが出来たのである。
ところがその方はすでに亡くなられ、この私が和合でプレーをするという夢のような話も立ち消えとなって仕舞った。
あな悔しや、我がパワーを和合の地に嫌という程呉れてやろうと思って居たにもはや其れも詮無きこと。
だが和合がダメなら三好があるさ。
O氏は来月三好を回るそうである。
それで今特訓中なのである。
そのうちに私もO氏にくっついて是非三好に紛れ込んでみたいものだ。
その折に使うアイアンは無論ミズノのアイアンの名器中の名器、ゴールドメダル インペリアルアイアンである。
ドライヴァーは無論ミズノプロMS-1、パーシモンドライヴァーだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1478回) ..2013/07/14(日) 23:38 No.4550 |
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MP S-1ドライヴァーは確かに良いのだが、このドライヴァーはどちらかと言えばスライスし易いタイプのドライヴァーである。
明らかにスライスし易い。
ところが私は元々スライサーで、持ち球がスライスとフェードの中間位の球筋なので元々右へ曲げることは得意な打ち方なのである。
そういう人がスライスし易いクラブを持つと矢張り余計にスライスし易くなる部分はある。
が、それも正しい打ち方をしている分にはスライスではなくてフェードにとどまるのである。
もっともそれももっと正しい打ち方となればストレートボールで行ける訳なのではあるが。
私のUS仕様のMP S-1ドライヴァーは最近のドライヴァーの中では最もハードな仕様で少しだけ難しいクラブだが、プロ2000アイアンとのマッチングは適切で余り違和感なくドライヴァーとアイアンを使っていけるところが何より良い。
だがもっと軽くて易しくて兎に角良く飛ぶタイプのクラブも打ってみたい、という思いも私にはないでもなかった。
すると、たまたまオークションの方で同じ出品者が程度の良いWORKS ハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーを出品して居たのである。
しかも五千円と安い。
私は其れを入手して本日練習場で二百球位打って来た。
さて、このWORKS ハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーであるが、一言で言ってこれは楽に飛ばせるクラブで悪くないクラブである。
ある意味ではMP S-1ドライヴァーよりもより簡単に打て、一割方位余計に飛距離が出ると言って良いクラブなのである。
ただし、私のハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーはロフト10.5度のRシャフト付きで打ち方によっては球が上がり過ぎる場合がある。
それでも真芯を食うと練習場のネット上段まで楽に運べる飛距離性能に優れるドライヴァーなのである。
軽いクラブで、打感や打音も軽く、そのことからもハードヒッターではなくとも打ちこなせるクラブである。
個人的な印象としては五千円のクラブとしては最高のドライヴァーではないかと思われた。ただし定価はもっとずっと高いのですが。
WORKS ハイパーブレード インフィニティ http://worksgolf.jp/product/hbi/hbi.html
このクラブは元々ドラコン用として開発されたもののようだ。
それで普通ドラコン用ということになれば、余程の飛ばし屋ならばともかく一般には余り注目されないクラブとなって仕舞うものなのである。
私もかってはこの種のドライヴァーに興味は無かった。
それに非常に大型のヘッドでしかも其の形が三角形をしていて変わって居るのである。http://yahoo.jp/box/3KjFUT
変わったものには手を出さない人が多いことだろう中で、私に限ればこうした変わった形が大好き、何せ10年前にもし三角頭のドライヴァーがあったら飛ぶのではないかしらなどと考えて居たのである。
この三角形ヘッドはむしろ側面が丸いヘッドよりも構えやすく方向性も出し易いと言える。
また三角形であるからこそシャープな印象もあり投影面積が大きい割には余り大きく見えないのである。
ただしこうして比べてみれば矢張り大きいヘッドである。http://yahoo.jp/box/_vNYAE
尚このドライヴァーのフェース部はドラコン用の高反発フェースではなく反発力ルール適合フェースであるとのことで、従って公式な競技会などでも使えるドライヴァーとなって居る。
高反発フェースのドライヴァーは昔私も色々と打ってみたことがあるが、それらと比較してもさほど弾きの能力は変わらないという感じである。
ちなみにドラコン大会なるものがゴルフの世界にはあり、其処ではドラコンに向いたドライヴァーが用いられることが多い。
三角形ヘッドのハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーもどうもそうした類の道具であるようだ。
72歳の国分佐久選手が、 このドライヴァーを使って驚異の317ヤードを達成したということであるが、70歳オーヴァーでの其の飛距離はまさに怪物級である。
私でもたとえば筋力トレーニングを一年位行い、しかも最高の当たりをして尚且つランも出て何とか300Y位打てるだろうかというところなのである。
http://gokutobi.com/doracon.html http://www.ldjapan.com/index.html
ドラコンというのはゴルフそのものではなく一種のエキシビションのようなものなのでゴルフに於いて重要視されるような分野ではない訳だ。
打ち方の方も売った後で体が崩れたりと独特のスイングで行い兎に角飛距離のみを求めていく競技なのである。
LDA世界ドラコン選手権 http://ja.wikipedia.org/wiki/LDA%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B3%E3%83%B3%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9
(後編)2012ドラコン日本選手権 世界ドラコン代表決定戦-オープンFinal http://www.youtube.com/watch?v=1FEDqAsG4eA
(前編)2012ドラコン日本選手権 世界ドラコン代表決定戦-シニア&レディス http://www.youtube.com/watch?v=CH8AoHB13AQ
上で一番驚いたのはシニアの記録のレヴェルの高いことだ。 何とオープンでの記録を遥かに上回る360Y近くを叩き出して居るではないか。
ちなみにゴルフでのシニアはプロは50歳からになるがアマチュアのシニア選手権などは男子55歳、女子50歳からとのことである。
そこからすると私はまだシニアではない訳だがまあじきにそうなって仕舞う訳である。
だがジジイになっても飛ばす、それが私のゴルフだ。
実際練習場でも20代、30代、40代の若者ゴルファーどもにドライヴァーの飛距離ではまず負けない。
このジジイの力をしかと見よ、お前たちはこの俺に勝てるのか。
そんなことを思いつつしこたま球を叩いていると、アドレナリンが涌いて来てまあ体が燃えるわ、燃えるわ。
三角ドライヴァーで叩いた球が気持ち良ーくネットの最上段に突き刺さっていく。
すると若者どもは一人ずつ肩を落とし其処から立ち去っていくのである。
そうか、可哀想にショックを受けたのだね。このワシの物凄いパワー振りに。
だが今はただ学ぶのだ。この糞ジジイが何故こんなに球を飛ばしているのかということからまず学ぶのだ。
このドラコンジジイは怒って居るのだ。世の中に対する怒り、それは義憤のようなものなのじゃよ。
其の怒りをドライヴァーのヘッドに込めて球をぶっ叩いて居るのじゃよ。
だからこんなに飛ぶのだ。まさに飛んでけ、バカヤロー、なのじゃよ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1481回) ..2013/07/24(水) 01:00 No.4554 |
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MP S-1ドライヴァーはミスには寛容ではなくミスをすると必ず右の方へフケるという一種癖のあるドライヴァーである。
が、あくまで正しいスイングを行っていれば真っ直ぐに飛んでいくドライヴァーなのではある。
従ってソールなどに鉛を貼って調整してみるという手はある。
そうなのだ、ゴルフの道具も実は調整の方が出来るのである。
其処は万年筆のペン先の調整と同じ様なものなのである。
昔私はいたるところに鉛を貼ったドライヴァーで打ちまくって居たことがあった。
然しこの15年位は鉛を貼って来て居ないのである。
300Sドライヴァーは元々素直なドライヴァーなので鉛を貼って調整する必要など無かったからなのである。
其処は万年筆でも実は同じことで、素性の良いペンはペン先の調整など行う必要の無いものが結構あるものだ。
従って調整などは出来ればしない方がよろしい訳なのである。
調整無しの方がずっとよろしい。
ではあっても時としてどうしても調整が必要となる場合があり、その時に限り調整を行うことを考えるというのが道具を扱う上での基本なのではあるまいか。
ところが最新のドライヴァーは実に多くのモデルが調整の出来る機構を初めから備えて仕舞って居るのである。
だがそうした傾向には若干の疑問が残る。
つまりは使い手の側にクラブを合わせていって仕舞うことに対して違和感を感じて仕舞うのである。
そうではなくクラブの側に己の技量を合わせていくべきなのではないだろうか。
いや、確かにそんなのはまるで江戸時代の武士のような考え方で今は全然流行らない考え方なのだろう。
ですが長きに亘り私は難しいクラブに合わせる為に己の技量を磨いて来たのであるから矢張りいまだにその考え方から抜け切れないのである。
さて、ハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーの方はどうも矢張りカンタン過ぎる、つまりは私にとって少々軽薄過ぎる道具であることが次第に分かって来た。
このクラブは確かに楽に飛ばせるのだけれど、どうもイマイチ軽過ぎて球が高く上がり過ぎることなども多い。
シャフトの方もRシャフトなので余計に球が高く上がる。
ただし吹け上がる訳ではない。
あくまで弾道が高くなり過ぎるのである。
打ち方により丁度程良い高さの弾道にすることも出来るのだけれど、其処が意外と神経質でなかなか難しい。
結局私にはSシャフトの方が合って居たのだろう。
MP S-1ドライヴァーの方は何せUS仕様のSシャフトで実質Xシャフトに近いものなのである。
それでも充分に球は上がるから私は結局ハードヒッターなのである。
MP S-1ドライヴァーは作りの方が丁寧で結局は高級品であることが徐々に分かっても来た。
対してドラコン用のハイパーブレード インフィニティ ドライヴァーにはそうした高級感のようなものは漂って居ないのである。
前回に私は十数年前の300Sドライヴァーの方がMP S-1ドライヴァーよりも作りが良いということを書いたのだったが、其れはその通りのことなのだとしても最近のドライヴァーと比べるとS-1ドライヴァーはむしろ高級品と呼べるものなのである。
さて、HSの速いハードヒッターというのは巷に結構ゴロゴロしているものである。
私もこれまで様々なハードヒッターのアマチュアゴルファーを見て来たのだけれど、それらの人々はどうも三種類位のタイプに分かれるような気がしてならないのである。
尚私の定義でいうハードヒッターのアマチュアゴルファーとは最低限天白練習場のネットに球を直接当てられる人々のことを言う。
と言うのも、ネット下部に当たって230Y〜240Y位、真ん中に当たって250Y〜260Y位、上部に当たって270Y〜280Y位の飛距離であろうかと思うからだ。
何だ、意外に距離が出ていないなと思われるかもしれないのですが、練習場の距離表示というものは甘く表示されているものなのでその分を差し引いた上で以上のように飛距離を決めておかないと大間違いの過大な飛距離を自分の飛距離だと思い込んで仕舞うことが多いため其処は注意が必要なのである。
そして300Yを実際に飛ばそうと思ったら天白練習場のネットを越えていくような球でなければそれは無理なのである。
トーナメントの模様をTVで見ていると若手の男子プロがいとも簡単に300Yオーヴァーのドライヴァーショットを放って居たりするものだが、 そうしたスーパーなショットは我我アマチュアゴルファーにとっては生半可なものではないのである。
其の飛距離を実際にコースで飛ばそうと思ったら天白練習場のネットを越えるような球筋を常に打ち続けていなければならないのである。
そしてそういうのは、この私でさえも出来ないのである。
いや、練習場で出会う多くのハードヒッターのアマチュアゴルファーにしてもそんなことは出来ない。
私が10年位前に見た大学のゴルフ部のレギュラー部員に一人だけ其のネット越えを見せて呉れた若者が居たが彼ほどのパワーは無論のこと我々には望むべくもないのだ。
1.打音が物凄く良いハードヒッターのアマチュアゴルファー 2.打音が時に悪いのに兎に角飛距離が出るハードヒッターのアマチュアゴルファー 3.スイングが物凄く美しいハードヒッターのアマチュアゴルファー
というようにハードヒッターのアマチュアゴルファーを分類してみると、私自身は間違いなく2.のタイプである。 時折芯を外して打って居るのにそれでも結構飛距離の方だけは出て居るのである。
3.はシングルプレーヤーに多い。 スイングが完成されていて美しく、練習場ではミスショットをする確率が低い。
1.のタイプは、然しながらその打ち方が本当に良いのかどうか分からない。
時折居るタイプなのですが、兎に角打音がクリーンで完全に球を拾っている音がして居る。
なのに良く見るとネットの下段位までしか届いて居ない場合も案外多い。
またこうしたタイプの特徴として兎に角ハードに球を叩いて居る感じの人が多い。
これらを総合して考えると、これら1.2.3.が全部出来て居るゴルファーはアマチュアにはなかなか居らずプロの方に多く居るのである。
当たり前のことではあるがプロゴルファーとは一般人には不可能なことを現実に成し遂げている超人のような人達のことを言うのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1493回) ..2013/08/13(火) 01:11 No.4567 |
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MP S-1ドライヴァーには次第に慣れて来て、丁度程良い高さのストレートボールが打てるようになって来た。
時として左に引っ掛けることがあるが、これはクラブのせいと言うよりは私のスイングの癖が悪いせいなのである。
MP S-1ドライヴァーはハードヒッターに向くチタン鍛造ドライヴァーで打感がとても良い。
エンジニアが考えるチタンドライバー(ゴルフ) http://www.jra.net/pal2/golf.html
「市場に出回っているチタンドライバーの内75%が鋳造品で17%が鍛造品です。(その他8%) ソウルやトップに凹凸を付けて工夫して有るものはまず鋳造品です。」
とのことで、現在市販のドライヴァーでは実は鍛造ドライヴァーは僅か17%しか存在して居ないのである。
まさにあの鍛造ニブ付きの万年筆が少ないことと同じくして、鍛造ドライヴァーを使っているということは明らかに贅沢なことなのである。
それも、HSが45m秒を超えるハードヒッターの人々が使うと鋳造ドライヴァーとの違いがはっきりと分かって来る筈なのである。
このこともまさにあの万年筆のニブと同じことなのであるが、筆記の腕の方の達者な人が使うと圧延ニブと鍛造ニブとでは性能の面で大きな差があることが良く分かるということがある。
チタン鍛造ドライヴァーはそもそもモノが違い高級品なのであるから、使えば使うほど其のモノの良さが際立って感じられて来て入手して良かったと心から思えるようになるところが凄い。
万年筆も戦前のエボナイト軸で鍛造ニブの付いたものを入手して使い込んでいくと、使えば使うほど其のモノの良さが際立って感じられて来て入手して良かったと心から思えるようになるところが凄い。
思うに、ブランドでどうのこうの選ぶことよりも、こうした本質的な製法の面を基準としてゴルフの道具や万年筆を選んでいくべきである。
そのことを行っていけば、結局良い道具が得られる。
ただしゴルフで言えばHSの遅い人つまり非力な人が高価かつ難しい鍛造ドライヴァーを使ったとしても実は余り意味が無いのである。
だからHSが45m秒以下の非力な人は鋳造品でも充分なのである。
特にアイアンセットは鋳造でキャビティタイプのクラブを使った方がゴルフが易しく出来るようになるのである。
だが私のようにHSの速いハードヒッターは本質的な性能の優れた鍛造ドライヴァーでなければ何やら球を打ったような気がしないのである。
また万年筆の方も無論同じで、基本的に高い筆記技術を持つ人に鍛造ニブは向いて居る筈だと個人的には思って居る。
さて、こんな風に次第に惚れ込んで来つつあるMP S-1ドライヴァーであるが、是れの重量を量ってみたところ意外に軽くて312gしかなかった。
320gはあると思って居たから全く意外な数値だったのである。
312gでもシャフトがUS仕様のSシャフトで堅めで、しかもヘッドが小振りで重量を感じさせるタイプだから軽くは感じられにくいのかもしれない。
実際もう一本のドライヴァーのハイパーブレードインフィニティの方は310gでしかも45.5インチシャフト付きなので振った時に軽いクラブのように感じられて仕舞う。
しかもこちらは鋳造のチタンフェースではないかと思われ、その点で確りと鍛造のチタンフェースとなって居るMP S-1ドライヴァーと比べるとどうしてもモノが落ちるのである。
ドラコン仕様である筈のハイパーブレードインフィニティは意外にアヴェレージゴルファー向けで、HSが48m秒前後もあるようなハードヒッターには物足りないクラブのようである。
MP S-1ドライヴァーの場合はこのままでも充分に使っていけるのだがリシャフトしてもう少し重量感を増しハード仕様のアイアンとの一貫性を出していくという手もある。http://www.golfclubsuuchi.com/shaft/shaft-flex/
シャフトはフェースが割れたMP-001のXシャフトが付くのではないだろうか。
或いはハイパーブレードインフィニティの方にMP-001のXシャフトを付けるという手もある。
いずれにしても私の場合は矢張りハードな仕様のクラブの方が打ち方としての性に合って居るようだ。
それから気になるのはシャフトのトルクである。
US仕様とのことだがトルクは3.7あり数値が低い方ではない。
トルクというのは謂わばハンドルの遊びのようなもので、私の場合はこの遊びが少ないスポーツカーのようなハンドルつまりシャフトを昔から兎に角好んでいる。http://www.golfclubsuuchi.com/shaft/torque/
ダラダラした遊びは要らない、ダイレクトかつストレートなものが何でも好きなのでもっとシヴィアに操作出来るトルクの数値のシャフトが出来たら欲しいところだ。
出来れば3以下のトルクのシャフトが欲しい。
ま、其れもMP-001のXシャフトならば3.0前後のトルクになるのかもしれないのだが。
http://suuchi.golfclubsuuchi.com/exg/gears/wp/driver-head/mizuno-driver/mizuno-2009-138/
それからMP S-1ドライヴァーは意外にと言うべきか、それともいかにもプロモデルらしいと言うべきか、実は超高重心のドライヴァーであることが上のデータから分かった。
普通アヴェレージゴルファー向けには逆に低重心のドライヴァーであることが向いて居るものだ。
http://www.golfclubsuuchi.com/head/head-moi/
高重心のドライヴァーでは球が上がりにくくなりそれに球筋が吹け上がるものとなり易いのではないだろうか。
其処で若干ソールの方に鉛の板を貼って低重心化することなどもあるいは良いのかもしれないのだが。
いずれにせよゴルフは物理現象を利用して行うスポーツなのだから、データの方を無視するという訳にもいかないのである。
データだけではなく球を打った時のフィーリングも確かに大事なのだが最近はゴルフのクラブの方も科学的なデータが添えられて売られて居ることが多く、自分に合ったクラブを選ぶ時の大きな目安となって居ることも否めない部分である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1501回) ..2013/08/25(日) 23:07 No.4575 |
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不思議なことに今鉱物ショーの方は盛況のようである。
私は本日名古屋鉱物ショーへ行って参りましたが、其の会場の方は大変混んでいて全くの盛況でした。
同じ場所で行われていた骨董祭の方も覗いてみましたが、こちらの方は客も疎らで見るからにこれでは駄目だなという感じを受けた。
時代の閉塞感が漂う中、何故鉱物結晶はこんなに人気があるのだろうか?
其れは様々に理由付けることが出来るのだろうと思う。
然し、そうした理由付けよりも、ただ自然はどんな時でも人心を癒して呉れるということだけを私は考えていたい気分である。
自然の生成物というものはどうも人知の及ぶ範囲を初めから超越しているような部分があり、言うなれば其れはただの化学組成で表されるところの物質の原子の結合体だというだけでは無いのである。
生命としての木や鳥や虫達、つまり動植物の物質からの超越性というものも矢張り人知の及ぶ範囲のものでは無いが、それ等ばかりではなくあの冷たい石までもが単なる科学的に記載される物体では無いのである。
共感?それとも共鳴?
我々人間は多分自然と直接的に連なることが元々出来るのだろうと思う。
然し現代人は余りにも其のことから遠ざかって来て居り、それゆえに見えるものも見えなくなり聞こえるものも聞こえなくなって居るのだが自身には其の事が寸毫も分からないのである。
然し、にもかかわらずこうして石に引き寄せられて人が集まって来て居るのである。
確かに女性が多いが、そうばかりでもない。
案外大人の男性も多い。
が、何故か其処に子供は少ない。
尚子供に電子機器のようなものを買い与えるのは止めた方が良く、その代りにたとえばこんな鉱物ショーに連れて来る方が余程に為になる。
現代の常識は真理への背反、非常識であるからして、世の若いお父さん、お母さん方はしかとこの哲理を胸に刻んで世の中の動きに少しは疑問を持つべきである。
其の何かと不安な現代社会を生きる若いお父さん、お母さん方の方がむしろ熱心に石を探して居る。
彼等は我々五十代よりもまた余計に長く不安なこれからの世の中を渡っていかなくてはならない。
大変だ、本当に、大変だ。
ところで『プラトーン』という反戦映画で有名なオリヴァー・ストーン監督が昨日TVで印象的な言葉を述べられていた。
『人間は戦いを自ら作り出している。
戦う必要が無い筈のところの戦いを自分で創り出して戦って居るのである。』
或いは全く其の通りなのかもしれない。
人間の眼が皆等しく石の方向を向きでもして、そうして其処で心を鎮められ、それで邪な大きな欲望を抱くことの馬鹿さ加減に気付きでもしたら其れは矢張り石という自然が人間を正しい方向に導いたということになるのだろうな。
実際何故こうも人間は石の癒しを、石による癒しを求めてこの会場に集まって来て居るのだろうか。
このことからも人間が最後に癒されるべきものとして選ぶのは無垢で静謐な物言わぬ自然そのものであるのかもしれない。
最後にというのは、実際昨今の自然の営みの狂いや其れは大したもので、異常気象はもはや常態と化し、肥大化した欲望は全人類を巻き込み歯止めが効かない態となって居る。
これは近いうちにハルマゲドンが勃発するぞと作家や詩人が其処でのたまうが、健全な常識人はそんな酔狂な話に耳を傾けている暇などは無い。
庶民は皆日々を生きるのに必死であるだけであり、其の生きるということにかまけている以外に庶民の歩むべき真理への道は無い。
さて、件のパイロクスマンガン石でありますが、ひとつ、まずまずのものがとある店に置いてありました。
然し其れは高額の標本でした。
無論そのことは田口鉱山が採集禁止になったこともあります。
其の地元のラピスという鉱物専門店の店主と色々話をしました。
そこからすると、
1.田口鉱山はとある天然石やパワーストーンの卸問屋が所有する私有地となったそうである。 2.ズリはすでに浚われて居て無い。従って今後パイロクスマンガン石はズリから採れない。 3.15年程前東京ミネラルフェアにパイロクスマンガン石の良晶が出て其れが7万円で売られていた。 ラピスの店主は其れを買っておくべきだったとそう話して居られました。
東京のミナスサトウの系列会社の店でエメラルドの原石についての情報を得た。
1.エメラルドの良い原石は今はもう出ない、其れは枯渇気味である。 2.古い石=昔掘られた石の方が品質が良い。 3.この一番良い標本は12万円である。
尚、近年の私はこれら二種の石に興味があるばかりで他はさして真面目に見て居りません。
それにしても、案の定これら二種の石は枯渇に向かって歩んで来て居ります。
従ってあのルビーの原石よりもパイロクスマンガン石の良晶の方がより価値があり、ダイヤモンド原石よりもエメラルドの原石の方が余程に価値があります。
さて今回の名古屋ショーではかの中尾コレクションに於けるパイロクスマンガン石の良晶の出展があり其れをじっくりと観察して来ることが出来た。
http://www.nagoyamineral.com/
こちらの中央に大きく写っている赤い結晶鉱物が其のパイロクスマンガン石の良晶である。
之は深く華やかな燦きがあり写真よりもずっと美しいものであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1513回) ..2013/09/10(火) 23:15 No.4589 |
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夢のある石オパールはいつも私を夢中にさせて呉れる。
其れもオーストラリア産などの外国産の石ではなく国産のオパールこそが私のお気に入りの石なのである。
国産のオパールは何処にでもある石という訳ではなく限られた場所にしか出ない稀少な鉱物である。
とは言え火山国である日本ではおそらく掘れば結構出て来る石ではあるのだろうが、オパールは資源として採掘されるということが無い為に元々探しにくい石なのである。
石というのは、多分今のこの日本でも掘れば幾らでも出て来るものと思われるのだ。
ただし、採掘されることが無い石は地中や岩の中に埋まって居てずっと日の目を見ないということなのである。
石なんて幾らでもあるが、採掘には大金が必要なので誰も好き好んで余りお金にはならない石を掘ったりはしないものなのである。
鉱物の愛好家が訪れる日本の鉱物産地はほとんどが戦時中か戦後暫くの間資源確保の為に稼働していた小規模な鉱山がほとんどであり、従って当時の捨て石の中からめぼしい石が拾い尽くされて仕舞うともはや産地としては枯渇して仕舞うのである。
どだい最近は鉱物産地が軒並採集禁止となり山で石を採って来る楽しみ自体が風前の灯である。
何にせよ今は人間の数が多過ぎてダメである。
もっとも日本の場合には特に人口が増えて居る訳ではないのだが主にネット上の情報により全国各地から石マニアが訪れる為に産地の荒廃が進み何処でももう石が出ない。
尚私は今休暇中で明日は鳳来寺山にほど近い棚山高原というところへ行きずっと山を歩いて来るつもりである。
オパールの産地ではあるが、現在は石は採り尽くされて良いものは無く、おまけに採集可能なところと禁止されているところの境界が曖昧で現在鉱物採集自体がなかなか難しいところだ。
それで石を採るということよりも、兎に角山の中で遊んで来たいのである。
一日中遊んで来る。
おそらくは朝から夜まで。
以下は昔採集した棚山高原のオパール。
とは言っても最も価値のあるノーブルオパールは撮影して居ない。
遊色のあるノーブルオパールは撮影がなかなか難しく時間がかかる。
コモンオパールとは遊色が出て居ない普通のオパールのことを言う。
ただし普通のオパールとは言え、透明度が高く色合いの良いものは特に価値がある。
棚山のコモンオパール http://yahoo.jp/box/PiWBC8
通常棚山では白の不透明、薄い青の不透明、其れから無色透明、薄い青の透明のオパールが産出する。
白が一番多く、透明や青の方が量は少ない。
青いオパールは特に色が濃くなるとなかなか美麗である。
棚山の場合90年代の堰堤の工事の時に岩盤が削られて石が出たということだけであるので、其の折の石が無くなった今となってはなかなか美麗な石を得ることは難しい。
要するに90年代に鉱物マニアによって一度石は採り尽くされて居るからなのである。
ただし、台風や大雨などで小規模な山崩れ、或いは山の斜面の侵食などが引き起こされたりすると、自然に大きな岩が削り取られたり、或いは地中から石が転がり出たりしてそうした石が沢などに落ちて居たりするものなのである。
http://yahoo.jp/box/pvbpwg 不透明な黄色と白のオパール
不透明でも黄色いオパールは結構綺麗なのである。 特にここまで色合いがしっかりとして居るととても美しいものだ。 また白と黄のコントラストの美しさということもある。
http://yahoo.jp/box/gq4d7G 黄色のオパール
このような透明な黄色のオパールを探すことは結構難しい。
棚山で普通に落ちて居たりするオパールは皆不透明な白色のものである。
其れだけが多くあり、こうしたスペシャルな色合いのオパールを探すのは十年位通わないと無理である。
しかしながら其れもかっての話で、今は棚山高原も部分的に採集禁止となって居るので腰を落ち着けた採集を行うことは難しい。
http://yahoo.jp/box/_Q5hQq 翠色のオパール
之も90年代に探し出した物で、流紋岩の母岩に翠色のオパールらしきものが嵌め込まれて居る。
多分オパールの筈である。
ちなみに翠色のオパールは此れ一個を持つのみ。
昔十年位は通って此れ一個のみ。
だからおそらくは今何年通ってもまず採れやしないことだろう。
http://yahoo.jp/box/OoedWb 赤色のオパール
こちらは幻の赤色透明オパールのように見えますがどうなのだろうか?
之も矢張り90年代に採集した石だが赤色透明オパールであると確定的には言えない。
が、実際かなりに赤色透明オパールのようではある。
鉱物ショーへ持ち込んで鑑定して貰う必要はあるが、現状ではどうも幻の赤色透明オパール臭いのだとは言える。
ちなみに之も此の一個のみ。
他に赤のオパールは持って居ません。
嗚呼、思い出したがもうひとつ、超レアーカラーとしての肌色不透明オパールの標本も一個だけある。
其れは先程写真に撮るのを忘れて居りましたが確かに在る。
しかも其れはほとんど確実にオパールであると言う事が出来る。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1515回) ..2013/09/12(木) 19:32 No.4591 |
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愛知県県新城市川売(かおれ)棚山760m & 奥三河観光 Mar 19. 2013 http://www48.tok2.com/home/yamabiko/yamabiko13/tanayama.html
こちらでの・瀬戸岩展望・N提供という写真が実際の瀬戸岩での景観に近い。
・夫婦滝というのは実際には此処での写真よりも大きな滝に見える滝。昨日私は足を滑らせて此処の滝壺に落ちた。 もっともズボンが腰まで濡れただけで大したことは無かったのだが。
ズボンが腰まで濡れる位のことは山では日常茶飯事である。 スニーカーのゴム底が松脂岩の割れたものでスッパリと切れることさえある。
運の悪いことに落石で足を深く切り、麓の村から救急車を呼んだ人もかっては居たらしい。
尚この方もキャンプ場が閉鎖されて仕舞ったことに対して色々と書いて居られる。 浪費を進める高度経済成長は全ての国民から自然を楽しむ余裕を奪った、というようなことを書いて居られますが全く其の通りなのである。
また日本人は真面目過ぎるので夜昼となく働かされ心身ともに疲れ、そうした状況の中では学校の先生も子供をキャンプに連れ出す勇気が失せ、またアベノミクスはキャンプ場を一層荒廃させることだろう、などというようなことも述べて居られますがこれも全く其の通りなのである。
いまだに経済アニマルの日本人は子供を山へ行かせるというちょっとした心の余裕すら持って居ないと言えるのかもしれない。
・川売の猿岩 15:35・N提供というのは棚山の麓の川売の集落のはずれにある奇岩である。 スズメバチの巣なども以前この岩にぶら下がって居たことがあった筈だ。
山というのは都会とは違い体力的には大変だが精神的にはむしろ穏やかになれる、人間の精神にとってはとても良いところである。
気ままな山歩き 棚山縦走ルートで宇連山へ http://yama.toyota-jp.net/oku-mikawa/tanayama-ureyama/index.html
こちらにも瀬戸岩の写真がある。
其の前に棚山への林道の写真があるが丁度こんな感じである。
写真でのように稀に大きな岩の落石がある。 舗装路以外の所では時に道が崩壊して車では行けない場合さえある。
が、昨日は林道の整備が完璧で以前よりもむしろ楽に車で登っていけた。
キャンプに行かまいか! 棚山高原から宇連山 http://totokakafamily.naturum.ne.jp/e1681156.html
こちらには海老集落への行き方や棚山の登山道の様子、廃墟と化したキャンプ場などの写真が実際の感じでのように撮られている。
山は特にこの21世紀に於いては貴重な環境である。
山ということは何かということをもっと現代人は学んでおくべきだろう。
http://yahoo.jp/box/nUq9CQ
現在の石川県小松市赤瀬町ではかってオパールを産して居た。 此処も現在は採れないらしいのだが、こちらの写真は私の持ち物でかってヤフーオークションを通じて地元の方から多くの石を得た時のものである。 之を見る限りは暖色系のオパールが多く出ていたようである。 赤っぽいもの、黄色いもの、肌色のものが多い。
赤瀬のコモンオパールはこんな風になかなか華やかである。 ちなみにノーブルオパールの産出もあったようだが、市場に出て来ることはごく稀である。
http://yahoo.jp/box/-PcRW5
こちらが棚山産のコモンオパールで、私が採集したものとヤフーオークションで現金採集したものが混ざって居る状態。 ただし八割方は私が採集したものである。 棚山産のコモンオパールは暖色系の多い赤瀬に対して寒色系が多い。 赤っぽいもの、黄色いもの、肌色のものは少ない。
ノーブルオパールの産出については、90年代の堰堤工事により良品が多く産出したそうだ。 私も其れらの幾つかを持っては居るが良品と呼べるようなものは無く其の下のクラスのものばかりである。 然しながら其れ等が集まると流石になかなかの美しさである。
オパールは兎に角美しい石である。
http://yahoo.jp/box/0ERmBU
薄青い棚山産のコモンオパールもこのように量感のある石であれば非常に美しい。
http://yahoo.jp/box/3HJ-0l
棚山産の黄色とピンクのコモンオパールである。
ピンクないしは肌色のオパールは棚山では非常に珍しい。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1517回) ..2013/09/17(火) 21:20 No.4593 |
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最近私はまた石道楽の世界に嵌って居るのである。
石道楽と言えばひとつ面白い話がある。
以下はかって付き合って居た大阪の石仲間のブログである。
彼は私よりも一回り程も若い。
そして身障者である。
筆談でコミュニケーションを取るしかないのだ。
それなのに小型のベンツに乗って居て日本全国へ鉱物の採集に出かけることが出来るという一種恵まれた境涯にある。
確か2006年に岐阜の洞戸鉱山で知り合って、其処で筆談をしながら兎に角一度田口鉱山の坑内へ入ってみようという話が纏まった。
それである日田口鉱山の入口の駐車場で待ち合わせをして、装備を整えて山を歩いていき共に廃鉱へ入坑した。
ところが田口の坑道は入るといきなり強い下り斜面となって居り、滑らないようにロープなども張ってあったのである。
其処を慎重に降りたのだったが、最後の難所で彼は足を滑らせ私の目の前に落下し岩盤で腰をしこたま打って仕舞った。
ところがそんなこと位ではへこたれないのが我々石キ○ガイどもで、彼も五分後には大丈夫だというサインを出して来たのでよし、それでは行こうとそのまま暗闇の坑内を探索していったのである。
すると、坑道の右手の方に小さな広場と言って良い位の空間があり、其れはシャフトのすぐ際なのであったがなぜか其処には鉱山稼行時の捨て石が一面に敷き詰められて居たのである。
以後我々は其処で二時間程パイロクスマンガン石を探した。
何せ暗いので、懐中電灯だけがたよりの恐怖の空間なのだが、実は二人でやって居ることによりほとんど恐怖感は無い。
時折彼の顔を懐中電灯で照らすとかえって其の顔が怖い。
彼の顔が特に怖い造作である訳ではなく暗闇の中に人間の顔だけが浮かび上がって見えることが怖いのである。
さて、我々はこの時の採集で大きな収穫を得た。
私は私でそこそこに石を確保した。
然し彼の嗅覚も決して侮れなかった!
実は彼は凄かったのである。
異常と言って良い程の石を引っ張って来る力の持ち主だったのである。
一種の特殊能力者だ。
多分彼は感覚が健常者以上に鋭いのである。
それもこれぞという石を探し当てる能力に長けて居る。
其の点では私は全然かなわない。
ただしこちらには地の利がある。
私は其の後毎週末一人で此処へ入坑してまずまずの成果をあげたのであった。
然し独りで石探しをやって居ると実に怖い。
何度か、どうも人の話し声がするので誰かが石探しに来たのかと思い見に行くと誰も居なかったということを経験した。
とは言えお化けが実際に出た訳ではないので始終怖かったという訳ではない。
鉱物採集道楽-大ぶりのパイマン http://mineraljp.exblog.jp/3973102/
2006年に共に入坑した時の彼の収穫物である。 確かこれが一番良かったものだった。 ー之は私のものになっていたかもしれない石であった訳だ。欲張りということではなく。ー
久し振りの田口鉱山再訪 http://mineraljp.exblog.jp/6053421/
こちらに「当時にある産地で知りあったばかりの仲間が田口鉱山へパイマンを採りに行ったのを知り、」と書いてあるが多分それが私のことである。
然しこの男は相変わらず良い石を探し当てる力が凄い。
ルビーのようなパイマン http://mineraljp.exblog.jp/7661782/
たとえばこんなものは普通ズリの方では採れやしない。 こんなまるでルビーの指輪のような、しかも大きな結晶のパイマンは見たことがない。
パイロファン石 http://mineraljp.exblog.jp/3862095/
この標本も当時現地で実物を見せて貰って居るがまさに素晴らしいものだった。
普通田口鉱山のパイロファン石はこんなに大きな結晶になるということはない。
鉱物採集道楽-超奇跡のノーブルオパール!! http://mineraljp.exblog.jp/7201463
最近宝石屋のT君ー弟の親友でかっては屡一緒に鉱物採集をして居た男ーに会って話をしたが、彼も矢張りmimikenbou君は普通ではない、石を引っ張って来る力が常人とは異なるとそう言って居た。
棚山でこんなノーブルオパールを採っていたとは知らなかったがこれはまさに奇跡も奇跡、一級の奇跡のことであるのかもしれない。
まあ然し私もかってノーブルオパールは採って居る。
其の日棚山の麓で滝の辺りに七色に輝く虹が出て居て、其れで今日は採れるかもしれないぞと思っていたところ本当に採れたのである。
宝石質のトパーズ http://mineraljp.exblog.jp/6737876
彼は兎に角並外れて石の引きが強い。
ただし、日本全国から石を採りに来るということは私の場合矢張りどうかとは思う。
鉱物愛好家は少なくとも地元の石を採るべきではなかったろうか。
私の場合は愛知県、岐阜県などは地元になるのだから基本的に採っても良かったのだろうと個人的には思う。
石の愛好家は結局欲に任せて石を採り続け、日本の各産地で石を枯渇させて仕舞った。
地元の石に限れば無論のことソレにはこの私も一役買って居る訳だ。
でも私は遠い産地の石は現金で採集することと昔から決めて居たのである。
よそ者が急に訪れて石を採って、其れで土地の山の神様が喜ぶという訳でもあるまい。
然し結局、そうしたグローバリズムの問題、ネットや書籍といったマスメディアによる情報の弊害により石の産地は荒らされて仕舞った。
かってmimikenbou君にもちらりとそうした意見を遠まわしに述べたのだったが、それからというもの我々の石の上での付き合いはなくなって仕舞った。
然し彼の引きの強さだけは本当に驚嘆すべきものであった。
彼の人生は案外この私などよりもずっと充実したものとなっているのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1538回) ..2013/10/22(火) 23:00 No.4614 |
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医療の世界とはいまだに聖域である部分があり其れを庶民がどうのこうのと言える世界ではないのである。
要するに畏れ多いので何も言えなくなって仕舞う世界なのである。
ということは医師は人間存在の中でも特別な人々で、最近は教師が特別な人々では無くなりつつあることとは違ってまさに聖職であることを担って居る人々であるように思われる。
逆に言うと其の聖職に従事して居る医師はほとんど何があっても患者にとっての絶対的な存在なのである。
仏教徒としての立場に於いては、此の世には仏以外に絶対的な立場などあろう筈が無いと決め込んで居たのだったが、そうした現実的な意味での揺るぎない立場関係の世界の存在をこの度思い知らされたのであった。
と言ってもそう大袈裟な話ではなくまたぞろ我の病気の話なのである。
我はこの8月に病気になり9月の終わり頃に手術を受けた。
何でか知らないがここ数年というもの8月になると必ず病気になって仕舞うのである。
太腿に突然何やら黒いできものが出来、其れが次第に大きくなるが、なぜかしら直感的に悪いものではないと思われて居た。
それで其れを放って居いたところ、黒いものがやがて大きくなり其れを少々引っ掻いたら取れて仕舞った。
取れたので余計に悪いものでは無いことだろうと正直思った。
ところが其れがまた同じ部位に発生して黒くなって来た。
其れで流石に心配になり、件の中村皮膚科にかかった。
例の美人女医の居られる医院である。
其の時美人先生に我の汚い太腿を晒すのが恥ずかしく、男性の先生の方に診て頂いたのである。
ところが此の先生が有名な偏屈医者で、実は現代社会では考えられない程の変な先生なのである。
其の先生が美人先生のお父様の中村先生なのである。
ではあるが、この老先生が変だということは私も屡聞き及んでいた。
が、兎に角美人先生の目の前でパンツ一丁にはなりたくなかったのである。
中村先生に病状を説明するのだが先生は其れをまともには聞いて呉れない。
あまっさえ時折脅しのような文句さえ入り病人をして不安に陥れる。
これ、アナタが考えてる様なもんじゃなく悪いもんかもしれんですよ。
まずいんじゃないかな、これは。
おーい、○子、診てあげてよ。
とか言われるのでこちらは不安だらけである。
然し美人女医の○子先生は、患部を見るなり、
これは悪いものではないようですね。
と仰った。
それで何でか知らんが美人先生の見立ての方を信じる気になった。
ただし、名古屋市立大学病院への紹介状も頂いた。
其れは念の為に大学病院で診て貰うということであった。
名古屋市立大学病院は晩年の父が癌を患い入院して居たところである。
私も小学生の頃ここへ入院して扁桃腺の手術を受けたことがある。
現在は高層階まである大病院になって居り、上の階からは大パノラマの景観が楽しめる凄い病院だ。
尚父は名古屋市を定年退職してからこの病院の施設管理部門の責任者をして居たのだった。
65歳まで其の仕事に従事し、5年間だけのんびり暮らして、70歳で亡くなって仕舞った。
もうひとつ、高校の同級生のお兄さんがこの病院の勤務医でご専門は確か精神科だった筈である。
そんな訳で我が家とは何かと縁の深い名古屋市立大学病院である。
この病院で皮膚科へかかると一時間半も待たされた挙句に、若い医師の方からいきなり基底細胞癌の疑いがあり、と告げられた。 Wikipedia-基底細胞癌 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E5%BA%95%E7%B4%B0%E8%83%9E%E7%99%8C
ただしもしそうだとしても悪性度は低いとのこと。
悪性ではあっても本当に悪いものではないということらしい。
ではあるが一応は癌である。
其れで心にガーンとこたえない奴は居ない筈なのである。
一週間後に手術をしたが、其の折に執刀医から手術による摘出部位の大きさを選ぶようにというお話があった。
だが、ということはどうも良性腫瘍である可能性もまたある訳である。
其れで結果が悪ければもう一度手術して貰うという条件で小さく切除して貰う方を選んだ。
結果的にではあるがこの選択が正解で、病理検査の結果、被角血管種であったことが判明し無事にすべてが済むこととなった。 Wikipedia-被角血管種 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E8%A7%92%E8%A1%80%E7%AE%A1%E8%85%AB Wikipedia-血管種 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E7%AE%A1%E8%85%AB
術後の経過は良好で現在は手術による傷も余り目立たない程である。
ーこうした良性腫瘍摘出手術は日帰り手術で、それも歩いて帰れる手術である。実際悪性腫瘍の場合でも通院型の治療が現在は可能であるようだ。ー
ただし、実はそればかりではなかった。
実は今年の6月頃から鼻筋の真ん中辺りに黒いほくろのようなものが出来其れが悪いものではないかと気が気ではなかったのだ。
結局それも老人性のシミのようなものと分かりホッとしたのだったが、それにしても老人性とはね。
ついにほんたうの意味でのジジイになり始めて居るのだろうな。
さらにそればかりでもなかった。
スッカリ命が助かり大喜びで病院を後にしたのは良かったが、何と其の次の日に大腿部の裏側に腫瘍のようなものが出来其れが次第に大きくなり数日後には痛みを伴うようになって来た。
無論のことこちらの方も大心配で夜は眠ることが出来ず食も進まずでゲッソリである。
然し其れも結局は腫れ物が膿んでそうなったものなのであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1539回) ..2013/10/22(火) 23:01 No.4615 |
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何にしても、そんなこんなで此の二ヶ月位は精神的にまことに大変だったのである。
結局体の方は大した病気でもなかったのだが、兎に角其のことに振り回され煩わされて精神的に辛かったのである。
たまたま九月、十月とおそらくは来年からは取れなくなることだろう休暇なども取っては居たが、実は其の一件があることから山の中で遊んでいてもどうも不安感が漂い思い切り楽しめなかったのである。
ここで私が何を言いたいのかというと、人間存在は矢張り健康であってこそいろいろ考えたり悩んだり遊んだりすることも出来る、其の健康こそはまずは最も大事なことであるということが今回実感されたということを此処に書いてみたのである。
ちなみに腫れ物の方の治療はまた美人先生の方に診て頂いて居る。
実はもうちっとも恥ずかしくなくて、それこそパンツ一丁で患部をよーく診て頂いて居る。
それというのも、先生のお見立てに敬意を表して男だの女だのというような変な意識を捨て去ることに成功したからなのである。
名市大病院の若い男性医師は基底細胞癌の疑いあり、とされたのだったが美人先生は最初から悪いものではないとされていたのではなかったか。
ということは先生のお見立ては頗る信頼に値するものである。
つまり此の美人先生こそが名医である。
流石は名古屋大学医学部卒である。ーもっとも名市大の医学部がそれより落ちるということではございませんが。ー
いつしか私は男だの女だのという、そうした低レヴェルの性差のことを抜きにして、一人の優秀な医師としてこの美人先生を信頼するようになって居たのだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1540回) ..2013/10/24(木) 23:36 No.4616 |
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「TPPと医療」について http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/tpp-1cad.html
『日本の医療保険制度は世界で最高だと評価されています。これは皆さん良くご存じの通りであります。』
『日本医師会は、国民皆保険を守るというのは、最低限、この三つが守られなければならないと考えています。 まず一つ目は、公的な医療給付範囲を将来にわたって維持する。わかりやすく言うと、医療において、保険の利く範囲を、これ以上狭めないようにする。 二つ目は、混合診療を全面解禁しないこと。 三つ目は、営利企業を、医療機関経営に参入させないこと この三つです。 わかりやすく言うと、日本医師会は、医療の営利産業化を防ごうと思って戦っています。』
『我々は、これらの医療を営利産業化する動きが、TPP交渉に参加することによって、強まっても、弱まることはないと一貫して主張してきました。』
『そして、それとともに、国内改革として、新自由主義的な政策が、医療にどんどん持ち込まれています。真ん中にありますが、2011年4月には、医療法人と他の営利法人の役職員が兼務する道筋をつけることになりました。今日は、一番心配される公的医療給付範囲の縮小についてお話しいたします。わかりやすく言うと、保険が利く範囲が狭まるのではないか、そして、保険外の範囲を拡げて、アメリカを始めとする民間医療保険が参入しやすい基盤整備をしようとしているのではないか、という心配があるのです。』
『我々は、TPPに関して、医療が危ないんだということは、言い続けなければならないと思っています。皆さんも是非、そのことについて、共通認識をして、今日、共通の危機感を共有もしできたら、いろんな場面で声をあげて頂きたいと思います。』上記より引用
TPPで医療は どうなる? http://luna-organic.org/tpp/tpp-3-2.html
『アメリカの医療事情は本当にひどい。公的な保険がなく、民間の医療保険が高いので貧乏な人は保険に入れない。国民全体の15%が無保険だ。そして年間4万4000人もの人が、保険に入っていないがために、医者にかかれずに死んでいく……。 』 『これがアメリカのいう「利益至上主義」医療の実態だ。TPPに加盟したら、日本の医療もその方向へ、じわじわと進んでいくことになる。』上記より引用
TPPの真の狙いは? http://haetarou.web.fc2.com/TPP/TPP_Kaisetu.html
『しかし,TPPの真の狙いは,「医療」である.もっと言えば,求められていうのは「医療保険」の開放である.もっと具体的に言えば,「混合診療を解禁しろ」と言うことである.そして,これを強く言っているのは,アメリカである.』
『すると,国民はこれに備えて,医療保険を買わなくてはならなくなる.だいたい,年齢にもよるが,4人家族で年間30万から200万ほでになるのではないだろうか.高齢者はものすごく高くなるか,入るのを拒否されることになろう.また,もともと病気持ちの人もそうなる.実態は,完璧な医療保険に入ろうと思ったら,マイクロソフトの社長のビルゲイツ位年収がなくてはだめだという話もある.そしてこれのノウハウはアメリカの保険会社が持っている.だから大もうけだ.医療保険に入らない人も出るだろう.しかし,いったんその人が病気になったら極めて悲惨なことになる.苦労して建てた家も何もなくなってしまうだろう.これが混合診療の実態であるし,TPPの真の狙いであるのだ.これを銘記せよ.』上記より引用
皆様は上記の発言を読んでどう思われるのだろうか?
之を読んで私は強い危機感を持って居る。日本の医療制度に対しての危機感を。
今、其の日本の医療の分野にも自由主義資本主義経済の波が押し寄せようとして居る。
其処で今後一体何が起こり得るのかということを国民の一人一人が真摯に受け止め考えていく必要がある。
国民皆保険を謳い世界中でも稀な素晴らしい制度である日本の医療制度は社会保障制度という一種の社会主義的な政策により担われて来たものである。
確かに資本主義国である日本ではあるが、この一種の社会主義政策により皆が安心して医者にかかれる社会を形作って来たのである。 Wikipedia-日本の社会保障ー社会保障の歴史 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C#.E7.A4.BE.E4.BC.9A.E4.BF.9D.E9.9A.9C.E3.81.AE.E6.AD.B4.E5.8F.B2_2
社会主義というと其の語義の持つ反体制的なイメージから毛嫌いする人が多いようだが、実は日本の医療制度は此の社会主義的な施策により達成されて居るものなのである。
つまり私の病気も貴方の病気も其の社会主義的な施策のお陰でより少ない医療費でもって治すことが出来て居たのである。
然しながら逆に言うと資本主義国である日本国では其れを止めて純粋な自由競争の世界に医療の分野が組み込まれたとしても誰も文句は言えない筈なのである。
そして現在其の医療の分野への新自由主義政策からの圧力が次々とかかり始めて居るようである。
其の新自由主義政策というのはかっての小泉政権やまた現在安倍政権が行なって居るようなアメリカ追従式の利益至上主義型資本主義経済の推進のことを言う。
尚元より私の場合TPP交渉参加は反対である。
其れは各国の利害が絡み合う損得勘定のさ中に聖域である筈の医療の分野を組み入れるということなのである。
其れは血も涙も無い商業主義の中に生身の人間の体を価値化してくべ入れるということである。
資本主義の行き着いた形であるグローバリゼーションが医療の分野にもついに進出して来たということでもある。
カネ、カネ、カネ、すべてがカネのサイテーの社会システムであるグローバル資本主義の世界。
要するに金のある人だけが高額の金を払い病気になっても死なずに済み、また金のある人だけが高額の金を払い宇宙旅行へも行く、が、然し其の裏では貧乏人が医者にかかることが出来ず皆病死する。またお金の無い人は宇宙へ行くどころか、御飯もまともに食べられなくなる。つまり其の場合には餓死する。ー将来地球温暖化による極端な気候変動の影響により食糧生産に壊滅的な打撃のあることが予測されている。其の折にはカツ丼一杯にお金持ちが100万円を払い其れを旨そうに食べて居ることだろうー。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1545回) ..2013/11/01(金) 00:26 No.4621 |
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それにつけても野球は面白い。
野球はドラマだとは良く云われることなれど、まさに其の通りにドラマなのである。
おそらくは今年が日本一となる最後のチャンスだろうと思われる星野監督は今胸の高まりを抑えることが出来ないことだろう。
仙台へ戻り田中投手が投げることで果たして勝って胴上げとなるのかどうか、其れは分からないのだがそうなる可能性が高まって来たことだけは確かで ある。
然し勝敗は抜きとしてひとつ大事なことが此の戦いには込められて居る様に思う。
其れは地方の力は中央に比して決して劣って居るものではないということなのである。
中央集権的な大都会中心の統治システムは誤りであり、あらゆる力に於いてー体力に於いても知力に於いても感性の力に於いてもー都会人に対して地方 の人々が劣って居るということは全く無い。
よって地方は大都市圏に対して卑屈になる必要などは全く無い。
最終的には地方がそれぞれに特色ある統治システムでやっていくことの方がより望ましい文明社会のあり方ではないかと個人的には思う。
だから野球もまさにこれで良いのじゃないか。
仙台を中心とした東北の人々が日本一になることで大いに元気づけられれば良いのだ。
それに元々何でも独り占めする、ということは良くない。
ただ、今年巨人軍が強くないと野球の人気が全体的に落ちてしまいかねないことから、昨年私は巨人が優勝した方が良いと言ったのである。
が、実はリーグ優勝すれば良いと言っただけで、日本一になった方が良いとは言って居ないのである。
ただし、不思議なことに私が好きな野球選手は皆巨人軍の選手なのである。
昔は王、長嶋が矢張り大好きだった。
そして今波長が合うと言うか、何となく人間として性格が合いそうな気がするのは巨人軍の選手二人だけなのである。
いや、性格などTVを視て居るだけでは分からないのだから、姿格好や顔付きが好きだということに過ぎないのかもしれない。
其の二人とは高橋 由伸選手と西村 健太朗投手である。
奇しくも今夜は其の高橋 由伸選手が同点のきっかけとなる二塁打を放ち、西村 健太朗投手の方が追加点を許すことになる大乱調を演じて仕舞った。
実は中日や阪神には好きな選手は一人も居ない。
また其の他の球団にも好きな選手は居ない。
ひょっとして隠れ巨人ファンなのだろうか、我は。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1563回) ..2013/11/28(木) 22:54 No.4641 |
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考えてみれば現代文明を推進して居る諸の産業力、科学的な技術力といったものは理系の人間の発想力から生み出されているものなのかもしれない。
ネット上では理系とはモノにこだわり、文系とは人にこだわる性癖を持った人種だと言って居る人も居られるように、其の事はおそらくそれなりに当たって居ることなのだろう。
もっとも理系人間は物自体に拘って居るのかというと其れは少々違っても見え、物の背後に潜む法則性や物理的特性の方により純粋に関心があるのではなかろうかと思われないでもない。
さらに言えば文系人間も様々で、其処にはたとえば私のように直観主義者も居れば感性中心、或いは感情、情動といった面に重きを置く人もあればで様々である。
また理系、文系を問わず論理の構築、論理的な道筋に沿った思考を好む人もあればそうではない人も居ることだろう。
ところで最近大学の先輩と話して居ると様々な面で意見がかち合うようになって来て居る。
S先輩は私とはまるで異なる世界を歩んで来た人だというのに、それでも最終的には同じ様な文明の見方に帰結することが多くなって来た。
先輩は表面上はむしろ明るく振舞うことの出来る人なのだが、おそらくは私の影響からなのだろう、現代文明に対しての否定的な見解が次第に増えて来て居る。
S先輩は漫画の方のマニアなので、オタク的な暗い思考を心中に少々忍ばせる位のことはこれまでに何度もして来て居る筈なのだ。
其の部分が私の文明論と共鳴してむしろ似たような悲観的な結論に傾いてしまうことが多くなって来て居る。
先輩はパソコンが出来かつ趣味で、情報管理の知識も少しばかりあり、これまではそうした情報の分野には未来が拓けていると考えて居たのである。
然し昨今の情報機器についての社会の側からの批判や私の批判を耳にしてこれまでとは考え方が少しづつ変わって来たのである。
たとえばつい昨日などは、話の途中にふいに、
人間は自己完結するものだ。どう自己完結するかというと、其れは電脳社会として自己完結すると述べて居た。
其の電脳社会は人間から疑問そのものを無くして行く。其処では疑問すら持ち得ないような人間に仕立て上げられてしまう。
そして自分から歯止めなく進み自分の首を絞め続け滅びるということもあり得る。
其の自分で作り出した電脳社会が自分を滅ぼすに至るのだからまさに自己完結のものだといえる。
と大体そんなことを述べて居た。
この考えは一年程前とは大違いで、自己をも含めている電脳社会に対する大きな疑問が示されたものとなって居る。
だからこそまさに私は其の部分に感じ入った。
だが、そのような考え方が成り立つことを知ることと、実際に電脳社会に生きていてしかも其の事に便利さを感じて仕舞って居ることとの間には大きなギャップがある訳だ。
結局先輩は理系の人ではないが、経済学のことなども少しは知って居るのでどちらかと言えば理系の方面のことも知って居るタイプである。
実際中学、高校の頃は数学が得意だったのだそうだ。
其の先輩が今以上のようなことすら述べて居る。
然し、社会を批判することとは、即ち其れは既成路線を批判することになるのだから気分的にはスッキリとはせず辛いことにもなる。
重苦しい心でもって現実世界を批判していくのだから決して楽しいことではない筈だ。
だから其の時私は先輩がそのように考えていなかった頃の方が先輩にとってはより楽に生きられた筈だったろう、という意味での後悔のようなものを感じないではないのだ。
人間は大抵の場合事の本質を見つめれば見つめる程に苦しくなっていく、精神的な意味でかえって苦境に立たされることになるものと相場が決まって居る。
何も知らない方が楽に生きられるということは、人間社会の他のありとあらゆる領域でも成り立つ一種の法則性のようなものなのである。
或いは私は先輩の批判力に火を付けて仕舞ったのかもしれない。
それでも先輩もまた私も、電脳社会を批判している割にはネット世界にどっぷりと浸かって居るのであり、其の事はもはや如何ともし難いことだと互いに結論付けて来て居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1566回) ..2013/12/03(火) 23:53 No.4644 |
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賞金王・松山英樹が世界ランク自己最高の23位に浮上! http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131203-00000000-alba-golf
3013 カシオワールドオープン 優勝 松山英樹 http://www.youtube.com/watch?v=mVKzTwg3m-8
さて史上初のルーキー賞金王に輝いた松山 英樹プロの今年のプレーは確かに凄かったのだと言えます。
然し、其の事は私の予想通りのことでもありました。
私は今年の春先におそらくそうなるであろうことを予見して居りました。
何故なら個人的に松山 英樹プロのスイングは良いと見て居るからなのであります。
ただし、本当にプロのレヴェルに於いて彼のスイングが良いものであるのかどうかということは分からないことです。
其れは単に彼のスイングが好きだということに過ぎないことなのかもしれない。
然しながら、ゴルフに於いてひとつだけ絶対的に言い切れることが私にはあります。
其れはゴルフはスイングがすべてであるということです。
そして今年私にもひとつだけ良いことがあり、其れはゴルフに於いてスイングが完成した、打ち方がようやく成ったということでした。
其れもつい先日そのことが成りました。
苦節三十年余りの末に、其の事が成りました。
其れはトーナメントでのプロの優勝だとか、賞金王だとか、確かにそんな凄い次元でのゴルフの話ではありません。
されど、私にとってはまさに究極の出来事だったのです。
さながらゴルフに於ける真の大宇宙と一体となったとでも言うべきか、兎に角これですべてが分かったという感覚でしょうか。
謂わば大は大で、小は小で、それぞれの部分に於いて成るか成らないかという其の線引きの面が本当は何にでも存在して居るものなのです。
其のことを成らしめることがあらゆる人の世の道に於ける目的であるような気も致します。
たとえば職人技というものがあり、職人さんはそのことを用いて素人さんには決して真似の出来ない素晴らしい仕事をします。
ゴルフの場合もどうも其の事に似ていて、そうした素人には出来ない打ち方のコツを掴むのが結局ゴルフスイングの真髄なのだと言える筈です。
そう、ゴルフスイングとは、つまりは其のコツだけです。
コツを掴むか掴まないか、ということだけなのです。
私は其のコツを掴むのに三十年もかかって仕舞いました。
多分、運動神経が凡庸で松山 英樹プロのようには体が動かなかったからなのでしょう。
尚、スイングに於けるコツを掴んだことと、スコアが急激に良くなることとの間に相関関係は無いものと思われます。
勿論急に70台で回れるようになる可能性もありますが、依然としてそうはならないという可能性の方もあります。
でも、結局ゴルフはスコアではありません。
スイングに於けるコツを掴んでいるかどうかがすべてです。
私は今其のコツが掴めて最高に幸せです。
ゴルフのすべてが分かったという、まるでゴルフに於ける悟りの境地のような、其のまさに法悦境のような気分の中に浸り込んで居ます。
では現在私が練習場でどのような球を打てるようになったのかということをお話ししておきます。
1.傾斜のある練習場のグリーンを狙いSWで打ち、球をピンの根元に止められるようになった。
2.ロングアイアンで高弾道のドローボールが打てるようになり、3Iで230Y程の飛距離を得、さらに方向性が良くなった。
3.ドライヴァーは吹け上がらない方向性の良い強い球が打てるようになり、おそらくは実測でも280Y以上はコンスタントに飛んで居ることだろう。
1.について。 我々アマチュアゴルファーはプロでは無いのでアプローチショットでバックスピンをかけることはなかなか難しいのですが、屡それもかかるようになりました。またたとえ球が戻らなくても、ほとんどの球を止められるようになりました。うまくすると十球中八割位の確率で成功します。コースに於いてこのことが成れば、無論のことバーディチャンスが其処には転がって居るという訳です。
2.について。 ロングアイアンでの球の捉えが非常に良くなりました。其れで使って居なかった3Iをまた使い始めました。十年振り位のことです。 確かに私は元々HSが速く一般には難しいとされて居るロングアイアンが苦手ではないのです。いや、むしろロングアイアンが好きです。 然し若い頃は打ち方が変なのに力で之を打ちこなして居ました。フェード系の球で良く飛ばしていましたが、打ち方が悪いため方向性は常に不安定でした。 でも現在は球筋が安定して球が良く捕まった重いドローボールで打てて居ます。
3.について。 非常に強いドローの球筋のドライヴァーショットが放てるようになりました。しかも方向性が安定して居ます。ただし此処でのスイングイメージの構築はアイアンショットに於けるものよりも少しだけ難しいものがあり其処を現在煮詰めて居るところです。練習場ではネットの中段より上に球が吸い込まれていきますので相変わらず飛距離では二十代、三十代の飛ばし屋さんにも負けません。 しかも其れに加えて、飛距離と方向性に於ける正確性が出て来たということが最も大事な部分です。
其の飛距離と方向性に於ける正確性の両立ということは、 実はゴルフスイングに於ける最も大事なことなのです。
つまりは其れを会得するということこそがゴルフスイングに於けるコツを掴んだということにほかならないだろう。
然しながら其のコツが全く掴めなかった。
どんなに練習を重ね努力をしてもダメだった。
道具云々では無く兎に角打ち方のコツが分からない。
そも打ち方が分からないので弾道が定まらない。
五十肩が治って昨年の十一月からまた練習を再開したのでしたが、矢張りと言うべきか、また余計に打ち方が分からなくなって居た。
然しこの一年余りはかなりに球を打ち続けて来た。
病気だろうが何だろうが兎に角練習場へは通った。
ちなみに私の場合はコースへ出ることには全く興味ありません。
若い頃は始終コースを回ったものでしたが、スイングを完成させない限りシングルプレーヤーには絶対になれないことが分かった時点でコースへ出ることを一切止め主に練習場でスイングを創り上げることだけを目指しゴルフ道を歩んで参りました。
尚こういうのは周りのゴルフ関係の知り合いには理解されない考え方でしたが、そんなことはお構い無しに私はただひたすらスイングの完成ということだけを目指して三十年間もの間球を打ち続けて来たのでした。
より正確には、コースへ出なくなり純粋に自己のスイングの探求を始めたのが約二十年位前のことでしたが。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1567回) ..2013/12/05(木) 12:09 No.4645 |
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さて以前ゴルフのことを書いた時に、無念無想打法というものについて書きました。
之は素振りでのスイングをそのまま実打のスイングとして行うという一種哲学的な打法だったのですが、実は之も其の後一ヶ月程で捨てて仕舞い、其の後も幾つかの大きくスイングを変えるような打法の変遷を経験して参りました。ーただし無念無想打法が役に立たないという訳ではない。之でもかなりの部分までスイングを創り込むことは出来ます。ー
然し其処でひとつだけ真実があるとすれば、其れはスイングとはイメージであるということでした。
私は90年代に板井 栄一プロから其の言葉を聞きました。
当時中日クラウンズの予選ラウンドで、練習場で球を黙々と打って居た板井プロから其のことを教えて貰いました。
板井プロは体が大きくジャンボ尾崎プロとそんなに変わらない位の飛距離を持って居る選手でした。
其処で見て居ても、ロングアイアンの球筋などは驚異的な飛距離と方向性を持ち合わせて居ました。
其の板井プロがふいに後ろを振り返り、練習を見物していた私たちに向かってゴルフはイメージだよ、とただ一言だけ言いました。
そして其れこそがまさに至言でした。
ゴルフのスイングは結局イメージで構築していくものだった。
つまり運動神経のみ、其の反射的な動物的な筋肉としての動き、そういうものではむしろ無かったのであります。
確固たるイメージがなくては、ゴルフのスイングは絶対に完成しないものだったのです。
そうした意味からも、結局ゴルフのスイングとは文化と呼べるようなものでした。
全く意外なことに、筋肉質の体育会系のものではなくイメージの力、文科系のイマジネーションの力そのものなのでありました。
もっとも其のイマジネーションの方は結構得意だった筈の私がこんなに苦労するとは実は全く思っていなかったのです。
十年位かければ大丈夫だろうと思って居りましたが、十年ばかりでは全く成らなかったのです。
結局真剣に追求し始めてから二十年はかかりました。
其れでは無念無想打法以後のスイングのイメージの変遷を簡単に書いておきます。
小さくなーれ大きくなーれ打法、裏返し打法、逆打ち打法、というものをやって参りました。
そして現在は究極の打法として体で球を拾う、又は体で球を動かす、というものをやって居ります。
此の究極の打法としての前段階としての諸々の打法もそれぞれに重要なのかもしれません。
でも現在の私にとっては無用のものですので兎に角究極の打法だけについて若干述べておきます。
1.体の前に球が置いてあります。之をゴルフクラブで打つ場合に、まずゴルフクラブでもって球を打つという観念を滅却します。 2.其の球を体全体で直に動かしていきます。其の場合に手もクラブも実は存在して居ません。無論本当は在るのですが、あくまでイメージの構築上は無しとしなければならないのです。 3.球を動かすのは体全体です。腕も手もまたクラブも無い体全体で球を動かす場合にどう体を動かすかという其のイメージの構築だけが重要です。
4.手もクラブも無い体全体で球を動かすと正しいバックスイングとなり、トップの位置も正しく成るのでダウンスイングではもはや何も考える必要がありません。 5.何も考えずとも、シャフトは立ったまま振り下ろされ正確にダウンブローの軌道で球を捉えていくことが出来る。またドライヴァーショットでもシャフトは立ったまま振り下ろされ正確にアッパーブローで球を捉えることが出来るようになる。 6.これでシングルプレーヤーやプロに限りなく近づくであろう究極のスイングが成ります。其のイメージの構築こそが其の事を可能ならしめるのです。
注意点ードライヴァーショットでも本質的には同様のスイングイメージで球を打っていきます。然し若干左寄りに球があり、しかも ティーアップされて球が浮いて居るので球を体全体で動かすイメージを若干加工する必要がある場合もある。私の場合はティーアップされていない球の真下の方からティーアップされている球を体全体で動かすイメージを持って球を打っていきます。それでもってドライヴァーショットでもシングルプレーヤーやプロ並の球筋が放てるようになります。
其の球を動かすというのは、体全体でもって球を捻り上げるか、又は球を横に弾き出すというイメージでもいけることかと思います。
つまり球を動かすのはあくまで体です。
手でも腕や肩でもクラブでもなく体全体で動かしていきます。
そして其の事こそがバックスイングを行うということになる。
或いはアドレス時には体と球が繋がって居ると考えてみて下さい。
両者が見えない金属製の糸で繋がれて居るのだと。
其の金属製の糸で繋がれた球を動かすのは体である筈で、クラブなのではないのです。
だからつまりは全体打法です。
体全体で球を動かし打つということ。
まさしく全体論での打法です。
そしてすなわち体が動くと球も動く筈なのです。なぜなら体と球は針金で繋がって居ます。そのようなイメージで実際には微動だにしない球を打っていくと正しく当たるということを言って居るのです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1568回) ..2013/12/05(木) 12:11 No.4646 |
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之は様々な部分論の打法での視野狭窄を正しく除いて、ゴルフに於けるスイングの完成に至らしめるイメージそのものです。
まさしくゴルフスイングに於ける明知が其処に得られます。
このことを確りとイメージすることが出来れば、体がどう動こうが球は其の動きに連動して動こうとする訳です。
ところが体が球を動かそうとして動いても、 実際には球は其処に止まったままあり全く動いていません。
つまり其のイメージ上の球の移動と実質上の球の静止との差、其のギャップ、其の差異こそがバックスイングとなり其れが球を飛ばすエネルギー源になるということです。
そうしたギャップを最大に保つ方法がこの打法の本質の部分です。
其の本質に於いてこそ、おそらくは上級者やプロは完璧に近く球を捉えることが出来て居る筈です。
逆に言うとアマチュアゴルファーはスイングに於いて其のギャップをほとんど保てずに居ます。
其れが余りにも不完全なのでまともに球を捉えることは出来ない。
いつまで経っても、たとえ百年経っても其れが出来ない。
アマチュアゴルファーが普通考えるように、球は静止させていて、其れを狙って自分が動いて球を打つのでは無い。
むしろ球を動的に動かしていく必要があり、 其れは金属製の糸で繋がれた球を体全体でもって移動させていくイメージである。
そのようにすると体と球が連動して動くようになり、だからインパクトでも正確に球を捉えられるようになる。
のみならず其のように体を動かすとバックスイングの位置が正しくなるのでダウンスイングでは何も考えずただ振り下ろすだけでクラブのシャフトが立った状態で球を捉えることが出来る。
クラブのシャフトが立った状態で球を捉えることが出来ると、アイアンショットでは正しくダウンブローの打ち方が出来るようになり其れで結果的に打球にはバックスピンがかかり球を止められるようになる。
そして何球売っても大体同じところに球が落ちるようになる。
またロングアイアンやドライヴァーショットでは球筋が安定し尚且つ球が捕まった重い弾道を放てるようになる。
ゴルフスイングに於いては、以上のことがすべてです。
最後にひとつだけ付け加えると、此の打法で沢山球を打つとかなりに首が痛くなります。
つまり正しいバックスイングを行い首、又は背骨の辺りが固定された状態で動いていない、つまり確固としたスイングの軸となって居るので其処に負担がかかり痛くなるのです。
ですが之は正しい打ち方をして居るという証拠のようなものなので仕方がないことなのであります。
くれぐれも、球は止めておいて打つのでは無く、球を体で動かすようなイメージでもってして打つものである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1569回) ..2013/12/06(金) 01:11 No.4647 |
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職人技というものは、此の世界を実質的な、或いは実体的な世界と見做して行なっていくものであろうひとつの現実迎合の様でもまたある訳です。
其れは哲学や宗教の世界でのように世界の在り方の定義を観念的に構築していく行き方とは本質的に異なる世界なのであります。
そして私の印象では、ゴルフスイングに於ける技というものは確かに其の現実迎合の技であるかのように見えた。
其れもかなりに高等な部類での現実迎合の技である。
何故なら単に真っ直ぐに、そして遠くへ球を飛ばすだけのことであるなら其れは試打マシーンの方がずっと優れて居る筈です。
たとえば機械の調節で、真っ直ぐに400ヤード飛ばすことなども簡単に出来るのですし、ホールインワンにしたってアイアンで一万球位打たせてみればおそらくは人間よりも遥かに高い確率で達成されることでしょう。
つまりゴルフをやるには、元々マシーンの方が向いて居るのだし、其の逆に人間の体はマシーンとは全く違うのだからそんな風にいつも同じようには打てやしないのであります。
が、マシーンは心が無いのでゴルフをやりたがらない。
其の逆に人間はゴルフの楽しさが良く分かるからゴルフをやりたくて仕方がない。
そして楽しいからこそ、もっとゴルフが上手に出来るようになりたい。
実際ヘタクソだと球を打って居てもちっとも面白く無い筈です。
それで下手な人程練習場では球を打ち込まず、ぶっつけ本番で酒を飲みつつ皆と楽しくゴルフをするということになる。
まあ其れは其れでひとつのゴルフの楽しみであることは認めます。
どだい此処日本ではかってゴルフが組織内に於けるコミュニケーションの場であったり、また仕事の上での接待の場ともなって居たのであります。
だから其れは其れで良いのですが、職人技を磨く場としてのゴルフの道もまたあって然るべき筈なのです。
そして幸か不幸か、私の場合はたとえあったとしても前者の誘いはすべて断り後者のゴルフのみを追求し続けて来たのであります。
だからいかにも現実迎合的に、道具などもすべてプロモデルで揃え、其れ等を使って本気でプロの球筋を打ちたいと、ただそれだけを念願して一心不乱に球を打ち続けて参りました。
つまりは観念ではない部分で其のようにやって来て居る訳です。
だからこそ其れが職人技だと言って居るのです。
そうした観念では無い世界というものは、観念性の強い人間にとっては一種の救いの世界のようにさえ思われるものなのです。
実際観念の世界にばかり生きて居ると知らず知らずのうちにまるで病人のようにさえなって仕舞います。
対して何も考えずただ球を打ち続けて居ると体が程よく燃焼して実に爽快な気分となります。
そして之こそがスポーツの効用ということなのでしょう。
其の現実迎合の上での。
ですが、先にも述べて居るようにゴルフスイングの完成は職人技ですので職人的に堅固なイメージを創り上げていく必要があります。
其れは観念的にスイングについて考えるということではなくして、現実的にイメージを構築していくということです。
其れではもう一種類の究極の打法について以下に述べておきます。
私とていつ病気で倒れるか分からず、またいつゴルフが出来ない境遇に追い込まれるかも分からず、さらに言えばいつ大地震が起こりゴルフどころではない日本国になるものか分かりません。
だから兎に角今のうちに述べておきたいのです。
さて先回全体打法というものに関して述べました。
其れとは別のもうひとつの打法は其の全体打法の部分版のもので、要するにもう少し分かり易い具体的な部分イメージでもって球を打っていく打法のことです。
こちらの方がイメージの持ち方としてより簡単なので或いはこちらの方がより役に立つことも考えられますので一応述べておきます。
球を動かすという其の大前提としてのイメージは全体打法と同じですが、其の球の動かし方を少々部分論の方に戻してあるのでより分かり易いイメージで球を打つことが出来るのです。
1.体の前に置いてある球を上方に動かすイメージを持ちます。 2.其の時に、全体打法では体全体で球を動かしますが、此の打法では両肩でもって球を動かしていきます。 3.すると全体打法と同様の正しいバックスイングが成り、其の打球に於いて上級者やプロ並の飛距離と正確性が得られます。
1.について。 私の場合は球を真上に動かしていくイメージでやって居ます。ですが真横に動かしていくイメージでも出来るのではないだろうか。先の全体打法のところでも述べておりますが、球は上へ動かしても横へ動かしても、何せ針金が体と球の間にあるのでどう動かそうが連動して動いて正しいバックスイングが出来上がるのです。また体型などの違いもあるため、球は上方へ動かしてアップライトなスイングとなっても、または側方へ動かしてフラットなスイングとなっても良いのだろうと考えて居ります。
2.について。 体全体で球を動かすことよりも両肩で球を動かすというイメージの方がより分かり易いです。其の場合に、両肩でもって止まって居る球を引っ張り上げるという感覚で行うとまたさらに分かり易くなります。 或いは両肩でもって、地面に接着してあるゴルフのボールを直に引き抜くとでもいうような感じでしょうか。ただしこのことはあくまで直にです。手や腕やゴルフクラブは必要ありません。其れ等は無いと思っておいた方が良い。 両肩で直にゴルフボールをつまんで上へ引っ張り上げるというような感覚です。
3.について。 私の場合ゴルフのスイングとはそれ即ちバックスイングの完成のことだと考えて居ます。正しいバックスイングが成ると自然にクラブのシャフトが立った状態でダウンスイングが行われるため、其処で何も考えずとも正しい位置にクラブヘッドが振り下ろされ正確なインパクトが実現されるのです。 だからダウンスイングでどこを気を付けるだのどうのこうのということは全くナンセンスなことだと私のゴルフ理論では結論づけて来て居るのです。ゆえにゴルフスイングとは、要はどう正しいバックスイングを行うかということだけにかかって居るのです。
此の打法は先に述べた全体打法、全体論打法の簡易版で、もう少し部分ー肩ーに集中してよりイメージを描き出し易くしたものです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1570回) ..2013/12/08(日) 15:00 No.4648 |
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尚ゴルフを30年に亘りやって来て良く思うことは、ゴルフのスイング理論に分かり易く一言で教えて呉れるものが無いということです。
其れ等では大抵は五つも十も注意点、留意点が述べたてられて居るばかりで、はっきり言って全く訳が分からなくなるものばかりです。
そして其の事がすなわち、部分論の弊害なのです。
部分論のスイング理論は百害あって一利無しで、こんなものを信奉しゴルフをやって居たら絶対に上達しません。
尚現代文明の抱える問題点についても部分論が滔々と論じられたりして居りますが、無論のこと其れなども誤りです。
そうした問題の解決に最も実効的なのは全体論的な解釈です。
ただし、此処で云う全体論というのは所謂全体主義とは正反対の概念ですので其処は是非踏まえておくべきことです。
私のスイング理論は具体的なスイングイメージだけを述べて居ます。
其れも、肩をこう回せとか、手はこう使えとか、腰はこう使え、とかそんなことは一切言っていないのであります。
或いは背骨を軸にせよとか、体の回転で打て、とかいうことも全く言っておりません。
つまり、人間は何かの技を完璧に出来るようにしていこうとする時に、其の技の完成形を分析して部分に分け、其のそれぞれの要素を単独として論じていくという方法に陥り易いものなのです。
ですが、其れは単なる部分の要素であり全体的に統合されるものとはむしろ無関係のものです。
具体的に言うと科学技術や経済原理の世界がこうした要素還元主義、分析的解釈というものに基づき行われて居るものです。
然し其れでは、全体のほど良いバランスのようなもの、其の成って居る技の全体的シルエットのようなものが見えて来ないのであります。
従って私はまず其の視野の狭い部分論を排して視野を広くした全体性を回復するという試みをあらゆる部分に於いて試みて居るところです。
たとえば万年筆に於いても、思想に於いても、宗教に於いても、そしてゴルフに於いても、其の他何でも、すべからく此の全体性を回復する試みということを個人的な懸案事項として試みて居る最中です。
其の方が正しい方向性、即ち明知の方向性であると感じられるからこそそのように考えかつ行動して居るのです。
其れはひとつの思想としての方向性である。ひとつの哲学のようなものである。
だから私のゴルフ理論もまた全体論なのです。
其れが今年ようやく完成したということなのです。
尚、80年代から90年代にかけて私は実に様々なゴルフに関する雑誌や書籍を購入してゴルフスイングの研究を進めて居りました。
一般誌から高級誌まで、またプロの書いたあらゆるスイングの理論書まで、沢山のゴルフのレッスン書を読んで逐一其処に書かれて居るスイング理論を学んでみました。
然しながら、其れ等から真に学べたということはついぞ無かった訳です。
部分的に為になる要素はあっても、コレというひとつのスイングイメージを得ることは出来なかったです。
そして其れ等は常に複雑でした。
兎に角ややこしい。
ゴルフスイングに於ける本質を一旦解体して仕舞って其の部分、部分について述べて居るので具体的に分かりにくい訳です。
私は其の複雑性こそがゴルフを分かりにくいものにして居る筈だと思い、ある時からそうした情報をすべて遮断することにしてみました。
丁度自然について現代人がたとえば山登りの装備とかキャンプ道具とかそうした部分のアイテム=モノ的な部分から入ろうとするとむしろ一番大事な山という一種の聖域に対する心構えといった心の中の部分をおろそかにして仕舞う事と同じで、つまりはそうしたモノ的知識に頼って山へ登ったりすると雪崩に遭い多くの人が亡くなって仕舞ったりもします。
だからそんな細々した知識などはむしろ不要で、もっと大きく物事を捉えてまず精神論の方から自然との付き合い方を学んでいくべきなのです。
ゴルフの方でも丁度そんなようなもので、外部から情報として与えられる知識は結局自分の外側を衛星の如くに回って居るほどの知識にしかならないのであります。
ゆえにゴルフに於ける真実、本質は自分で創っていくべきです。
全部自分で、一から創っていくべきなのです。
そうすると、運動神経が凡人の人の場合には20年位はかかるであろうという話です。
先回までに述べた私のスイングイメージの理論は、其の事を実際にやって創り上げたもので外部の情報から盗作をしたものではありません。
其処での全体のイメージは、ひとつになります。
頭だの背骨だの腰だの肘だのと、部分的に分けられて複雑化されてなど居りません。
ゆえに分かり易いです。
ゴルフスイングに於ける留意点はひとつだけ。
結局其れが究極のシンプリティなのです。
どだい、下手くそな凡人のアマチュアゴルファーが、同時に幾つもの点に気を付けてスイングすることなど不可能なのです。
凡人というのは、皆、馬鹿です、馬鹿。
凡夫は馬鹿だと仏教が諭すのは全く本当のことで、兎に角全部馬鹿です、馬鹿。
其のバカがプロ並みに球を打とうとしたら、もし其れが可能なことだとするならばひとつのイメージだけでのみ其の事が達成される筈です。
其のイメージとは、
球を動かす。
コレです。
球は動かないと思われて居るアナタ、今こそ其の固定観念を粉砕していかなければなりません。
いや、無論のこと球は止まって居て動く筈ありませんのですが、動かすようなイメージで振るとスイングが正しく行われきちんと当たって呉れるものなのです。
球を動かすようなつもりで始動して、実は其の後は体の方だけが動いていくのです。
其のようにスイングをすると正しいバックスイングが完成すると言って居るのです。
そして常識的な知識に頼るな。
知恵は自分で創り上げるものである。
ゴルフに於ける知恵=明知もまた然り。
万年筆が好きな方の中には医師や弁護士、或いは学者の方々や教師の方々が実際多く居られます。
そんな方々はゴルフの方も好きだという方も多いので私は此処にこうしてゴルフの話を書き継いで来ました。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1620回) ..2014/03/01(土) 23:36 No.4709 |
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近頃此の近代という時代の価値観とは一体どこに突き動かされて拵えられて居るものなのだろう、といったことを良く考えます。
其れは結局利己的な価値観、謂わば本能と言っても良いようなことなのではないか。
無論のこと其の時代の価値観に抗うことなどは出来ない訳です。
もっとも詩人の加島 祥造先生のように其れに思い切り抗って田舎生活をし、かつ其処で詩を書いたり絵を描いたりといった文人生活を営んで居る方なども居られます。
或いは此の私のように、元よりタダの自称詩人に過ぎないのだが其れでも本気で時代や人間と格闘して居るという自覚のある人間も結構世間には居られるようです。
尚私が最も疑問に思うのはより良いことだとされて居る筈の近代的な価値観の上で社会が進んでいくと何故次から次へと問題が噴出して逆にダメな世の中になっていって仕舞うのかということなのです。
また其のことは単なる物質の領域のことでもはっきりと成り立って居ることです。
たとえば万年筆は百年前、五十年前の物よりも今の物の方がずっと良くなって居るであろう筈なのに愛好家の間などではそうは思って居ない人の方がむしろ多い程である。
とは言え現代の万年筆、現代の万年筆以外の文物、現代の藝術、現代の宗教、現代の政治、現代の思想といったことがまるっきりダメだという訳では無論ない。 まるっきりダメなのではないのだが部分的にかなりにダメになりつつあるということはある。 そしてそういうのは感の鋭い人ならいまや誰でも分かって来て居る。
たとえ大衆レヴェルでも感の良い立派な方々は大勢居られますのでそうしたことはスッカリ分かって来て居る。
されどそうしたダメさ加減を声高に批判して来て居るのは矢張り学者の方々や作家の方々ーまたは他の分野の藝術家の方々ーであることがほとんどである。 つまり大衆というのは自らが声を発するものではないということです。
分かって居ても言わないのが大衆で分かって居ることを正直に述べていくのが作家や詩人の領分であるということなのです。
かっての私は自分の中のそうした大衆的な部分に嫌気がさしていて、そうした部分を極力排除していくことを生きる上での重要な目的のひとつに置いて居ました。
然し私よりもより大衆的である大学のS先輩の生き方を見るにつけ、僅かづつですが其の考えが変わって来つつあります。
S先輩とは此の二年くらいの間に様々なことを議論し、其の様はまるでかっての大学のゼミにでも戻ったかのように真面目なものでした。
先輩は今私のことを自分よりは聖の方向性のある人間だと思って居るようで、半年くらい前には面白い漫画があるといって『聖お兄さん』という変な漫画を持って来て其れを私に読ませたのでした。
聖お兄さんというのは仏陀とキリストが人間界に降りて来て一緒に生活するという一種のドタバタ宗教コメディーみたいな漫画で馬鹿らしいといえばかなりに馬鹿らしいのだが漫画のモチーフとして聖人を取り上げて居ること自体は至極真面目なものである。
馬鹿らしいが意外と真面目、というのが此の作品に対する私の感想なのです。
ただ、聖というのは基本的に生きて居るということではないのです。
仏陀はかって真理を悟り決して生まれないものになって仕舞われた訳なのですし、イエスキリストは人類の原罪を担い神の子としてあの世に召されやがて復活する時を待って居られます。
つまり生きて居ないということこそが聖なのです。
生きて居ない程に清いものこそが聖である。
ちなみに聖の反対の概念は俗ですが其の俗ということは此の世に於いては意外と尊いことなのです。
生きて居るものは皆俗で俗でなければ生きられないのですから俗であることは此の世では何より尊いことです。
聖というのはあくまであの世であるとか、神の領域であるとか、或いは仏の世界であるとか、そうした部分に置いて意味を持つ言葉なのではないだろうか。
尚昭和の初めにあの芥川 龍之介が自殺しましたが、つい先日其の遺書を青空文庫の方で読み返したりして居ました。
すると彼がその頃或る概念について著しいコンプレックスのようなものを感じて居たであろうことが良く分かった。
畢竟其れは自身に乏しい生活力であるということだった。
生活力即ち俗人の生命力のことです。
本能的な生命力のこと。
其れが自分に欠けているか或いは弱まりつつあることを芥川は何より自覚して居た。
僅か数人しか入れないとされていた東京帝大の英文学科に合格し其の後も理知的で優れた文学作品を書き続けた芥川が到達した境地に於ける感懐が実はそんなものに過ぎなかったのです。
ひょっとしたら芥川は自分の文才や理智の鋭さと引き換えにただの生活力が欲しかったのかもしれない。
本能力、しぶとく世を生き抜いていく力、彼の信奉した藝術至上主義とは対極にある動物力のこと。
尚、私の場合も元々其の動物力が弱いので実は困って居ます。
芥川の半分以下、いや三分の一以下、いや十分の一以下の学力、理智力しか私にはありませんが先輩に言わせるとどうも聖の方の匂いが強いので私も俗人の方向性を向いて居ないのだそうです。
其れで私は何とか先輩の俗な精神を是非学び取ろうと思いある意味で必死なのですがーつまり生き残ろうとしてー、そういう努力を続けていくことが矢張りどうしても苦痛になるのでどうしても美術館や宗教や文学や哲学やら、そうしたものの方向を向いて仕舞う訳です。
とまあ、聖なるものにとって一番理解し難いことは実は俗の領域のことで、そんなことはかって谷川 俊太郎氏も述べて居られたように思います。
結局私が何を言いたいのかというと、俗世間に於ける様々な人間の努力は聖なる境地の方向性から見ると泡沫の如き無駄骨、無駄なあがきのようにしか見えないがこと現実の世界では其れは最も重要で価値のある行いであるということを言いたかったのであります。 そして純粋な意味では聖性は現実世界に顕現し得ない。
聖なる世界とは確かに存在するものですが純粋な意味では其れは現実的な影響力を持つものではないということです。
聖なる世界とは現実的に宗教の世界が最もそれに近いものであり、次いで藝術の領域が其処に関わって居りますが其れ等の世界に交わったところで生活力即ち動物的生命力が磨かれるという訳ではない。
むしろそうしたものが次第に薄れていきやがては消えていって仕舞う。
感性が研ぎ澄まされかつ理知的な観念世界に長く住して居るとプチ芥川 龍之介にでもなって仕舞いかねない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1624回) ..2014/03/08(土) 23:40 No.4713 |
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さて先輩に言わせると私は観念性が強い割には存外常識的な人なのだそうだ。
いつも突飛なことを言っているようで居て話の内容に筋は通って居るので非常識な人間ではないとそう仰る。
いや、そうは言われても本当は先輩にも見せて居ないより孤独な部分での私というものがあり、そちらの方は所謂俗人の先輩と話をする位では決して癒されないからこそたとえば藝術至上主義の方だとか、或いは万年筆だの鉱物だのといったそれよりは現実的な趣味の方で騙し騙しやって居る他はない。
ところが万年筆はものを書く道具に過ぎないのだから結局観念性ということと無関係では居られず、従って其の世界は其の世界なりに疲労のようなものが残るような気がしないでもない。
が、鉱物の世界はそれ自体が本当に森閑とした世界で、つまりは其れが言語世界の埒外にあるものなのだから言ってみればそも其処では疲れも何も無いのである。
つまり私が心の深いところで一番癒されて居るのがおそらくは鉱物の世界なのである。
だが本当の本当は家族や猫たちに一番癒されて居て、物言わぬ石たちには本質的には全く癒されて居なかったということもあり得る訳で、そうなると私を本当に癒して呉れるものが何かということが全く分からなくなって仕舞うのではあるが、ただ、石たちはどうもいつも私の精神がかなりに不安定になったと思える時に限って必ず目の前に登場して来る。
そんな頭の方がヤバい時には必ず自分で机の上に石を並べてずっと眺めたりして居るので矢張り石共が私の精神ないしは心に何らかの癒しの波動を送って居るのであろうことはまず間違いないことなのである。
其の石の代わりにたとえば花だとか、或いはコスタボダなどの西洋の美しいガラス瓶ー無論のこと金さえあればアールヌーヴォーのガレやドームの作品の方が余程に欲しいところながらーなどを置いてみても良いのではあるが、花なんぞはすぐに萎んで散ってしまうのでそれこそ諸行無常の最たるもので逆に見て居て悲しくなって仕舞うのであるし、ガレやドームにしてからもがたとえ其れ等を得たにせよ実際我が家の方がこんなにボロでは元より似合わないのかもしれないのだしでどうもそう簡単な話ではない。
そうなるともう石しかないのではないか。
石、其の石、綺麗な石ころたち。
然し待てよ、そう言えば石はあの宮澤 賢治の専売特許の分野ではなかったか。
曰く、石コ賢さん。
嗚呼、そういえば宮澤 賢治と鉱物の関係を述べた良さそうな本があった筈だったが其の本を買うことをスッカリ忘れて仕舞って居た。
もう二年位は忘れて居た。
ところで緑柱石という石は私にとって特別な鉱物なのである。
Wikipedia-緑柱石 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%91%E6%9F%B1%E7%9F%B3
緑柱石は宝石となる石の中でも特に価値のある鉱物種である。
例えば私の大好きなエメラルドなどは此の緑柱石の中で宝石質透明の緑色の石を指すのである。
またアクアマリンという青い宝石も有るが、之もまた緑柱石に属する石である。
さらにヘリオドールやモルガナイトといった宝石もある。
もう一つ、レッドベリルは特に美しい赤いベリルで米国でかって産出し今でもイーベイなどには原石が結構出品されて居たりもする。
http://www.ebay.com/sch/i.html?_nkw=Emerald-Beryl+Crystal&_trkparms=65%253A12%257C66%253A4%257C39%253A1%257C72%253A2523&_psize=3&_trksid=p3286.c0.m14
イーベイのエメラルド原石の方はかってはコロンビア産の良い石が結構出されていたと思う。 然し今回久し振りに覗いてみて驚いた。何と中国産ばかりである。 数年前からヤフオクなどでも中国産が目立つようにはなって居たのですがここまでになるとは予想出来なかった。
中国産は色の方は良いのだけれど、透明度の高いのが少なくかつヒビが多いということがいまひとつである。 でも中国のどこかでエメラルドが採れるということはここ日本からすると全く羨ましい限りである。
http://www.ebay.com/sch/i.html?_sacat=0&_from=R40&_nkw=Red+Beryl&rt=nc&_dmd=2
レッドベリルは確か米国でしか産出しない宝石で以前からイーベイには時折素晴らしい原石が出されて居ますが当然ながらそうした石は大変高価なものとなる。 レッドベリルの良品をひとつだけで良いから得たいのだけれどなかなか実現しない。 矢張り高価な宝石であることが最大の入手しにくい理由となって居る。
エメラルドやレッドベリルは凝り始めるとまさに身上をつぶすこととなる。 原石でも良質な物は当然にお高いので万年筆の収集は我慢してこちらに専念する位でなければ手に入らない。
やっぱり共に欲しいのだけれど、私の場合これまでは安物ーなるべく五万円以下ーで我慢して来て居る。
勿論それでもそこそこは楽しめる。
http://yahoo.jp/box/ivnMEf
然し緑柱石の収集で一番楽しいのは海外産ではなくて国産の緑柱石を集めることである。
それも私の場合はまず地元に近い中津川周辺産の緑柱石を集めることに力を注いで居る。
とは言っても、実は私にとってまだまだこれからの分野なのである。
国産の良質な、しかもある程度大きさのある緑柱石を集めることはかなりに難しい。
なかなかそんな売り物には遭遇しないのである。
然し画像右の福岡鉱山産のものは昨年ようやく得たもので大きさもありかつ透明度もあるのでとても気に入って居る。
もっともそれ以前から屡ヤフオクには出品されていたのだったから真面目に応札しておくべきだったのかもしれない。
そう思わせる程に福岡鉱山産のものは思った以上に良かった。
ちなみに福岡鉱山産の緑柱石は絶産してすでに久しい。
http://yahoo.jp/box/AvNt0u
こちらは今回得られた佐賀杉山産のアクアマリンの美しい標本である。
ヒビは入って仕舞って居るが青の色合いがとても美しい。
大きさもあり見栄えの良い石である。
ただし裏面はガサガサして居る。
右の方はかって得た母岩付きの標本だが結晶の色と大きさはいまひとつ。
ちなみに佐賀杉山の方もすでに絶産となり採集はもう出来ないのだそうだ。
其のような訳で絶産の続く国産の宝石系鉱物の未来は無いが逆に言えばこれまでの石に俄然価値が出て来るという楽しみもまた有る訳である。
だから此等を愛でることで癒されてそして同時に稀少価値という余韻にひたることが今後は大いに出来ようというものなのだ。
緑柱石とその仲間達 http://blogs.yahoo.co.jp/tgcberyl/45913981.html
何とこちらにはこんなにも美しいアクアマリンの良晶があった。 これぞまさに国産宝石としてのアクアマリンなのである。 然しこんな素晴らしい石はもう何処にも無い筈である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1631回) ..2014/03/16(日) 23:52 No.4722 |
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今朝のサンデーモーニングで出演者の一人である浅井 慎平氏がとても印象的なことを述べて居られました。
曰く、今は何でも其の時々の成功だけが大事な世の中になり人間の内面性、内面の深みのようなものが失われて仕舞って来て居る。
とその様なことを述べられていたのが私にはとても印象的なことだったのです。
というのも其の意見はいかにも藝術家らしい考え方だと思ったのです。
慎平氏とは分野は違いますが私自身も文の人の端くれとして其のようなことをいつも此処で述べて来て居た筈です。
Wikipedia-浅井 慎平 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E6%85%8E%E5%B9%B3
浅井 慎平氏は名古屋市出身で、公立高校では最も入学の難度の高い旭ヶ丘高等学校ー昔は確か旭丘ではなく旭ヶ丘と書かれて居た筈ーを出られて居ますからこれはもう大変な秀才の方です。
此処は私などはとても入れなかった学校なのですよ。実際中学校の通信簿がオール5程度でないと行けない学校なのですよ。
多分東大や京大などへもいままでに大勢行って居るであろう高校の筈です。
さて慎平氏は現在大阪芸術大学大学院教授で俳人でもあるんですね。 なる程、この方はまさしく名古屋が生んだ高名な文化人の方です。
面白いのはWikiの方にもある通り、雲を見ることがお好きで少年時代には化石に興味があったのだという。
名古屋からもそう遠くはない岐阜県の瑞浪というところでは化石が出るので愛知県人は皆子供の頃に其処へ出向き化石の採集をして来るのです。
其れで化石だの鉱物だのにハマる人が結構多いのですよ。
さて現代文明が抱える闇の部分は相変わらず深いものがあります。
慎平氏のような藝術家ー作家や詩人を含むーや一部のインテリ層には其の闇の深さが実感されて来て居る筈ですが、大衆レヴェルでは其の事は見えて来ず相変わらず大きな疑問を持つことなく日々を暮らしていって居る訳です。
私は自身が詩人であると同時に一般大衆の一人でもある訳で、そうした特殊な半々人間ですので何故か両方での見方が分かるというこれまた不思議な視野、思考を持ち得て居る人なのです。
それで、詩人としての私には現代文明は行き詰って来て居るから何か世間に対して言っておかなければならないぞという其の思いから文明批判のスレッドを此処で始めてみたのであります。
其れで私は自分の中の大衆的感覚と格闘しながら其れに対し叱責するつもりでサア、今だ、今こそ目覚めよ、などと自分自身に言い続けて居たのであります。
然し、大衆性というものはそうした理念のようなものでは決して動じないものなのでもあります。
ただし元より現代の大衆とは馬鹿では無い筈なのです。
義務教育の普及で文盲などは先進国では居なくなり、そればかりか其の何割かは高等教育をシッカリと受けて来て居ります。
のみならず自分で考えた意見を確りと持って居る人さえもが居られます。
そうではあるのですが、現代の大衆には恒常的に現実を理念化ー観念化ーして生きられないという一種の哀しみがあるような気がしてなりません。
なぜなら実際に大衆の一人として生きて居る私は兎に角とても忙しいのです。
毎日毎日兎に角忙しくて一体何をやって居るのや分からなくなるようなことさえあります。
ーその上で自称の詩人もやって仕舞って居る為さらにさらに忙しくまさに此の一分、或いは此の数秒の時間さえもが惜しいことすらもある。ー
こうして此処で悠長に文など作って居るように見えて実はかなりに忙しく、たとえば此の文も練りに練って作ったものではなく其の場限りに浮かんだものをそのままにキーボードを打ち言語化して居るものであるに過ぎない。
実際今日私は矢張り忙しく、午前中にカインズで生活必需品を色々と買い込んでまいりましたし、 其の後さらにスーパーで食料品なども買い込んで参りました。
しかも其れを自転車でやって居るのでなかなか時間がかかりまた体力的にも大変だ。
然しながら其の自転車での買い物は車での買い物よりも実は楽しい。
たとえば本日のように春めいた暖かな日ですと風を切って自転車に乗ること自体がとても楽しいのです。
歩道などにも色々と香り高い花々が植えられて居るのだし、あれ、あんなところにもうモクレンの真っ白な花なども咲いてるじゃないの。
それでも頭の中では色々と難しい問題が渦巻いて居るのだがまあ其処は自転車に乗ってる太めのオッサンが少々小難しい顔をして自転車に乗って居る位にしか傍からは見られない。
要するに大衆の一人であるということはそんなものでもあるということなのです。
そんなものではあるのだが、あくまで大衆の一人として生きて居るだけでは此の忙しさにかまけてー本心の方がー流されていって仕舞う。
ふらり、ふらりと流されて、其の刻々の、其の瞬間瞬間に気を取られて現実を理念化ー観念化ーして居るだけの余裕が無い。
されど其の事は、何も今に始まったことではない。
たとえば封建時代の百姓にせよ足軽にせよ、皆経済的な或いは時間的な余裕が無く其の余裕の分をおエライ方々に搾取されつつ生きて行かざるを得なかったのである。
よって人間の内面性、 内面の深みのようなものの喪失を大衆性そのものへの責に帰すべきではない。
其れは矢張りあくまで社会の問題であり時代の問題なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1636回) ..2014/03/23(日) 17:29 No.4727 |
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http://yahoo.jp/box/jM4Lu7
芽吹きの季節を迎え植物達が一斉に緑の衣を纏い始めた。
そして存在するものが真に美しいと思える時は此の季節に限られて居る。
散りゆくもの、去りゆくものも常に美しいが此の芽吹きの時ほど美しいものは他に無い。
されど此れ等緑の新たな生命の内側にしかとたたまれた矛盾としての命の業の深さが其の美しさに必ず翳を添えて居る。
其処では生まれるものは必ず滅びまた生まれまた滅びしてと愚かなことを繰り返す。
無論のこと其れは美しいことを繰り返すのだが愚かなことをそうして繰り返して居ることでもある。
ちなみに私は山椒が好きで毎年庭の山椒の若葉を食すことを密かな楽しみとしている。
どこかで買って来た粉山椒なども好きだが其の生まれたばかりの命を奪うのが何よりの楽しみなのである。
はて何という哀しみなのだろうか、生きるということは。
http://yahoo.jp/box/su40ji
http://yahoo.jp/box/EDuhjQ
数日前家の近所で木蓮の花が今を盛りと咲き競って居た。
真っ白な花なのでいかにも私好みなのだが花の寿命が短いのが少しだけさみしい。
それでもこんなに美しく咲くことの出来るのは木蓮の花の花としてのこころねがよほどに清いからなのだろうか。
ちなみに私が住む地域には木蓮の花が多い。
私が通って居た小学校の校歌の歌詞は「もくれんの花さきて 静かなるおかの上」で始まるのである。
http://www.yatomi-e.nagoya-c.ed.jp/kouka/kouka.htm
大人になってから私は古今東西の詩などを沢山読んでみた覚えがあるがこんなに美しい情景の浮かぶ詩を読んだことはついぞなかった。
どうも一番美しい詩は何かと問われると今でも「もくれんの花さきて 静かなるおかの上」というあの小学校の校歌の歌詞の最初の部分になって仕舞うのである。
元より其処には普遍性など無いのである。
個別的で限定的な幼い頃の思い出が其処にしかと刻まれて居るばかりなのである。
然し生きるとはそうしたことなのではないだろうか。
謂わば普遍も継続も其処には無い。
其処で個別での限定の運命を生き個別での限定の運命を死するのではないか。
其れが生のすべてであり、元々其れ以上はないということなのだろう。
http://yahoo.jp/box/YOQ6NJ
http://yahoo.jp/box/4ungF5
今年は蝋梅の花が結構長く咲いて居た。
此の写真も丁度一ヶ月前位に撮ったものだがこうしてまだまだ立派に咲いて居る。
私にとって蝋梅の香りは生の体積を全体的に何故か感じさせて呉れるような香りだ。
生の重い方と軽い方の側面の両方がある香りだとでも言えば良いのか、兎に角そんな両面性のある香りなのである。
尚物凄く良い香りというのは実は臭みの成分が混じって居るということをどこかで聞いたことがある。
たとえば浴用剤のバスロマンにはジャスミンというのがあるが、此れは非常な芳香であると共に場合によっては少し癖があり臭くも感じられたりする。
蝋梅の花の素晴らしい香りにもどうもそんなからくりがどこかにあるような気がしてならない。
尚先程言い忘れていたが木蓮の花の香りはこれがまた実に上品な淡い香りでしかも花の寿命からして刹那に薫るのであるから此れは余程に上等な花の香りである。
謂わば桜のように俗な花では無いから少数派を気取って香りを楽しんで居られるのが何よりよろしい。
ただしバスロマンには桜の香りのものもあり其れも私は嫌いではない。
http://yahoo.jp/box/sQJzQR
http://yahoo.jp/box/usBs3m
此の三年か四年ばかり、写真を撮るのが好きになり色んなものを撮影してみたりして来て居る。
私は写真がむしろ嫌いで、其れが生の部分解体、或いは部分の保存の様のようにも見えるので兎に角嫌いだったのである。
然し三、四年前にふとさみしくなり雲の写真などを撮るようになった。
其れから草花の写真なども多く撮った。
元よりカメラが安物でしかも三脚がないのでむしろ感性だけで写真を撮るのである。
其れは感性以外には助けて呉れるものが何も無いということだろうと思う。
道端などに生えて居る草花などを撮ることも多い。
此の写真のようにグミの実のような感じの美しいものは勿論好んで撮る。
然し野原に自然な状態で咲く小さな花という余りに侘しい撮影対象なので写真の通の人にはなかなか理解しにくい写真なのかもしれない。
最近私はこうした身近な草花の写真こそが好きで、こうしたものをパソコンの壁紙に使って居る場合も多い。
都会ではこうした身近な自然の風情を感じ取ることがもはや不可能に近くなって来て居る。
だからこそこうしたいかにも自然な草花の感じが出て居る写真が一番好きなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1637回) ..2014/03/26(水) 23:49 No.4728 |
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パイロクスマンガン石結晶標本 http://yahoo.jp/box/PqRMqg
画像左側の石は普通見られる板状の結晶ではなく非常に分厚い結晶となって居り見た目の感じでは歪な六角形で一辺が一センチ位はあるように感じられるものだ。
此れは十年程前に神戸の鉱物標本の専門店から取り寄せたものでこちら愛知へ里帰りしたという形でのパイロクスマンガン石である。
一センチ程度の結晶でも此れ位の厚みがあると矢張り可成に大きく感じられるものだ。
私の持って居る標本の中では其の量感に於いてNo.1である。
ただし結晶の長さの方では他に二センチ近い物もあるのですが。
ちなみに神戸は港町で元々西洋趣味が進んで居るのだろう、鉱物趣味などが盛んなようで色々と良い石を扱って居る専門店が多いようだ。
鉱物、研磨した宝石共に良い石が集まって居るようだ。
鉱物趣味は元々西洋の貴族階級の趣味なので神戸や横浜には愛好者が多いのかもしれない。
そう言えば昔ヤフオクで良く海外産の宝石鉱物を買っていたことがあったのだが、其の時の出品者も確か神戸の人だったのだ。
また大阪にもヤフオクでの鉱物の出品者が多いようだ。
私の以前の石仲間も大阪の人だから大阪人にも結構鉱物趣味の人が多いのかもしれない。
右側の石は劈開片のように見えなくもないが矢張り結晶なのだろう。
此れは地元の専門店で入手した覚えがある。
安い石なのですが大きさがあり悪くはない。
尚何故だか知らないが札幌などにも鉱物標本の専門店が集まって居るようだ。
札幌周辺にも鉱物が好きな人が多く居られるのだろうか。
或いはそんなこととはまるで異なる理由でそうなって居るのだろうか。
パイロクスマンガン石の良い標本を夜電灯下で密かに愛でて居ると非常に心が癒される。
ルビーの赤とはまた違った深い赤色をした美しい石である。
TC国産鉱物 愛知県産 田口鉱山パイロックスマンガン石結晶立ち http://page13.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r112304546
写真だけでは判断出来かねますがどうもそんなに大きな結晶ではないようである。
http://yahoo.jp/box/I5fVq9
先程ノーブルオパールの遊色ー輝きの部分ーを撮影してみました。
流石に美しいです。
ちなみに此の標本は私が15年位前に棚山高原で採って来たものです。
ところが当初此の遊色の存在が分からず、十年位は家の庭の石捨て場に捨て置いてありました。
四、五年前から其処へ親類の子供ーいとこの子等ーが来て石を拾っていきます。
其の折に一緒に子供にやる石を選んで居たところ、どうも怪しい石がある。
其れで汚れを落としてみたところ、何と光って居りました。
オパールは水に浸け込む必要があり五年程そうして居たところ、最近になりご覧のように輝きが増して参りました。
棚山のノーブルオパールの遊色は緑の輝きが最も多く、次いで青や紫が出て、稀なのが赤だろうと思われます。
此の石は矢張り緑の遊色が出て居ります。
http://yahoo.jp/box/FO9Ltm
八年位前のことかと思われますが、棚山高原へ採集に行く前に山の麓で朝の食事を済ませ休んで居たところ、渓流から引き込んだ塩ビの水の管が破れ其処から霧状に水が噴出して居た。
其の時丁度朝の光が其の霧にあたることで実に美しい虹が出来て居た。
其の様を見て本日は必ずや虹の石が採れることだろうと直感した。
採集を済ませ家に帰り石を洗って居たところどうも怪しい石がある。
もう少し良く洗ってみたところ、いきなりギラリとした強い緑の遊色が目に飛び込んで来た。http://yahoo.jp/box/dq4dLa
直感は必ずや当たるものなのである。
尚私の場合棚山高原のノーブルオパールは15年通って二つ採れただけである。
先の石と此の石の二つ限りである。
ちなみに私と同じ位の回数を棚山に通った知り合いの宝石販売業者は全く採れなかったようだ。
が、二年程前に実は採れていると急に言い出しても居るのでなるべく早く其の真偽を確かめてみなければならないところだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1638回) ..2014/03/28(金) 22:53 No.4729 |
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日本のアングラ・フォーク界最大のスターが岡林 信康であり、彼の名を一躍有名にしたのが以下の「くそくらえ節」である。
岡林信康 くそくらえ節 (1968)-発売禁止歌 http://www.youtube.com/watch?v=a8rVtPnKkks
『ある日学校の先生が生徒の前で説教した テストで100点取らへんと立派な人にはなれまへん くそくらえったら死んじまえ くそくらえったら死んじまえ この世で一番えらいのは 電子計算機
ある日まじめなお親父さん息子を呼んでこう言った 仕事のことだけ考えて毎日セッセと働いてチョーダイヨ くそくらえったら死んじまえ くそくらえったら死んじまえ 文句も言わずにセッセと働く機械の部分品
ある日会社の社長はん社員を集めて訓示した 君達わたスを離れてはマンズ生きてはイケナイ身の上さー くそくらえったら死んじまえ くそくらえったら死んじまえ 金で買われた奴隷だけれど心は俺のもの』
まあ、確かに今や此の世で一番偉いのは電子計算機の生み出す仮想の現実世界のことになりつつありますわな。
また、確かに今や文句も言わずにセッセと働く機械の部品のような非正規雇用の若者ばかりになっちまいましたわな。
あまっさえいつの間にやら我も奴隷、貴方も奴隷、其れもタダの会社の奴隷であることに飽き足らずカネそのものの奴隷、グローバル大国主義そのものの奴隷に成り下がろうとさえしておりますぞ。
がいこつの唄 岡林信康 http://www.youtube.com/watch?v=DQQRyvdMF6c
ガイコツの唄
岡林信康 作詞/作曲
*)がい骨がケラケラわらってこういった どうせてめえらみんなくたばって おいらみたいになっちまうのによ
だれがえらいもあるもんか どうしてそんなにでっかいつらを やりたがるのかきかしておくれよ ええとしさらしてブロレスごっこの 政治家先生
*)繰り返し
損もとくもあるもんか どうしてそんなにエゲツなく もうけたがるのかきかしておくれよ ヨダレたらくて戦争まってる 資本家先生
*)繰り返し
だれがまじめもあるものか どうしてそんなにまじめなかおして 人間やめてキカイになってる ゲップにおわれてヨタヨタあるきの 労働者のみなさん
がい骨がまじめなかおしてこういった どうせみんなくたばって おいらみたいになっちまうんだから せめていのちのあるかぎり つまらぬことにウロウロしないで だいじにだいじにつかっておくれよ 一度しかない おまはんの命
尚元々おまはんのイノチは一度しかない実にバカバカしいものだ。
そんなバカバカしい、早晩くたばることが分かって居るイノチの最中にヨダレばっかり垂らして生きて居る戦好き資本家やデカい面したプロレス政治家は其処でまさにほんたうのイノチの価値を見失って仕舞って居る。
ガイコツでさえ其のほんたうのイノチの価値が分かって居るといふのにまことに嘆かわしいばかりの世相である。
一方で労働者は消費税は上がるわ、諸々の物価は上がるわでヒイコラして居るというのに機械の部品には正当な賃金は決して支払われず給料上がったのはあくまでごく一部の大企業の労働者だけに限られて居る。
今や中小企業は火の車、消費税上がると儲けが無くなるので其の窮状を大企業に説明するが、じゃほかんとこに仕事頼むんだもんねーの一言で万事休すである。
グローバル資本主義の世では基本、中小企業の労働者は生かさず殺さず、死ぬなら死ねとは言ってはいないがホントのホントは死んでも構わん、別に俺らのたんまりある銭が減る訳でもないしーなどと思って居る人非人資本家共と経団連のおエライ方々。
だから元々おまはんらのイノチは一度しかない実にバカバカしいものだ。
山谷ブルース 岡林信康 http://www.youtube.com/watch?v=qDa4Z11bcaI
昔ー中学一、二年生の頃とても好きな歌でした。当時は良くラジオで聴いて居たものです。
チューリップのアップリケ/岡林信康('78 11 26 LIVE) http://www.youtube.com/watch?v=CoN84S98dG0
昔ー中学一、二年生の頃とてもとても好きな歌でした。之も当時は良くラジオで聴いて居たものです。
手紙 岡林信康(放送禁止歌) フルカバー http://www.youtube.com/watch?v=lPuv06Rsd8g
昔ー中学一、二年生の頃は聴いたことが無かったがつい最近此処で聴きました。何しろ放送禁止歌ですのでね。
尚根拠のある社会批判は大事だ。
批判があってこそ世の中は健全である。
現状は批判なき世の中であることが異常である。ー民主党は一体どうなったんだ?ー
特に若い世代は大いに体制批判、社会批判を行なっていくべきだ。
其れが出来なくなって仕舞ったことこそが大きな問題だ。
ただし社会が悪いからといって犯罪に手を染めるようなことは全く愚かなことである。
適法の範囲で自己に許された上での正当な社会批判でもってして世の矛盾や不条理と闘っていくべきだ。
さて岡林 信康氏 はかって同志社大学の神学部に入り元々牧師になろうとして居たような人だったのですぜ。
其れが『見てきたようなウソをコクなよ聖なる神の使者』などともかっては歌って居られました。
其の嘘コキ世の中、大嘘コキ権威、大嘘コキの神に対してのクソくらえ!が何より当時の岡林 信康氏の身上であり捨て身の批判でもあった。
『ある日 聖なる宗教家 信者の前でお説教 この世でがまんをしていれば きっと天国行けまっせ ウソコクな この野郎 見てきたようなウソをこくなよ 聖なる神の使者
ある日 アメリカのおエラ方 チェコの問題でこう言った それみたことか 恐ろしい 共産主義はあきまへんで ウソコクな この野郎 こきゃあがったな この野郎 そういうことは ベトナム侵略やめてから ぬかしやがれ
ある日 おエラい小説家 選挙に立ってこう言った 青年の国 作るため わたしゃ文学捨てたのよ 甘えるなこの野郎 甘ったれるなこの野郎 弟つれて選挙をやるなど ジジイのやることだ
ある日しわくちゃじいちゃんが 若者呼んでこう言った 天皇陛下は神様じゃ おまえら態度がなっちょらん ウソコクなこの野郎 こきゃがったなこの野郎 天皇様もトイレに入れば“紙”にたよってる』
氏は70年代初め頃に鬱を病みかの「ヤマギシズム」に傾倒し岐阜県中津川近くの山村に移り住んだのち京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始めたそうだが其れも今は昔の話である。
然し60年代アングラ・フォークの神様としての其の歌の輝きは今も色褪せないばかりかかえって輝きを増して居る様に思えるのだが、ハテ、其れは何でなのだろうか?
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1643回) ..2014/03/31(月) 23:56 No.4734 |
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http://yahoo.jp/box/MPGkeW -黒く見えて居る部分はネオトス石で母岩が黒い訳ではありません-
此のパイロクスマンガン石の標本は京都の西田氏が90年代の終わり頃〜今世紀の初め頃ーそれが正確にいつのことだったか、不覚にも忘れて仕舞ったーに田口鉱山の坑内で晶洞を発見し其れを採取した時のおこぼれの標本に当たるものである。
とは言っても貰ったものではなく購入したものである。
当時ー多分八年位前ー西田標本ー田口鉱山の坑内で晶洞を発見し其れを採取した時のおこぼれの標本ーがネット上で売られて居り其のひとつを私が購入したことから西田氏とのメールのやり取りが始まったのだ。
此の標本は当時売られて居た西田標本の中では中レヴェル位のものでホントはさほど大したものではないのである。
値段の方もそう大したお値段ではなく確か二万円位のものだった筈だ。
他に三万円程の物や五万円位するものが出されて居り兎に角全部で十個体程の標本が其の時売りに出されて居たのである。
今思えば、其の折に西田標本を五個体位は買っておくべきだった。
こうしたものは結局其の時にしか出ないものなのである。
然し当時はまだ万年筆を、其れも色々と高価な万年筆を買い込んで居る最中だった為資金的に余裕が無かったのである。
此の時ばかりは万年筆の方を買うのを止めてパイロクスマンガン鉱の方を是非買っておくべきであった。
が、当然のことながら其れも後の祭りである。
尚此の標本はもう少し明るい所で撮影すると結晶の輝きが出てもっと美しくなる。
そして現在では此のレヴェルの標本でも上中下の上のレヴェルのものとなるものだと言える。
何故なら田口鉱山自体が立ち入り禁止となりもはや採集出来ない産地となって仕舞ったからなのだ。
そうなのだ、あの田口鉱山のパイロクスマンガン鉱はもはや幻の石となって仕舞ったのだよ。
すると、今後世にある標本の良い物は皆一ランク位上がった位の評価がなされ値が上がっていくということが考えられる。
それから此の標本はおそらくは叩いて割って開けた晶洞からの石か、或いは其の周辺からの石である筈で、従ってズリー石捨て場ーから拾った古い石などより新鮮味がありまたより迫力がある。
ズリからの石は石が小さいこともあり余り迫力がない。
いや、其れも90年代には迫力のある石もあったそうである。
私が田口を訪れはじめた90年代後半の頃は確かにもっ大きな石がズリには落ちて居た。
然し当時すでにパイロクスマンガン石を探すことは難しくなりつつあった。
田口鉱山は全国的に名の知れた鉱物の世界では最も有名な鉱山なので此処を訪れてパイロクスマンガン石を探して居た人は当時から多かったことだろう。
然し我々は其の後坑道に入り幾つかのパイロクスマンガン鉱の良品を得た。
ところが実は其れも坑道内での捨石の中から採集して来た石であるに過ぎなかったのだ。
つまり、大昔に割られた石が落ちており其れを拾って採集したパイロクスマンガン鉱と、坑道内で壁面などの石を割って採取した石とではまるで違う石となるのである。
前者のタイプをBタイプとし、後者のタイプをAタイプとした場合に、Aタイプの方が普通迫力があることになるのは当然のことなのである。
尚、先に挙げた西田標本のおこぼれの標本は明らかにAタイプなのである。
http://yahoo.jp/box/duT7_c
そしてこちらの方に三年前に購入した私が持って居る最も良いパイロクスマンガン鉱が写って居るが之もおそらくはAタイプなのである。
何故かと言えばもしズリの方にこれだけの大きさの石が落ちていたのだとすれば其の石はマンガン成分の酸化により真っ黒な二酸化マンガンの皮膜を被って仕舞うからなのである。
従って普通良く売られて居るような田口鉱山の母岩が黒いタイプのパイマン標本はズリで採集されたものだと考えられる。
ーただし坑道内で採集されたものである可能性もないではないー
要するに、今回私が言いたかったことは、坑道内で岩を割って採取されたパイロクスマンガン鉱は母岩が黒くはなって居らず、結晶の質も良いものが多い。ー特に晶洞産のものは良いー
そしてそうした石は今後上中下の上から特上の部類へと評価されていくだろうことを私自身が期待して居るということでもある。
ちなみに1年半位前に私が名古屋鉱物ショーで得た標本も結晶の質はそれほどでもないのだが実は此のタイプの坑道内採取での石だったのである。
http://yahoo.jp/box/eR_zBM http://yahoo.jp/box/kATizk
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1644回) ..2014/04/02(水) 23:19 No.4735 |
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http://yahoo.jp/box/vrRxzY
さてノーブルオパールの遊色は撮影するのが難しく、これらの棚山産の石の遊色も本当は見た目での方がキラキラと輝いて居てより綺麗なものなのである。
これらの石は名古屋鉱物ショーで五年位前に得たもので、他にも三つ程何年かに分けて購入して居るものがありますが、いずれも一級品のノーブルオパールではないので此の程度にしか写らないということでもある。
ちなみに棚山産のノーブルオパールの場合、此の十年位は地元の鉱物フェアにほとんど出ては居らず、然しながら四、五年前のショーの折にとある鉱物愛好家の方がたまたま出されて居たものを私が良いのを選んで購入したもので値段の方はひとつ二千円程のものばかりである。
ネット上では、鉱物ショップの方にごくたまにそこそこの棚山産ノーブルオパールが売られて居ることはあるようですが其の値段は概してもう少し高価なようだ。
ヤフオクの方が多分数も出るし良品が得られる確率も高いのではないかと思われるのですが、其れでも良品に限れば何せほとんど出ては来ない石なので入手すること自体からして結構難しい。
ただし棚山産のコモンオパールー遊色の出て居ないオパールーはヤフオクで屡出品されて居りまたネットショップの方でも普通に売られて居たりして居る。
またノーブルオパールでもそこそこのものならばオークションやネット店に結構な数が売られて居たりするものだ。
要するに此れは凄い!と思えるような良品はなかなか出て来ないということなのである。
尚鉱物フェアの場合、東京、大阪、京都その他で毎年開かれて居るものなので其処へ出向けば或いは棚山産に限らず国産ノーブルオパールの標本が得られる確率は常にある。
ただし其の傾向はパイロクスマンガン石の場合の方がより顕著であることだろう。ー何せ其れは日本一の石なのであるがゆえー
パイロクスマンガン石の場合の方が良い標本が全国に散逸して居り関東や関西で素晴らしい標本がかって出て居たといった話を屡耳にしたりもしたものだ。
然し棚山産ノーブルオパールの場合は矢張り地元での方が良い標本と巡り合う可能性が高いことだろう。
特に九十年代の堰堤工事で産出した一級品のノーブルオパールの標本はほとんどが愛知県または静岡県の一部の愛好家の元にあるものと思われ、ごく稀に其のうちの幾つかが地元のネット標本店に出回ることなどはあるのだけれど其のクラスの標本はまずお目にかかれないものなのである。
私も一年位前だったか、たまたまそうした石を地元のネット標本店に見つけたことがあったのだが其の石はすでに売れて仕舞って居た。ー少しだけ気付 くのが遅かったー
其れは上の下程度の棚山産ノーブルオパールの標本ではなかったかと思う。一級品というのはやはり上の上の部類でなくてはならぬことだろう。
其の棚山産ノーブルオパールの上の上クラスの標本が見たい場合には鳳来寺自然科学博物館でごく稀に地元の愛好家が特別展示を博物館側から請われる場合などがあり、其の催しの折に博物館を訪れればそれこそまさにスーパークラスの標本が見られることであろう。
実際に私は七、八年前だったか、其れを見て来た。
でも見た折の其の内容を可成に忘れて仕舞った。
其れが凄いものであったことは確かだったのだけれど。
http://yahoo.jp/box/8cvxKu
http://yahoo.jp/box/_MhtHh
こちらは半年位前にヤフオクで地元の出品者ー高名な鉱物愛好家の方でとある鉱物愛好倶楽部の会長さんの方ーから購入した棚山産ノーブルオパールの標本。
堰堤工事の際の九十年代産の石なので一応は棚山産ノーブルオパールとしての上物。
ただし之も上の下である。
此の程度の遊色で何故上の部類なのかと言えば、稀な赤の遊色が出て居ることから明らかに上の部類の棚山産ノーブルオパールなのである。
其の赤い、火のような遊色は本当はもっと沢山出て居るように見え肉眼ではもっとずっと綺麗である。
特に快晴で純粋な光がふりそそいで居る時などは、遊色がより強く輝き其の様やまさにギラギラなのである。
ところが残念なことに全体的に遊色が現れて居る訳ではなく部分的にしか出て居ないので上の中や上の上の石とはならないのである。
然したとえ部分的にせよ光の強い日には強い遊色を放つので非常に楽しめる良い標本なのである。
尚画像には赤の遊色ばかりが写って居りますが部分的には緑の遊色もまた現れて居る。ー二枚目の画像に薄く緑の遊色も現れて居るー
石を見る角度、撮す角度により其れが写らず、特に此の画像は赤の遊色が強調されるような角度で撮って居る為に其れが写って居ないのである。
ちなみに此の標本は少々高価になりました。兎に角最も稀な赤の遊色が現れて居るということが珍しい。
ところで先程オークファンの方で纏めて過去三年分の棚山産ノーブルオパールの標本をヤフオクに限り検索してみたところ結構な数の標本が出品、落札されて居り少々驚きました。
私の場合はイーベイの方で万年筆の収集の方に夢中になって仕舞って居て石の方まで気が回らないという時期が結構長くありましたので其の間は余り真面目にヤフオクの方を視て居なかったということが基本的にあります。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1651回) ..2014/04/09(水) 23:28 No.4743 |
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http://yahoo.jp/box/O4-Dvl http://yahoo.jp/box/vEg0YN
棚山産のノーブルオパールに関しては遊色を写真にて捉えるのが難しくなかなか納得いくものとならなかったが本日何とか肉眼で見て居るのと同じように撮れたのでまず其れをご紹介して置きます。
此れは以前に地元の鉱物ショーの方で購入した石ですがこのように大変に美しいものです。
此の世には美しいものが多々ある筈ながら、是ほど美しいものもまた他にはない。
宝石というものは矢張り本当に美しい。
其れは結局金で買えるものではあるが、そうかと云って金さえあれば此の石が手に入るかといえば結局そうではない。
謂わば縁が無ければ手には入らない。
五年程前だったか、地元の愛好家が手放してショーの会場に並べてあったのをたまたま私が目ざとく見つけて手に入れた訳なのですが、その辺の私の執念と言うか引きの強さの部分、其の運のようなものもひっくるめて此の世でのモノとの付き合い方となって居る訳です。
しかも此の石はそれほどお金がかかっていません。
確か二千五百円位で売られて居たものです。
二万五千円だと言われてもおかしくはないのに、兎に角其の時はたまたま安く出されて居た石です。
そういう地の利のようなもの、タイミングをも合わせて収集の醍醐味であるのだと思う。
またそういうのは、多くは其の地域、其の時々限定での面白みということになる。
よって世に蔓延しているグローバリズムなどではなくて、地域限定のものこそが実は本当に価値があり面白みのあるものである。
無論ヤフオクなどで全国からの出品物を落札し入手することの醍醐味ということもまた一方に確かにある。
あのイーベイでも古典の萬年筆を入手するのに本当にお世話になった。
だから元よりこうした分野ではグローバリズムを否定出来るものではない。
然し今私には萬年筆よりも鉱物の方がより愛すべき対象として感じられることが屡ある。
結局鉱物は自然そのもので、万年筆は人工物、文明の産物であるからどちらをより本当に愛して居るかといえば其れは鉱物の方であるような気さえして居る。
其の本当の本当に大好きな鉱物でさえ、本当の本当は所有することなど出来ない。
一時的に関係を結ぶだけのことで、いつまでも私の物であることなどあり得ない。
此の世でのことは、すべからくそうした関係でしかあり得ないのである。
どんなに金があろうと、どんなに頭が良かろうと、どんなに人徳があろうと、人は皆同じように全的な所有ということが出来ない。
自分にとってどんなにかけがえのないものであろうと、自分にとってどんなに美しく心惹かれるものであろうと、必ず其れとの縁が切れる、自分からは其れ等が去っていく、或いは自分の方が其れ等から去っていく。
私は其のことが分かって居る人だから、美しさにとらわれて居るようで居て、本当の本当はなるべくとらわれないようにして来て居る。
其れでも美しさにとらわれないで居るということは、実は人間の心理にとって最後の関門と言っても良いようなことなのである。
たとえば愛欲だの金銭欲だのということは鎮めていくことが比較的容易である。
然し美の誘惑、美ということへの執着、未練ということは最も捨て難いことなのである。
何故ならあの釈迦が晩年になり何と言っていたか?
実は此の世は美しいと何度もそう述べられて居たようである。
悟るつまり明知に至った聖人は、最期に此の世が美しいとそう曰われたのである。
煩悩が無い筈の仏陀が此の世を去る前に此の世は美しいとそう感嘆の言葉を洩らされたのである。
つまり、美しいということは、そのことだけは、人間にとっては乗り越えられない、捨て切れないことなのである。
他のどんなことも何とか捨てられる。
然し此の私も其の美しいということだけは絶対に捨てられなかった。
むしろ其の美しいものにとらわれ続けた我が生涯。
無論のこと美しいものとは石だけではなく他に精神的なレヴェルでの美しさなども入って居る。
また瞬時に移り変わる自然現象の美しさなども其処に含まれて居る。
其の美のために、美そのもののために生きたのが此の私。
これまで生きてきたのは其の事のためにだけ。
こうしてこれまで美のために生きてはきたが、美を本質的に所有することなど我には出来ない。
其の事がなによりの哀しさ、されど人間とは其のような限定のものであるに過ぎない。
其処で考えた、少し早いが、私が集めて来た地球の美ー鉱物たちーを誰かに託すことを考えておこう。
もし私が急死したら、此れ等石の美しいものは一体どうなって仕舞うのだろうか。
おそらく捨てられて仕舞うか、或いは二束三文で売られて仕舞うかのどちらかである。
幸い今は休暇中である。
其れで今日宝石販売業者のT君の家を訪れ其の事を頼んで来たのであった。
私がそのうちもし此の世から消えたら君に全部石をあげるから宜しく頼むよ。
T君は弟の同級生で、近所に住んで居る。
当然ながら我々は長い付き合いで、鉱物の産地へも何度も共に出かけた仲である。
其れで久し振りに鉱物の話をすることが出来頗る愉快であった。
たとえば棚山の話が其の時に出た。
其処で初めて聞く話もあった。
何でも棚山の麓のところにH氏といわれる鉱物の愛好家が住んで居られるのだそうな。
此の人は全く凄い人で、鉱物専用の小屋を家の庭に建て其の中に棚山のノーブルオパールの凄いのを飾って居たそうである。
其れをT君は6、7年前に見て来たのだそうな。
しかも其の石はH氏の子供さんが棚山で拾って来たものだったのだそうな。
球顆と云われる其の丸い石を割ってみたところ、物凄い遊色がほぼ全面に表れていたのだそうな。
H氏は棚山のノーブルオパールや田口鉱山のパイロクスマンガン石の有名な収集家であったということらしい。
鳳来寺自然科学博物館の特別展ー地元の愛好家が鉱物を展示する催しーの折にも常に幾つか石を貸し出されて居るのだそうな。
結局地の利ということは、そういうことなのである。
地の利ということは、特に深い縁がそこに結ばれて居るということなのである。
ゆえに人間は地元との関係を最優先として常に重視すべきなのであろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1663回) ..2014/04/26(土) 12:58 No.4757 |
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私は是迄に多くの美しいものに縁して生きて来た。
物質的にも精神的にもそうしたものを選り好みして接することでより価値化して生きることを保って来たのだと言える。
美しいものにも色々とあるものだが、たとえば自然というもの、其れ以上に美しいものは他には無い。
然し現代人は其の事には気付けないで居る。
心が曇って居て其処でそも何も見えて居ないのであるからして、本当の意味では其の事が分かって居ないのである。
そうした状況のことを仏法では無明という心の状態にあることだと説いて居る。
真に美しいものを真に美しいものだと気付くことが出来ず、其の逆に本当はどうでもよろしいようなむしろ醜いようなものを美しいと勘違いして拝んでもいる。
所謂拝金主義や地位や名声、名誉を求めることや、或いは自己または自己の延長線上にある子孫の繁栄を求めることや、また有り余る程の資産を求めることだとか物質的な満足に拘泥することなどが全て其れに当たる。
其のような一種の精神性の低い状態に置かれて居るのが現代人としての所謂常識的な心のあり方なのであろう。
だが其処で幾ら其の常識を振りかざしても、真理にとって逆向きのものは逆向きなのであり、また間違って居るものは間違って居るものなので其の方向性の誤りはいつか必ず現実として露呈されるに至ることだろう。
私自身のことをいえば、今私は上述したようなあらゆるものを求めては居らずむしろ其のすべてを捨て去って来て居る。
私が求めて居るのはただひとつ、自然から齎されて居るところでの美そのもののことである。
無論のこと美には文化の領域のことも含まれて居るものだが、今の私にとっては文化文物の世界もさほど美しいものには思えず本心では自然的な美の世界、其の嘘偽りの無い一種静謐な世界、謂わば其処で何も付け加えず何も奪わない世界のことだけに関心があり、第一詩などというものも畢竟其の世界 に従属して居るものであろうとの確信が日増しに高まって来て居る。
だから自然が饒舌だと思ったら其れは間違いで、自然とは実は何に対しても何も語って居らずしかもどこからも何も奪っては居ないもののことなのだ。
対して人間存在が普通に生きるということは、むしろ語り継いで生きていくということなのであるし、また生きる為には多くの収奪や破壊を繰り返さねばならないのであり、其の事が饒舌だと言うべきか或いは実にうるさく感じられまさに鬱陶しい限りでのことである。
ただし、生きることとはけだし其のようなことであるに過ぎないのである。
生きることが何か高級な何ものかの価値であるかといえばそうした捉え方は誤りであり、そうかといって其れが低級そのものの全くバカバカしいようなものであるかといえばそうだとも言えず、其のどちらの立場からも距離を置いた立場であることこそが人間としての明らかな認識に至る一つの道なのでもある。
尚最近原始仏典に関する本を読んでいて感銘を受けたのは、仏教も最初期の頃は他の宗教のすべてを否定するようなことはして居なかったという点についてである。
確かに仏教はかの六師外道でのエピソードのように他の思想、宗教を喝破し否定した部分もあるにはあったのだったが、其れでも他の宗教の正しい方向性での思想は其れを部分的に認め決して全的には否定して居なかったということがあった。
私は其処にキリスト教との根本的な違いを感じて仕舞うのである。
キリスト教やイスラム教などの一神教は基本的に他宗教への寛容性に欠けまさに唯我独尊、ひとり我が道を行くというやつで、だからこそキリスト教やイスラム教には共に基本的に世界広布への野望が潜んで居るものだが、然しながら仏教となると話は別で、確かに仏教の中でもより急進的な集団は世界広布への野望を持って居るのではあるが、他の宗派は基本的に地域に根ざした信仰の確立を目指して来て居るのであり、従って其の様や実に大人しいもので第一仏教がこれまで宗教的に他国を侵略したことなどは無かった筈だがキリスト教やイスラム教は往々にして其のことを行なって来て居るのである。
従って其の点を哲学者の梅原 猛先生などは高く評価されて居るのであり、特に近く世界人口が飽和状態に達するであろう此の地球上ではそうした一神教的な唯我独尊の世界観では地域性としての文化文物、宗教の存立が難しいことと必然的になる。
だからこそ其処に東洋の宗教の寛容性、或いは古代ギリシャの神話世界に見られるが如くに多神教としての融通性が是非必要なこととなるのである。
然し現実には此の世界はどうもそうした方向性には進んで居ない。
従って今後は宗教の面でも屡根本的な対立が世界各地で繰り広げられることとなる筈だ。
尚昨今はナショナリズムの高揚ということがかまびすしく議論されて居るようですが、そうした国家単位でのエゴの対立は今後ますます顕著なものとなって来るであろうししかも其れに加えて宗教に於ける根本対立とでも云うべきものがやがてはっきりと顕在化して来るであろうことは想像に難くない。
左様に人間存在の拵えし制度、または文化、文物というものは、其れ等を良く見据えた限りには前途多難でかつ不安だらけのこととなって仕舞う。
其の不安というか心配というか、そんな気分の落ち込むようなことを治す手段は二つだけある。
一つは其の問題から目を背け問題を問題として捉えないようにしておくことーつまり誤魔化すことーであるか、或いは自ら進んで白痴化して事の真相を見破るような鋭い目を其処でそも失って仕舞う事。
もうひとつは大問題を忘れるために自然に目を向け、其の美しさに心から癒され、其の美しさに我を忘れーつまりうっとりしてー、其のことにかまけて問題其のものを心理的に消し去ることだ。
ちなみに私の場合は生涯を後者の方で貫いて生きて来たのだと言える。
そしてこれからも其の方向でもって生きていくつもりなのである。
http://yahoo.jp/box/8RNLmd
白いナニワイバラの花が毎年美しい。
http://yahoo.jp/box/L1sBx1
ナニワイバラは何も語らず、そして何も奪わないがこうして完璧なまでに美しい。
あらゆる文化文物には、また宗教や思想などの観念的な出来事の中にも人間が含まれて居て其れがわたくしをして疲労させるのだが、此のナニワイバラだけは私を少しも疲労させない。
いや、あらゆる自然物は私を寸毫も疲労させない。
連休の時は遠くへ行くことなど考えずこうして庭の花を眺めて居られるだけで私は無上の歓びを其処に感じて居るのである。
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