萬年筆一千夜
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1427回)
|
2013/04/28(日) 00:01 No. 4493 |
|
今文明が転換点に立っていることだろうと思うのは、学問の世界で徐々に全体論的な視点からの文明批評の波が押し寄せつつあるからなのだ。
今まさに現代文明は部分論に固執して視野狭窄を生じ様々な分野で矛盾や問題を引き起こしつつある。
そうした視野の狭さを打開する方策として、全体論的な思考方法が必要だと説く若手の哲学者なども出て来ていて、そこは全く頼もしい限りのことで私も陰ながら彼の今後の活躍を応援したい気分である。
生物学の方でも私と同年代の福岡氏がそうした全体論的な生物学を提唱されてきておりこちらなども頼もしい限りである。
自然の一部でもある筈の人間に何らかの自浄作用のようなものとしてその全体論的な方向性が出てきたのだとしたらそれは現代人がまだまだ捨てたものではないということの証拠なのである。
そして万年筆の方もまだまだ捨てたものではないと感じられるように早くなって貰いたいものなのだが、こちらの方は相変わらずでそこは変化には時間がかかるものであるのかもしれない。
いずれにしても万年筆の世界にも全体論的な世界観が盛り込まれることによりより良い万年筆観が構築される筈だと私は信じて居る。
そうなれば現行の万年筆も次第に良くなって来るはずである。
将来において滅亡などしないで、むしろ繁栄していくことも可能となる筈である。
古典の素晴らしい萬年筆達から進んで学んでみるのも其の輝かしい未来を築くための全体論的な方策のひとつだ。
http://yahoo.jp/box/NaM-4G
たとえばこちらは現在私が使って居るL.E.Waterman5 eyedropperで今私には理想の萬年筆の一本として感じられているものなのである。
こうした素晴らしい古典の萬年筆から学ぶべきことは多くある。
ただし、このペンは完全な状態ではなく、キャップが無い、
そこでキャップまたは尻尾となるような適当な軸を探して居るところだ。
あるいはそれを自分で作ったりもしている。 主に竹を用いて作っている最中である。
だが、たまたま70年代のプラチナの軸を流用してみたところ、悪くない状態となることが分かった。
従ってこの萬年筆は何とL.E.Waterman5とプラチナの軸との合作なのである。
あの地球マークが同じであるだけでなく何故か軸の方までが部分的には合って居る。
こうして長いテーパー軸とするととても書き易い筆となる。
長さは194ミリと長大となるが重さはたったの14gしかない。
まさに理想的な長いテーパー軸のアイドロッパーとなったのである。
重心位置は全長の5.5対4.5のところにありこれも理想に近い位置にある。
またプラチナのアルミ軸は軽く、しかもそこにアールヌーヴォーの意匠が施されていて美しく古典のペンにも似合う。
であるからこのままでも充分に使っていけるのだが出来れば竹のテーパー軸を付けてみたいという思いもある。
いずれにせよこのペンは今の私にとってほとんど理想的な線描タイプの筆記を行う萬年筆なのである。
そしてこの萬年筆から学ぶべきことは大きくある。 次回はそのことを中心に書いてみたいと思って居る。
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1428回) ..2013/04/29(月) 23:52 No.4494 |
 |
理想のL.E.Waterman-1-1
古典の萬年筆の素晴らしいところはまず其の軸が軽いところにある。
ところが其の軽い軸は筆記上の腕が試される軸となる。
なんとなれば、軽い軸程運筆上の正確さが要求されることとなるので筆記の下手糞では扱い切れない軸となるからである。
また、軸は細く長い程筆記技術上の洗練が求められ難しい軸となる。
さらに、其の細く長く軽い軸に柔軟なペン先が付いて居ると余計に扱いが難しくなる。
このL.E.Watermanの5号ニブ付きのアイドロッパーはまさにそうした類の古典のペンなのである。
もっともこのペンのオリジナルのキャップはストレートキャップなのかもしれない。
されどその5号ニブの性格上から鑑みる場合にはテーパーキャップの方がより良く似合うようにも思われる。
すなわちこの5号ニブは非常に線描傾向の強いニブである。
要するに線を変化させて書き易いニブなのである。
従ってこのペンは基本的に雅文調の筆記を行う為のペンで、あのNo.149のように小説家が大河小説をそれで書いていくようなペンではない。
然したとえば詩人が自作の詩を認めていくにはまさにピッタリのペンだと言えることだろう。
あるいはカリグラフィーのテクニックを用い美しい筆跡の手紙など書くには最高のペンである。
かってのペンーそれも100年以上前のーはDip Penなどでもそうだがそうした美しい筆跡で手紙など認めることが出来たのだ。
線描の書き方をそこで行うので線が変化して文字に陰影が刻まれ字が美しく見えるようになるのである。
かって西洋人である程度教養のある人は皆そのようにして美しい文字で母国語を書いて居たのであった。
だから其れが文化というものである。
しかるに戦後はそのような手間をかけなくなり合理文字を書き並べるだけになって仕舞った。
だから其れが文化とは呼べないものなのである。
日本人だってかっては筆でもってして美しい抑揚を文字に刻み込みより上品な日本の文字を書いて居たのである。
だから矢張りそれが文化というものである。
よって筆ひとつ扱えないような現代の日本人は筆記の上での文化のカオリを知らない日本人であるに過ぎない。
我はそういう軽薄な日本人になりたくないから好きな萬年筆でもなるべく美しい日本の文字が書けないものかと思い始終古典の萬年筆を使って居る訳なのである。
ただしいつも線描テクニックーすなわち書道の上での運筆のテクニックーを使って書いて居る訳ではないのである。
なぜなら通常はL.E.Watermanの5号ニブ位の柔軟性であれば硬筆書道の書き方で充分にこなしていくことが出来る。
L.E.Watermanの4号以上のサイズのニブは硬めに感じられるものが多い為書道の上での運筆のテクニックなど必要ないのである。
ただし、2号ニブに多いと思われる所謂wet-noodle級のニブともなればまた話は違って来る。
或いはかなりに薄いDip Penのニブで特に柔軟なものなどは実際書道の上での運筆のテクニックが必要とされる場合が屡である。
要するに、L.E.Watermanの大きなサイズのニブは硬筆書道の書き方で充分にこなしていくことが出来る。
が、昨年倫敦から来たこのアイドロッパーの5号ニブは其れ等とは違い少しく特殊であるように見受けられる。
其れは要するに穂先が華奢でより線描向きである。http://yahoo.jp/box/qRclvx
其れから柔軟性の方がある。
其の柔軟性とは、然し微妙なところである。
物凄く柔軟だという訳ではないので微妙なのである。
ただ、線描の能力は常に高いものがある。
線描の能力が高ければ常に線を変化させつつ書いていける訳である。
ゆえにこのニブで書くと自然にカリグラフィー的な筆跡となりつまりはよりメリハリの効いた本来の日本の文字の書き方に近いものを其処に表現出来る。
その部分を我は最大限に評価して居るのであり、其れは無論西洋流のカリグラフィーなど行う場合にも最大限に実力を発揮して呉れることであろう部分なのである。
もっともより正確に言えば万年筆のペン先は筆圧をかけると縦の線が太くなるだけで、そうすると縦横が共に太くなる筆の線の出方とはまた別のものだとも言える。
されどこのL.E.Watermanの5号ニブ付きのアイドロッパーで美しい日本語を認めていくことは出来る。
そのことは充分に可能である。
かなりに運筆圧をかけてより書道方面に振った筆跡を表すことも出来れば、運筆圧を適度に抑えて軽い線描でもって美しい日本の文字を書き紡いでいくことも出来る。
万年筆のニブの柔軟性の本質的な意味とはその辺りにあるのであって、我は此の筆をただ筆記感が良いからという理由で好んで使って居る訳ではない。
この5号ニブは日本語の線描筆記を行うという面に於いてほぼ理想的な特性を有して居るものである。
それゆえに得難く、我にとって大事な実用のニブとなって居る。
尚、この軸はストレートキャップであるか又はテーパーキャップのアイドロッパーの軸である訳で、それで5号ニブ付きを探すとなると通常はかなりに難しいこととなる。
然しながら、コーンキャップのアイドロッパーの軸の場合には5号ニブ付きは普通に出て来るので入手はより楽である。
ただしその中から柔軟性の高いニブ付きのものを探すとなればそれもまたかなりに難しいこととなるのかもしれない。
されど、実は我はそういうタイプのものもすでに持って居る。
使って居ないのだけれど、half overlayの銀製フィリグリー軸のものが其れに当たるのである。
其の筆と今回の筆とでどちらがより線描が得意なものか確かめてみたいのではあるが、其の比較は暫し先のことになりそうである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1429回) ..2013/04/30(火) 23:00 No.4495 |
 |
理想のL.E.Waterman-1-2
http://yahoo.jp/box/afTsuz
こちらは確か二年位前にオークションに出されていたWaterman5 eyedropperの5号ニブの画像。
太字系のペンポイントが付いて居て穂先が短いように見える。
同じサイズのニブでも、このようになればニブのセンシティヴィティが変わって来る筈。
倫敦から来た私のWaterman5 eyedropperの5号ニブは非常に敏感で細かい領域での線描表現が可能だ。
結局ニブに対して何を求めているかでニブの評価は相対性を帯びる。
線描表現を行う筆記に於いてより敏感な反応性をニブに求めているのであればこの私のWaterman5 eyedropperの5号ニブは90点位のニブとなる。
然しそも線描表現など求めていない人に関してはその限りではない。
そのような人から高評価が得られるとは考えにくいのである。
万年筆の評価とはそのような相対性の中での話であるのでそも本質的には絶対の評価というものはありえない。
それに絶対の評価というものがあるとすればそれはほぼ権威主義化されているものなので個人にとってはむしろ役に立たないようなものがほとんどだ。
尚、私の場合今は硬筆筆記に於いて線描表現ばかりを追い求めている訳ではないのでそこは余計に話がややこしくなる。
線描やらニブの柔軟性やらというものはむしろ19世紀のDip Penのニブの方が向いているのだろうし柔軟性の方も高いものがある。
どだい日本語の線描表現の追求には微妙な部分が含まれており、すなわちそこでは柔軟性の高いニブばかりが向いている訳ではないのである。
私が実感的に最も日本語の表記に於けるニブの柔軟性として適切だと思うのは丁度このWaterman5 eyedropperの5号ニブ位の柔軟性なのである。
またこの位に穂先が長く尖っているとL.E.Watermanの大きな号数のニブに特有に存する剛性感のようなものが強く感じられずより少ない運筆圧で線描表現を行うことが可能である。
そのような訳でこのWaterman5 eyedropperの5号ニブこそが私にとっての理想の線描表現用のニブということになる。
そしてそのことが実感出来るということこそが何より大事なことである。
理論、理屈だけではなくそのように実感出来ることこそが己にとっての理想の存在であることの重要な要件なのである。
対しての最大公約数的な良い評価からは自分にピッタリと合った最高の軸やニブはむしろ得られにくいのであるからこそ逆に自己中心的に万年筆を突き詰めていかねばこうしたこれぞというペンを得ることは難しくなることだろう。
ちなみに私はもう一本Waterman5 eyedropperを使っていてそれについてはこれまで屡取り上げて来て居た筈である。
このペンはストレートキャップのアイドロッパーで其の5号ペン先はごく滑らかに書ける特殊なタイプであるがニブ自体は穂先が短く硬い。http://yahoo.jp/box/RA5cLo
そうかといって筆記感の方は兎に角素晴らしいものがあるのである。
それでこれら二本のWaterman5 eyedropperを書き比べてみると其の余りの方向性の違いに驚かされる。
其の方向性の違いとはつまりは筆記の方向性が異なるということに尽きる。
ニブの柔軟なものと硬いものの違いとはそうした意味でのことなのである。
これらはそれぞれに筆記の目的に対して特化していてその対比がとても面白く感ぜられるのだ。
そしてどちらが良いというよりも方向性は逆ながら共に優れた良いニブなのである。
万年筆のペン先の価値は柔軟性の高いものが良くそうでないものには余り価値はないとするような考え方は誤りで、硬いニブの中にも素晴らしく良く出来たニブは幾らでも存在して居るのだ。
ふぅ、然しこの硬いニブの書き味は本当に素晴らしい。
非常にリッチな書き味で、其れは現行の万年筆のニブからは決して得られないことだろう性質のものなのだ。
無論書き味の良さ自体は現行のニブに幾らでも良いものが存在して居る訳である。
ところがこのリッチさはどうも分厚い鍛造ニブ独特の書き味であるようなのだ。
そう、どうもこのニブは分厚い。
だからこちらの方はとても線描の出来たシロモノではない。
それでも兎に角素晴らしい書き味なのだ。
その点で評価すればこのニブは90点である。
されどもし書き味の良し悪しで評価すればセンシティヴな柔軟なタイプの5号ニブの方は80点位だろうか。
逆に硬い方の5号ニブは線描の点でなら70点も取れない位である。
そのように万年筆の評価には相対性の評価の壁がついて回り絶対の評価ということはなし得ないものなのである。
そうは言っても共に本質面でのニブの作りの良さということは確かにあり、それは共に手間暇かけた鍛造のペン先であることの切れの良さでありニブに内在する力のようなものなのだ。
その力こそが時を経ても良いものであり続けることの裏付けのようなものなのであり、線描の能力や特別な書き味の良さを生み出すところとなることだろう価値の源泉なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1431回) ..2013/05/04(土) 23:20 No.4497 |
 |
私が伊太利亜の万年筆を好きだったのは、特に伊太利亜の文化が好きだとかそういうことではなくただ万年筆の軸に関することでそれらを選んでいたということに過ぎない。
要するに、腰高で胴長の軸が好きだったということに過ぎない。
伊太利亜物の中でもオマスとヴィスコンティが特に好きだが、何故好きなのかというと腰高で胴長の軸のものが多いからなのだ。
正直言えば伊太利亜物のSiriusとして皆様の記憶に残るのは少々心外な位で、私は要するに腰高で胴長の軸が好きなだけでそれが日本や独逸物の現行品には無かったから伊太利亜物を愛好していたというのが本当のところなのである。
他に好きだった現行のペンはDuofoldのシニアーサイズのもの。こちらも腰高で胴長の軸でもって長大な全長があった。
だからかってはこのペンを多く持っていた。
限定品のイエローも二本持っていたし、オレンジもブルーのものも複数本持っていた。
でも今持って居るDuofoldは1920年代のものを五本ばかり。
これらはペン先は硬いが素晴らしい萬年筆だと思う。
それから90年代の英雄にも腰高で胴長の軸のモデルが多くあり当然ながらこちらの方も私は好んだ。
要するに筆、あの筆のように長い軸が好きなのである。
そういう風でないと私の場合は運筆がし辛くなるのである。
そんな訳で私の場合にはそうした特殊な選択の理由が存して居たのである。
兎に角まず軸が大事で、短い万年筆では運筆が合理性を帯び美しい文字になりにくいから好きではないのである。
伊太利亜の万年筆で最も私が好きなメーカーはオマスである。
オマスの軸が私の手に合うから書き易いのである。
オマスはクラシックスタイルの軸を標榜しているので、兎に角腰高で胴長の軸のモデルが多く私にはピッタリだ。
だから今後はオールドやヴィンテージのオマスをたまに落札してみようかと思って居る。
オマスの軸は基本的に私の運筆には合って居るのだから。
特に最近はオマスのセル軸の万年筆を結構使って居るのでまた愛着が涌いて来て仕舞った。
ガリレオ・ガリレイを二本使っているし他のものも何本も使って居るので現代のペンではヴィスコンティと共に使って居る本数は一番多い。
私にとっての初めてのオマスである557−Fパラゴンは90年代初頭に名古屋パルコで求めたものだが現在は軸がボロボロである。
軸が痩せるので部品が浮いて仕舞うしキャップも割れているのだが何せ私にとっては大事なオマスである。
その軸をアイドロッパー化して使って居るがアイドロッパーとなったオマスは壊れる心配が無くなり調子の方も頗るよろしい。
今回これにWaterman EMBLEMのニブを取り付けてみた。http://yahoo.jp/box/9XIlqF
Waterman56の軸には結局合わないので他に何か合う軸を探していたニブである。
このようにニブを長く出した状態で固定している。http://yahoo.jp/box/dk3vfJ
オマスのニブは元々長いので違和感はない。
この状態で確りと固定出来て居る。
すると、何故かEMBLEMのニブが柔軟に感じられるようになった。
EMBLEMのニブは多分1930年代頃のものなのだろう。
おそらくは鍛造ニブで、とても強いニブで運筆圧をかけられた位では曲がらない。
ところがL.E.Watermanとしては硬い方のニブであることだろう56の6号ニブと比べてもまだ硬いニブだったのである。
要するに大きく腰のあるニブで線描の筆記を行うにはかなりの運筆圧が必要な筈のニブだったのである。
ところがどうだろう、この状態で、何やらとてもしなやかに感じられるものとなったのである。
硬いには硬いが兎に角しなやかでもあるのだ。
線描表現を行ってみると結構いけるではないか。
少し力は要るが十分にこなせる。
全く素晴らしい。
オリジナルのニブよりも余程に良い感じで書ける。
ニブ自体にキレがあるので、オリジナルの90年代のオマスのニブよりずっと古典的な筆記感がする。
今私にはほとんどの現代の万年筆のニブが合わなくなって来て居り、そこを具体的に言えばたとえばあのロレンツォ・デ・メディチのニブでさえ筆記感の甘さが気になって仕舞うのである。
然しこれならば合う。
元より筆記感にはキレがあり、自由自在に軽い線描へと持っていける。
それにこの長い軸と戦前の強いニブとの組み合わせは最高である。
セル軸であることに不安は大きくあるのだが、いつしか1930年代のオマス・ルーセンス辺りが物凄く興味深いものになって来て居る。
それにつけても素晴らしいのは戦前のニブの強さである。
随分運筆圧をかけても全く曲がることのない其のニブの強さである。
そして兎に角線が綺麗に出る。
線描の筆記に長けて居る。
だから、結局はこの部分に尽きているのである。
書き味がどうのこうのということではなく、このニブの本質的な強さこそが気持ちの良い筆記感が得られることの大事な要件なのである。
それにしても、Waterman EMBLEMのニブがここまで良い物だとは全く思わなかった。
今回初めてここまでのことが出来るニブであることが分かったのだった。
流石にL.E.Watermanのニブは偉大である。
尚このパラゴンの軸は首軸の内側が痩せておりオリジナルのオマスのニブが付けられない状態にある。
だからこのWaterman EMBLEMのニブは痩せていないオマスの軸にはおそらく付けられないことだろう。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1433回) ..2013/05/06(月) 00:17 No.4499 |
 |
http://yahoo.jp/box/alY1y9
この程班竹を用いて太軸の筆Dip Penを拵えてみました。
この班竹の材料費は例によって105円。
たったの百五円でこんなに美しい竹の立派な軸が出来るのだから全く素晴らしい限りである。
竹は概ね軽いので木材よりも重量の点では有利となる。
尚之は15gで、208mmの軸。
兎に角軽い軸が好きな私にはまさにうってつけの素材なのである。
余談ながら私は筍を食す方も大層好む。
大好物が筍と牛蒡であるからしてどう考えても伊太利亜人ではないし無論亜米利加人なのでもない。
昔ー私が大学生位までのことー、名古屋市郊外に家が竹林を所有して居て其処へ屡出掛けては筍を掘りまくって居たことがあった。
其の折に竹林に風がサアッと吹き抜け竹の葉の葉ずれの音が実にさわやかであった。
無論筍の方も懸命に掘っては居たのだったがそのことよりも何よりも兎に角この竹林の静寂と幽玄の趣が我が記憶の底の方にこびりついていて離れない。
だからあの竹林の七賢のように我もまた世を厭い仙人のようになって竹林へでも隠りたいところなのだがあくまでそれは願望であってなかなかそううまくいく筈もない。
其の竹林はバブルがはじけたことで家が金を返さなくてはならない羽目になり手放してしまったのであった。
其処には今多くの住宅が建てられて居て地下鉄も通ったので随分地価も上がり名古屋市の中心部へ通勤する人々の為の新たなベッドタウンとなりつつある。
当時は池や山ばかりのまことに風光明媚なところであったがその変わり果てた姿を見るにつけ物凄く私は寂しい。
あの竹林の中で筍を掘りながら、時折竹林を吹き抜ける風や葉ずれの音と深い会話を行っていた筈だったわたくし。
無論のことそうした会話から詩を書く事のインスピレーションを受けたりすることも出来るのだ。
其の今となっては幻となった竹林で、我は一体どんな詩を書いていたのだろうか。
嗚呼、あの素晴らしい清しい竹林はもはや二度と戻らないのだ。なんて寂しいのだ。あんなに美しいところだったというのに。
そう思うと涙が出てきたので、それをスーパーで買った筍に少しくふりかけて食してみてやることとした。
バリバリバリとなかなか歯ごたえの良い、そして少しだけしょっぱくて最高の味の筍である。
そして私の中の其の美しかった竹林への思いは、いまだ断ち切れていないのである。
だからペンの軸も竹の方が良いのです。
あの竹林の七賢のように清貧で知恵のある竹、そんな竹で我はいまあの失われた竹林への思いを込めたつけペンを作るのだ。 竹林の七賢 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9E%97%E3%81%AE%E4%B8%83%E8%B3%A2
この班竹を用いて作った太軸の筆Dip Penは全く素晴らしい限りのものだ。
Montegrappaの18KのBニブ付きでしかも改造調整が施されたニブである。
あくまでなめらかで優しい筆記感がする。
あの朔太郎の詩のように竹、竹、竹、の厳しさはそこには無いが失われた竹林への恋慕の思いは強くこもっている。
そしてこれを使うたびにあの竹林を思い出す。
風渡る中の青竹の美しさを、そして地面からちょこんと頭を出した筍のいかにも可愛らしい様を。
されどこのつけペンは青竹というよりも筍のイメージに近い。
太くて何やら茶色くて、嗚呼、まるであの掘ったばかりの筍そのもののようだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1435回) ..2013/05/10(金) 01:19 No.4501 |
 |
私の場合、本日のように暑い日は、自然と涼しさを感じさせて呉れる竹の軸のペンを使いたくなって来る。
竹は東洋のものであり、わが国では古来より様々なものに使われて来た最も馴染み深い植物である。
竹の軸をペンに使う場合にはまず価格の面での問題があろうかと思う。
たとえば書道の方で使う竹の軸、これをそのままペンの軸とすることも出来る訳だが、その筆の軸は結構高価で高いものは万単位のお値段である。
無論そうした高級な筆の軸を用いてペンを拵えても良いのですが、私の場合はそうした高級な筆を分解してダメにするのが忍びなくて、それで主に百円の筆で筆の軸をペンの軸に流用することをして来て居る。
百円筆は百円なのであるからして壊したとしても罪悪感が少なくて済む。
http://yahoo.jp/box/7XZfcE 現在他にも二十本位の筆Dip Penがあり、それらは色や模様や太さも様々で、またペン先として付けて居るヴィンテージのスチールペン、または万年筆の金ペンも実に様々なものを取り付けて使って居る。
筆Dip Penは軸が軽く、しかも軸が長いので私には西洋の古いペン軸よりも日本語の運筆がし易く感じられる。
自然の竹の素材だから頗る感触も良く、たまに割れることなどもあるがほとんどは丈夫で、人造の変な軸素材のように分解したりはしないから極めて安心、安全な素材である。
特に金ペン付きの筆Dip Penは決して侮れない。
軸の方も百円だからといってチープである訳ではない。
自然はこれは百円の竹、こちらは一万円の竹というように差別して竹を生やして居る訳ではないので百円の竹だからといって特にチープである訳ではない。
ただし一万円の筆の軸の方は素材が厳選された上に仕上げが丁寧で素晴らしいものであることは認めざるを得ない。
右より
1.これまでの最高傑作。紋様が美しく、仕上げの方もうまくいった。華奢で上品な印象の筆。MACNIVEN&CAMERONのWAVERLEYスチールニブを付けて居る。
2.1.と同じ様なものに見えるが軸は比較的高い筆のものを流用した。軸が曲がっているように見えるのはデジカメの特性によるもの。
3.百円筆の中にもたまに個性的な色、紋様のものがあるがそうしたもののひとつ。 色と模様が変わっているし何故か非常に軽い軸。ニブはラウンデッドの珍しいタイプのもの。
4.美しい紋様を見せる黒竹の軸。スチールニブは仏蘭西製のヴィンテージ物だ。
5.つい先日作った筍ペン。これまでで最も太い軸のもの。
後の軸はストックしてあり使用していないもの。
こんなに色や紋様が違う。
また節があるもの、無いもので趣が異なって来る。
真っ黒のものは黒竹の特に黒いもの。
黄色い軸は万年筆のインクで染め上げたもの。
青い軸は比較的値段の高い筆の軸で、何年経っても青さが抜けないという珍しいもの。
かってこれを用いて万年筆化していたが現在は休ませて居る。
竹の軸は本当に面白い。
同じ色や形のものが一本たりともないのだし、皆長くて軽くて私にとっては完璧な軸素材なのだと言える。
http://yahoo.jp/box/Aux0pt こちらは改造万年筆で、軸はあかしやの竹軸、首軸はプラチナ3776のもの、ニブはオマスの18Kニブという不思議な組み合わせのものだ。
この竹の軸はパイロットのブラックで黒く染め上げてみたところ結構上手くいった。
こんな風に竹の軸は染色なども行えるから面白いものなのだとも言える。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1441回) ..2013/05/14(火) 23:23 No.4508 |
 |
セルロイドのペンに関しては、これまでに様々な形でその問題点を書き継いで来たつもりである。
どうしてセルロイドのことをここまで取り上げたかというと、私はセルロイド軸の限定万年筆を多数持って居たのでそこでトラブルが頻繁に発生し、それでセルロイドという素材自体に万年筆の軸材としての大きな疑問が生じて仕舞ったからなのであった。
その結果セルロイドのことを色々と調べ始めたのだったが、結論的に言えばセルロイドのペンはここ日本のような夏場に高温多湿となり易い気候環境の所には全く合わず、おそらくは余程に質の良いセルロイドでない限り長期的な保存や使用に向かないということが明らかになって来た。
兎に角セルロイドの万年筆は決して高級なペンではないということを日本のペンの愛好家は是非知っておくべきなのである。
セルロイドは一種権威化している筈の50年代の独逸物などにも多く使われて居るのだがそうした観点から鑑みて其れ等の独逸物も高級なペンとはなり得よう筈も無い。
高級なペンとは、戦前のエボナイト軸のものが一番高級なものなのであって、しかも其処に金や銀や貝やらがあしらわれた物はそれこそこちらがひれ伏したくなる程に根っから高級なのである。
そのように近年私はセルロイドのペンをこきおろして来て居る訳なのだが、それは私が経験上得た事実から述べていることなので仕方がないことなのである。
尚最近セルロイドのペンでとある事件が起こり、そこで本当の本当にセルロイドのペンは駄目だということが分り全くもってショックだった。
何と、あのDoricの軸が分解中であることが分った。
それも全く使って居ない赤と黄緑の二本のOversize Doricがやられていることが分って仕舞った。
共に尻軸のところから崩壊しつつある。
この二本はすでに数年前から風通しの良い所に保管して分解しないように細心の注意を払って居たのだった。
だが、持って居るだけでは仕方がないのでこれらを使おうと思いインクを入れて持ってみたところ、赤の軸の方の尻の所がボロボロになっていて割れて仕舞ったのであった。
ギャー。
その時私は本当に気が狂いそうになった。
次に黄緑の方も使おうと思ってよーく尻の所を見てみると、ギャー、これも同じ様にボロボロとなって居て割れて仕舞ったのであった。
ただし、共に5ミリ位の長さの範囲である。
それですぐさまそこを取り除き紙やすりで整形してそれらを使って居る。
ゆえに二本とも尻に穴が開いて仕舞ったのではあるが、元々Oversize Doricの尻軸は異様に長いのでかえって普通の萬年筆らしくなり格好良くなった。
それに二本ともレヴァーフィラーだがインクサックの所にまでは崩壊が届いて居ないので全然普通に使えるのである。
ただ、ショックは余りにも大きかった。
確かに戦前のセルロイド軸の萬年筆でこれまでにトラブルを経験したことは皆無ではなかった。
変色や軸の変形は良くあることでそれらの不具合には目が慣れて来て居たのである。
然し分解となると話は別で、これはもはやどうにもならぬ、後はただ死を待つだけ、それも何ヶ月持つのだろうか、不安なことこの上なし。
が、結局セルロイドのペンとはそうしたものであるに過ぎないのである。
セルロイドのペンとはいつかは分解して自然に還るものなのである。
うーむ、してみると、セルロイドのペンは物凄く自然派なのではないだろうか。
セルロイドは後の分解しにくいプラスチックに比べより自然的で地球にやさしい素材である。
だから人間がショックを受けることよりも何よりも、兎に角自然がダメージを受けないということが最も大事な観点なのであり、いざそこまで深く考えた場合にはセルロイドとは実は物凄く安全、安心な素材でまさに環境への負荷をかけない素材であったのだ。
との観点から、私は最近むしろセルロイドの軸の万年筆が大好きになって仕舞ったのである。
いや、特に好きにならずともどのみち私のセルロイド軸の万年筆は次第に分解していくので早く使ってやるべきなのである。
それでも同じ使うなら好きになって使っていた方がずっと楽しく万年筆を使えるではないか。
そんな訳で兎に角私は現在セルロイド軸の万年筆ばかりを使って居り、理想のWatermanの二本以外はエボナイト軸の萬年筆を使うことの方が稀な位である。
ただしこの夏場を乗り切れないセルロイドの万年筆は順次廃棄していくつもりである。
或いは花火にして弔ってやるつもりなのである。
そうした限定の時間を共に過ごすということは、何故か愛のようなものを其処に感じて仕舞う訳である。
セルロイドへの愛を。
これがほぼ百年はもつエボナイトのペンであればそこに尊敬は感じても愛にまではなかなか至らないような気も致します。
然しこの半年後には永遠に別れて居るかもしれぬという実に実に儚い素材、其の素材の出来の悪さということに何やら愛おしさまで感じて仕舞い、ただひたすらにこの狂おしいまでの愛の形の成就を願い、ただひたすらにこの道ならぬ恋にいれ上げて居るわたくしなので御座います。
京都セルロイド http://www.kyotocelluloid.com/index.html
いや、ここに書いてあることが本当のことなのだと思われます。
こんな風にセルロイドは自然へ還り易い素材だということを明記した上でセルロイド軸の万年筆は売られていてしかるべきなのである。
ただしここでも軸が分解して仕舞うとは書いて居ないのですが。
セルロイドサロン 生分解性樹脂とセルロイド http://www.celluloidhouse.com/salon91.htm
ここにもあるように、セルロイドはエコロジーな素材で環境には優しいという視点をセルロイドの使用者の側が持つべきものであるのかもしれない。
セルロイドがダメな素材であるということを責めるよりも、むしろそこで長所の方を確りと評価してやるということも出来る。
ここにはセルロイドが環境にとって無害な物質であることがこと細かに述べられている。
言うまでもなく21世紀は環境問題が第一義的に論じられなければならない時代となって来て居る。
だから分解が屡起こり得るセルロイドの軸の万年筆を使う人は分解しないか分解しにくいプラスチックの軸の万年筆を使う人よりも環境保全の意識に目覚めて居る全体論者だとも言えそうである。
それで我は頭の中がスッカリ其の全体論者なのであるからして、今後も好んで時の経過と共に自然に分解するセルロイドの軸の万年筆を使っていく決意を固めたところである。
さてアナタは万年筆の軸が崩壊して自らが辛さを味わうか、崩壊しない万年筆の軸を捨てて地球を汚して仕舞うかということのどちらを選択されますか?
ー万年筆の愛用者が万年筆を捨てないようにしていたにせよ、愛用者の死後に家族がポイッと万年筆を捨てて仕舞うということは大いにあり得ることだ。ー
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1442回) ..2013/05/15(水) 23:50 No.4509 |
 |
ある意味で究極のペンであるのが、Dip Penのスチールニブなのではないかと今私は思う。
無論スチールニブに限らず、Dip Penの金ペンの方でもそう言えることかと思うが、それでも兎に角硬筆筆記というものはまずDip Penのスチールニブの方で行うことが基本なのである。
其のDip Penのスチールニブを万年筆に組み込むことは、最近私がやり始めたことなのであり、昨年まではDip Penの金ペンを万年筆に組み込むという改造を屡行っていたのであった。
Dip Penのスチールニブというものは、筆記上案外奥深い世界が味わえるもので、特に私が収集しているヴィンテージのDip Penのスチールニブの世界というものは、また万年筆の収集の世界とは一味違った深みのある世界のものなのである。
Dip Penのスチールニブのコレクターは流石に欧米に多いことと思われ、ここ日本ではごく少数派だといえることだろう。
日本人はどちらかというとあのカリカリしたDip Penのスチールニブの筆記感が嫌いなのではないだろうか。
その点私は全然そうではなく、むしろその筆記感が好きというか気にならない方なのでもう随分昔からDip Penのスチールニブの愛用者である。
実は中学一年生の頃から使い続けている。
無論当時はヴィンテージのDip Penのスチールニブなど使ったことはなく、あのZEBRAの匙ペンだったろうか、中学校の前の文房具店で買って来たスチールニブを安物のペン軸に付けて良くイラストなどを描いて居たのである。
イラストを?
そう、私は昔絵の方も描いたのである。
もっとも美術部などに入ったことはなかったのだが、中学生の頃までは屡水彩画やイラストのようなものを好んで描いて居た。
音楽の方よりはそちらの分野の方が向いているようだった。
けれど小学6年生の頃からすでに詩を書き始めて居たので、以後はそちらの方がメインでの藝術的な趣味となり次第に絵は描けなくなっていった。
一度だけだったが小学4年生位の時に何かの展覧会に入選した薔薇の水彩画があって、それが当時の居間かどこかに長らく飾られていたのだったがやがてその絵はどこかへ消えて仕舞った。
高校の頃には必修科目の方の生物クラブでプラナリアの研究をしていたが、その折に美術部の奴ら二人と知り合い、奴らの才能のあることといったら全く凄まじい限りで、兎に角何を描いても我と比べると月とスッポン、絵を描く場合のその才能とはいかなるものかということをまさにその時に思い知らされたのであった。
だから絵を描ける奴等が少しだけ羨ましい。
何せ藝術というのは結局は才能だけなのでね。
ただし、我は生まれつき謙虚だから自分に詩人としての才能があるとは実はこれっぽっちも思って居ない。
ただ詩という文学のジャンルが好きなだけなのである。
詩のマニアだというだけのことなのであり、だからこそ我は自称詩人であるに過ぎないのである。
さて、Dip Penのスチールニブを組み込んだ筆Dip Penはすでに三十本近くに増えて来て居る訳だ。
が、Dip Penのスチールニブを組み込んだ万年筆はまだ三本しか持っていない。
そのうちの二本がこちらである。 http://yahoo.jp/box/0-4_PV
上はEversharpのデスクペンにMACNIVEN&CAMERONのWAVERLEYスチールニブを組み込んだ万年筆。
下は戦前の国産エボナイト軸にMACNIVEN&CAMERONのWAVERLEYスチールニブを組み込んだ万年筆。
Eversharpのデスクペンの方は普通に萬年筆として使える。是はレヴァーフィラーである。
国産エボナイト軸の方はインキ止め式をただのアイドロッパー方式として改造してある。
http://yahoo.jp/box/likL05 それで問題は、国産エボナイト軸の方へのスチールニブの取り付け方にある。
このように非常に長く突き出した形で取り付けてある。
ところがこのようにすると、実は非常に筆記感が良くなる。
ごく繊細な感じで穂先がしなるようになり、それに伴い筆記感の方もごく繊細なものに感じられるようになる。
ところが残念なことにこの状態ではインクが余り出ない。
それは当然のことで、細長いフィードからさらに細長く穂先が前へ突き出して居る為、そこでのインクの供給がいまひとつなのである。
もう少しペン先を押し込めば普通に書けるようになる筈なのだが、スチールニブをあれこれと加工しているにも関わらずこれ以上は首軸の方に押し込めない。
もし押し込めたにせよ、そうなれば上のEversharpのデスクペンでのようなフィードとニブの位置関係となって仕舞い、この特有な筆記感の繊細さは失われて仕舞う筈なのだ。
要するにこの状態では完全に萬年筆としては使えないのだがこの状態であればこそ筆記感の方は最高なのである。
それはとてもスチールニブの筆記感だとは思えないような微妙かつ繊細な書き味を醸し出して居るのである。
もっともこの状態ではまともに使えないのだから、おそらくは近いうちに金ペンに替えて仕舞うつもりなのである。
然し、この穂先の長さと尖り方はどうだろうか?
こんなに尖って穂先の長いペン先は万年筆のペン先の中から見つけられないような気がするのですがその点はどうなのだろう?
穂先が長く尖ったスチールニブはヴィンテージニブで他にも色々と持っておりますがそれらは皆線描が得意なペン先なのである。
してみるとスチールニブというものは元々線描が得意で、それは万年筆のニブよりもむしろ余程に得意なのであり、こと線描の筆記を極めていく為には後のマイルド化されていく萬年筆のニブなどよりもこうした穂先が長く尖ったスチールニブで追求していくべきものなのではあるまいか。
そんなことを思いながらこの二本の筆を操って居ると、そこで何やら余程に高度な硬筆筆記を行っているかのような気がして来るのであった。
考えてみれば萬年筆というもの自体が近代的合理性の進んだ硬筆筆記具である訳で、つまりはある意味ではDip Penよりもお手軽にされて仕舞って居る筆記具なのである。
ゆえにDip Penが萬年筆よりも劣る筆記具であるかといえばそれは全く違って居て、そこではむしろDip Penによる筆記の方が硬筆筆記に於ける基礎、基本なのであり本来ならばそちらの方で硬筆筆記の何たるかということを追求していった方が良いのである。
ちなみにこうした線描用と思しき細長いスチールニブは結構書き方の方が難しく、特に筆記角度をニブに合わせてやらないとすぐにガリッと来るということがある。
それでも結構穂先がしなり易いので書いて居て結構気持ちが良い。
Dip Penのスチールニブを組み込んだ万年筆を作るのは矢張り邪道ではあるのだろうが、その試みからは硬筆筆記についての様々なことが学べるような気がしてならない。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1454回) ..2013/06/04(火) 01:32 No.4522 |
 |
最近万年筆はもう何でも良くなって来て居て、その時にたまたま目に留まったものを使って居るような感じだろうか。
ただし一番良く使って居るのは例の赤いロウソクのセーラーである。
この筆は私にとってはとても書き易いので自然に手が伸びて仕舞うのである。
尚この筆に挿して居るセーラーの首軸ユニットは黒檀軸のものではなくセルロイドの軸の方のものだった。
そこは勘違いをして居たのである。
然しペン先は14KのH-MFなので14KのH-Fの黒檀軸のものと良く似て居る。
似ては居ても、セルロイドの軸の方のものは多分90年代のものだろうから刻印などが大幅に異なる。
確かに同じ14Kなのだけれど、私にはどうも古いペン先の方が良いようだ。
一般に万年筆のペン先は古いものの方が粘りがあるように感じられる。
最近のペン先はたとえ柔軟なものではあっても粘りが少ないか、無いような気がしてならない。
戸外用の万年筆は今様々なものを使って居り、ペリカンやプラチナなどを場合に応じて何種類も使って居る。
M800Demo 18C PF MとM850改 14C Bを二ヶ月程携帯して使って居たが矢張り携帯するということに関しては共に強かった。
18C PF Mはオリジナルながら適切なインクフローでまずまずの書き心地、14C Bは何年も自己調整してようやく完調になった。
筆記感は14C Bの方が柔らかい感じがあり。
このニブは18C PFよりも線描に向いていて普通に書いても僅かに線が変化する感じすらあり。
ただし独逸物のニブは基本的に線描を行うようなニブではないので、線を変化させるというよりは筆記感の方を楽しめるニブとなって居る。
14CのBニブはかなりに滑らかでそこは書き味の良さの方も楽しめる。
M850は黒軸で本来はヴァーメイルのキャップが付くところをM800の黒キャップと交換してある。
だから全身真っ黒のペンであるが黒いペリカンというものも慣れるとなかなか乙なものである。
Pelikanの縞軸に凝るということは、どうもあれは誤りで、Pelikanは縞の無い軸が一番安心安全でよろしいことかと思う。
尚M800Demoの透明な緑軸は悪くない。爽やかな色合いの軸なので新緑の戸外で何かをメモする時などはいかにも似つかわしい。
14CのBニブは調整を行ったのでインクフローが良く、所謂低筆圧筆記でも十分なインクの流れが得られる。
ところで最近気が付いたことは、プラチナの万年筆は日本を代表する美しい日本文字のための万年筆であるということだった。
すなわちプラチナで書くと上手に日本の文字が書ける。
プラチナはペン先が硬く感じられ易いのだが、実は日本の文字を美しく書き表すことの為には向いている万年筆である。
もっともセーラーでも日本の文字を美しく書き表すことは出来る。
特に14Kのニブの場合、それも90年代の14KのH-MFなどはとても良い。
それから最近Wahl-EversharpのFLEXIBLE NIBの実力の高さに改めて驚かされたりもして居る。
これは線描用としては最高のニブのひとつに数えられることだろう。
L.E.Watermanのニブよりもむしろ線描筆記に向いて居る様な気がしてならない。
尚Wahl-Eversharpの軸はDoricやEquipoisedのものよりもフラットトップのより古い軸のものの方が出来が良いのかもしれない。
No.149の14Cのフレキシブルタイプのニブはようやく完調になり、これは書いてみれば誰もが驚くことだろうものとなって居る。
兎に角ニブ自体が柔軟なものとなって居るので無理をすれば線描筆記さえ出来る。
ではあるが、久保工業所でリチップして貰ったのが太字だから普通にゆったりと書いていく方が似つかわしく思う。
これを十年くらい前にフレキシブル化して貰った時にはその良さが余り分からなかったのだったが、僭越ながらそこに色々と手を加えさせて頂きここへ来てようやく満足出来る仕様となったのである。
ニブをあれこれと弄って居るので、その過程で様々なことが分かったのだったが、一番大事なこととして分かったのはNo.149の14Cニブは非常に強いニブだったということである。
なぜならフレキシブル化して、結構筆圧をかけて書いたにせよニブは曲がらなかったのである。
ただし、No.149のニブは調整で余り変形を繰り返していたりするとクラックが入ることはある。
このニブにも実は小さなクラックが入って居るが、そこは仕方がないので小さなクラックを大きくしないように低筆圧筆記でいこうと思って居る。
7、8年前にクーゲル風改造仕様ということで海外から求めたNo.149の14Cモデルの方もニブの取り付け調整に五年近くも要して仕舞いましたが現在は完調である。
ちなみにペン先は固定の仕方ひとつでまるっきり筆記感が異なって感じられるものとなるので注意が必要である。
メーカーや調整師に調整して貰ったものでも狂っていることがあるのでそこを直していくのはミクロ的に細かい作業でほとんど人間ワザではない。
この二本は兎に角今完調である。
このクーゲル風改造のニブは厳密には形状がクーゲルニブのようではないのだけれど、インクフローが良く低筆圧筆記でもって滑らかかつ優しい紙当たりの感触でどこまでも書いていける優れモノである。
尚、ペン先は固定の仕方ひとつでインクフローが全く異なるレヴェルのものとなることが多く注意が必要である。
私の経験ではインクフローが悪い時は固定の仕方が間違って居り、とりあえずインクフローが良くなくてはならないのではあるが、そこでよしんばインクフローが良いのだとしてもペン芯とペン先の位置が左右にずれていてはそれは間違いなのである。
あくまでペン芯とペン先の位置が真っ直ぐでしかもインクフローが良くなっている状態で、さらに字が上手に書ける感じでなければならない。
その上手というのは、上手な人が普通に書いて上手に書けるということを言うのである。
というのも実際に字が下手になって仕舞う固定の仕方ということがあって、そうなるとたとえインクフローの方が良いとしてもどこかが間違って居るのである。
まあこの辺りの話は逆に調整のプロの方々には全く訳の分からないことを言って居るように聞こえるのかもしれない。
何せ自称詩人の表現なので隠喩、暗喩的な表現の部分が入って居るのかもしれない。
ただし私の感覚の方に限ればそこにはおそらく確かなものがあることだろう。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1457回) ..2013/06/09(日) 10:42 No.4525 |
 |
Eversharp Doric Cathay SR fountain pen SMALL CRACK http://www.ebay.com/itm/251083285356?ssPageName=STRK:MEWAX:IT#ht_742wt_934
どうもこれまで見て来た限りではDoricの場合このCathayカラーの場合が一番トラブルが出易いセルロイド軸のようである。
過去には他にも割れの入ったCathayカラーのDoricが売られていたことがあった筈である。
ここからしても萬年筆は結局はエボナイト軸のものが一番良いのであり、そこでセル軸の華やかな色合いなどに惑わされたりしないで実質の価値の方を追求していく方が余程にためになるということである。
特に現代文明の所産の物は実質的な価値が隠蔽されて居り、おまけに其の実質的な価値以外の粉飾価値の方に重きが置かれて居るようなものがほとんどなので本当に良いもののを其処でしかと選んでいくということが常に難しい時代なのではある。
即ち其処では紛いもののようなものが一流品であるかの如くに流通せられて居るのであるからして余程の注意深さを持つことこそが肝要なのである。
所詮現代のものとは何でもそんなものでたとえば女性など選ぶ時にもケバケバしい感じの女を選ぶのではなく掃除洗濯をキッチリとこなせる所謂良妻賢母型の真面目な女を選んで置いた方が何かと宜しいようだ。
が、其の良妻賢母型の真面目な女を捜すとなるとこれはもう今では大変で、それは多分一万人に一人位の確率でしか存在して居ないことだろう。
萬年筆の方もそれと同じで一万本に一本位の割でしか真に良いものは存在して居ないのかもしれない。
ここからしても真に良い萬年筆を手許に引き寄せるには常に美意識を磨き込んでおくことが大切なことのようだ。
謂わば其処で万年筆を引き寄せる機根を磨き込むということ。
それから兎に角教養をつけること。
ただし一流大学を出た人でも所謂教養の無い人は大勢居るようだからそこは注意が必要である。
つまるところ、学歴と教養とは別物。
ところで私は萬年筆とは生き様に直結しているものだと最近良く思う。
其れは萬年筆単体として存在して居るのではなくて個々の人間の精神性のようなものと相互に交信しつつ相成っていく趣味の世界のものなのである。
其処では即ち精神無くして萬年筆趣味は成就せず、萬年筆無くして己の精神の完遂は無いのである。
ま、其処を端的に言えば集めて居るか或いは使って居る万年筆の種類でその人の精神の傾向までが手に取るように分かって来る。
などということはあろうかと思う。
それで私はこれまで兎に角私なりに萬年筆趣味を深化させて来ていつのまにかほとんど行き着くところまで来て仕舞った訳である。
其の私の萬年筆趣味は所謂技術論ではないのであるし、そうかと言って其の反対の方向性の精神論ばかりでもないのである。
でも私なりの方法での全体論的な萬年筆趣味が完遂されればと思って居る。それも直觀的なやつで。
私は思想的に権威化された権力構造なり制度や組織などを嫌うから萬年筆の方でもそうしたものとは常に無関係でありたいと思って居る。
そうした諸々の権威とは無関係に常に萬年筆の仙郷の方を目指していたいのだからつまりはそういう求道的なタイプの万年筆の追求者である。
さてこれまで私は古典の萬年筆を追求して来た訳である。
そのことは私の場合万年筆に於ける物質的な問題だけではなくその背後に拡がる筆記文化までをも内包するまことに壮大な世界のものであった訳だ。
またその硬筆の筆記文化は萬年筆によって作られたものである訳ではなく、あのただ軸にペン先を挿して使うだけであるというDip Penの世界で醸成されたものであった訳だ。
結論としてDip Penの世界に於ける精神文化はどうも萬年筆の世界に於ける精神文化よりも高いものがあるように見受けられた。
要するに何でもそうだがより古いものの方が精神性が豊かで真面目に作ってあるものが多いようだ。
これはいつも何でだろうと思うのだが、結局は効率性の追求は其処で何らかの精神性の深さを奪っていって仕舞うということがあるのだろう。
尚前々から私は二、三日休みが貰えたら是非三河の田舎の方を通っているローカル鉄道に乗って旅をしてみたいのだけれど、それをやったらそれこそ景色は良いわ、駅弁は旨いわで我が精神にとってはさぞや有益なことだろうと思う。
対してもし通勤電車で遠くへ通うのだとしたら、それはもう考えただけで頭が痛くなる。
要するにそういうようなことがこの近代社会の中では様々な領域で起こって居る。
それは人間の精神の領域でも引き起こされていることなのであるし、物の領域でも引き起こされて居るひとつの傾向性なのである。
それでそうした効率性の追求が本当に人間の心を豊かにすることに繋がるのだろうかという問いは現代人の心の中に常にある。
いや、それはむしろ人間の心を貧しくしていっているのではないかと実感されることも屡である。
思想の世界では効率性の追求=近代合理主義ということになることかと思うが、万年筆の世界に限れば其の近代合理主義がむしろ萬年筆を生み出して来たという自己矛盾すらある。
ゆえに万年筆の世界で効率性の排除を声高に叫ぶことは少々見当はずれなのではあるが、効率性を追い求めて進歩して来た現代の万年筆がすべからく面白くないものになっていきつつあることもまた厳然とした事実なのである。
つまりそれは精神にとって面白くないのである。
あくまで効率性の向上で性能は上がって来て居るのである。
なのに何だか面白いものではないのである。
だからそこが、先ほどの鉄道の話のようなものなのである。
満員電車は効率的に人を運ばないと人をさばけないので其処では効率が重視されざるを得ないのだが、遊びの世界、趣味の話ともなれば其の効率の追求が人間の精神にとって好ましい部分ー楽しく、精神が豊かであることを可能とならしめる部分ーを壊していって仕舞うのである。
万年筆というものはまさにそうした世界に流通しているものの筈なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1458回) ..2013/06/09(日) 10:43 No.4526 |
 |
ただし、非効率性の中にのみ精神の豊かさ、そうしたゆとりのようなものが感じられるということばかりでもないのである。
たとえば古典の萬年筆はDip Penよりは遥かに効率的だが精神的な豊かさのようなものは常に有して居る。
50年代位までの万年筆は古典の萬年筆よりは効率的だが精神的な豊かさのようなものはまだまだ有して居る場合が多い。
80年代位までの万年筆は50年代位までの万年筆よりは効率的だがそこに最低限ゆとりのようなものが感じられない訳でもない。
問題は21世紀の万年筆が一体どうなっているかという部分である。
実感的に21世紀の万年筆は使ってみて私の心を喜ばせて呉れるようなものが無い。
おそらくは90年代の終わり辺りに効率が精神の豊かさのようなものを減じて仕舞うことの、其の限界点のようなものがどこかにあったのではなかろうかと最近私は考えて居る。
つまりこれ以後に出された万年筆はローカル鉄道での旅の方ではなく満員電車で通勤することの方へと向かって歩んでいく。
ま、万年筆も趣味の世界のことなのであるから、満員電車で通勤することを選ぶよりも常にローカル鉄道でもってのんびりと旅をして居たいものだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1459回) ..2013/06/09(日) 23:56 No.4527 |
 |
不思議なものであのヴィスコンティにしてからもが次第に設立当初の志のようなものを忘れて何だか変なペンばかりを作って仕舞うようになっていく。
Visconti | Salvador Dali Surrealist Collection http://www.fountainpenhospital.com/Index_Showcase.asp?BOD=/collections/collection.asp%3FCK%3D1651%26MFG%3D39%26utm_source%3Dmania%26utm_medium%3Demail%26utm_content%3D060613%26utm_campaign%3Dmania
其処は何故そのようなことになって行って仕舞うのか、本当に不思議なところである。
然し概ね人間の作る制度、組織、団体というものは大抵の場合そのようなことになって居るものなのであって、長年の間に亘りそれが完璧に機能して良いモノや良い時代を創り上げるということはほとんど奇跡に近いようなものなのである。
そこからしてもあの徳川の三百年に亘る幕藩体制が齎した安定的な時代の価値は本当に大したものである。
ところが最近オマスの方は最近好調であるように感ぜられてならない。 Omas - Arte Titanium Bronze - 2012 https://chatterleyluxuries.com/product/omas-arte-italiana-titanium-bronze-limited-edition-fountain-pen/
こちらは非常に魅惑的なチタン軸である。
軸の方は多分使えるものとなることだろう。 これに古いオマスのニブを付けたら、最高のオマスとなって呉れるのかもしれない。
セル軸は良さそうなものでも場合により完全に崩壊して仕舞うので1930年代のOmasに凝るよりもこちらにして置いた方が賢明なのかもしれない。
Omas - Lamborghini - 2013 http://www.intercontinental.co.jp/Omas/Lamborghini_50th_Anniversary.pdf#search='Omas++Lamborghini'
面白い。いや、何だか凄い。とても迫力がありで。
短そうなペンながら、短いのは短いのでまた独特の魅力があり。
チタン軸というのはまさにオマスの未来の可能性を感じさせて呉れる軸素材である。
おそらくは現代でしか作り得ない素晴らしい軸素材だと言えるこ となのだろう。
ただ異様に高価なペンとなって仕舞うことだけが問題である。
ところで伊太利亜のスーパーカーも最近は信頼性が増して来て居るのではないだろうか。
伊太利亜のものは何でもそうですが兎に角デザインの方はピカイチなので其処に技術的な信頼性さえ加味されればたちまち世界一流のものとなって仕舞うのではなかろうか。
そうした方向性へと伊太利亜のものが進んでいって居るのだとしたら今後はまさしく伊太利亜のものは侮り難いものとなる。
ところで話がガラリと変わって仕舞い悪いのですが、本日昼に私は家でピッツァを食して居りました。
其のピッツァ程伊太利亜を感じさせて呉れるものも無いのでありましょう。
私はピッツァが好きで昔から良く食して参りましたが、最近は体重が増え過ぎたので頻繁に食すことを控えて居ります。
ところが本格的なデリヴァリーのピッツァの店が三年くらい前に出来、それを食してみたところ非常に自然な風味でよろしかった。
尚、これまで日本にあった所謂ピザ屋のデリヴァリーのピザは何やら油っぽくておまけにゴチャゴチャと色々なものが入って居ておまけに値段も高くてで、確かに昔はそれでも屡とって居たのだったが今はもうそういうのは御免です。
然し、このサルヴァトーレ・クオモのピッツァはそうしたアメリカンピザとは違う本物のナポリピッツァなのです。
サルヴァトーレの想い http://fc.salvatore.jp/message/index.html
「世に普及している高カロリーのアメリカンピザではなく、安心・安全・健康的な本場のナポリピッツァを日本の皆さんに食べて欲しい、高級なイタリアンレストランではなく、週に何度も気軽に利用していただけるような店舗を作りたい」とのことです。
しかもその高カロリーのアメリカンピザの値段が高いのです。ピッツァなんて伊太利亜では庶民のおやつみたいなものであるにも関わらずです。
あるいは其処にはイタリアンというと或いはフレンチというと何でも高級な食事と考えて仕舞う日本人の浅はかさということが影響していることなのかもしれません。
本当は和食でしっかりとしたものの方が世界一高級な食事なのだろうと私は思います。
もっともそんな高級な料亭や店には滅多に行けないのではありますが。
http://fc.salvatore.jp/about/pizza.html
「窯の床面にて直焼きする」のでピッツァが結構焦げて居ります。
然しそのゆえにか香りが良く、そしてかなりにもっちりとした歯ごたえを感じさせる生地です。
http://fc.salvatore.jp/about/qualita.html
トマトの香りが良いですね。
モッツァレラチーズの味が余りくどくなくサラリとして居ます。
食べてから数時間後に少し匂いが鼻につく感じはしますがそれも僅かです。
私が注文するのはいつもマルゲリータですが、これこそがなかなかのものです。
尚本日はこのマルゲリータが何と半額でした。
其の半額でも日本でのピッツァ価格が安いとは思いませんが、この半額の時にだけ注文して食して居れば多分体重は増えませんのでそれで万事がうまくいったという訳なのです。
出来ればサルヴァトーレ・クオモのピッツァを毎日食して居たい、そしてオマスのチタン軸の万年筆が是非欲しい。
こうなるともう半分位は伊太利亜人のようなもので、先日伊太利亜の文化には興味は無いとここで言って居た割には案外根強い伊太利亜志向というものが心のどこかにあるようです。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1460回) ..2013/06/12(水) 00:02 No.4528 |
 |
http://www.ebay.com/itm/Ranga-Ebonite-Fountain-Pen-4C-Rounded-Hand-Made-German-Nib-w-Converter/111051488696?_trksid=p2047675.m1982&_trkparms=aid%3D333005%26algo%3DRIC.FIT%26ao%3D1%26asc%3D177%26meid%3D8299542407684329751%26pid%3D100009%26prg%3D1088%26rk%3D2%26sd%3D130746351707%26#ht_4787wt_1155
http://www.ebay.com/itm/Ranga-Ebonite-Fountain-Pen-4C-Brown-Ripple-Hand-Made-German-Nib-w-Converter-/111046222714?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item19dadee37a#ht_2917wt_1172
印度のRanga万年筆については、上記の出品者が上の様に独逸製のニブを付けたより分かり易いモデルを販売しているようである。
ちなみにここの店の方ではかって"Ranga -Bamboo- Leroy Fairchild Wet Noodle Flex Nib, Mottled Brown Matte, C-C-ED"というモデルが売られていたことがあった。
其れはBakul Brown(Rough Finish)といわれる艶消しの軸で軸の形は私が今使って居るJapanese styleのBambooモデルとほぼ同じであった。http://yahoo.jp/box/uhJ6kO
ただしペン先の方は何とDip Penの金ペン先が付けられて売られて居たのだ。
其処にはまさにあのLeroy W. Fairchildの六号のDip Penの金ペン先が付けられて居た。
このように海外では店やオークションなどでごくたまにDip Penの金ペン先が付けられた古い萬年筆が売られて居ることがある。
それらは当然に改造萬年筆だということになる。
それでもそのことが可能であるということに留意して頂きたい。
決して相性が良いとは言えなくても、そのことは可能なのである。
Dip Penの金ペン先を萬年筆に組み込むことは私も屡行って来たことである。
そのようにすると、所謂"Wet Noodle Flex Nib"のペン先となる訳で、其処ではまさに萬年筆を超越したヘナヘナの筆記感が味わえることとなる。
そうした改造萬年筆で書くとかなりに線描傾向が強い筆記を自然と行なうようになる。
其処では否応なく線が変化するから西洋書道つまりカリグラフィーを行うには最適の筆が出来上がる。
ただし其れ等で日本語を書く場合には、逆に少々難しくなるとも言えることだろう。
運筆圧がかかった時に縦線が太く横線が細いという線の変化の仕方でも美しい日本の文字が書けない訳ではない。
それでも充分に書けるのである。
ただし、其処で余りに縦線が太くなる必要などは無いのである。
其の縦線を太くするという部分は、元来カリグラフィーの方で必須とされるシェーディングの為の筆記技術なのであり、日本語の表記の場合にはあの筆の穂先の如くに運筆圧がかかった場合には縦線でも横線でも、いや、そうではなく運筆に応じて全方向的に生じる線が太く変化していかなければならないのである。
だからそういうのが毛筆による軟筆筆記で、其れは西洋由来の硬筆筆記とは根本的に異なる書き方となって居る訳である。
とはなっては居るが、運筆圧がかかった時に縦の線が太くなるのであれば、其処で横の運筆での線変化が望めないにしてもそれなりにカリグラフィーとしての日本の文字の表現が可能となるのである。
だが、其処でもし大袈裟に其のことを行って仕舞うと、言ってみれば其処にかなりに個性的な書道的な筆跡が出来上がって仕舞うことになる。
そのことも行えない訳ではないのだが、それでは実用文字としての範疇を飛び越えて文字の藝術表現の方向へと近づいて仕舞うので萬年筆程度のものでは其れを行う意味が無いのである。
従って所謂"Wet Noodle Flex Nib"のDip Penの金ペン先ではあっても軽い表現に留めて置いた方が美しく見える日本の文字を書くことには向いて居るとも言えることだろう。
それで、其処で軽い表現に留めて置くというのであれば、Dip Penの"Wet Noodle Flex Nib"を自在に操ってむしろ線の変化を最小限にしていかなければならないのである。
それは相当な筆記上の技術が居ることかと思う。
Dip Penの金ペン先の中には相当に柔軟なタイプのものがあるため、それを自在に操るには硬筆筆記の技術よりもむしろ書道の運筆の技術の方が役に立つようになって来るものなのだ。
其の、力を抜いて穂先を運ぶという感覚はまさに書道の運筆上の技術の方に近いものである。
普通に力を込めて書いて仕舞うと、縦の線が太くなり過ぎて日本語のカリグラフィーとしては少し個性的になり過ぎるきらいがあるため余程に力を抜いてペン先を運ぶのである。
其の時の線描の制御の加減が難しいのでこの種の改造ペンやアンティーク萬年筆の"Wet Noodle Flex Nib"を持ったペンの場合にはむしろ書道に見られるが如くに力を抜いた繊細な筆致が其処に必要とされて来るのである。
つまりは"Wet Noodle Flex Nib"というものは元来日本語の表記には余り向いていないペン先だとも考えられるのだ。
然し其れを書道でのように運筆圧制御の繊細な筆記技術でもって御していきつつ美しい日本語を書いていくことは充分に可能なのである。
左様に萬年筆といっても本当に柔軟なニブを持った古典的な萬年筆やこの種の特殊な改造ペンでいざ日本語を書いていく場合には色々と大変である。
もっともそうした筆記が大変だとは思わない人にはそれも逆に楽しくて仕方がない筆記として認識せられて居る筈である。
尚、印度のアイドロッパー方式の万年筆は世間で語られて居るが如くにペン芯のインク制御の能力が貧弱で時折インクを噴き出すことなども確かにある。
然し、私の場合は是れを万年筆だとは思わずに筆だと思って居るのだからして、そのようなことが起こったにせよさほど大きく気になるという訳ではない。
1.私が萬年筆で書くのはプライヴェートなものに限りそれで汚してはいけない文書などに書き込む訳ではない。
2.インクを噴き出すことは屡保管中にも起こるが、其の対策として筆記状態のままで筆用のキャップを被せ直立させた状態で筆筒の方に保管しておく。
3.そのようなことが起こり得るにせよ印度のアイドロッパー方式のエボナイトの万年筆の軸は素晴らしいと言える。特に其の値段の割に物が良い。エボナイトの軸が確かである。
ちなみに次回のRangaはデスクペンタイプのものを考えて居るところですが、無論可能であればペン芯は古典の萬年筆のものに付け替えても良いのである。
またペン先の方はDip Penの"Wet Noodle Flex Nib"を付けてやっても良い訳だ。
印度の万年筆は若干アバウトでつまりは四角四面に合理的ではないだけにこんな風に様々に味付けを変えられる点が私にはとても好ましい部分なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1461回) ..2013/06/15(土) 00:53 No.4529 |
 |
Dip Penの金ペンを付けた萬年筆は非常に魅力的な筆である。
ただし、この種の筆は其の筆記の目的が特化したものであることを良く分かった上で使っていかなくてはならない訳である。
其れ等は私の印象では要するに線描筆記の為のペン、即ちカリグラフィー用のペンであることを最低限認識していなくてはならない。
http://yahoo.jp/box/dc7RUA
こちらはWirtとWaterman52にDip Penの金ペンを付けた萬年筆である。
ただしWirtは立派に萬年筆として使えているのだが、Waterman52は現在Dip Penとして使っているものである。
尚、このWirtのこのニブのことをDip Penの金ペンとして取り上げるには無理があるのかもしれない。
ひょっとするとオリジナルのニブである可能性もまたあるからなのである。
以前このWirtを取り上げた時に私は改造ニブではないかという結論を下したのだったが、現在はまた分からなくなって来て居り、オリジナルのニブである可能性もまた捨てきれないと考えられて来ているからなのだ。
どのみち其れがどこのものであろうと私には関心が薄い。
この金ペン先がまさに恐るべき線描能力を有して居て、私の持って居る万年筆の中では間違いなく最も線描能力の高い萬年筆であるということこそが最も大事なところなのである。
この金ペン先は萬年筆のニブというよりもDip Penの金ペンの方に限りなく近い。
Dip Penの金ペンは中には硬めであるかないしは剛性感が強く感じられるタイプのものがあるのかもしれないが、私の手持ちのDip Penの金ペンは皆柔軟性が高くありそれだけではなく兎に角線描の筆記が得意である。
即ち戦後の万年筆のニブのように線というよりは面、そうした面が表現されていくニブとは根本的に違っており兎に角書いて居て線の美しさの感じられるニブと成って居る。
尚私は戦前の萬年筆のニブはすべからくこの線描系のニブだと考えて居り、であるからこそ戦前の萬年筆のニブは美しく西洋の言語や日本の文字を書き紡いでいくことが出来るのである。
特にこうした典型的なDip Penのニブの形状をしたニブやまたはステノグラファーのような特殊な用途のニブなどは特に線描能力が高いものと考えられる。
線描というものの向き不向きというものは、萬年筆によって書かれた線から微妙に視覚的な差異が見てとれるものなのであり、其処で明らかに線描向きであると断定出来るものや逆に明らかに線描には向いていないニブもあったりでなかなか難しい判断ながら大体のことは分かると言っていい。
また線描筆記は大抵の場合尖ったタイプのニブが向いて居るように私は思う。
ただし其のニブが尖っていることと柔軟性が特に高いということとはまた別の性質である。
しかしながらニブが尖っていると普通線描には強い。
従ってDip Penのニブの形状をしたニブは例外なく線描には強いと言えることだろう。
尖ったニブは切り割りの長さも長くなり易く、そうなれば見かけ上の反応のセンシティヴィティが増すので其処ではカリグラフィーを行うことがやり易くなることだろう。
兎に角私にはDip Penのニブの形状をしたニブのようにニブが尖って居るものが一番好ましく手に合う。
多分私は元々カリグラフィーには向いたタイプの筆記者だったのだろう。
さて、こうした特殊な萬年筆の扱い方であるが、其れ等で英文のカリグラフィーを行うというのであればまだしも、其れ等で日本語の文字を書き連ねていくというのであれば、其処で完璧に運筆圧を制御したところでの、まるであの書道に於ける面相筆での書き方のような繊細な運筆が其処に必然的に要求されて来ることとなる。
何故そうなるのかということは先にも述べて居るように、日本語の文字というものは、それも現代の日本語の実用文字に於いては、其処で特に大きな陰影の効果が必要とされて居る訳ではないからなのである。
むしろ其れをやって仕舞うと筆跡に於ける個性的な度が過ぎて仕舞い、其れは書道的と言えばそう言えないこともない訳なのであるが、そうではなく日本語の書写に於ける運筆に沿った形での適度な陰影の付加ということの方が、日本の文字というものをより上品に見せ尚且つ線の美しさを生み出していくものだからなのである。
そのような理由でこうした特殊な萬年筆を扱う場合にはむしろ低筆圧筆記で書いていく必要がある。
低筆圧筆記で書いていくのだが、其の低筆圧で書いてもニブが敏感に反応する為運筆の所々で運筆圧がかかり結果的に線描の筆記となり得るのである。
以前私は低筆圧高運筆圧筆記ということを述べていたことがあった筈であるが、其れはまさにそうしたニュアンスでのことなのである。
尚、書道の書き方がまさに其の低筆圧高運筆圧筆記なのである。
いや、むしろ其れは無筆圧高運筆圧筆記なのである。
要するに書くのに全く力は入れていないが筆の重みで自然に穂先が紙を捉えそして所々で結果的に運筆圧がかかり線が変化して居るのである。
ちなみにらすとるむさんがブログの方でFLEX NIBを線描筆記する場合の筆圧を測ってみられて、其の筆圧が普通のニブの万年筆を普通に書く時の筆圧よりも余程に低い筆圧であったというまさに意外な結果について述べられて居ますがまさにそうしたことなのだろうと思う。
柔軟性が高いニブというものは、むしろ低筆圧で書いても線を変化させていくことが出来るのである。
私はそのことをこれまでここで感覚的に得られた部分から述べて居たのである。
つまり特に柔軟なニブには筆圧はほとんど要らずということになるのだが、ただし運筆圧の方は字形に沿った形でかけていかないとなかなか美文字は書けないものなのである。
だが、柔軟なニブに全く力をかけないでつまりは全く線の変化というものを感じさせないような筆跡でもって平面的に書いていくことは書き方の誤りである。
それでは柔軟なニブである意味が無いからなのである。
さて、WirtとWaterman52の話に戻りますが、この二本とも兎に角非常に線描能力が高いということが言える。
ニブの柔軟性は大体同じ位だと言えるが、こと線描能力という点では本物のDip Penのニブを付けたWaterman52の方がより線のキレが良いとも言えそうである。
ちなみにWaterman52にはAIKIN LAMBERTの3号のDip Penの金ペンを付けて居る。
セクションが取れない為に使って居ない軸なのでDip Penの金ペンを付けてDip Penとして使って居る筆である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1462回) ..2013/06/16(日) 23:04 No.4531 |
 |
http://www.ebay.com/itm/Ultra-Rare-Platinum-70th-Anniversary-Ag950-L-E-Fountain-Pen-157-500/140993806135?_trksid=p2047675.m1982&_trkparms=aid%3D333005%26algo%3DRIC.FIT%26ao%3D1%26asc%3D177%26meid%3D8366527031298138942%26pid%3D100009%26prg%3D1088%26rk%3D1%26sd%3D360449527804%26#ht_1077wt_934
プラチナ70の銀透かしのモデルが出されて居ります。
プラチナの70周年記念萬年筆には縦延べ鍛造?で作られたニブが付けられて居るとのことで、其処は矢張り限定品としてはかなりに力作のものだったのではなかろうか。
私もこのモデルは持って居りますが、いまだ未使用である為筆記感などについては分からない。
New Wancher 3776 Root Multitude Specialized Pioneer Insects shaping BROAD nib FP http://www.ebay.com/itm/New-Wancher-3776-Root-Multitude-Specialized-Pioneer-Insects-shaping-BROAD-nib-FP-/171058146806?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item27d3dc2df6#ht_3971wt_1067
さて、近年プラチナの万年筆、それも比較的最近のものをアイドロッパー化して使ううちにプラチナの万年筆はアイドロッパー化することと非常に相性が良いものであるということが分かって来た。
1.使用中にインクが何処からも漏れ出て来ない。
2.携帯して使っても余程激しい動きを与えない限りはインクが何処からも漏れ出て来ない。
昔からそうなのだがプラチナの万年筆はペン芯の方がよろしくないようで、それでアイドロッパー化して大幅にインク容量を増大させても要するにインクを多く流すことが苦手なペン芯なのでまだインクを多く流しては呉れないのである。
つまりは其の事こそがプラチナの弱点であった訳ですが、ことアイドロッパー化することに限り、其の弱点が逆に長所になって仕舞ったということなのだ。
とは言ってもプラチナばかりではなく多くの現代の万年筆がアイドロッパー化することに向いて居るのではないだろうか。
なぜそのように思うのかと言えば、現代の万年筆のペン芯は概してインクの制御能力が高く決して紙面を汚さないものとなって居るからなのである。
またなぜそのようになって居るのかと言えば、現代社会からの要求で万年筆が紙面を汚して仕舞うことが許されないのであり、そうと決まったら各社一斉にペン芯のインクの制御能力を上げるだろうから昔の萬年筆に比べインクが流れにくい筆となって仕舞って居るのではないだろうか。
つまり、其処でインクの制御能力が高いということはインクの流れ方がスムーズでないこととも言えることなのかもしれない。
実際古典の萬年筆のエボナイトフィードはいたってインクの流れ方がスムーズである。
要するに其処ではインクの制御能力が現代の万年筆のフィードに比べ低いのではなかろうか。
そうしたものであるからこそニブを調整する必要がほとんどなく、逆に現代の万年筆は調整を行わないとインクの流れに不満を感じさせられるような個体が多いのかもしれない。
現代という時代にはそうした一種不合理な構造が存在して居る。
そこではペン芯を進化させてインクの制御能力を高く保って居るのだがそのゆえに逆に書きにくくなって仕舞って居るということなのかもしれない。
無論現代の万年筆の中にも初めからインクが潤沢に出て調整の必要性を感じさせないようなものはある。
それでもどうもそうした書き易い筆の割合が古典のペンに比して少ないように思えて仕舞うのである。
一方で古典のペンには年月の経過や或いは当初からの不具合の面などにより今日での使用が難しい場合などが無いとは言えない。
古典のペンには屡トラブルも生じるのだし、それらは神の如くに万全である訳ではない。
然しそうしたトラブルなどを差し引いても古典のペンはとても書き易い筆であると私は結論づけて居るのだ。
もっとも現代の万年筆の中にもセーラーのペン芯のようにインクを良く流して呉れるタイプのものは在る。
だからそうした万年筆はそのままで使っていけば良いのである。
然しペン芯の方がよろしくない古いプラチナは、まずは調整して使わないと気分よくインクが出て呉れないものである。
ただしその部分に関してはあくまで全体的に言えばということなのである。
プラチナにも最初から調子が良くインクが潤沢に流れて呉れるものは在る。
あくまで普通はインクの出ないタイプの方に当たる確率の方が高いということなのである。
そうした場合に限り私はプラチナをアイドロッパー化して仕舞うことを選んだのである。
ところがいざそうしてみるとプラチナは非常に扱い易いペンになって呉れるのである。
其処ではインクの流れが向上し、連続して沢山の文字を書き連ねることの出来る筆となり、かつ携帯時にもインクの漏れが無い、まさに理想的な現代のアイドロッパーとなって仕舞ったのだ。
おそらくはプラチナのペン芯が元々インクを流しにくいものであり、そこをアイドロッパーとなして半ば強制的にインクを流して仕舞うという訳ですが、そうなったとしても結局元々インクを流しにくいペン芯なので携帯時にペンを運動させてもインクが漏れ出して来ないのである。
http://yahoo.jp/box/LheURd
こちらは先代の3776の14Kの細軟モデルである。
このペンも当初からアイドロッパー化して居りますがなかなか調子が良い。
ただ、アイドロッパー化して居るにも関わらずまだインクの供給がいまひとつである部分さえもがある。
つまりは其処に付いて居る貧弱なプラペン芯のインク供給能力がいまひとつなのである。
インクの制御能力の方は素晴らしいものがあるのに、だからこそなのかインクの流れが完全ではない。
然し、当初かなりに書きにくかったこの3776の14Kの細軟モデルはアイドロッパー化することによりすっかり生き返った。
普通に書いて居る場合にはインク供給能力に不満は無いですが、線描でかなりに太い線を書いていく場合などに筆跡の線が白ヌケを起こしインクが供給されていないことなどが屡ある。
そしてだからこそ携帯してもインクが漏れない万年筆となって居るのだ。
従ってこれこそが素晴らしい現代の万年筆としての実用アイドロッパーの完成なのである。
携帯されることが得意で元々細字の字が細かいので結局これを戸外で使う手帳用の万年筆として選んだ。
手帳は件のモレスキンにも似た中国製の百円手帳である。
ニブの方は柔軟性は高いのだが粘りの方はそれほど感じさせて呉れないニブである。
然しこのニブは今後戸外で大活躍して呉れる筈である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1464回) ..2013/06/19(水) 00:41 No.4533 |
 |
結局、現在の私はインクの制御が完全ではあるが使ってみてどこか面白みの感じられない万年筆と、インクの制御が不完全ではあるが使ってみてどこか面白く感じられる万年筆とを心の中で天秤にかけて、そこで結局は後者のタイプの万年筆をのみ使ったり収集して来て居ると言っても良いのである。
尚、私は元々書道の方も好きだから多少インクで紙が汚れるようなことがあっても一向に気にならないのである。
無論其れも程度問題で、EDなどで常にインクがダダ漏れの筆ではどうしようもないことだろうが、たまにインクがダダ漏れになって仕舞うこと位は完全に私にとっての許容範囲となることなのである。
ちなみに私は神経質であると自認して居りますが、それにしては許容範囲がなぜそんなに広いのだろうか。
いや、私はむしろ大きいところに物凄く神経質なのであり、たとえば文明の行く末とか日本の将来とかそういうことに対して大変細かく神経質に考えていくタチなのであって、対してたかがEDのインクが漏れるなんてことはほとんど意に介さない部分なのであり、其処でむしろインクが漏れて偶然に紙を染め上げ良い景色の書の作品に仕上がったわなどと考えているのだからまあ矢張り余り常識的な万年筆の考えの持ち主ではないのかもしれない。
尚、私は使って居る紙の方も実に大雑把な感覚をして居て、たとえば滲む紙、そんな紙をむしろ好んで選んで使ってみたりもして居る。
この辺りも要するに書道的な感覚の部分から来て居る部分なのである。
普通硬筆筆記である万年筆の筆記では筆跡が滲む紙は敬遠されることと思われるが、私の場合には其れが苦にならないのである。
むしろ余りに滲まない紙は苦手であり、そういうのは四角四面の合理紙に感じられやすいのであり、同時に味わいの無い冷たい紙に感じられて仕舞うのである。
紙に冷たい温かいというのも変な形容なのだが、実際に紙には筆記感の方をも含めて温かいのと冷たい感じなのとがあると思う。
どちらかというと私は中国やインドネシアで作られた手帳や便箋の紙に於ける筆記感が温かく感じられて好きなのである。
要するに雁字搦めに滲み止めの薬品の入ったような紙でなく、また漂白などされ過ぎて居ない自然な紙を求めているということなのだろう。
特に机上では上記で述べたような趣味、嗜好の部分が強調されて出て来る。
其処ではおそらく萬年筆で実用文字を書きたいのではなく其処で書の如きようなもの、文字の作品のようなものを生み出したいと思って居るのかもしれない。
さてこのところまた急に印度の萬年筆が恋しくなり色々と調べて居ると以下のようなものが出て来た。
Peyton Street Pens-Search results for 'RANGA' http://www.peytonstreetpens.com/catalogsearch/result/index/?limit=80&mode=grid&q=RANGA
ちなみにこのPeyton Street Pensという店では先に述べたようにかってFairchildの6号のDip Penの金ペン付きのRanga萬年筆が売られていたのである。
其れは大変魅力的なRanga萬年筆ではあったが、其処で良く考えてみれば其のFairchildの6号のDip Penの金ペン付きのRanga萬年筆を此処から買うよりは、Ranga萬年筆をもう一本求めて其れに手持ちのFairchildの6号のDip Penの金ペンを付けてやる方が経済的である。
其のFairchildの6号のDip Penの金ペン付きのRanga萬年筆は確か$200以上していた筈だが、対してRanga萬年筆をもう一本求めたにせよ其れは五千円前後で入手出来る。
其処からしてもこのRanga萬年筆の経済性ということは何より魅力的なことなのである。
私はRanga萬年筆が所謂実質的な価格になって居るのではないかと今考えていて、要するに印度のエボナイト自体が安いのと印度のエボナイト 職人の人件費が安いのとで其れは二重に安く、しかも円安になってもまだ安い。
どだい五千円前後のものなんていうものは一ドルが80円だろうが100円だろうが余り大きくは違って来ないものだ。
対して十万円前後のものは流石に大きく値段が変わって来る。
その半分の五万円のものであっても結構違いが大きい。
其の印度の萬年筆の経済性は然しいつまで続くものであるかということが予想しにくい。
印度が近代化に於ける新興国であるだけにやがては二倍、三倍の価格となって仕舞うことが考えられない訳ではないのだし、逆にペン芯のインク制御能力の低さからいつまで経っても価格は変わらないというケースも考えられなくはない。
ただ、今現に安く売られて居るものは今のうちに買い集めておくことが一番確かな経済的な対策となる得ることなのかもしれない。
Ranga Ebonite #4C Rounded Ends - Oversize, Blow-Filler, Choice of Nibs http://www.peytonstreetpens.com/ranga-ebonite-4c-rounded-ends-oversize-blow-filler-choice-of-nibs.html
こちらのエボナイト軸は黄色と緑色の鮮やかなマーブル軸で、ニブはRanga、Wality、Sheaffer No Nonsenseなどのスチールニブのものを選べるようである。
吸入方式をblow-fillerなるものに変更し其処でインクサックを用い、つまりはインクの容量を小さくしてインクのボタ落ち対策にでもしているのだろうか。
何にしても、EDのインクの漏れ、特に所謂ダダ漏れに関してはむしろペン先の取り付け方の誤りの方に問題があるような気がしてならない。
其処で私のRangaに付けてあるSheaffer LIFETIMEのニブの取り付け調整を厳密に行ってみた。
それで今のところダダ漏れは起こって居ないのである。
ただしこの状態で再びダダ漏れが起こるのであれば、矢張りペン芯のインク制御能力の低さということに原因があるということが証明される筈なのである。
http://www.peytonstreetpens.com/other-manufacturers/pen-makers-asia/indian-ebonite/ranga-ebonite-bamboo-parker-modern-duofold-broad-nib-black-smooth.html
"Ranga Ebonite Bamboo - Parker (Modern) Duofold Broad Nib"とのことで何とParker (Modern) Duofold Broad Nib付きである。
"Sheaffer No Nonsense feed and converter. We have fitted the Ranga section with a Sheaffer No Nonsense feed, allowing you the ability to use Sheaffer cartridges or the included converter.
In addition the converter can be removed which will allow you to use the pen as an eye dropper.
Eyedropper. You unscrew the barrel and fill it with ink, then screw the barrel back on and you are ready to go. The barrel holds a lot of ink."
とのことでRangaにNo Nonsenseのfeed and converterを組み込んだということらし い。
またeye dropperとして使う場合にはコンヴァーターを取り去ることが出来るようだ。
さらにその下にはeye dropperのインクのダダ漏れの件に関しても詳しく言及されています。
次回に続く。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1467回) ..2013/06/24(月) 23:01 No.4536 |
 |
さてEDのインク容量の大きさというものは筆記上の大きなアドヴァンテージであるべき筈のものなのだが、むしろそのことの故に筆記上の問題を引き起こして仕舞うことでもあるのだ。
EDのインク量の減ったことが確認された場合にはまずインクを注ぎ込んで一杯にしておけば良いのだけれど、実際には其の事が面倒でなかなか出来ず、ゆえに結局はインクのボタ落ちが発生することも屡なのである。
然しEDは現代のペンとは違ってインクの制御に関してはすべからく大雑把だと其処で知り、其の大雑把であるがゆえのインクフローの良さや鍛造ペン先のフィーリングの良さなどを楽しんでいく行き方もまた当然にある筈なのである。
現代のペンはまさにそのままに現代の大都会の生活のようなペンが多いが古典のEDは大自然に抱かれた山間の村の暮らしのようなものなのだからして、其処で色んなことを手作業でやらねばならないのだし色々と手間がかかるものだ。
ただし、本質的にはむしろ手間はかからないのである。
壊れるとまさにゴミのようになって仕舞い大掛かりな修理が必要となるのは現代のペンの方なのである。
其れから古典のEDは色々と弄れる部分もあり其処も面白い部分ではないかと思う。
何せ単純な構造の万年筆なので色々なことが出来そうである。
今私が考えて居るのは、古典のEDに現代のペン芯をあてがったら一体どうなるのだろうかということなのである。
現代のペン芯と言っても、其処は無論のことプラ芯では格好がつかないから初期のヴィスコンティやアンコラのペン芯などのエボペン芯を付けてみたら一体どんな感じのペンに仕上がって呉れるのだろうか。
いや、其処は現代のペン芯に限らずレヴァーフィラーのペン芯を組み込むという手などもありそうである。
何にせよ古典のEDのペン芯はどうもインクの制御能力が低いものであるように思えてならない。
尚、先の改造Rangaの話に戻りますが、其れを売って居る先の店ではフィードをシェーファーノンナンセンスのものに替えたりして売って居る訳である。
そして其のフィードは滴る超過インクを吸収する、より良いキャパシティを持って居るということが書かれて居る。
だから原始的なアイドロッパーのペンにはインクの制御能力の高いペン芯を組み込むことがインクのボタ落ちのひとつの解決策になる筈である。
実際現代のプラチナーそれも90年代のものでも、或いは60年代のものでもーをアイドロッパー化すると非常に調子良く使えるようになり、尚且つインクが漏れ出て来ないのである。
このことは其処でプラチナのインクの制御能力の高いフィードが大容量の軸が空になりかけた場合でもインクをせき止めて仕舞って居るから漏れ出ては来ないのである。
そうしたことからも原始的なアイドロッパーのペンにはインクの制御能力の高いペン芯を組み込むことがひとつの対処法として考えられるのであ る。
また一方では先の店ではRangaのアイドロッパーのペンにインクサックを用い、インクの容量を減らしてインクのボタ落ちの対策としていた訳である。
然し、私は個人的にこの対処法は好きでない。
なぜなら折角のEDの大容量が無くなって仕舞い、それではレヴァーフィラーと同じことになって仕舞うからなのである。
実感的にEDの大容量ということは本当に素晴らしいもので、それはまずインクの出方が良いということがあり、次に二ヶ月位使わなくても多少振り出せばすぐにインクが出て書けるという部分がある。
無論振り出さずともすぐに書けるEDも中にはありますが。
さて一週間位前のこと、暫く振りにL.E.WatermanのEDの世界へ戻ってみたところ、矢張り其処では実に実に豊潤な筆記の世界が拡がって居て新たな感動のようなものを与えられたのであった。
其れも何でも兎に角良いのである。
どのモデルでも本当に良い。
そして何故か最近は私のL.E.WatermanのEDからインクがボタ落ちすることが無くなって居る。
というのも、すべてニブを厳密に取り付けの位置調整を行っているからなのである。
いや、本当にそんなこと位でボタ落ちすることが防げるのだとしたら凄いことなのだが、其れは今のところ分からない。
然しニブの取り付け方を厳密に行ったL.E.WatermanのEDは明らかに以前よりも筆記感が向上して居る。
どうも古典のペンというものは時の経過や使用歴などの影響でニブの取り付け方がおかしくなって仕舞って居るものが多いのかもしれない。
尚、現代の万年筆でも、ニブの取り付け方が悪いと正規の書き味なり筆記感なりが出ないものである。
これは自分でやってみると分かる筈である。
ペン先をひっこ抜いてみて、もう一度ニブを差し込んで正規の書き味なり筆記感なりが戻るかというともはや戻らないのである。
非常に複雑かつ微妙な力がペン先には働いて居るので、だからこそ基本的にはニブを弄ってはいけないのである。
然しながら其処を弄らざるを得ない場合というものが愛好家の側にはあるものなのである。
それでちょっとでも弄るともはや正規の書き味なり筆記感なりは戻らないということになる。
ただしそのようになった状態を正規の書き味なり筆記感なりの方向へ、それもほとんど100%戻す方法が無い訳ではないのだ。
そのことは手動で出来ることなのだけれど、兎に角時間はかかる。
この私のWaterman16は4年位かかって今ようやくそんな状態に戻った。
ただし、このことは時間ばかりではないのである。
4年位かかって戻し方が分かったということなのであるから、今は一日のうちに何本も戻せて仕舞うようになって居るのである。
そんな風にして先日多くのL.E.Watermanのニブの厳密な取り付け方の修正を行ったのである。
そうしてみたところ、兎に角皆素晴らしい。
Waterman16の6号ニブは流石に粘りの方があり線描が大得意である。
Waterman5の古い5号ニブはびっくりする程にリッチな筆記感となり、まさにこれだ!と叫びたくなる位の豹変振りだったのである。
以上のことからも古い萬年筆のペン先の整備は厳密に行っておいた方がよろしいようである。
ペン先の取り付け方ひとつで筆記感はまるで異なるものとなるのだから。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1469回) ..2013/06/29(土) 23:35 No.4540 |
 |
http://yahoo.jp/box/BTMEKm http://yahoo.jp/box/A9eWyj
このRangaのDESK-TYPE-PENはつい先日\7,633 JPYを支払い求めたものだ。
だがコレは一言で言って想定外の化物ペンなのであった。
このペンはまず其のサイズの方が全く非常識である。
全長は筆記状態で231mmで、収納状態では238mmにも及ぶ。
これだけの全長があると、余程に特殊な万年筆使いの愛好家でなければ扱いきれない。
私が其の特殊な万年筆使いの方なのだけれど、それでも少し大きすぎるといった感のすることは否めない。
兎に角長すぎるのである。
そして結構重い。
無論総エボナイト製の軸ではあるのだけれど、重すぎるのである。
其の重量は32gである。
無論異様に重い現代の限定万年筆のように重いという訳ではないのだ。
それでも私にとっては想定外の重さをしていたのである。
だから私は当初このペンを購入したことは失敗だったと判断せざるを得なかった。
もう少しまともなサイズのデスクタイプのペンを予想して居たので、コレは大きすぎて使えないことだろうとまず思ったものである。
然し、このペンには色々と良いところもあった。
1.エボナイトの軸の作りが相変わらず悪くない。いや、明らかに良い部類の作りの軸である。 2.軸にはインクが滅茶苦茶に入る。スポイトで四回分は入る。 3.ブルーのカラーエボナイトの色合いが何とも魅力的な色をして居る。所謂ロイヤルブルーのような色合いでとても良い色だ。 4.WALITYのスチールペン先付きだが、このニブの出来が大変良かった。
それで、暫く使ううちにこのペンにむしろ惹かれていったのである。
最初はとても使えるシロモノではないと思ったのだったが、次第に其の存在感の大きさに惹きつけられていくこととなった。
といっても、本当はもっと短くそして軽いデスクタイプのペンの方が私にとっては良かったのである。
ただ、このような想定外の出来事が起こることは何やら印度らしくて好ましくも感じられる部分である。
ちなみに70年代位までの印度はまさに物凄いところで、其処では動物やら人間の屍やらが普通の街の中にも一杯でもし文明人が其処へ足を踏み入れたのだとして其処で精神的に大きなショックを与えられるだろうことは必定であったらしかった。
らしかったというのは、あの横尾 忠則の印度紀行の本に確かそんなことが書いてあったからで、無論私が当時自分で印度を訪れてそのような感懐を抱いたという訳ではなかったのである。
要するに訳の分からないことが屡起こり得るという部分こそが印度らしくて良いということは言えるかと思う。
それこそが皆同じように小綺麗に整備され動物と人間の区別、また生者と死人の区別がはっきりとしている現代の先進国からははかり知れない印度の摩訶不思議な混沌の様なのである。
そういった混沌の様をこそ目指して、当時印度には悩める若者が世界中から集まって来て居たらしかった。
このらしかったというのも、実際に私がそのことを見聞きした訳ではなく様々な情報の断片を繋ぎ合わせるとどうもそのようであったらしかったというだけのことなのである。
してみると、どうもこの頃の若者の方が世の中に対して純粋に疑問を抱いていたようである。
たとえばここ日本で言えば全共闘世代の方々、この世代の方々は実際に社会制度と真剣に闘っていた訳で其処は我我のような甘ちゃん世代とは根本的に異なって居る。
其の頃に生まれていたとすれば、私の場合は多分闘っていたことだろうと思う。
おそらく勉強などはしないで過激な社会闘争にでも身を投じて居たのかもしれない。
が、其れも実はあくまで空想の範囲内のことで現実にはそんな闘いが怖くて怖くて文学書ばかり読んで居る様な学生に過ぎなかったのかもしれないのだが。
何にしても、この印度のアイドロッパーはそんな際限ない空想を引き出して呉れる程に訳の分からない存在であった。
そして現在でも其の訳の分からないままにこの奇っ怪な筆と日々付き合って来て居るのである。
さてこの軸が重めなのは、ただ大きいばかりではなく軸の肉厚が妙に分厚いことから生じて来て居ることのように思われる。
一体何でこんなに分厚くエボナイトの軸を削って居るのだろうか。
デスクタイプのペンなのだからもう少し軽く仕上げるのが常識というものではないのか。
また何でこんなにペンを大きく作る必要があるのだろうか。
されどそうは言ってもすべてが後の祭りなのである。
このペンに於ける裁量権は印度の職人さんが、或いは印度のペン会社の方が握って居り私のような日本の一愛好家がどうほざこうがそれとは無関係にこのペンはこれからも作り続けられていくのである。
いや、むしろ其処こそが面白いのである。
合理的な予測が不可能である点が混沌の中の印度、いまだに混沌として不合理の渦が入り乱れている新興国の印度としての素顔を彷彿とさせて呉れ何だか逆に安心して仕舞うのであった。
尚、この個体はBakulタイプという艶消し仕上げを選んで居りピッタリと手に吸い付くようなグリップ感で其処は非常によろしい。
然しその故にか汗などで少々軸が濡れるとエボナイト特有のゴムの匂いの方が結構強い。
ただしWALITYのスチールペン先は幾分しなやかで非常に筆記感の良いものである。
従ってこのままで使っていくこととした。
WALITYのスチールペン先と黒いエボナイトのフィードはスペアーの分も付けられていて其処はなかなかに親切である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1470回) ..2013/07/02(火) 00:10 No.4541 |
 |
結局アイドロッパーのペンとはより合理的なペンであるとは言えないのである。
だから屡インクが漏れるなどの厄介な現象がついてまわる。
其処を嫌う現代人はそんな筆は扱いにくいのかもしれない。
だが私の場合は兎に角アイドロッパーが好きだからインクが漏れようがどうしようが今後もずっとアイドロッパーを使っていくのである。
そこでは特に、インクの流れが充分なものとなるところが好ましく感じられるところだ。
其処でペン先を調整することなくインクの流れが良いという部分が一番魅力的である。
されどそうした筆は携帯することには普通向かないものなのだし、印度のアイドロッパーに限っても其れらを携帯して使ってみようなどとは思わないのである。
要するに机上専用で、しかも毛筆と同じような感覚で扱い筆筒に立てて置いてある。
アイドロッパーはそして災害時などにも強いことだろう。
ちなみにここ日本は地震国でおそらくは今後も大きな地震に見舞われる確率が高い。
そんな折に修理や調整が必要なペンでは心もとないことだが、アイドロッパーには修理も調整も基本的に必要無いからインクさえあればいつでもどこでも使えて書ける。
インクが漏れること、それもダダ漏れする場合には少々困るのだが、まあ其処も何とか誤魔化しながら使っていけるものなのである。
このように原始的なものは何かと確実で安全、安心である。
だからあの原子力発電所なども被災時に原始的な方法で復旧出来るように是非作っておくべきだったのだろう。
そうであれば、海洋を広範囲に放射能で汚染することなどは無かった筈なのである。
其処からしても現代人は科学の力を過信して居るのかもしれない。
すなわち其処では理性、知性の方が働いても居るのだとしても、知恵や智慧の方が働いて居ないのである。
その部分からもアイドロッパーの構造の原始性や原点回帰的な部分からは常に現代人が学んでおくべきところのものなのである。
http://yahoo.jp/box/gwTUVn
このように筍筆Dip PenやJapan Style eyedropperと比べるとDesk Type eyedropperがいかに大きいペンであるかということが良く分かる。
そしていかに美しい色合いのペンであるかということも良く分かる。
古典のアイドロッパーの軸色は黒か朱か、または黒と朱の斑のものばかりなのでこの鮮烈なブルーの色合いの軸が実に新鮮に感じられる。
ブルーの万年筆はありふれているようでいて案外少ないもので、私の巨大な使用する万年筆ケースの中にも実は案外少ないので目立つことこの上ない。
尚このRangaは首軸の方は細いが胴の所からが妙に太いので線描系の運筆は意外と不得意でGT筆記でゆったりと書いていくタイプのペンとなって居る。
そしてWALITYのスチールペン先は金ペン並みに筆記感の良いものである。
ところでアイドロッパーのペンがこうして日増しに増えて来ると、次第に思考傾向もアイドロッパー並みに原始的なものになっていき、つまりは其処で原点回帰の、或いは温故知新というような感覚上の固定軸が設定されて、我はもうスッカリ脱文明の人になったような気がして来るので個人的には其の事が楽しくて仕方がない。
と言うよりも元々私の思考傾向が脱文明的なものであったのでそのことに合わせて万年筆もアイドロッパーを選んでいったと言うことの方がより正しいことなのかもしれない。
そして其の脱文明ペンはやはり印度製でなければならなかったのかもしれない。
尚印度という国は思想、哲学または宗教の上で重要な役割を果たして来た国だったのである。
インド哲学 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%93%B2%E5%AD%A6
仏教の開祖釈迦牟尼は現在のネパールのルンビニにあたる場所で誕生したとされているが、釈尊の説いた法にはそもそも解脱という概念が含まれており、それで実際に釈尊は解脱されて仏陀となられたのである。
ところが『解脱とその前提となる輪廻(संसार サンサーラ)は、人間の死後のあり方に関わっており、インドにおけるほとんどすべての宗教思想や哲学と密接な関係にある。 』と上にも書かれて居る様に、輪廻を脱して解脱するという思想は何も釈迦オリジナルのものではなく元々印度の古い思想、哲学には普遍的に見られるものだったのである。
ウパニシャッド http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89
其処には所謂ウパニシャッド哲学といわれるものが古くから存在して居り、釈尊の時代にも印度或いはネパールの地域では其れが幅広く奉じられて居たとされている。
リグ・ヴェーダ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%80
このようなリグ・ヴェーダという聖典もあるがこれも兎に角その成立年代が古い。
マハーバーラタ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%BF
もっとずっと後のグプタ朝ごろに成立したとされている古代インドの神話的叙事詩が『マハーバーラタ』(महाभारत Mahābhārata)である。
マハーバーラタのあらすじ http://www.mekong-publishing.com/books/arasuji.htm
ちなみにWikipediaには映像資料として『マハーバーラタ』 ジャ ン=クロード・カリエール、ピー ター・ブルック脚本、ピー ター・ブルック監督 1989年(劇場未公開・ビデオ発売、420分)
と書かれて居るが実はこの映像作品を昔私はヴィデオに撮って何度も繰り返し視ていたことがあったのである。
それは非常に興味深い作品だった。ところが残念ながら現在はベータのヴィデオデッキが壊れていて視られない。
然し『マハーバーラタ』関連の映像作品は丹念に探せば出て来るものなのかもしれない。
大気汚染 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89#.E5.A4.A7.E6.B0.97.E6.B1.9A.E6.9F.93
こちらによると現在の印度の大気汚染の状況は危機的なものになっているようである。
其処は古代の思想、哲学、ないしは宗教の発祥地でもあるだけにまことに残念な結果である。
これだけ智慧のある国でも結局は近代化をなして金持ち国家になることだけを望んで仕舞うというのであろうか。
とは言っても現代人は誰しも豊かになり、そして自由に生きていたいと望んでいる訳である。
だから其の考え方そのものが暴走のようなものなのだが、印度のような、深いところでは精神性の豊かな国でさえも結局はそのことを望んで仕舞うという形での大きな自己矛盾のようなものが近代化を目指す多くの国国にはあるようだ。
尚印度は市場経済を導入しているにもかかわらず、「社会主義の国」と今も憲法で謳っているのだそうだ。
|
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1482回) ..2013/07/25(木) 00:10 No.4555 |
 |
IPLATINUM プラチナ 万年筆 ペン先:18K ピンク http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/174749703
リング付きの18Kペン先モデルはこちらでも売られているがコレは初期型ではなくもっと後の時代のものと思われる。
曰く、万年筆には正解が無く、人生にも正解が無い。
コレはけだし名言である。
古い万年筆 吸引式 R14K 刻印http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h178799192
このように最近は古い万年筆の方に人気が出て来て居るようだ。
現代の万年筆は本格性という意味で古い萬年筆にはかなわない部分もある為、収集家は必然的に古いぺンの方を向かざるを得ないということもあるだろう。
酒井万年筆なども以前と比べると倍、三倍もの値段で取引されて居るようである。
然し古い萬年筆やインキ止め式の酒井軸は万年筆の中でも特に使い手を選ぶようなところのあるペンである。
其れ等は古い萬年筆の何たるかという部分を最低限知っておかなければ扱い切れるものではないのである。
私もこれまでに色んな万年筆に触れては来ましたが今自分に本当に合って居るなと思われる筆は五本ほどしかなく、しかも其のほとんどをL.E.Watermanのアイドロッパーが占めて仕舞って居るのである。
其処へ一本位ならWahl-Eversharpかプラチナが入り込むことも出来そうなのだがひょっとすると五本の中に入り込むことは矢張り難しく、そこで十本位に幅を拡げてやって初めて其処に入り込むことが出来るものなのかもしれない。
すると、其の十本があれば私の万年筆ライフは完遂される訳なのである。
其の十本だけで良いということだ。
それにそろそろ真の意味での万年筆の断捨離を行いたいと思うことも屡である。
万年筆は大体十本位あればそれで良いのであるからその数にして いくことが最終的な目標なのである。
ただ実際にはそのことは非常に難しいことなのでひとまず百本位まで減じてみようかと思って居るところなのではある。
モノが多過ぎると実はロクなことはなく、モノが多くなればなるほどに次第に心の方は空虚にさえなっていく。
モノが多くなるとあれもこれもと欲望の方に火がつき限りが無くなるものなので実はモノが多過ぎる方が人間は不幸せになるのである。
断捨離を行ってそのあとどうするのかと言えば私の場合は人生の最後にどうしてもまとまった数の詩を書いておかなければならないのである。
其れが私の本当の意味での仕事なのだからどうあろうと其処で詩集の一冊でもものしていかなければこの世に生まれて来た甲斐などはないのである。
其の前に加島 祥造先生に手紙を出さなければならないのだが、ご高齢の先生のことだから其のことは兎に角急いでやって置いた方が良い。
それで65歳になったら下界の人生からは引退して高山市の横の久々野というところにログハウスを建てて独居することに決めてある。
其処で不便な生活に困り果てて野垂れ死のうがどうしようが其れが私が選んだ道なのであるからすべては自業自得のことなのである。
よしんば其処で野垂れ死ぬのだとしても出来れば山の中で是非そうなりたいというのが私の唯一の願いのようなものなのだから無論其れで全く良いのである。
其処へ持っていく萬年筆 ということを時折考える。
其処へ持っていく筆記具は当然に厳選されたものでなくてはならない。
L.E.WatermanとWahl- EversharpとプラチナとRangaは矢張りどうしても持っていくことになる。
後は適当に選んで全部で百本位を持っていくのである。
十本に絞るのは其の後のことなのである。
あのロレンツォデメディチは其れに入るのかどうか分からない。
でもペン先を古いニブにすることが出来れば持っていくことになるのだろう。
ああ、忘れていたがペリカンも最低五本は持っていかねばならな い。
それにアンコラのニブ付きの改造デスクペンや若干の限定万年筆なども是非其処に入れたい。
おお、そういえばSWANのこともスッカリ忘れて居た!
SWANも結構沢山あるから最低五本は持っていく必要がある。
などとやって居ると百本程の空きはすぐに埋まって仕舞う。
自分にとって真に大事なペンという条件で選ばないとすぐに百本をオーヴァーして仕舞う。
けれど其のオーヴァーして仕舞って居る筆達も皆愛着のあるものでおいそれとは断捨離候補に選んでおけないものばかりなのだ。
されど生き抜く為には、この濁世を自称の詩人として清く正しく生きていく為には決意を持って断捨離を断行し、兎に角まんねんひつを出来る限り減らして置くことの意義は大きい。
今よりも物欲を断捨離し、萬年筆の数を断捨離し、それでいつのまにか仙人のような厳しくも清く正しい内面を獲得して、ついでに近くの山にでも出向いて遠くの滝の方まで歩き、其の滝にうたれつつ禅定を行い、身も心もこれ以上無いというほどに断捨離され、あれ、うれしいな、すでに我はここまで神と仏に近づいた。 もはやこれ以上望むべくもない。今こそ我は聖なる詩人としてここに詩をかくべし。
そこでペン箱をゴソゴソと探し回り、それらからお気に入りのペンだけを取り出し、徐に我は自然の詩と仏教の詩を其処に書き記すのであった。
大体上に出て来たブランドなどが其の詩作に用いる為の萬年筆なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1483回) ..2013/07/27(土) 00:29 No.4556 |
 |
素晴らしい改造万年筆、書く事でこんなに私の心を癒して呉れるペンがこのヴァン・ゴッホ改アイドロッパーなのである。
この改造万年筆で書いていると楽しい。
とてもとても心が癒される。
いつも心中に重いものを抱えて現代の文明の在り方と闘い続けて居る私にはこの癒しの力こそが大きい。
だから改造万年筆も決して悪くない。
それがもし私にとって大切な万年筆になってくれるのなら、オリジナリティーを無視してしまうことも許して欲しい。
http://yahoo.jp/box/Amy700
ヴァン・ゴッホの軸は透明度が高くとても丈夫な軸だ。
其処にタップリのパイロットブラックインクが入っている。
其のことがとても安心だ。
インクの補充をすることなく、どこまでも書いていける。
http://yahoo.jp/box/qxcrzh
ニブは大型の兜木ニブである。
このニブが素晴らしい。絶品である。
二週間ほど前に取り付けの調整を行い、完全な固定位置を得た。
現在のこのニブの書き心地はまさに夢心地のようなものとなっている。
以前よりもペンポイントが優しく当たって呉れ、筆圧に応じて線が変化する訳だがそれも柔らかく変化するのである。
この改造万年筆はとても良い万年筆だ。
インクの出方はかなりにスムースで、ニブの変形に対するインクの追従の能力もなかなかのものだ。
なぜならこの首には英雄のフィードを付けているからなのである。
例のフィンなどの切っていない一見すると安物のようなフィードだ。
然しこのフィードは素晴らしいものである。
インクの制御能力がおそらくは高くないのか、インクを程よく潤沢に出して呉れるフィードなのである。
このヴァン・ゴッホ改アイドロッパーはもうかなりの期間を使ったがトラブルが起きていない。
インクが漏れることがない為手も紙も汚れたりしない。
とてもソフトな書き心地で原稿用紙100枚位は連続して書けるのではないだろうか。
ペン先は兜木銀次郎氏による鍛造ペン先なので戦前のニブの反応の素早さなどに似た特徴を持って居る。
なのにまさに柔軟なのである。
とても癒されるソフトな柔軟性を秘めて居るのである。
ただしこのペンはこのままでは万年筆として使えない。
キャップにはこの大きなニブが入らないからなのである。
それで書道用のキャップを被せて筆筒に立てて保管しておく。
だが、いざ書き出せば私の持っている他の万年筆のどんなものよりも筆記感は良い。
其れはまさに夢心地の書き心地なのである。
だから私は今もこうしてうっとりとしてこの書き心地に酔っているのだ。
インクが漏れることなく手を伸ばせばいつでも使えるこのペンはまさしく私の宝物のようなペンでこれからもずっとずっと使っていくものなのである。
ちなみにもう一本のヴァン・ゴッホの方はノーマルの状態で使って居りますが、この有様ではそちらの方も近いうちにアイドロッパー化してこんな癒しの筆として仕舞うのかもしれない。
ではあるが昨今の兜木ニブ付きの酒井軸の高騰振りからしてこのサイズの兜木ニブをもうひとつ入手することはもはや不可能に近い。
ゆえにこの改造ペンを今後なるべく大事に使っていこう。
こうした改造ペンはなかなか出来ないもので、或いは十本に一本位の割でしか作れないものなのかもしれない。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1484回) ..2013/07/29(月) 00:24 No.4557 |
 |
理想のL.E.Waterman-2-1
私にとっての理想のL.E.Watermanとはアイドロッパーモデルで5号以上の大きなニブの付いたもののことを言うのである。
其れ等の大きなペン先は柔軟性がさほどではないのだが、日本語を書いていく為にはむしろこの位の柔軟性の方が書き易いのである。
それに4号のニブの方はどうしたものか、イリジュームが欠損して仕舞うことがあり其処がいまひとつなのである。
5号ニブでも欠損して仕舞うことはあるが、そのことは稀である。
6号のニブであれば、私の持ち物に限ってはそうしたトラブルが起きていない。
6号のニブともなれば、実際硬い印象のものもあるのだがそれでも50年代のペリカン400の14Cニブ位の柔軟性はあるから本当に硬いという訳ではないのである。
6号のニブでも、#56にはかなりに柔軟なニブが稀に存在し私はそういったタイプのニブを#16の方に移し替えて使って居るのである。
其処からしても、L.E.Watermanの5号ニブ、6号ニブには稀に柔軟性の高いニブがあるということなのだろうと思う。
さて以前に語ったように、私にとっての理想のL.E.Watermanの一本目はWaterman5アイドロッパーで穂先が長めの5号ニブの付いたものなのであった。
それで今回は二本目の理想のL.E.Watermanということになりますが、其れは今回もアイドロッパーモデルで6号ニブ付きのものとなるのだ。
然し、其れは#16ではない。
本当はこの#16こそが私にとっての理想のL.E.Watermanということになるのでしょうが、このペンは携帯には適して居ないペンであることが少々問題である。
机上専用で使うのならば#16で充分なのですが、其れは兎角インクの漏れ易いペンなのでどう考えても携帯して使う気にはならないのである。
この携帯するか、それとも携帯せずに机上だけでペンを使うかということは実は本質的に異なる性質をペンに求めていくということになるのである。
携帯しなければ、万年筆ではなくDip Penの方を使って筆記しても充分に楽しい筆記が行えるのである。
万年筆は携帯して使うことを前提とした筆記具なのであるから、当然に携帯した状態でも楽しく筆記が出来なければならないのである。
だからこそ携帯時にインクが漏れ出して来たりしてはいけないのである。
ところが其の事を達成する為に、かなりに無理をしてインクの制御を行わなければならなかったのではないか。
其の制御が完璧であればあるほどペンとしてのインクの流れは悪くなり面白い筆ではなくなっていくのである。
だからそんな現代の筆を強制的にペン先調整をすることで我我愛好家は其れ等を何とか使える筆に誤魔化してから使って居るのである。
ところが古典のペンは其処までの無理をまだ行って居ないので概ねインクの流れは潤沢である。
或いは現代のペンでもいざアイドロッパー化して仕舞えばインクの流れが大幅に良くなりスラスラと書き易くなるのである。
また或いは机上専用で使う限定的な用途の改造アイドロッパーペンであれば、つまるところ其処で携帯するということ自体を断捨離して仕舞えば其処で充分に楽しく筆記することの出来る改造ペンが幾らでも出来るのである。
実際最近の私はそのように用途を徹底させた上で万年筆を使って居り、古典のアイドロッパーのペンなどは皆机上に張り付けたままにしてあるのだし、 外へ持ち出すのは主に携帯されることが得意な戦後のペンに限られて居るのである。
だから其れは其れで良いのではないだろうか。
得意な分野で自由にやらせてやった方が万年筆達も幸せなのだしそうしてやれば実際何だか生き生きとして来るものなのである。
つまりは其処で余り多くを望み過ぎない方が良いということを言って居るのだ。
この世の事物はもとより不完全かつ出来損ないであるものがほとんどなので得意なところだけで頑張らせてあげて置いた方が良いのである。
ところが今日語る筆はそうした考えとは相容れないような部分さえある実に実に面白い筆なのである。
其れは謂わば携帯することの出来るアイドロッパーなのである。
型番は#76で、其れはスクリューキャップのアイドロッパーなのである。
結論を言えばこの萬年筆は結構携帯する方もこなせる。
スリップキャップの#16とは異なりペンを運動させるとインクがダダ漏れするというようなことがない。
それでも無論戦後の万年筆のように携帯専用でも使える程に携帯されることに対して強い訳ではない。
されどインクの制御能力は#16などよりは明らかに高性能なのである。
其の姿の方も#16とは全然違って居て、其れはむしろ#56ソックリの格好をして居るのである。
#56のレヴァーを無くしてアイドロッパー化したようなペンがこの#76なのである。
私はこの#76を使ってみて当初からかなりに良い印象を受け或いはコレが理想のL.E.Watermanの一本となるものなのかもしれないぞとそのように思って居た。
私の#76は現在非常に頼もしい存在となって居り、其処は#16のようなインク制御能力が貧弱なところとは少々異なるところなのである。
が、#16は机上専用の用途として割り切って使うのならば、インクの流れの良い、筆記するにはいかにも素晴らしい古典の萬年筆だと言えるものなのだ。
だから#76が常に#16よりも上だということは無いのである。
#76もアイドロッパーらしくインクの流れはまずまずなのだが、キャップが捩じ込めるようになって居ることと、フィードの設計の方も或いは異なるのか、兎に角#16よりも安心して携帯することが出来るようになって居るのである。
即ちこと携帯するということに関しては、#76が#16よりも常に上だったのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1485回) ..2013/07/29(月) 23:57 No.4558 |
 |
理想のL.E.Waterman-2-2
#76の6号ニブには硬い方のタイプのものがついて居る。
それで兎に角特に柔軟なニブではなく少しだけ柔軟といった感じである。
それでも日本語の表記に於ける線描は充分にこなせる。
いやむしろこの位の柔軟性である方が漢字や仮名は書き易い。
其処からしても万年筆の愛好家はこの辺りの事情をもっと良く考えておいた方が良いことだろう。
即ち柔軟性の高いニブが必ずしも日本語を書くのに適して居る訳ではないのである。
いや、実際には柔軟性の高いニブは確かに日本語を流麗に書く事が出来るものなのだが、然しながら其の場合には硬筆筆記の書き方の範疇を飛び越えて書道的に書き表すこととなるから一種特殊な筆記となって仕舞うのである。
従って一般的にはあくまで程よい柔軟性のニブが硬筆筆記に於ける日本語の表記には向いて居るのである。
左様な訳でこの#76は非常に日本語が書き易い。
普通に書いて居るとさほど線は変化しないのだが、其処でとめ、はね、払いのところで少しづつシェーディングを生じるので上手に日本の文字を書く事が可能なのだ。
そして何やらこの筆には高級感がある。
スリップキャップの#16の方は軸がサラリとして居てノッペラボーなのだが#76の方はネジも切ってあるし#56とソックリなのでもっと本格的な萬年筆に感じられる。
あくまで一般的にはそのように感じられより万年筆らしい筆に見えるということなのである。
何せキャップがネジで閉まるので現代の愛好家にはより分かり易いアイドロッパーとなって居る。
さて私の#76は黒軸だが同じ黒軸の#56と比べると全長が3ミリ程長い。http://yahoo.jp/box/wkSREb
そして首軸の形状が若干異なり#76の首軸の方がクビレが大きい。http://yahoo.jp/box/q8Csm3
然し胴軸の形状やキャップの形状や太さなどは実に良く似て居る。
#56にあるレヴァーが#76には無い訳だが軸の形状自体はまさにソックリである。
この二本を書き比べてみると、#56の6号ニブの方が若干筆記感が軟らかい。
#76の6号ニブの方が地金の強さのようなものがある為かよりしっかりして居る感じがある。
ただしその辺りはニブサイズや個体差の問題もある為一概には言えない部分でのことである。
兎に角ペンを持った感じでは#76の方がよりオールドスタイルでの軸とニブの感触がするということである。
ニブの方は共にNEW YORK刻印付きのタイプだが形状は異なり、#76の6号ニブの方がより穂先が長く見えるものとなって居る。
さらにペン先の幅自体が#76の6号ニブの方が僅かに細身である。
以上のようなことから#76の6号ニブの方がより線描の筆記には適したニブであることが分かる。
ニブに於ける柔軟性の多寡ではなく、形状の方からより線描の筆記に向いて居ると言えるのである。
尚個人的に、線描の書き方に於いてはより細長いニブであることとより尖って居て穂先の長いニブであることが明らかに有利であるように思われてならない。
線描の得意、不得意はあくまで柔軟性ではないのである。
あくまで長くて尖ったニブの方が線描を行って行き易いのである。
軸の太さに於いては、ほとんど同じように見えるのだけれど、実際に持ち比べてみると#76の軸の方が0.5mm位細い感じがする。
其の部分も#76の軸の方がよりオールドスタイルの万年筆であるということを示して居ることなのだろう。
ただし、線描の筆記を行う場合により線の変化をつけられるのは実は#56の方なのである。
#56の6号ニブの方がより線の変化量が大きいのである。
従って英文でのカリグラフィーを行う場合にはむしろ#56の方が向いて居ると考えられるのである。
ちなみにこの#56の6号ニブは私の持ち物の#56の6号ニブの中では最も硬い部類のものだ。
だが#56の6号ニブにはさらに柔軟で線の変化量が大きいニブがある。
そうしたものであればより英文でのカリグラフィーが行い易くなることだろう。
が、あくまで日本語の表記に限るのであればこの#76の6号ニブで充分なのである。
このことからも、万年筆のニブで硬筆筆記的に日本語を書く場合にはヘロヘロの線よりも僅かに線が変化する位のニブの方が書き易いとも言えるのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1486回) ..2013/08/01(木) 00:47 No.4559 |
 |
ペンの世界のことで最近最もショックだったのはeBayからあのRangaのエボナイト軸のペンが撤退して仕舞ったことである。
この七月から本格的にRangaのエボナイト軸のペンを収集していくつもりであったのだから其の事は全く番狂わせだったのである。
ただし出品者のrangahandmadepensは現在もエボナイト軸以外のペンやエボナイト軸の材料は売って居るから倒産して仕舞ったという訳ではないようである。
何故エボナイト軸のペンの出品を取り止めたのかということを良く良く考えてみるに、其処にはどうもあのPeyton Street Pensの出品物への配慮があるのではなかろうかとの結論に至ったのである。
Peyton Street Pens-Ranga http://www.ebay.com/sch/Fountain-Pens-/13999/i.html?_trkparms=65%253A12%257C66%253A4%257C39%253A1%257C72%253A5271&rt=nc&_nkw=Ranga&_dmd=2&_trksid=p3286.c0.m14&_vc=1
Peyton Street Pensは現在でもこのようにRangaのエボナイト軸のペンを出品して居る。
それでPeyton Street PensがこうしたRangaのエボナイト軸のペンの改造版のペンを売って居ることは勝手に其れをやって居ることなのか、それともrangahandmadepensの承認を得た上で其れを行って居ることなのかという部分が問題となって来る。
もっともどこかでRangaペン会社の承認を得た上でやっているのだということを読んだ覚えがあるのだが確定的には言えないのである。
然し、どうもおかしい。
印度で売って居る安いオリジナルのRangaを共に出して居ては当然にrangahandmadepensのエボナイト軸のペンの方が売れて仕舞うのであろうからあえて出品することを控えて居るのではなかろうか。
それとも本当に出品することを止めて仕舞ったのだろうか。
もしそうだとしたら非常に残念なことである。
何にせよ、五千円で入手出来るあのrangahandmadepensのBambooペンはもはやeBayには出て居ない。
諸行無常とはまさにこのことなのである。
折角これから集めていこうと思って居たというのに。
仕方がないので、とりあえず一本は欲しいと思って居たPeyton Street Pens版の方のBambooペンを落としてみた。
其れがこのペンである。http://yahoo.jp/box/Qr8feI
色合いはpink rippleとのことであるが実際の色合いはバーガンディ色である。
バーガンディのripple軸もなかなか美しく思えたのでこれに決めたのである。
尚もっとヴィヴィッドなピンクの軸のBambooペンもrangahandmadepensの方には出品されて居たのだったが其れも現在は無い。
多分もう出て来ないのかもしれないが、ひょっとすればPeyton Street Pens版の方のBambooペンの在庫がはけた後でまた出て来るのかもしれない。
この私のpink ripple版はペンの表側と裏側でripple模様の濃さがかなりに異なり表側が薄過ぎて余り美しくはないのだがそれでも全く素晴らしいエボナイト軸のペンであることに変わりはない。
これまで使って居た緑マーブルのBambooペンと比べると全長が3ミリ長く、軸の太さは0.5mm程細い。
サイズ的にはこちらの方が扱い易いのでバーガンディのripple軸の方を使い倒すこととし、緑マーブルのBambooペンの方は休ませることとしてみた。
さて、それでは其のrangahandmadepensオリジナルの緑マーブルのBambooペンとバーガンディrippleのBambooペンとの違いを以下に示してみよう。
1.フィードとペン先が別物。今回のは独逸製とされるプラフィードとスチールニブに換装されて居る。http://yahoo.jp/box/NhKQ8r
2.コンヴァーター化されて居る。ただしアイドロッパーとしても使用可能である。http://yahoo.jp/box/_8Dw5l
まずこのスチールニブの出来がかなりに良く、其処で筆記感が大きく金ペンに劣るというものではない。
それからプラフィードは現代のフィードのありふれた感じのもので、そのゆえ当然ながらインクの制御能力の方も高いものがありそうだ。
付属のコンヴァーターを付けて書いてみると、いかにも現代の万年筆らしい感じの筆記感となるが筆記の上では明らかに面白みに欠ける筆記となることは否めず、つまりは其処でインクの流れにいまひとつ満足出来ない感じのものとなって仕舞う。
だが、それでもこの仕様で携帯するのならばどこへでも持っていける筆となるのである。
然し其れではどうしても筆記が楽しくならないので携帯することを考えずアイドロッパーとして使ってみた。
すると矢張りインクの流れは良くなった。
これならば文句はない。
大容量のアイドロッパーは筆記すること自体にかけては兎に角楽しい。
インクの流れが良くなるからこそ楽しくなるのである。
が、インクが減った時のインクの漏れの対策をどう行うかという問題が其処に常につきまとう。
それで、私は其の問題を幾つかの点で防止しつつ大容量のアイドロッパーを使って来て居るのだった。
1.ペンを立てて保管する。
2.ペン先の正しい固定を厳密に行う。
3.インクが減ったらなるべく補充する。
実際1.と3.を行うだけでも大容量のアイドロッパーは使えるものなのだ。
3.ばかりやって居ては折角大容量である意味が無いように見えるかもしれないが大容量であること自体で常にインクの流れは良くなるのだから補充する意味が無いという訳ではないのである。
さて、このバーガンディrippleのBambooペンをアイドロッパーとして使い始めた訳なのだが、なにぶんまだ最後までインクを使い切って居ないのでインク漏れするかどうかについては分からない。
現代のペン芯のインク制御能力の高さからして、インクが漏れたとしてもおそらくは少量ではなかろうかというのが私の予想なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1487回) ..2013/08/04(日) 12:32 No.4560 |
 |
尚私は深く人間を見つめる眼を失わないようにすることと同じくして深く万年筆を見つめる眼差しも最後まで失わないようにしていきたいと思って居る。
Peyton Street Pens版の方のBambooペンは現代の万年筆の形からは少々離れて居て要するに毛筆の軸のように長い竹の軸の形を模してあるのである。
そしてそれがエボナイト製なのだから頗る安全、安心な軸でしかも素晴らしい感触を与えて呉れるものとなって居るのである。
されどこのBambooペンは一種特殊なペンの形であることは否めない訳で、たとえば竹の軸の扱いに慣れていることだろう書道経験者などには使える筆となって居ることだろうが一般的に其れが向いて居るものであるとはとても言えないことだろう。
私はそういう一般的では無い運筆者なので普通の戦後型の軸の短いペンよりもこうしたものの方が遥かに書き易く感じられるのである。
幸い万年筆はそうした個性的な要求にも応じて呉れる多様性を現在も保って居るので様々なものを其処で試してみて其の都度自分にとっての理想の一本を追い求めていけば良いのだろう。
あくまで私にとってはこのBambooペンは素晴らしい万年筆なのである。
運筆がし易いということに於いて。
だからニブがどうのこうのという問題では無いのである。
其れ以前の問題として、このペンの軸は私の書き方に最も良く適合して居るのだ。
ただ、欲を言えばもっと細身の軸のものであった方がより手にしっくりと来ていた筈なのである。
それこそあの古典の萬年筆達のように。
http://yahoo.jp/box/22v-PH
軸の表側はripple模様が薄く入り何やらかそけき風情ではっきり模様が現れて居る裏側より日本的なのでかえって気に入って居る。
色合いが結構渋く実物は茜色か臙脂の色味にも近く和風なのである。
従って家の母屋の方のような古い日本家屋には実に良く似合う。
五十を過ぎると実際この和の要素というものを生活の中に是非取り入れたくなるもので、たとえばいかにも現代的な現代の万年筆を狭苦しいマンションの一室で使って居ることなどよりは、こうした高雅な色と形の筆を和室で使いこなして居る方が余程に格好良いのであり其の意味ではこの筆はむしろ高級品なのである。
ペン先は金ペンですら無いのだが確かに高級品である。
ちなみにこの種のBambooペンは笑暮屋さんの方にも無論ある訳である。
http://eboya.net/?mode=cate&cbid=1045088&csid=0
然しながら、その値段の方は高い。
笑暮屋にしてもあの中屋にしても貧乏詩人にとってはちと値が張るのでなかなか手を出しにくいというのが実情なのである。
其の点印度製のアイドロッパーモデルであるこのバーガンディーのBambooペンは兎に角安くて長くて軽くて手触りの方も最高である。
それから現代のエボナイトの軸は変色しないらしくペンを丸洗いしても黒い部分が茶色に変色したりしない。
だから黒軸なども案外良いのかもしれない。
ただ私の場合は、古典の萬年筆には求め得ない色合いをこのBambooペンに求めて居るということなのだ。
ゆえに朱やピンクの軸、或いは青や緑のマーブル軸などもそれぞれに魅力的なのである。
さてインクの漏れの問題の方ですが、現在インクが減りつつあるのに漏れは無く快適に使えて居ることからも現代のペン芯のインクの制御能力は流石に大したものなのである。
逆に言えば其処までインクをせき止めて仕舞うからこそ現代の万年筆はインクの流れがどうしてもいまひとつのものとなって仕舞うのである。
現代という時代はかくの如しにすべからくが雁字搦めになって居るからこそ本質的な開放という部分に欠けるのではなかろうか。
自然な流れ、自然な解放、意識しないもの、智慧の結晶のようなものに於ける解放。
其処でより良くするものであるはずの技術的な進歩や制度がむしろ自分で自分の首を締める方向へいつのまにか向かって仕舞うのであるから何とも皮肉な話なのである。
それにこのBambooペンは五万円も八万円もする高額手作り万年筆ではないから改造のベースとしても使える訳なのである。
Peyton Street Pensが行って居るような、コンヴァーター化やニブとフィードの換装といった改造を大胆に行うことが出来る。
無論個人的にやってみたいと思う改造も幾つかある。
1.Dip Penの金ペンを付けること。
2.兜木ニブを付ける。
3.フィードを現代のエボナイトフィードとしてみること。
そんな訳でこれらの改造を行う為に何本かのBambooペンが新たに必要なのだが何せ安い方のBambooペンが撤退して仕舞ったのでPeyton Street Pensから入手するほかなく、されどそれでは一本五千円ではなく一本一万円になって仕舞うのであるからどうしても悩む。
早くオリジナルのBambooペンがeBayに復帰して呉れないかとも思うが、仕方がないから少しだけ待って居るという現状なのである。
それにしてもエボナイトの軸というものは矢張り感触の面で最高のものがある。
このBambooペンは使えば使うほど艶が増しピカピカになって来る。
Bakul仕上げつまり艶消し仕上げの青のデスクタイプペンの方は次第にしっとりとした感じの軸となって来る。
だから其れがまさに高級だということなのだが、ペンの世界では其の高級ということの意味や定義自体が今私がこのペンに於いて感じて居る高級さとは異なる部分にあるので今後もRangaペンはそうは売れないし多くの愛好家が絶賛するペンとも成り得ないのだろう。
然しこのBambooペンはまさに嵌ると嵌って仕舞うペンではある。
朝、昼、晩といつも使って居ても飽きないペンである。
これはまさに和風の筆万年筆として常に机上で使い続けられる美しい万年筆なのだ。http://yahoo.jp/box/57X0Fy
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1497回) ..2013/08/18(日) 12:23 No.4571 |
 |
日興エボナイト 神龍(インク止め式) 文豪サイズ B(太字) http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u53419312
何やらいかにも文豪にでも向きそうな迫力のある万年筆だ。 が、値段が高いのが玉に瑕である。
尚、本物の文章家というものはむしろ使う道具など意に介さないものではなかろうか。
書く内容の方のことが大事なのであって道具の方に凝れば凝るほどそちらの方に思考上のエネルギーを取られて仕舞ふということはある。
筆記具に凝って居るような文筆家などはたかが知れているということもまたある。
rangahandmadepens http://www.ebay.com/sch/rangahandmadepens/m.html?_ipg=&_from=&_nkw=&_armrs=1&rt=nc&_dmd=2
RangaペンがeBayオークションの方に復活して呉れて居て其処は喜ばしい限りだ。
しかも以前より数が増えていて、まさに選り取りみどりだ。
Rangaペンは手作り万年筆で気軽に入手出来る価格であることが一番良いところだ。
しかも様々なタイプの軸があるので、選択の幅がある。
軸の色合いなどもまさに様々で、派手なものから地味なものまで選ぶことが出来る。
さらにペン芯とペン先は比較的簡単に自分で交換出来る。
従って改造万年筆のベースとしての価値の方も大きくある。
単純な構造であることがそうしたことを可能として居る。
単純ではあるがエボナイトの軸なので基本的にモノが確かだ。
印度の職人が手作りで作ったペンなので一本一本が微妙に違う。
大きくは違わないのだが、細く見れば違う。
精度の方は充分にあるのだが、それでも其れは手作りなのである。
Peyton-Street-Pens Ranga http://stores.ebay.com/Peyton-Street-Pens/_i.html?_nkw=RANGA&submit=Search&_sid=520094
Peyton Street PensのRangaの方はコンヴァーター式が選べて、かつ金ペン付きも選べることからもより一般的な仕様となって居る。
私が使用中のBambooモデルは現代の独逸製フィード付きでアイドロッパーとして使用してもインクが漏れないという美点を持ち合わせて居る。
アイドロッパーとして使用してもインクが全く漏れないというペンは実はこの世にはほとんど無く、古典のペンでも多かれ少なかれ漏れるものなので完璧なアイドロッパーとして機能するのはむしろこちらの方なのである。
尚アイドロッパーでインクが全く漏れないというペンは私が知り限りこの世で最も優れた万年筆となり得るペンである。
其れはピストンフィラー以上にインクの流れが良いのであるし、レヴァーフィラーのようにインクの容量が限定されて仕舞うことがなく、またコンヴァーター式のようにインクの流れが悪いということがなく、其れでインクの漏れが無いのであれば其れはほとんど完璧な万年筆となり得ることだろう。
またピストンフィラー、レヴァーフィラー、コンヴァーター式は時に壊れたりもし部品を交換したりで大変だがアイドロッパーにはそうしたメンテナンスがそもそも要らないと来て居る。
また軸にはインクがタップリ入るのでインクとの対話の密度が増し万年筆というよりも書道の筆を扱って居るが如き感覚に浸ることが出来る。
つまりあの書道、貴方が子供の頃寺子屋で習ったあのお習字の感覚で再び字を書く事が可能である。
それというのも、兎に角墨が軸の中にタップリ入るのでそういうことになるのである。
他の吸入方式ではそんな書道感覚などまず得られはしない。
Varuna Pens http://www.andys-pens.co.uk/varuna.shtml
尚英国でもRangaのペンは売られて居る。
こちらでは輸出ブランドなのか、Varunaと呼ばれて居る。
写真のM.S. Pandurangan氏がペンを作って居る職人さんである。
見ての通り結構お年を召して居るようで、現在は息子さんでエンジニアのMP Kandan氏がペンの販売上のマネージメントを行われているようだ。
Ranga Ebonites & Pen Company http://japanese.alibaba.com/free-suppliers_in110948266
Varuna Bamboo http://www.andys-pens.co.uk/vbamboo.shtml
この Andy's PensのBambooモデルもPeyton Street PensのBambooモデルと同じでコンヴァーター式が選べて、かつ金ペン付きも選べることからもより一般的な仕様となって居る。
然し、それだけではなくアイドロッパーとしても使えるというところが重要であり、其の状態で使ってもおそらくはインクが漏れないというところが最も重要なところなのである。
Peyton Street PensのBambooモデルのインクの制御能力は実際大したもので、是れならば多分携帯してもインクの漏れは無いことだろう。
実感的にはもう少し漏れ出る位にインクが出てくれた方が良い感じなのであるが、然しながらということは結局そのことがインクの制御が非常に高いレヴェルで行われているということの証左なのであろう。
ちなみにオリジナルのRangaのBambooペンは手作りのエボ芯付きで其れはインクの制御能力がかなりに低いものなのでインクはドバドバに流しては呉れるがインクが減った時にインクのダダ漏れを引き起こして仕舞うことがあり其処が最大の問題点となって居る。
Bambooペンに限らず、Rangaのこの手作りのエボ芯付きのモデルは皆同じ欠点を持って居ることだろう。
然し、其処も騙し騙し使いかえって其のインクの制御能力の低さから来る潤沢なインクの流れを楽しむという方法もまたあるのだ。
即ち完全に筆の如くに扱い、筆筒に之を立てて置き、其処で徐に此の長大な筆を手に取り、まるで書の如き書き方で此の印度の筆を攻めるといふ手もまたある。
さてRangaのBambooペンのBamboo軸は意外とサラリとしたもので極めて持ち易く眺めていて常に美しいものである。
笑暮屋のBambooペンのBamboo軸の方がかえって凹凸がハッキリして居て少々持ちにくそうにも見える。
尚、最近私はこのRangaのBambooペンばかりを使って社会問題などについてのメモを取ることにして居る。
そしてこのペンに嵌ると容易には抜け出せない雰囲気がある。
何せデカいペンで存在感があるので他の良い古典のペンよりも目立って居りおまけに高価なペンでは無いので気楽に使える部分がありつい之にばかり手が伸びて仕舞ふのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1498回) ..2013/08/20(火) 23:53 No.4572 |
 |
Varuna http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%8A_(%E7%A5%9E)
尚Varunaというのは上にあるが如くに古代のインドの神話時代における始源神の名であり、かって私がここに書いていたマハーバーラタという叙事詩にも登場する神のことである。
従って英国で売られて居るVarunaペンとは例えば日本で言うところでのスサノオの尊とかそんなような神の名が付けられたペンなのである。
ところで私のバーガンディのエボ軸のRanga Bambooペンはもう本当に優秀で、最後の一滴までインクが漏れることなく使えるから前回に示したPeyton-Street-Pensの方のRangaは本当におススメなのである。
Peyton-Street-Pens Ranga http://stores.ebay.com/Peyton-Street-Pens/_i.html?_nkw=RANGA&submit=Search&_sid=520094
これらは下手をすると古典のペンよりも余程に安定して居るとも言い得るのかもしれない。
ここからしても現代のフィードのインク制御能力の優秀性は明らかで、其の事はペンに於ける進化、進歩の帰結で其れが決して悪いばかりのことではないようだ。
日頃私の語って来て居る万年筆觀は極端な見方である場合も多く、私が述べて居ることの一方には特に現代的な価値観に照らし合わせた場合に是とされる部分があるということにも配慮しておかなくてはならない。
いずれにしてもアイドロッパーの構造のペンにインク制御能力の高い現代のフィードをあてがうということはほぼ完璧な万年筆を生み出すということに繋がるのかもしれない。
さて、古典のペンの方でありますが、ごく最近はアイドロッパーよりもむしろレヴァーフィラーの方に興味が移って来て居り其処で色々とやって来て居るというのが本当のところである。
レヴァーフィラーの場合は元々インクサックのインク容量が小さく余りインクが漏れ出して来たりはしない。
然しゴム製のインクサックは経年変化でダメになるので定期的な交換がどうしても必要となり其れが少々面倒なところである。
レヴァーフィラーの場合でもインクが少なくなるとペン先の方からインクが漏れ出て来る個体はあるがアイドロッパーに比べ概ね携帯する能力を持ち合わせて居ると言えることだろう。
ただ私の場合はレヴァーフィラーでも携帯して戸外で使うことはしない。
古典の萬年筆を外で使うことは避けて来て居る。
そうでもしなければもはや現代の万年筆の活躍する場が無い。
現代の万年筆はなるべく外へ持ち歩いて使い筆記感などは余り楽しまずに道具として割り切って使って居るといったところだ。
最近気に入って居るレヴァーフィラーの改造萬年筆
http://yahoo.jp/box/vzVwsg
1920年代頃の美しいConway StewartのMTLHRの軸にVANCOの4号ニブを取り付けてみたもの。
元々はスタッブのオリジナルニブが付けられていたがほとんど使用することがなかった。
古いペンのスタッブのニブはそれほど書き味の方が滑らかでなく特に面白いものだとは思われなかった。
ところがこのVANCOの4号ニブは若干硬めながら線描が可能なニブだったのである。
特に昔風の美しい線描による日本語の筆跡で書き記すことに向いて居る。
http://yahoo.jp/box/clEXmy
このペン先が日本語の書き易い素晴らしいニブなのである。
このニブ自体はおそらく昭和30年代のものかと思われるのだが、是れは非常に強いニブで強力な復元力を保つニブなのである。
従ってかなりに運筆圧をかけて書いたにせよそれには全くこたえず元の姿に復元するので実に日本語が書き易く頼もしい14金ペン先なのだ。
多少硬めながらペン先が細面で尖って居りいかにも線描の方が得意なニブなのである。
実際このペンで多少書道的な筆致を行うと、L.E.Watermanをはじめとする西洋の古典の萬年筆群よりもより一層シャープに日本語の楷行体で書いていけるのでむしろ最近は最も頻繁に使って居る古典の萬年筆となって居るものだ。
こちらはWaterman56二本の比較
http://yahoo.jp/box/KntyxK
最近Waterman56が非常に優秀なレヴァーフィラーであることが改めて分かって来た。
以前よりもニブの取り付けに厳密性を持たせてあり非常に書く方の調子が良い。
ただし右側の方のWaterman56にはノンオリジナルのスチールニブを取り付けて居る。
之が通常よりも大きなサイズのニブで、Waterman56に大きなニブを取り付けた場合の相性を見ているといったところである。
http://yahoo.jp/box/Ifis-4
軸の方は右がパイロットブラックによる染付の軸で、左が故意に変色を試みたものでそれがたまたま美しいオリーヴドラブの色に変色したもの。
ただし古典の黒エボナイトの軸を故意に変色させることはかなりに難しく、通常は薄汚い茶色の色味となって仕舞うものなのでなかなかこうはいかないものだ。
其の薄汚く茶色になった軸をパイロットブラックにより染付を行うと右のようなまずまず見られる黒い軸となる。
本当はもっと上手に染め付けられた古典のペンの軸が他にあるのだが、之はあくまでまずまずといったところである。
尚不思議なことに、エボナイトの軸は染め付けた後で艶が無くなっても使って居れば艶がまた復活して来るものなのである。
写真の軸はまだ艶が復活していない状態のものではあるが、それでも元の茶色く汚い色味の軸からすれば全くの大変身なのだと言える。
古典のペンのエボナイト軸の色の復活は専用の塗料で後全く剥げることもなく上手くいく場合もあるのだが、ただし其の場合でも軸の感触という点に置いてオリジナルのエボナイト軸の感触とは若干異なるものとなって仕舞うことは否めない。
其れで私の場合はパイロットブラックによる染付技法というものを編み出し、其れでこのように見苦しい茶色に変わって仕舞った軸を再び美しい黒へと戻し、しかも其の場合に感触自体がほとんど変わらないというまるで奇跡のようなことを日頃から行って来て居るのである。
尚エボナイトの軸をパイロットブラックに浸す時間は変色の程度にもよることではあるが大体二日間位浸けておけばうまい場合にはかなりに美しく黒軸に生まれ変わって呉れるのである。
だから之をやらない手はないのだ。
非エボ軸の現代のペンの軸ではこの染付は出来ない相談だが、古典のエボ軸は其の点が実に柔軟でまさに汚くなった染めましょう、というのが幾らでもできるものなので其処が本当に素晴らしいのである。
つまり、結局永く使えるのだ。古典のペンのエボナイト軸は。
エボナイトの素材が良いので、こうした染付にも耐えうるのである。
ちなみにパイロットブラックはアルカリ性なので部品の金属部などを腐食させて仕舞うことはなく逆に金属部のクリーニングを行ったような感じに仕上がって呉れるのである。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1507回) ..2013/09/02(月) 01:01 No.4581 |
 |
http://www.ebay.com/sch/m.html?_from=&_nkw=&_armrs=1&_ssn=rangahandmadepens&rt=nc
Rangaのエボナイト軸の万年筆は相変わらず魅力的である。
あれから二本また増えたのだが、それも相変わらずBambooモデルが増えて居て、そしてまだまだ今後も増えていくことと思われるがどのみち安い万年筆なので増やすのにも大金を使わないところが何より気楽なところである。
最近私は地球の環境が瀕死の状態にあるのに気分的に高い万年筆を求めるような気分にはなれず、それでRangaのエボナイト軸の万年筆を毎月二本位ずつ購入していって、そうすることにより半年位でRangaコレクションを完成させ、かつ其の中の二、三本だけを使用するペンに選びフィードとペン先を替えてみるつもりなのである。
何せ現在すでに二本のRangaのエボナイト軸の万年筆を使って居るので、使うRangaペンの場合はあと二本くらいしかキャパシティがない。
集めた他のRangaのエボナイト軸の万年筆はコレクションとして観賞するつもりである。
私は万年筆をそのままに保存し、其れを時折ただ眺めていることも嫌いではないので、そのままにそのようにするつもりである。
万年筆は持って居る分の全部を使えはしないのだ。
特に多くのペンを持つコレクターさん方ではとても使い切れない。
さて、印度の万年筆と中国の万年筆に私は何故か深く嵌って仕舞った。
中国の万年筆に嵌って居たのはかれこれ10年位前のこととなるが、兎に角其処では色々と楽しませて頂いたので今思うと其の頃のことはまさに良い思い出である。
特に英雄の軸の長さと英雄のニブの反応の良さに惚れ込んだ私は、当時90年代の沢山の英雄を買い込んで置いたのだったがそれらが今でも結構数が残って居る。
使える物は今でも使えニブの方が素晴らしいのが90年代の英雄の特徴である。
うーむ、すると、印度の万年筆にこの頃の英雄のニブなどを付けてみることも面白いことなのかもしれない。
尚、英雄といってバカにしたりは決して出来ないのである。
実際らすとるむさんに手揉みやらフォルカン化やらして頂いた英雄のニブなどは、90年代のオリジナルのニブの付いたペリカンやモンブランなどよりもずっと素晴らしい書き心地をして居るのである。
私が以前語ったことがあったように、万年筆というものは書き味の方まで調整や改造で味付け出来るのであり、其の書き味なり書き心地を純粋に比べた場合には概ね改造されたニブの方がずっと其れは良くなって居るものなのである。
そうした改造ニブを現代のフィードと共にRangaのエボナイト軸の万年筆に組み込んでみれば、これはもう間違いなく一級品の万年筆となることだろう。
或いは兜木ニブを付けていくという手もある。この場合も間違いなく一級品の万年筆となることだろう。
だから印度の安物万年筆だからといって、本当に決してバカにしたりすることは出来ないのである。
もっとも先入観だけで万年筆を選ぶ人は印度の万年筆や中国の万年筆をバカにする傾向にあるのかもしれないのだが。
だがそういうのは多分誤りである。
印度の万年筆や中国の万年筆には値段が安くて良いものが在ることだろう。
Rangaと英雄はそうした部類のペンなのだろうと思う。
ただし英雄は90年代の物のニブだけが良く、現在のニブは多分ダメで、また軸の方は特にセルロイドの軸の場合は年代を問わず崩壊することが多いので注意が必要だ。
されど伊太利亜物のように値段が高くて軸が崩壊する訳ではないのでまあ其のことも本当は許せない筈だがそれでも何となく許せてしまう部分が無いでもない。
実際10万円のセル軸の高級伊太利亜万年筆の軸が崩壊すると其処に感じる怒りの大きさというものは確かに尋常のものではない。
だが当時一万円とか二万円だった90年代の英雄は今崩壊したにせよそれほど大きく怒りがわいてこないものだ。
もう随分使ったので充分に元は取った!というような感じもして居る。
ちなみにセルロイドの軸はプラチナでもセーラーでもモンブランでも一部のペリカンー1935は危ないことだろうーでも崩壊する虞が十分にあるものなのですなわち其れ等は高級品ではないのだと言える。
高級品というのはあくまでエボナイトの軸がベースとなっているペンのことを言う。
尚、エボナイトには品質の差があるそうである。
其のことは例の「萬年筆と科學」の時代からすでに言われていたようである。
其処で渡部氏はL.E.Watermanのエボナイトは特に品質が高いと述べられ其れを大いに褒めて居た筈である。
また内野さんのところでも、其の品質の差について書いてある部分があります。
其処では内野さんの万年筆には良い品質のものを使って居る旨についても書かれて居ます。
対して確かにRangaのエボナイト軸の万年筆には其処までの品質は期待出来ないのかもしれない。
何せ其の値段からしてもそう考えるのが妥当というものだ。
然し、実感として之は悪くないカラーエボナイト軸なのである。
元々エボナイトの軸は、戦前には黒エボナイトの品質が最高で色が混ざったものや赤いものはそれには及ばないとされていたのである。
だがそれも現在のカラーエボナイト軸についてはそうしたことが言えるのかどうか、其処は詳しく調べてみない限り分からない。
現代のカラーエボナイト軸は鮮やかな色合いのものが幾らでも選べ、そしてまだ短期間ではあるが私が使う限り悪いところは全く無くまさに素晴らしい素材である。
RARE-RANGA UNIQUE HANDCARVED SPL PRECIOUS EBONITE RIPPLE DESIGNER FOUNTAIN PENS http://www.ebay.com/itm/RARE-RANGA-UNIQUE-HANDCARVED-SPL-PRECIOUS-EBONITE-RIPPLE-DESIGNER-FOUNTAIN-PENS-/130961093406?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item1e7de3b31e#ht_20660wt_1165 いかにも印度らしいデザインのペンだ。部分的に似ているのでベースはBambooモデルなのかもしれない。
Ranga Model #3 - Sheaffer Lifetime Fine Nib, Olive Ripple Smooth http://www.peytonstreetpens.com/indian-ebonite/ranga-3-duofold-sheaffer-lifetime-fine-nib-olive-ripple-smooth.html 私はRangaのBambooモデルの緑の軸の方にSheaffer Lifetimeのペン先を付けて居りますが、何とこちらでも其の同じペン先が付けられて居ました。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1511回) ..2013/09/07(土) 18:34 No.4587 |
 |
伊太利亜のペンの場合、私の場合はどうしても其処へ戻ってみる癖がいまだにあって、其れで常に何がしかの伊太利亜のペンを机上に置いて居るということはある。
伊太利亜のペンとの付き合いは他の国の万年筆との付き合いとは基本的に異なり、一言で評せば其れ等は真面目な万年筆には無い妖しい魅力を持って居るものだと言い得るのかもしれない。
が、其の妖しい魅力はヤバい女の魅力のようなもので、情にほだされてついつい手を出してみたら其の女の情夫のヤクザ者が突然現れたりするようなもので、いやはや、其れ等はじつに危険でありそして不安定で長持ちしないものだと考えて居た方が良いのである。
私はここで伊太利亜のペンのことを書き始めた十年以上前の時でさえも、伊太利亜のペンは壊れ易くて危険である、というようなことを始終述べて居た筈なのである。
其れを重々承知で伊太利亜のペンの色香に惑わされて居た私は今思えばなかなかの強者愛好家でもあった訳である。
あれから十年が過ぎ、伊太利亜のペン達は次々と死んでいって仕舞ったのではあったが、部分的には皆生き延びて様々な他の万年筆の部品となったりして居るのだから其の生命力たるや実際大したものである。
無論ボロくなっては居てもまだオリジナルのままで生き延びて居る個体も何本かはあり、そうしたペンを見るにつけつい拍手をしたくなって来る程だ。
伊太利亜のペンはリスクが大きくあり長く安心しては使えないものが多いが独特の魅力がある。
特にセルロイド軸のものはマズい。
伊太利亜のペンをわざわざ買うなら矢張りエボナイトの軸のものに限る。
金銀装飾のペンでも良いのですが、ベースにセルロイドが使われて居たりすると其のセルロイドが分解して腐蝕ガスを発生させ金銀が曇ったり錆を発生させたりもする。
それで結果的に金銀の軸もボロボロになって仕舞う。
つまり金銀装飾のペンでも死に至ることが屡々である。
ところが私の場合伊太利亜のエボナイトの軸のペンを一本だけしか持って居ない。
其れはMarlen Matisseという限定万年筆で今や検索しても何処にも情報が載って居ないという超マニアックなペンなのである。
昔このペンのことをここで詳しく書いた覚えがありますが、何せもう久しくこのペンを眺めても居ないほどでそれで当然ながら写真の方も無い。
このペンを最近使いたくなって来たのではありますが、何せ使って居るペンの数が多いのでついおろすのを躊躇って仕舞う。
それで相変わらず日頃から使って居るVisconti Augusta改アイドロッパーにインクを入れていたところ、インクを入れ終えて書き始めた途端に首軸が折れて仕舞った。
このペンはセル軸ながら、其のセルロイドが破断したのではなく首のネジの方の別の樹脂部が折れたのであった。
このことからもViscontiの限定万年筆の首軸部は構造として非常に弱い。
折れたのはこれで三本目である。
おそらくはほとんどのモデルの首軸部が弱いと考えられる。
以前にWall-Streetの首も折れたので、今世紀になってからのものでもおそらくはダメである。
Visconti Augusta改アイドロッパーにはViscontiの初期タイプのニブが付けてあり非常に調子が良かっただけに残念である。
そう思いながらもすぐさま其のペン先をオマスの軸の方に移してみた。
E.E.Ercolessiという1920年代の萬年筆を復刻した、知る人ぞ知る限定万年筆である。
そしてこちらもセル軸である。
何でか知らんが兎に角セルロイドの軸のものが多い。
この選択が正解であった。
素晴らしい。書き易い。
Viscontiの初期タイプのニブは万年筆のグレードを一段階上げて仕舞う程に良いものである。
さて、ペン先が無くなったAugusta改アイドロッパーにはモンブランNo.146の14C Bニブを付けてみた。
古いものなので多分鍛金されて居るニブである。
之は筆記上の反応が鋭く、かつキレが良く今のニブとは全然別物である。
こちらもまた正解であった。
書き易い。素晴らしい。
そんな訳で二本の伊太利亜セル軸万年筆が本日新たに誕生したのであった。 http://yahoo.jp/box/XBasRb http://yahoo.jp/box/KL_3Uz もっともこれらのセル軸は、五年後、十年後には多分もうこの世に存在して居ないものであることだろう。
だからこそ愛する。
限定された時間を共に過ごすことへの愛着はまたひとしおである。
してみると、其れは人生と同じことのようでもある。
愛とは限定である。
いつかは別れるものに執着することが愛の本質的行為である。
だから私は伊太利亜セル軸万年筆をこうして愛おしく思いつつ日々使って居る。
嗚呼、書くのを忘れて居りましたが首が折れた筈のVisconti Augusta改アイドロッパーは無事再生して居ります。
無論例の瞬間接着剤で即直って居ります。
以降インクの漏れなども無し。
このように瞬間接着剤で直って仕舞うのも伊太利亜セル軸万年筆の凄いところだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1520回) ..2013/09/22(日) 16:56 No.4596 |
 |
今の私にとって萬年筆はほとんど何でも良いのですが、好きな万年筆というものはまた確かに在る。
今日はたまたま目にとまった、そうした万年筆のことを書いてみようか。
其れは英雄のH2010Aのことである。http://yahoo.jp/box/nYKjBu
私は今日、此の万年筆の素晴らしさに参って仕舞った。
おそらくは十年位前のモデルだろうと思う。
2003年度版の英雄の型録に確り同じものが載って居る。http://yahoo.jp/box/Idcv8Z
このペン、中国のペンとしては明らかに使える方のペンである。
1.普通の重さで普通のバランス 2.ペン先が素晴らしい http://yahoo.jp/box/XOOOnL 3.軸が腐らない 4.安かった
ということから素晴らしい万年筆であると言える。
其れも二本とも同じように良い。
1.重さが29gで中華ペンとしてはまともな重さの方。長さは156mm程で小さいペンなので重いと言えば重いのだが非常に重いという訳ではなく 普通に使える。
2.ペン先の方は現代の万年筆としては最高の性質のものが付いて居る。ペン先の本質的な性質が素晴らしいということ。特に柔軟では無いのだが、柔軟と言え、しかも素晴らしい反応を見せる。 こうした金ペン先の本質的な性質は私のように書道的な運筆をあえて万年筆に於いても行って居る書き手でなければ分からない筈である。まさにそうした書き手である私にはこのペン先は素晴らしいとしか思えないということなのである。 尚フィードの方は例の溝ナシの扁平のフィードで其れの小型版のタイプが付いて居るが、このフィードがまた何故か素晴らしいものである。ことインクの供給という面に限れば文句ナシのフィードである。
3.この軸はどうもセルロイド軸では無いようだ。だから年月を経ても軸が腐らない。ゆえに其の軸の美しさはずっと変わって居ない。
4.当時から安いペンだった。幾らだったかはもはや覚えが無いのだが、其の値段からすれば驚異的にイケているペンなのである。
現行の万年筆など、モデルによっては其処で高級だなどとも屡言われるが戦後の高級万年筆に真のそのような高級な万年筆を見つけることはほぼ不可能なことである。
大抵は万年筆にとっての非本質的な領域にお金をつぎ込んでいるモデルだろうことなので其処に真の高級な万年筆を見つけることは能わないのである。
独逸物、伊太利亜物、日本製、現行の物はどれもこれも大したものは無いと考えておいた方が多分当たって居ることだろう。
私はかってそうした現代の高級万年筆の世界にドップリと浸かって居た愛好家だったのである。
で、其の世界の嘘臭さ、非本質の世界の空しさのようなものに人よりも少しだけ余計に気付かされていったのである。
然し、この英雄はどうだろう。
そういうのとは対照的な清しきペンなのである。
このペン先であるが、どうも鍛金されて居るのではなかろうか。
筆記感がどんよりとはして居らず反応が鋭く全体的に強いのである。
当時英雄は自社でペン先を作っていた可能性もある。
確か90年代の英雄の大型18Kペン先は自社製だった筈である。
ただ其のことは確定的な情報ではないです。
所謂うろ覚えの情報ゆえに。
軸の色合いも頗る美しい。
橄欖石のような緑色と、たなびく白雲のような白色だ。
まあ何てお上品な色合いなのでせう。
このペンで筆記することは何より楽しい。
インクの出方が違うのである。
一言で表現すれば、現行の万年筆と戦前の万年筆の丁度中間辺りの筆記感だと言っていいものだ。
いや、むしろ戦前の万年筆の方に近いとも言えるのかもしれない。
今の万年筆は、ペン先を変形させて書くような書き方が想定されて居ない訳である。
より合理的に、平面的な運筆でもって書かれることが想定され其のように万年筆やペン先自体が設計されて居るのである。
然し戦前の萬年筆はそうではなく、特に1920年代以前の古典の萬年筆にはお習字ペンみたいなものがゾロゾロと出て来る訳だ。
私は結局そうしたペンの専門コレクターとなったのであるから、ペン先を変形させて書くような書き方自体が得意でかつそうした書き方の出来る万年筆を見抜くことにも当然ながら長けて居る。
其れで、この英雄H2010Aはそんな古典的なニブの扱いが充分にこなせるペンなのである。
だから筆跡にメリハリを付けて書く事が出来、しかも其れが非常に微妙な話なのだがどうも本質的に書道的なのである。
其の書道的というのは、流石に其処は中国という国の書に於ける伝統ということが明らかに関係して居ることなのであり、そんな要素は独逸物や伊太利亜物からはまず絶対に出て来ない筆記上の要素なのである。
より簡単に言えば、この英雄H2010Aで書くと、漢字や仮名が非常に美しくより本来の運筆が行えた上でそのように書けるのである。
ここからしてもこの種の英雄の小型ニブの優秀性は明らかなものである。
実際、現在私が英雄で一番良いと思って居るのはこうした小型の金ペン付きの万年筆なのだ。
其れ等には12Kと14Kのペン先のものがあるがH2010Aは14Kペン先である。
H2010Aに限らず此の小型の14Kペン先付きのモデル、また12Kペン先付きのモデルの場合であっても、兎に角英雄の小型の金ペン付きの万年筆の場合は皆役に立つだろうことうけあいである。
どうもペン先に復元性があり、本質的にしなやかである。
切り割りはガバッと開かないので線の変化が大きく出る訳ではないが、漢字や日本語をより本来的に美しく書き表すことの為にはまさに最適の万年筆である。
そうした筆記の目的の上で古典の萬年筆とこのH2010Aのどちらがより日本語をより本来的に美しく書き表すことが出来るのかともし問われたのだとしたら、其処でどう答えるべきなのか悩んでしまうようなペンでもある。
尚裏技としては、もう少しペンを軽くする手がひとつだけある。
其れはコンヴァーターが金属製のクロームメッキでシリコンサック入の例のタイプなので之をもっと軽いコンヴァーターに替えれば或いは1g位は重量を削れる可能性はあるということだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1521回) ..2013/09/25(水) 00:32 No.4597 |
 |
まさに邪道の話となって仕舞うのだろうが、近頃私が頻繁に使って居る萬年筆はWatermanのオリジナルモデルではなく改造萬年筆なのである。
其れはペン先を付け替えてあるもので、Waterman56改 with a NETTUNO nibというものである。
NETTUNO nibというのはStipula NETTUNO SUPERBAという限定万年筆に付いて居たペン先である。
尚このペン先、万年筆の玄人筋に大変評判が良い。
普通のStipulaのペン先とは別物だと思っておいた方が良いのだ。
兎に角このペン先は全然違うのである。
90年代製だとは言え、筆記感の上での注文の難しい愛好家でも充分に使えることだろうペン先である。
私が90年代以降の伊太利亜物の中からペン先を選ぶとしたら1.ヴィスコンティの初期タイプ18Kニブ2.Stipula NETTUNOの14Kニブということになります。
共に絶品だと思って居ります。
この二種のニブは兎に角一級品なので、独逸物の往年の名作ニブや古典の萬年筆のニブにも見劣りすることが無いです。
このペン先が付けられて居るオリジナルの軸は確かセルロイド製ではなかった筈だと思って居たのだが、キャップの中の匂いを嗅いでみたところ明らかにセルロイドの匂いがして居る。
尚NETTUNO SUPERBAの軸の形状をそのままにして後に作られたStipulaの少量生産の限定品数種の場合も確か皆セルロイド軸になって居た筈である。
ーちなみにこれらのモデルには普通のStipulaの18Kニブが付いて居るだけなのである。だからこれらの限定品を買ったとしてもこの絶品ニブを入手したことにはならないのである。あくまでNETTUNOモデルに付けられて居る14Kニブを手に入れなければダメなのである。ー
とりあえず、ニブは最高に良いのですがどうも軸の方がよろしくない訳である。
セルロイド軸であることが不安であるし、其れに筆記状態で短めの軸なので私の好みでは無い軸なのである。
そこでどうしたら良いものか、実はこの二年ほども考えて居たのである。
NETTUNO SUPERBAの首軸のネジ部の径が太くて、大抵の万年筆の軸には嵌らないから胴軸を長く出来なかったのである。
竹の軸に嵌めるということも一時期考えて居たのだけれど、どうも其れでは勿体無いような気がしないでもない。
それで結局、ペン先を引き抜いて何かの軸に付けるということに相成ったのである。
すると、其処へ丁度うまい具合にスチールペン先のWaterman56が一本あることに気づいたのである。
之は、元々はWaterman16の方にペン先を移し替えたもので、ペン先が無かったゆえ大型のスチールペン先を付けていたものである。
其のWaterman56にNETTUNO SUPERBAのペン先を付けて仕舞うことに対して今の私にさして躊躇いは無い。
古典の萬年筆は基本的にオリジナルの状態を保つべきものであることは分かって居る。
が、其れは売買に供する個体に対して言えることなのであって、自分で使う分はどうあろうと自己責任でやっちまえという話なのである。
http://yahoo.jp/box/pRxrsn
こうしてWaterman56改 with a NETTUNO nibモデルは出来上がった。
軸に比してペン先が大きく感じられる萬年筆に仕上がった。
此の14Kニブは本当はもっと大きい。
ペリカン800のニブよりも大きい位なのである。
が、Waterman56はニブを深く挿し込むタイプの萬年筆なのだ。
だからこの位の感じになって居るのだが、それでも兎に角大きいニブ付きなのである。
http://yahoo.jp/box/L5AOzl
このようにとても大きいニブなのである。
軸に比してニブが大きい万年筆の書き心地は、私の経験上ではとてもリッチなものとなり易いようだ。
其の逆に軸に比してニブが小さい万年筆の書き心地は、私の経験上ではどうしてもプアーなものとなって仕舞うようだ。
だから私は古典のペン、戦後のペンを問わず軸に比してニブが大きい万年筆が好きでなるべくそうしたタイプのペンを探し求めて居るのである。
http://yahoo.jp/box/PBpRLd
このようにオリジナルの6号ニブと比較しても矢張りNETTUNO SUPERBAのペン先の方が大きい。
そして其の大きさの割にキャップへの収納は普通に可能である。
http://yahoo.jp/box/1rdFfy
この改造ペンの書き心地はまさに秀逸である。
軸も良いが、ペン先も良い。
オリジナルの56とはまた違った風味の書き心地で、其れがまさに素晴らしいものとなって居るのだ。
私は先月だったか、オマスE.E.Ercolessiにヴィスコンティの初期タイプ18Kニブを付け其の改造ペンを良く使って居るのだけれど、之がまず一級品の書き心地をして居る。
そして今回のWaterman56改 with a NETTUNO nibモデルの方も紛うことなき一級品の書き心地をして居たのである。
此れ等二本を交互に書いてみると、全く凄い。
一級品の一級の書き心地が交互に感知されるので何やら夢の世界に迷い込んだかのような気分が味わえる。
共に凄いのだが、特に此のWaterman56改の方は凄い。
ペン先に於ける鍛金の有無は分からない。
されど大変しなやかで書き心地の良いニブである。
とは言っても実はオリジナルの56の6号ニブにも同じくらいのしなやかさはある。
また線の変化はオリジナルの56の6号ニブの方が顕著である。
戦後の柔軟なニブは矢張り線の変化ということに対しては余り得意では無いようだ。
でも書き心地の方はむしろWaterman56改の方が優れていると言えるのかもしれない。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1526回) ..2013/10/02(水) 23:12 No.4602 |
 |
Ranga Bamboo Premium Ebonite Pink with a GINJIRO 14K nib http://yahoo.jp/box/WB2o7b
今の私にとっての究極の万年筆の一本。
仕様諸元
軸・・・Ranga Bambooモデルのピンク軸。ただしJapan StyleでのBambooモデルー以前に登場させたバーガンディや緑の軸の物とはまた別物。ー 重量が31gあり若干重く、全長が5mm程短い。Japan Styleモデルは26gで5mm程長い。
ペン先・・・Walityのスチールペン先付き。フィードは手作りのエボナイト製。フィードをそのまま残して、14Kの兜木ニブーGINJIROニブーを装着してみた。GINJIROニブはモリソンのギャラクシーモデルに付けられて居た物。 モリソンのギャラクシーは加藤製作所製のセル軸で黒に銀の筋が入る美しいもの。信頼出来るセル軸だが私が好むような長い軸ではない。http://yahoo.jp/box/7iV_Vz
アイドロッパーの機構・・・インクのダダ漏れを防ぐ機構付き。首軸内部が壁のように塞がれ其処に小さな丸い穴が開けられて居る。其の穴からのみインクがフィードの方へ導かれる。だから其れはインク減少時のダダ漏れ対策なのだと思われる。其の事により、インクを満タンに入れた場合には振り出さないとインクが出てくれない様だ。然しインクが減って来ると次第に良いインクフローとなって来る。
軸の感触・・・何故かJapan StyleのBambooモデルよりも一枚上手で、ピンクのエボナイトの軸が軟らかく感じられる。しっとりとした非常に良い感触だ。然し同時に言えることなのだが或いは表面硬度が低くて鏡面仕上げが落ちて仕舞い易いのかもしれない。が、其れは気のせいなのかもしれず現時点では確定的には言えない。
ペン先の印象・・・GINJIROニブは流石に素晴らしい。本質的性能が高いのでキレがある。無理をすればカリグラフィーも出来ない訳ではないが、普通に書いても美しい日本語が書ける。鍛金ニブはしなやかで復元性がある訳だからどう書いたにせよ筆記が楽しくなる。ちなみに少々無理をすれば現在ヴァン・ゴッホに付けて居るより大型の兜木ニブが装着可能であるのかもしれない。
いずれにしても兜木ニブ付きのBambooモデルは一種究極の万年筆であることは間違いない。http://yahoo.jp/box/AgCTLC
ソリッドカラーのピンク軸は個性的な色合いで実に目立つ色合いである。
他にオレンジなどのヴィヴィッド・カラーもある。
ただしオレンジ系は古典の万年筆の赤軸がオレンジに近い色合いのものも多いためかさほど新鮮味は無いのかもしれない。
が、ピンク軸は他に無い色合いなのではないだろうか。
その点からも満足感の高い軸である。
14Kの兜木ニブは相変わらず良い。http://yahoo.jp/box/QvDo9n
之はどういう軸に付けても筆記が楽しくなることだろうニブである。
ちなみにこのペンの場合は若干重量があることからもカリグラフィー的な運筆を行うよりは普通にメリハリを付けた運筆でもって日本語を書いた方がよろしいようだ。
対してJapan StyleのBambooモデルの方は26gと軽量なのでDip Penの大型金ペン先のような柔軟でカリグラフィーの得意なペン先を組み合わせてもまた面白いのではなかろうか。
ところで重量のあるペンはペンを三次元的に動かされることが元々苦手である。
其の逆に軽量のペンは三次元的に動かされても平気である。
つまりより大胆なカリグラフィー的な筆致を行う為にはなるべく軽量のペンを選ぶべきなのである。
低筆圧の横滑り筆記を行うのであれば、其の逆に重いペンの方がそうした書き方には向いて居るように思われる。
またペン先の方は、カリグラフィー的な筆致を行う為には矢張り薄い鍛金ニブである方がそうした書き方には向いて居る訳である。
其の逆にGT筆記で行くなら現行の分厚い18Kや21Kのニブでも十分である。
本格的な製法の金ペンには筆記技術を伴う書き方で対するべきなのであるし、現行の合理化された金ペン先で書く場合には特にそうした特殊な筆記技術が必要とされる訳ではないことだろう。
いずれにしても此のRanga Bamboo Premium Ebonite Pink with a GINJIRO 14K nibは今の私にとっての究極の一本である。
此のペンを使って仕舞うと古典の萬年筆以外のすべての万年筆が色褪せて仕舞う。
全く恐るべき万年筆なのである。
ただし、Ranga Bambooモデルを使った改造ペンは此れ以外にも様々に制作出来そうである。
例えばDip Penの柔軟な金ペン先を付けてみたり、兎に角なるべく大きな金ペン先を付けてみたりと今後様々にやってみる価値はある。
然し現在のところは此のピンクのBambooが一番書いて居て楽しいペンであることは言うまでもないことだ。
ピンクのクラウン、1か月で650台を受注 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131002-00000078-rps-ind
何故か最近、此のピンクのクラウンに乗ってみたくもなって来て居る。
ーお知らせ 多忙の為3日間程書き込みをお休みします。ー
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1527回) ..2013/10/06(日) 22:17 No.4603 |
 |
ちなみに石原 慎太郎日本維新の会代表はワープロ普及以前はプラチナ製の万年筆を愛用していたことが自身の記録により明らかになっているのだそうだ。
なる程ね。さもありなん。
ところで私はプラチナの万年筆、其れも60年代物のプラチナが大好きなのである。
其れは何故かと言うに、私が学生時代に使って居た70年代製のプラチナとは其れ等が似て非なる物だったからなのである。
とは言っても、全然違う物だということではなくまあ大枠では似たようなものではあるのだろうが、其れでも70年代製のプラチナには無い何かが60年代物のプラチナには確かにあるからなのである。
60年代のプラチナと言えば例の銀製の軸のものが有名なのだが私は今其れを一本も使って居ない。
何故なら銀製軸の物は私には少しだけ重く感じられるからなのである。
とは言え、かって私は此の銀製軸のプラチナを2本も3本も常用して居たのである。
かっては其れ程重い万年筆には思えなかったのだったが、万年筆での筆記上の経験を積むうちになるべく軽い万年筆を好むようになっていったのだ。
また歳の方が五十代になると其の傾向がより顕著になって来た。
万年筆の扱い上手はより軽い軸を好むという概念が最近は形成され、万年筆の扱いが下手な奴ほど重い軸が向き、逆にお上手な人程羽根のように軽い軸でも上手に扱えるものとそう信ずるに至った。
其の点からも60年代の軽い軸を持ったP-250やP-300といったプラチナ18シリーズのモデルは私の一番のお気に入りの戦後のプラチナなのである。
今では其れ等の本数も持って居て、多分10本くらいはあろうかと思われるのだが使って居るのはそのうちの3本のみなのである。
そして其の3本共アイドロッパー化してある。
それで其のアイドロッパー化した3本のP-300が現在絶好調である。
元よりアイドロッパー化することは完全な邪道であることと思われる。
然しながら、其のかんたん改造により60年代のプラチナが実に楽しく使えて居るのである。
其れも万年筆本体には何ら影響を与えて居ない。
どこも弄っては居らず、ただ軸に直接インクを入れて、それでもって首軸のネジ部にK-1を塗りこんでインクの漏れを防いでいるだけなのである。
そのようにして居るだけなのでインクがキャップの中で洪水を引き起こして居ることも稀にあるが机上限定で使う分にはさほど気になる頻度でもなくそんなことよりも楽しく使えるペンとなって居ることの方が余程に大きいことなのである。
それで、二ヶ月振り位ではあるが其れ等3本のP-300を使ってみたところ何とそのままに使えるではないか。
スッとインクが出て、普通に書ける。
之は驚異的なことなのである。
特に古いプラチナにとっては全く新鮮な現象である。
ゆえにP-250やP-300はアイドロッパー化するに限る。
ただし自己責任に於いて、しかも使って居るものに限り。
此の3本にはMUSIC、SIGN、SCRIPTのペン先が付いて居る。
いずれも個性的な書き味のする珍しいペン先ばかりだ。
他に細軟のペン先も使って居るが、そちらはデスクペンタイプとなって居る。
そして無論のこと其れもアイドロッパー化してあり大変書き易くなって居りインクも漏れ出て来ない。
だから60年代のプラチナに関しては此れ等だけで充分に満足して居るのである。
然し、私には以前からどうしても欲しい60年代のプラチナがあったのである。
其れはプラチナ18シリーズの初期型と俗に云われているモデルで、P-250やP-300とは仕様が異なる別物の万年筆なのである。
ところがこのモデルは私にとっては入手困難なものだった。
オークションにはほとんど出て来ないものなので入手が難しいのである。
とは言え、専門店などには置いてあるものなのかもしれない。
が、それでもたとえばL.E.Watermanのレアーなモデルよりも入手するのが難しそうな気が何故かいつもして居たのである。
ところが今年に入って此の初期型のプラチナ18を二本手に入れることが出来たのだった。
其の事は以前にも書いて居る通りである。
共にオークションで手に入れ、二本目は余り程度の良いものではなかった。
が、所謂悪い中での良しとすることの出来るような個体だった。
どういうことかと言えば、悪くは見えるが実は悪くなくて良いという個体なのである。
万年筆の中古品には、其の逆に良さそうに見えて実は悪い、といった部類の個体もある。
中には悪そうに見えて実は基本は悪くないというものが確かにあるのだ。
ところが、流石に悪いだけにペン先が片方だけ折れ曲がって居り書けないシロモノではあった。
プラ製の例のフィードもダメージを受けて居るようだ。
が、ペン先も軸もオークションの画像よりはむしろ綺麗で使い古されているという感じではない。
私は七月にメーカーへ修理を依頼すべく松坂屋へ持っていった。
最近の丸善は何となく気に入らないから松坂屋にメーカーへの取次をして貰うのである。
其の一ヶ月後位にプラチナの方からゴチャゴチャと伝えて来た。
曰く、このペン先は曲がって居るから直すのが難しい、フィードはもう部品が無い可能性が高い、などなど。
それで私は言ってやった。
此の万年筆は私が幼い頃に作られただろう物凄く貴重なものなので直さずには居られない。
修理代は五千円位は払っても良いから兎に角直してみよ。
我は四十年来のプラチナのファンでプラチナにとっては普通の人間では無い。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1528回) ..2013/10/06(日) 22:17 No.4604 |
 |
それでまた一ヶ月が経過した。
うーむ、はや二ヶ月以上が経過したがそういえばあのペンは一体どうなって居るのであろうか。
どこぞに紛れ込んであの20年程前の時のように紛失という憂き目にあって居るのではなかろうか。
もしそうだとしたら大変なことである。
我はあのペンと共に老後を過ごすつもりであるというのに、失くなりでもしたら其の計画がおじゃんである。
そう思い松坂屋へかけてみたところ、早速メーカーへ問い合せてみます、とのこと。
そして其の問い合わせの結果、丁度今名古屋に入ったところです、とのこと。
然しそんなうまく丁度今入って来ることがあるのだろうか。
修理の出来上がりの連絡をするのを忘れて居ったのではないのか、ひょっとすると。
そんな若干の疑問を感じながらも修理費を払い感謝してペンを受け取り、家に帰って書いてみるとあれあれ、何とも良い書き味だ。
うーむ、之はソフトだ、ソフト。ソフトタッチだ。
フェザータッチと言うよりもソフトタッチの方が分かりやすくて良い。
ぐわっはは、良かった、やりましたー、之で我の老後の幸せは約束されたようなものだ。
ただ、少しキモい話ではあるのだがこのペンは少々臭う。
中古のペンにはたまに臭いペンがあるものだがコイツがまさに其のタイプだったのである。
ただし他には何も問題は無い。之は実に良く出来た古き良きプラチナである。http://yahoo.jp/box/Ts-HJ3
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1529回) ..2013/10/08(火) 10:36 No.4605 |
 |
プラチナ18の初期型といわれるモデルはおそらくは昭和37年頃から作られて居たのではないかと思われるのですがどの位の期間作られたかということは不明である。
昭和37年といえば私はまだ幼稚園へ通いはじめた位の頃で、物心がつく以前の話なのであらゆることに対して兎に角何も覚えて居ないのである。
従ってこの、昭和三十年代後半の頃のことが私にとっての最もミステリアスな時代なのである。
其の頃こそが私がタイムリーに経験し得て来た時代の中で最も不透明な時代となって居るのである。
この頃は色んな歌謡曲なども流行っていたがそれ等を今聴いても皆妙に大人の曲であるかのように感じられるのである。
もはや自分がジジイの域にさえ近づいて来て居るというのに、其の年代の歌謡曲だけは自分が絶対に到達できない大人の世界の有様を歌いこんだものそのものでさえある。
其のことは戦前とか、19世紀末とか、そうした歴史的な時代のこととはまた違うのである。
そうした我の知らない時代のことは極言すれば何とでも言えるものだ。
然し実際に自分が体験して来た時代のことはそうはいかない。
其れは何より自己が共に歩んで来た時代の重みをこの身自身に感じて居るからにこそほかならないのだ。
昭和37年-再び社名を「プラチナ萬年筆株式会社」に変更。18金ペンの「プラチナ18」発売。18金ペン先時代、始まる。 http://www.platinum-pen.co.jp/company_history_top.html
ここにある広告で中田氏が持って居られるのが其の初期型のプラチナ18である。
初期型のプラチナ18には幾つかの特徴がある。
1.キャップ付け根に社名ロゴが横に長く刻印されていること 2.ペン先にアヤメの紋章の刻印がある 3.首軸後端にスリットが刻されたリング付き 4.18金のニブはP-300のものとは別物のより大きなニブ
ということになる。
そして此の初期型のプラチナ18は現在非常に稀少な万年筆として認識されて居るものらしい。
ということはほとんど情報の出て来ない万年筆だということでもある。
つまり多くの人が知らない万年筆だということなのである。
実際オークションなどを覗いていてもまず出て来ないペンなのである。
もっとも私の場合は何故か今年二本入手出来たのだったが、通常はオークションにもまず出品されて居ないものである。
従って何年待っても出てこないというものでもあり得る訳だ。
おそらくはこのモデルの生産期間が短かったものと思われる。
其れとも余り数が出回らなかったのか。
ところが、そうしたものに限ってモノが良いものと相場は決まって居るものなのである。
実際何でもそうなのだが、多くの人には知られていないというものの中に素晴らしいものがあるということは言えるかと思う。
実際此の初期型のプラチナ18は凝った作りでP-300に比べより高級感がありかつより本格的な万年筆に仕上がって居る。
戦後のプラチナで、それも五角絞りの18金ペン先のものの中で最も良い万年筆は此の初期型のプラチナ18である。
尚私が使用する黒軸金色キャップのモデルには胴軸にP-600という刻印がある。
だから之がP-600モデルであることはほぼ間違いないことなのだろう。
さて此のP-600ですが、先にも書いたようにペン先が大きくP-300とは別物となって居る。
其処をより詳細に言えば、ペン先ばかりか首軸自体がP-300よりも太く、フィードもP-300のものより一回り幅広のものが付いて居る。
そして大事なことは、其のペン先が柔軟であることである。
其れも、P-300の細軟と同じ程度に柔軟である。
私のP-600は中字かと思われますが、それでもP-300の細軟と同じ程度に柔軟である。
しかも、其のペン先が大きいので筆記感はよりソフトなものに感じられる。http://yahoo.jp/box/ELStR3
P-300の細軟よりもゆったりとしていて、より楽に筆を運べる感じである。
そしてこの筆記感こそは秀逸なものである。
後にプラチナのペンは固く感じられるような筆記感のものが多くなっていくのだったが、此の初期型のプラチナ18の場合はそうしたものとは別物の筆記感を持つものだったのである。
私は兎に角意外な迄の此のプラチナのソフトタッチに魅了されて仕舞い、このところ此のペンばかりを使って居るのですがおそらくは今後も何度書いても飽きないことだろう実に良い筆記感のするペンなのだ。
そしてこの際はっきり言っておこう。
この初期型のプラチナ18があれば他社の60年代物などは一本も要らない。
いや、P-250やP-300でさえも要らない。
此のP-600のみをもう一本だけ欲しい。
それも黒軸で金色キャップの、そしてデカい18金ペン先の付いたP-600の程度の良いものを是非にでも。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1530回) ..2013/10/08(火) 21:45 No.4606 |
 |
http://yahoo.jp/box/zps3EA
初期型のプラチナ18の二本を比べてみるとこのようになる。
上の方が私が今使って居るP-600で、下の方がフラワーリング付きのモデルである。
此のフラワーリングというのが実は非常に凝った作りとなっていていかにも精緻で立体的な意匠となって居る。
今の実用万年筆はこうした細部のディテールに凝るということが稀なので其れを見て居るだけでも新鮮である。
此の頃はどうも万年筆を本気で作って居たのではなかろうか。
其の本気というのは、銭金だけでは無いという意味での本気なのである。
今の商品は特にマスプロダクツのものの場合にはいかにも銭金の為に適当に作られて居るという感じがどうしてもして仕舞うものなのだが、60年代位まではそうではないモノづくりの哲学のようなものが存して居たのかもしれない。
其れも数の出る商品ではあっても其処からそうした哲学のようなものを感じさせて呉れるのである。
http://yahoo.jp/box/HK_AEq
フラワーリング付きのモデルの方が少し筆記状態で短いので或いは女性を意識したモデルであったのかもしれない。
ただし首軸とペン先の部分の大きさは等しい。
だからおそらくは筆記感などもほとんど同じだろうと思われる。
ちなみにフラワーリング付きのモデルの象嵌部が曇って居るように見えるのだが其れは後で拭いてみたら取れたのだった。
またP-600のペン先の方が傷が多いのだがペン先の調整でメーカーに苦労をかけていることもあり多少の傷位は大目に見てやるべきである。
http://yahoo.jp/box/5GMR0q
P-300とのペン先の比較。
ただしP-300のペン先の中でも大きめのMUSICとSIGNで比較してあるから真ん中のP-600のペン先が余り大きく感じられないかもしれない。
が、実際にはずっと大きく感じられるものとなって居り、筆記感の方もまた全然違うものとなって居る。
だが書き味自体で比べれば、アイドロッパー化されたP-300のMUSICとSIGNもまた凄まじく、むしろこちらの方が上だとも言える。
書き味の良さと言うよりも総合的な筆記感の方でP-600の大型ペン先は優れて居る。
そして万年筆の大きさ自体がP-300よりもP-600の方が一回り大きくより本格性のあるモデルであるように思える。
http://yahoo.jp/box/BPAhXF
P-600の場合は、アイドロッパー化することなく大型カートリッジでもって使用中である。
此の大型カートリッジは現行のカートリッジよりも古いもので、おそらくはプラチナがこのタイプのカートリッジを出した時の最初のタイプだと思われる。
私は80年代の後半に地元の文房具店をつぶさに回って古いプラチナの万年筆を中心としながら色んなものを買い漁って来たのだったが、其の折にこのタイプのカートリッジを箱入りで大量に発掘し現在もそれ等を持って居るのである。
ところがこの大型カートリッジはP-300には使えないものなのであった。
従って20年以上にも亘りまさに宝の持ち腐れというところだったのだが、今回のP-600には使えるということなので其の事が全くもって嬉しくて仕方がない。
其の大型カートリッジにスポイトでパイロットブラックを注入しつつ現在使用中なのである。
尚、このプラチナのカートリッジは一種のアイデア商品で良い物だと個人的には思うのですが、余り長く使い込んで居たりするとトラブルが発生することもある。
カートリッジの先の方でカートリッジが破断し、其の切れ端が首軸の内部に残り取れなくなるということが屡起こり得る。
従ってスポイトでインクを注入しつつ使う場合にも定期的にカートリッジを交換していく必要がある。
大型カートリッジは何せ現行のものと比べ大容量なので非常に良いものである。
すぐにはインクが無くならないので安心して使って居られる。
ところで何故この大型カートリッジは消えて仕舞ったのだろうか。こんなに良いものであるというのに。
さて18金のペン先と云い、カートリッジと云い、此の頃のプラチナの万年筆はある種邪道の方向性を向いて居た訳である。
其れは万年筆の本格性という意味に於ける邪道の方向性のことだ。
なんとなれば、万年筆のペン先は14金のものが最良であるのだし、インク供給なども吸入式の方が有利であることは分かって居ることだった筈である。
其処をあえて18金のペン先にし、カートリッジ式にしていったところに誰しも疑問を抱くだろう筈なのである。
其の訳の分からんような戦後のより近代的な意識が万年筆に組み込まれ、これ以後万年筆はより訳の分からん金ペン先に於ける品位競争やショートタイ プ、ポケットタイプと云われたところでの携帯に特化したタイプの万年筆を誕生させるに至ったのである。
従って其の邪道振りを、古典の萬年筆を愛する自身の立場からは見過ごすことが出来ないのではあるが、其れでもプラチナの邪道ペンの中では最も良いものと思われる初期型のプラチナ18モデルにこうして接するに、其れ等が実に手の込んだ望ましい万年筆にも思えて来て、其の事に矛盾と言えば矛盾を感じて居る今日この頃なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1531回) ..2013/10/09(水) 23:45 No.4607 |
 |
逆に言うと凝ったフラワーリング付きの初期型のプラチナ18は万年筆の本質の方を向かずに変な装飾性の方にお金をかけて居たのだとも言える訳なの である。
が、この頃の万年筆にはまだまだ魅力がある。
おそらくは実用性と装飾性との間に適度で良好なバランスが存して居たからなのだろう。
そういうことは大事なことである。
また何に対してもそうなのである。
たとえば自然と文明の間にも其の適度で良好なバランスを齎すように努力することこそが真の知恵者というものなのである。
さて、私が近年モノとの関係性に於ける指標にして居る考え方がある。
其れは頑張り過ぎないでなるべく大きく果報を得る。
ということである。
或いは、安上がりに最大の成果を得る、ということでもある。
何でもほどほどにしておくが実は求めても居る。
そのくせ本心では強くは求めては居ないのだけれど結果的には得られて仕舞う。
という様な一種分かりにくいような境地を歩んで来て居るといっていい。
其れは元々相当に万年筆に拘って居るのだが其の拘ること自体を客観視する余裕を持つというようなことでもある。
だから以前より万年筆に対してより自然体と言うか一種いい加減でもあるのだが其の事が段々と居心地よく感じられるようにもなって来て居る。
その辺りでの境地に、印度製のRangaペンはピタリと合って居るのだと言える。
然しふとRangaペンでほとんど使って居ないものがあることに気付いた。
1.このペンをどう使えるペンにしていくかということがひとつの大きな愉しみである。
2.相変わらず確かな、そして美しいロイヤルブルーのエボナイト軸である。
3.相変わらず何も考えなくて良いアイドロッパーでインクを入れること以外は実際何もすることがない。
1.私の場合は改造でやり過ぎてはいけないのである。
軽く弄って、別物の万年筆に生まれ変わらせることが理想だ。
2.少し重いのだがとても良い長い軸である。
これ以上長い万年筆はおそらくはそうそう無い筈である。
3.アイドロッパーであればあれこれと余分なことを考えなくても良いので筆記に専念出来る。
Rangaのアイドロッパーはまさに安心、楽ちん、低価格と三拍子揃ったペンなのである。
http://yahoo.jp/box/u7KAsn
つまりはこのデスクペンタイプのRangaを使って居ないことに気付いたのであった。
ペン先はスチールニブながら悪くない筆記感をして居た。
が、矢張りより魅力的なペンとする為には是非とも金ペンにすべきであるという結論に達したのだ。
それで結局、モンブラン146の14CのBニブがこのペンの為に選ばれることとなった。
他のペンに付けて居たのだったが、どうもフィードとのマッチングはこちらの方が良さそうである。
取り付け後も取り付け位置の微調整を繰り返し現在ようやく完調となりつつある。
ペン先の取り付けは非常に難しく其処には曰く言い難い部分での苦労がある。
ペン先を正しく入れ直すことは多分プロの方でも難しいのだろうと思う。
http://yahoo.jp/box/o-ymnW
このオールドペン先が実に良く合って居る。
久保工業所で調整済なのでインクフローの方も申し分ない。
書いてみると実に書き易い。
そして書き味の方もなかなか滑らかである。
尚、私は同じペン先をあちこちへ付け替えたりはして居ますがここぞというところにあてがったペン先はもうずっとそのままで書いていくのである。
このRangaのブルーエボナイトの軸とモンブラン146の14CのBニブとは結局そういう関係になることだろう。
今私はこのブルー軸で筆記感の良いオールド14金ペン先のRangaに大きな魅力を感じて居り、あのピンク軸のRanga同様いつも机上に置いて使って居る。
全く素晴らしい万年筆で実に癒される。
あれ、いつのまにか万年筆にも深く癒されるようになって来て仕舞った。
9月は精神的に少々大変なことがあり、其れで鉱物の方で癒されていたのだったが今は万年筆でも其れと同じ様な深い癒やしが得られるではないか。
全く嬉しい限りだ。
それに此のブルーのRangaで癒されることがこんなに素晴らしいことだったとは。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1533回) ..2013/10/12(土) 17:42 No.4609 |
 |
お知らせー前回分が未完の形でしたので書き加えました。
さて、このほど、念願の万年筆の本を手に入れることが出来た。
其れは「ステイショナリーと万年筆のはなし 東京アドバンク編」 昭和56年初版発行 である。
著者はあの梅田 晴夫氏である。
この本、実はアマゾンでも扱って居るのだけれどいかんせん其れ等は高価であり過ぎた。http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4924528064/ref=dp_olp_used?ie=UTF8&condition=used
其れでオークションの方にたまたま安く出されていたので落札してみたのである。
その結果まずまずの程度の良い本を安く入手出来嬉しくて仕方がないのである。http://yahoo.jp/box/9KAU_C
この本は矢張り素晴らしい。http://yahoo.jp/box/X6QPEg
いつもの梅田節、梅田萬年筆ワールドが其処に拡がって居たことにまずは安心した。http://yahoo.jp/box/MFj-ki
然し、この御本は梅田先生の絶筆となった万年筆に関する本なのである。
この本が出版された1981年にはすでに梅田先生は亡くなられて居り、一方私はと言えばまだ学生をやって居る最中で万年筆のコレクターにはなって居ない頃なのであった。
私が曲りなりにも万年筆のコレクターのようなものになったのは1985年頃のことである。
そして80年代の終わり頃から90年代の初め頃にかけて、地元の図書館へ行き其処で梅田先生の本を借りてきてはせっせと本をコピーして居たのである。
自宅にコピー機があったので其れでもって兎に角全ページをコピーして仕舞うのである。
其れも梅田先生の文学方面での本をコピーするのでは無く万年筆に関して書かれた本だけをそうするのである。
従って今でも当時コピーした其れ等の分厚いコピー紙が部屋の片隅に積んであったりもする。
其の後地元の古本屋をめぐるなどして実物の本の方も探し出し結局コピー分は不要になったりもしたのではあったが何にせよ其の分厚いコピー紙こそが当時の私の万年筆に対する情熱を何より物語って居るものなのだと言える。
兎に角当時は万年筆に関する情報が少なく、万年筆はむしろ斜陽産業で今よりも余程にダメな分野だと思われて居たのではなかったか。
ところが80年代終わり頃からの限定万年筆の発売と90年代からの限定万年筆ブームですっかり万年筆は息を吹き返したかに見えた。
ところが限定万年筆には元々様々な問題が内包されており、またバブル崩壊後の不況や其れに伴う賃金の伸び悩みの影響などで90年代のように高額限定万年筆がポンポンと売れる時代ではなくなっていったのだった。
今でも覚えているが、90年代に丸栄百貨店ではモンブランをはじめとする高額な限定万年筆が飛ぶように売れ、其のことにより万年筆売り場の皆でハワイへ旅行して来た、などということが実際にあった時代なのであった。
其の丸栄百貨店の万年筆売り場はとっくになくなり、あの丸善でさえおそらくは今高額な万年筆を売ることが難しくなって居る筈なのである。
結局90年代の限定万年筆ブームはバブリーなものに終わり、今は元の落ち着いた万年筆の趣味へと戻りつつあるのだろう。
然し、無論のこと今後も万年筆の凋落傾向には歯止めがかからないことだろう。
万年筆の本質を求める一部の万年筆のコアなファンはより専門化、細分化して行き、すなわち其処で全体論的な万年筆論が出て来ることは考えられにくく、非常に狭い範囲での愛好の度の深まり方がいや増しになって行くだけのことであろうと思われる。
昭和40年代のように一家に一本は必ずあった万年筆は平成の御代となるに及んで次第に姿を消し、いかにも現代チックでバブリーな限定万年筆という 非本質の儲け主義の万年筆の時代を経ていままさに寂滅の方向へと舵が切られんとして居るのではなかろうか。
寂滅とはまるで法話の話のようで縁起でもない話しながら、いや、実は其の寂滅に至ることこそが万年筆にとっての必然の道、万年筆は百年も前の過去のもので合理主義の時代の産物にはあらず、であるからこそむしろ其の非合理性のねちゃねちゃの世界に耽溺することも出来、こうして三十年以上も前に亡くなった梅田先生のことを其の著作から偲ぶことも出来、またこんな時代に真顔でもって古き良き萬年筆たちのことを話題にしたりすることも出来ようというものである。
滅び去るものは常に儚くも美しい。
寂滅するだろう筈の萬年筆たちを見て居るとつい哀しみにとらわれて仕舞うのだが、其の哀しさは我の心が明知に至って居ない為の無明の哀しさであるに過ぎないのである。
やがて滅びようがどうしようが萬年筆の存在は歴史として偉大なのだし其れは現在の我にとって欠かすことの出来ない重要なアイテムのひとつである。
従って萬年筆と共に世を去ることを考えよう。
其の好きなものの寂滅に付き合う形で我自身の心をも寂滅させることは叶わぬだろうか。
http://yahoo.jp/box/UC2xvc
http://yahoo.jp/box/iKZOCO
尚、今回此の本を読んでいて一番驚いたことは以上のようにL.E.Watermanの古いペンが挿絵として沢山本に載っていたことである。
昔図書館から借りてきてこの本をコピーした時には全く気付かなかったのだが、其れも今となっては良く分かる。
ここからしても、まさにあのL.E.Watermanの古いペンこそが万年筆の基礎であり基本なのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1534回) ..2013/10/14(月) 18:06 No.4610 |
 |
結局万年筆というものは私にとってもいまだに良く分からんものである。
人生とは何たるものかということが多分生涯分からないことであることと同じくして万年筆ということも結局は分からん。
ただ其の大元が分からんなりにも部分的に細く分かって来るということはあろうかと思う。
ところで私は最近本当に不思議な体験をして居て其れは頭の方で考えても全く分からない部類のことなのである。
其の現象を一言で言い表すとすれば、謂わば嫌いな万年筆が私に擦り寄って来て居るとでも言える。
それと言うのも、元々私は兎に角お習字ペンが好きな訳である。
まさに1920年代以前のエボ軸14K鍛金ニブ付きの軸の長い黒い萬年筆群を一番好んで居る訳である。
然し、これらのペン達は携帯には向かず戸外で使う訳にはいかないのである。
それで私は当初外ではボールペンやシャープペンシルに活躍して貰って居た。
其の後携帯に向いた70年代の国産ショートタイプの万年筆を外で使うようになり、やがてペリカンなどの小型のピストンフィラーを其の任に当たらせることとしてみた。
また其の後にそれでは飽き足らなくなり、Parker Vacumaticを使うようになった。
Parker Vacumaticはセル軸ながら優秀で、軸も良いが特にペン先が良く結構細かに綺麗な字を手帳に書く事が出来た。
そんな訳で今私がメインのペンとして戸外で使って居るのは其のParker Vacumaticなのである。
其れもオリジナルの吸入方式で使って居るのではなくアイドロッパー化して使って居るのである。
ところが、私の万年筆觀での上から言えばVacumaticsは余り好きではないタイプの合理的万年筆である筈なのである。
然し、其れこそが今私にとっての大事なペンとなって仕舞って居るというそもそもの矛盾が其処にある。
さらに、私が今オリジナルの状態で結構大事にしつつ使って居る古い伊太利亜物のペンが一本だけあり、其れがStipula ETRURIAである。
此のペン、実は私が最初に求めたStipulaのペンで、多分90年代の前半位に求めて居た筈なのだが胴軸には1986との刻印があり或いはもう少し古いタイプのモデルであるのかもしれない。
此のペンもズングリしたバランス型で短いペンなのでそんなに好きなペンではなく余り使って来ていなかった物だった。
ところがこのペンが今私にはまさに宝石のように価値あるペンとして見えて来たのである。
1.軸は非セル軸で長年使用しても問題が生じない。http://yahoo.jp/box/0n4BrK
2.装飾部が質素で確か、そして何かとお上品な軸。http://yahoo.jp/box/Vr0jdR
3.18Kのペン先の書き心地が矢張りお上品。http://yahoo.jp/box/jigPEz
4.元よりペンとしての作りは独逸物や日本製の作りの精度にまでは至らない。だが丈夫で長持ちして居る。 伊太利亜物でここまでやれれば全く大したものである。
1.多分もう14、5年も使って居る筈だ。それなのに軸に狂いが生じて来て居ない。まさに非セル軸であることの恩恵である。非セル軸なのに質感、 感触ともに悪くない。全然安っぽく感じられない。色合いも非常に美しい。 2.キャップリングがシンプルながら立体的な意匠で美しい。銀製なのでうまく黒変しており美しい。いわゆるいぶし銀の味わいがあり。クリップもまた同様である。 3.スティピュラのニブとしての節度ある上品な書き心地を維持して居る。もっとも余り使って来て居ないのでまだまだこれからと言ったところである。 4.これまでに使った伊太利亜物の軸の中で最も丈夫な軸である。そして短めながらとても美しい色合いの軸である。
以上のことからも、実際ペンの上では理屈で割り切れないことも往々にして発生して来るのである。 其れも兎に角長い間ペンと付き合って居ると色んなことが引き起こされて来るのである。
ゆえにブランドや評価でペンの価値を断定する必要はない筈である。
実際何があるか分からんものなのである。ペン趣味に於いては。
ところで限定万年筆のことを書いて居た頃、私は初期物の限定万年筆は良いということを始終語って居た筈ですが、其のことは今でも確かに通用することの筈である。
此のETRURIAは限定万年筆ではなかったのだが初期型の筈である。 http://yahoo.jp/box/qcn7a7
其の初期型の90年代物は万年筆としては後の物よりも良いだろうというのが私の実感となって居る。
そして無論之だけが良いのである。
後にETRURIAにはセル軸のものが沢山登場した訳だったが、そんなものはダメで、結局この初期型の軸のモデルが最高である。
このペンは比較的軽くて、バランスの方も良い。
バランス型の所謂作家向きのタイプの軸なので長時間筆記型のGT筆記でペン先を滑らせて低筆圧筆記していく書き方こそが向いて居る。
謂わば古典のお習字ペン達とは正反対のペンなのだが、其れは其れで書き方をペンに合わせてやれば非常に書き易いペンなのだと言える。
尚このペンの弱点はピストンフィラーの完成度の低さにある。
このペンも現在は物凄く力を入れて吸入する必要がありそこからもおそらく何年ももたない筈である。
されどギリギリ吸入することが出来る。
伊太利亜物に限らず、たとえ独逸物でもピストンフィラーは万全ではなく十年位使うと壊れることが多い。
すると其の度に高額の修理費や長期の修理期間が必要となるなど手間がかかるから万年筆を多く持って居る人には其処が何より問題となる吸入方式である。
だから本当はアイドロッパーの方が手間要らずでより完全な吸入方式なのだと言える。
だから本当はこのペンをアイドロッパー化して使っていきたいのだけれど、どうも首軸が取れないようなのでそうすることは難しいようだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1535回) ..2013/10/17(木) 23:04 No.4611 |
 |
Ranga Japan Style Bamboo with a Coklin nib
例のバーガンディのBamboo軸に限定品のニブを付けてみたもの。
結局、Rangaは金ペン化するに限る、ということからこのような仕様が誕生した。
赤系の軸に銀色のニブが良く映えて美しい。
されどこのペンは、書くのが極端に難しい。
実は意図的にそうしてあるのだ。
私はこのペンでペンに於けるある実験を行って居るのだ。
此れはニブを弄って居るのである。
ニブを変形させPayton Street Pensが差し込んだフィードとの密着度を高めて居る。
Coklinの18Knibは下方へ少し曲げてある。
Coklinと言ってもViscontiのニブで、之がクネクネと曲がる柔軟なタイプのものである。
ところが其のクネクネを堪能しようとして以前に書いているうちに次第に上方へ反り上がって来たニブだったのだ。
それで其の変形分を直しついでに少しだけ下方に曲げて筆記時のニブの変形に耐えられるようにしてみたかったのだ。
ところがこのペン、書くのがかなりに難しい。
要するに普通に書くと書けないのである。
ではどのように書くのかというと、丁度お習字のような書き方をしてみるのである。
すると書ける。
どういうことかというと、切割りが仕舞って居るので普通に書いてはインクが出ず書けないのである。
然し柔軟なニブを筆の穂先のように扱いながら運筆圧を常にかけて書くと其の圧力に応じて切割りが開かれるのでインクが出て書けるのである。
つまり現代のニブにとっての邪道の使い方をあえてしなければこのペンはまともに書けないのである。
それで、このペンを書くにはかなりの力が要る。
今のペンを書くときの常識である、万年筆は力を入れずに書くということの逆をあえてしている。
ところが、結果的にこのペンでは美しい日本の文字が書ける。
運筆を立体的に行い書道のように書いて居るので、字が美しくなり昔風のくずし文字なども書き易い。
さらに線描の筆記も行える。
細い線と太い線を運筆に伴い書き分けることさえ可能なのだ。
つまりはこのペンは現代の日本のペン趣味の上での常識に対する私の疑義を具現化したものなのである。
万年筆は確かに力を抜いて扱うべきものなのだろうが、然しながら、そのような書き方で本当に美しい日本語を書く事は可能となるのだろうか。
運筆圧が全くかからないような日本語の書き方では、其処で適当な日本語つまりダイジェスト版の日本語は書けても真に美しい日本語が書けて居るとは言えないのではないか。
確かに書道では力を抜いて筆を扱うものだが、実は運筆に伴ってかなりに穂先が紙の中にめり込んでいく。
穂先が変形する訳だから其れは結果的には運筆圧がかかっているということである。
其処を無視して、西洋流の硬筆筆記候の書き方で万年筆を扱っても本来の日本語の美しさは表せない。
より厳密な筆記というのは何より日本語の表記に於ける伝統のカリグラフィーの要素を充分に意識した書き方を行うことにほかならない。
そりゃ確かに万年筆は硬筆筆記具であり軟筆である書道の筆とは全く異なるものである。
然し万年筆はニブを変形させて書く事の出来る稀有な筆記具でもあり得る訳だ。
ニブを変形させて書く事の意味とは、其れは書き味がどうのこうのということではなく美しい抑揚のある線を引く為のことである。
そして其のことが日本語の表記に於いても限定的に万年筆で行うことが出来ると私は言って来て居るのである。
ただし其のことを行う場合には、ニブの本質的な強さが必須となる。
ところが現代の18K以上の高品位ニブは、其の製法上からも頼りないものばかりで積極的にニブを曲げていけるようなシロモノでは無いのである。
だからひとつ間違うとニブが曲がり元へ戻らなくなる。
所謂復元力が其処に無いか弱い訳である。
然しニブにはかって強いものが沢山あり、そうしたニブであればグニャグニャとニブを曲げて筆記しても元へ戻って仕舞うという復元力を持ち合わせて居る。
従ってそういうのこそが本物の萬年筆のニブだ。
対して今の万年筆のニブは弱いからニブを曲げて筆記するとニブ自体が曲がって仕舞う。
従ってそういうのこそがダイジェスト版の万年筆のニブだ。
そして此のCoklinの18Knibとは実は典型的なダイジェスト版の万年筆のニブである。
本質的に軟らかくて、運筆圧や筆圧などを強くかけると次第に曲がって仕舞うニブである。
ただ、其の弱い現代の18KニブをFLEXニブに仕上げられないものだろうかと私は考えたのである。
下方へ曲げてバネ性を増しニブを曲げつつ書いてもニブ自体が曲がらないニブとしてみたかったのである。
其の目的は今のところ達成されているようだ。
かなりにニブを曲げて書いても何とか復元性があるようだ。
ただし其処ではやり過ぎない方が良いことだろう。
このニブは元より14Kニブでもなければ鍛金ニブでもないのだ。
やり過ぎて仕舞えば次第にニブは曲がって仕舞うことだろう。
それに以上のような訳で至極書きにくいニブであるのだから、現在はあくまで実験としてこのような形で使って居るものなのである。
このニブをずっと使っていくのならば、フィードを替え切り割りを開いて調整すればもっと書き易くなることは分かって居る。
或いは古いペン先や兜木ニブにすれば筆記感はまた全く異なるものとなる。
それでも今この実験を継続してやって居るのは、何ともこのニブが面白いからなのである。
力を入れずに書くと全くインクが出ずつまりは書けず、力を入れて、或いはFLEXさせつつ書くと普通にインクが出て書けるということが全く新鮮なことなのである。
古典の萬年筆の鍛金ニブというものは要するにこのCoklinの18Knibとは本質的に異なる地金の性質からFLEXさせることが可能なニブとなって居るのである。
其処からしてもこのニブはインチキニブである訳であるが、インチキだろうが何だろうが現代の万年筆のニブで常時こうしたカリグラフィーを行なって居ると一体どうなるのだろうということを今調べあげて居る最中なのだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1536回) ..2013/10/19(土) 18:31 No.4612 |
 |
http://yahoo.jp/box/4viODQ
http://yahoo.jp/box/a-SqUw
3本のRanga Bambooにそれぞれに金ペン先を取り付けてみるとこのようになる。
上から、Ranga Japan Style Bamboo with a Coklin nib、Ranga premium ebonite Bamboo with a GINJIRO nib、Ranga Japan Style Bamboo with a Kabutogi special nibである。
リップルのバーガンディ軸のBambooモデルは前回述べたように筆記上の特殊な試験、実験を行なって居るものである。
なのではあるが、その割に結構本当に柔軟なニブで、実は他の二本の兜木ニブよりもずっとしなり易いニブなのである。
だからこそ線描筆記の可能性につき調べて居るのである。
現代のニブで線描筆記を真の意味で行うことが出来るかどうかということを調べて居る。
従って実はこのバーガンディ軸が一番筆記上は面白いのである。
だから何でもそうなのだが先入観だけで万年筆を見てはいけないのだ。
銀次郎ニブ付きのピンク軸は若干ニブの取り付け位置を変えたが相変わらずキレの良い兜木14Kニブの反応で筆記感の上では申し分ない。
ただし線描ということに関しては、戦前の海外メーカー製のニブの方が得意である。
L.E.WatermanやSWANの柔軟なニブ付きのモデルの方が常に線描は得意である。
兜木ニブは線描というよりも日本語の文字表現に軽く抑揚を持たせながら質の良い筆記感を楽しむ為のニブである。
然し、兜木ニブは現行メーカーが採用している18K以上の高品位ニブとは別物で復元力が確かなニブである。
だから今となっては大変貴重なものだと言い切れることだろう。
現行の万年筆を、それも高い金を出して其れを購うというのであれば、それよりも例えばオークションで兜木ニブ付きの酒井軸の万年筆を是非買っておくべきなのである。
もっとも最近は其の兜木ニブ付きの酒井軸の万年筆が妙に高騰して仕舞って居るのだけれど。
Ranga Japan Style Bamboo with a Kabutogi special nib
之は兜木ニブでも最も大型と目される14Kニブを装着したオリーヴブラウンカラーのBambooモデルで本日誕生したばかりの万年筆である。
元々は私が十五年位前に京都の丸善で購入して来た酒井軸の極太のモデルに付いて居たものだった。
このニブが素晴らしい。
モリソンに付けられて居た銀次郎ニブより一回り大型でより繊細な筆記感を感じさせて呉れるものである。
私は之をアイドロッパー化したヴァンゴッホに取り付けてこれまで楽しんで来て居たのではあったが、今回矢張りどうしてもJapan Style Bambooモデルに装着してみたくなり本日急遽そうしてみたものである。
だがまだ使って居ない。
この軸に付ける前にピンクのBambooモデルの方に付けてみたのだったがフィードとの適合の問題があり結局こちらの方に付けたものである。
尚より完璧な改造を行うのであれば、酒井軸に付けられて居たオリジナルのフィードをBambooモデルに移植するという手も無論のこと有る。
さて問題は、こうして自分にとって気に入ったエボナイトの軸に真の意味で良いニブを次々に組み込んでいくと次第に新たに付ける良いニブが無くなって来て仕舞うということである。
実は二ヶ月位前にヤフオクに酒井軸の極太のモデルが比較的安価に出されていて其れを是非入手しておくべきだったのだが忙しくてつい手が伸びるのが遅くなり逃して仕舞った。
其の時に其れが入手出来ていればもうひとつ大型兜木ニブが手に入った訳だったが其れも後の祭りである。
其処であれこれと良さそうなニブを探して居たところ、ついにこれはというものを見い出したのだった。
其れは英雄の14K大型ニブである。
尚之は英雄の高額モデルに付けられて居た18Kタイプのニブとは別物である。
英雄の螺鈿軸、930など900系の太い軸のモデルに付けられて居た14K大型ニブである。
このニブがなかなかデカく、それこそ大柄なRangaの軸には良く似合いそうなペン先なのである。
以前にも述べて居るように中国の万年筆の軸の作りは伊太利亜物同様に悪く、其の事は所謂高級版の万年筆に関しても全く同様のことなのである。
然し、これも以前に述べた通りに、中国や伊太利亜の万年筆のニブは独逸物のニブとは違った筆記上の味わいがあり決して軽視出来ないものなのである。
中国や伊太利亜の万年筆は悪いともし決め付けて購入を控えて居たのであれば、私はそれらの独特の良い筆記感には巡りあえなかったということになる。
此の英雄の14K大型ニブですが、実に良いニブである。
其の筆記感は90年代以降の万年筆の中で最も兜木ニブに近いとさえ言えるものなのである。
之はひょっとすると鍛金ニブなのではあるまいか?
なんとなれば筆記感にはかなりにうるさい筈の現在の私が使ってみて80点位は付けられるニブなのであるから。
本質的にしなやかで運筆圧で曲げられても復元性に富む素晴らしい性質のニブなのである。
私は昔からこのニブを大いに評価して居て、かつ大好きなニブだったのである。
http://yahoo.jp/box/wApI0C
其の英雄の14K大型ニブを現在は英雄の唐木軸に付けて使用中である。
もっとも最近は使用する頻度が下がったのだが、本日たまたま使ってみたところ何とも素晴らしい書き心地だった。
それも其の筈で、此の英雄の14K大型ニブはらすとチューンが施されたスペシャルニブであるからなのだ。
http://yahoo.jp/box/9c_8Cp
いや、確かにらすとるむさんによるらすとチューンにより書き心地が向上しては居るのだが元のニブの本質的性質が良いからこそここまでのものとなるのである。
実はノーマルでもかなりに良い書き心地なのである。
ただし、ここまでニブが軟らかくは感じられない。
らすとチューンにより何と兜木ニブのレヴェルにまで柔軟になって仕舞って居るのである。
此の英雄の唐木軸は元より廉価版、つまりは安物で大したものではない。
ただし木の感触だけは良いので、其れと英雄にしては軽い軸なので螺鈿モデルの軸からこちらへニブを移植して使って居たのである。
だからこの英雄の14K大型ニブを今後入手するRangaに付けていくという手がある。
幸いこのニブは未使用のものを含めると片手以上の数を持って居る。
それに難しいのかもしれないのだが英雄のオリジナルフィードと共にRangaにもし組み込んでいけたとすれば最高である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1541回) ..2013/10/27(日) 01:15 No.4617 |
 |
Ranga Bamboo with a HERO 18K nib
かっての英雄の大型ニブは14Kだった。
たとえば900には其の14Kニブが付けられ、903の赤軸や螺鈿軸にも14Kニブが付けられて居た。
英雄には他に18Kのニブもあり、其れは2002、2003、2006などに付けられて居たがこちらは特に筆記感の良いニブだった。
ただし此のニブは14Kニブとは大きさが異なる。
14Kニブの方が一回り大きい。
其の特に筆記感の良い18Kのニブを今回バーガンディのBambooモデルに付けてみた。
http://yahoo.jp/box/llFhYW
何故より大型の14Kニブにしなかったのかと言えば、其処には少々複雑な事情がある。
元々此のバーガンディのBambooモデルは印度のRangaのオリジナルモデルではなくPeyton Street Pensの為に作られた海外版のモデルである。
即ちアイドロッパーとしてだけではなく、コンヴァーター式として使えるのである。
又は両用式として。
英国の店でも其のようにコンヴァーター式として使えるVarunaペンが売られて居ることからしても、おそらくはRangaの方で其のように作った首軸を付け出荷して居るのだろう。
此のPeyton Street Pens版の首軸にはソケットが嵌って居り、其れを回すとニブユニットが取れる。
つまりはペリカンのように回すと取れるニブユニットとなって居り、其処にフィードとニブが組み入れられて居るのである。
ただし其うしてある分、Rangaのオリジナルのエボナイトフィードを組み込むことが出来ないのである。
より細いフィードでないと入らないのである。
いずれにせよ、そうしたことからも少し小型の18Kのニブの方をバーガンディのBambooモデルに付けてみた。
Peyton Street Pens版のBambooモデルを私の場合はアイドロッパーとして使って居る為、結局オリジナルのRangaの方が値段も安くエボナイトフィードが使えるということからもより望ましかったのである。
ただしオリジナルのRangaの方でしかもオリジナルのエボナイトフィードで使う場合にはインク漏れが引き起こされる可能性もまたある。
従って其の辺りが微妙な選択である。
海外版仕様でしかもコンヴァーター式で使えばおそらくインクの漏れは無いことだろう。
然し其の代わりに潤沢なインクの流れではなくなる。
まさに其れは道理である。万年筆に於ける真理である。
古典のアイドロッパーのペンは皆インクフローが良いのですが、其れも道理である。
要するに現代のペンはインクの容量が小さ過ぎ、かつインク制御能力の高いプラフィードばかりなので元々インクの流れが良くない万年筆が多くなって居るのだろう。
もっとも笑暮屋などではインク止め式の万年筆も現在作っているようですが、其れ等は正直余りにも高価で手が出ない。
対してのRangaのBambooモデルは五千円から7千円弱までのお値段。
比較にならない程の低価格だがモノが悪いという訳では決してない。
http://yahoo.jp/box/qZrEnk
かっての英雄のニブは素晴らしいもので、14Kに比して少し小型の18Kニブの場合には書き味の方が兎に角良くなる。
驚いたことに、兜木ニブ付きのピンク軸よりもこちらの方が書き味自体はずっと良い。
此処からも書き味というのは、どう見ても高品位ニブの方が良くなるのである。
ところがニブの反応などを含めた総合的な筆記感に於いては14Kニブに優るものは無いのである。
ちなみに私の場合限定的にではあるが18Kニブの存在も認めて居る部分がある。
が、大抵の場合18Kニブは書き味偏重となって居て本質的性質が弱いものが多いからカリグラフィーをする場合には充分に注意する必要がある。
つまり18Kニブの方が復元力が弱く曲がり易いニブとなるだろうことは明らかなのである。
ただし其れも現代の万年筆の場合にはそうした類のニブが多いという話で、戦前の18Kニブの場合はおそらくは鍛金されていて充分な強さを持ち合わせて居るのではなかろうか。
兎に角此の万年筆の書き味は最高の部類のものだ。
兜木ニブや古典の萬年筆のニブよりも遥かに上の書き味をして居て、まさに筆記マニアが泣いて喜びそうな上質な書き味を示して居る。
http://yahoo.jp/box/k2CIMA
フィードは何とセーラー銘木シリーズのものである。
当初、ソケットの中に組み込む適当なフィードが無く往生して居た。
どれもこれも太過ぎて入らないのである。
ところがたまたま春に首軸が破損したセーラー銘木シリーズのフィードが目に留まった。
其れを組み込んでみたらOKでしかも英雄の18Kニブにも合って居たのだ。
このことからも部品というものはどこでどう、何が何と合うかということは分からないものなのである。
http://yahoo.jp/box/KSCOHx
其れでようやく完成した此のRanga Bamboo with a HERO 18K nibで書いてみると此のようにスラスラ、サラサラとうまい具合に書ける。
そして書き味の方が全くもって最高である。
ただひとつ、僅かに心配なのはセーラーのフィードはインク供給が多い、つまりインクの制御能力が高いものではないと思われることから、インクの減少時にボタ落ちが生じないかということである。
尚、英雄のフィンが切って居ないのっぺらぼうのタイプのフィードもインクの制御能力が低くインクを良く流して呉れる。
然し其れを使っても矢張りインクの減少時にボタ落ちが生じないかということはある。
さらにRangaのオリジナルのエボナイトフィードや古典の萬年筆のフィードもインクの制御能力が低くインクを良く流して呉れるがボタ落ちが生じるおそれは常にある。
だがセーラーのフィードの場合は多分其処まで心配する必要は無いのかもしれない。
何といっても其れは21世紀になってから作られたフィードなのだから。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1544回) ..2013/10/30(水) 00:33 No.4620 |
 |
http://www.ebay.com/itm/WATERMAN-No-7-RIPPLE-1920s-RARE-PINK-FINE-FLEXIBLE-NIB-WORKING-/400563464981?ssPageName=STRK%3AMEWAX%3AIT&nma=true&si=knwloeCfdvRzIOMd%252BNuwKhEu5F0%253D&orig_cvip=true&rt=nc&_trksid=p2047675.l2557#ht_13731wt_1158
ここまで高価では矢張り現在ではL.E.Watermanの収集もなかなか大変である。 それにしても相変わらずカリグラフィーの方が美しい此の名物出品者のオークションである。
さてRanga Bambooモデルですが、内実を言えば実は之もなかなか入手するに難しいペンなのである。
と言うのも、先にも述べたように此のRangaペンは印度の万年筆職人M.S.Pandurangan氏の手になるもので基本的に一日に2、3本しか作れない物なのだそうである。
ところが電話や文書による注文やインターネットによる注文が月に百件程あるのだそうで、そこからしてどうも元々品薄の状態であるようなのだ。
従ってイーベイで売られて居るすべてのペンがすぐに用意出来るというものでも無いらしい。
Bambooモデルは特にプレミアムカラーの場合現在完全な軸の物が無いということである。
即ちキャップを挿して筆記状態にすることの出来る物が現在品切れであるということなのだ。
其の事は例えばピンクのBambooモデルでも然りで、私のピンクのBambooモデルのようにpostedの状態に出来る物が無いとのことである。
してみると、此の私のピンクのBambooモデルー兜木ニブ付きのーは結構貴重なペンだとも言えるものだ。
どだいPandurangan氏はご高齢でいつ病気になるか分からないような職人さんなのでもある。
酒井軸を作る職人さんが居なくなれば自然酒井軸の万年筆が高騰するということからも、Pandurangan氏がこの世を去れば必然的にRanga Bambooモデルもこの世から消え去り、高騰はしないまでも倍位の値段で取引されるようになるのかもしれない。
いや、其処でPandurangan氏が手作りでエボナイト軸を挽くRangaだのVarunaだのいった印度ペンはほとんど誰も知らない部類の原始的な万年筆なのであるから、例えばこの私のような一部の熱狂的なファンだけにそもそも評価され支持されて居るペンに過ぎないのであり、其れで結局このペンがこの世から消え去ろうがどうしようがほとんど誰も関心が無いというまことに寂滅的な終わり方を迎えるものであるのかもしれない。
逆に言うと私などは多分世界でも稀な熱狂的Rangaフリークで、もう兎に角Ranga、Ranga、寝ても覚めてもRanga、毎食後にRanga、坐禅の後にもRanga、という一種お目出度くも見える程Ranga一色に染まって仕舞って居る。
其れで最近はスッカリ他のペンの出番が無くなって仕舞い、あのロレンツォ・デ・メディチでさえ二ヶ月に一度使うか使わないかという位で、もっともL.E.Watermanの場合には流石にもう少し出番はあるが、其れでも最近はこれらのRanga共にしてやられっぱなしなのであり、 Ranga、Ranga、兎に角Ranga、ピンクのRanga、グリーンのRanga、ブルーのRanga、とフル回転で使用中なのである。
Rangaペンはエボナイト製で軸が長く軽いことが私にはピッタリなのである。
また其のエボナイト軸がカラフルであることも何より私には合って居る部分である。
ちなみに息子さんのMP Kandan氏が万年筆を製作出来るのかどうかは分からない。
然しどうも出来ないのではなかろうか。
だとすると矢張り安価なRangaペンと雖も其れをバカにして居てはいけないのである。
何だ、こんなものいつでも買えるわ、などとバカにして居るとそのうちに寂滅する恐れが大のペンなのである。
もしも寂滅したらもう一本も入手出来ないのである。
そのようなことを考えつつ此のRanga Bambooペンを使ううちに、いつしかある宗教的な感情がわたくしに芽生え、其れはかの印度を愛する心、数々の宗教を生み出した東洋の精神の母国としての印度、かってあのヘルマン・ヘッセが憧れし偉大なる精神の国への尽きせぬ恋慕の情、2600年前に釈尊が法を説いた真理が宿る地への深い思い。
それからRangaのエボナイトモデルの系譜としてはBambooモデルは最も新しいタイプ、つまり最新モデルなのだそうである。
結局此れは酒井軸か笑暮屋の竹軸を真似て作ってみたのかもしれない。
然し、此れは日本の竹モデルよりもサラリとしたデザインで非常に使い易い軸に仕上がって居る。
要するに軸がゴテゴテして居ないので持ち易いのである。
Ranga社ではエボナイト製の万年筆を制作するだけではなく、他にエボナイト製のDip Penも作って居りこちらの方が海外では屡話題に上ったりもして居る。
それから古いセルロイド・ペンを復活させるという面白い試みも行なって居るようである。
此れはどうも古いセルロイド・ペンを収集家から買い集め、其れ等をレストアして販売するということであるらしい。
が、私は其の試みには興味は無くむしろ自分の古いセルロイド・ペンを是非Ranga社に買い取って頂きたいと思って居る位だ。
いずれにせよ安価なRangaだと雖もそう簡単に欲して居るペンがすぐに手に入るという訳でも無いのである。
ですが私の場合にはすでにRanga社にとってのお得意様なので例えば注文時に色々と便宜を図って貰うことなどが可能であるのかもしれない。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1546回) ..2013/11/01(金) 23:42 No.4622 |
 |
http://yahoo.jp/box/kMKxB1
RangaのウルトラサイズのEDは筆記時全長が204mm、重量が47gある巨大な万年筆である。
軸の一番太い所では18ミリあり、非常に太くそして重量感のあるモデルである。
RangaのウルトラサイズのEDにはもっと筆記時に長くなるモデルもある。
然しそちらはプレミアムカラーではなくレギュラーカラーの軸となる。
そしてプレミアムカラーの軸はどうも重く表面硬度が低いようだ。
どちらかと言えばレギュラーカラーのエボナイトの方が軽くそして表面硬度が硬い良いエボナイトのように感じられる。
が、ファンシーカラーと言うかパステルカラーと言うか、兎に角そうした変わった色合いの軸を求めていく場合にはそうした部分は仕方がないということになる。
http://yahoo.jp/box/3V0U4b
元より巨大で重量感のあるペンなので其れでもってカリグラフィーを行うような代物では無い。
GT筆記でもって、インク容量の大きさを活かし沢山の文字を書いていけるようなペンなのである。
此のプレミアムエボナイトの感触はかなり軟らかい。
レギュラーカラーのエボナイトに比して軟らかく感じられるのだ。
Rangaの場合、そうした軟らかく感じられるプレミアムエボナイトの場合には何故か重量が重くなって居るようだ。
もっとも其れも、このペン程胴軸が肉厚であると単に其の事による重量増だと言えなくもないので確定的に言える訳ではない。
さてこのペンのフォルムから齎されるバランスは秀逸なものだ。
ペンを握った時にしっくりと来る良いバランスをして居る。
重心位置は全長の6対4の位置にある。
だから普通の万年筆と同じ様な感覚で扱うことが出来る。
非常に大きいペンだということだけを除けば。
インク容量はおそらく6ml入ることと思う。
Bambooモデルが3.5mlであり、3号や4号のサイズのペンが4.0mlである。
意外にBambooモデルの容量が小さいことが其処からも分かるが、それでもBambooモデルで頻繁にインクの補充をする必要などは無いのである。
逆にひとつの問題点として、容量の大き過ぎるEDはボタ落ちが屡発生するということがある。
従って此のウルトラサイズのEDの場合も其のことと無関係では居られないのである。
事実インクが減って来るとキャップの中にインクが滲み出して来る。
然し其れは大容量のインク保持能力を持つペンの宿命のようなものである。
其の場合にはインクの制御能力の高い現代のプラフィードに替えれば或いは解決する問題なのかもしれない。
が、エボナイトのフィードの方がインクの流れ方がより自然であり楽しい筆記を行う為にはそちらの方がより望ましい。
http://yahoo.jp/box/a7aI_m
ペン先は結局またConklinの18Kニブを付けることにしてみた。
今回は前回と違ってフレキシブルニブとしての取り付けを行わず、GT筆記でもってインクフローを良くした状態で書けるようにニブを調整、取り付けしてみた。
特にインクが減って来ると現代の軟らかい18Kニブ特有の滑らかな書き味が味わえる。
オリジナルのエボナイトフィードは現代のニブとの相性が良く、このようにヴィスコンティのニブ、英雄のニブなどとは特にマッチして居るようである。
或いは他にスティピュラやオマスのニブなども付けられる可能性はある。
スティピュラの反応の良いフレキシブルな14Kニブなども付けてみれば結構面白いペンに仕上がるのかもしれない。
ただし其の場合にはBambooモデルの方が適任である。
いずれにせよ、インクの容量が大きい此のウルトラサイズのRangaは、オリジナルのエボナイトフィードを付けて居る限りはインクのボタ落ちが避けられないものと思われる。
従って此の侭で使う場合には頻繁なインクの補充やペンの保管を立てて行うなどの対策を取りながら使うことを要求されることとなる。
元々私には少し重過ぎるペンなのではあるが、其の重さに慣れるとバランスの良さからも非常に書き易いペンである。
そして何より巨大なペンなので大きく存在感がある。
太くて大きなエボナイト製のペンを求めて居られる方にはなかなか似合いそうなペンである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1547回) ..2013/11/03(日) 23:08 No.4623 |
 |
http://yahoo.jp/box/ojSwEJ
こんな風に色とりどりのRangaのエボナイト軸の万年筆が集まるとなかなか華やかなものである。
此の中で個人的に良いと思うのは矢張りJapan Styleの柄入りのBambooモデルである。
此れは値段も安く、おまけに軸の表面硬度が高く使って居ると鏡面仕上げがより輝くようになって来る。
対してプレミアムカラーの軸の場合には軸の表面硬度が低くなり、使って居ると少し艶が落ちて艶消しのような軸となって来る。
不思議なもので、細かいことを言えば其のように軸材の性質が異なるのである。
然し実用する場合には逆に艶消し仕上げの方が手にしっくり来る場合もあるのでその辺りは何とも言えない部分だ。
此の写真で言うとピンク、青、パステルグリーンの軸の物がプレミアムカラーの軸の物である。
対して柄物軸のバーガンディと緑の軸の物がJapan StyleのBambooモデルである。
値段は平均すると送料込みで大体六千円位となる筈である。
ただし柄物軸のJapan StyleのBambooモデルは一番安くて送料込みで五千円以下となって居る。
其の分エボナイトの肉厚が薄いので大変軽く作られて居てカリグラフィーでの書き方にも向いて居る。
対して先日語ったところのウルトラサイズモデルは太くて重い万年筆となる。
おそらくはGT筆記でもって作家のように多くの文字を書き連ねていくことに最も適して居ることだろう。
その逆に詩人向きなのは矢張り柄物軸のJapan StyleのBambooモデルだ。
これならば現代詩にせよ、或いは俳句や短歌にせよ、何でも軽々と書いていけること請け合いである。
ただし其処で作品が生み出せるような心理状態、精神状態であることが無論一番大事なことなのではあるが。
http://yahoo.jp/box/yZZJUc
ニブの方もこんな風に様々な金ペンが付けられて居ると何やら見て居るだけで楽しくなって来る。
其れも、日本、伊太利亜、独逸、米国、中国と国際色豊かな金ペン先がそれぞれに付けられて居るのでまるで世界的な視野が其処に展開されて居るようでみみっちくなくて良い。
また古今東西に亘る世界的な博覧会が机上に展開されまるでお祭り騒ぎをしているようにも見える。
そして金ペンが作られた年代もそれぞれに違うのでまるで万年筆の歴史の世界を旅するトラベラーのような気分でそれぞれの時代のペン先の筆記感を味わうことなども可能である。
尚、緑色のモットルド軸のBambooモデルは一番最初に購入したもので、他のBambooモデルよりも若干軸の長さが短い。
ニブは1920年代のLifetimeの硬いものを付けて居るが、柔軟なペン先に比べ其の書き味の方が劣るというものではない。
まさに独特の抵抗感のある良い書き味を持つもので、これはこれで個性的な素晴らしい書き味を持つものである。
ところで柔軟なニブを筆記マニアが好むのは、書き味というよりも総合的な筆記感つまり書き心地の方の良さを重視して居るからではなかろうかと私は考える。
私の考えるところでの書き味というのは、ペンポイントが醸し出して居るところでの筆記感のことなのでニブの柔軟性などについては関与して居ないことなのである。
が、総合的な筆記感つまり書き心地の方にはニブの柔軟性の多寡ということが大いに関係して来る。
ゆえに書き味というものは後でペンポイントを加工したりすることでかなりに向上させることが出来るものなのだ。
けれどたとえばニブに柔軟性がなければ書き味は良くならないと思い込むことは誤りである。
硬いニブの万年筆にも書き味の良い万年筆があり、特に戦前の萬年筆にはそのようなモデルが屡存在して居る。
ところで現代の万年筆のニブなども良く硬いと愛好家の間で語られていたりするものだ。
現代の万年筆のニブは何と言うかつまりは無表情でぶっきらぼうである。
謂わば生き物であるという感じがしない。
戦前のニブはたとえLifetimeのニブのように硬いものであっても、其処に本質的に秘められた表情が在る。
特に現代のニブの高品位のニブは余計に無表情である。
其れから現代のニブの高品位のニブは特に弱い。
根っから弱いので書き方によっては曲がって仕舞うものがある。
対して戦前のニブはどう書かれようが曲がりはしない。
其れも曲げようと思って滅茶苦茶やれば無論のこと曲がって仕舞いますが、普通に書いて居る分にはまず曲がらない。
戦前のニブー本質的に柔軟で強いニブ
現代のニブー本質的に非柔軟で弱いニブ
というのが現在の私のニブに対する感想だ。
戦前のニブは軟らかいのではなく柔らかく本質的には表情豊かである。
対して現代のニブは軟らかいが柔らかくはなく本質的には表情に乏しい。
書き味中心でニブを評価すれば其れはむしろ現代のニブの方が優れて居るものである。
戦前のニブはむしろ書き味など作り込まれて居らず、要するに書き味の面ではむしろぶっきらぼうで、然しながら本質的に柔軟な地金だから筆記感や筆跡には表情が出せるのである。
対して今のニブには無表情なものが多く、其れはたとえフレキシブルなニブだとしてもそうなって仕舞って居る。
よって最近作られたフレキシブルなニブを私はほとんど評価して居らず、従って其れ等を使うこともまず無いのである。
つまるところ書き味にはむしろ無頓着なのに全体としては表情豊かな筆記感の楽しめるのが戦前のニブであり、書き味はそれこそ至れり尽せりなのに全体としてはむしろぶっきらぼうな筆記感のする現代のニブという感じが私には強くして居る。
だから書き味の良さとは単独としては其れは非本質的なニブの上での要件であり、万年筆にとって本質的に大事なことは本質的にしなやかで表情豊かな強いニブを作るということにこそ尽きて居るのだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1548回) ..2013/11/05(火) 23:31 No.4624 |
 |
Ranga EDの問題点は矢張りインク容量の大きさとオリジナルのエボナイトフィードの完成度の低さから来るインクの漏れが発生するところにある。
軸内のインクが少なくなるとどうしても漏れ出て来て仕舞う。
だから其の事が我慢ならない御仁は米国か英国で販売されているVarunaかRangaを選ぶべきなのである。
此等には独逸製のプラフィードが付けてあるからたとえインクが漏れたにせよごく少量で済む筈なのである。
実際には私の米国版のBambooモデルの場合、オリジナルの状態ではインクを使い切るまでインクが漏れることは無かった。
然しインクの制御能力の高いプラフィードとスチールニブーただしスチールニブとしては上等の物ーの組み合わせではどうにも筆記が面白くならないので私の場合は金ペンに替えて仕舞ったのである。
されどそうした弱点の部分に余り神経質にならない限りRangaは常に楽しい万年筆で色々と改造することなども出来る面白いペンなのだ。
そうすると私の机上でのようにRangaワールドがいつのまにか出来て仕舞い、其処では実際色とりどりで実に綺麗だわ、軸が硫化ゴムだからセル軸のように分解はしないわ、書き味の方も国際色豊かでまさに毎日万国博覧会巡りをして居るようだわで、全く一本五千円のペンでこんなに遊べて仕舞って果たして良いのだろうか、そのうちに何ぞバチでも当たりはせぬかと気を揉む程に幸せいっぱいの万年筆ライフが送れて仕舞うのである。
ただし、其の価格からしても当然のことながらRangaは決して高級な万年筆では無いのである。
決して低級な万年筆だとは思わないが、そうかと言って間違っても高級な物では決してないのだ。
だからRangaはコレで良いのである。
この机上のままで良い。
ただ、今夜母と良い物という話題につき話して居てひとつ重要なことを忘れて居ることに気付いた。
我は昔所謂高級限定万年筆のコレクターだった訳だが、ハテ、何で今はこんなことばかりして居るのだろうか。
其れは現代の所謂高級万年筆が真に高級な万年筆ではないことに気付いたからなのではなかったか。
謂わば其れ等は高級そうに見せかけて居るだけなのであり、内実は作りがいまひとつで職人技も発揮されていないような大量生産の品ばかりである。
なので大抵の場合十年位使うとボロが出て来て壊れて仕舞う。
表面だけが物凄く綺麗で、いかにも購入意欲をそそられる外観をしては居る。
ところが本質的には軸の方もニブの方にも手間がかかって居らず其れ等は謂わば売るためにだけ売って居るペンであるに過ぎなかったのだ。
とは言い過ぎなのかもしれぬが兎に角そんなところが現代のペンに傾向として在ることだけは確かなのだ。
多かれ少なかれそうした部分は在るということなのである。
ではどんなものが本当に良い物なのだろうか?
其のことを母が言うには、所謂華奢な物は良いとのことである。
無論其のことは私にも分かる。
私も前々からそう思って居て、屡此処でもそう語って来た筈である。
母は私とは性格が異なり細かいことには余り拘らない人である。
然し、一応は茶人だからこれまでに良い茶道のお道具などを沢山見て来て居る筈だ。
京の都などへも屡出向き、立派な茶会の席などでも良いお道具や列席者の高級な着物の類などを嫌というほど見て来て居る人である。
また以前は公立高校で講師として茶華道を教えて居た位なのだから兎に角並の眼力では無い筈である。
其の母が印度万年筆は自分の使って居る中華万年筆ほど華奢ではないと言う。
其の母の言うところでの華奢か否かというのは単にサイズの問題ではないかともちらりと思うのだが、まあ一応は参考意見として拝聴しておくこととしてみたい。
実は以前から私も印度万年筆つまりRangaは少々大味なところがありはしないかと屡思って居たのである。
然し其の事は単にサイズの上での問題であるのかもしれず、確定的に言えることではなかったのである。
だがどうも其の事が気になったのでつい先程日本の万年筆とRangaとを書き比べてみた。
すると、Rangaの方がヤッパリ大味でしたー。
が、其れも矢張り比べた万年筆が悪かっただけなのかもしれぬ。
いや、実はRangaのウルトラサイズモデルとパイロットの大型漆ー五十号ニブ付きーとを書き比べてみたのである。
うーむ、然しながら、何と良い万年筆であることか、此のパイロットの大型漆の方は。
いや、Rangaが悪いと言って居るのでは決して無い。
そうではなく、比べて仕舞へば其れ等は比べ物にならなかったとそう言って居るだけなのである。
そんなこんなで今夜はこのところ久しく続いていたRanga祭りの気分が少しく削がれた訳ではあるが、其れでも其処で冷静になって良く良く考えてみるに、そも十萬円の大型漆ー当時の値段は確か十万円だった筈ーと六千円のRangaウルトラサイズを書き比べること自体、矢張り其処にはいかにも無理があろうというものである。
どだいたかが六千円のRangaウルトラサイズはその値段からすればどう考えても最高の現代の万年筆の一本だと言えるものなのである。
ただし其れは華奢な物であるとは言えないのだが。
ちなみにRangaウルトラサイズとパイロットの大型漆の軸のサイズは若干大型漆の方が大きい位で其れ程大きくは違わない。
もっともペン先の大きさだけは大きく異なり、大型漆の五十号ニブは兎に角巨大で、Rangaの方は普通の大きさのConklinニブなのではある。
それで当然ながら書き味、書き心地の方も全然違って居て、五十号ニブの方は兎に角リッチな書き味、書き心地で、Conklinニブの方は兎に角並の書き味、書き心地をして居たのであった。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1552回) ..2013/11/11(月) 01:24 No.4630 |
 |
とは言え、Rangaのエボナイト軸の万年筆は矢張り丈夫で長持ちすることだろう素晴らしい廉価万年筆である。
どだい今時五千円で一体どんな万年筆が買えると言うのだろう。
いや、確かにイーベイでなら予算五千円でも良い戦前の萬年筆を引っ張って来られる可能性は常にある。
然し万年筆が高級品として認知されているであろう先進国のメーカー品では予算五千円でもってちゃんとした万年筆が買えようはずもないのである。
前回私はRangaは少々大味ではないかという疑問符をあえて付けてみたのだったが、何よりも其れは私自身がRangaを誤解しない為の布石でもあったのである。
あくまでRangaは気軽に付き合える普段使いの筆ということで良いのである。
其処を勘違いして、之が最高の万年筆だとか、そのようには思わない方が良いのだ。
Rangaは素晴らしい万年筆なのだけれど、其れは高級品では決してない。
オリジナルのペン先はスチールニブが付けられて居る。
悪くはないペン先ながら、其れはあくまでスチールニブなのである。
然したとえばピンクの軸のBambooは現在素晴らしいペンとなりつつある。
何故かインクが漏れない軸で、おまけに銀次郎ニブ付きなので之はもうほとんど完璧な万年筆である。
さらに其れよりも書き味の良いのがバーガンディの軸のBambooで、こちらには英雄の18Kニブが付けられて居るのだ。
此の万年筆も下手な戦前の萬年筆よりもずっと調子良く使えて居る。
ただしRangaは基本的にインクが漏れる万年筆なので、あえてこの二本とも筆筒に立てて保管し、使用する時だけペン先を下げて使って居るのだ。
ウルトラサイズのモデルも矢張り筆筒に立てて保管して居るが、このペンで感心したのはインクを使い切る最後まで結局インクが漏れ出て来なかったことである。
これだけのインク容量で漏れが無いというのは実際大したものなのである。
軸の色合いの方もピンクだのパステルグリーンだのという少々オモチャっぽい色あいながら、独特の色合いはそれ等に一種病みつきになる部分も否めず、まさに色エボナイト軸を堪能しつつ使っていくことが出来る。
尚ニブの方はあれから他にも色々と候補が出て来て結局今後Rangaの軸が増えていっても困るようなことは無さそうである。
Rangaを完璧に使いこなすならば、キャップを被せたままで常に筆記状態としておき、保管中は其処に筆用の透明かまたは半透明のキャップを被せておくと余計にインクがキャップ内に漏れ出て来ることを防ぐことが出来る。
だから感覚としては全く筆である。
印度の筆だと思って私はこれらのRanga達と付き合って居るのだ。
どだい万年筆は携帯しなければならないというものでも無い筈である。
携帯出来なければ其れはまともな万年筆ではないという基準も確かに成り立たないでもないのだが、私の場合はそうした基準には全く拘らないことにして居る。
むしろ携帯出来ないかし辛いペンの方が筆記が面白くなる傾向がある。
完璧に携帯することが可能な両用式の現代の万年筆は多くの場合筆記すること自体が楽しくならない。
もっとも其れも絶対とは言い切れないが何せアイドロッパーのインクの流れの自然さ、インクフローの良さはどう考えても両用式に対するアドヴァンテージとして認め得る部分なのだ。
ちなみに携帯して使うペンの方はまた全然別のものを現在私は使って居る。
パーカーのヴァキューマチックはこの半年位使って居り、二ヶ月位前はモンブランのNo,121やNo.72なども良く使って居た。
然し古いモンブランはピストンフィラーの吸入が怪しくなって来て居て困る。
そうこうするうち、No,121をどこかで落として仕舞った。
此れはかなり程度の悪い個体でペン先の方もヨレヨレのものだったのでさほど惜しくは無い。
然し此のタイプのペン先が大好きな私は使って居なかったNo.225を引っ張り出してインクを入れてみたのだったが、何と首軸の方からインクが漏れ出て来て居る。
要するに首軸のプラスチックの劣化かまたは構造的な欠陥で首軸が数箇所で割れ其処からインクが漏れ出て来て居るのである。
どうも60、70年代のモンブランのプラ首軸のモデルは此処にこそ欠陥が存して居るようだ。
其れで現在は60年代か、或いは70年代のものか、セーラーのMagnaというオールドモデルを使用中なのですが之が最高に良い部類の携帯用の万年筆となって居る。
小さな14Kペン先付きの太めの軸の万年筆で、細字で細かく字が書けペン先の強さがあり其れが実に良い感じである。
そして此のペンは勿論カートリッジで使って居る。
此のペン先はセーラーの現行の21金ペン先などよりもずっと良いと思う。
書き味の方は比べ物にならない程貧弱なのですが、ペン先の性質の方が良いから全体としての書き心地がとても優れて居るのだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1554回) ..2013/11/16(土) 10:46 No.4632 |
 |
Wikipedia-銘木 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%98%E6%9C%A8
『観賞用木材としての銘木は、黒柿や花梨の瘤材(こぶざい)などのように、木の生長プロセスで杢や色や形が特殊に変化したものが珍重される。そのため、杢や形などの「珍しさ」や「美しさ」や「面白さ」などが価値基準となり、あまり珍しくない松などの樹種でも、銘木とされることもある。
また、優れた性質をもつ特定の樹種が大量に消費され、乱獲で数が減りその希少価値から、銘木と呼ばれることもある。』Wikipedia-銘木より引用
木製の軸の筆記具を使うことは、結局筆記具趣味の行き着くところであると言えるのかもしれない。
特にわたくしのような所謂animistにとっては、自然由来の軸素材こそがそれこそ究極の選択であるように思われない訳でもないのだ。
然し、以前に銘木軸のことを話題として取り上げた時にも述べたように、自然由来の軸素材、特に銘木軸の場合は軸のサイズの選択の幅が小さいことが私にとっては最大のネックとなる部分なのである。
つまるところ私の場合にはサイズの方で選択出来ないので、余り積極的に銘木軸の方へ向かう気にはなれなかったのである。
どだい市販されて居る銘木軸の万年筆やボールペンの軸は太過ぎるのだ。
其れは割れ易いという木材の性質上仕方がないことなのかもしれない。
でも私の場合にはどうしても太過ぎるペンは扱い辛く、出来れば其の辺で売って居る筆位の細長い軸の方が基本的に書き易いのである。
其れでも最近はRangaのウルトラサイズの軸のように極太のペンも使うようになって来て居る。
けれどRangaのウルトラサイズの場合は太くても20センチ以上ある長いペンだからまだ何とか使えるのである。
矢張り太いペンでも短いものは生理的に受けつけないことだろう。
其れから上にもあるように、余りに杢や色などを重視することなども何だか陳腐であるような気さえして来る。
木なんて何でも同じだからどれを選んでも同じだという位の気分が無ければとても自称の詩人などはやって居られない。
私はモノを偏愛する場合もありますが、実はあくまでモノを醒めた目で眺めている部分もある人なので本当の意味での物のコレクターや愛好家ではないのである。
むしろそちらで居る方が格好良いとさえ思って居る。
余りにモノの方に傾き過ぎると志を失うような気さえもする。
それから乱獲や自然破壊による銘木の絶滅の問題もまたある訳である。
詳しくは知りませんが、あのブラジリアン・ローズウッドは前々から絶滅の危機に瀕しているようで、また黒檀なども印度産の真っ黒なものはもはや入手が難しいものらしい。
ここからしても人間は海のものでも山のものでも兎に角何でもかんでも絶滅に追い込んで仕舞う生き物なのでつまりは一番恐いものである。
お化けや宇宙人よりも何よりも兎に角人間存在自身が恐ろしいものなのである。
然しそうは言っても木製の軸の筆記具は矢張り良い。
其れは自然派にとってどうしても嵌って仕舞いそうな分野だ。
それから木製の軸の筆記具を好んで使うことが即絶滅を加速させるということでは無いと思いたい。
自然そのものを壊すのはそういうことではなしにもっと大きな加工力、科学技術的な力の方であることだろう。
♪91年オマスOMAS アメリゴ・べスップッチ木軸万年筆 http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d145993763
♪95年オマスOMAS レーニ・プレジァティ木軸(トゥヤ)万年筆 http://page16.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/u52699547
此等はなかなか素敵なオマスの木軸ですが二本とも高い。
昔オマスの丸いブライヤー軸のものを何故か売って仕舞ったので此れ等も興味津々である。
Wikipedia-香木 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%9C%A8
尚、個人的には香木の方にも興味があります。
何せ此等は仏教とは縁の深い木であるだけに昔から非常に興味がある。
以前に長野県のとある寺で白檀製の文房具のようなものを見たのだったが其れが何であったのかはすでに忘れて仕舞った。
ですが其れが素晴らしいものであったことだけは明瞭に覚えて居る。
だから前々から私は白檀や沈香の軸を使った軸の筆記具を一本は持ちたいと思って居る。
果たしてどこかの寺にでもこんなもの売っていないのかしら?
確かボールペンでは以前ネット上のどこかで売っていた筈だったのだが、今回は万年筆の方で探してみたら何と地元の店の方で売って居りました。
トモエ工房ー百壇万年筆 110101 http://tomoemoku.cart.fc2.com/ca5/8/p-r5-s/
うーむ、何やら煩悩を過度に擽られるペンである。
明知に近づく為にこのペンを購うのか、其れとも明知から遠ざかる為にこのペンを買っちまうのか、といった問いが其処に生じるが本気で買う段になれば勿論後者のこととなる。
此の百壇万年筆をもし買えば物質的欲望と共に香りという感覚的欲望も其処で成就されますます菩薩や阿羅漢、ひいては仏の心の境地からは遠ざかることだろう。
然しながら、どうしても一本はこんな香木軸が欲しいのだ。
15年くらい前から実はそう思って居た。
仏様に許しを乞い、このペンを買ってしまうかどうか、おそらく半年位は悩みそうな究極の仏教ペンである。
もっとも金具部品のところがいかにもチャチな感じではありますが。
平井木工挽物所 雲舟シリーズ プレーンキャップ てちがい紫檀 万年筆 http://www.nomado1230.net/item/6130plcfpsita/
そうこうしながら結局今回入手したのがこちらのペンでした。
そして半分眠りながら深夜に注文を入れたので何故かてちがい紫檀というモデルを買って仕舞った。
本当は紫檀の軸の方が良かったのだがこちらの方が安かったこともありついこちらを選んで仕舞った。
平井木工挽物所 http://www.oct.zaq.ne.jp/afara208/
結果的にこれらのペンはサイズと重さの方が私には合っていました。
てちがい紫檀モデルは筆記時の長さが180mmで、重さが25gでした。
其れでなかなか書き易く感じられました。
太さの方はキャップが太いと言えば太過ぎるのですが、大きくは気にならない。
其れよりも何よりも木の軸の万年筆を、其れもこうした大きな万年筆を購入したのは十年振り位のことだったので存外興奮致しました。
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1556回) ..2013/11/18(月) 22:22 No.4634 |
 |
おそらくは私に限らず物の愛好家は後になって色々後悔して居る部分もあろうかと思う。
不思議なもので其の時には分からず、後になってようやく分かって来るものと相場が決まって居るものなのである。
然し、私の場合には今、分解したセル軸の伊太利亜や中国の万年筆のニブが大活躍して呉れて居るのだから本当は後悔などしては居ないのである。
Rangaや、紫檀の軸の廉価万年筆に其れ等のニブを組み込むと全く素晴らしいペンになって仕舞うのである。
私が結局何を言いたいのかというと、結局万年筆とは手の個性だということを言いたいのだ。
それで、其の手の個性的な要求に基づいて万年筆の要件を定めると、私の場合には、長くて軽いペンが好きだ、ということに集約されて来るのである。
太さの方も本当は細い方が良いのですが、極言すれば長さと軽さということが最も大事なこととなるのである。
ところがこの要求に自らが気付いたのが今世紀に入ってからのことである。
万年筆を沢山買って居た90年代には全く其れが分からなかったのだ。
此の間に私は自分の本当の要求を知らずに合いもしない短い限定品や重い限定品を、またたとえ合うにせよ材質的にヤバいセル軸の限定品ばかりをよりによって沢山買い込んで居たのである。
ここからしても万年筆は自分の手にあくまで正直に、自分の書き方と合うペンだけを選んでいくべきである。
そして良い素材のペンを選ぶべきである。
エボナイトや竹、木などは確かに其の良い素材と言えるものなのだろう。ーただし木には色々と難しい面もまたある訳である。ー
|
|
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1560回) ..2013/11/24(日) 00:01 No.4638 |
 |
Omas Precious Wood Collection Maple Paragon Fountain Pen
http://www.bonhams.com/auctions/19242/lot/90/
Lot 90 OMAS Collezione "Legni Pregiati" (Precious Wood Collection) Limited Edition Series of Fifteen Fountain Pens US$ 7,000 - 9,000 JPY 710,000 - 910,000
以上によるとOmasのPrecious Wood CollectionはLegni Pregiati(銘木)コレクションとも呼ばれ15本のペンが入る限定版500セットで売られたこととなる。
生産年は1995年から1997年にかけてとのことだから丁度私が限定万年筆を買い集めて居た時分でこういうものが出されたということは無論のこと私自身が良く知って居たのである。
ただ、之は15本もあるのだから当然ながら高価なセットだった。
其の後2010年位までの間にバラ売りの物を十回以上見ていたことと思うが、先にも述べたように私はブライヤー軸のColomboIIを当時3本-結局手元に残ったのは2本-、他にもmomaというブライヤー軸のモデルを持って居たから結局それらに手を出さなかったのである。
バラ売りのPrecious Wood Collectionは結構値段が高く、八万、九万といった結構なお値段で売られて居たように思う。
ココボロウッド製のParagonモデルだけは何とか入手したいと思っては居ましたが何故か縁が無く今日に至って居る。
もっともココボロウッド製のParagonモデルは今でもイーベイに出て居るのだが矢張りどうしても値段の方が高い。
オマスのピストンフィラーは壊れることが多いように個人的には思われるのでもう少し安いペンでも良いように思われるのですがオマスに関しては何故かそうなっては居ない。
そうこうするうち、メイプルのバーズアイの軸のモデルがイーベイに出て居り之に応札したところ見事安く落札出来た。
そして何と四日で米国から家に届くという離れ業でもって其のペンはすでにわたくしの手元にある。
それでは此のペンを観賞しつつ評価してみよう。
http://yahoo.jp/box/QNODiy
バーズアイという杢が出て居るなかなか美しい材ですが良く見るとバーズアイの杢と縞の杢の両方が表面に浮かび上がって居る。
バーズアイの杢の入り方が均等ではなく偏って入って居るのでかなり個性的な印象を受ける軸だ。
然しメイプルの材は軽くそれなりに美しい。
矢張り木製の軸のオマスの万年筆は魅力的である。
少々意外だったのは筆記時の全長が短かったことだ。
其処で5mm程長くなるようにとりあえずしてみた。
其の状態で175mmとなる。
太さはセル軸のParagonモデルよりは太い。
加工精度は素晴らしいと言える程のものではないが悪いとも言えない。
重さは18.5gである。
従って非常に軽く感じられる筆である。
重い万年筆が好きな方には合わず、軽い万年筆が好きな方にはピッタリの実に軽い軸である。
重心位置は軸長の真ん中の辺りにあり、ということは前重心で非常に珍しいタイプだと言える。
が、私にとってはむしろこの位の方が書き易いのである。
前重心のペンは、筆記角度を高く保つということには向いて居る。
実際このペンは高筆記角度で書いていってもなかなか書き易い。
またこれだけ軽く、前重心である軸はもう少し長さがあればカリグラフィー的な書き方にも向いて居る。
されど無論のこと此のオマスの18Kニブではそんな書き方は出来ない。
だから普通に書いていくペンなのですが、筆記の方はそれだけでも結構楽しめるのだ。
http://yahoo.jp/box/2QwDFb
18Kニブの方は基本的に硬いものではあるがしなやかさも持ち合わせて居り僅かに線を変化させることも出来る。
またFニブなので細かな運筆上のテクニックを用いて美しい字を書くことも出来る。
決してフレキシブルなニブではないのだけれど、そこそこ楽しく書いていけるニブとなって居る。
http://pencluster.com/pen/omas/omas_vintage/omas-ogiva-precious-wood-collection-maple-wood/
尚こちらは同じPrecious Wood Collectionのバーズアイメイプル軸のモデルですが面取り軸ではない。
それにしてもペンクラスターでも矢張り84000円と高い値段で売られて居る。
私のバーズアイメイプル軸のパラゴンは其の半額以下。
しかも未使用品で。
ただし箱は無し。
http://www.ebay.com/bhp/omas-wood
オマスは他にも色々と木製軸のペンが出品されて居る。
高価なものが多いので収集は大変だが、こうしたものを集めていくのも悪くない万年筆趣味なのかもしれない。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1561回) ..2013/11/25(月) 23:21 No.4639 |
 |
"Legni Pregiati"のメイプル軸は相変わらずなかなか好調です。
素晴らしいバーズアイの杢の軸は実際見て居るだけで癒されます。
エボナイトの軸や金銀の軸もまた素晴らしいのだけれど、それとはまた違った自然的な魅力が其処にはあり之を握ると地球の膚のようなものに直に触れて居るような感じが致します。
ただし此の万年筆には結構分厚く透明な塗料がかけられて居て感触としては木の肌そのものの感触ではありません。
ですから其の塗料を剥がしていくという手もまたある。
が、何せ面取りの軸なので其れはかなりに難しいようだ。
また使ううちに個体的な問題点というものが出て来た。
どうもニブの固定が甘いようだ。
経年変化なのか、其れとも元々そうだったのか、兎に角ペン先の固定の具合いが緩い。
其処で迷わずニブを引き抜き、WatermanのEMBLEMのニブに付け替えてみた。http://yahoo.jp/box/cM_Qjn
いや、其処ではオリジナルの状態がどうのこうのという話ではないのです。
要は使う分のペンが自分にとって良い万年筆になって呉れれば其れで良いということに尽きる。
1.私は此の木製の多面体軸が欲しくてこのペンを買ったのである。 2.それで後にはオールドか戦前のオマスのペン先を入手して付け替える予定だった。 3.軸の方は確かに自然の風味がして良かった。問題は筆記感の甘い現代のニブの方にこそある。
ただし当初は固定の方が良ければオリジナルのニブでも充分に使っていけると判断して居た。
4.でもオリジナルのニブで固定が緩いということは、若干大きめのペン先が付けられる筈である。 5.WatermanのEMBLEMのニブはオマスのニブよりも幅広で、しかも全体的には細長い外形なのでいかにも合いそうに思えた。 6.結果的にWatermanのEMBLEMのニブはオマスのエボナイトフィードにピッタリと適合し、丁度良い感じで首軸に固定することが出来た。
ニブを替えると無論のこと筆記感はより鋭く澄んだものとなりました。
鋭いというのは、反応が良くセンシヴィリティに溢れて居るということだ。
澄むというのは、たとえば刃物で喩えると炭素鋼刃とステンレス刃の違いのようなものだろうか。
勿論切れ味の方が澄んでいるのは炭素鋼の方で、何やら切れ味に雑味が感じられるのがステンレス刃の方です。
また無論のこと戦前のニブというものはスッキリした炭素鋼の方に喩えられ、最近のニブは雑味のあるステンレス刃の方に喩えられます。
それでも90年代中頃のオマスのニブは最近のニブよりは良いように私には感じられる。
が、それでも戦前のニブのビンビンと伝わって来る反応のストレートさにはとてもかなわない。
EMBLEMのニブはおそらくは1920年代後半から1930年代にかけてのものと思われ、私がいつも使って居るフレキシブルなL.E.Watermanのニブと比べるとずっと硬い部類のものである。
然し現代のニブと比べれば本質的にはむしろ柔軟性がある方だとも言える。
其の証拠に、EMBLEMのニブで少々大袈裟に書いてみると、90年代中頃のオマスのニブよりもはるかに線を変化させることが出来る。
即ち硬くても線描が行えるという、典型的な古典のタイプのニブなのである。
之はこれまで様々な軸に付けられて来たのだったが、どうやらこれでやっと居所が定まったようである。
そして此の万年筆、全く素晴らしいのである。
ほぼ理想的な、現代の万年筆をベースとした改造万年筆である。
軸は長く軽く重心は前重心であり、ペン先は戦前の強い金ペンー多分鍛造ニブーが付けられたものである。
うーむ、どうも此の一本は私にとっての究極の一本になりそうな気さえする。
現代の万年筆に於ける究極の一本に。
尚、以下はペン先を付け替える前にColomboIIと比較した画像である。
http://yahoo.jp/box/sDlrBD
筆記時の全長を5ミリ程長くして居るにも関わらずこの様にColomboIIの方が全長が長く180mmある。
尚万年筆としてはColomboIIの方が明らかに出来が良い。
各部の仕上げなども丁寧で、そしてより長い万年筆であることもあり大変美しく見える限定万年筆である。
ちなみにもう一本のColomboIIの方の筆記時の全長もほぼ同じ長さである。
ColomboIIはブライヤー貼りの軸ながら杢の入り方も均質で大変美しく完成度の高いペンである。
最近私は此のColomboIIこそが90年代のオマスの限定万年筆のベストモデルではないかと考えるようになった。
http://yahoo.jp/box/JyDNrg
然しこうして比べてみると、"Legni Pregiati"のメイプル軸にも独特の木軸の魅力があり其の魅力はColomboIIにも匹敵し得るものであることが良く分かることかと思う。
バーズアイメイプル軸のパラゴンは矢張り非常に魅力的な現代の万年筆の軸なのである。
このように側によってはバーズアイの杢ではなく縞の杢が入って居ることが良く分かる。
其の縞の杢でも大変美しく眺めて居て飽きないものとなって居る。
そして其処に現在はWatermanのEMBLEMのニブが付けられて、私にとっての究極の万年筆に仕立て上げられて居るのである。http://yahoo.jp/box/_opA7L
さて、此のペンの吸入方式は一体何だと思われますか?
常識的に考えてピストンフィラーだと思ったら大間違いで、実はアイドロッパーとして使って居る。
其れも改造することは無しでアイドロッパーとして使って居る。
其れは何故か?
其の答え。
此の個体はたまたま首軸が簡単に回って外せたからなのである。
しかも尻軸を回してみたところ、何とも頼りないピストンの動き方で其処はいかにも古いオマスらしいところだった。
其れで即座にアイドロッパーとして使うことを決めた。
そしてアイドロッパーとして使えるオマスの場合に限り其のピストンフィラーとしての頼りなさは消し飛んで仕舞う。
アイドロッパーとして使えるオマスの場合は多分より長く使え、そして吸入に関する余計な心配事が無い分筆記により専念出来ることだろう。
従って其の点からも此のペンこそが私にとっての理想のオマス万年筆の一本なのだと言える。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1562回) ..2013/11/26(火) 23:41 No.4640 |
 |
http://www.ebay.com/itm/EXTREMELY-RARE-FANTASTIC-LIMITED-EDITION-OMAS-PRECIOUS-WOOD-PAINTED-by-Monrosty-/200991430474#ht_801wt_880
こちらは非常に面白いオマスの木製軸モデル。軸に手書きでのアートが施されている。
さて今後現代社会はますます効率性を追求し、かつ経済的な価値つまり利益を追求する社会となっていくことだろう。
実際に現在すでに一部の企業や病院では情報端末が労働者に取り付けられ、一日の行動が全部データとして取り込まれたりもして居るのだそうだ。
何の為にそんなことをして居るのかというと、煎じ詰めれば其れは企業にとってのより効率的な利潤の追求の為にそのようなことをして居るのである。
また現在現代社会は監視社会化されつつもある。
まさに様々な所に監視カメラが取り付けられ、個々人の動きが情報として保存されていく。
そしておそらくは今後もそういった社会の方向性は助長されていくことだろう。
そのうちにそうした様々な情報が個人の行動を規定する、即ちコンピューターが欲するところでの行動を人間存在が履行しなければならなくなる。
そうした究極の効率化が次々と図られ、其処で人間存在はますます窮屈に生きざるを得ずまさに人間性を疎外された社会に住していかざるを得なくなる筈だ。
現在はおそらく其の走りとしての時代にあたるのだろう。
本来人間に便利さをもたらしより楽に生きられることを目指していた筈のテクノロジーが逆に人間から人間としての尊厳を剥奪しテクノロジーの監視下に置かれるという世界が実はすぐそこのところまで来て居る。
其のような時代にあって、木製の軸の筆記具を使うことは、どう考えても其れは大きな癒しであろう筈なのである。
そう自然こそは癒しであり、自然由来の物も其の大いなる癒しの中にこそあるものだ。
ところで私は近頃自然由来の物への撞着が甚だしい。
たとえば万年筆では、あの元々はゴムである筈のエボナイトも相当に良いが其れと共に矢張り竹や木の軸への思いというものも深くある。
そうは言ってもこれまでに竹や木の軸の万年筆を重点的に集めて来た訳ではない。
其れはむしろこれから少しづつ増やしていこうかと思って居る分野なのである。
アナログである筆記具の中でも特に優しい感触のする竹や木の軸の万年筆はひとつの究極の筆記趣味の選択と呼べるものなのかもしれない。
先にも述べた如くに、常に監視され、効率に基づいて行動を規定される社会に於いて其れ等は常に逆向きの波動を人間存在に投げかけて居て呉れる筈である。
尚、木の軸の筆記具は何も万年筆だけに限ったことではない。
そういえばあの鉛筆というものはまず基本的に木製軸である。
我々が子供の頃に使って居た、懐かしいあの六角の軸や丸い軸の鉛筆が、である。
然し鉛筆を最近めっきり使わなくなった。
特に私の場合普段は鉛筆を使わず芯ホルダーの方を使って居るということもある。
軟らかい芯付きのものならば最も優しい使用感が味わえることだろう鉛筆も良いと思うのだが、何せ軸の長さが随時変わって仕舞うということが私にとっては少々問題なのである。
私の場合は筆記具に於いて筆記時の全長ということを最も大事な要件に据えて居るのである。
だから其れが余り激しく変化するものは好まない。
確かに鉛筆の筆記感は至極優しいものなのだが、使い込んでちびた鉛筆程情けないものもまたないように思われる。
だから主に芯ホルダーの方を使って来たのだったが、二、三年前だったか、イオンの文房具売り場で素敵な鉛筆をみつけて仕舞った。
其れは大人の鉛筆と名付けられた製品で、東京葛飾区の北星鉛筆株式会社が作ったものである。
が、私は其れを買わなかった。
それは値段が高過ぎるように感じられたからなのである。
それから二年程見るだけにして居て、其の度に良さそうだなと思うのだが何故か手を出さない。
けれどつい先日とうとう買って仕舞った。
良く良く見ると私の好きな二ミリ芯のホルダーだったので買わざるを得なくなりそうなったのである。
この筆記具は筆記時の全長が私の手に合う。
芯の長さをも含めると、全長が164mmとなる。
結構長めなのだが、芯ホルダーの長さとしては此の位が一番書き易い。
そして軸はあくまで鉛筆の軸のようなので細く8mm程である。
重量は10gで、特に軽いとは感じられないが結局は軽い部類の軸である。
重心位置が全長の4.5対5.5位の前重心であり軸を立てて筆記し易い。
何せ鉛筆モデルなのだからそうなって居るのかもしれない。
ノックはしっかりとした手応えでもって行え其のフィーリングも良い。
ただし此のノック部と軸の内側との遊びが大きくペンを少し振るとカタカタと鳴るところが唯一の欠点である。
然し全体として作りも良く、実に気分良く使える芯ホルダーなのだ。
そして無塗装の細い鉛筆のような軸を握るとほのかに香るインセンスシダー材の優しい感触が現代人の疲れを根本から癒して呉れる。
大人の鉛筆 http://www.kitaboshi.co.jp/home/otonanoenpitu.html
決して高級筆記具とは言えないことかとは思いますが、特に自然派の人にとっては精神上殊に有り難いホルダーとなって居る。
尚、私は無塗装の軸を選んだのだったけれど、黒や青や赤の塗装を施された軸のものもあった。
現代の筆記趣味はこうした筆記具のお陰でまさに芳しく、そして癒されるものとなって居るのだろう。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1564回) ..2013/11/30(土) 22:59 No.4642 |
 |
思うに万年筆というものは一種思い込みの激しい世界でのものでもあり、私の場合特に最近は印度のRanga万年筆に執心中であり其れで頭の中の計画通りに毎月二本づつ此のペンを集めて居る最中なのである。
此のペンは二本買っても一万円位しかかからず全く経済的なペンなので集めていくのが実に楽で楽しくもある。
其れが悪いペンかと言えばそうではなく、精度の方も充分で軸が曲がって居たりどこかが欠けて居たりするということも無い。
そうかと言って以前にも述べた通りに決して高級なペンだとは言えないことだろうが、廉価万年筆というカテゴリーで見れば之は明らかに高級廉価万年筆の部類のものなのである。
つまり私は其の部分での高級さを楽しんで居る訳なのであり、昔のように価格だけは高いといった所謂高級限定万年筆に於ける常識的、固定観念的な高級さを追い求めて居る訳では元より無いのだ。
謂わば世間に於ける高級さにはむしろ背を向けつつこうして独自の視点、観点からの高級な印度万年筆の世界を遊んで来て居るのだ。
今回語るペンはModel4とされる大振りのサイズのペンである。
http://yahoo.jp/box/AvfT2V
このサイズで黄色と黒の虎柄のペンが是非欲しかったので購入してみたものである。
然し届いたペンは非常に個性的な柄で、其れは虎の毛皮のような動物っぽさを感じさせるものではなく何やら抽象絵画のような趣でなかなか高尚な軸景色なのであった。
其れに首軸と天のところがかなりに黒い。
之はそういうモデルなのではなくたまたま私の個体がそういう風になって居たのだ。
事実首軸と天には良く見ると黄色の筋も入って居るのだが、其れが余りにも細い筋なので真っ黒に見えて仕舞うのである。
そんな訳でこの柄が結構気に入って仕舞った。
筆記時の全長は182mmで重さが36gである。
ではあるが、大きいペンなのでそんなに重くは感じられない。
こうしたペンはクリップ付きで普通の万年筆に近い、いや、普通の万年筆そのものの姿をして居る。
従って普通に扱い易い。
重心位置は全長の6.5対3.5のところにあり後ろ重心である。
此の点も普通のペンと変わらない。
ゆえにこれまで此処で登場させて来たBambooモデルやウルトラサイズモデルのような特殊性は影を潜め、至極当たり前の感じのオーヴァーサイズのペンとなって居る。
またクリップ付きなので余計に普通の万年筆という感じである。
此のクリップはおそらく軽合金製かと思われるがシンプルで非常に丈夫そうである。
見た目は余り良くないのだけれど、大メーカーの作る一見洗練されたクリップよりもおそらくはずっと長持ちすることだろう。
軸は太めで、胴軸の一番太いところで16mm位はある。
全体として太くて大きめのペンという印象だ。
http://yahoo.jp/box/jOGW-T
ペン先の方は今回Viscontiの大型18Kニブを付けてみた。
本当は14Kニブの方が良いと思われるのですが、こと書き味という面では18Kニブの方が良くなることだろう。
それで、流石に素晴らしい書き味となった。
之に限らず現代の伊太利亜の万年筆のニブの書き味は優れて居るものが多い。
だから他にもデルタやスティピュラなど、色々と付けられる金ペン先はあるものと思う。
中でもViscontiの大型18KニブとRangaのオリジナルのフィードとの相性は良いようだ。
ただしインクが満タンの時にはインクが少し出渋る傾向がある。
いや、其れは此の個体に限らずほとんどのRangaで言えることなのだ。
でもインクが容量の半分以下となると物凄くスムースにインクが流れて呉れる。
尚此のペンのインク容量はさほど大きくはない。
入るのはスポイトで二回分位だろうか。
ちなみに私の持って居る改造ペンで最もインク容量の大きなペンはRangaではなく呉竹の筆ペンの長大な軸を使った改造EDであり、其れは何とスポイトで4回分も入るのである。
其の二本の呉竹の軸にはアンコラや現代のWatermanの18Kニブが現在組み合わせてありますが、おそらくはこうしたニブもやがてはRangaの軸に付けられることとなるのだろう。
http://yahoo.jp/box/f77GQb
こちらは今回得た二本のRangaで、Model4とModel3に似たDuofoldタイプのモデル。
後者は或いはModel3そのものなのかもしれないのだが、プレミアムエボナイトモデルである。
プレミアムエボナイトモデルは若干重くなって居るのではないかと思われる。
Model3のペンは、このオレンジカラーの個体よりも若干軽く作られて居る可能性がある。
Duofoldタイプのモデルのオレンジカラーは古典の万年筆の所謂赤軸に良く似た色合いで矢張りさほど珍しい色合いではなかったのだがそれでも充分に美しい色合いの軸である。
そしてペンの形としてはこのモデルが最も普通のペンに近いものとなる。
従ってこのタイプが通常は最も扱い易いペンとなることだろう。
プレミアムエボナイトモデルで筆記時の全長が179mmで、重量が30gとなり矢張り次第に普通の万年筆の持つ数値に近づいて来て居る。
http://yahoo.jp/box/_NicSr
ペン先は今回オマスの18Kニブを付けてみましたが、細面のオマスのニブではどうしても固定が甘くなる。
その点からもヴィスコンティや英雄の大型ニブなどの方が合って居ることだろう。
ところで何故だか分からないのだけれど、私の場合Rangaの軸に付けた現代の18Kニブに対しては余り不満を感じないという不可思議なことが其処で起こり得て仕舞う。
軸の長さが基本的に私には合って居るので、ニブの方は余り細く気にならないということなのだろうか。
従ってRangaの軸にはどんな金ペンを付けても良いということになる。
とはいっても流石にL.E.WatermanやONOTOなどのペン先を付ける気にはならないから、90年代の伊太利亜物や中国物の金ペン先辺りを付けて置くのがRangaには丁度良いということも言えそうである。
|
|
|
|
投稿者: オノト (助教授/51回) ..2014/01/06(月) 03:35 No.4667 |
 |
Siriusさん、あけましておめでとうございます。1年が経つのが早いですね。昨年は、私事で恐縮ですが、入院、手術、療養と大変な1年でした。一番大変だったのは、どこで手術を受けるかということで、20年間お世話になった大学病院に紹介状を書いてもらって別の大学病院で手術を受けました。この間、かなり悩みました。昔なら、大学病院から別の大学病院へ紹介状で移るなどというのは難しいことでしたし、現在でもまだその風潮は残っています。でも、一番良い専門医に手術をしてほしいと、それだけを考えて転院しました。無事、夏に手術を受けて現在までのところ順調にきています。ただ、気力の充実ということからはほど遠く、老体に鞭を打って働いています。とはいえ、あと1年で定年になります。今、定年後どうしたらよいかを考えています。非常勤でどこかに勤めるか、老後をのんびり暮らすか。何か老けた話になってしまい、申し訳ありません。 万年筆の方は、相変わらず木軸のペンを作製したりしていますが、これで体を痛めてしまい、右肩痛がひどく眠れぬ夜がこの3か月ばかり続いています。木軸ペンは現在80本ほどになりました。何十年前の希少な木軸というのは味わい深いものがあります。 万年筆には3つの異なる意義があると思っています。(1)世界標準で価値あると認められているかどうか(資産価値)(2)万年筆としての完成度(実用的価値)(3)改造、自作の楽しみ (市場価値はないが自己満足が大きい)私の場合は(2)から入って(1)そして(3)に至りました。現在私の所有する万年筆の半数は市場価値のないもので、(1)に属する万年筆は手放していく方向にあります。それでも、(1)の万年筆がなくなってしまうことはないはずです。これが核です。核があるから周辺があってもいい。 核と周辺というのは万年筆に限ったことではなく、生活面でも言えることで、自分の核を失わないようにしないといけないと思います。周辺的なことにばかりに埋没しがちな私ではありますが。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1586回) ..2014/01/08(水) 14:27 No.4668 |
 |
オノトさん、お越しいただいて有難うございます。 オノトさんが昨年そんなに大変な状況にあったということは初耳です。今後もどうかお健やかにお過ごし下さい。 思えば私も昨年は色々とありました。 でも私の場合は今のところ結局精神の方がいつも色々と大変であったということなのかもしれません。
尚今年私は少しあっけらかんとして生きていこうかとも思って居ます。 細かい部分と大きい部分とを両立させつつ生きていくのは負担のかかることなので、細かい部分を徐々に全体化、現実領域化して、つまりはその場その場で適当に場の雰囲気に合わせて生きていく、其処であえて世の風潮にも流されてみようかといったところです。 おそらくは夏位までは社会的に大きな責任が私に任されるという訳でもなく、それで暫くの間は行けなかった美術館を巡ってみたり万年筆で遊んでみたりで適度に生活を楽しみつつ生きていられたらという感じです。 ですがその割に精神の上での飛躍、跳梁ということがどうも甚だしく、其れで相変わらずまた訳の分からないようなことを此処へ書き込んで仕舞うこともあるかとは思いますが其処は皆様良く良くご承知のことでしょうから其の部分に関しては甘んじてそうして居たいとも思って居ります。 人間には誰しも与えられて在る今という現実を成り立たせていくに値する努力を行う必要があり、其の事は無論大昔からのことではあった訳ですが近代的世界には近代的な世界としてのそうした努力を行う必要があるということなのでしょう。 ところで生老病死ということは其れが実感されるレヴェルのものとなると本当に寒気がして来るほどに大変なことです。
自分の病気などもそうですが、親の具合の悪いのや知り合いや子供の状態の悪いのや、全く因果なもので生きて居るだけで人間には様々な苦が生じてまいります。 然し其の苦と向き合っていくしかないのですね。 人間存在は常にそうしたものと闘っていく宿命のようなものを背負わされて居ます。
が、勿論そればかりではなくおもろいこと、バカバカしいようなこと、暇つぶしのようなこと、猥談、などということも実は大事である。 また自分の好きなことを追求することも、其の抜き差しならぬ生老病死の悩みを相対化することには役に立って居る。 実際古典の萬年筆を神のごとくに崇めて居るのも良いが現代の万年筆の美点を発見するとつい褒めてあげたくもなり其れは其れで良いという部分もまたある。万年筆の趣味を相対化するという意味に於いては。
尚オノトさんの万年筆のお話の方で少々驚いたのは、資産価値のある万年筆を手放されている方向性にあるということでした。 おそらく数を整理されているということなのかなと思います。 あくまで核としては残されるということなのですね。 改造、自作の万年筆の楽しみということは私も最近ようやく分かりかけて来たことで、実際観念を離れた休息、暇つぶしの意味で面白いと云えば是ほど面白い分野もなく、また真に自己の手に合う万年筆を得るという意味に於いても万年筆の趣味はココにこそ極まれりといった感じも致します。
然し万年筆を完全にパーソナライズする、すなわち自己化して仕舞うわけですから其処で確かに普遍性は失っていって仕舞う訳です。 其の自己領域の万年筆を本来ならこうした掲示板で披瀝して居ること自体が邪道でもある訳です。 そうであるとは知りながら私が細々と其の改造としての自己化の過程を書き込んで来て居るのは、結局万年筆とは個の選択でありその選択に洩れたものは普遍的価値や実用的価値でさえもが其の意味を失うということを逆説的に言いたかったからなのでもあります。
然し、其の自己化の選に洩れ使わなくなった万年筆達を普遍的価値や実用的価値に再度照らし合わせて売買することなども出来る訳です。 万年筆の自己化の領域はお金は余りかからないのですが時間的余裕と心理的余裕のあることが前提となることのようにも思います。 つまりどちらかと言えば万年筆の遍歴を一通り終えてはじめて到達することの出来るような趣味なのではないでしょうか。 普遍性や実用性ばかりには縛られない、一種自由なパーソナライズの領域が其処に拡がって居るということです。 すると、其れはあの独居詩人の領域でもある。自由気ままな万年筆独居詩人で居られるということだ。 或いは万年筆仙人の誕生ということなのだろうか。
|
|
|
|
投稿者: オノト (助教授/52回) ..2014/01/30(木) 18:07 No.4682 |
 |
Siriusさん、こちらのスレッドに書かせていただきます。いつもSiriusさんの哲学を拝読させていただいています。様々な万年筆を通して多角的な切り口で事物の本質を論じておられて、私はいつも感心しています。私は、木軸の万年筆をやっとほぼ卒業いたしました。日本文化の独特な点として木の箸を使い、ほぼ誰もが自分だけの箸というのを持っていることが挙げられます。ナイフとフォークの文化と木箸の文化の違いは本質的に相容れないカテゴリカルな違い(私は範疇的と連続的を峻別して物事を考える癖があります)です。年をとってくるにつれ、日本的な事物に対する関心が高まり、 万年筆で言えば、黒柿をはじめとする木軸に1年ほどはまりました。 移り気な私は現在、安くなったモンブランの限定品を再度集め初めています。和とは真逆の西洋的象徴とでも言えるモンブラン限定品、パトロンシリーズや作家シリーズを今こともう一度収集したいと思っています。Siriusさんに譲っていただいたメディチはさすがにまだ高値安定ですが(2本目はまだ難しいです)、Octavianなどは急激に日本市場で安くなっています(ebayではまだ高いですが)。さっそく、楽天で1本入手しましたが、感動ものでした。蒔絵に匹敵する工芸品です。そこで、あれこれウェブを調べていくと 以下のようなサイトをみつけました。 http://benlybenis.com/p-168.html Catherineが7万円程度とあまりにも安すぎで、偽物ではないかと思いましたが、そうでもなさそうです。ただし、ペン先をみてがっくり。ペン先の切割がシメトリーというか均等ではありません。さらに、ヤフー(楽天でも同時に売っている)に出ているOctavianも同様でした。 http://page12.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/p364801038 画像で判断するのは撮影角度等の要因もあって難しいのですが、まずペン先は不良品に近いものです。少しくらい切割が均等でなくても許容できますが、度を越してしまいますと不良品だと考えています。安くなっているのにはそれなりの理由があるのかもしれません。(私が入手したOctavianはまったく問題ありませんでした。画像をしっかり見て購入したからです。)私はこの切割の均等さに西洋物の万年筆を買う時はかなり気をつけています。ペリカンは特に気をつけないといけません。いろんな画像をみただけですが、モンブランもどういうわけか限定品に割合切割不具合が多いように思います。パイロットにはまず切割不具合はありません。セーラーは許容範囲内の切割不均等が時々見受けられます。切割不均等でも書き味がよければよいという人(だいたい販売員)がいますが、これを許せない気持ちというのはやはり根は日本的精神からきているのではないかと思うのですが。西洋人はもっと大まかですからね。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1597回) ..2014/01/31(金) 00:00 No.4683 |
 |
オノトさん、こんばんわ。
Octavianという魅力的な限定品を得られたこと、おめでとうございます。モンブランの限定品は流石にきっちりと作られており万年筆としては良いものが多いように私は思います。
現在私が残して居る限定品もモンブランとペリカンのものが一番多く、ついで伊太利亜物ということになるかと思いますが伊太利亜物の場合は保管中に不具合が生じる場合すらありますので早く使ってやった方がよろしいようです。
尚、モンブランの限定品で私が今興味があるものはドストエフスキーです。之は以前手放してしまいましたが私にとって手放すべきペンではありませんでした。軸が長めでそして軽いペンで、今の私にはおそらく快適に使えるペンとなることでしょう。
さて、そうは言って居りますが、実はモンブランやペリカンの限定品の処分を丁度今検討して居るところなのでした。 昨年より蒔絵万年筆の方の趣味に嵌って仕舞い、まだまだ欲しいものがあれこれとあるのです。 それでそろそろユーロボックスの方にペンを纏めて送ろうかななどとも考えて居ります。
あのメディチの未使用品の方も手放して仕舞う可能性があります。メディチの素晴らしさは重々分かって居るつもりですが、それ以上に欲しい古典の萬年筆や蒔絵萬年筆が色々とあるということなのであります。
尚、激安店には詐欺サイトがあり要注意です! 情けない話ですが私は其の罠に引っ掛かりました。 ただしオノトさんが挙げられた上記サイトがそうであるかどうかは分かりません。
結局専門店や楽天やオークションが最も安心で信頼できます。
切割りのお話は興味深く伺いました。 私の場合は切割りの不均等などは矢張り気になります。特に高額なペンについては、限定品にせよ古典のペンにせよ大きく気にして仕舞います。 使う分の廉価ペンについてはその限りではなく余り気にしてはいないのですが。
いずれにせよ未使用のアガサクリスティやオスカーワイルドなどは多分処分してしまう事となることでしょう。 オクタヴィアンはどうしようかということを実は考えて居た矢先でした。かって底値だった頃は本当に安くなって仕舞った筈でしたが、今は少々値上がりして居りませんか?
いずれにせよ万年筆の趣味も色々と変動、収集の上での方針の転換ということがつきもののようですので、いざこうと決めたらやってしまおうと思って居るところなのです。
多分そのうちに銀座へ送るんだろう、段ボール一杯の限定品をね。
|
|
|
|
投稿者: オノト (助教授/53回) ..2014/01/31(金) 02:24 No.4685 |
 |
Siriusさん、蒔絵に興味があって、モンブラン限定品を手放されるとお聞きして、明日朝早いのですが、ちょっと心配になって書き込みます。Siriusさんもご存じのように蒔絵の万年筆は吉田久齋が現代の最高の蒔絵マスターです。以前の干支の万年筆は3本久齋が手掛けていて、安価(10万円ですが)なほうで、現在市場に出ている久齋の蒔絵万年筆は余りにも高価です。他の蒔絵師、坂本、林の古株や若い蒔絵師にも上手いのがいますが、久齋にはかないません。海外の評価も概ねそうだと思います。私は将棋をさしますが、将棋の駒などはどれも同じように見えますが、作者によって値段はひとけた違ってきます。木地の良し悪しもありますが、影水という名の作者のものですと、本物は100万円くらいします。この人は若くして亡くなったので、あまり作品の数が多くなく、それに静山という影水につぐ有名な駒師がいろんな事情で影水の名を使って作品を作ったりしているものですから、この世界もややこしい世界です。錦旗とかの字型というものがあってこれを木地に掘り漆を塗るだけなのです。ですから、誰が作っても同じようになるはずですが、そういうわけにいかないんです。将棋駒の値打ちというのは名人戦に使われたりすると高くなるのですが、そのような駒をつくる駒師はほんの数人だと聞いています。カヤという盤に駒を並べてしっかりした絵図になるのは、やはり影水や静山の作った駒だからこそだそうです。将棋駒の世界が奥深く一種の危うさをもっているように、蒔絵万年筆もかなりの危うさをもっていると思います。近代蒔絵はわかりませんが、ナミキの本格的蒔絵は伝統的な「絵柄」があって、絵柄の紙を軸に巻き、絵柄をそのままなぞっているようです。私の所有の「鵜」などは昔のダンヒルナミキの頃の絵柄そのものです。いままで10本程度しか所有していませんが、それだけでも何かもう「しんどい」という気持ちが強いです。と言いつつ、楽天で蜂鳥の蒔絵万年筆が1年以上の長きにわたって売れ残っているのをみるにつけ、欲しいと思う気持ちもあったりと複雑です。ただ、その気持ちもある事件でなえました。 私の所有の唯一のダンヒルナミキは軸に割れが生じたためにパイロットに送りましたが、修理不能ということでお釈迦になったということもあり、蒔絵万年筆は怖いということをSiriusさんに申し上げたかったわけです。未使用のメディチなどはeBayではまだ天文学的値段がついています。手放してしまうと二度と入手できないのではないでしょうか。それが心配です。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1599回) ..2014/02/01(土) 23:11 No.4686 |
 |
http://www.ebay.com/itm/MONTBLANC-MONTBLANC-PATRON-OF-ART-LIMITED-EDITION-YEAR-1992-LORENZO-DE-MEDICI-/201029745600?pt=LH_DefaultDomain_186&hash=item2ece4e7bc0#ht_1426wt_1130
オノトさん、イーベイを覗いてみましたのですが確かに未使用品は八十万、九十万、百万といった物凄いお値段が付いて居りますね。また上の物は使用品でもこのお値段なのですね。 それにメディチに限っては日本の相場でガクンと下がった時にもイーベイではそんなに下がって居なかったような気も致します。 ただ、此の限定万年筆は私にとっては少し気になる部分もございます。後方重心過ぎるところとプラスチックの色合いが悪いのと硬度が低く他のモンブランの限定品のように漆黒で硬度の高いプラスチックを使って居ないことです。が、それでも限定万年筆の王様は此のメディチ限定万年筆なのだろうと思います。ペン先は現代のものとしては最高の出来のものだろうと私は思います。其れで素晴らしく美しい字が書けますですね。 私の未使用メディチは米国で販売されて居たもので其れを関西地方の方が買って来られ確か十年位前にヤフオクに出されていたものを私が落札し手に入れたものです。箱も付属品もすべて揃っていますが所謂シールド物ではありません。でもシールド物は場合によっては銀軸がひどく硫化して汚くなることがありますので注意が必要かと思われます。 尚私はかって香港で販売されたメディチの未使用品も持って居りましたが其れはヤフオクに出品し売れて仕舞いましたのです。ちなみにこのメディチは細めのFでしたが、現在の未使用のものは普通サイズのMです。今使用中のMのメディチはかって中古で手に入れたもので大きめで太いサイズ です。 非常に細かな感覚の上から述べるとそのようにメディチには大きさの個体差があるということなのです。勿論限定品のサイズとしては誤差の範囲内のことなのでしょうが、其処をあえて細かな感覚で述べるとそのように一本一本明らかに違うということです。結局未使用メディチは矢張りずっと手元に置いておきたいものです。
将棋のお話、また蒔絵万年筆のお話は興味深かったです。実は将棋の箱、あの駒を入れる箱なのでしょうか、杢のある木の箱、其れに興味があり昨年は時折ヤフオクで覗いて居りました。其の箱に万年筆を入れて保管しておきたい訳です。ところが内部の形状的に少々無理がありそうなのと、単なる箱でも物凄く値段が高いのとで結局諦め春慶塗の箱をいくつか入手してそちらに万年筆を入れて保管して居ります。
尚、蒔絵の場合は私の場合基本的に七、八万円までで買える戦前のプラチナだけを集めていこうと思っています。 ところが、つい先日、早くも失敗して仕舞いました。ヤフオクに大きな戦前のパイロットの蒔絵やVANCOの漆塗りのものが出されておりつい全部落札して仕舞いましたが、其処は矢張りパイロットには手を出さず丸善のニブ付きのプラチナの乾漆古銭モデルを落としておくべきだったのです。さらにユーロボックスにあった素敵な乾漆ではない蒔絵古銭モデルが是非欲しかったのに今日確認してみたところ何とこちらも売れてしまって居た! まあ、何たる運のめぐりの悪さよ。ようするにたまたま目にとまった蒔絵ものを懸命になって入手しどうしても欲しい蒔絵ものの方を全部逃して仕舞っていたのです! ここからも蒔絵万年筆は私にとってはどうも畑違い、専門分野ではないのかなあと思いますのですね。一体何をやっているのやらといった感じです。
オノトさん、従って私の場合蒔絵万年筆は蒔絵の作者や絵の出来にはほとんど拘らず、とりあえずは安価な使える蒔絵万年筆を一本欲しいのと、 二、三年かかっても良いから戦前のプラチナの蒔絵万年筆をあと二、三本欲しいといったところで本当に大したところのないサラリとした蒔絵万年筆趣味なのです。 ですが様々にアドヴァイスして頂き感謝して居ます。蒔絵万年筆の趣味や或いは金銀軸のヴィンテージ萬年筆などもそうなのかもしれませんのですが、奥の方へ行けば行くほど難しい部分が拡がって居るということがあるようです。私もヴィンテージ萬年筆の方では其れを少しは経験して来たことかと思いますが、蒔絵の方はまだまだこれから、というよりも私の場合はそもそうした深い世界に入りきらないところで終わって仕舞う様な限定的蒔絵万年筆趣味ではないかと思われます。
|
|
|
|
投稿者: オノト (助教授/54回) ..2014/02/25(火) 19:33 No.4704 |
 |
Siriusさん、こんばんは、オノトです。Siriusさんの蒔絵万年筆賛歌(別スレッド)が刺激になって、私がずっと気になっていた蜂鳥の蒔絵万年筆を楽天(1年以上買われずに残っていました)購入いたしました。画像でみるより実物ははるかに美しく、買ってよかったと思っています。Siriusさんのお好きなプラチナの蒔絵ではなく、私はNamikiの国光会のものが好みで、現在所有の7本はすべてNamikiパイロットの蒔絵万年筆です。そのうち吉田久斎作のものは3つもっていますが、久斎のものは躍動感があって、見事です。鳳凰もずっと入手したかったのですが、こちらは画像だけは何度かみましたが、まだ一度も実物をみたことがありません。ただ一本一本の値段が高いので、7本が限界かもしれません。 いろんな意味で対極にある木の万年筆はSiriusさんの言われる「病気の」根瘤というのが万年筆の材料としては高価とされています。(例 セーラーの屋久杉根瘤)花梨などは紅白半々出ているものが最高とされていたりと、少し病的なのかもしれません。ただし、ユーカリの根瘤の白いところは病気というわけではなく、何らかの菌によってできた「斑」とも言えるのかもしれません。根瘤はいろんな杢模様をもつのと、とても堅い(例 ブライヤー)ので、重宝されています。将棋駒箱の御蔵島桑の最高のものは根杢がきれいに出たものでとされています。黒柿に限らず、孔雀杢、虎杢、栃杢など根杢でなくても良い杢ももちろん存在しています。もはや、木の万年筆の収集、作製はやめましたが、私の結論としては、黒柿、島桑、屋久杉、ハカランダ(本物かどうかわかりませんが)がすばらしい。私の一番の好みは奇抜なスネークウッドです、ヒョウ柄にみえるものもあります。プラチナ70周年のレターウッドも入手していましたが、かなり上質のスネークウッドで、プラチナ社の当時の本気度合がよくわかりました。昨年手放してしまいました。 スネークウッドはいつひびが入ってもおかしくない代物で、保管が一番難しく厄介です。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1617回) ..2014/02/27(木) 16:08 No.4705 |
 |
オノトさん、蜂鳥の蒔絵万年筆とはNamikiの国光会のもので最近のものなのでしょうか?それとも古いものなのでしょうか。 出来たら個人的にはオノトさんの蒔絵万年筆のコレクションを是非画像で拝見してみたいところです。特に久斎作のものをです。
鳳凰は軽くてしかも華奢で私の手には合っています。でも勿体なくてまず使えないです。 其の蒔絵は何と言いますか、一種独特の高雅さを感じさせて呉れるものです。高蒔絵なのか意匠に立体性があり由緒正しき本物の蒔絵といったところでしょうか。
パイロットの津軽塗りの方はそんなに手の込んだ雰囲気のものではなく、たとえば酒井軸で言えば鎌倉彫りのような感じの実用的な意匠のものです。将来的にこちらの方は使うことも出来るのではないかと思います。
ところで丁度趣味の文具箱の最新版No.28の方でヴィンテージ蒔絵万年筆の特集が組まれて居ます。 其処にはまさに絢爛たる蒔絵の萬年筆の世界が展開されて居り、それこそ百万円を超えるお値段のパイロットやダンヒルナミキの名品が所狭しと並んで居たりもします。
然しそういうのは安月給取りの庶民にとっては矢張りどうしても高値の花となって仕舞います。 たとえ其れ等のうちの一本を幸運にも得られたにせよ其れは鑑賞して眼福を得る為にあるようなもので普段使いして蒔絵を楽しむような部類のものではないと思われます。
ところがもっとポピュラーな蒔絵万年筆であれば撫でさすりつついつも机上で実用できる楽しみがあります。 現行のものでも良いし古いものでも比較的求め易いものがあるということです。 特にプラチナの蒔絵萬年筆は今のところ戦前のものでも比較的求め易い価格設定であると言える。
また現行のものならば各社二万円台から色々と出て居りますね。ーオークション価格でー
実を申しますと、私の場合は蒔絵万年筆自体のことよりも其の蒔絵万年筆に接して居るであろう筈の現在の日本人の精神性に潜む問題の方により興味があります。 それで自らが率先して蒔絵万年筆を使うことで自分にどんな気分の変化が起きるのかということを今調べて居る最中です。 蒔絵万年筆という物質的形態の向こう側に拡がって居るのはそうした日本人としての精神的アイデンティティの問題でもあり得る訳です。
蒔絵万年筆は確かに単なる物質ではあるが花鳥風月の世界を愛し続けてきた日本人としての感性を其処にとどめ得るものでもある。 そうした感性は今後の即物的でより合理的な社会の中で鈍麻していって仕舞うのだろうか、それともしぶとく生き残っていくのだろうかという方向性を見極めたいのです。
屋久杉の杢はオークションの品の万年筆か何かで物凄いものを見た覚えがあります。個人的に屋久杉は軽い素材なので好きです。でも万年筆で凄い杢の出て居るものはたとえば個人が作成した手作り万年筆であるとか、謂わばメーカー品ではない兎に角そうしたものでなければ得られないようですね。
ハカランダは昔アコースティッ クのギターが好きだった頃に良く聞いたように思います。確かマーチンのギターとか、或いは国産の良いギターなどに屡使われて居た材ではなかったか。今や幻の部類に入る材ではないかと。 http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E3%83%8F%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80&rkf=2&aucmaxprice=999999999&thumb=1&s1=score2&o1=a&mode=1
スネークウッドのものは何も持って居りませんので一本位は是非筆記具で欲しいところです。プラチナの70のレターウッドモデルは前々から探して居りましたが近頃特に高価となりもはや入手を諦めかけて居ります。 オノトさん、プラチナの70のレターウッドモデルは通常より大きなサイズとのことですがどの位の大きさだったのでしょうか。またペン先は他のモデルと同じ大きさのものですか。 ー参考ー ジャンク扱い■プラチナ万年筆創業70周年記念 ウッド K18-K14 http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d151506399
|
|
|
|
投稿者: オノト (助教授/55回) ..2014/02/28(金) 01:17 No.4706 |
 |
Siriusさん、こんばんは。私の所有する7本の蒔絵万年筆の画像は時間を見つけて1週間後くらいに私のyahoo boxにいれておきますので、またその時お知らせします。ハミングバードの蒔絵万年筆は(確か?)2001年に出たもので、正樹という蒔絵師が作っています。吉田久斎の万年筆は干支のうさぎ、そしていのししの蒔絵、もう一本は現代的なデザインのものです。久斎以外では林勝の寅、限定のフクロウ、鵜の蒔絵で、1本を除いてすべて生物を描いた蒔絵です。(私はゴッホの絵が好きで、ロンドン、エディンバラ、パリの美術館で鑑賞してきましたが、特徴的なのは、絵の具が分厚く塗られていて、下から絵をみると絵の具がテンコ盛り状態で、こういうのは他の画家には見られません。ダビンチももちろん大好きで、こちらのほうは俗っぽいゴッホと違って、霊験おごそかで、特に、Virgin on the rockという絵はロンドンとルーブルで何度も見ましたが、こちらは見れば見るほどいい絵です。というわけで、私の場合は、なんらかの形で日本的なものを見出すというより、俗人の私の近くに何か素晴らしい芸術的なものがあるだけで心ときめく自分がまだ存在するということを確認したいだけのような気がしています。)
プラチナの70周年記念のレターウッド万年筆のサイズはほぼ149に相当するものだったと思います。ペン先は装飾は違いますが、3776と同様のサイズです。吸入方式がピストン式といいますか、独特なものでした。スネークウッドは保管が悪いと、模様が消えて薄くなりますが(ヤフーのジャンク扱い品のように)、手放したものはしっかりした模様でしたし完全動作品でした。高値になっているということを知らずに手放してしまいました。市場価値が低いのですが、同様のスネークウッドの万年筆を数本もっていたためです。ただよく考えてみると、惜しいことをしたかもしれません。メーカーがスネークウッドで万年筆を作ることはまず今後不可能です。海外のメーカーには存在していますが、それらはスネークウッドと呼ぶにはあまりに模様が薄いか名ばかりのものです。レターウッド万年筆を発売した当時のプラチナは大変な思いでこれを決意し断行したのだと思います。今後はまずこのような「利益を無視したやり方」はメーカーには無理だと思います。(通常は、何年もかかって十分涸れた木を使うのですが、最近はどうも乱獲が進んでいるようで、その意味でも木製万年筆をあまり広めるのもよくないと反省しているところです。)
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1618回) ..2014/03/01(土) 11:40 No.4707 |
 |
吉田久斎の万年筆で干支の猪というのは興味あります。私は亥年生まれなので。画像の方はどうかお手すきの折にご無理のないようお願い致します。
プラチナの70周年記念のレターウッド万年筆は何とか入手したいとは思いつつすでに二十年程が経ちましたが結局縁がありませんでした。然しその代わりに他にも色々と有りますからそちらの方で満足すべきものなのかもしれません。何せ使って居ないプラチナも多いので。
「利益を無視したやり方」というのは万年筆の世界にはかって屡存在して居たようですね。例えばパイロットのウルトラスーパーなどはオリジナルのもの、限定品のものが共にそうだったようです。
今後は逆に「利益を重視したやり方」で各メーカーがしのぎを削っていくのでしょうから、其処では必然的に面白いペンは出て来なくなることでしょう。利益を出す為には生産工程だけではなく設計思想の方も徹底的に合理化する必要があるので思想の規格化も進みたとえばリスクのある素材などは使われなくなっていくことでしょう。
でもリスクがあるから面白いということもまた一方にはある訳です。たとえば私が愛好するプラチナのペンはかなりにリスキーなのですが面白い部分もまたあるのです。
ただ、リスキーなのは未完成であるということにも通じる部分がありこれもまた実に難しいところです。万年筆が完成されていてあらゆる面でバランスが取れしかも万年筆の本質部分から離れて居ないのはたとえば80年代辺りのパイロットなのかもしれないな、などと近頃私は考えて居ます。
然し何でか分かりませんが此の頃のパイロットはインクがペン先の表面ににじみ出てくる量が多過ぎる。ー大容量コンバーターとの兼合いの問題なのかー逆にプラチナはフローが良くないのでそうしたことは起こらず安心して居られる。ープラチナは兎に角使い込んでフローをまともに保つことが大事なペンー
オノトさんがロンドン、エディンバラ、パリの美術館でゴッホの絵を鑑賞されて来たお話はとても興味深いです。自分が行けやしない世界のことをこうしてお聞きすると何だか楽しいということです。
私は絵画鑑賞が特に好きで、其れがたとえばベートーヴェンと比較してどちらがより好きかと問われると困るのですが、案外音楽を聴きにいくことは稀でー丁度一年くらい前に十年振りに行って来ましたがー其れと比べると足繁く美術館に通って居ります。
さてゴッホの内面の苦悩とベートーヴェンの内面の苦悩とではどちらがより深いものでしょう?と問われると実に困る位に彼等は悩んで実人生を送った表現者達でした。然し此の、悩む人間というのが現代社会では減って居るような気が致します。
藝術の上では実は人間が悩むと表現が深くなるのですが、悩まないか或いは悩むことを止めて違う方向を見つめて仕舞うと次第に藝術が工芸品化していきます。
詩人の誰かが詩なんか特殊な悩みを心に抱えた人のもので一般性のあるものでは決してない、とかかって言って居た筈ですがー多分吉岡 実氏がー、其の事は確かに一面では其の通りのことなのです。 ー逆に詩は万人の為のものであるということも言えます。誰もが知って居る詩、時としてふと心に浮かぶ詩のフレーズというものもあります。ー
私はそうした一般性のない悩みを深く抱えて生き其れをそのままにー正直に外部へ吐き出し苦悩を普遍化したー藝術家が一番好きなのです。
ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』は十年位前だったか、西洋の宗教画に凝ってパソコンで画像を検索して居た時に良い絵だと思い暫く壁紙に使って居たこともあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%AA%9F%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D
勿論是非本物を是非見たいところではありますが其れもかなわないのでつまるところは壁紙です。
ダ・ヴィンチの絵画では個人的に『受胎告知』が最も好きです。 http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/davinci_annunciazione_u.html 此処での大天使ガブリエルの一種謎めいた表情がひどく印象的なのです。 神の意思として神の子が地上に遣わされることへの絶対的な確信が其の表情の内にはありそうしたものが私の奉ずる仏教的世界観とはまた異質で至極強固なものだと強く気付かされたのでした。
http://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/index.html 尚、丁度此の春に愛知県美術館に少しだけゴッホの絵画が展示される予定です。無論私も出向くつもりでしたが、そんなさ中でのオノトさんのお話でした。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1656回) ..2014/04/17(木) 22:59 No.4750 |
 |
此の世には素晴らしいと言える物は確かにあります。
間違いありません。
其れはあるのです。
もっとも其れがどんなものであるのかということは人それぞれのこととなるのでしょう。
或る人には其れがクラシックなカメラであったり、上質なオーダーメードのスーツであったり、或いは絵画であったり他の何かであったりすることでしょう。
万年筆党であればたとえばとある限定品の一本であったり、または古い萬年筆の一本であったりすることでしょう。
ただし私が此処で言っているのは其れがあくまで物であるということなのです。
精神性、観念性抜きで単純に素晴らしい物質は確かにあるのだということを言って居るまでのことです。
私には其の事がつい最近分かりました。
其れで此れまでは其の事が全く分からず、此の世の中で一番素晴らしいものは物質的なものではないだろうことを頑なに信じようとして来て居ました。
然し其の事も確かに一面では其の通りのことなのだろうと今でもそう思うのです。
此の世の中で一番のものは多分家族の愛だとか、不正に立ち向かう正義感のようなものだとか、或いはたとえ人間嫌いでも動物を大変愛して居る人などがたまに居られますがー私はそうではありません。私は特に動物好きではありません。むしろ植物の方をこよなく愛する者です。ー、そうした心の美しさ、心根の優しさのことを言うのではなかろうかと、月並みではありますがそう思うのであります。
ーただし本物の仏教では家族愛などというものは本来否定されていてしかるべきものなのです。本物の仏教は所謂常識とは全く異なります。特に愛などというものは此の世に執着する最も危険な概念となる為、仏教に於いてはまず真っ先に捨て去らなければならないこととなります。また其れは物への愛についても全く其の通りのこととなります。ー
それでもだ、それでも、あったのです。
私には此の世に素晴らしい物があるということが分かったのです。
しかも其れが萬年筆だった。
其れも皆様のご期待に応えるべく探して居たという訳では金輪際なかったが何故かそうなって仕舞った。
私はこれまでに多分のべ五、六百本位は万年筆を使って来た筈です。
其の数や一般人のレヴェルから言えば勿論物凄い訳ですが、此の道の人の中では決して多くはない数であったことだろう。
其れも私の場合は使って来たペンの分野が幅広かったということが言えることかと思う。
限定品から中華万年筆まで、また五十年、百年前の古いペンからそれこそ百五十年位前のDip Penまで、兎に角ありとあらゆる分野に手を出して幅広くペンを味わって来たと言える訳なのです。
左様に私の場合ことペンに関しては其のように何故か守備範囲が広いのです。
然しながら、ま、そんな事はこの際どうでもよろしい。
ただ、今私はコレクターの方、愛好家の方々に是非問うてみたい。
貴方様はこれまでに本当の本当に素晴らしい書き味の、其の納得出来る、心底納得し得るペンと巡りあえて来て居られるのだろうか。
私は其れが無かったですね。
つい一週間位前まで其れは無かった。
私が究極の、其の究極の書き味の萬年筆に巡りあったのはつい一週間前だったのだ。
其れは私の定義で云う所謂筆記感の方が究極的に優れた萬年筆である。
しかも其れを新たに買ったのではない。
前からある萬年筆のペン先の取り付け方を変更しただけなのである。
それでは書いてみよう。
其れは以前にも語ったMASTER萬年筆と思しき古い日本の萬年筆である。
此れは其の大きなペン先が強くて柔軟である。
そして其のペン先の取り付け方を何度も何度も変更して来て居るのだ、此のペンは。
ところがつい先日完璧な筆記感をもたらすツボのようなところへペン先が嵌った。
ようやく嵌った、実に目出度い。
では書きますよ。
嗚呼、おおー、何て良い感じなんだ。
ニブの全体のしなり方と言い、線の出方と言い、其れに伴うインクの追従力の高さと言い全く素晴らしい。
完璧な一本が、其の完璧な一本が今、今わたくしの手に握られて居るのだ。
はあー、まるで夢のようだ。
夢のように素晴らしい筆記感。
これだ、これだったんだ、私が都合四十年もかけて探し求めて来た筆記感とは結局コレだったのだ。
此の萬年筆はまだまだ使える、まだまだこれからの萬年筆である。
だとすると、私はこれからもずっと此の理想の筆記感の萬年筆を使っていくことが出来る筈だ。
早死にしない限りは。
ああ、でもいい。
そんなことはもうどうでも良い。
たとえ早死にしたとしても余はこれでもう満足である。
完全に満足。百%コレでOK。
あの世におわすことだろう仏様、仏道修行が未熟な私めに最高の萬年筆をお授け下さり眞に有難う御座居ました。
ー合掌ー
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1659回) ..2014/04/22(火) 23:40 No.4753 |
 |
不思議なことに此処でこうして万年筆のことを書き続けて居るうちに私の持って居る万年筆が皆調子の良いものになっていったのだった。
万年筆について様々に批判を重ねながらふと気付くと万年筆などもう何でもよい、どれでもOKという感じになり、尚且つ何でか知らないが段々と書き易い筆ばかりになっていったのだった。
そしてそうこうしながら私は思うのだ。
矢張り褒めるばかりが能ではない筈なのだ。
何でも批判に批判を重ねてこそ其の批判の対象物が磨かれていく。
全く人生何だってそうだ。
多分仕事も恋愛も何だってそうだ。
無論のこと現代文明についてだってやっぱりそうだ。
現代文明は良いよ、楽しいよ、ではなく現代文明は悪いよ、危険だよ、という視点を私の場合は多分死ぬ迄持ち続けていくことだろう。
私の人生はそれで良いのだ。
私は昔教師になることを断念して自称詩人でいくことを自ら選んだのだからそれで良いのだ。
だから私は今後も現代文明批判を続けていくことだろう。
其れは私の性格が悪いということではなしに、現代文明自体が事実悪いのだから其れを正直に述べて居るということに過ぎないのだ。
批判ということは本当は批判されるものを貶めるために行うことではなく逆に良くするために行うことなのである。
日本人はどうもそういうことがそも分かっていなくって、批判されると即攻撃されて居ると勘違いして仕舞うものなのである。
然し日本人が自立した近代的自我を持つためには其の批判力こそが多かれ少なかれ必要となることだろう。
そして其の批判力を万年筆の世界に於いて発揮したりしても勿論良いのだ。
なぜなら万年筆の世界ばかりがいまだに幕藩体制ではそりゃチョット了見が狭過ぎるのだぜ。
でも本日は万年筆への批判ではなくして、万年筆の鑑賞を大人しくしていくことと致します。
ー多分、万年筆の話はコレを除けばあと一回だけとなる筈。其の最終話だけに。ー
http://yahoo.jp/box/5g9Cka
尚プラチナの80周年の赤壁、此の螺鈿の仕様の限定品は正確には蒔絵万年筆ではありません。 然しこうして見ると矢張り天皇即位記念の鳳凰は素晴らしい現代の蒔絵万年筆です。
http://yahoo.jp/box/klCx_G
左より、パイロット製丸善朱漆塗り、プラチナ乾漆古銭蒔絵、プラチナ尾長鳥蒔絵、プラチナ紅葉山水蒔絵といった戦前の萬年筆の数々。
尾長鳥蒔絵は小振りの萬年筆ながらまさに宝石のように美しい蒔絵萬年筆である。 此の尾長鳥蒔絵についてはまた詳細な写真を交えながらブログの方でも語ってみるつもりで居ります。 また紅葉山水蒔絵についてもそのようにしていく所存です。
http://yahoo.jp/box/HutUh5
パイロットの大型蒔絵萬年筆で本金銀浜松蒔絵とVANCO萬年筆の八雲塗りのものを二本。
http://yahoo.jp/box/MWBgeI
プラチナの乾漆古銭蒔絵の三種三本とセーラーの漆塗り萬年筆白ペン付き。
プラチナの乾漆古銭蒔絵は握った時に手が滑りにくく、それにペン先が柔軟で穂先が長い為日本語の表記に於ける線描が素晴らしく美しく出来る。
それに同じ乾漆古銭蒔絵でも様々な仕様の違いがあり集めてみるとなかなか面白い。
乾漆古銭蒔絵は重点的に集めて来たつもりだったが最近に限っても二本ばかり売り物を逃して仕舞った。
ちなみに其の筆記感などについては其れもまたブログの方で述べていく予定です。
ーただしブログの方は基本的に万年筆のことをメインに据えたブログではありません。ー
http://yahoo.jp/box/lm22SL
Waterman76とWaterman416。
L.E.Watermanで一番好きなペンが此の#416です。
#416は二本あり、一本を使って居りますが全く素晴らしい、私にとっての理想的なL.E.Watermanである。
ペン先はマイルドに柔軟で日本語を書くには丁度程良い位である。
ただし程度の良い個体は入手するのが難しい。
Waterman76も思ったよりもずっと良いペンだった。
これも使用中ですが、ガラス製の筆筒の中に専用の布袋に入れて保管してある。
Waterman76のようなスクリューキャップのEDでも屡インクの漏れが起こり得る為其のようにして居るのである。
古典のペンのEDの場合はペンを立てて置いておくのが結局一番である。
http://yahoo.jp/box/HiCqeH
今や理想の筆記感となったMASTER萬年筆。
美しい茶に変色した古き良き日本の萬年筆である。
ただし私の場合は邪道のED改造をあえて行い此のペンを使用中だ。
然しながら何遍書いても全く素晴らしい筆記感である。
然し、此のペンと甲乙付け難い筆記感を持つペンは他にあり、其れはプラチナの古銭蒔絵モデルである。
というよりも、穂先の尖った柔軟な鍛造ニブを持つ戦前かまたは戦後暫くの頃の日本の萬年筆の筆記感は基本的に皆素晴らしいものがある。
其れ等は戦前の一流海外ブランドのペン以上に日本語の本来的な表記を行い易いものだと言える。
つまり、こと日本語の表記に限れば戦前かまたは戦後暫くの頃迄の日本の萬年筆は超一流品だということになるのではないか。
また其れは軸以上に金ペンの出来が真に日本語の表記に合って居るからこそ其のようなことが言えるのである。
http://yahoo.jp/box/OEK3xs
こちらはオマケの画像のマーレンのマティス限定万年筆。
多分今最も入手が難しいとされる限定品のうちの一本だと言える筈である。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1660回) ..2014/04/25(金) 10:58 No.4754 |
 |
最終話-1
Viscontiというメーカーのペンは、実際に購入して使ってみると色々と不具合が多く発生して世界一流のペンだとはとても云えないような代物が多い。
それでもViscontiというメーカーの存在意義は戦後の万年筆の軽薄さに対するアンチテーゼであったという其の部分にこそ存して居るのである。
Viscontiのペンは、特に90年代のViscontiの限定品は、戦後のペンには感ぜられなくなっただろう妖しい万年筆としての魅力を濃厚に漂わせて居た。
私は其の魅力にこそ参り、其の危ないとされて居るViscontiの怪しいペン共と飽きもせずにこうして付き合って来たのだ。
そして其の経験は少なくとも私にとって大きいことだったのだと言える。
経験というものはプラスのことばかりでは実はダメで、むしろマイナスの経験こそが精神上のことを高めて呉れるものなのである。
其の経験なくば、私はVintage Watermanという一種究極の万年筆の世界には踏み込めなかったのだろうし、こうして萬年筆の体験を一通り済ませて高所に憩うて居るような、そんな一種達観した境地にはとても達することがなかったものと思われる。
尚最近の世相で気になるのは、そうしたマイナス面での経験をおざなりにして居るとでも言うのか、或いは所謂成果主義でテストで百点とったら其れで○、金メダルが取れれば其れで国民栄誉賞、契約が取れれば残業代も全部払うが成果無ければ残業代はタダ、などという実に外面的な、また一方通行的なグローバル的短絡思考が幅を利かせて居ることなのである。
そうではなく、此の世には苦しみということが有るのであれば、其の事に真正面から向き合って生きたかっての純文学系の作家達のような、そうした内面の苦しみ、むしろ一文の得にもならぬようなそうした人生との格闘、其の面を忘れて仕舞うからそんな一種短絡的な制度に陥って仕舞うのであり、第一其のような軽薄な制度を定める者達は純文学のことなど何も知らない輩が多いだろうから其処ではそも何も分かって居ないのである。
そうではなく、此の世には苦しみということが有るのであれば、其の事に真正面から向き合って生きたかっての宗教家のような、そうした内面の苦しみ、むしろ一文の得にもならぬような真摯な宗教の上での人生との格闘、其の面を忘れて仕舞うからそんな一種下らない制度的な退廃に陥って仕舞うのであり、第一其のような軽薄な制度を定める者達は宗教のことなど何も知らない輩が多いから其処ではそも何も分かって居ないのである。
そして大事なこととして、現在の軽薄短小の世相に対する重厚長大なかっての視点はむしろマイナス面での経験から磨かれることが多かった筈である。
人間はマイナスの面をしっかりと見、尚且つ其れを体験することにより全的に大きく成長することが出来る。
ところで何でそんな一番大事なことを教育者は子供らに教えられないのだろうか。
私が教育の世界から意図的に外れて行ったのは、確かに他にも細々とした理由はあったのだったが、大前提としてまず其の事が存して居たのである。
確かにViscontiのペンをマイナスと決め付けることには少々問題もあろうし、人生のマイナス面ばかりを見つめて行くこともまたどうかとは思うのですが、何にせよ此の世での出来事を狭い了見で価値化することには大きな無理があり、其の事をそのまま続けていけば必ずや制御不可能な大問題に発展するだろうことは想像に難くない。
事実現状が其の通りでのことになりつつあるのだ。
さて今私が一本だけ欲しいと思って居る限定万年筆があり、其れはVisconti Alhambraである。
これまでに何度も何度も入手する機会はあったのだったが結局逃して来て仕舞って居る。
ですが此のペンは多分良い。
おそらく限定品でも五本の指に入る程に良いことだろう。
確かに例の桁付きのクリップはいただけないのだし、パワーフィラーなるヴィスコンティのプランジャー式の吸入方式は信頼性がいまひとつだ。
其れでも結局此のペンは崩壊することのない朱のエボナイトの軸なのである。
さらに其処に繊細な美しいフィリグリーの装飾が施される。
其のフィリグリーは、古典のペンの意匠を模したもので見る限りはなかなか精緻なものだ。
フィリグリーの古典のペンは実際に使ってみると其の真の良さ、素晴らしさが実感として分かって来る。
フィリグリーのペンの軸は何より軽く仕上がって居て、其のほとんどがエボナイト製で素材としての本質的性質に優れて居る。
http://www.ebay.com/itm/VISCONTI-ALHAMBRA-GOLD-AND-SILVER-LIMITED-EDITION-SET-/141265810769?pt=LH_DefaultDomain_0&hash=item20e4193551#ht_637wt_1121
http://www.ebay.com/sch/Pens-Writing-Instruments-/966/i.html?_nkw=Alhambra&_armrs=1&_dmd=2&_from=R10&_ipg=&_pcats=1
ところが此のペンは今や異常なまでに値が上がって仕舞って居る。
其れは相場として上がって居るということよりも、今では極端に需要の少ない特殊な限定品であるからこそ言い値で売って仕舞い易いという部分が此の値上がりに含まれて居ると見ておいた方が良いのかもしれない。
尚私が様々な限定万年筆を使ってみて気付いたこととは、其れ等には古典のペンのような本質的なモノの良さが無く、最初のうちは満足出来るペンのように思えても、使い込むうちに次第に其の本性が顕になって来てむしろ悪くなって行って仕舞うペンが多かったということなのである。
逆に古典のペンや60年代位までの古いペンは、最初はむしろとっつきにくく理解し難い部分があるように感ぜられるものが多いのだが、其の個体に手をかけて調整していくことによりむしろかけがえのない、此の世でコレ一本だけが素晴らしいというような、そんな確信を持って真に安心しかつ満足して使えるようなペンとなっていったことなのである。
ちなみに其の事は人間でも全く同じことである。
外面的なことに多分に気を遣って居る人間、周りばかりを気にして行動して居る人間は実は底が浅く浅はかであることが多く、逆にとっつきにくいが真面目に物事を捉えて居る人間の方が真に内面性は豊かで信頼できる人間であることが多い。
そして現代の文物はすべからく前者のタイプの方へと流されて来て居る。
其の事は物に於いてもまた人に於いてもすべからくそうなのである。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1661回) ..2014/04/25(金) 22:52 No.4755 |
 |
よって現代は物事の或いは人の本質的な価値、本質的な力ということを問わないー問えないー時代となって仕舞って来て居る。
其の本質とは何かということ、其の追求自体を忘れて居るか或いは失っていったのである。ー意図的にか或いは必然的にかー
ただし元より万年筆を趣味として居るような人は基本的に自らの頭で考えることの出来るような所謂学のある方々が多い。
特に此処は一種学際的でもある掲示板でもあったので、多分私よりも知能の高い方々が屡訪れて読んで下さって居たのだろうとそう思う。
だから其処はまさに釈迦に説法だったのだったが、其れでも此の私という自称の詩人の直観に於いて得られたところでの万年筆の真相、真実と現代社会の真相、 真実ということを、あえて此処に於いて語ることには何らかの意味があった筈である。
真理方面でのことというものは、其れを捉えるのは至難の業で知能が高ければ其れでもって其れが捉えられるというものではない。
ー詩人や宗教家には大学なんて出て居なくても間違いなく詩人であり宗教家であるというタイプの方々が実際に居られることからしてもー
詩人や宗教家には元々そうした直観力のようなものが備わって居るものと思われるのですが、其のような力は認識の一般性を離れた力でもあるからして一般にはなかなか理解しがたい領域のものでもあることだろう。
さてVisconti Alhambraの方の話へと戻ろう。
Visconti Alhambraを将来的には得たいという望みが私にはある。
然しVisconti Alhambraは高価で、現実的には其れを得ることはなかなか大変である。
其処で例のVisconti Uffiziの銀製のフィリグリー装飾、之を何とか活用出来ないものかと私は考えた。
現在私の手元にはUffiziは一本も無く、あるのはただ三つのフィリグリー装飾部だけで、そのうち銀製が二つで残る一つはヴァーメイル製であ る。
銀製は新しいものと古いものがあり、新しいものはいまだにピカピカで其れはWaterman16の方に付けてある。
古いものは色んな万年筆に付けて来て居て、最近まではヴィスコンティの廉価万年筆の方に付けて居たのだが軸への固定の方が緩かった。
つまりはユルユルなのである。
実はWaterman16の方も少し緩く、どうしても装飾が軸から浮いて仕舞う。
然し其れは元々別の部品なのであるから致し方ないことなのである。
其れで其の古い方の銀製のフィリグリー装飾をStipula Sol Levanteの方に付けてみることにした。
すると、何とピッタリではないか。
正確には部分的に若干の浮きも生じるが固定が確りと出来て居るので筆記上は全く安心である。
それも、良く見ると何やらあのVisconti Alhambraに似ていなくもない訳である。
仕様的には、朱のエボナイト軸に銀製のフィリグリー装飾付きということなので同じなのである。
しかもフィリグリー装飾を被せたことによりキャップの固定位置が後ろへ移動し全長が長くなりより古典的な長さの比のペンとなった。
へへへ、また、やりましたー。
最後にまたタダで凄いペンを作って仕舞いましたー。
何故凄いペンだと言えるのか?
1.銀の装飾付きで美しい。高雅だ。 2.ペン先はNETTUNO A.C.V.14ktペン先で私がStipulaのベストニブだと考えて居るもの。http://yahoo.jp/box/BPF9E2 3.ED改造されて居り、インクフローが良く大変書き易い。
1.勿論使って居ないUffiziのヴァーメイルのフィリグリー装飾を被せることも出来た。が、何せクリップが銀製である。 2.本質的性質が素晴らしく若干ながら線描能力さえある比較的強い金ペンである。 3.クレセントフィラーを改造してED化し軸に突起物がなくなったからこそフィリグリー軸化することが出来た。
それでVisconti Alhambraを手に入れるまでは、此のペンで充分に満足して使えることが分かったのである。
ゆえに此のペンこそは今の私にとっての究極の伊太利亜物なのである。
そしてもう一本、同じ位に大事な伊太利亜物のペンがある。
其れが先にも書いて居たOmas E.E. ErcolessiにViscontiの初期型の18Kニブを取り付けた改造ペンだ。
1.何故かセルロイド軸が安定して居て変色、分解などの兆候が認められない。 2.美しいフォルムの古典的なバランスの万年筆。オマスの限定品ではまさに知る人ぞ知るペンである。 3.ピストンフィラーが意外と確りして居り今のところは全く不安なく吸入できて居る。
そんな訳で今の私にとって究極のセル軸万年筆ー現代のーが此のペンなのである。
尚Viscontiの初期型の18Kニブ-M-は全く素晴らしい筆記感をして居て若干ながら線描の能力さえもがある。
従ってオリジナルのニブの時よりずっと筆記感の良いペンに仕上がって居るのだ。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1662回) ..2014/04/25(金) 22:52 No.4756 |
 |
http://yahoo.jp/box/ppKLJp
上記の二本が、1995年辺りから伊太利亜の限定万年筆を遍歴して来て辿り着いた究極のペンであり同時に現在の私の究極の伊太利亜物に対する拘りであり深い愛着を示したものなのである。
それにしても、私と伊太利亜物のペンとの関係もいつのまにかもう二十年近くにもなったのだね。
ちなみにセル軸の万年筆については、今や普通に好んで使うペンとなって居る。
セル軸だからといって敬遠したりはして居ないということだ。
ただしセル軸は時として崩壊が早く起きる場合もあるので兎に角早く使い倒してやった方が良く、其れは戦前のセル軸のものでもまさしくその通りでのことなのである。
エボナイトの軸の安定性は常に高いものがあるが、モットルドのタイプや色エボナイトの軸の場合は時として曲がったり割れたりすることもあるからその点は気を付けておくべきである。
だから万年筆の軸で最も良いのはただの黒いエボナイトの軸のものなのである。
だから人間の方も黒いエボナイトの軸のような地味でいてしかも質実剛健でいかにも堅いような、そんなタイプの人が一番なのである。
ちなみに私自身はそうした部分も多分に持っては居るが其のタイプとは少し違って矢張り物思いにふけるのが得意なタイプだろうと思う。
あの釈迦は若い頃から物思いにふける癖があり其の事を心配した父王が早めに妻子を持たせたが結局王子は観念上の追求から離れられず理想ないしは真理を求めて俗世間を捨てたのであった。
いや私は私の性格が釈迦と同じだなんて全然言って居ないのである。
ただ精神の傾向性とでもいうのか、其の心の根の部分が似ているのではないだろうかとそう言って居るだけなのである。
性格というか人間の傾向というか、そうしたものがどうも似ているような気がしてならない。
だから私は今後も自己に出来る範囲で真摯に仏教を研究して行くつもりである。
そうしたお勉強の時には大抵は右手に古典の萬年筆を握って居ることかと思うが、其の場合に場合によっては今回の二本のペンのいずれかが握られて居ることだろう。
ー此の万年筆の物語は、次回のセーラーの分で終わりになりますが、ブログの方ではたまに万年筆を語ることもあろうかと思います。また鉱物の方も勿論語っていくつもりです。ただしブログは長く続けたとしても二、三年、或いは一年未満で終了する可能性もあります。あくまで限定的なものとして、やっていくつもりです。ー
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1666回) ..2014/04/30(水) 01:05 No.4761 |
 |
此処で私は長いこと万年筆や文明についての本質的な面のことを論じて来たのだった。
そして何にでも其の事はあり、本当の本当は何でもそちらの面のことをこそ重視して語り継いでいかれるべきなのである。
ところが現在文明はいつしかおかしな所に入り込んで仕舞って居るかのようで、まるでわざと其の本質面を外して見て居るかのように見当違いな面にばかり人々は群がり其れを延々と論じて居るばかりなのである。
私の場合はそうした本質のさらなる多元化主義というか或いは非本質主義による価値観の相対化とでもいうことをむしろ嫌うのである。
ポストモダニストであり文化相対主義者であるにも関わらず、そうした価値の多元化、または何でもアリ、例えれば誰でもが批評家であり評論家だという状態を好ましく思って居ないのである。
此のグローバル非本質主義というものは、現代社会をますます分かりにくいものにし、そして現代社会の社会的自我をますます偏狭かつ低俗なものとしていきつつあることだろう。
であるからこそ本当の本当は本質はひとつなんだ。
本質というのは学問から導き出されたところでの論理的な結論とは少し異なる、本当の本当である、物或いは物以外のものにとっての素の姿のことなのである。
さて私が近頃世界の認識方法としてより望ましいことではないかと考えて居る要素には二つがあって、其れは以下のこととなる。
1.本質を探る 2.全体を見る
というこんなにスッキリとした実に簡単なことなのである。
然しどうも此の二つの要素がリンクして居るように感じられるのだ。
即ち本質を探っていくと全体が見えて来るのであり、全体が見えて来るとまた事物の本質の方がこれ以上なく明瞭に浮かび上がって来るのである。
逆に言うと本質を抽出することが出来なければ全体の把握も出来ず、また全体を見通せなければ事物の本質もぼやけていって仕舞うということだ。
其れで現代という時代は、特に21世紀からの此の今の世の中は、どう考えてもやっぱり其のどちらも行われて居ないのではないかとの疑いが日増しに強く感じられて来ても居る。
今私に言えることは、此の世にはこうした関係性での真理の構造が確かにあって、其れはおそらくはどちらか一方が失われればもう一方も失われるということとなって居るのではなかろうかということなのだ。
尚、昔の思想、たとえばかの荘子などは非常に此の全体性での見方が強く出ていて、其処では常に思想としてのスケールが兎に角大きい。
ー荘子は当時ですら其の思考のスケールの大きいことを批判されていた位である。なぜならスケールの大きいことと大言壮語ということとは無関係ではない場合もまたあるがゆえに。ー
そしてだからこそ其処で事の本質面に照準を合わせ易かったのではないのだろうか。
其れから原始仏典の方にも矢張りそんな記述が出て来る。
原始仏典には例の「群盲象を撫ず」-「群盲象を評す」「群盲象を模す」-ということの記述が出て来る。
Wikipedia-群盲象を評す http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E7%9B%B2%E8%B1%A1%E3%82%92%E8%A9%95%E3%81%99
此処にもあるように此れは真実の多様性や誤謬に対する教訓となって居る喩えだとのことである。
つまり、実体ー本質ーが見えて居ない者が幾らあれこれと事の全体性を論じても其れは本当の全体像には重ならず誰もがもっともなような、然し実は誤った全体像を描いて居るばかりなのである。
私は現代文明の認識方法につき、ひょっとすれば其のような隘路のような所に入り込んで仕舞って居るのではないかと前々から考えて来ていたのである。
本当の本当は真実はひとつでつまり事の本質も全体の真の姿もひとつで、それなのにこんな全体の姿だったと心の盲目の人々がそれぞれに宣うのである。
しかも其れを知的レヴェルが高い人々でも平気でそうして仕舞う訳で、それだからこそ余計に人々は様々に入り組んだ全体像に惑わされ、つまるところそんな部分論に幻惑されて仕舞うのである。
然しそんな風潮に対しては此の象での喩えを使った格言がキツーいお灸のようなものとなって現代人の目を覚まして呉れるのではなかろうか。
第一此の格言は上にもあるように仏教に限らず他の多くの宗教でも語り継がれて来て居るものなのである。
其のようなものこそは、多分人類にとっての最も重要な教えである筈のものだろう。
国や宗教の垣根を越えて語り継がれて来て居るものとは其れ即ち普遍性を持った真理なのであろう。
私が此処で示していきたかったのは結局上記のようなことなのである。
たとえば万年筆の世界でもそれこそ其の個々のめいめいの意見ばかりがかまびすしいのだが、ホントのホントは、其の万年筆の真実ー本質と全体像ーはおそらくたったひとつの姿であり考え方なのであろう。
そして文明の世界の認識方法でも其れと全く同じで、ホントのホントは、其の文明の真実ー本質と全体像ーはたったひとつの姿であり考え方なのであろう。
其れで私は其の概念に基づいて此処で万年筆論と文明論を展開して来たのだった。
されど、其処まで考えて折角論を張って来たというのに、それでもまだ分からんことがひとつ残った。
難しい言葉で言えば其れは愛の不条理性のことで、或いは其れをカンタンに言えばリクツでは割り切れない現実の愛の形としての腐れ縁のことなのである。
これでもまだ何を言って居るのかサッパリ分からないことかと思いますので早速説明させて頂きます。
|
|
|
|
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1667回) ..2014/04/30(水) 01:05 No.4762 |
 |
http://yahoo.jp/box/vPU0aD
例えば此のセーラーの緑ちゃんは私が認めて居ない21金ペン先付きのもので勿論理論上は私が愛好するようなことがあってはならないものなのです。
何故なら私は万年筆の全てを観念化して捉えることにすでに成功して居り、其れで14金ペン先以外の万年筆は本当はダメなんである、との論を此処でしつこく張って来て居りました。
勿論其れは真理、つまり本質を見るということであり其の事は多くの万年筆を幅広く使うことで万年筆としての全体性の中から導き出されて来たことでもあった。
ところが此のセーラーの緑ちゃんが其の本質の世界をぶち壊し今や私の愛用の一本となって仕舞って居るのだ。
だから真理、真実と現実とは大いに違うと云うことなのだ。
現実とは本質的に自己矛盾性を自ら孕むことへの方向性が何故か大好きで其処ではどうしてもリクツでは捉えきれないことが往々にして出て来るという世界のことでもある。
そうか、そうであったか、まさにさもありなん。
されば理屈では割り切れないことなどもチョットだけなら現実に残されて居ても良いのではなかろうか。
其れで飛び切りの寛容性を発揮して私は此の筆を生涯使っていく筆とすることを決めたのであった。
ー90年代のHMの普通の21金ペン先付きモデルでセーラーの中では相当に自然な筆記感のする地味なモデルですが、軸の作りが良くかつペン先の方も良くインクフローが相変わらず良く書き易い。ただし、14金ニブ付きのもっと良い万年筆も他に沢山ある訳です。21金ペン先はあくまで私にとって良いとは思われないが90年代のものに限れば筆記感が少し渋くてなかなかよろしい、ということなのです。其れからこれからの季節にピッタリの緑色の軸が目にも鮮やかで大層美しい。左様に美しいということは人間が絶対に捨てきれないことなのでもある。ー
それでは皆様、ごきげんよう。
ーはいちゃー
|
|
|