目覚めよ!+
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1674回)
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2014/05/15(木) 22:59 No. 4769 |
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Wikipedia-秘教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E6%95%99
仏教でいう「顕教的」なものの対義語が密教つまりは秘密仏教のことである。
密教には自ずと秘儀性や神秘性が挟まれて来て居て初期仏教の教えとはまるで別物のようになっていったという経緯がある。
然し宗教を、特に仏教を体系的に学んでみる為には欠かせない分野ではある。
個人的には密教は多分にキワモノ的な仏教である感が否めないのだが、我が国では最澄や空海が中期密教を伝えて来て居るので意外と縁の深い教えともなって居るのである。
とは言っても、最澄が日本に伝えたのは中国の仏教である天台教学である。
ちなみに空海が伝えた真言密教では大日如来という一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。
対する天台宗では仏はあくまで法華経の本尊である、久遠実成の釈迦如来なのであるからつまりはお釈迦様のことなのである。
だから一応は信頼出来る。たとえ初期仏教ほどは信頼出来なくとも。
尚、浄土宗には阿弥陀如来というこれまた一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。
私の場合はそうしたスーパーなものは一切要らないから仏教の開祖としてのお釈迦様の教えだけを心から尊敬しておりますということである。
そしてそれは信仰というよりも尊敬なのである。
特に釈尊の頭脳明晰なところには心より痺れて仕舞って居ります。
Wikipedia-天台宗 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
ただし我が国に於ける天台宗、それも比叡山延暦寺の果たした役割はとても大きなものがあった。
当時の仏教の総合大学の機能としての、その仏教的叡智の総本山としての役割は矢張り尊敬に値するものなのである。
特に日本の天台宗の開祖最澄の人格は高潔かつ謙虚ないかにも思慮の深い学僧としての人柄が忍ばれるもので、私が釈迦の次に尊敬して居る僧侶がこの最澄でありまた日本の曹洞宗の開祖である道元なのである。
天台教学はもう二十年位前に少しだけ囓った覚えがありますが残念ながらそれももはやうろ覚えのものとなって仕舞って居る。
それでももう一度学んでみたいという気にさせるだけのものが其処にはあったということだけは確かなのである。
ただし今回私が述べてみたいのは仏教の話ではなく、仏教以外での秘教的な側面を持った宗教のことなのである。
たとえば十年位前のことだったか、西洋思想または宗教にグノーシス主義というものがあることを知りネット上で調べていたことがかって私にはあった。
Wikipedia-グノーシス主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
この思想または宗教は先に挙げた秘教のひとつとして数えられているものである。
ー1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。
グノーシス主義において一般的に認められるものは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界の把握の仕方、世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。
グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の 「反宇宙」論である。
宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬であるとグノーシス主義では考えた。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。 善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。 悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは「イデアー」こそは真の存在であり世界である。
善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質と云う「二元論」 が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、これが「反宇宙論」と合わさり「反宇宙的二元論」という思想になった。ー上記より引用ー
一方はグノーシス主義をキリスト教とは別個の、オリエントに起源を持つ「東方」の宗教であるとし、その非キリスト教(異教)的側面を強調する姿勢である。もう一方はグノーシス主義をキリスト教内部の異端、あるいはギリシャ哲学に影響を受けた宗教哲学の出発点としてキリスト教史のなかに位置づけようとする姿勢である。今日では、グノーシス主義をキリスト教とは別個の宗教思想であると考える立場が主流である。ー上記より引用ー
それにつけてもこの秘教的な思想ないしは宗教こそは面白いものです。
グノーシス主義においてはまず宇宙つまり物質的世界が悪だと捉えるのですがその点こそが非常に面白い。
「反宇宙的二元論」によればこの宇宙とは畢竟否定的な秩序の顕現に過ぎぬものなのだから世界を認めず受け入れないという全くの否定的な立場を取っています。
前々から私は近代という時代につき屡考えて居たのでしたが、其処でまず不思議だったのが西洋起源の思想や宗教が前向きにーつまり肯定的にー世界を捉えるものばかりであることにまず大きな違和感を感じて居たのだった。ー確かにキリスト教は必ずしも現世を前向きに捉えてはいないのだが、終末を経て民が神に救われるという点に於いてはむしろ究極的に前向きな宗教であるー
というのも古代印度思想などはそれこそ輪廻に繋がれて居る生命はみな不自由な苦しい立場にあるのだからそうした境涯を脱していくことをまず思想や宗教の目的としていた訳で、その点で仏陀となるという解脱の概念は何も仏教の専売特許であった訳ではなく他の思想や宗教も当時はみなその解脱することを究極的には望んで居たのだった。
然し例のデカルト以降、近代的な分析型の価値観というものが組みあがりしかも何だか知らないがいつのまにかこの世界は合理的に解釈でき特別に出来の良い人間の知性力でもって自然を加工していけばいつかは神にも等しい存在となれよう筈だ、我々が住まうて居るこの世はそんな人類の夢を実現するに足る素晴らしいところだ、などという妙に身勝手で思い上がったかのような一方的な世界観を形作っていって仕舞った。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1675回) ..2014/05/15(木) 22:59 No.4770 |
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つまるところ近代の思想ではグノーシス主義とは全く逆に此の世は良いところなのです。
そこは人間の力がどこまでも発揮できる所、まさに神に近づく為の階段を一歩一歩登っていくことの出来るところである。
現代人にとってそんな魅力的なところが悪かろう所である筈はない。
然し大昔にはそれとは真逆の思想が多く存在していたのである。
確かに現世を否定的に捉えているという点でこの宗教は東洋思想的です。
でもどうあろうと、兎に角大昔の思想や宗教は屡この世界を否定的に捉えていたということが私には一番引っかかる部分なのです。
そうしたものが、段々と消えていったか、或いは勢力としては弱くなりやがて秘教的な扱いを受けるようになっていった。
まあそれでもキリスト教や仏教でも本来のところは全く現実的な教えではなくまさに秘教のようなものなのでしょうが。
対してあのイスラム教の教義の方が遥かに現実的であり世俗的な世界の捉え方をしている宗教のようです。
尚キリスト教や仏教も元はそのように悪いかまたは受け入れがたい現世から救われたり脱出していくという教えなのです。
現世利益とか子孫繁栄とか人類称揚とかそうしたことを行うための教えでは根本的にない筈です。
人間はそのままではダメだから心を入れ替えて信仰せよ、或いは心を入れ替えて修行せよとはっきり宣って居ります。
然し現代人はそんな事は我関せずで毎日お金を稼いだり子供を育てたりとそんな風にあくせくとしながら生活の方をやって居ます。
きっとこの世が悪いところかもしれないという思想や宗教が意図的に社会から抹消されていったからなんでしょう。
だからもはや誰も知りません。この世がそんな悪いところかもしれないなんていうことは。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1676回) ..2014/05/17(土) 22:43 No.4771 |
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グノーシス主義とはつまりは二元論としての物質界を否定的に捉え、対しての霊或いはイデアーの世界こそが真の存在であるとして其処に到達するー物質としての存在を脱してーことを目指した思想ないしは宗教だったのだろう。
尚私はこうした立場も基本的に有りだろうと今考えて居る。
何故ならこの世界はそのままではパラダイスでなどあり得ないからなのだ。
実際いつまで経っても貧富の差は激しく社会的に人間は不平等で、特にこの近代社会に於いては人間は物質的に深く縛られているとでも言うのか、カネ、モノに対する執着が甚だしく人々は自己矛盾的なエゴイズムの世界をより深く掘り下げつつ生きて来て居るといった有様なのである。
つまり人間存在の心理特性は近代以降特に汚れに充ちたものとなりつつありアノ白蓮華の清い花などとは真逆の穢なーい毒花を咲かせて居るばかりなのである。
だからこそこうして世界中で様々に問題が引き起こされる。
そうした問題とは実は人間の心の内部から引き起こされて居る問題なのである。
其れは最終的に社会制度の問題でもなければ、経済の問題なのでもなく、ましてや政治の問題なのでもない。
つまりは人間存在の普遍的な心のあり方としての問題なのである。
そしてそれは時空を超えて常に其処に横たわって居る問題なのである。
其れを解決するために宗教という人間の全体の心の専門家である分野が遥かな過去より存在したのである。
だからこそ私は人間存在にとっての宗教の力の必要性を第一義的に捉えて来て居るのだ。
あのニーチェはかって宗教の力が形骸化した近代世界のことを所謂畜群が闊歩するニヒリズムの世界として正確に予見して居たのだ。
実際に最近はもう何が何だか分からないような心理的退廃や大きなエゴの対立が横行する世の中となって来て仕舞って居る。
それがもはやインテリ層の知的抑止力をも超えて仕舞って居り、たとえば作家や詩人であっても自己の想像の範囲を超えて仕舞うかのような現実に直面せざるを得ないこととなっているのではなかろうか。
もはやそうした一種歯止めのきかない心理的領域に現代文明は歩みつつあるのかもしれない。
丁度近代科学の生み出した自然の加工力とその加工力による諸の破壊に歯止めがかからないのと同じくして、文明社会が抱える心理的な病についてもそれにもはや歯止めをかけることはかなわないのかもしれない。
そこで、だ。
そこで私はむしろ過去の文明ー人間ーの心理的な傾向のことを調べて居るのである。
一体何がこの人間存在に是非必要であったところでの精神のタガのようなものを外して仕舞ったのだろうか?
勿論ポストモダニストとしてそのことを述べればそれは科学技術への盲信や唯物論的な世界観への盲従ということとなろうかと思う。
然しそれだけではないのだ。
それだけではなく、それ以前に、宗教的なものへの関心の無さ、つまり自己を根本的に規制するものに対する強烈な拒否反応が現代人の心根の部分に巣食って居るのである。
それは具体的に言えば自分は自由で偉いと思い込んで居る近代的な自我の意識である。
また世界はその自由で偉いー諸の権利に支えられてー己が闊歩し得る最良の自己の発現の場なのである。
今現代人は誰もがそのくらいの意識を持って毎日生活している筈である。
そうでなくば、この狂おしいまでに忙しい現代の一日を個としてこなしていくことなど出来はしないのである。
さてそれではグノーシス主義のことに戻ろう。
グノーシス主義では物質が悪いのだから世界も悪いのであって、であるからこそ精神の実在性、純粋性のようなものに立ち還ることを目指せば世界全体も良くなるとそう考えたのだろう。
なおこれは所謂観念論という哲学の領域に一種似て居るものである。
Wikipedia-観念論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96
こうした物質界を悪玉と捉えるものの見方はある意味で非常に精神的ー宗教的ーなものの見方なのだと言える。
対して近代以降のものの見方は明らかに唯物論ー非精神性ーの方に傾いて来て居る。
それを平たく言えば、モノとして或いは力として感じられるものにこそ価値があるという考え方である。
近代科学はそうしたモノまたは力の分析にばかり膨大な労力を費やして来て居る訳で、しかしながら、現代社会は其処でそのことにかまけて人間の心の方の大問題について余り考えて来なかったのではなかろうか。
ところが本当は人間の心の方の問題の方がずっと大問題なのである。
たとえばあのアインシュタインは晩年に人間の心の醜さについて屡触れるような発言をしていたそうである。
科学上の真の天才と呼ばれるような人にしても最終的にその面だけが大問題として捉えられていたというそうした話のオチなのである。
数式や物理法則は謂わば人間の心の問題には蓋をして進むことしか出来ないのである。
そして事実、今世界では国家レヴェルでのエゴの対立の問題、社会レヴェルでのエゴの対立の問題、また自然と人間存在との自己矛盾的な対立の問題などが噴出してそれこそ収拾がつかなくなって来て居る。
それらの問題の根っこに横たわるのは畢竟その人間としての心のありようの問題なのである。
だからこそ本当の本当は問題の根はひとつで、それが人間の心の醜さを如何にして浄化していくかという部分に尽きて居るのである。
尚、私が今あえてグノーシス主義のような秘教的な見方を述べて居るのは、その教義の通りに物質界は悪だからそれには余り与せず物ー肉体も含めてーを全部捨てて仕舞えなどと言って居る訳なのではない。
ただそうした考え方もかっては色々とあったということだけを述べておきたかったのである。
近代主義の発信する典型的な考え方、それはすでに我々の脳裏に深く刻まれて居り我々は一種それに洗脳されつつあるであろうことも否めないことだろう。
然し本来ならばものの考え方には大きく幅があるものなのだ。
物質的な豊かさや便利さを追求すること、或いは社会が間断なく進歩し過去を切り捨てていくこと、または人間の心の中をしかと見据えることなく外面的な作用ばかりに気を取られていること、そうした近代の常識の愚を其処に悟り知ることの為にこうした秘教的なものの見方があるのではなかろうかと今私は観ずるのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1677回) ..2014/05/17(土) 22:52 No.4772 |
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グノーシス主義的に世界を解釈すれば、宇宙の存在そのものが無知を背景にしているとされるため、宇宙には秩序も法則も存在はするが、結局のところはそれらは善き秩序や法則ではなく本質的には悪影響しか持たらさないものである。 したがって、宇宙に存在するものはすべて邪悪であり、人間の肉体もそのように悪いものである。
ただ、人間の中の霊だけが本当の意味での神とつながる存在だとされる。が、同時にその霊は宇宙という巨大な牢獄、人間の肉体という牢獄に閉じ込められているのである。
そしてこの霊を解放することこそがグノーシス主義の目標となるのである。
然しこの思想、何だか仏教にも似て居る感じが致します。
仏教は元々この世を苦の集積であると捉えて居る訳です。
人間にとっての正ではなく負の要素の集積の場です。
しかもそれは物質的にもまた精神的にもそうなのです。
だから先祖供養とか子孫繁栄なんて云うのはそれは本来の仏教の役割ではなく本来の仏教の目指すところとはそれすなわちこの苦に充ちた世界からの自分自身の脱出のことです。
ただし仏教に於いては自己の精神を磨いていくことは可能だとされて居る。
勿論肉体を律することもまた必要ではあるが、本当に大事なことは自分のものの見方を律しつつ変えていくことこそにある。
その点で神と連なることでの霊の開放を主張するグノーシス主義と精神の解放つまり明知による解脱を目指す仏教とは似て居る部分がないとは言えない。
ただし仏教では霊などというものは全く問題にして居りません。
そうした存在の有無について一切問わないというのが本来の仏教での立場なのです。
霊魂だとかあの世であるとか地獄などいう概念と戯れて居るのは後の変わって仕舞った仏教のことで釈尊はそうした意味のない戯の論議をすることを戒めて居られた程です。
尚、物質的な世界がそのままでは必ずしも良い世界ではないであろうことは何となく私には感じられないでもない部分です。
なぜなら物質は限定物に過ぎないので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
もっとも生命も限定品ですので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
だからその限定された同士で仲良く万年筆など愛でて居ることなどはたとえば可能かとは思われますが、それも畢竟精神の方が限定を離れていくにつれ物質の価値が無意味化されていき最終的には物質の意味が解体され精神にとっての意味をなさなくなることだろう。
またグノーシス主義での宇宙の存在の背景に無知あり、とする考え方なども非常に面白いですね。
仏教では衆生をそのままでは無明の生き物であると捉えて居ますが少しそれにも近いような考え方です。
要するに+思考ではない考え方ですね。
ちなみに仏教がプラスの思想だと思ったらそれは違って居て、仏教はむしろ究極のマイナス思考から入り最終的には究極のプラス思考ー思想ーに転じていく教えのことなのです。
この世は苦の集積ーマイナス思考ーだが体と心を律することで明知に至り最終的には解脱するー究極のプラス思想の完成ーということとなります。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1678回) ..2014/05/20(火) 00:59 No.4773 |
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グノーシス主義とは実に面白い思想であり宗教である。
どこが面白いのかと言えば、謂わば即物的、現実的ではないところが面白い。
対して近代という時代はその即物性や現実性がより堅固に構築された世界なのだと言える。
つまり、そこを平たく言えばカネ、モノ、チカラがものを云う時代が近代の世界観なのである。
だからどんなに立派なことを言って居てもたとえば一文無しで無一物で無名だとすると誰も振り向いては呉れない世界のことなのである。
観念力がその唯物論に負け続けて来て仕舞うとでも言うのか、兎に角そんな一種精神性を欠いた世界であることが近代の価値観の特徴なのである。
然し人は本来もっと観念力の方を大事にして居たはずではなかったか?
特に日本人ならば其の事に思い当たる節もあるのではなかろうか。
武士は食わねど高楊枝 http://kotowaza-allguide.com/hu/bushiwakuwanedo.html
ここで良い方の意味に解釈すれば、武士は精神で生きて居るので貧しさなんかにへこたれていないということである。
逆に現代人の我々はほとんど精神では生きて居ないのでたとえ貧しくはなくともあらゆる誘惑に弱くかつあらゆる逆境にすぐへこたれて仕舞う。
それは勿論この私もそう。
私は自分が武士のように高潔な魂の持ち主だなんてこれっぽっちも思って居ない。
皆様と全く同じように精神の方がもうドロドロなのである。
ただその精神がドロドロなのを一体どうしたら治せるのかなあと常日頃から思って居るだけなのである。
要するに近代という時代は理性的にスマートな世の中をつくって居るようでいて実は精神的にドロドロで低級なものばかりを追い求めていく社会を形作って来て仕舞って居る。
第一理性なんて云ったって一体何が理性なのやら、時代としての精神性が基本的に崩壊して居るというのにそもそこで何の理性だと宣うのだろうか?
そして現実的であるということは必ずしも良いことではない。
なぜなら現実ということは限定である。
対して空想的ないしは観念的であるということは非限定の方向へ進むということでもある。
現在化ー現実化ーが進むとエゴの対立がより顕在化し収拾がつかなくなる方向へと進んでいく。
そのようにエゴの対立が深まると様々な破壊が必然的に引き起こされることとなる。
エゴの解放はそのように世界の破滅をもたらすことだろう。
エゴの解放は精神性の減じた世界に於いて甚だしくなる。
よって精神性の確立こそが現代社会にとって急務のことともなろう。
さてどうもこの精神性の確立ということが近現代の思想、風潮を立て直すに最も大事なことであるように思われて来た。
無論のこと、その立て直しには宗教の力が一役買って呉れなくては大いに困る。
Wikipedia-マニ教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
グノーシス主義の流れを汲む宗教がマニ教である。
このマニ教、少し調べてみると矢張り非常に興味深く面白い。
個人的に一番面白い点は、基本的に東西融合の宗教である点だ。
上にもあるようにグノーシス主義、ユダヤ教及びキリスト教、ゾロアスター教、ミトラ教、仏教や道教などから影響を受けかつそれらを摂取、融合した思想だとされて居る。
こうした真の意味でのグローバルな宗教がかって存在して居たとはまさに驚きである。
しかも今日でも、中華人民共和国の福建省においてマニ教寺院の現存が確かめられているとあることからも消滅した宗教ではなくかろうじてではあるが現存して居る宗教である。
Wikipedia-マニ教ー東方宣教とその影響 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.9D.B1.E6.96.B9.E5.AE.A3.E6.95.99.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF こちらを具に読んでみると実に面白い。
その教義の方はグノーシス主義の影響を色濃く受けたものでかの反宇宙的二元論的なもの、さらにゾロアスター教からの影響での善悪二元論ないしはギリシア哲学に於ける二元論の流れが組み込まれて居るとされて居ります。
然し結局はこのマニ教の場合も物質の世界を忌避、否定し、対して霊的なもの、つまり精神的なもの、ないしは観念的な世界を重視することで始原の宇宙への回帰を目指しそこで救済を得ようとして居るものである。
尚、この秘教中の秘教であるとも考えられるマニ教では極端な禁欲主義がとられているという点が特に興味深い。
Wikipedia-マニ教ー教団と戒律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.95.99.E5.9B.A3.E3.81.A8.E6.88.92.E5.BE.8B
マニは悪からのがれることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定したとされているがこれはあくまで聖職者だけのことだったのだろう。
然し、仏教をはじめとして古代の宗教は必ずしも人間の繁殖を許容して居た訳ではないのである。
ーただし仏教も世俗の衆生に対して生殖を否定して居た訳ではない。あくまで僧侶ー沙門ーに対しての生殖を否定して居たのである。ー
されど近代教ーかの芥川 龍之介によればそれは生活教というものに当たるのだそうだがーに於いては人間はほぼ無制限に増えていっても良いことになって居る。
すなわち人間は自然を従えし善き存在でありやがては神にも近づいていく程の存在なのだそうである。
一体この薄汚い出来損ないの動物のどこが、この醜い心の動物のどこが神にも等しい存在であるのか私には皆目分からないのだが兎に角そういうことになって居るのだそうだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1679回) ..2014/05/20(火) 00:59 No.4774 |
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それから以上にもあるようにマニ教の聖職者は「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待され、肉食も飲酒も禁止、殺生も植物の方でさえ禁じられて居たそうである。
其処で所謂清浄で道徳的な生活を送ることが要求されて居たようである。
尚宗教というものは、本来ならばそうしたものなのである。
それは厳しいものである。
甘いものではないのである。
かってはこうした厳しいものがこの世に結構多くあった。
このマニ教の戒律のように或いは仏教の戒律の如くに、または所謂武士の魂といったもののように、色々と精神的に厳しいものが世の中にはあった。
然し、近代教はその精神的な厳しさを大事なところに於いてむしろ失くして仕舞った。
そしてまた変なところでより強力な精神的な苦しみを付与して呉れるに及んだ。
つまるところ、人間存在が精神的に自らを律するという点ではそれをほとんど全部とっぱらって仕舞った。
それなのに近代以降の人間存在は不平等や戦争や恐慌や離婚や金欠といった諸の塗炭の苦しみと縁することの頻度が増したのである。
ゆえに近代社会とは自ら大きく苦の増す方向へと舵を切った社会なのだと言える。
それも精神的に自ら進んでその舵を切ったのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1682回) ..2014/05/23(金) 13:07 No.4777 |
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この現象世界は実際観念化していこうとすれば幾らでもそうしていくことは可能な世界ではありますが、勿論そうしていくことには一種のリスキーな部分がありそうそう誰もがそうした試みの方に向いて居るだろうとは言えないのであります。
宗教や哲学、藝術の分野では屡そうした類での試みが行われて来たのではありますが、宗教にしたって一歩間違えばそれは邪教の類となってしまいがちなのでもありますし、哲学者なんてあのニーチェのように仕舞には狂人となって仕舞いますのですし、藝術に至ってはたとへば詩人や画家などは昔から飲んだくれたりした挙句に早死にして仕舞いますのですし、作家の人々は昔はその多くが自殺しちまうなどということがあった訳なのですしで、全く のところその現実解体の世界の方に与するということは一筋縄ではいかぬことのようです。
そうした精神の切岸のようなところにいつも置かれて一種の綱渡りのような観念世界を生きて居る人種が確かにこの世の中には居るということなのです。
確かに現代に於いてはそういうのはもはや流行らないのではありますが、でもその基本的な表現者の内面の構造のようなものは結局いつの時代にも変わらぬものなのかもしれない。
然し現代に於いてはそうした古典的な意味での文の分野の発展、未来ということはもう望めない段階に至って居ることなのかもしれない。
確かにそれはかなり悲観的な見方なのであろうが、どうも近頃私にはそう思われて来てならないのである。
第一、この十年間で芥川賞と直木賞の受賞者に女性が急増しているのだという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140120/bks14012008300000-n1.htm
それも前回だったかは、その受賞者の確か全員が女性作家だった筈だ。
そしてそういうのが私には面白く無い。
それは男が女に負けて悔しいということではなく、そういう風潮がすぐに文の世界にも反映されて仕舞うこと自体がいかにも節操のない軽薄な風潮であり気に入らないのである。
確かに我などはただの自称詩人で今ここでもキャンキャンと野良犬が一匹ー野良猫がー吠え続けているばかりのようなものなのである。
然し文の世界には文の世界としての威厳のようなものがもっと備わって居てしかるべきだと思うのだがそこは如何なものだろうか。
また女性の書く文が悪いなどとも思っては居ないのですが、またおそらくはそこで良く構想が練られた作品が書かれて居る筈ではあるとも思うのですが、それでも悪いけれど読む気にもならないんだなあ、それが。
尚、私は文の人ーの端くれの方に連なっているであろう人ーとしてはむしろさほど悲観的な見方をしている訳ではないことだろう。
作家の方々には私よりも悲観的な見方をして居られ文明は近く滅びると言っておられる方なども居られる。
そのことをはっきりと自分の本に書いて居られる方は居られる。
そうした意味では、どうも男性よりも女性の方がノンフィクションとしてのそうした悲劇的な結末というものを描きにくいのではなかろうか。
たとえば私は宗教詩人だからあくまで本当の本当は文明または文化の継続を望んで居るのですが、それでもどうも自らに内在する破滅性への願望とでもいうのか、或いはそれとは逆に外側の破滅を察する嗅覚が鋭すぎるとでもいうのか、兎に角そんなところばかりが研ぎ澄まされて来て仕舞って、五十年後、百年後にはもはや人類の存続が許される余地は無いなどということを強く感じ取ったりもして来て居るのである。
つまるところ、外部的または全体的な危機を察知する能力はおそらく男性の方が優れていよう筈だ。
逆に内部的な危機または個別的な危機に敏感なのが女性ではなかろうかと私は思う。
その内部的な危機というのは、私がいつも論じているような人類の精神性の問題などといった大きな問題ではなく個としての小さな危機の問題なのである。
文の世界にまで女性のその個別的危機対応力が拡がって来ているのだとすれば、要するにそれはもうこの世界全体が社会的に女性化されて来て居るということなのだろう。
しかし先程述べたように女性は内部的危機ー煎じ詰めればそれは自分の子をかばう力のことだーには敏感だが全体の危機を感じ取る能力やその危機への対応力、危機管理能力にはおそらく欠けて居ることだろう。
だから私は文明自体が女性化されているということに関して逆に危機感を抱いて来て居るのである。
文明が女性化されるということは、人間中心での生存論理が常に優先されるということでもある。
第一、一体どこの世界に人間ー自分の子ーを尊重しない母親が居るとでもいうのか。
母親は常に自分の子を最優先して育て、その子の人生の全い幸福をこそ乞い願うものだ。
然し、実はそれこそが所謂エゴイズムの問題や過保護といったことにも繋がってゆく。
厳しい言い方をすれば、或いは真理方向から言えば明らかにそうしたことにもなる。
文明自体が女性化する、つまり文明自体ー子自体ーを常に護るべきもの、かけがえのないもの、それが最後まで幸せでなければならないものとして常に進んでいくとするならば、つまりは其処では人間中心の価値観が堅固に組みあがり男性的な観察や懐疑の力ー観念的な猜疑心、或いは外面からみつめることによる自己批判力ーが弱められていくかまたは失われていって仕舞う。また全体の危機を見抜く力や危機管理の力の方も弱まっていって仕舞う。
文明を、社会を、健全な状態に整えておく為には、むしろその子ー文明ーを叱りつけ鍛えて逞しく成長させる為の男性的な原理、父性原理の確立が是非必要なのである。
現代社会は何故その部分が認識出来ないのだろうか。
女性力の拡大、或いは相対的には平等主義による男性パワーの弱体化で文明を鍛える、或いは批判する力はむしろ次第に衰えていくのである。
そのように一種狭い母性的な世界だけで生きるようになった文明の内部では様々な問題が噴出しやがては収拾がつかなくなるだろう虞が大きい。
ただし私は母性原理そのものを否定しているのではない。
そうではなく、母性原理を中心に据えて進む現代の文明社会の危険性につき述べて居るのみなのである。
尚、今回私は初めに世界を観念化して捉えることの出来る分野のことにつき述べて居る。
そうした分野では、どうも女性よりも男性の方がそうした世界自体を切り開いて来て居る様に思えてならない。
然しそれも、勿論全部が全部そうなのではない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1683回) ..2014/05/23(金) 13:07 No.4778 |
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それでも優れた宗教家や哲学者、詩人などに女性が多いかといえばそれはそうではないのである。ーもっとも昨今はその詩人にも女性が多いのだが。ー
特に宗教や哲学といったより大きく観念で捉えていく必要のある世界に於いて母性原理の役立つ領域はさほど大きくは無い。
私の言いたいことは、この世の中にはそうした大きな捉え方をしなければ見据えられない真理領域の世界があり、それは女性的なものの見方、すなわち母性原理の方だけでは捉えられ得ないということを述べて居るのである。
だからこそ今現在のように女性のパワー重視、女性の解放万歳、男女平等万歳だけではダメなんだ。
勿論そうかといってそれで芥川賞や直木賞の受賞者に男性が増える訳でもないのだろうが、ただ私はそのような大きな範囲での観念力の減退つまりは視野狭窄、人類の知恵の世界の矮小化、逆に言えばさらなる現実の現実化への加速、或いは唯物化、即物主義化することの奥にその女性原理の力が一役買っていはしないかとそのことばかりが気にかかって居るのである。
そしてそうした方向性にむしろ滅びへの予兆のようなものを感じない訳でもない。
その範囲の狭い視野の中で暖かい、柔らかい、快適なものだけに包まれ続けて居ると、何だか本質的に人間がダメになりそうな気さえもする。
そしてそのように文明が文明の母に守られ常にその子として快適に暮らし続けて来ているのではあるが、その文明の母親の外側にはもっと本当の母ちゃんが居てそれこそが宇宙であり地球である。
されど母性原理という文明の母親に過保護に育てられて来た我々には自然というその本当の母ちゃんの姿がもはや見えなくなって来て仕舞って居り、本当の兄弟ー他の生物種ーが今次々に死んでいって居るというのにそんなこと我関せずでただひたすらに個々人でのカネ、モノ、チカラの充実を、そのことの達成による個別的な満足を追い求めて生きて居るだけのことなのである。
だから滅ぶんだよ、そうした視野が狭まりエゴに囚われし文明は早晩滅ぶしか他に道はない。
ーと、とある作家の方は著書でそのようなことを述べられておりました。私自身としては滅ぶ滅びないといえば矢張り滅びることだろうがそれをなるべく先延ばしにする為には父性原理の方のことをもっと真剣に考えかつ大事にしていくべきであるということをこそ今ここに訴えておきたいのです。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1690回) ..2014/06/09(月) 23:41 No.4785 |
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NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第一回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0524/
NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第二回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0525/
今後間違いなく危機にまみえることとなるだろう文明が、現状でどんな状況にあり今後どのような方向性へ進みするとそこでどんな危惧が生じるのかということが良く分かる様に仕上げられた信頼の置ける番組である。
私は第一回の方を見逃して居り、かつオンデマンドの方でも見逃したので本日番組単体での料金を払って視聴してみたところである。
その感想などはまた後日述べることとして、現代文明の行く末に危惧を抱いて居られる方、人類の未来はどうなるのかということに深い関心をお持ちの方などに是非視聴して頂きたい番組である。
ここではまた私が現在読んでいる人口問題による文明の滅亡を論じた本の内容に関連した部分なども出て来て居る。
いずれにせよ正しい現状認識を持つという意味に於いて是非皆様にも視聴して頂きたい番組である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1695回) ..2014/06/17(火) 12:20 No.4790 |
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現代という時代の価値観は一言で云うと人間存在の持って居るもともとの精神性のようなものを解体していき、物質的な領域ー即物的な力ーやシンボル化された領域ー言語による規格化された象徴性による力ーにのみ価値観を置いて推進されたところでの非精神的な領域での世界観のことを云う。
要するに精神が其処に存在して居ない時代のことを云うのである。
純粋な意味では其れは存在して居ないのだ。
だから現代人にとっては其処でもはや精神的な領域のことなどそも何も分かって居ない、まるで分からなくなって仕舞って居るのだ。
しかも其の人間の白痴化の過程で一番怖い事は自分自身の其の精神の解体につきほとんど何も気付いて居ないということこそにある。
たとえば今現代人は誰もが物質的な豊かさを追い求めつつ日々を送って来て居る。
我我の日々の生活は物質的な豊かさを追い求めるということの為の日々の連なりとなって居る。
誰が好き好んで物質的な豊かさなど要らないとそう宣うことだろうか。
勿論誰もが豊かになりたいのでこの今という時を生きて居る。
然し物質的、即物的な豊かさというものは本来ならば人間にとって部分的な、限定的なものであるに過ぎない。
対する全体的、非限定的なものに精神的な領域というものがありコレが本来ならば人間存在の行動を規定するべきものであろう筈だ。
ところが近代以降の人間存在は其の物質的、即物的な豊かさというつまりは唯物論の世界にどっぷりと浸り其の本来の大事な領域のことをスッカリ忘れて仕舞った。
つまり、物質的な豊かさを追い求めるということにかまけて一番大事な精神の領域のことを忘れるか失うかして来て仕舞って居るのである。
其の結果、当然ながら精神の方は次第次第に貧困という状態に陥っていく。
そう物質的な豊かさを求め過ぎるとむしろ精神は貧困になっていく。
こうした当たり前の原理ないしは真理のようなものを、何故現代人は認識出来なくなって来て居るのだろうか。
ただし其れは大きく求め過ぎるとそのようになるということであるに過ぎない。
自分なりの節度を保った求め方はこの苦の多い人生を誤魔化して生きていくことの為には是非必要である。
それもあえて仏教徒的に言うならば、たとえば女や酒やクスリに溺れるのではなくちょっとしたモノやスポーツの方に熱心であることの方がずっと安全安心でよろしい。
然したとえば投資で大きく儲けようとしたり他人を出し抜いて大きく偉くなろうとしたり女房に飽き足らず妾を囲ってなんてのは其処でそも精神の持ち方の根の方が悪いので真理方向からすればそうした行動は愚かなことということになる。
人間が真に幸せになるということは、むしろ物質的な或いは精神的な欲望に於ける自己規制を如何にして上手にかけていくかという部分にこそ存して居るのである。
つまり其の自己規制をとっぱらうか或は失うかして仕舞った先には本当の幸せというものは存在し得ないものなのである。
人間が本当の意味で幸せになるということはそうした自己規制の堅固なやつをむしろ自ら進んで己に課していくということであるにほかならない。
逆に規制を無くせば豊かになれるかといえば其れはなれない。
そうかといって規制ばかりかけているような人生にも意味はない訳で、だからやっぱり仏法が諭すように両極から離れた真ん中の道を歩んでいくことを選ぶのが人間の生き方としてはより望ましい筈だ。
ー以下は以前に少しだけ書いてみたもの。ー
畢竟ー物ーとは人間の精神にとって謂わば内部存在のようなものである。
だからこそ物の領域ー自己にとっての所有物の拡張、所有物への知識の拡張、 非所有物への知識の拡張ーに深く与して生きることにはほとんど何の意味も無い。
そのようなことでは人間の精神は磨かれることも無ければ、また精神の領域が其処に拡がるということも無い。
精神が外部へ向かって成長していくことの為には、むしろ物質的、即物的な豊かさということを減じていくことのみにより其れが達成され得るのだ。
逆に精神が物質界に囚われて、或いはこの現象世界のみに囚われて、つまりは現在性、瞬間性、現実というこの一点にのみ囚われ続けて仕舞うと、精神は限りなく貧しくなっていく。
其の貧しいということは、明らかなものの見方を阻害する。
明らかなことがそれ即ち清らかなことなのであるから、貧しいということは其れ即ち穢れて居るということにも等しい。
そのように現代人の一般的認識は汚れて来て居る。
求めることが多過ぎるのでそのように汚れて来て仕舞うのである。
だからむしろ求めないことを考えていく方が良い。
まず物質的な領域に於いて。
次いで精神の領域に於いても。
もっとも精神の領域に於いて求めないということは、実はそれは可成に難しいことだ。
誰しも家族愛だの自己愛だの、そうした最終的には自己矛盾性に陥っていくだろう領域をむしろ積極的に掲げ持つことでこの現実世界を生き抜いて居る。
其れ等エゴの領域とは無関係では生きられないのが人間存在であるということなのである。
然しその自己矛盾性は、現代社会に於いてより拡大していく方向にある。
自己矛盾性を縮小していくのがひとつの良い方向性だと思われるにも関わらず、その真逆を行くのが我々現代人の精神の愚そのものなのである。
それで求めれば求める程にかえって渇望がひどくなり、次にはより高級なものやより珍しいものを求めたがることともなる。
然し私が言っているのは、そのことを止めよと言って居るのではない。
そうした節操のない欲望の解放の流れを変えた方が良くはないだろうかとそう述べて居るだけのことであるに過ぎない。
それは事実私自身がそうした道を歩んで来たからなのである。
私はかって私自身の精神の貧しさについて余りにも無知であった。
不覚にも、自身の精神の貧しさについて全く気付けないところに住して仕舞って居たのだ。
然しながらそれは私個人としての病気ではなく現代人としての病にほかならぬものでもあった。
そして其の流れを逆向きにすることで私は現代という時代を外側から見つめる眼を得た。
そのことによりその求めることへの執着の思いを逆方向へ向かわせるのである。
俯瞰視することで自己の欲望を客観化して捉える、つまり主観の対象概念として欲望を客体化するのである。
思うに人間存在とは精神性ー観念力ーと物質的な側面の融合体でありもとより純粋などちらのあり方にも与し得ないものなのである。
だから元々物質的な側面にばかり目を向けて居る必要はなくまた神様仏様のように純粋な精神性の顕現でもあり得ないものの筈である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1696回) ..2014/06/19(木) 01:37 No.4791 |
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タゴールは私が青年期に愛読して居た詩人の一人である。
他に特に好きだったのはリルケの詩だったが、それでも今思い返せば一時期はタゴールばかり読んで居たこともあったのだった。
タゴールは詩聖とされている、かってアジア人初でのノーベル文学賞をとった古の大詩人である。
ちなみに私が書く詩とひとつ共通して居るところは宗教的な概念がその詩のなかに盛り込まれて居ることである。
つまりは私も根が宗教詩人なのだからこそタゴールの詩の世界観はむしろごく自然に理解することが出来る。
だからそのあたりの思いを元に今回タゴールのことを書き連ねてみようと思った次第である。
詩集 ギタンジャリ(GITANJALI) ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore) 訳:高良とみ http://linden.main.jp/tagore/gitanjali.html
7
わたしの歌は 飾りを捨てて しまいました。 衣装や 飾りについた誇りは もうありません。 飾りものは わたし達が 一つになることを 妨げます。 それは あなたとわたしの間に 入って その響は あなたの囁きを 消してしまいます。
あなたのみ前に わたしの詩人(うたびと)の虚栄(ほこり)は はじらって消え去ります。 おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。 あなたが歌を吹き給う 葦の笛のように ただわたしの一生を 素朴な まっすぐなものに させて下さい。
8
王子さまのような衣装や 宝石のくさりを 首につけた子供は 遊びの喜びを すっかりなくしてしまいます。 一あしごとに その衣装が 邪魔をしますから。
それがすり切れてしまったり 塵に まみれることを恐れて 子供は 世の中から 離れて 動くことさえ こわがるでしょう。
母よ 飾りの束縛は 無益です。 子供を 健やかな大地の塵から しめだして みんなのくらしの中の すばらしいお祭りに 行くたのしみを うばい去ってしまうのですから。
9
愚か者よ 自分の肩の上に 自分を 運ぼうとするのか! 乞食よ 自分の戸口へ 物乞いに来るのか! 何でも 背負い切れる人の肩に お前の重荷を すっかりゆだねて 後悔して 振り返ったり なさるな。
お前の慾が 息をかけると ランプの灯は 消えてしまいます。 それはけがれているのです―― 不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません 聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。
ー上記より抜粋して引用ー
7より
あなたのみ前に わたしの詩人 (うたびと)の虚栄(ほこり)ははじらって消え去ります。 おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。
まずタゴールは例の谷川 俊太郎氏が鳥羽の連作で提示されていた大きな詩の上での問題にも当時すでに直面していたのだと考えることが出来る。それは詩人の虚栄は元来存在していないということなのだ。タゴールの言うあなたーおんみーというものは、神であり自然でもある人智を超えたもののことを云う。
そうしたものこそが本当の意味での大いなる詩人なのであり、うたびととしての自らはその前に座るべきものであるに過ぎないのである。謂わば言語の象徴性を超える言語以前の完成の世界、完璧な美の世界というものが自然界ないしは神の領域にはあり、言葉のシャーマンとしての詩人はその前にただ座してその御技を観覧しているほかはないのである。
8より
ここには、
母よ 飾りの束縛は 無益です。
とある。
王子さまのような衣装や宝石のくさりを子供に呉れてやったとしても、それで本質的に子供が楽しくなるー幸せになるーということではないんだ。自分の子供だけは金持ちにしてやりたいだとか、或は頭を良くして現代社会に貢献できる人間に仕立て上げてやりたいとかそうすぐに普通の親は考えがちなのだが人間をそういう方向性に規定して仕舞う事自体が実は愚かなことであるのかもしれない。
ちなみに我には子が居ないがもし男の子が居たら矢張り是非僧侶になって貰いたい。有難い法を頂く立派なお坊様となってこの濁世を少しでも浄化する方向へと教化していって頂きたいものだ。もっとも我が国の仏教の将来は暗いそうである。現在我が国の三割位の寺が荒廃していて、其処には住職も居らず寺が荒れ放題になって居るのだそうだ。そうなって居る理由のひとつに現代人の宗教離れということがあり、さらに宗教にはなるべく金を使いたくないという我々庶民の切実な金勘定の方の事情もある。兎に角日本の仏教の未来は暗い。が、息子がもし居たらそれでも是非仏教の世界に縁して貰いたい。いや子供が男でも女でも兎に角修行者にしていくべきであろう。
9より
お前の慾が 息をかけると ランプの灯は 消えてしまいます。 それはけがれているのです―― 不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません 聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。
何と、人間のー汚れたー欲が息をかけるとランプの灯ー真実のーが消えて仕舞うのだという。
汚れた手ー心ーでこの世の様々なものを受け取るなとも宣う。
さて、この汚れ、ということが現代の社会にとっては最も重要な意味を持つ概念なのである。
何故ならこの言葉こそは、現在現代社会にとっての死語となっている概念だからなのだ。
この汚れ、穢れということは宗教や祭祀などの世界に於いて屡言い表されて居ることばである。
然し、現代に於いてはほとんど意味不明の言葉であるに過ぎない。
勿論何となくならば現代人にも意味が分からないでもない。
然しそれでもどうも分からない。
一体何が汚れているのかということがそも分からない。
つまり現代人は自らの心の汚れに対して全く無頓着なのであり同時に汚れという概念についても全くの不感症なのである。
だから私はその様こそがおそらくは現代人の心の病であろうとそう考えて来て居るのである。
然しながら矢張りというべきか、詩聖タゴールはその点についてもはっきりと言及して居たのであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1697回) ..2014/06/19(木) 01:37 No.4792 |
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死が お前の扉を 叩く時 お前は 何をささげるのか? おお 私はそのお客の前に わたしの生命をみたした器を ささげましょう―― 決して 空手では かえしません。
わたしの秋の日と 夏の夜の 甘いぶどうのとり入れと いそがしい生涯の すべての収穫と 落穂とを その前に 並べてささげましょう。 私の生涯が終って 死がわたしの扉を 叩くとき。
91
おお お前 生の最後の完成 死よ わたしの死よ わたしに来て 囁いてくれ! わたしは来る日も 来る日も お前を待ちうけ 見張っていた お前のために 世の苦しみも 喜びも 堪えて来た。 わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。 お前の眼からくる 最後の一べつによって わたしのいのちは お前のものとなるだろう。 花は編まれ 花環は 花婿のために 用意された。 結婚の式がすめば 花嫁は家をあとにし 夜のしじまに ただ一人 花婿に逢うであろう。
ー上記より抜粋して引用ー
これらの詩句を読む限り、タゴールは死を決して忌み嫌うべきものとして捉えて居なかったことだろう。
死が訪れるとき、私の人生の上での収穫と収穫ではなかったもののそのすべてをその前に全部並べて捧げるとも語って居る。
そして何と、死の完成ーそれが即ち生の完成でもあるーのために自分はその死の為の花嫁となるとまで語られて居る。
何という度量の深い生の解釈なのだろうか。
これを読むと、生の成功の側面ばかりを追い求めて生き、そして死にはほとんど興味がなくしかし実際にそれが自らに課せられて来るとまさに怖くて怖くて仕方がないといった典型的な現代人の心理が何とも浅はかで低級で情けないものに見えてきて仕方がない。
死と自ら進んで結婚するのだという、この言葉の持つ重さと広さ、それこそが現代人の心のあり方から失われて仕舞ったところでの正常な人間としての宗教的な心性の発現なのではあるまいか。
わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は
いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。
ということはわたしにとっての生の上での+は最終的に全的な−に向かって全部秘かに流れ込んでいっていたのである。
其の事を知って居る詩人は、死つまり究極のマイナスを形作るのは生のすべての喜びの流れの必然であるゆえ決して厭いはしない、むしろ其れを積極的に完成させるために生きていく、ということだろうと思われる。
いずれにせよこの認識はもはやすでに一般性を超越して仕舞って居り限りなく聖の方に近いものであろうことは疑うべくもないところだ。
人間は心理的に深みのある体験を繰り返すとこのように一般性を離れた認識を獲得することが出来る。
そして其れは誰もが出来ることではないのだ。
死と結婚したいという程に柔軟化されかつ研ぎ澄まされた詩人の内面というものは、人間にとって無限に恐ろしい筈の死の世界をむしろ待ちわびているようでさえある。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1710回) ..2014/07/17(木) 13:42 No.4805 |
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Wikipedia-七つの大罪 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA
所謂キリスト教で云うところの罪という概念につき屡考察を進めて来て居るここ数年来の私である。
私がキリスト教に興味があるのだとすれば、まさに此の罪という概念が其処に何かしら真実を含んだものではないかと思われるのでそうして来て居るまでのことなのである。
さて、罪という概念であるが、此れは一種複雑な問題を孕む概念のことで門外漢の私には正直なかなか理解が及ばないというところもある。
だが、罪という概念自体で人間存在を括っていこうという宗教的な試みには私個人として共感出来る部分も多い。
元々仏教にも無明という概念があり、人間は生まれながらにして其の心性の方が汚れて居て世の諸々が明らかに見えて居ないとそう教えられるのである。
とは言っても、現代日本では戦後民主主義に於いて宗教教育が否定されて来たという経緯があり、また仏教も形式化、儀式化された真の意味での仏教とかけ離れたものであるに過ぎないのであるから、そんなことは此処で初めて聞きました、などと思われて居る方々も居られるのかもしれない。
要するに現代人は宗教に関しては無知で、しかも無知どころか逆に何か悪いものであるかのように思い込んで居る始末なのである。
現代では宗教絡みのテロや紛争なども屡起きて来て居るので其れが至極鬱陶しいもののように我々には捉えられて来て仕舞うのである。
然し、本当の本当は宗教自体が問題なのではなく、其のように宗教が何か悪いものでもあるかのように感じられて仕舞う時代に至って仕舞ったこと自体がむしろ一番ヤバいことなのである。
しかも其のヤバさを、精神の上での不感症に陥りつつある現代社会の大衆は自覚することが出来ない。
勿論宗教を熱心にやって居られる方々は私の周りにも常に居られる。
そうした方々は確かに真面目な人々も多く、あくまで一般的には物事の捉え方の方も真剣である。
そうかと云って其の真剣さ、真摯さが様々な宗教上の対立を引き起こすことにもなりかねない訳でそうした部分が大衆的見地からすれば不必要であるということにもなろうかと思う。
然しながら、それでも私は訴えたい。
宗教を生活から遠退けて生きて居る現代人ほどキケンなものは実は無い。
むしろそちらの方こそが最も危険な精神の上での状態なのである。
なんとなれば現代社会の奉ずる人類の物質的な進歩や経済的な成功は本当の本当に大事な価値なのではない。
其処に浸り切って仕舞うからこそむしろ本当のもの、真の豊かさが見えて来ないのだ。
また其の事は、現代人がたとえば死という本源的な価値の発現を自らに得た時におそらくはすべてが分かって来ることなのであろう。
然し、凡人は哀しいかな、生きて居るうちには其の真の様が全く見えて来ないものなのである。
もっとも私も其の哀しい凡人ながら、其処でさらに哀しいかな、色々と考えるところが多い精神の性質なので物事をあっちから見たりこっちから見たりということだけは生きながらにして出来て居るのかもしれない。
四世紀、八つの「枢要罪」ー「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」
『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』日本語版(2010年)
日本語 ラテン語 英語[4] 傲慢 superbia pride 物欲(貪欲) avaritia avarice ねたみ(嫉妬) invidia envy 憤怒 ira wrath 貪食 gula gluttony 色欲(肉欲) luxuria lust 怠惰 pigritia seu acedia sloth or acedia
1925年10月22日 「七つの社会的罪」(Seven Social Sins) マハトマ・ガンディー 理念なき政治 (Politics without Principle) 労働なき富 (Wealth without Work) 良心なき快楽 (Pleasure without Conscience) 人格なき学識 (Knowledge without Character) 道徳なき商業 (Commerce without Morality) 人間性なき科学 (Science without Humanity) 献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)
2008年3月、ローマ教皇庁 ー遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒 以上、Wikipedia-七つの大罪より抜粋して引用
さて、いずれにせよ罪ということは此の世に在ると考えて置いた方がより良いであろう気が私はして居る。
そして宗教というものは其の罪の内容を大枠で規定していくものである。
ただし、其れは其の罪の内容を文学的、哲学的に捉え直していくものではないのである。
ゆえに宗教とは其のようなあくまで具体的、現実的な価値ではなかろうかと私は捉えて居る。
其の点では宗教は藝術とは一種対立する世界のことで、其の本質とは精神の規定なのである。
藝術は其のような規範の存在の縛りからの、精神の不自由さからの脱出をむしろはかっていくものであろうが、あくまで宗教はそうした創造的な自由な価値に重きを置くのではなくして、縛りとしての大元での精神の規定に終始する。
宗教は其のように一種不自由なものだが、其の限定性の中にこそ良い部分があるものなのである。
だから本当は何でも自由というのではダメなんである。
何故なら人間存在は本質的に限定されし存在で、其の本質的諸価値の顕現はやがては必ず自分の身にふりかかって来る。
人間は誰しも其の限定性から逃れようとしても何処にも逃げられないのである。
そういうのが人間存在の本質的問題である。
其の本質的な問題につき考え、かつ語るのが宗教の根本の意義なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1711回) ..2014/07/17(木) 13:43 No.4806 |
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さて、上にも挙げられている貪食、色欲、物欲、などということは全く現代人の典型的な生きる上での価値の体現なのであります。
全く何でこんな低級な方の欲の成就の為に我々は振り回されて居なければならないのでしょうか。
よしんば其れ等の欲を捨てたにせよ、たとえば「憂鬱」とか「憤怒」とか「怠惰」とか「傲慢」というものにこの私の場合などは特に引っかかって来て居るようです。
つまり現代人はどんな性質の人でも宗教の提示するところでの根本の罪のようなものに必ずや抵触して仕舞うものなのである。
ならばどのように自分を治す、つまり自己を整えて諸の欲を抑え込んでいけるのであろうか。
いや、そりゃ、ま、無理なことでしょうな。
現代社会とは貪食、色欲、物欲の三毒欲でもってむしろ円滑に回されて来て居るであろう世界なのですぜ。
一方あのマハトマ・ガンディーの思想は東洋の叡智の体現であると考えられなくもない訳です。
ガンディーは仏教徒ではなくジャイナ教徒であったが、印度の宗教ないしは思想には共通項が多々有り根は同じものと考えることも出来る。
其のガンディーがかって規定したところでの「七つの社会的罪」を見てみたところまさにビックリだ。
其処で曰く、理念なき政治、労働なき富 、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰 、とある。
最後の献身なき信仰という部分は一応除外しておくとして、他の6つは現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であると言っても良いことだろう。
さらに2008年3月にローマ教皇庁が発表したとされる以下の罪についても同じようにビックリした。
ー遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒ー
無論のこと是等も現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であるということは間違いないことだろう。
だから遺伝子を勝手に弄ることは罪、環境を汚したり軽視したりすることも罪、一方で過度に金持ちで他方には貧困を生んで居るようなことも罪、脱法ハーブを吸ってラリって居ることなどは勿論罪、こんな風に貴方も私も皆罪の中、現代人は勝手に罪の激流のただ中を流されていきます。
罪の自覚も無く、ドロドロの欲の海の中に浸り続け、気付いてみたらもはやボロボロだ。
さて一体何がボロボロなのでしょうか。
其れは我々の精神こそがもうボロボロなのですよ。
カトリックだって、仏教だって、こんな風に其の人間の罪のあり方こそを問題として捉えて来て居る訳でしょう。
だから其処ではもはや何教や何派だという問題ではないのだ。
すでに現代社会の罪に対する自覚自体が失われて来て居るのである。
其の様を正確に見通し、批判するのが文学の役割であり、其の誤った様を正し精神を大元で規定していくことこそが宗教の役割であると私は述べて来て居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1728回) ..2014/08/08(金) 23:42 No.4823 |
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理研の笹井氏は大変優秀な研究者で再生医療における日本最高の研究者の一人であったとされて居る。 其の優秀な自然科学者の一人が何故死を選ばなければならなかったのだろうか。
思うに死を選ぶということは、其れは内面の否定であり同時に外面の否定でもあることなのである。
おそらく厳密には此の両者の面を否定していかない限り自殺という行為は完遂出来ないものではないかと観念的にはそう考えられるのではあるが、現実には人間は感情生物でもあり得る訳でそんな小難しいことを考えて居たりはせずにただ辛いから死ぬ、苦しいからこの世から逃 れたい、という其の一心から決行されて仕舞うものなのだろう。
然し観念的にはあくまでそういう風に捉えられるものであるから、むしろ其のように論理的、哲学的に死を概念として規定して置いた方が安易に死を選ぶことが少なくなりある意味其れが抑止力となることだろう。
感情的にはもう今すぐにでも死んで仕舞いたいと思って居るのだとしても、概念的な部分、観念領域のことがまだ働いて居るのだとすれば、其処で少し考えるだけで自ら死を選ぶことを回避出来る筈だ。
何故なら観念的に内面と外面のどちらも否定して仕舞いたいという心理をした人間が存在して居るだろう可能性はかなりに低くなることだろう。
普通人は私は自分の内面は好きだがー認められるがー他人としてのアイツの腐った根性が嫌いなのだ、とか、矢張り自分の心は好きだが社会の心性の方が悪くて大変気分が悪い、というように自分自身の心を否定するところまではなかなか至れないものなのである。
また其の逆もあり得ないことではないのかもしれない。
其処では外側は正しく良いものであり、自らの内側は全くダメなものだと思い込んで居るのかもしれない。
特に現代人の場合は自我意識がより大きくはっきりして来て居る手前、そうして自分を頑なに信じ込んで居る様は決して悪いことではなかろうと個人的に私は考えて来て居るのである。
其れは自分を信じ込んでいなければ明日という日を生きてゆくことさえままならぬのが現代という厳しい時代の掟のようにも見受けられるからなのである。
勿論真理の領域に於いては、近代的自我というものは幻想に過ぎないものなのであり、従って其のような幻想に与して生きていくほかはない我我庶民は近代的自我に飼い慣らされた家畜、畜群として其の幻想の枠組みの中をただ流されて行くばかりなのである。
然し近代的な自我というものは結構自殺の予防策として役に立つ部分もあるのかもしれないなと今はそう思う。
最終的に自分を捨てることがなくばたとえ乞食になったとしても人は生きていけるのではないだろうか。
いや、其れは物質的な側面の話では無く観念的、精神的な領域での自殺の予防の話をして居るのである。
自殺は何より自己否定欲の成就に繋がるから本当はそれも欲望の否定ではなくマイナスの欲望の肯定のことであるにほかならない。
其れで其のようなプロセスでもってこの世から逃れていったにせよ、欲望を滅したことにはならず従って死した者の心が死後に聖なる心の段階へ至るということでは決して無い。
だから結局損なのである。
何が損かというと、真理への探求のプロセスを自らの手で断ち切って仕舞うという意味に於ける損なのである。
死んだら終わりでもはや女にも触れないのだし美味いものも食えずでまたウンコやオシッコももう出ない。
然しそういうのを損だとは、観念領域の方ではそう考えない。
あくまで真理への道が閉ざされて仕舞うという意味での観念的な断絶を自ら選んで仕舞う事が死のマイナス面でのことなのである。
だから笹井氏も結局は其の真理への道を自ら閉ざしたという点に於いて其れは明らかなマイナスであり悲劇であったことだろう。
尚現代科学に於ける真理ということと、宗教や思想に於ける真理という概念には本質的な違いがあることを此処で考えておかねばなるまい。
現代科学に於ける真理とは、基本的に倫理観や道義心などとは関係の無いところで展開されるだろう物的な関係性、物理的な法則性により規定されし唯物論のことなのであるし、宗教に於ける真理とはそうした唯物的な流れとは一線を画した精神世界の流れのうちから汲み取られた精神性のことなのである。
従って現代科学、特に自然科学には基本的に心が無く科学的な成果が其処に認められるのであれば其れでよしとされるのであるが、宗教に於ける真理とはそのような即物的、無機的な成果のようなものとは全く異なりむしろ精神の領域の方から発せられていく普遍的真実のことなのである。
だから宗教とは其のように精神界、つまりは心のあり方の方をまず問題とすることだろう、何より其れをまず第一義的に捉えなければならない分野のことなのである。
其れが我我大衆は戦後民主主義の世に於いて宗教を正しく学ぶことなく大人になり其の精神の大世界のことに関しては全くの無知だったのである。
其れで庶民の多くは科学技術には大きな価値があり宗教はインチキで怖くて何されるものか分からないなどと思い込んで居る始末なのだが、サテ、今回のようなこの結末を我我はどう捉えて置いたら良いのであろうか。
私が前々から語って来て居る様に科学技術ないしは科学技術による人類の発展などということにはさして大きな価値があるということではない。
現在の文明にとって、或は人類の前途にとって最も必要なこととは内面の充実のことであり其れは精神の世界というより大きな非即物的な世界に与することでしか得られないものなのである。
細胞を、其の神が与えし完璧な秩序にあえて挑み人知による改変、組み換えを行うこと、其の諸々の欲望のうちでも最も抑制に欠けた生命に対する冒涜、倫理観の欠如に対して我我庶民は何故こんなに平気な顔をして其の大罪を見逃して来て居るのだろうか。
勿論誰が悪いという段になれば科学者個人が悪いわけでもなく近代科学という一見人類の生み出した叡智の結集の場のように見えるが実はドロドロの欲得感情で動く世界、確かに中には客観的な真理を追求する真摯な研究者も大勢居られることかと思われるが、そうした理念的な世界とは別に存在する有象無象の世界、金と名誉と保身の為にだけ動いて居ることだろう世界こそが其の我々が信奉して来たところでの科学技術の世界の実態なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1729回) ..2014/08/08(金) 23:42 No.4824 |
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尚、死ということは個として別に選んでも構わないことなのである。
どういうことかと云うと、例えば原始仏教では必ずしも自殺することをすべて否定して居た訳ではなかったということなのである。
ただし其れは先に述べたような真理に対する可能性を閉ざすという意味に於いて大きな損失なのではある。
だが当初の仏教に於いては自殺の全部をダメだと云って居た訳ではなかったのである。
今日のように自殺が全部ダメだと云う事になったのは宗教にこの世をより良く生かす教えという側面が強調されていった後代に於いておそらくそうなっていったのではないだろうか。
然しあくまでやむを得ない場合には釈尊自身が門下の自殺者を認め丁重に葬ってやるようにという具体的な指示さえ出されて居たのである。
多くの宗教では自殺を禁じて居るものが多い中で、初期の仏教では逆に生に執着することが甚だしい場合のことを最も非難し、また其の逆に生に執着することが無い行為については自殺をも含めてそれほど非難したりはして居ないのである。
左様、仏教では生きたいと強く願い諸々の生の場面に精力的であることこそが逆にいけないこととなるのである。
だから本当の仏教では女に触るのもダメ、此の世に子供を残すのはさらにダメ、飲酒を含めた暴飲暴食も勿論ダメ、金を沢山稼ぐのも当然にダメ、物に多く囲まれてニンマリとして居ることなども無論のことダメ、まあ我我の常識からすれば現代の常識として形作られる行動のほとんど全部がダメということとなる。
此の点からも分かる様に、現代社会に於ける我我の常識というものは案外いい加減なものなので其処を個々人のレヴェルで良く吟味、精査した上で誤りを是非正して置かなくてはならない。
尚個人的に理研の笹井氏の自殺はやむを得ない部分もあったのではないかと感じて居る。
彼は自然科学の増長振り、脳天気振り、心無き様の部分にむしろ殺されていったのではなかったろうか。
本当に頭の良い人は不器用でもあり、また誤魔化しも効かず、すべてに一途で理念、理想に生きて居ることが多い。
彼は確かに打たれ弱かったと言えるのだけれど、これまで本当に頑張って科学者としてのエリート人生を歩んで来たのだ。
ゆえにどうも仏法の上からも彼の自殺は非難されるべきものではないような気がしてならない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1730回) ..2014/08/10(日) 23:47 No.4825 |
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科学技術が生み出す快適さや便利さの中にずっとひたり続けて居るとどうも人間存在自体がおかしな方向性に向かって飼育されていくのではないだろうかというのが今の私の考えなのである。
然しもしそうではあっても実際には近代以降の人間存在は皆知的水準が高く科学技術の言いなりの人はなかなか存在しないものなのだが、それでも必然として近代以降の人が創った制度、枠組みの中で所謂予測されるべき未来をのみ我我は日々生きていかざるを得ない。
そういうのは必然として脳内願望に沿った未来の実現という構図からは逃れられず、また其の度合いが進んでいけば其の脳内願望の中に人間存在自体が全的に閉じ込められて仕舞う事にもなりかねない。
近代以降の価値観とは畢竟そうした人間存在自身の欲望の実現のことであり、其れは何よりまず自己中心的な欲望の解放であり、同時に唯物論を据えて進む非精神的な即物領域の拡大のことである。
たとえ其のような世の中でも、現代人にはしっかりと心の面はあるのだから全然大丈夫でむしろお前のように時代錯誤な精神論のようなものを振りかざして居るような奴の方が頭がおかしいのだ、第一俺は科学技術の力の方は信じて居るがたとえば科学の思想などというものにはまるで興味が無い。
などと結構多くの人がそう思い込んで居るのではないかと思われるのですが矢張りそりゃ少しおかしいのだぜ。
だからそも其処で科学の思想が分からないのに何で科学技術の発展、進歩の方については信じられるのでしょうか?
他方で科学が進んでも唯物論的にこの世界が規定される訳ではなく、実際には多くの人が心の豊かさ、精神性の方での充実を求めて居るが仕方が無いので其れに従って居るまでだ、という説もネット上には散見されますがどうも其れも私にとっては言い逃れのような気がしないでもない。
何に対しての言い逃れかと云えば己の批判精神の欠如に対するか或は精神性自体の欠落をむしろ正当化する為の言い逃れなのである。
実際現在私の周りには私以外に現代文明ないしは現代科学技術文明を批判して居る人などは居らず、彼らの頭の中では現代文明ないしは現代科学技術文明の行く末などは大きな問題だとは言えず、むしろそれよりも今日の自分、明日の自分、また今日の家族、明日の家族、さらに今日の仕事場、明日の仕事場位までのことしか考えられないのが我我庶民の実際の姿である。
そうした近代生活教の信者で居ることが現代人にとっては一番楽なことでもあるのでそうして居るまでのことなのである。
然し昔から現実に堕してー妥協してー生きるか、それとも理想に殉じて死するか、という選択肢が往々にして人間存在、わけても知識人の中には存在して居た筈だったのである。
また科学が進んでも科学思想の方の理解は全く進んで居らず、其処ではただ単に科学技術が生んださまざまな製品と技術の価値のみを現代人は信奉して居るのだという説もある。
が、果たして人間存在とはそんなに器用に立ち回れるものなのだろうか。
私はむしろ其の一貫性の無さ、現代人が科学に対して観念的に疑義を抱くことに対する諦めの気持ちの部分にこそ現代人の精神性の希薄さをそして精神の衰退の様を感じて仕舞うのである。
だから唯物論的な世界観の浸透により現代人の精神性は限りなく薄められて来て居るのではないかと考えて来て居るのである。
其れがそも薄いから、科学精神、科学思想といったことに対しては興味が無いが自分の生活に直接影響を齎す科学技術の成果の方には結構な関心があるのだ。
と同時に科学とは対極の世界にある宗教に対してもほとんど関心が無い。
だから上記の言い訳はなかなか成り立たず、本当の本当は別に皆が心の豊かさ、精神性の方での充実を求めて居る訳ではなく多少の疑いが生ずるにしてもあくまで便利で快適な生活の方がずっと楽だから其れでも良いと思って居るに過ぎないのだろう。
そして其のようにしてある種器用でもある我我大衆はいつの間にか科学が提供するところでの真の唯物論的な傾向の中に組み入れられていくのである。
どういうことかと云うと、其れは精神性の解体ということである。
もし人間存在の精神性そのものが解体されつつあるのだとすれば、其処に於いてまず自己中心的な諸の傾向が社会問題として噴出して来ることだろうし、同時に宗教など精神に対するより大きな規範の部分に対する無関心ということが顕著に見られるようになる。
さらに倫理観や道徳観の欠如、刹那的に享楽を求める傾向の増大、思考の幼稚化、陳腐化という傾向も其処に読み取れるようになって来ることだろう。
其れ等の傾向はひょっとすれば社会の現状を上手く言い表して居るのではないだろうか?
其れも世界的にと云うよりはこの日本国に於いてそうした傾向が強く現れ出て来て居るような気がしてならない。ー国によっては宗教が規定するところでの精神性に大きく寄りかかって居る場合もありー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1731回) ..2014/08/10(日) 23:48 No.4826 |
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尚最近私は良く思うのだけれど、例えばTVのCMが物凄く陳腐ないしは下品なものに感じられて仕方が無いのである。
それで職場で大学の先輩に、昔のCMは少なくとももう少し上品だった筈だがそこのところはどう思う?などと良く尋ねたりして居るところなのである。
何と言うか、要するにモノを売りたいという意識がストレート過ぎかつ内容と音とがうるさ過ぎてCMが皆至極下品なのである。
確かにごくたまに文学的だとでもいうか情緒的だというか視て居て心が落ち着くような良いCMもまたあるのだ。
然しほとんどが其の業界でのNo.1の実績を誇示してみたり、またまさに売らんかなの精神で面白おかしく広告をこねくり回して居るのでそうしたものを視て居るだけで実に鬱陶しく其れ等を視せられることでいかにも無駄な時間を其処に費やしているように思われて来る。
私は昨今のCMの陳腐化、下劣化は即現代人の心の中身の陳腐化、下劣化とリンクして居るのではないかなどとすぐに勘ぐって仕舞うのですが其れは流石に少し考え過ぎなのかもしれない。
いずれにせよ、問題は私が少し考えてみたところでの現代人に於ける精神性の解体ということが果たして現実に進んでいることなのだろうかという部分にある。
近代以降の時代を貫く合理主義概念、唯物論の世界観に振り回されいつしか我我は人間の精神の基礎的なあり方、精神のあり方の基本のようなものを忘れかけて仕舞って居るのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1737回) ..2014/08/23(土) 00:28 No.4832 |
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現代の人間存在も今後は天災や食糧危機や様々な危機、諸制度の破綻を被るであろう方向を向いて歩んで居るのであるから私も其れに付き合ってゴルフ浪漫や万年筆浪漫のことを語るのは近く終わりにしてもっと本質的な問題をネット上に暫くの間語って電脳空間からは潔く左様ならするつもりである。
人間というものは元々限定されし存在なので其の儘では其処に永続的なもの、実体的なものは無く同時に其れは普遍化することも出来ずで、要するにそれは闇の中に閉じ込められし迷える魂を持って出て来て居るだけの存在なのである。
かってナーガールジュナは以下のように述べたそうである。
「実体とは、自立・不変・永続的なものである、と。実体は他のものに依存しない、つまり、縁起しないで、それ自体のみで存在するものであり(自立的)、あくまでも自己同一性を保っていて、変化しないものであり(不変)、生じることもなく滅することもなく、永久に存在するもの(永続)である。」
然し私はこの文言を知って居た訳ではなく自分で自分なりの存在論を考えてみた後に初めて知ったのである。
即ち、実体というものは<在るもの>であり、非実体的なものとは<無いもの>である。
そして実体というものは他とは関わらずそれだけで存在するものであるからむしろ無いものー存在としてはーである。
ゆえに実体と考えられて来て居るもの程本当は無いものであり、一見無いものに見えるような非存在的なものこそが実体なのである。
其処をかって私は、観念性と結びつけて捉えてみた訳である。
観念性の極致こそが其の無いものに見えるような非存在的な実体なのではないだろうか。
いや、仏法では悟りへ至るために観念性さえをも捨て去るなどとも屡云われて居るので其れは悟りそのものではないのでしょうが、其処を哲学的に構築化すれば矢張りどうしてもそうしたこととなる。
私の考えでは<在るもの>としての実体性は実は無いものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居ないもののことである。
逆に<無いもの>としての非実体性は実は在るものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居るもののことである。
つまるところ、存在して居るもの、この世での諸の現象は実はすべからく<無いもの>の方のことである。
よってそういう不確かで虚妄なものに拘って生きて居ることこそが自己矛盾性により深く囚われていくこととなるのだ。
一方実体としての存在して居ないものの方では其れは<在るもの>として存在するだけなのであるから物質的な現象とは無縁で実は何も考えて居ないんだな、これが。
其の観念化の極点に於いてもはや何も考える必要が無くなって居るのかもしれないんだな、これが。
で、私がまたいきなりややこしいことを述べて居るのは、どうも昨今の気候の滅茶苦茶振りからしても文明というものはそんなに長くは持たないのではないかと思えて来たので是非こうしたややこしいことも述べておかなくてはならないのである。
文明というものは一面で人間の心理の集積であり、人間としての全体の心理の向かうところでのものだ。
其れが最大公約数的に向かうべきところが決められて居たりするものである。
然し、おそらくは其れが間違って居たのであろう。
我々のような存在化されし凡夫は存在化されない実体的なものを<無いもの>と思い込み、逆に存在化されし非実体的なものを<在るもの>だと思い込んで来て居る。
しかも其れを何と数千年にも亘り続けて来て居る。
だからこそ其の倒錯の思想の果てに近代という心無き時代、精神無き世紀を迎えなくてはならなくなったのだ。
そして其の結果が今であり、そしてこれからなのである。
無論のことこれからもドンドン雨は降って来る、鉄人のオモチャをつい盗んで仕舞う五十代の男さえもが出て来る、でもまあ其の位はまだ序の口で、私の予測では五十年後の将来はまさに地獄の様である。
存在化されない永続性のあるものこそが、実体的なものである。
対して存在化されし限定的なものは、非実体的なものであるに過ぎない。
我々凡夫は存在化されし限定的なもの、非実体的なものにばかり群がり、貪り、満足を得ようとする。
愚かなり、其の様や。
本当の本当はそうしたこととなる。
単なる哲学では無く、仏教哲学の方からも明らかにそう云える筈だ。
其れと私の存在論からも明らかにそう云う事が可能だ。
不幸にも存在化されし我々はこの世の事象の諸に深く縛られ其れ等を悉く在るものとして見て居る。
この世のすべてが、いや、この世のすべてではないのだが其の半分位は楽しいこともまた多い、位に思って居る。
全く、凡人だなあ、S先輩よ。
俺なんかは見ての通りの世捨て人で頭の中はすっかり世間離れして居るもんでこの世のすべてが、いや、其の半分位にしてもだ、其れが本質的には楽しいことなどではなくむしろ苦しいことばかりであることをすべてお見通しなのさ。
されどこれまで我は色んなコレクターをして来て仕舞って居る。
ま、我も根が馬鹿だからついそうしたことに関わっちまったんだろう。
其れで今宵も実は、翡翠のことばかり考えて居たのだ。
ついさっきまでは。
其の翡翠が<無いもの>であるとは矢張りどうしても思えないのだぜ。
こうして凡夫はそれぞれの境涯に適した思い込みー煩悩ーを持たされ、本質的には決して癒されることの無い存在ー人及び物、さらに精神、観念ーへの執着を捨てきれぬまま日々をのらりくらりと生きていくことしか出来ぬものだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1742回) ..2014/08/28(木) 23:49 No.4837 |
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元より金や宝石は有るところには有るもので、そして無いところには無いものと相場が決まって居る。
尤も批判精神や詩心といったものでも、其れは矢張り在るところには在り無いところには無いものである。
そうかと言って一般に観念的には成り難い性質の人に道を説くことは見当違いなのであろうし、さりとて現実の方の道一本で行くのだとしても其れは矢張り片手落ちなのだろう。
現実は其の全部を観念化出来るものではないが、むしろ半分位は観念化して置いた方が何かとバランスが取れより望ましくなるような気がして居る。
何故なら現代という時代、特に戦後の時代に於いて一番流行らなくなったのが其の現実の観念化の過程である。
かっては藝術家としての作家や詩人などが、或は宗教家が、また旧制の高校生などの一部のインテリは観念の為に死ねたのだったが、現代では観念と心中するかのような純粋な輩は居らず、観念も何もまずは食うことばかりを考えて行動し次により豊かに暮らせるようにしたいという、ただそればかりのことなのであろうから観念性への殉教者は明らかに激減して仕舞ったのである。
つまり、現代人は皆より現実的になった。
然し、其の現実そのものは、其の現実の意義、価値そのものは収拾のつかない程に多様化し虚構化され解体されるに及んで居るにも関わらず。
其れと同時に人々が本質を問わなくなった。
事の本質を問うていくことは、観念の減退した世相や人心にとって何より苦手なことなのである。
本当のものに就いて考えなくなった分、人は現実化され同時に軽薄短小化されて行く。
いや、確かに人が考えて居ない訳ではない。
考えている。
其れも前近代のレヴェルを遥かに超えた奇跡のようなことばかりを考えて居る。
然し其の考えは本当に本質を問うていく為の考えなのだろうか?
哀しいかな、私にはどうもそうは見えて来ないのである。
一言で其の現代の思考を評せば、其れは何か役に立つ為の思考ばかりを連ねて来て居るのである。
然しながら、思考とは本来其のように役に立つことばかりだったのだろうか。
むしろ役に立たないことーつまりは人類の進歩とか発展にとっては役立たないことーを頭の中でグダグダとこねくり回して居ることこそが観念の観念たる所以ではなかったのか。
なんとなれば原始仏教も老子も荘子も皆そうした役立立たずの思想ばかりで、それにしては皆立派ななりをして居て時空を超越して存在するものであるかのように見える。
近代教による現代病は其の役立たずのグダグダ思想を捨て去り唯物的に現在に生きることを選択したことから齎されて居ることなのかもしれないぞ。
かって武士は志の為に死ねた訳なのであろうし、思想家や宗教家は己の信ずるところに殉じて死ねたのであろうし、あの三島 由紀夫にしても、日本の皆が高度成長とやらで浮かれ騒いで居る最中に大義としての観念の為に自決したのであった。
其のような人間の大きな部分での精神性は、結局個々人に於ける精神の純粋度と無関係ではないことだろう。
だから人間は現実ばかりでは逆に危ないのである。
理想の為に死す、だの、腹を切って自らの観念ー思想ーを完遂させることだの、実際私は至極過激なことを述べて居るようで居て実は全然過激でも何でも無いのである。
むしろそうした部分の在ることこそが健全な観念性のあり方であるとそう述べて居るに過ぎない。
現実がそうした一種現ナマ化し、進歩主義、成果主義の横行、即物領域での非観念化という特徴を備え始めてくるとむしろ其の事によってこそ危機が訪れる。
ひょっとすると作家や詩人の連中も其の流れに抗えず自分自身がノンフィクション化して居ないとも限らない。
其のように現代のフィクション性は結果的に正反対の現実性を世に付与するのである。
結局は虚構である現代の諸制度は、其のノンフィクション化の過程によってのみかろうじて成立して居る。
だからフィクションがノンフィクション化されることにより<現実的>に成立して居るのである。
其の現実化は無論のこと我々庶民の精神の中にも同時進行して居り、従ってもはや我々は極めて現実的に此の虚構としての現代を生きていかざるを得ない。
其の現実的にとは、其処でなるべく疑いを持たずー観念化して現実を捉えないー、次に現代社会の提供する現時点での享楽に身を浸して、否、頭をも其れにドップリ浸して、其れで夜寝る前に、嗚呼、今日は美味いメシにありつけて最高にしあわせだったな、嗚呼、こんなに綺麗な母ちゃん貰えてほんとに俺はシアワセ者だなあー、おまけに息子の頭の出来が良くてテストで百点とってきやがった。こりゃ東大入るのも夢じゃあないよ、あー何だかとってもうれちいなー、気分よーくこのまま寝ようっとせー。
其れは実に御目出とう御座います。
一応素直にそう申して置きますが、アナタの現実化された現実とは、元々のフィクション化された現実がノンフィクションとして現実的に見えて居るに過ぎないものなのではないでしょうか。
まああなたは今気分が良くてこのまますぐに寝て仕舞いなさることでしょうが、私にはどうもそのように思えて仕方が無いのであえて一言だけ言わせて頂きました。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1748回) ..2014/09/07(日) 23:58 No.4843 |
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警告!ー巨大災害 MEGA DISASTER 地球大変動の衝撃
第一集 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0830/
第二集 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0831/
以上はNHKが制作した災害に対する啓蒙番組ですが、この種の番組も次第に本当のことを語る方向に向かって居り、実際何も知らないお爺ちゃん、お婆ちゃん達が視たら卒倒しそうな程に恐ろしい内容を含んだものになって来て居ります。
それで、わたくしの場合にはもうこれで私の役割もひとまずは終わりなのかなと思わないでもないのです。
私はここ十年位に亘り事あるごとに社会的な危機の到来を警告し、将来に於ける破滅の予測を行うというまるで予言者のようなことばかりして来て居たのです。
それで、もう疲れ果てました。
疲れたのでもう少し楽に生きて居たいのです。
勿論大学の先輩の方にもそのように伝えました。
何しろ私のような詩人は感覚が鋭いのでビビビっと来るのが普通の人より早いのだし兎に角常に色んなものが良く見えて居る。
それでもうずいぶん前から様々な機会ごとに社会に対して警鐘を鳴らすつもりで色んなことを色んな人に述べ続けて参りました。
が、どうも現実の方での破局への進み方が早まりつつあるようだ。
従って今後はNHKでも、また時には民放でもこうした将来に対する文明の危機について語られる番組が増えて来るだろう筈です。
だから徐々に大衆も理解し始めることでしょう。
此の文明の、或は地球の未来は決して明るいものではないということを。
そして其の事は妄想でもなくまたSFの話でもないのです。
本当の本当に文明にとってヤバいことが今後次々と起こって来ることは科学的にもう全て分かって居るが一体どうしたら其の危機を乗り越えて行くことが出来るのかというただ其の一点での話です。
然しながら現代人は現実を観念化することを忘れただ即物的に日々を現代社会に飼育されて居るばかりですので実は物凄く勘が悪くそうした危機の到来についてはほとんど不感症です。
ですからそれでは困るだろうということで私のような社会派詩人ー社会科詩人ーがなんぞ物申しておかなければ皆何も知らずにそのまま滅亡ではないですか!
だからこそ色々と語って来て居たのです。
然し、今後は是非マスメディアの方で勉強しておいて下さい。
さて、私が今日語るのは先の恐い災害番組のことではなくマリモの番組のことです。
先程「神秘の球体マリモ」という番組をオンデマンドの方で視ましたが全く素晴らしい番組でした。
マリモの生き様?なるものが実に良く分かる、自然の営みの意味を其処に問うて居るかのような一種深みのある番組だった。
即ち自然の神秘的な営みが其の不思議な生物の生存を可能たらしめていたのであった。
然し世界の各産地にあったマリモは現在我が国の阿寒湖ー其れも北側のみーにしか居ないのだという。
ごく最近までアイスランドのミーヴァトンという湖にもマリモは居たが、其れ等は工場排水による水質の悪化によりほぼ壊滅状態であるとされて居る。
Wikipedia-ミーヴァトン湖 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B9%96
阿寒湖のマリモも南側の方はかって壊滅したらしいが奇跡的に北側の方は生き延びて今に至って居るのだ。
嗚呼、あのマリモの美しさ。
小学生の頃いつも机の上に置いて居たあの瓶入りの小さなマリモの可愛らしさと静けさとよ。
対して現代ではマリモを見て居ることが暗い趣味だというような見方さえあるのだが、其れはお前の方こそがそうした静かで上品な暗さのことが分からん妙に明るき阿呆に洗脳されて仕舞って居るからのことであり、特に都会人は多かれ少なかれそうした洗脳を受けつつ生きて来て居るのだから其処はよくよく注意して置いた方が宜しかろう。
俺なんぞは何せ根が暗いからもうマリモは大、大、大の大好きだ。
お前らのように工場ばかり作って廃液を垂れ流し環境を汚し夜は酒飲んで女ばっかり抱いていやがる明るーい低脳野郎とは俺は頭の出来が違うんだ。
結局今俺は阿寒湖に行きたいね。
其処でマリモちゃんに口づけをして来るんだ。
地球が危ないというのにお前らのようにベチャベチャと女とチューをして居る場合じゃない。
神と口づけをして来るのだ、神。
神とは何か。君は分かるだろうか。
分からねえだろうなあ、じゃ、ひとつだけ教えておいてやるが、女は其の神域には入れないのだぜ。
そりゃ、不浄だ不浄、穢だ穢れ。
ところで安倍内閣は何であんなに女の閣僚を揃えて御座るのでしょう?
ひょっとしてそういうのが元々阿部さんの趣味なのかな?
女の腹は生命の原体験のところながら、どう考えても政治の世界に向いて居るとは思えまへんな。
どうも女の大臣が増えると其れは世が滅ぶ兆しであるような気がする。
そうした下らない世の一切のこと、道理が分からぬ輩、頭が悪いとまでは言わないがどう見ても勘が悪い一般大衆、女の大臣、全くアホな世の中、♪世の中バカなのよー、のすべてを捨て去りたい。
汚れたものをすべて捨て去り、超俗し、現代の西行として我は生きる。
そして現代の西行は是非そのうちに北海道へ飛び阿寒湖でマリモと戯れて来ることだろう。
尚今回も結局不真面目調の作文になってなって仕舞いましたが、人類が未来に遭遇することであろう危機について現実的に、真面目に考えておられる方は最初に挙げた番組を是非視聴しておくべきです。ー此等はオンデマンドの方で視聴出来ます。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1749回) ..2014/09/10(水) 01:03 No.4844 |
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現在宗教関係の機関紙で私が良いと思って愛読して居るのは「倫風」誌であり、それからたまにポストの中へ投函されて居る諸のものをたまに読んだりしては居るのですが其れ等は本当に良いと思って読んで居るのではない。
「倫風」誌は二年程前にたまたま一冊がポストの中に投函されて居り、しかも其れをたまたま私が読んでみたところ素晴らしい内容の本だったので自分から発行元の方へ連絡して毎月号を取り寄せて居るものである。
此の本を出して居るのは実践倫理宏正会という団体で彼等自身は宗教団体では無いと言って居るのですが実質的には宗教団体的な活動をして居ない訳ではなくさりとて他の仏教系新興宗教団体のようにしつこく勢力拡大を目論んで居る訳ではないようである。
と言うのも私はあくまで此の団体については詳しく知らないからそう推測して居るだけのことなのである。
実は二年前まで此の団体の存在を知らなかったのである。
それで調べてみるとネット上では此の団体が色々と批判されて居る部分もあった。
ただしネット上では他の新興宗教系の団体もほとんど槍玉に挙げられて居ることからしても、其の事により此の団体がダメなものだと決め付けることは出来ない。
それに私自身の考えでは、宗教団体の正邪云々という判断以前の問題の方がより深刻で簡単には治せない現代の病の部分なのである。
即ち近代病で現代人は謂わば精神離れ、観念離れをし、また道徳知らずで、それこそ倫理感無しの状態に陥って居るから其れは最も危うい精神の上での危機を囲って居るということである。
私は其の節操のない現代人の心のあり方、腐り方の様ー正確には其のような心のあり方に人間の心を貶めて居る現代という時代の思想に対する疑義を呈し同時に其れを批判し続けて居るのである。
でも庶民を批判して居る訳では元よりない。
何故なら私自身が其の庶民なのだから。
だから私自身の心もすでに大きく腐って来て居る。
ただそういうのを私は自分で認めて仕舞うんだな。
普通はそういうのはなかなか認められないことかとは思いますがそうしないと其の反省の部分から始められないのですから。
其の腐った部分を何とか修復したいと長年思って居たところ、たまたま良い機関紙に巡りあったのでずっと其れを読んで居るのである。
ただし、宗教なんて団体に入って組織的にやるものじゃない。
二十年前私は其れをして居たのだったが、結局今はそうした活動からは遠ざかって居る。
今は宗教というものを以前よりもずっと大きく捉えて来て居て、其れは宗教団体レヴェルのものではなくまた宗派レヴェルでのものでもなくたとえば一神教と多神教、またメジャーな宗教とマイナーな宗教、或は現行の宗教と過去に成立して居た宗教というように組織的、距離的、時間的により大きなスケールで其れ等を置いてみて来て居るのである。
或は人類の存亡を賭けた闘いは最終的には国家間の戦争や民族的な対立によるものではなく宗教レヴェルでの戦い、それぞれの宗教の教義の上での心理的な面が大きくクローズアップされた形でのものとなるような気さえして居る。
それで、其の時には無論のこと良い心を持った宗教の方が悪しき心を持った宗教の方に負けるのである。
つまり、此の世界では結局悪の方が生き延びる訳。
なぜかってそんな事は誰でも少しだけ考えてみれば即座に分かる。
昔から善人は早く死に、対して悪人は後後まで栄えることと相場が決まって居る。
其れに神に愛される者は早逝する、という言葉すらある。
つまり此の世を長生き出来る奴にはロクな奴が居ない。
神に愛される善人、天才の類はまず早々に天へ召されることと相場が決まって居る。
だから此の世というものは近代教の説くが如くに人間にとって楽しいところでも無いのだし愛すべきところでも無いのだしましてや喜んでー自ら進んでーまた生まれて来るようなところなのでもない。
正しくは此の世にはもう二度と生まれて来たくはない、でも何故か此処に生まれて来て仕舞った、嗚呼、一体どうしたら良いんだ?嗚呼、本当に嫌だけれどどうしようもない、だから何とか死んで仕舞うまでは我慢しよう。此の忌むべき場所に居るのはもう本当に疲れるが、其れも我が心の拙さ、低級さ、腐り方により与えられし場であろうことなので自身にはどうしようもなかったことである。だから修行しよう。何でも良いから此処に居る間に修行しておこう。世間のことばかりに合わせて居る必要なんて無いので、そんな風に心の面では是非修行させて頂きたい。
無論のことその方が良い。其れが本当の佛の教えである。
佛は子孫繁栄とか商売繁盛とかそんなことを沙門に対して許して居た訳ではないのだ。ーもっとも在家信者の繁殖や在家信者の商売を禁じて居た訳ではないがー
佛が真理として此の世に指し示したのはまず脱俗であり次に法の実践による解脱への道程のみである。
つまるところ、近代の価値観と仏法の指し示す価値観とはほとんど正反対のものなのである。
ただし其れも釈迦の説いた法に限ればの話である。
現代の日本の仏教宗派は中国経由で我が国に齎されたものなので純粋な意味での仏教とは異なる大乗の教えであるに過ぎない。
さて、話が仏教の方に振れて仕舞ったので戻します。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1750回) ..2014/09/10(水) 01:04 No.4845 |
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実践倫理宏正会というのは察するにどうも右系の団体であるようです。
しかも宗教的な活動を教義に基づいて行うというよりは倫理道徳的な実践活動を通じてより正しい人間形成を行うという団体であるらしい。
其のらしいというのは、確かに私は此処の会員さんから機関紙を買って居るが彼等の活動とはノータッチで其れを買って居り入会などは全くして居ないのであります。
ネット上で屡宗教のことを取り上げて書く事が多いので参考にさせて欲しいという私の希望が通ったのでそうして居るまでのことです。
宗教的な組織、団体へ入ることは無論のこと個々人の自由なのでしょうが、私の場合はより大きく宗教というものを取り上げておきたいので現在はあえて特定の宗教団体とは関わりを持たないのです。
私がなぜここまで宗教のことに深入りするか、または宗教の意義に大きなものを感じて居るかというと、其れを一言で言えば近代科学への心性的な面に於ける失望と不信の念を抱かざるを得ないようなことが余りにも此の世界には多過ぎるからです。
一説には科学は世界絶滅の為に進んでいく、世界を絶滅させるのが科学の役割である、というような過激な科学への評価さえあるのです。ーこれは哲学者ニーチェの言葉ですがー
其の強力な現代の推進力である科学技術に歯止めなどもはや誰もかけられないのです。
其れで良かれと思われ行なって仕舞う科学技術の上での成果が恐ろしい自然破壊や生物種の絶滅を加速させて居たりもします。
其の力にはもはや誰も抵抗できない。
何故なら国家自身が其の科学技術でもってしこたま儲けて経済の方を回していたりもする訳だ。
要するに、其れでもって食って居る、其れで金を儲けて国民を潤して居るのだとすればそんなものは逆に一番大事なものでむしろ一番大事にしていくべきものだ。
だからそもそうした構造なんで、科学技術を表立って批判できるのは宗教団体くらいしか無いということになって仕舞うのです。
それで、宗教団体はまず心の方から正論を吐くことが多いので金よりは環境保全、科学技術による欲望の解放よりはむしろ戒律を課して克己を促すなどというように色々と現代の進むべき方向とは逆のことを述べブレーキをかけられるのが宗教の役割なのです。
そうした訳で私は宗教団体、ないしは実践的な道徳団体、倫理的な規範を有する団体などに対して理想論的なある種の期待を持って居るのです。
即ち地球上の生命の破滅を齎し其の存続、持続性に限りなく負荷をかけ続けていくことだろう近現代の進歩概念と、そして科学技術による地球の破壊と生命の抹殺を決して赦さず其れを厳しく諌めていくことであろう力を其処に期待して止まないのであります。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1751回) ..2014/09/14(日) 11:19 No.4846 |
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過去にここで二、三回、共感覚のことを取り上げたことがあった。 Wikipedia-共感覚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
何故取り上げたのかというと、私自身が其の共感覚者だからなのである。
私には文字または数字に色が見える。
より正確には色が無意識的に想起されて来る。
其の色は常に決まって居て、間違ったり入れ替わったりすることは無い。
ただし私の場合はいつも其のように色んな色で文字や数字が見えて居るということではなく、それぞれの文字や数字を見つめて居ると頭の中でイメージとしてそれぞれの色合いがはっきりと見えて来るのである。
昔共感覚者は自閉症-アスペルガー症候群-か天才のどちらかだと聞いたことがあり、それじゃやっぱり私の場合は自閉症なんだろうなとそのように思った覚えがある。 そういう人々は数少ないが確かに居て、私は其の端くれに連なる者であったというそういう話なのである。 ー聖心女子大の高橋教授によれば共感覚者の割合は全人口の4%であるというー
けれど私の共感覚は弱いもので所謂天才達のように強力に其の能力が発揮されて居るというものではない。
それでも多分そちら側には近い方の人間である。だからそちら側の事情というものも直感的になんとなく分かる。
私の共感覚はWIKIの方にもあるように文字に色が見える共感覚(かな・アルファベット・数字など)でどうもこれはありふれた共感覚の例であるようだ。
私の場合は特に数字にはっきりと色が見える。
さらにアルファベットや仮名にも精神を集中すれば個々に色が見えて来る。
もっとも漢字には何故か色が見えてこない。或は画数が多いのでややこしくて見えてこないのだろうか。
尚ネット上では1→白 2→黄色 3→オレンジ 4→赤 5→青 A→赤 B→青 C→黄色というように見えると述べておられる人が居たが私の場合は2→赤 3→黄色 4→黒となるが他はすべて同じである。 だから共感覚にはある程度共通した見え方に関する法則性のようなものがあるのかもしれない。
天才が持つ共感覚を手軽に得る方法と、言ってはいけない事 http://www.bllackz.com/2012/01/blog-post_5404.html 共感覚者は昔から居たものと思われますが、其の事を人に言ったりすると変人と思われ仲間はずれにされたりするので周りには言わない人が多かったらしい。
ー実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。 サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。ー上記より引用ー
ともありますが、この部分の表現は少なからず当たって居るだろうと思う。
共感覚者は元々繊細な感覚の持ち主なのだろう。 サヴァン症候群というのは、屡マスメディアの方でも取り上げられたりして居るようですが、こればかりはとても自分の同類だとは思えず要するにこちらの方こそが真の意味での天才なのであろう。
ただ、共感覚者には似た者同士であるというような心理的な傾向があろうかと思う。
一種病気にも近いような感覚の鋭さや内向性というものが或は其の共通項であるのかもしれない。
尚詩人には共感覚者が特に多いようで、象徴派の詩人ランボーやボードレール、そしてあの宮澤 賢治などがまさにそうした部類の感覚の所持者だった。
宮沢賢治と共感覚 http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kenji4.html
「ライアル・ワトソンは、共感覚は、突然の異常ではなく、かつて言葉を使うようになる以前には、人間が、大なり小なり、共通の感覚として持っていたのではないか、と考えているように見える。 そう考えれば、自閉症の独特な感覚世界や振る舞いは、大なり小なり、言葉を使うようになる以前の、人間が共通の感覚として普通に持っていた時期があり、その名残なのではないか、と考えられそうに思える。 ちなみに、リチャード・E・シトーウィックは、『共感覚者の驚くべき日常』の中で、共感覚の起源について、次のように結論づけている。したがって、「なぜ一部の人だけが共感覚を体験するのか?」と問うことは、「なぜ一部の人だけが片頭痛を体験するのか?」と問う、あるいは他の状態についてそう問うようなものだ。適切な問いは「なぜ一部の人は共感覚が意識にのぼるのか?」であると、私は提言する。それは、この驚嘆すべき現象を一○年以上研究したのち、共感覚はきわめて基本的な哺乳類の属性であるという意見に到達したからだ。共感覚は私たちがだれでももっている正常な脳機能なのだが、その働きが意識にのぼる人が一握りしかいないのだ、と私は考えている。これは一部の人の共感覚が強いとか、程度が大きいとかいうこととは関係がない。そうではなく、脳のプロセスの大部分が意識よりも下のレベルで働いていることに関係する。 共感覚者は共感覚のとき、通常は意識にのぼらないプロセスが意識に対してむきだしになるので、自分に共感覚があることを知るのだが、ほかの私たちはそれを知らないのだ。 共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとのぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるのは、とりわけ海馬に集まるのは、感覚受容体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての多感覚の評価である。 (『共感覚者の驚くべき日常』 リチャード・E・シトーウィック)
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1752回) ..2014/09/14(日) 11:24 No.4847 |
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こう考えれば、共感覚は、「異常感覚」ではない、という考え方でいいように思える。はるかな太古には、かつては、みんなが、普通に、「共感覚を通して」感じていた段階があった、という考え方とは、無矛盾であると考える。 ライアル・ワトソンは、別の本で次のように言う。 ある生理学者は、感覚の混同が起こる人のことを「知覚に関する生ける化石」であるとまで言っている。つまり、われわれの祖先である初期の脊椎動物がかつてどのように見、聞き、触り、味わい、匂いを嗅いでいたのかという記憶をその人たちは見せてくれるというのだ。(『匂いの記憶』 ライアル・ワトソン)
それでは、共感覚者や自閉症者の存在は、昔の人間の名残(「生きる化石)ということになるだけなのか。そうとばかりは言えない面があると、僕は思う。 行き詰った人類の文化や文明を進めたり、固定的な考えを打ち破る人たちの天才的な発想やひらめきの根源は、この時期の感覚にあるのではないか。「視覚で考えていた」段階の考え方。思いがけない発想などの、想像力の源は、ここにあるのではないだろうか。 宮沢賢治の言葉に、僕たちが魅了されるのも、そういうことがあるからではないのか。「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」以上より抜粋して引用
上記の引用の部分での共感覚に対する解釈は当たって居るのではないかと思う。
自分で自分を分析してみるに、どうも私は部分的に先祖返りして居る人間ではなかろうかと思われるフシがあるのだ。
共感覚の上でもそうなのだけれど、動植物に対する感覚の鋭敏さや予感の強さ、それから実は肉体的にも特徴があって生まれつき足の裏が広範囲に角質化して居り裸足で山道などを歩くことが出来る。
共感覚は特殊な能力としてあるのではおそらく無く、感覚が未分化の人、或はより原始的な人、つまりはより赤ちゃんの方に近い人、大人になっても子供の頃の純粋性を失って居ない人、などに発現して居る能力なのではないだろうか。
或は脳に柔軟性が甚だしくある人などに。
「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」と上記の引用の部分にある通り、共感覚がかつて言葉を使うようになる以前に人間が共通の感覚として持っていた感覚ではなかったかと述べられて居る部分については非常に興味深かった。
所謂超能力だとか第六感などということが屡世間で語られて居たりもする訳ですが、共感覚は言ってみればまさに其れにも近い能力として位置づけられるものでもある。
特に現代人は文明に於ける自己家畜化の過程に置いて甚だしくこうした能力の減退を余儀なくされて来て居るだろうことは想像に難くない。
そのうちにこうした原始的な能力の去勢を現代社会は望み我々は其の傾向に抗うことなど出来なくなることだろう。
そうしていつのまにか現代には現代人としてだけふさわしいような、まるで家畜のような人間ばかりが増えて行く。
共感覚者の存在は其の傾向に対して大きな疑問符を投げかけて居る様に思われてならない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1753回) ..2014/09/14(日) 11:30 No.4848 |
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さて近代科学の成立は確かに近代以降の人類の可能性を拡げ我々庶民に夢を与え続けて呉れました。
と書けばまるで科学はすべて良いもののようですが実は自然科学とは怖いもので外界ー自然界ーを破壊する作用を必然的に持って居るものなので結果的に至極危ないものです。
其の危ないものの力に頼って我々は明日を夢見て居りますが現実には夢どころかむしろ危うい明日の様ばかりを予知させられるものとなって来て仕舞って居ます。
自然科学が何故怖いものなのだろうと私は以前に良く考えたものでしたが、要するに其処では全体性ー全体のバランスをも含めた全体としての法則性ーを考えず部分的に分析し其処で得られた法則性を全体の方へ適用して仕舞うという還元主義なるものの存在が一番怖いものなのではないかと思われます。
だからポストモダンーもはや之も古い思想なのかもしれませんが私はこれしか知りませんのでしょうがないのです。ーの思想の立場からはかって此の要素還元主義が屡批判されて居たものでした。
Wikipedia-還元主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
上記によると矢張りというべきか、此の要素還元主義は現在激しい批判に晒されて居りつまるところは昔よりももっと旗色が悪くなって居るもののようだ。
私などはもう八十年代位の頃から還元主義は良くないから止めた方が良いのじゃありませんか?と述べ続けて参りました。
もっとも私は学者でもなく研究者でもなく只の一サラリーマンで、其れで職場での世間話の折などに其の事をちょろっと述べる位のことで全然まともな批判などではありませんでしたが。
そんな私は九十年代に入ると全体論者というものになりました。
其れは還元主義とは対置される考え方としての全体論を思考の中心に据えて何でも其れでもって考えていくこととしてみた。
ところが当時は其の全体論という言葉すら実は知りませんでした。
でも何も分かって居ないのに何故か分かって仕舞うという直観能力のようなものが私には備わって居り、其のビビビと来た方向性へ進んでみたら結果的に其処には全体論という考え方があったという訳なのです。
尚、全体論というのは一言で言えば全体は部分の総和ではなく其処には其の総和以上の何らかの新たな法則性ないしは価値が付与されるという考え方のことです。 従って其れは部分論に終始するであろう還元主義とは対置された立場となります。
自然科学に於ける通常の手法、即ち分析して法則性を導き出し其の法則性を全体にも適用し普遍化して考えるという立場とは丁度正反対のプロセスのように私には感じられます。
Wikipedia-ホーリズム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E8%AB%96
此処からしても全体は部分の集積とは異なり、全体には全体性という新たな性質が付与されるのです。 そして此の考え方こそが古い科学の問題点を克服するために、まさに今後の科学に求められている論点でもあるとされて居る。
さて近代科学には還元主義をとることからの部分論に終始するという癖のようなものがあります。 だからこそかっての自然科学の視野はむしろ狭いものであるに過ぎなかった。
つまり自然科学には心の面に欠けるという人文、社会科学系の立場から考えられるところからの欠点以外にも視野が狭いというもうひとつの思想の上での構造的な欠点があった。
ー自然科学は原子やら宇宙やら、それこそ極小の世界から極大の世界まで網羅して居る視野が広い世界のようで居て実は非常に狭い視野の持ち主だったのだー
其の視野を広げようという試みがまさに今新しい自然科学としての現場で行われて来て居るのです。
ゆえに私はこれらの試みに大きな期待を持って居ます。まさか夢までは持てませんが其処で大いに自然科学が変わって呉れたらという希望のようなものは常に持ち続けて居ます。
それでも楽観視して居ることなどは無論のこと出来ないのです。 科学技術によって齎される現実の上での諸々の弊害、破壊とそのことによる不安は常に大きなものがあります。
今後自然科学のあり方が大きく変わっていくのだとしたら環境に大きな負荷をかけ続けていくこれまでのような科学技術のあり方も改められていくのかもしれません。
然しもし其の事を成し遂げたのだとしても、近代三百年の営みが齎したところでの負の遺産は厳として存在して居るのです。
即ち其れこそが今まさに此の地球を温暖化させて居ることだろう、人類の活動による悪しきものの蓄積と排出の方での問題です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1754回) ..2014/09/14(日) 11:34 No.4849 |
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ちなみに私は幼い頃から全体論者であったような気が強くして居ます。 元々私は直観派なので突然にパッと何かの全体像を掴んでしまうことが多く其れを掴んで仕舞えば後は部分のことなど幾らでも分かって来るものです。ー要するにヒラメキ派の方なのですー
然し最初から部分に拘って仕舞って居ると全体像を掴むことすら出来ずしかもあの木を見て森を見ずの喩え通りに木の集積である森は決して単に木の集積であるばかりではないことに気付けない筈です。
何故なら森には生態系というものがあり其れが様々に機能することで全体のバランスが保たれて居るのですね。
其の生態系はむしろ森にとっての本質的な仕組みであり法則である筈ですが、もし部分論としての還元主義の立場で森を語るのだとすれば、木という部分の存在の分析に終始することとなりかつ森は其の詳細に調べ上げた木の集積に過ぎないということにもなり其処には生態系という全体的に付与されて居る筈の本質的性質が見えて来ないということになります。
物事の本質的性質をどう認識するかということはまさに哲学上の認識論の問題でもあるのですが、これまでの自然科学が骨子として居た還元主義による分析手法では其の事の本質を捉えるという点に於いては甚だ不備であったと考えざるを得ないのです。
たとえば今まさに文明は近い将来に於ける滅亡の危機をはらみつつ歩んで来て居るのですが、私に言わせれば其れは全体を考えなかったことの代償として齎されて居ることなのです。
全体をパッと掴んで居ないので部分的にも色んな要素の関係性が分かって来て居ないのでしょう。
かって大乗仏教の仏教哲学の方に大は小に連なり小は大に連なるという壮大な思想がありましたがそういうのはたとえ理論化出来なくともパッと掴めて仕舞うものなのです。場合によっては其れが可能であるということなのです。
古の哲人や宗教家はおそらくは皆其の直観力の持ち主であった筈です。
で、直観というのは例外なく全体論に重なるものです。全体論こそが直観で、直観こそが全体論です。
もっとも直観は藝術の方の専売特許でもある訳ですが、むしろそうした分類、垣根を越えていくところにこそ何か本物の認識の芽生えのようなものが生じるようにも思われます。
またこのことは屡云われて居るような学問領域の上でのリンクということにも繋がるのだと思われます。
最終的には人文科学と自然科学の統合のようなことがもし可能であるならもう少し地球や人間にとってやさしい文明社会を築いていけるのかもしれません。
いや、より良い社会を築くのなら社会科学の方も是非統合して置いて頂きたいものです。社会を立て直すには当然のことながら社会科の方も是非要るということでしょう。
いずれにせよ、21世紀型の自然科学、また其の新しい自然科学からフィードバックされて来ることだろう科学技術の行方を規定し今後の自然科学に於ける理論的骨子となるであろう考え方とは全体論であることがより望ましい訳です。
然しそんなことは普通直観主義者なら元々皆分かって居る筈なのですが。
それこそパッと全部を掴んで仕舞って居るからこそ分かって仕舞うんだな、これが。
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ホームページ閉鎖のお知らせ
投稿者: kiyomi (名誉教授〔学長〕/182回)
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2014/04/07(月) 16:08 No. 4740 |
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皆さん、大変ご無沙汰しております。
この度、急な引っ越しに伴い、4月30日をもってHPを閉鎖することになりました。
長い間ご愛顧頂きましてありがとうございました。 シリウスさん、皆さん、今まで交流をありがとうございます。 感謝の気持ちで一杯です。
シリウスさんの貴重な文は本にできると思います。 個人ブログ開設がありましたら是非教えて下さい。
では、本当に、本当にありがとうございました。
閉鎖まで後23日程ですが、それまで、どうぞ宜しくお願いします。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1649回) ..2014/04/07(月) 23:12 No.4741 |
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kiyomiさん、ご無沙汰しています。
実は私自身も三月で休筆するつもりだったのですが、色んなことが中途半端ではダメだと思い完結する為にもう少しの予定で書き続けて居ました。
一度kiyomiさんへ手紙を書こうと思っていましたが、それも出来ずで、とりあえず此の二、三ヶ月のうちに何とか書きたいと思っています。 お手数ですが引越しされる住所の方を教えて頂きたいです。 cjl82750@ams.odn.ne.jpの方へお願いします。
他の方ももし何か用事があったら私に是非メールして頂ければと思います。
ブログは開設しますので開設したらまたお知らせします。
ただし其処はまた相当に意固地なブログになるかと思います。世に対する批判度は今現在程度のものでいきます。つまり世に迎合しないものとなるかと思います。
其れから低成長ブログとなり現在のように二日おきに更新する事は出来ないのではないかと思います。
なので其れもいつまで続くものとなるものかは分かりません。
基本的には私はここでのみ限定的に書いたのです。
ここで書かせて頂くことが出来て本当に幸せでした。
それもすべてここに集い、あるいはここを訪れて見て下さった皆様のお陰です。
散文を書くのをもしやめたら、本気で詩の方を書いていこうと思っています。夢は矢張り生涯に一冊で良いから詩集を出したいということです。
ブログの方で散文を書いていくのでしたら此処と同じ様な形で書いていくほかはありません。
なお私の投稿予定についてですが、四月の後半はとても忙しく回数は減ることになりますがそれはその都度またお知らせします。
前半は今休暇を取っていることもありなるべく纏めて投稿しておきたいところなのですがそれが無理なのであれば内容を纏めて書くということになるのかもしれません。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1652回) ..2014/04/10(木) 22:20 No.4744 |
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お知らせ
私の散文での意見展開は以下へ移動することとしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/sirius717ak
後は一度だけ、万年筆物語の最終話の方を投稿させて頂きます。
尚万年筆物語はブログの方でも継続していきますが投稿の方は稀になることかと思われます。
其れでは皆様長い間本当に有難うございました。
特にオノトさん、色々とお世話になり感謝して居ります。 どうかお体の方を大事にして下さい。
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| 投稿者: ほしいも小僧 (永世名誉教授/838回) ..2014/04/13(日) 10:36 No.4747 |
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ごぶさたしております。 ほしいも小僧です。
Kiyomi様。閉鎖のお知らせ、読みました。 これまで本当にお世話になりました。 いろいろな人たちとの出会いを、このホームページを通じて、させていただいたこと、本当に感謝しております。
また、Sirius様には、時が来たらまたメールをさせていただきたいと思っております。ブログのほうもお気に入りに登録しました。
30年以上前に、ラジオでこんな詩の朗読を聴いたことがあります。
ここを去っていく人と、ここへやってくる人 交差するなかで、 それぞれの人にひとつずつ 満足できる真実があったとしたら それはとてつもなく公平なことなんだが
それではみなさま。 またいつかどこかで再会できることを祈っております。
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| 投稿者: オノト (助教授/57回) ..2014/04/14(月) 20:47 No.4748 |
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Kiyomi様 長い間、大変お世話になりました。
Siriusさん、何かありましたら、swatanabe62a@gmail.com にご連絡くださると幸いです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1655回) ..2014/04/14(月) 22:44 No.4749 |
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ほしいも小僧さん、以前は本当に有難うございました。お仕事の方がお忙しい筈だというのに、此処で私の拙い現代詩の解釈に付き合って頂いたりして、今でも其の頃のことが大変懐かしく思い返されます。 其れからオノトさんや他の方々の万年筆の画像なども私は是非保存しておきたいと思って居ます。またほしいも小僧さんが書かれた万年筆に関する随筆も勿論全部保存して置きます。 何だかあの頃の此のHPは良かったです。
私が此処で余り変なことを書いて場を盛り下げて仕舞ったのかな? と思うことも実は屡ありました。
其れでも万年筆や文明に対する考察で、其処で手を抜いて追求を誤魔化すことなど私には出来なかったのです。
此処はとてもとても良いところでした。 此処で活躍できたことを、是非一生の思い出としたい。
嗚呼、こんなに良いところがなくなるのか。私にとってのこんなに優しい居所が。 寂しくて寂しくてなりませんが、其れも諸行無常です。
受け入れないといけません。人生とはそういうもの、人はまた新たな道を歩むのです。
オノトさん、是非また近く連絡をさせて頂きます。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1664回) ..2014/04/27(日) 16:46 No.4758 |
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お知らせ
目覚めよ! http://blogs.yahoo.co.jp/animist77
新たに私が此処で書いたものを保存するブログを創りましたのでお知らせしておきます。
此の目覚めよ!というエッセイ集は私が結構頑張って書き上げたものです。
だからこちらに保存しておきます。
またそれだけではなく、加筆、修正しつつ今後も書き加え、また書き継いでいくつもりです。
或いはこちらがメインのブログ-というよりも本のようなもの-となっていくのかもしれません。つまりは文章による私の作品だということです。
此処では最終的に仏教的な叡智のあり方につき論考を進めていくつもりでも居ります。
尚図書談話室での最後の投稿は29日に行います。
では皆様長い間視て頂き有難うございました。 もし宜しければまた是非ブログの方も覗いてやって下さい。
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| 投稿者: 浦島 (永世名誉教授/228回) ..2014/04/29(火) 00:00 No.4759 |
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kiyomiさん
kiyomiさんの掲示板でたくさんの万年筆の友ができました。 素敵な交流の場を提供して下さったこと、心より感謝いたします。 kiyomiさんのHPの記事も楽しかったなぁ。 また交流会などでお会いしましょう。 ありがとうございました。
Siriusさん
図書談話室を支えてくださってありがとうございました。 穏やかで知的な部屋でした。 ブログ、拝見させていただきます。
ほしいも小僧さん
お便りをやり取りしていたのが懐かしいですね。 ほしいも小僧さんのお写真、好きでした。
オノトさん
様々なことに造詣の深いオノトさんには、教えられることが本当にたくさんありました。 ありがとうございました。
皆さんとのつながりが、これからも続きますことを願っております。 これからもどうぞよろしくお願いいたします。 ラプソディさんは海外でお暮らしなのでしょうか。 お健やかでいらっしゃることを祈っております。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1665回) ..2014/04/29(火) 12:39 No.4760 |
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浦島さん、十年位前でしたか、古本屋で二束三文の値が付けられた純文学の単行本、全集本の中の一冊などが安売り本の箇所に山と積まれて居るのを見て何ともいたたまれない気持ちになりました。
其れが今はもっとひどくなって居り、先日再度行ってみたところ其の古本屋自体がたたまれて仕舞って居た。
何の因果か文の世界が大好きで文の人でもある私には一体何でこんなことになって仕舞って居るのか、全く納得出来ないというかまさに頭に来るとでも言うのか、兎に角こんなことじゃやっぱりダメでしょう、其れも昔ほしいも小僧さんが言っておられたようにベストセラー作家の本だけがドンドン売れていくなんていうのは少々問題で、たとえ堅かろうが何だろうが昔の小説家の文章を改めて読んでみますと矢張り其の文には品位があり骨ーはて、何の骨か?ーがあり全く素晴らしいものです。
詩人にしても昔の詩はどうも何やら格が高くて読んでいて気持ちが晴れる思いが致します。
対して私の垂れ流す文は批判と申しますか文句の羅列のようなものにいきおいなって仕舞いますので元より品のないものばかりなのですが、それでもそうした古典的な名文への憧れのようなものは私の場合も多分に抱えて居りますのでいつかはそうしたものが書けたらとは思いますが昨今の世の風潮からすると其れも余り意味のあることではないのかなあ。
勿論本職?の詩の方で其のかっての文の力を復活させられたらと思ったりも致します。
其れも多分に思い込みの部分でのことなのでしょうが、文を創る人は其れ即ち思い込みが激しく周りが見えて居ない人のことと相場が決まっても居るようですので此の私には結構適任なことなのかもしれませんです。
其の試みを今後もまた見守って居てやって下さい。 文の方の玄人の方に見て頂けて居ると思えば、其処で私も手抜きをすることは出来ませんのですから。 たとえどんなに忙しくても。
ところでラプソディさんはお元気でしたかー?
此処を仏教サイトにいつのまにかして仕舞い申し訳ありませんでしたが、わたくし自身はこれでもキリスト教へ相当に歩み寄って来て居るつもりです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1668回) ..2014/04/30(水) 23:55 No.4763 |
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私も皆さんとの繋がりが今後も是非続きますように。
と祈る形で此処を去ることと致します。
感謝、そして合掌。
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目覚めよ!
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1494回)
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2013/08/13(火) 19:47 No. 4568 |
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1496回) ..2013/08/16(金) 00:22 No.4570 |
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今現代社会は肉体賛美主義、つまり人間中心主義に傾き過ぎて居り少なくとも所謂自然な状態の世の中であるとは言い難い。
前回ある方のブログの方で述べられていた現代社会で良いとされている社交性の問題ですが、確かに人間には内向きの心の人と外向きの心の人があり、どちらかと言えば内向きの人は文学や哲学をやったり、或いは宗教家になってみたりと真理追求の方面に向いて居るだろうことは明らかである。
外向きの人はそういうのは向かないのでダメな人であると私などはいつも周りに言いふらしていて、其処で皆から顰蹙を買ったりもして居る。
だが私の言いたいのは人間を一面だけで評価するのはおかしいのだし、しかも内向的な人の優れた内省の力、考える力ということをないがしろにすることは完全な誤りであるということを述べて居るに過ぎないのである。
社交性のある人、つまり外交的な人は大抵馬鹿であるとも実は良く言いふらして来て居る。
無論本当にバカにして居る訳ではないのだが、彼らの住んでいる心のスパンは短いものが多いとでも言えば良いのか、要するに気長に構えて物事を深く考えることがどちらかというと不得意であるように思えてならない。
たとえば私の母、これが実は大社交人間である。
其の外交性を絵に描いたような人間なのである。
まず日に5本は、誰かからか電話がかかって来る。
無論私には電話はまずかかって来ないのだが。
ところがこのおっかさん、物事を深く考えない。
しかも掃除、洗濯が大嫌い。
華道の方をやっているので藝術家だと思ったら大間違いで実は其の藝術家の細かさとは対極にある心の持ち主である。
つまりは適当、大雑把、だからこそ人に人気がある。
気難しくないので、適当に其の場を明るく保てる能力に長けて居るので大人気なのである。
まるで太陽のように明るい大雑把さ?
アホらしい。
まあ其れは一面で大事な人間力ではあるが結局はアホらしい。
非本質的な能力に長けて居るとしか見えません。
ま、人には心のタイプが色々とあるものなのでそれぞれ得意な領域でやっていけば多分一番良いのであろう。
だが現代社会が常に社交性のある人を求めているということは其の社会そのものの倒錯性を示していることだろう。
現代社会が、ひょっとすると正常範囲を逸脱して異常な状況に陥りつつあるのではないかということを、最近は一般の人々も感じ始めたりして居る訳である。
作家や詩人はいつもその種の問題のことを鋭く見つめ続けて来て居るので、すでに1970年代位からそうした危惧を抱き警告を発し続けて来て居る訳である。
丁度我々が行う健康診断で、この数値が悪いから要精密検査ですよとか、こちらの数値は滅茶苦茶だからもう要治療ですよ、などと言われることと同じくして、現代社会にも明らかにどこか悪い数値のところが出て来て居るのだろうに、残念なことに現代社会は自主的に健康診断に行かないので、これこれ、ここが悪いのですよ、といった具体的な数値が突きつけられず従って現代社会は自分が病気になっても全く分からないのである。可哀想に。
尚、先回述べたところでの芥川賞作家である藤原 智美氏の現代社会解釈は実に的確で鋭い。
其処でフェイスブックや、それからツイッターのようなサイトに参加するといつのまにか言葉の洪水の中に溺れてしまうということを述べられて居る。
つまり、ネット上の情報というのはまさに表面上の言葉が多く、其の表面上の言葉に限って数が多いと来て居るのである。
其の数の多さが時に洪水を起こしたり煩雑さを増幅させたりし人間の心を逆に硬化させて(柔軟に自立して考えられなくなる)仕舞う様な気がしてならない。
ただし、ネット上の情報にも有益なものは在ると私は考える。
本当に素晴らしいものもまたある。
だからまさにどう情報を選択するかという問題なのではないだろうか。
ちなみに私の場合は、重厚長大、この要素が一部分でも含まれて居るサイトを選んで閲覧して来て居る。
表面上の情報は全く要らない。
それらはただ煩わしいだけ。其処で自立的な思考が成り立たなくなるのが大きな問題だ。
このように繋がった上での情報は表面上のものとなり易い。
対して繋がらないで内面を良く見つめた上での思考や意見は必然的に深いものになる。
この表層と深層の面、言葉には元々そうした深浅の領域があるのだ。
其の領域の違いのことにつき藤原 智美氏は述べられたのだ。
そしてむしろそうした深い言葉は、誰とも繋がらない孤独の中から生まれるとも述べて居られる。
そして実はこれ、私が以前にここで書いていたことと全く同じことです。
『今、人と繋がらない、その孤立した思考というのが必要だと思うんですね。人と繋がらない価値というものが必要です。それは他者に依存しないで、活字をもって、自分で考えるということ』が大事だと芥川賞作家大先生は述べて居られる。
この自称詩人も前々からそう何度も言って来ては居るが、其処は何せ賞を貰っていないので注目度が低く影響力の方も無い。
尚活字という面で言えば、矢張り作家や詩人は元々活字派であることは否めない。
だから皆にネットに縁することを止めて貰い自分の著作物を読んで貰った方がよほど為になると本当はそう考えて居る。
さて私は昨年から再び本を読み始めた。
昔は沢山の本を読んで、この十五年位は余り本を読んでいなかったのだが、ついにまた読み始めたのである。
其処でまず感じたのは、本から得る情報はネットから得る情報とは違うということであった。
其れは何で違うのだろうとずっと考えて居たのだったが、其の事はいまでも余り良く分からない。
ただ、本を読んでいる方がずっと気持ちが良いということは言える。
そして本を読んでいる時の方がずっと考えさせられる。
本の中の言葉の方が言葉として重いのだろうか、兎に角情感や想像が其処に拡がることで考えさせられたりして謂わばとてもノーマルな情報との出合いを其処に経験することが出来たのだった。
つまり、そちらの方がずっと精神上は健全である。
喩えて言えば其れは今のように狂い始めた夏の気候ではなくて、私が幼い頃に体験した夏休みの安定した気候のようなものなのだった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1500回) ..2013/08/23(金) 23:06 No.4574 |
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一言で反戦と言っても、其れは本当の反戦思想と言えるものなのか、其処を良く考えてみる必要がある。
私などは自分が反体制者として見られ何かと不利益を受けるだろうことを重々承知の上でアナーキストであることを公言して憚らない。
だから自分を安全な体制の範囲内に置いて、其れでたとえば戦争だけは嫌だと言って居る人間の気がしれないのである。
尚、アナーキストとは理想論的な平和主義者のことを言うのである。 一年程前に大学の先輩にアナーキズムのことを説明し始めたのだったが、その折にアナーキストとはテロリストのことではないかとこれまで思っていた、と言われ呆れてものが言えなかった覚えがある。
もし私の社会構想の上でのように地球を地方分権出来たとすれば、国家対国家の戦争がまずこの地球上から放逐されることとなる。
その代りに自治体、共同体レヴェルでの小規模な諍いは決して無くなりはしないことだろう。
人間とは根が馬鹿な生き物なのであるから、仏教の説くように聖なるそして理想的な世界観というものは現実には実現し得ないものなのである。
仏陀のように清らかな心を持った人間はこの世にはまず居らず、大抵はこの世の様々な欲に目の眩んだ無法者ばかりである。
其れを法治国家で法律が縛って居るからまだ何とかやって来られて居るのである。
だから国家を無くしても勿論法律を無くすことは出来ないのである。
私は大元で人間存在を全く信用して居ないから争いを無くすことよりも争いの規模を小さくしていくべきだと考えて居るのである。
実際近代国家というものは実は地球にとって悪さばかりをして来て居る存在なのである。
地球の鉱物資源を収奪して其れを訳の分からぬ乗り物や産物に造り変えそれ等を造る為に排出する悪いものでずっと地球を汚し続けて来て居る。
其れは国家から国家へ移動するのに必要なものなのでそうしたことになる訳で、従って国家という大きな枠組みを廃止してもっと小さな単位に分割することで其処での自治体レヴェルでの交流や移動ということに行動を小規模化することも出来、結果的に其処ではエネルギーの消費も減り地球も汚れずまさに一石二鳥となる筈である。
武器なども其の様に統治システムの単位を分割することによりより安価で単純な兵器で済むようになるのである。
其処では竹槍とか、投石器とか、そんなものの復活ですら考えられ得るのである。
或いはコンピユーターゲームのようなもので決着をつけても良いことになる。
たとえば小さな村対村の戦いならばそれでも良くなることだろう。
近代以降の文明はより大きな国家、より大きなエネルギー消費、より大きな人類の進歩、といったことを掲げて突き進んで来た訳なのだが其うした方向性はそもそも誤りである。
なんとなればこの地球上には面積、資源、エネルギーの上での有限性ということが常につきまとう。
其処でもし誰かが帝国主義でもやり始めれば、結局はデカい進んだ国家が世界を手中にしグローバル大国主義を掲げるといった羽目に陥る。
其れも其の成長路線では遅れた国家も徐々に国力を持ち始めるのだから、やがて世界はグローバル主義が幾つも入り乱れた覇権主義の展示場と化し其処ではやがてハルマゲドンの最終戦争が勃発すること必定である。
だから、もう止めよう、そんなこと。
近代以降の国家の人間拡張路線つまり脳内欲望肥大路線は其の根の部分がそもそも誤りなのである。
資本主義は無論のこと駄目だが共産主義の方でも駄目。
いや、資本主義でも共産主義でも他の何主義でも構わないのであるが、其れを自治体レヴェルで行っていけば大きな社会的矛盾や大規模な戦争がそもそも勃発しないから其の方が良いと私は言って来て居るのである。
人類のそれぞれが己の信ずるところを小規模に行っていくことの方がリスクが少ないということを述べて居るのである。
また戦争に限らず宗教や思想の分野でも全く同じことが言える。
確かにイスラム教徒はイスラム教徒であり、キリスト教徒はキリスト教徒であり、仏教徒は仏教徒でありそのことは決して曲げられない宗教上の絶対の価値観である。
だから其れを地球の自治体単位で小規模にそれぞれに信じてやっていけば其れで良いのである。
世界広布だとかそんなことを言い出すから宗教戦争が其処で勃発し其れではいずれ世界中がハルマゲドンの戦場と化して仕舞う。
さてこの、小ということの本当の価値がお分かりだろうか?
小ということは小さいということではなくむしろ其れは大きな価値となることなのだ。
其れはリスクが小さく、欲が少なく、多様性の保存性がある素晴らしい社会なのである。
地球分権社会の実現により其の事が可能となる。
あの老子などにはそうした思想が屡語られて居る。
もっとも私は老子の書の中からこうした小の思想を拝借して来た訳ではないのだ。
私のもともとの考えが、結果的に其の老子の思想に近いものだったのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1502回) ..2013/08/27(火) 23:15 No.4576 |
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Wikipedia-共同体主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9
此処に於ける統治的共同体主義(ガヴァメンタル・コミュニタリアニズム)というものがいかなるものであるか、出来れば詳しく知りたいと思う。
というのも、私の統治システム論はこの共同体主義に当たると思われるからなのである。
其れはアナーキズムはアナーキズムなのだろうが、共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想という意味では明らかにこのコミュニタリアニズム(communitarianism)に当たるのである。
そしてそう考えて居る私はコミュニタリアン (communitarian)である。
それで、私は暫くの間自分のことを仏教徒のコミュニタリアンであると人に伝えることとしてみたい。
アナーキストというのはどうも言葉としてのイメージの方が悪く、すぐに国家を転覆させようとしている武装集団テロリストとでも思われて仕舞い易いので少々問題がある。
其れは周りの方が勉強して居ないのが悪いのではあるが、何にせよアナーキストにも色々とあり平和理に理想論を述べて居るだけの私のようなタイプも居るということを是非皆様にお伝えしておきたいのである。
私は仏教徒のコミュニタリアンです。
と言った方が遥かに通りが良くいかにも平和主義者という感じがするものだ。
尚、仏教という宗教は元々アナーキーな思想を含む宗教である。
仏教は自己という意識を捨て去ることにより苦しみ自体を生起させないようにする=克服するという教えである。
そしてその為にはなるべく自分というものの関係者には縁しないようにしていった方が良いとされているのである。
つまり自分の所有物とか、自分の家族とか、親類縁者とか、友達とか、共同体とか、特定の組織とかそうしたものと関わらないようにしていくのが本来の仏教の姿である。
ということは、仏教は非人間的でまさに人非人をつくる宗教である。
さらに仏教は自らが属する筈の共同体とか国家のことも全然考えて居ないのである。
純粋に仏教の真理を追求する者、つまり出家者は村を捨て国を捨て出家するのが習いだったのである。
だから仏教徒は本来ならば本質的にアナーキストなのだ。
仏教がオリジナルの形態で機能し続ければ、社会や国家など成立しない筈なのである。
事実仏教を興した釈迦の国は後に滅んだのである。
ただ、それでは血は途絶え国も滅び社会問題なども何も解決しないのであるから後には仏教徒もある意味で俗化して其処でサンガをつくったり宗派を組織したり国家と関係したりもしてアナーキーな存在ではなくなっていったのである。
其処は時代が下ると共に次第に緩やかな存在になっていかざるを得なかったのだろう。
然し其の代りに仏教に於ける法の解釈は様々に入り乱れまさに混沌として仕舞った。
原初の釈迦の説法の純粋性を失い様々な部派、宗派に分かれそれぞれに異なる仏教解釈が行われるようになる。
特に現代は末法の時代であり仏法が正しく伝わらない時期に当たるのである。
Wikipedia-末法思想 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95%E6%80%9D%E6%83%B3
なるほど、之を読んでみると実に面白い。
「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」
この『大集経』に書かれた部分からすると仏の滅後二千年で所謂「白法隠没」の時代へと突入して仕舞うこととなる。ーびゃくほうおんもつと読む。仏教では基本的に漢字は呉音読みを行うー
すると現代はもはや末法の後の末法、ここにも書かれていない末法以後の世を迎えているということになる。
要するに世もすっかり末、末の末ということである。
然し、禅家は上にも書かれて居るように『末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判し、修行に努めることを説いた』訳である。
其処は矢張り禅宗は真面目である。
また浄土宗、浄土真宗、日蓮宗などが何故オリジナルの仏教から離れた形での教義を据えなければならなかったのかということがここからも良く分かる。
其の事は鎌倉時代にすでに末法時代を迎えて仕舞っていたからなのである。
さて、最初に挙げたWikipedia-共同体主義のところにコミュニタリアンとしてマイケル・サンデル氏と宮崎 哲弥氏の名がある。
Wikipedia-マイケル・サンデル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%87%E3%8
ハーバード白熱教室 http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/harvard/archive2.html
ハーバード大学教授のマイケル・サンデル氏はかって究極の選択シリーズという番組に出演して居た人であるからご存知の方も居られる筈である。
この番組は日頃から深くものを考えない傾向のある一般の日本人に考える場を提供したという意味で画期的なものであり私もほとんどのものを視ていた覚えがある。
が、結局私はサンデル氏の考え方の根本にある民主主義至上主義のようなものに嫌気がさしていつの間にか視るのを止めて仕舞った。
其の民主主義至上主義を批判しているのが評論家の宮崎 哲弥氏である。
尚この人は以前から民放の政治討論番組などにいつも出て居る人だからかなりの有名人である。
個人的に以前は好きではない人だったのだが昨年あたりから逆に好きになって仕舞った人である。
彼の表情には思想的な変遷の翳のようなものがほの見え、其れがいかにも苦悩をして来たという証拠のように見えるのでこの人は思想的に血統が良いという風に見えて来たのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1503回) ..2013/08/27(火) 23:16 No.4577 |
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其の彼が民主主義について面白いことを述べて居る。
Wikipedia-宮崎哲弥 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%93%B2%E5%BC%A5
『民主主義について、「全国民に国家権力の創出(正当化)と国家体制への参加を強いる民主主義とは、畢竟、近代ナショナリズムに他ならないのではないか。 19世紀以来の産業化、都市化によって伝統的共同体における紐帯や役割を失った寄る辺なき諸個人の意思を、抽象的な国家目的へと凝集させ、ヴァーチャルな国家的連帯に連結させる装置として民主政体は機能しているのではないか」「私は、この本来の民主主義原理と、戦後日本人に誤解され受容された『民主主義』との間に大きなズレを看て取ると同時に、民主主義原理そのものへの深い疑義も抱懐していた」と語っている。』
私は此の意見に基本的に賛成である。
民主主義というのはまさに近代ナショナリズムそのものなのだろうと私も思う。
一年くらい前からそのように考えるようになった。
さらに伝統的な共同体による諸価値を崩壊せしめつつ歩んでいくのも其の民主主義という名の近代ナショナリズムの持つ性癖なのである。
そして其の性癖とはつまりはグローバリゼーションと一心同体であることなのだ。
世界中の国をすべて民主化してグローバリゼーションという統一基準の下に経済やその他のものを共に競っていかなければならない道理などは元々無い。
別にかのブータンのように独自の発展の仕方を行っていってもそれはそれで良いのである。
全部の国が民主化して、しかも自由主義資本主義経済国家となり同じように同じ土俵で競い合う必要などは元々無いのである。
民主主義というと明らかに善の思想であると一般的には捉えられがちなのだが、民主主義という名の下に行われる自由主義資本主義化された経済、産業に於ける熾烈な競争や価値の一元化ということは結局は世界の多様性という大きな価値を見失うことに繋がって居るのである。ー民主主義と自由主義資本主義経済とは基本的にセットになって居るものだー
だから其処にはどこかに大国の思惑というものが見え隠れして居るのである。
それから民主政体を『ヴァーチャルな国家的連帯に連結させる装置』と宮崎氏は述べて居られますが、これなどもまさに其の通りで、本当はヴァーチャル的な価値でしかない近代国家の内容を、いかにも良さそうなものに見せつける為の民主主義という一種甘い思想は日本人の考えて居るような正義の味方としての純粋な民主主義とは程遠いことだろうと私も見ているのである。
さて、この宮崎 哲弥氏であるが、私よりは若く見えるので弟と同じくらいの歳だろうかと思っていたら矢張りそうだった。
でも同じ五十代である。
そして何より驚いた!
何と彼も仏教徒であることを公言し、しかも日本の仏教に帰依しているのではなく印度仏教に近い仏教に帰依する仏教徒なのだそうだ。
すると、「仏教徒のコミュニタリアンであり大国主導の民主主義原理への疑義を抱く」という点で宮崎氏と私は同類であり思想的にも同根を持つこととなる。
だからたまには民放でも視て宮崎 哲弥氏の発言内容を洩らさずチェックしてみたくも思う。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1504回) ..2013/08/28(水) 21:17 No.4578 |
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調べてみると宮崎氏はブディストとしては中観派なのだそうで其処は私とは異なる大乗仏教派であるようだ。
私は現在上座部仏教、それも釈迦自身が述べたとされている最も古い経典に書かれた法の内容を信奉して居るだけなので其の後の大乗仏教に於ける理屈っぽくて小難しい仏教理論にはほとんど関心が無いのだ。
だから其処は大きく立場が異なる訳なのだが、それでも宮崎氏が将来的には出家する決意を持って居るということに対しては尊敬の念を抱かざるを得ない。
また宮崎氏が高度資本主義の進展につれて国民国家の統合枠が溶解のプロセスに入った日本の状況下では「公教育における国史=正史の正当化などではなく、私史=稗史がいきいきと語り継がれるローカルで多元的な共同体の探求にこそあるのではなかろうか」と前回のリンクのところで述べている部分にも共感出来る。
尚宮崎氏は一般に思われているような政治評論家などではなくどちらかというとサブカルチャーや宗教の専門家なのだそうである。
そして本人はそちらの方を語る世界に戻りたいと今思って居るそうなのである。
ちなみに一般には宗教と政治、国家や経済といった世界と宗教は全く別のものという認識があろうかと思うが、其れは社会に置いて宗教が正しく機能していない日本社会でのみ言い得ることで、世界標準としての宗教は政治や経済や思想、また国民生活に密接に結びついているところでのものであり、或いはむしろそれ等の上部概念のことでもあるのだ。
だから宗教が語れなければ政治も経済も本当は語ることが出来ないのである。
さて前回末法思想のことを少しだけ述べたので今回はそのことをより深く追求してみることとしてみたい。
まず第一に、末法思想とは仏教に於ける終末論だと思われているのかもしれないのだがそれはそうではないのである。
仏教に於いては終末論は存在せず、また時間の始まりや終わり、宇宙の始まりや終わり、といった所謂形而上の問題について考えることは無意味なことだと思われて居るのである。
それでまず、末法思想というのは大乗仏教に特有の考え方であることを知っておくべきなのである。
大変重要な点として、南伝仏教には末法思想など無いのである。
また、禅宗でも曹洞宗の道元禅師は末法思想を認めて居ないのだ。
ここは実は一番鍵となる点なのである。
逆に言うと末法思想とは大乗仏教の時代に創作された考え方であるに過ぎないのである。
前回Wikipediaに書かれた『大集経』からの法滅尽思想の引用を行ったのだったが、其の年限も以下の資料からすると中国と日本では大きく異なって居り何やら元々かなりに怪しいものであることが一目瞭然となるのである。
末法思想(世界の歴史、第六巻『隋・唐帝国と古代朝鮮』、 全三十巻:中央公論社)より --------------------------------------------------- 末法思想とは六世紀ごろに西北インドで成立して、直ちに中国にもたらされたらしい。正法時と像法時が何年続くのかについては、経論によって異なり、正法500年、像法1000年説と、正法・像法ともに1000年説が有力であった。 中国仏教徒の伝承に基づくと、釈迦の入滅はBC949年なので、末法の世に入るのは第一説では552年、第二説では1052年ということになる。中国では第一説が採用されたが、日本では500年遅れの第二説が採用されたので、平安時代の末期から、末法の世に入ったという危機感が生まれて、それに対応する新しい仏教運動が起こったのである。 西北インドで猛烈な仏教迫害を蒙った、那連堤耶舎が556年に北斉の都、郢(業)にやってきて、世はすでに末法時代に入って久しいことを説いた。二年後には中国僧の慧思の「立誓願文」が執筆された。末法思想の根拠となる「大集臓経」を郢(業)で那連堤耶舎が漢訳したのは556年のことである。 ---------------------------------------------------
ただし、其の「大方等大集月蔵経」の第二十番目に説かれている「法滅尽品」には、年老いた釈尊が、死を前にして法滅尽の内容を語りはじめるという「設定」になって居るとされている。
ところが、其のさらに後には何と天変地異の予言のようなことも書いてあるのだそうで、此処に至ってはもう明らかに中国の易経の影響、占星術のようなもの方の影響が明らかでとても印度由来の、しかも釈迦自身が述べた言葉だとは思えないふしがあるのだ。
そんな訳で実は末法思想とはかなりに曖昧で疑えば幾らでも疑うことの出来るような思想であることがはっきりとして来るのである。
個人的には、釈迦の教説、釈迦の修行を第一義のものとしてなるべく正確に実践しようとして来た禅宗に於いてこの末法思想が否定されている限り、もうこれはかなりに怪しいものだと考えた方が辻褄が合うように思うのである。
末法思想が生まれた背景には、当時の激しい仏教への迫害も考慮に入れなければならず、元よりこの思想を完全に否定してかかることの妥当性についても若干の問題があることだろう。
然し、末法思想を中国から輸入した日本の仏教諸派が、其処ですわ仏教はこのままではオシマイだ、これまでの仏教では凡夫に法を説くことはかなわず、其れで新たな教義、教説を加えて末法時代に適した新しい仏教を創らねばならぬ、と其のように思い込んで仕舞い其処で大幅に大衆寄りに流れた仏教新宗派、いや、仏教系の新興宗教団体を創って仕舞ったことには少々疑問を感じない訳ではない。
確かに浄土系の仏教宗派や日蓮宗などが日本の大衆に仏教を広めたことの功績は何より大きい。
其の努力のお陰で現在もこうして日本国は仏教国として世界に認められ日本人の多くが仏教と関わりを持ちまた葬式なども仏式で行うことが多い訳である。
つまり貴方も私も普通は仏式で葬られるのである。
だが最初に述べたように南伝仏教=上座部仏教=小乗仏教には末法思想など無いということを其処で良く良く知っておく必要があるのだ。
ということは釈迦が自身の言葉として述べたことの中には末法思想や法滅尽思想というものは本来含まれて居なかったということをこの事実が何より明らかに示して居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1505回) ..2013/08/30(金) 23:28 No.4579 |
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クローズアップ現代 「連鎖する“異常気象”地球でいま何が」 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2013050541SC000/index.html
こちらは有料視聴ですが他のどこかで無料視聴出来る可能性もあります。
さて昨日、職場で大学の先輩から危機的な番組をTVで視たという報告がありました。
「先生(=私)がいつも喋っているようなことが内容として流れていて一級にヤバかったが視ました?」とのことでした。
其の番組はNHKスペシャルで、地球温暖化から来るところでの地球規模の異常気象の特集番組だとのことでした。
然しこの番組はまだオンデマンドの方には用意されて居りません。
それで他にヤバいものがないかと探してみたところ、以上の番組があり早速之を視てみました。
いや、之はヤバい。
此れはまさに世も末だ。
ではどこがオシマイなのでしょうか?
一言で言えば其れはすでに「地球がブッ壊れて来て居る」ということです。
現在、地球温暖化の影響による海水温度の上昇が世界各地で観測されるに至って居ます。
これまでは其れは実感にまで至らないレヴェルであったものが、ついに一般人が感じ取れるレヴェルにまで至って仕舞ったということです。
前々から述べて居りますように、こうしたことは一部の科学者には以前から予測済みの出来事だったのです。
また、一部の鋭い感受性の持ち主には直觀的に分かって居たことでもありました。
然し、其れは分かっていても如何ともし難いことでもあったのであります。
文明はそもそも其の根の部分が腐っている、誤って居るのだから其の病いを治した方が良い。
と一部の作家や詩人はかなり以前から警鐘を鳴らし続けて来て居た筈です。
其処で遅ればせながらこの私も自称の詩人として皆様に危機感を伝えようとして来ました。
其の事は私がこの世で成し得たことで最も重要なことでした。
他のどんなことも、此の危機感を伝えるということに比して大事であることはありません。
危機感を煽るのではなくして、あくまで正しい危機感を持つということの大事さを伝えたかったのです。
まず言っておきたいことは、この期に及んでもまだピンと来ていない人々も結構居られるのではないかということです。
つまりほとんどの現代人は感覚バカだということです。
現代文明に飼育されつつある我我の感覚はほとんど麻痺し切って居て何も分からない状態にあるということなのです。
たとえば「正常性バイアス」という心理学上の用語がありますがご存知でしょうか?
これは自分にとっては都合の悪い情報は認知的に無視したり過小評価するという心理学的な傾向のことを指します。
ここからも、文明にとって悪い話は無視したり過小評価されていたのではなかったかと私は今考えて居ます。
すると例えば、温暖化ということに対しても正しく考えられなくなって仕舞うことが屡起こり得る訳です。
其れは単なる寒冷化、温暖化のうちの温暖化という地球気候現象のサイクルに過ぎないのでしょう、とか何とか、自分の都合で事実を捻じ曲げて捉えて仕舞う働きが事実あるのです。
ところが元NASAのジェームス・ハンセン博士は、もはやそういうレヴェルでの話ではないのだ、と長年に亘り警鐘を鳴らし続けて来て居ます。 上のクローズアップ現代にも少しだけ其のハンセン博士が出て来ます。 ハンセン博士は地球温暖化問題の第一人者で、1988年の米国の議会証言で地球温暖化について警告し、この問題に初めて世界の注意を促したとされている人物です。
さて、科学者には確かに地球温暖化が起こりつつあることは客観的な事実として分かって居る訳です。
ただしそうなって居ることの理由、原因については実はかっては諸説あり、必ずしも文明活動の結果引き起こされたものではないとされる説なども結構あったのである。
然し、現状はその頃とは全く異なって来て居る。
地球の温暖化はもはや文明活動の結果引き起こされているものであることが明白であると考えられていて科学者の間でも其れが主流の見解となって来て居るのです。
Wikipedia-現状の科学的理解 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96#.E7.8F.BE.E7.8A.B6.E3.81.AE.E7.A7.91.E5.AD.A6.E7.9A.84.E7.90.86.E8.A7.A3
Wikipedia-地球温暖化の原因 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E6%B8%A9%E6%9A%96%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0
気候変動の第一人者ジェイムズ・ハンセン博士に政府の弾圧 http://democracynow.jp/video/20080321-1 何と其のハンセン博士に米国政府からの弾圧があったそうなのである。
確かに当時はこの温暖化の原因が文明活動のせいであるのかどうか確定はしていなかったのかもしれないのだが、それでも真実を述べ続けて居たハンセン博士に既得権益側からの弾圧が加えられていたとは全く呆れた話なのである。
ま、然しながら人間というものは大抵こんなものなのである。
真相や真実、または真理や理想などというものは特殊な聖域に在るばかりのもので、俗世間に於いてはむしろ其れ等を見ないこと、そちらの方を決して向かないこと、真理や真実を突きつけられてもあえて顔を背けておくことこそがこの偉大なる汚れた俗世を正しく強く生き抜く為の必須の心理的条件なのである。
TED-ジェームス・ハンセン「なぜ気候変動について叫ばなければならなかったか」 http://www.ted.com/talks/lang/ja/james_hansen_why_i_must_speak_out_about_climate_change.html
尚こちらがジェームス・ハンセン博士のTEDである。
之を視聴して、驚いた。
これこそ真摯なプレゼンテーションである。
本気である。博士の真剣な眼が真実をそのままに映して居るかのようだ。
そして怖い。
ここまで怖い事実の羅列と将来の予測とを述べたものを他に知らない。
これは政府に弾圧されながらも真実を語り続けて来た博士の本心がこもった訴えである。
いつものTEDとは違ってジョークなどの入る余地の全く無い、我々が直面して居る厳しい現実の様についての真摯な提言である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1506回) ..2013/08/30(金) 23:28 No.4580 |
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さて、温暖化ということは何か? 一体どんなことがこれからの我々の身にふりかかって来るのか? あらゆるメディアは其処をキッチリと我々庶民にも分かり易いように伝えていって欲しいのである。
地球温暖化が進むとやがて文明はボロボロ、バラバラになり、其処には我々の好む西洋菓子も酒もタバコも何も無くなり、それどころか三度のオマンマにも事欠くありさまで、特に安倍政権が農業をダメにしたこの日本国は食糧危機に陥り、其処で木の皮もカエルもヘビも全部食われて仕舞い、其の有様やまさに餓鬼道、畜生道の地獄絵図と化すことだろう。
魚?魚は海が熱すぎて住めなくなるのでもうどこにも居ません。
これらの有様が、あながち嘘とも言い切れない確度でもって迫って来て居ることが何より一番怖いことなのである。
地球温暖化白書‐水不足と食糧不足 http://www.glwwp.com/main/food.html
ー個人的にはこうした大人しい感じのサイトレイアウトではなく地獄の絵図の中を餓鬼が彷徨うかのような強烈なインパクトを持った温暖化の啓蒙サイトを是非創るべきだろうと考えて居る。またサラリとした知的な言葉で温暖化の危険を述べるのではなく、上での私の表現のように卑俗で強烈な言葉を使った方が温暖化の危険性が直に伝わるのではなかろうか。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1510回) ..2013/09/04(水) 21:54 No.4585 |
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魚をとりまく海の環境問題 http://www.greenpeace.org/japan/seafood/
【深海温度上昇】【深刻化する地球温暖化】 『深さ3000メートル以深の海水温が地球のほぼ全域で上昇していることを海洋研究開発機構が突き止め、5日付の米地球物理学誌で発表した。年間の貯熱量は、国内の全エネルギー消費量に換算して25〜65年分に匹敵した。地球温暖化が原因とみられる。海水温の上昇は、海流の変化や海面上昇をもたらし、地球規模での異変につながる恐れがあるため、観測強化が急がれそうだ。
09年までの10年間、海洋地球研究船「みらい」などを使って世界各地の海水温を測り、90年代の記録と比較。南極海を中心に深層の水温が10年間で最大0・077度上昇していることが分かった。地球の平均気温は 100年間で0・7度上昇したが、もし深海の貯熱効果がなければわずか1年で気温を0・2度押し上げた恐れがある。
原因として、温暖化で南極周辺の海面近くの水温が上昇したために、本来深海に沈み込んでいた氷になるような冷水の量が減り、海洋大循環で地球規模に広がったことが考えられるという。今後、深海のこれまで温暖化を和らげてきた「クッション役」が継続するのか注視する必要がある。』(3月4日付毎日新聞)
即ち今、深海の温度が上昇して仕舞って居るのである。
(米国海洋大気庁より) ワシントン大学の海洋学者らが過去20年間にわたる深海温度等のデータを分析した結果、深海の温暖化が海面上昇の一因になっていること が明らかになった。米国海洋大気庁(NOAA)が9月20日付けリリースで発表した。
これまでの研究で上層海洋の温暖化は示されてきたが、今回の分析では、海底まで温度上昇を観測し、深海がどの程度の熱を追加的に蓄積しているかを測定した。その結果、上層海洋が吸収した熱の16%を3,300フィート以下の深海が取り込んでいることが分かった。このような深海の温暖化が発生する要因として、南洋上の風の変化、南極低層水の濃度の変化、南極で低層水が形成される速度の変化などが挙げられている。
深海の温暖化は南極周辺で最も激しく、南極から離れるほど弱まる傾向にあることも分かった。南洋での温度上昇は10年ごとに摂氏 0.03度と小さいものの、温度上昇が確認された海水は大量で、熱吸収力も高いため、相当量の熱エネルギーが深海に蓄積されていることになるという。
同研究では、過去数十年間にわたる南海の深海温暖化によって南極周辺の海面は年間1.2ミリメートルずつ上昇していると結論付けている。
しかも以上の記事によると深海の温暖化は南極周辺で最も激しいということだが、其れでは南極の氷が融けるのに拍車がかかって仕舞うということにもなるのだろう。
地球温暖化:気温がさらに上がらないのはなぜか? http://www.ne.jp/asahi/yasunao/picard/time/1004/Global_Warming.html
『過去50年間に渡り、その過分のエネルギーのおよそ90%が海洋に吸収(徐々に海の温度を上げる)され、残りは海と陸の氷を溶かしたり、地表面や大気の温度を上げることに使われてきた。言い換えれば、地球温暖化を生み出してきた。』 『そこで可能性のあるシナリオが、行方の分からない熱は、地表面のセンサーの範囲である900mから1,500mよりもかなり下の深海に隔離されているとするものである。だが広大とはいえ、深海には限界があるとファスロは言う。長期間に渡ってヒートシンクとして振舞うことはないだろうと考えているのだ。「それはこれまで長い時間スケールで見てきたものとは異なる。海洋が熱を無制限に吸収できないのはあきらかだ」と語っている。 』
成程、要するに現代文明が放出しつつある地球にとっての余計な熱エネルギーは深い海の底の方に蓄積されて居たのである。
そして其のことがデータとしても裏付けられて来て居る訳である。
で、結局海の方での温暖化が浅い方と深い方の両方で行われつつあるということなのだろう。
とうとう海の深い方でもそうなっていることが分かって仕舞ったということでもある。
尚『海洋は熱を無制限に吸収できない』と書いてありますが、海洋が熱を吸収するリミットに達するずっと前におそらくは海洋の生態系に壊滅的な打撃がありそれでまずは人類の胃袋の方が充たされなくなるという悲劇的な状況の到来が予測されるのである。
現時点では沖縄の海の方でサンゴが死滅したり、北海道の方で鮭が漁れなくなり代わりにマグロが漁れるという状況である訳なのだけれど、こうした異常な状況が今後良くなることはなく次第にドンドン悪くなるとしたらさて我々は一体どうしていけば良いのだろうか?
其れから誰しも感じて居るように集中豪雨や竜巻の頻発といった常ならぬ気象現象が次々に起こって居る。ー温暖化によって海面水温が上昇すれば、水分の蒸発が進む。大気が不安定となり、突発的な雨や竜巻の頻度が上がる。ー
いまや余程に鈍感な御仁でも地球の何かがおかしいということを直感出来るレヴェルのものと実際になって来て居る。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1512回) ..2013/09/09(月) 22:58 No.4588 |
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あのデカルトの『方法序説』には「私どもを自然界の主人にして所有者のごときものとなしうる」という言葉が出て来る。
然し、「我思う、ゆえに我あり」(仏: Jepense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum)という近代的な自我の成立から発して、自然をまるで下僕のように扱い其処からあらゆる価値を略取しつつ突き進んで来た現代文明は其処で本当の幸せが得られていると言えるのだろうか。
多くの人々がむしろ今未来への不安を感じて居るのではないのか。
其れに自然が所有物だなんて、慢心も甚だしいのである。
人間には自然以上の我があるなどという不遜な考えの持ち主となって仕舞ったからこそまさに今この地球はブッ壊れようとして居るのではなかろうか。
いつしかホモサピエンスは歴史という過去から断絶した科学的勝利に酔い痴れ物質的欲望を追い求めて生きるようになって仕舞った。
つまりは人間の本来の精神性が其処に解体されてあらゆる価値観が即物的になって居るのではないか。
そう、科学は人間を即物的にする面も多分に持ち合わせて居ることだろう。
其処で理性的たれと真面目にやって居る割には逆に智慧の方が退化していくから即物的にならざるを得ないのである。
かってニーチェは『道徳の系譜』の中でこう述べて居る。
「コペルニクス以来人間はある斜面に落込んだようだ、――いまや人間は、いよいよ速力をまして中心点から転落してゆく――どこへ?虚無のなかへ?<骨身にしみる自己の虚無>の中へ?・・・人間はまさに動物に、比喩でもなく割引きも留保もなく動物になり下がってしまった。」
されど普通は、科学によって人間は良くなって来て居る、むしろ獣の方から神様の方へと近づく階段をのぼっていくのだとそう見える筈である。
ところがニーチェは其の見え方とは正反対のことを述べた訳である。
科学によって人間は動物そのものに成り下がったのだと何とニーチェは語ったのである。
ニーチェは、「機械論的世界解釈」つまりは「科学的世界解釈」について、「ありとあらゆる世界解釈のうちでもっとも愚劣なもの」だとも語って居る。
もしもすべてが機械論的な因果の連鎖であるのなら、我々の自由意志はなくなり「目標」もないことになるから、つまりはそうしたニヒリズムの時代を我々は歩んでいかざるを得なくなるからこそ愚劣なのだ。
ここからしてもニーチェの歴史解釈は極めて正確である。
「私の物語るのは、次の二世紀の歴史である。私は、来るべきものを、もはや別様には来たりえないものを、すなわちニヒリズムの到来を書きしるす。
ニヒリズムとは何を意味するのか?―至高の価値がその価値を剥奪されるということ。目標が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。」
神が死んだ二十世紀と二十一世紀に於ける真の意味での人類の苦悩の始まりをニーチェは正しく予見して居た!
またニーチェは「地球の皮膚の病気」に付いても言及して居た!
つまりは其れが人口爆発のことである。
実際に私が子供の頃の世界の人口が36億人だったものが現在は71億人となり僅かな年月の間に人口は倍増して仕舞って居るのである。
そして数が増えただけではない。
他の生物はきわめて長い時間をかけ環境に適応するために個体を変化させて来たのだったが、人間はその「知」によってごく短い時間に逆に環境の方を変えて仕舞った。
この人間を苦しめるニヒリズムという時代の到来は、まさしく神を科学に置き換えようという唯物論的な世界観から生み出されたのである。
唯物論、つまりは物質主義の即物性による精神性の崩壊、神と仏との死の時代の到来。
そして何と、「科学の目的は世界絶滅( Weltvernichtungen) にある 」(1869-70年冬―1870春)とニーチェはかって述べて居た! これは科学の目的とは全的な世界の破壊であるということである。
「現在の自然科学のニヒリズム的帰結 (彼岸へ逃れようとする自然科学の試みと並んで)。自然科学の営みからついに自己分解が出てくる。自己自身への叛逆が、そして科学性への反抗が。――コペルニクス以来、人間は中心からXへと転がりだしている。 」(1885-1886年の遺稿より)
ここでもこうして科学が自己矛盾的な世界観にやがて陥るだろうことを予見して居たのか!
人間をより良い世界に導こうとして居る筈の自然科学の力によってまさにこの大自然そのものが壊されかけて居るという現在の現実の様を天才ニーチェは見通して仕舞って居たのである!
神の栄光を示すべく神の被造物を研究したことが自然科学の本来の目的であった。
つまり、自然科学は当初神を対象とする哲学であるとされていたのである。
ところが其の行い自体により神を殺す結果を招いて仕舞ったのである。
其れ以降聖なる世界が人間の歴史から剥奪されたのである。
其れがいつのまにかそうなっていって仕舞ったのだ。
いつしか宗教は聖なる世界とは全く別の、金とモノ、或いは権威、権力だけを追い求める世界と化していきつつある。
今私はこの聖なるものの喪失、ということにつき屡考えて居る。
何故現代に於いてこの人間にとって大事なものであるべき筈の聖なるものの価値が無力化されて仕舞ったのだろうか。
つまるところ現代に宗教はあっても其れ等は実効的な力を持つものではないのである。
其の事は宗教の魂の部分である、其の肝心要の聖性の部分が其処から抜け落ちて仕舞って居るからなのである。
其の抜殻宗教、魂を欠いた宗教に我々は向き合わざるを得ないのである。
現代人、 特にこの21世紀を生きて居る我々は生きるための中心と言うか根っこと言うか核と言うか、そうしたものをなくして仕舞い根なし草のように生きて居ると言えるのではないだろうか。
際限なく進んでいく機械論的な認識即ち自然科学や欲望の肥大回路と化した経済の言うことを聞いてただ浮遊して居るのだが確かに物質的には其れで充たされて来ては居る。
でも本当の意味では満たされて居ない気がどこかする。
どうも根っこが無いのだ、根っこが。
そして何でこんなに未来に希望を持てない時代として仕舞ったのだろう。
おそらくは唯物論的で機械論的な世界解釈により、世界はかっての世界の潤いや聖性を失ったのである。
呪術的な、あるいは魔術的な、つまりは前近代的で非合理的な世界観を排斥していくことで何か大事なものを置き去りにして来たのである。
現状を鑑みるに、矢張り「人間は中心からXへと転がりだしている。」と言えるのだろうか?
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1519回) ..2013/09/21(土) 23:06 No.4595 |
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現在では日本人の多くが宗教を何か頼るものであるかのように勘違いして居ることと思われる。
自立的で規範的な概念を自分の頭の中に持つことが出来ない人の為のものであるとそう考えたりもして居る筈である。
何故なら私自身がまさにそうした考えを持ってかっては生活して居たからなのである。
私は若い頃むしろ突き抜けたタイプの合理主義者で、人間の精神性を合理的に突き詰めていけばやがては人間の肉体の不合理性を克服するーつまり改造していくことーが可能となりより純粋に知的生命体として高次の段階に至ることが出来るはずだと考えて居たのである。
ー其処で云われる人間の肉体の不合理性とは寿命による限界やその他諸々の物理作用的な限界のことを言う。ー
そんな人間に宗教など必要である筈はなく、従って私は20代の頃まではむしろ宗教とは無縁の生活を送って居たのである。
然しそうした人間のサイボーグ化説にはかなりにSFチックな飛躍があり、やがて人間は精神をのみ生きる存在ではなくむしろ肉体の方に大きく規定されつつ生きて居る者ー謂わば動物君であることが次第に実感の上からも分かる様になって来た。
其の動物君が単なる動物君であるところでの境涯から脱しようとして来たところでの歴史過程が近代ということになる。
然し、どうも其処には私がかって考えていたところでの飛躍のようなものが含まれて居たのかもしれない。
より便利により速く、またより豊かにという発想はどうも本質的には肉体の方を置き去りにして来て居たのかもしれない。
この場合に、其の肉体というのは、現実という言葉でも置き換えられるような気がする。
より便利により速く、またより豊かにというという概念は人間の脳内欲望の方向性のことを顕在化したものなのであり、其れにはそもそも肉体性つまり現実性のようなものが付加されずに追求されるべき精神性の追求の一種のことであるに過ぎないのである。
肉体ということは、同時にいくら頭の方でスマートなものを望んでも其れをそのままには実現することの出来ない枷のようなものでもあり得る訳だ。
ということは、現実ということは、いくら頭の方でスマートなものを望んでも其れをそのままには実現することの出来ない枷のようなものでもあり得る訳だ。
この、思うままに現実化することが出来るのか、それとも思うままには現実化出来ないのかという違いは実は最も大きな差異なのである。
文明社会ではかって洋の東西を問わず思うままには現実化出来ない世界を人間は生きていかざるを得なかったのである。
然し、近代以降の社会では思うままに現実化することが出来ると考えることが社会の常識として定着して来て居る。
それだからこそ、何をいまさら宗教だ、宗教など要らなくともこんなに俺たちは幸せだ、みたいな根本バカと言うか不遜バカと言うか所謂魂の出来の悪い人々が多く出て来て宗教の意義が正しく捉えられることが稀なのである。
が、この21世紀に入って20世紀人が考えて居たような諸々の思うままに現実化することに対しての自然からの反発が顕著になって来て居る。
其のことは無論其の根本バカや不遜バカに対する自然からの戒めーキツーくお灸を据えられることーでもある訳である。
実際自然からの戒めだとか文明の限界だとか、最近識者の間ではそうした議論がかまびすしく行われて来て居るようだ。
其処では屡自然を甘く見過ぎていたなどと語られて居たりもする。
まあ其れは確かに其の通りなのだと思いますが、其の事とセットになる形で宗教の役割の形骸化ということがむしろ其の問題の根本に横たわって居る様に私は思う。
宗教ということはかって人間にとっての大きな枷、重しのようなものであり、其処に於いて思考や行動を制限されるものであった訳だ。
しかしながら其れは同時に倫理観でもあり道徳観念でもあり、兎に角大衆があーしたい、こうしたい、と普通思う筈の下劣な欲望を抑えて呉れる面が其処に大きく存していたのである。
ところが近代に至り次第に其の重しが取れ人間は自由な存在となって仕舞った。
特に戦後の人類はやりたい放題にやって来たのだったと認めざるを得ないことだろう。
だから其処で自由ということを履き違えて居るのではなかろうか。
自由というのは元来制約の中で発揮されるべき概念なのであって、人間には決して無制限の自由が約束されて居る訳ではないからなのである。
たとえば宗教ということは一見人間存在を束縛して居るもののように見えて実は長い期間に亘り人間を自由にこの地上で生かせておいて呉れた制度だったのである。
確かに宗教にも矛盾的な要素は多々あったにせよ、宗教が前近代の時代を平らかに統べて居て呉れたことはほぼ間違いない事実として現在見出されることだ。
と、この辺りまで述べれば、宗教がいかに人間存在に対して大きな意味を持つものであるかということが誰しも分かることだろう筈である。
たとえ大衆の常識的見地からは宗教が訳が分からずロクなものには見えないのだとしても、人類史の上から見れば宗教は人間にとって一級の意義を持つ生活の上での最上位概念なのである。
そして宗教とは頼るものではなくむしろ其れ自体が人間を縛るものだったのである。
然しながら、其の縛り方が余りにも正しい縛り方をして居た為に、人間存在に大きな安心感を与える存在としても機能していた訳である。
ところが今は安心感が何処にも無い。
安心感どころか、世の中に対する不安感や不満感の方が多い。
其の不満感というのは、欲中心で生きるから何処まで行っても際限なく欲望が肥大化し満足するということが出来ないのである。
対しての少欲知足とは良く云われることなれど、其の少欲というのは実は非常に理知的、知性的な作業のことを言うのである。
理智の光に包まれ、知を磨いていってこそ初めて人間は少欲の境地に達するのである。
宗教のことも分からず、知も磨かず、ただただ文明の欲するに足る精神たらんとして生きて居ること程辛い境涯は無い。
そういうのがまさに仏教で云うところの無明という状態なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1522回) ..2013/09/26(木) 23:02 No.4598 |
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Wikipedia-無常 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8
『釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。
なお大乗仏教では、世間の衆生が「常」であると見るのを、まず否定し「無常」であるとしてから、仏や涅槃こそ真実の「常住」であると説いた。これを常楽我浄と言うが、これについては大乗の大般涅槃経に詳しい。』
仏教ではまず一般の人間存在の持つ常識を徹底的に否定してかかる。
其処ではまず、お前の考えは違う、間違って居るとハッキリと言われる。
我らは心理的に、全否定される。
其の意味で仏教は世界で唯一の、一般の人間存在としての心であることを否定してかかる宗教である。
だが其処でお前は間違って居るから死ねと言って居るのではない。
死んではいかんとも言って居る。
お前は馬鹿だから死ね、とは言って居ない。ー其の馬鹿とは頭が悪いということではなく、心が曇っていて何も見えていないという意味での無知蒙昧な様のことを云う。ー
其の馬鹿のことを無明と呼び、普通人間存在は皆この無明の境涯に生きて居る。
然し此の無明の境涯から脱出出来れば、其処でようやくまともな人間になれる。
其のまともな人間のことが目覚めた人間=仏陀ということで、もしそれが成ればすべての苦しみから解放されるということになる。
無明の逆が明知であり明智である。
明らかに見るということを、其のひとつをとってしてももはや現代人には其れは不可能である。
だが幾ら不可能だと言われても努力を続けていく他に明らかになっていく術が無いのである。
だからそうした一種の不可能性への挑戦を挑んでいく以外に現代を生きる凡夫の道はない。
明知である精神の段階には達して居ない我々凡夫がものを見る時には、其処に邪見が入って仕舞って居るのでまず物事をストレートに見られて居ないのである。
ただし私の場合はこう考えて居る。
人には心に於ける幅がある。
無明の人は無明の人なりに明知への方向性を持つ人と逆に自ら明知への方向性を閉ざして仕舞う人との両方のタイプがある筈なのである。
実際特に仏教とは関係して居なくとも心の清らかな人は居られるのである。
そうした人と接して居ると何やらとても清々しく感じられる。
そうした人は多分明知への方向性を持つ人なのだろう。
逆にドス黒いものを多分に感じさせるような心の人が世の中には居るもので、そうした人と対して居ると何やらこちらの持って居る明知への方向性からの拒否反応が起こったりするものだ。
仏教というのは結局心、つまりは内面世界を対象とした宗教なのである。
神や救済といった外部からの関係性を対象とする宗教ではない。
謂わば自分の心の馬鹿さ加減、阿呆さ加減を少しずつ治していくように心を変えていくのが仏教の目的なのである。
『無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒という。』
仏教というのは真理追求を人間心理の上から行っていく試みなのである。
其処でもし自分の心理に真理は必要無いと思って居るのならば仏教に縁する必要も無い訳だ。
特に現代に於いては真理は一つではない。
本当は真理は一つなのだけれど、真理相対主義を標榜する現代に於いては真理は一つではない。
従ってまず現代人には仏教に縁していくか、其れとも絶縁していくかということの選択の自由がある。
其れは本質的に苦から逃れるか、或いはそうでないかの方向性の選択の自由でもある。
無常であるのに常と見る。
其れが我我のものの見方の常である。
目に見えるものに捉われて仕舞って居るから、そう見えざるを得ないのである。
それで実際に何かが変わって仕舞ったりすると、ひどく悲しくなる。
然し其の悲しみこそが苦だと仏教は説く。
苦に満ちているのに楽と考える。
もっとも生きることは楽しい。
とほとんどの人がそう考えて居る。
精神や肉体の病を患って居る人以外のほとんどの人がそう考える。
或いは他の様々な苦境に陥り其処に喘いでいる人以外のほとんどの人がそう考える。
だが仏教はそんな楽しさは本当の楽しさではないと説く。
其れは本当の楽しさなのではなく苦であることを楽しいと勘違いして居るだけなのだと説く。
あくまで本質的にはそうしたことになるのだと説く。
普通欲望の成就が行われると我々は楽しさ、嬉しさを感じるものなのだが其処で其の欲望の成就の感受を行って居る心理状態にあること自体こそが苦であると仏教は説くのである。
其うしたレヴェルの低い心の段階で欲望の成就にとらわれ欲望の解放に耽溺して仕舞って居ること自体が苦の元だと説かれるのである。
人間本位の自我は無我であるのに我があると考える。
それにしても、2600年も前に仏陀が無我だと言ったのに何とあのデカルトはわざわざ近代的自我を発明したのであった。
つまり近代とは脱真理の時代で、人間存在がある意味で邪な自我に基づき世界を構築していった試みなのであった。
本来ならば我は無いというのに、逆に強固な時代の自我を形成していったのが近代という倒錯の時代の正体なのである。
であるからして近代人は皆我は有るなどと頑なに信じ込んで居る。
我の物、我の考え、我の家族、我の将来、が皆一番大事なことなのである。
地球の未来、日本の将来、仏教の明日といったことなどには正直関心が薄い。
其れ等は我と関係が無いことではないのだが今此処に有る我と其れ等は直に結び付いて居る訳ではないのだから。
また不浄なものを浄らかだと見なしている我我。
もっとも其の前に清浄だの不浄だのと言われてももはや我我にはピンと来ないのである。
一体何のことを言っているんだ、この妙に真面目腐った清浄野郎めが、なのである。
こんな風にダイソンでゴミをすっかり取り其処へしっかりファブリーズしておけば充分に清浄だろうが、この清浄野郎めが、なのである。
こんな風に今我々には一体何が綺麗で何が汚いものであるかということでさえ分かりにくくなって仕舞って居るのである。
よってこの浄不浄の観念につき今一度考えてみることが文明にとっての急務のことでもある。
我我凡夫の見る浄とは何か美しいものや清潔さのことをそう言って居るのではないかと思われるのだが、実はそういうことではなく心の浄不浄の方こそがここで問題として捉えられなければならないのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1523回) ..2013/09/27(金) 23:29 No.4599 |
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いずれにせよ仏教というのは、恐るべき宗教である。
価値観の根本が違うのである。
其処では生きることは苦だとされて居る。
生きることが苦である以上は、この世に彷徨い出て来るよりは出て来ない方が良いということになる。
いや、本当に、こんなことが分かる奴などもはや現代人には居ない。
実は私も分からない。
分からないままに仏教のことをこうして述べて居る。
仏教を少しでも分かる様にしたいからこそこうして述べ続けて居るだけなのかもしれない。
「無常」ということは本質的な意味に於ける、あらゆる価値の保存の不可能性を言って居ることでもある。
つまりどんな価値でもこの世に保存することは出来ない。
血統も権威、権力も、また善き好ましきことも悪しき厭うべきこともおしなべてこの世には保存出来ない。
肉体は元より精神は保存出来ないし藝術もまた保存出来ない。
そして実は自然も保存出来ない。
自然でさえ様々な影響で壊れて仕舞ったりもする。
どうも保存出来ないということこそが本質だと其処には述べられて居るのである。
「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」諸行無常偈
近代的な価値観とは渇愛に縛られ常の世界を求めていくことだろうまさに顛倒の世界観のことを言う。
其処ではまさに『無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしてい』るのである。
Wikipedia-仏教の存在論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99#.E4.BB.8F.E6.95.99.E3.81.AE.E5.AD.98.E5.9C.A8.E8.AB.96
『仏教そのものが存在を説明するものとなっている。変化しない実体を一切認めない、とされる。また、仏教は無我論および無常論であるとする人もおり、そういう人は、仏教はすべての生命について魂や神といった本体を認めないとする。そうではなくて釈迦が説いたのは「無我」ではなくて「非我」である(真実の我ではない、と説いたのだ)とする人もいる。衆生(生命・生きとし生けるもの)と生命でない物質との境は、ある存在が識(認識する働き)を持つか否かで区別される。また物質にも不変の実体を認めず、物理現象も無常、すなわち変化の連続であるとの認識に立つ。物質にも精神にも普遍の実体および本体がないことについて、「行為はあるが行為者はいない」などと説明されている。』Wikipedia-仏教の存在論より
近代的な価値観とは無我論では無くして有我論の立場に立脚して打ち出されたものだ。
また近代的な価値観とは無常論では無く常住論の立場に立脚して打ち出されたものだ。
つまるところ、近代的な価値観とは非仏教的な価値観に立脚して打ち出されたものだと言える。
が、そうであるからこそどうも近代以降の人間存在は妙に元気である。
それこそ皆がパワフルで、いつしか諸外国を飛び回り何でもかんでも兎に角欲して生き仕舞いには宇宙へも飛び出す位に精力的なのである。
だから其れこそが有我論であり常住論であるところでの顛倒した世界観の持ち主にして初めて可能となるだろう人間の異常な元気の良さなのである。
我々が小学生の頃に、小学校の先生にどう教え込まれたかというと、其処では常に前向きであれ、積極的であれ、ということを良く聞かされた覚えがある。
特に私が小学生の頃は丁度高度経済成長の頃だったから、其の傾向が顕著だった。
仏教では魂や神といった絶対的な存在を認めず、変化しない実体を一切認めないとされて居る。
其処で結果的に変化しないものをあえて見つけだすとすれば其れは仏であり仏性であるということになる。
然し仏というのは超越者ではないので、其の仏でさえもこの世に生まれて来てそしてやがて死んで仕舞うのである。
仏というのは人間の最後の心の段階、心の修行の最終段階にある者がこの世に生まれて来て成し遂げる人間としての究極の心の境地のことを言うのである。
だからあえて言えば其の仏としての究極の境地自体は永続性を保つことだろう。
つまりは仏という境地だけが永遠で、他に永遠であるものは何一つ無いのである。
近代的な価値観に於いては良く愛は永遠である、などと語られて居ますが、仏教の立場で言わせて頂けば愛はむしろ束縛であり執着であるゆえに捨て去るべきことなのである。
仏教では愛にとらわれればとらわれる程に煩悩に深く苛まれて居るということになる。
そして私の実感からすればむしろ愛は刹那である。
刹那に拘泥することこそが愛という行為の実体である。
もっとも顛倒した世界観に於いては愛は永遠である、とも言い得ることだろう。
其の逆しまの世界観でもってやって行っていれば、そうした言い方もその場限りでの真実となることだろう。
然し愛は永遠である、という世界観でもってずっとこの先やって行くと様々な不利益が将来生じて来るように思えてならない。
其の愛に比べれば物質はもっともっと不確かなものである。
さて『物質にも精神にも普遍の実体および本体がない』という仏教の立場は究極のニヒリズムなのである。
何処にも実体すなわち拘りの固定軸=執着をつなぎとめて置けないのである。
流れ流れて、流されてで、まさに浮き草人生、其れもそも自分が居ないのだから其処で本質的には喜怒哀楽も無く拘るべきことも無いのである。
喜怒哀楽や何かに拘ることに心が向いて仕舞うのは自分の心が汚れて居るからなのであり、汚れた心で世の諸と相対するから明らかに見ることとは全く別の盲目的な見方をして仕舞って居るのだと仏教は説く。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1524回) ..2013/09/29(日) 18:17 No.4600 |
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「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」諸行無常偈
諸行無常 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%A1%8C%E7%84%A1%E5%B8%B8
『生滅の法は苦であるとされているが、生滅するから苦なのではない。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのである。この点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場である。 なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いている。』Wikipedia-諸行無常より
ここで生滅すること、生滅する存在であること自体が悪いと仏教がいっているのでは無いのである。
そうした一切が無常の存在であることに気付かないことこそが苦の原因であると仏教は説く。
たとえば生滅する竹林は其れ自体に問題がある訳ではない。
其の竹林が失われて悲しいと思って居る私自身のとらわれの観念が苦の原因となり苦を生じて居るのである。
たとえば生滅する伊太利亜物万年筆は其れ自体に問題がある訳ではない。
其の伊太利亜物万年筆が失われて悲しいと思って居る私自身のとらわれの観念が苦の原因となり苦を生じて居るのである。
つまりはすべては私の見方そのものが悪いということになる。
竹林も伊太利亜物万年筆もたまたま色んな要素が集まり其処に現れいでて来て居るもので、其れ等は実は元々簡単に滅び去るものである。
其れがいつまでもある、少なくとも私が生きて居るうち位は堅固に存在すると思って居るという其の認識がそもそも甘くて誤りなのである。
そして其の誤った認識で無常のものを見るから悲しみが生じて仕舞う、つまり苦が生じて仕舞うのである。
つまり、何かが消えても、本当は悲しみなどは無い。
物が消えても、生命が消えでも、本当は其処に悲しみなどは無い。
と言えば仏教は非人道的だと思うかもしれないのだが実は本当の仏教とはそうした人非人宗教のことなのである。
人非人であろうが先祖や伝統を敬わない不逞の輩であろうがそんなことはお構いなし。
ただ仏になる為の正しいものの見方を培うことだけが仏教の目的なのだ。
尚、多くの方が知らないことかと思われますが釈迦は自分の死後に自分の遺物ーつまり遺品や遺骨などーに掛かり患うなと厳しく戒め言い遺して居ます。
釈尊の仏教はむしろ徹底した合理主義で、墓も遺骨も先祖も何も無い、死んだら終わり、とは釈尊は言って居ないがむしろ其れに近いような超ドライな考え方だった。
其れから之も多くの人がご存知ないかもしれませんが、仏像、実はあれは釈迦自身が作ってはいかんと仰って居たもののうちの一つです。
偶像崇拝を釈迦は禁じて居たことと思われる。
仏像を拝んで居る、其れも奈良の大仏のように権威のあるデカ仏を我我日本の凡夫が拝んで居る様をお釈迦様がご覧になったらさぞや落胆されることかと思われます。
また仏教は人間にとっての苦を滅することを目的とする宗教なのであり、実はこの世に蔓延していることだろう社会的な問題や矛盾そのものを解決していこうとする試みでは全然無いのである。
つまり、仏教にとっては人間の内面世界を正していくことにこそ意味がある訳で、その時々の時代の方向性の誤りなどについては我関せず、ということになるのである。
だから現代がいかに顛倒した時代であろうとなんだろうと、確かに其れは時代や社会のあり方が悪いということは言えるにしても、 其処で個々の人間がいかに正しく其の悪い有様を見据え、かつ自分の心の中で其れ等の方向性を正していくかどうかということに問題は尽きて居るのである。
であるからもっとひどい時代、大戦争や大飢饉や大自然災害のある時代であっても、其の起こった様々な大問題自体が問題なのではなくあくまでそうした逆境の時に於いてどう正しく考え行動していくかということにこそ仏教の目的があるのである。
仏教はあくまで人間の外側をどうのこうのするという宗教ではないのである。
また外側が悪いから自分も悪くなっていい、ということを認める宗教でもない。
どんな時代だろうとどんな境涯だろうと仏に向かって一直線なのが結局人間を本質的に苦から解放する道であると説くのである。
従って今世の中が悪すぎて実際腐り始めて来て居るのだとしても、それでも仏教にとっての問題は其の世の中の悪さ自体にあるのではなく自分の心のものの見方の悪さの方にこそ存するのである。
ただし仏教の説く正しいものの見方とは現代人の常識的なものの見方とは大きく隔たりがあるから其処は気を付けて見ていく必要がある。
現代人が良いと思って居る概念が仏教に於いては悪いとされていることもまた多いから、何が悪くて何が良いのかということを仏教書など読んで良く確認しておいた方が良いことだろう。
諸行無常(しょぎょうむじょう)−−−すべての存在は移り変わる 是生滅法(ぜしょうめっぽう)−−−是がこの生滅する世界の法である 生滅滅已(しょうめつめつい)−−−生滅へのとらわれを滅し尽くして 寂滅為楽(じゃくめついらく)−−−寂滅をもって楽と為す
寂滅為楽-煩悩を滅した悟りの境地が真の楽しみの世界であるということで、同時に生死には必然として苦が生ずるから真の楽では無いということを述べて居る。
つまりこの世でどんな素晴らしく完全な境涯を得たのだとしても、其れは本質的に楽では無く苦であると釈尊は観じて居たのである。
では何が本質的な楽なのかと言えば、寂滅こそが其の本質的な楽であると云うのである。
「寂滅」とは生死の苦が無く煩悩の無い状態である涅槃に至ったことを云う。
ちなみに涅槃=解脱=仏である。
尚「寂滅」とはいかにも景気の悪い話ながら、むしろ其の景気の悪い話であるのが仏教の話での本質なのである。
現世に対して前向きにとか、積極的にとか、精力的にとかいうのは皆反仏教時代である近代が創り上げた概念であるに過ぎず、仏教はそんなこと我関せずであくまで「寂滅」の方を目指して歩んでいくのである。
むしろ「寂滅」に対しては常に前向きで積極的であれと原始仏典には屡そう語られて居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1525回) ..2013/10/02(水) 00:24 No.4601 |
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私は日頃から民放のTVドラマなどは視聴しないことにして居る。
というよりもそうしたものに縁して居る時間そのものが無いのである。
だから「半沢直樹」とかいうTVドラマもNHK制作ではあるが「あまちゃん」とかいうTVドラマも全く見ておらず其の内容が分からない。
然し、昨日の中日新聞夕刊で梅原 猛先生が「半沢直樹」のことを褒めて書いて居られた。
連載中の「思うままに」というコラムの中で資本主義のモラルということを論点に据えて居られ、「半沢直樹」には資本主義のモラルを厳しく問うて居るところがあり其処が良いと仰って居られたのである。
また社会性の強いドラマであることも良いということであるのらしい。
然し私は、流行語になって居る「倍返しだ」という「半沢直樹」の中でのセリフに大きな違和感を感じて仕舞うのである。
「やられたらやり返す、倍返しだ」
CMのようなもので、このセリフだけは聞いたことがあるのだが、此れこそは全くひどい言葉である。
なぜなら右の頬をやられたら左の頬を差し出すのが正しい宗教者というもので、こんな倍返しの復讐劇などで問題が解決する筈もないではないか。
それも、調べてみたらこのセリフは次第にエスカレートしていったのだそうで、「十倍返し」「百倍返し」となっていったのだそうである。
然し、其処で少し考えてみれば分かるが、「十倍返し」「百倍返し」すると相手の方もやがて「十倍返し」「百倍返し」でやり返して来るのではなかろうか。
だからそんな怒りに任せた復讐劇はダメなのである。
それは誤りだ。
また其処については宗教から学んでおいた方がよろしい。
ちゃんとしたキリスト教や、ちゃんとした仏教から是非学んでおくべきなのである。
ちゃんとした宗教には必ずや共通する良い教えというものがある。
だから宗教というものは大変大事なものである。
宗教教育を否定する日本の教育界は其の部分をよーく考えてみて欲しい。
其れから世の中に流行る言葉には大抵の場合低俗性、通俗性が宿って居るものであることを今一度確認しておいた方が良い。
言葉というものは高等なものほどむしろ人気が無いものであることが多い。
ごく一部の境地の高い人にしか理解出来ないような言葉は人気が出ないのが当たり前のことである。
さて、問題は、私が小学生の頃には「倍返しだ」という言葉が流行語になることは考えられなかったということなのである。
昭和四十年代の前半、あの頃はまさに高度経済成長の時代で日本国民の誰もが経済力至上主義に走って居た時代なのだった。
それでも、モラルのようなものは今よりもずっとはっきりしていたし其れは案外堅固に存在していたのである。
金儲けの方を向いては居ても、大人の人々は結構難しいことを言う人が多くて、「倍返しだ」などというモラルに欠けた言葉が流行語になるということは当時考えられなかった。
然し、何故今はこうした言葉がスッとそのまま流行語になって仕舞うのだろうか。
私は其処に明らかに時代のモラルの低下ということがあるように思う。
されどモラルと言ったって、今はもう誰しもなるべく刺激が強くてスカッとするようなものしか求めて居ないのである。
モノが充ち足りてそのことにも満足出来ないのでなるべく強烈な何かを心の底でいつも待望して居るようなところもある。
万年筆だって二百本も三百本も持って居れば、其処へ新たに選ぶペンはなるべく強烈な個性を持つモデルを求めて仕舞うようになる。
ここからしても要するに欲望には限りがなく、かつ歯止めが効かないものなのである。
欲望が野放しであるとすれば必ずやそういうことになる。
本来ならば、人間存在にとって欲望は適度に抑えるべきものなのである。
そして欲望を抑えると、今持って居るものの真の価値に気付くことも出来る。
だから欲望は限定なのである。
いや、限定されているからこそ望ましい欲望として成立するものなのである。
欲望が野放しになって仕舞った時代に於いては、欲望の歯止めが効かなくなるばかりか、言葉の選択や考え方の低級化が野放しという傾向の付属品として蔓延するに至ることだろう。
其の望ましい欲望とは、初期のキリスト教や初期の仏教が大切に保存していたものなのである。
初期のキリスト教や初期の仏教には聖なる言葉、聖性の部分がなにより存して居たことだろう。
そして共に邪な過度の欲望を抱くことに対して固く戒めて居たのである。
其れ等の聖なる言葉が何故現代から失われて仕舞ったのだろうか。
聖性が剥奪された現代という時代は一体どこへ漂流していくのだろうか。
尚、「やり返す」という行為は、マイナスの欲望の成就のことにほかならない。
されど仏教ではプラスとマイナスの両方の欲望の成就を共に否定して居るのである。
では一体何を求めて生きて行けば良いのだろうと其処で思うのですが、其れを一言で言えばなるべく求めないこと、またやり返そうとも思わないこと、之が正解なのである。
また御飯などもなるべく腹一杯に食べたいなどとは思わないこと。
謂わば少食知足。
また俺は偉いなどとは思わないこと。
俺は自称ながら詩人だから偉い。
俺は画家なので偉い。
俺は学者なので相当に偉い。
俺は教師だから普通の人よりは偉い。
そういう風には思わない方が良いのである。
諸の煩悩を沈静化しいくことが仏教の教えの内容なのである。
またたとえば誰々の宗祖様が絶対的に偉いとか、極楽浄土へ是非生まれたいとか、ということに関してもそういうことではない。
貴方様ご自身の欲望を統御することこそが仏教に於ける修行の内容なのである。
たとえ僧衣を纏っては居なくとも、煩悩を沈静化しいく試みを常に行う人は仏弟子であり修行者である。
僧衣を纏っては居ても、煩悩を沈静化しいく試みをあえて行わない人は破戒者であり謗法者である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1532回) ..2013/10/10(木) 10:46 No.4608 |
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現代社会にとっては「自己」や「自由」という概念が常に重要である。
然し其れが真に大事なものなのかということを仏教の立場に照らし合わせつつ考えてみたい。
現代社会が我々に思想として強制しているものとは近代的な価値を成り立たせる為の近代的な「自己」である。
が、其の「自己」は近代の幻想から生まれた自己イメージであるにほかならず、其れは決して普遍的なものではない。
対して仏教では自己は無いと考える。
すなわち無我である。
其の無我なものが縁起によりたまたま出現しているのがこの現実である。
ということはこの現実つまり現象自体には意味が無く目的も無いのである。
つまり生は元々無意味なものなのである。
其の無意味な生に限定的に大きな価値を与える試みをしたのが近代という時代のもつ本質的意味である。
其れは加工を施したということである。
加工すべきものではないものに加工を施し「自由」に生きようとしたということである。
さて、真の「自由」とは、限定であると先に私は書いて居る。
無制限の自由などはあり得よう筈がないのである。
この体は限定で、この心も限定のものである。
其処から想定せられるべき筈の限定されたあるべき社会の姿と今の世の中の姿とは全く異なる。
限定であり無我であるところの無意味な価値を無理矢理につくった自己の中で価値化しまさに其の幻想の価値を生きて居るのが近代という倒錯の時代の正体である。
あくまで仏教的価値観の方からはそう見えるという話である。
ポストモダン的な私の考えからもそう見えるという話である。
もっとも近代的思考の側から見れば、無論其の逆の見方が出来る訳ではある。
さて、かって釈尊が説かれたように無我なものが縁起しているだけのこの現象世界に、元々目的も意味も無い訳なのである。
翻ってキリスト教的に其のことを言えば、此処は楽園では無く楽園を追放された者共が住まうところなのである。
ゆえに其の追放者の子孫は其処で神を信じて生き抜き救済を待つしかない訳である。
一方仏教ではこの世は無明の人々が住まうところだということになる。
其処では心の盲人だらけなので何も明らかに見えていないのである。
愛欲だの物欲だの、現世に於ける様々な欲に縛られて生き、ほんたうのものに触れる機会を奪われて仕舞って居る。
つまりは其の目的と意味が本来無い筈の現世にあのバベルの塔のように巨大な科学的、或いは経済的大伽藍を建造して居るのが今の世の中のほんたうの様と言うことになる。
ただし此の大伽藍は宗教施設ではない。
科学と経済とが一致協力して造った商業施設の人工楽園のことであるにほかならない。
然しながら其の人工楽園は脆い。
目的も意味も無い筈の、其の諸行が無常に過ぎ去る筈の世界に構築されし夢幻の大ローマ帝国であるに過ぎない。
現代の大ローマ帝国であるに過ぎないのだ。
本来無制限に自由では有り得ない筈なのに無制限の「自由」を求め、本来無我である筈なのに「自己」をただひたすらに求める。
我我の生活はそうした構造にこそ支配されて来て居る。
其処にこそ依拠し、其処にこそ愛を育み生きる。
釈尊の教えによれば我我は縁起の現象であり、其の縁から独立自存し自由になる事などはあり得ない。
つまり我の無い我我に自由は本来無い。
また釈尊の教えによればこの世に普遍的な価値や目的というものも無い。
つまり生は元々無意味なものであるに過ぎない。
ただし其の無意味な生を価値化することは可能である。
其の事が無明の境涯を脱して明知に至るということにほかならない。
其れがいわゆる仏の誕生のことだ。
尚、釈尊の教えによれば普遍的な価値や目的というものの無い以上、此の世に神の存在などは認められないということとなる。
つまり元々神は居ない。
ただし神が居るとしてそう信じて生きていくことを否定するものではない。
それこそ其れはご自由なので、どうぞといった話である。
尚、そのように本質的には自己は無いのだとしても、どう考えても自然界に主体性の発現ということは認められる。
主体性が無ければ生命は自己保存出来ず、現実を強く生き抜けないものとなって仕舞う。
だが其の主体性と自我とはまた別物である。
其の主体性とは生きんとする盲目的な意志であるかのように見える。
其れは自由では無い意志のことで、本能的な意志つまりは無明の範囲での出来事のことだ。
意志や志向、といったことの底には無明が潜んでいる。
かように無明は生命を本質的に冥くして居る。
だが無明を脱することはまず不可能である。
此の近代大ローマ帝国を生き抜いて居る限りには。
また完全な自由、完全な幸福はかえって完全な不自由であり完全な不幸のことでもある。
つまり明智を得て仏になるということは完全な不自由であり完全な不幸である状態に至るということでもある。
すなわち生の動機としてのなにものももはや其処には存在し得ないのである。
然し問題なのはあくまで佛には成りえない凡夫としての我々がいかなる動機でもってこの世を渡っていくかということに尽きている。
仏法では其れが慈悲だと説いている。
慈悲とは無明が解体されて後に始めて輝きを放つことだろう生の動機の光そのもののことを言う。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1537回) ..2013/10/21(月) 23:57 No.4613 |
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先日面白い記事をネット上でみつけ、そのことについて様々に考えさせられたりもして居た。
其れは日本人の運動能力の測定結果に関するもので、正式には何という測定だったのか思い出せないのだが、兎に角其れをしてみたところ、若い世代ー二十歳位までのーの運動能力は最低レヴェルにあり、逆に65歳以上の高齢者の運動能力がドンドン向上して居るのだそうである。
つまり、今の子供たちの運動能力は或いは我我50代よりも低いものとなって居るのかもしれない。
体を使わない生活、頻繁に手や足を使わない合理主義文明がこのように人間の体を根本的にダメにしつつあるのだ。
尚我々は高度成長時代に小学生だったのだが、その頃はそれでもまだ周りで自然は開発中だったから野山は身近に残されて居た。
それで其処を始終駆けずり回って体を鍛えて居たから多分今の子供達よりは余程に運動能力が高かったことだろう。
ところで何故文明はそうした深いところにまで考えが及ばないのだろうか?
一流大学を出たごく僅かな秀才が社会の根幹の部分を担って居るであろう筈の世の中なのにこの体たらく、この社会のお粗末さとは一体如何なものなのだろうか。
そんなものは誰が考えても携帯やらゲームやらに漬け込まれて居る子供らの体がダメにされつつあるだろうこと位は分かる。
誰が考えても何が悪いかということ位は分かって居るのにどうにもならない状況というものがあり其処を分かった上で現代の人間存在は生きていかざるを得ないのだ。
要するにバランスが悪い。
悪過ぎるのである。
すべからくに対してのバランスが悪い。
バランスがブッ壊されて、スッ飛んで仕舞って居る。
今まさに人間存在にとっての本質的な価値がすべからく解体されていきつつある。
其れがこの21世紀に於ける文明社会の構造である。
またたとえば自然との関係に於けるバランスが何より悪いから、十月も後半だというのに台風が次々と来る。
それで色々と被害がある。
其の被害も一部に限定されて大きく被る傾向がある。
すなわちこの部分でもバランスが悪い。
さらに人間の心理の方に於いてもバランスが悪い。
なぜなら今や我々は利己主義の塊である。
もっとも愛などとは良く言われるが愛とは元々一歩誤れば強固な利己主義を形成することだろう二面性のあるものである。
この真の意味でのバランスを取る、ということはなかなか難しいことだ。
真の意味でのバランスを取る為には両極端を見極めなければならないことだろう。
たとえば万年筆でバランスを取る為には、或いは真実に気付く為には、限定万年筆もやらねばならないし古典の万年筆もやっていく必要があるのだし、それとたまには伊太利亜や中国や台湾などの万年筆にも手を拡げて理解していく必要があるのではないだろうか。
手広くそして部分的にも深く、様々な両極面を見極めていく必要がある。
ゆえにバランスを取るには、最低限視野を拡げて両極を見定めておく必要がある。
だが経済一辺倒、科学技術一辺倒では一方向の現在と未来しか其処に見えて来ないではないか。
経済原理や科学技術には基本的に内省力が無いから多角的な思考が出来ないのである。
このように経済原理や科学技術をより合理的に突き詰めていくと人間存在の進むべき道はドンドン狭まって行く。
人間存在の可能性が増すのでは無く逆に可能性が奪い去られて仕舞う。
ついでに多様性の方も其処で奪い去られて仕舞うこと必定である。
多様性とは何かと其処で考えたとしても現代人は今まさに知恵無しカボチャなので其の意味するところが全く分からない。
実はそんなことは自然を見つめて居るだけで分かることなのだが、それも現代人には真の意味で自然を見つめる機会がそもそも無いと来て居る。
すべからくに対しバランスを取り戻す。
矢張り本当はこれしかないのである。
たとえば小さな問題につきバランスを取り戻す努力を行なってみる。
之は出来ないことではない筈である。
あらゆる身近な小問題につきバランスを大切にした意思決定を行なっていくこと。
ところが大きな問題となるにつれ人間存在は程良いバランスを取ることが出来にくくなって仕舞う。
大は結局小の連なりだから其処で小の方がバランス化されれば大の方もバランス化されるだろう、という考え方もないではないが私の場合は其れは違うだろうと思う。
大の問題は小の問題とは異なり、精神的な意味での強力な批判勢力が是非必要な筈である。
そして其の部分をこそ、是非作家や詩人は担っていかなければならないのだろうと思う。
大衆に受けるような、いかにもベストセラーになりそうな作品を生み出すこと、そうした大衆迎合的な行為でこの世の中の動きが変わるだろうとは思えない。
何より滅茶苦茶なことを言う作家、キツーい言葉ばかりを連ねる詩人の登場を私自身が待望して居るところもある。
そうした部分でのバランスもまた大事なことではないかと思うからなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1543回) ..2013/10/30(水) 00:08 No.4619 |
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私には今文明社会は病んでいるのではないだろうかと思うことが屡ある。
其処では既存の諸々の社会制度が崩壊しかかって居て、実はかなりに危ない段階に入りつつあるのではないかとの疑いが日々募って来て居る。
また其のような傾向を引き起こして居る要因についても様々に考えてみることが多い。
ただ、私は基本的に文明が壊れていく其の過程を何処までも冷静に見つめていくべきだとは思って居る。
社会が悪いということを理由にして自分が責任を放棄してはいけないと思って居る。
何の責任かと言えば世の中の矛盾や不条理を見つめていくという自称の詩人としての責務を全うするという意味での責任である。
尚私の場合は金を稼ぐだけの為の仕事だけをやって居れば其れで良いなどとはちっとも思って居ない。
また趣味の世界だけに没頭して仕事でたまりにたまったストレスを解消したいという思いも人一倍持っては居るのだけれど、どうもそれだけでは本質的な自己解放には繋がらないことだろうと思っている。本質的な自己解放とは自分なりの社会に対する意見を持ち其れを世に示していくということに尽きている。
本当は其のことを仕事としてやらなくてはならない哲学者のような専門家の人々が此の世の中には居る筈だというのに、現代は思想や哲学が実質的、実効的な力を持ち得ない時代なのであり、其の代わりに科学力や経済の力がどこまでも一方通行的に肥大化していきつつあるのだ。
さて、先日私が病気になって病院にかかり手術をしたということを述べたところだ。
其の折にひとつ大きな違和感を感じたことがあったので其のことについてまずお話ししたい。
私が最初に病院へ行った時、真面目な性格の私は一番に診て貰おうと思い随分早く病院へ行き必要な書類なども全部記入した上で病院の受付が開くのを待合室で待って居たのであった。
無論のこと並び順としては一番乗りなのである。
椅子の最前列に腰掛けて受付のシャッターが開くのを待って居たのである。
始業時間になったので、其処でシャッターが徐々に開いていったのは当然のことなのである。
ところが驚いたのは、シャッターが開くと其処には病院の医療事務担当の女性事務員が十名ほども横一列に並んでしかも深々と頭を下げつつ我我患者を迎えて呉れたことだったのだ。
其れは、確かに悪い気分である筈はない。
だが私に限れば其の光景自体に強烈な違和感を感じて仕舞ったのであった。
何で其処までやる必要があるのか?
しかも公立の病院が。
つまりは市民へのサーヴィスのつもりなのだろうか、其れが。
でも此処は銀行やデパートではない筈である。
病院であるのならば、もっと患者への受付の対応を良くするということで充分に我々は満足出来る筈なのである。
或いは医師の患者に対する対応に於ける質を高めて欲しい。
そちらの方がもっとずっと本質的な意味でのサーヴィスの向上要件である筈なのだ。
無論病院側は其れを行った上であえてお辞儀もやって居ますということなのだろう。
然し、私は其れを不必要なことではないかと感じたのである。
或いはそう感じる私はもうすでに古い人間になって仕舞ったのだろうか?
でも昔の病院はそんなことまでしては居なかったがちゃんとして居たのだった。
全然不満を感じるようなことはなかった。
確かに今公共的なサーヴィスに大きく圧力がかかりつつあることは私自身が良く知って居ることである。
何故なら私自身が今公共性の高い仕事をしていて、そうした公共性のある場には様々なプレッシャーがかかって居るということを良く知って居るからなのである。
ではあるが、其のプレッシャーによるサーヴィスの向上というものも、煎じ詰めればどうでも良いようなことにまでイチイチ気を遣わなければならないような一種下らない部分さえあって、決して全部が質の高いサーヴィスに繋がるというものではないのだ。
それと、一体いつからお客様が神様に本当になって仕舞ったのだろうか。
昔確かにお客様は神様ですとか屡言われては居たのだったがそれでもお客様が本当に神様である訳ではなかったのである。
1.人的サーヴィスとは人間性を最大限に尊重するという近代の人権思想から紡ぎ出されたところのものである。
2.人間を尊重し過ぎると実は其のサーヴィスは陳腐化することさえもがある。
其れは要らぬお世話、くどいサーヴィスに陥るだろう危険性も常に伴って居るということだ。
今、普通にやって居ることではいけないという意識が世界中のサーヴィス業、或いはサーヴィス業以外のすべての業種に拡がりつつある。
月に20万、30万とは全く安い賃金だが、でも其れを貰うために必死に仕事をしなければそれすら貰えなくなるのだからサラリーマンは皆必死に働いて居る。
其の安い給料を貰う為に必死の思いで毎日労働して来て居る訳である。
だが、果たして昔は其処までやっていましたか?
私はやって居なかった筈だと思って居る。
なのだから此の新種のグローバル資本主義の競争原理があらゆる業態に組み込まれて仕舞うと此れはもう本当に大変だ。
要するに競争激化の為に本質的には要らない部分でのサーヴィスまで其処で求められ仕事量が増え気遣いなども増すので今後はサラリーマンも全く大変である。
また今後このように医療の部門や教育の世界に競争原理が導入されていくとまさに大変なことになる。
だが本来ならば医療や教育の世界は一種の聖域に近い分野で、それこそ欲まみれ、金まみれの世界にしていくべきものではなかった筈なのである。
ではいったい誰がこんな不毛の利益追求至上主義を掲げて突き進んで居るのだろうか。
其れは文明社会自身が其のことを望み其のことを為せばより良い進んだ社会になるとそう考えて行なって居ることに過ぎないのである。
実際其の倒錯度たるや、もはやかなりの域に達して来て居るのだと言えることだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1549回) ..2013/11/06(水) 22:57 No.4625 |
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確かに日本人は戦後の民主化政策に於いて様々な意味でかなりにアメリカナイズされて来たことと思う。
だが其処で一番肝心なことは、日本人は結局精神の面ではアメリカナイズされることなどは無かったということなのである。
たとえば日本人はハロウィーンと言われたって其れが何の祭りのことやら皆目分からないのだし、キリスト教と言ったってこちらも一体何を信仰して居る宗教であるのやら、そんなことは本質的には全く分かりはしないのである。
最近の若い世代の家庭ではハロウィーンを祝うのだそうだしまた結婚式は教会で挙げたりもする訳なのだが、そもそれらの意味が分からずただ感性に流された上でやっているのだとするといかにも軽薄なことだと言わざるを得ない。
どだい風習や慣習というものは地域の文化的な伝統により培われて居るもので、其の文化的精神抜きでもってして外国の風習をただ真似るだけというのはいかがなものだろうか。
いまや日本人は其の辺りの価値観が壊されて仕舞って居る。
いや、確かに我の友人の一人も25年程前にとある教会で式を挙げ、我も其の式には参列して居たのである。
当時は其れが余り不思議なことだとは思わなかったのだが、今考えてみると確か立正佼成会の会員だった筈の友人が何で教会で式を挙げたのか全くもって分からぬ。
どうでもいいのですが、人生にとって重要なこととは一体何かということを今日本人は是非再確認しておくべきなのである。
人生にとって大事なこととは経済や生活のことばかりではなく、其の上位の概念としての確固とした信仰を持つことや文化的な伝統を大事にしていく心のことである。
どうも戦後の日本人は大事であるべきところをむしろないがしろにして来、そして実は本質的にはそれほど大事なことでもなかったことだろう経済的な 繁栄や科学技術の発展のみを懸命に追い求めて来たのではなかったか。
其の結果が現在の此の訳の分からぬような文化的、精神的な退廃を招くに至ったのだ。
確かに日本人はいまだ神社へも詣でるのだし、皇室の話題なども結構好きだったりで宗教心がありかつ国家を大事にする真面目な民族であるかのように振舞って来たのだったが、其処で一皮剥けば其の精神的拠り所つまり精神的支柱は実は存在せず、一言で宗教と言っても其れはただの慣習としての行事のことをそう勘違いして居るに過ぎないのである。
戦後進駐軍が日本人を精神的に纏める為に是非必要だと判断して皇室の存続を認めた代わりに天皇は統帥権を剥奪され象徴としての存在となったのだったが、実はその折に国家神道の否定と共に結果的に宗教の否定ということが行われて仕舞ったのである。
日本国憲法には確かに信教の自由ということが保証されては居るが、そも国家や天皇に対する信仰心が弱められ自国の文化への文化的関心が薄れた戦後の日本人に何かを信じるという意欲も失せたのだからして、実は其処に信教の自由も何も無く何かを信じるということ自体が成立しなくなっていかざるを得なかったのだ。
其の代わりに戦後の日本人は経済と科学の力だけを信じてこれまで必死にやって来た。
経済大国になり、科学的な先進国となってなおも今その道こそは正しいと思いやって居る。
然し日本人の精神性は今崩落しかかって来て居るのではないか。
其れはそも分かって居ないのである。
たとえば国会議員であるのに、園遊会で天皇に手紙をお渡しして仕舞うような非常識が事実存在することと同じように、今日本人には何が一番大事な部分であるのか、其の精神性の核の部分の何たるかということが全く分からなくなって仕舞って居るのだ。
日本人の精神性は結局のところ、これまでずっと鎖国を続けて来たのである。
日本人の精神は近代化など微塵もされておらず、実は明治以降もずっと幕藩体制のままだったのである。
むしろ其の為に戦後もアメリカナイズされて来ないで済んだ。
いや、ハロウィーンを祝ったり教会で式を挙げたりすることからも今は矢張りアメリカナイズの度が進んで居るのかもしれない。
が、本質的には日本人の精神性はむしろぶっ壊されて来たのである。
根本から西洋化するのではなくして、またかっての東洋主義に戻るのでもなく、ただぶっ壊されて白痴化され何も分からなくなりつつあるのだ。
其の何も分からないという世界に於いては屡宗教的な価値が軽んぜられることとなる筈だ。
また其処では伝統的な文化や諸制度が崩壊していくこととなるだろう。
事実今日本人の多くは宗教を価値として捉えられないような心理状態にある。
其の事は合理主義思想の浸透と見る向きもある訳だが私の見方は其れとは異なる。
なぜなら欧米の社会では確かに合理主義思想の浸透が進んでいるが、彼等はいまだ確固たる信仰を貫き、近代というナショナリズム思想を世界中に広めんとして躍起になって居る。
つまり彼らに於いては宗教はまだ死んで居ない。
神が死んで居るのだとしても、宗教自体は生き残って居る。
対して此処日本に於いては、宗教自体が危ない。
宗教よりも仕事や生活やカネの方が余程に大事である。
尚、昔芥川 龍之介が近代教=生活教という宗教があることを『河童』という作品の中で示して居る。
青空文庫ー河童 芥川 龍之介(十四を参照のこと) http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/45761_39095.html
芥川が此処で描いたのは、一種精神性の崩壊した国に於ける宗教のことなのである。
生活とは元より下賤のことで聖性の存する宗教とは本来ならば別物である筈のことなのである。
然し、此の河童の国では其の下賎であるべき筈の生活がイコール宗教となって仕舞って居るのである。
あの芥川 龍之介がもし大正時代に現代の日本の精神性のあり様を予見していたのだとしたら、これはもうとんでもないことなのである。
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| 投稿者: オノト (講師/49回) ..2013/11/07(木) 17:27 No.4626 |
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Siriusさん、お久しぶりです。僕は日本人の精神などというものは存在しないと思っています。つまり、日本人特有の精神などというものはなく、時代時代によって日本人はいかようにも変わってきたのではないでしょうか。「もののあわれ」とか「無常観」とか、「わび」「さび」などというのは、本当に日本人の精神を映しているのか、かなり高尚な限られた人達の「たわむれの心」に過ぎないのであって、これをして「日本人の精神」というのは間違いだと僕は信じています。悲しい事実は、「日本人の精神」とかいって特攻隊というおぞましい命令を下した国家に私たちは住んでいるということです。「日本人の精神」というのは宗教に似ています。宗教が「縛り」であるように、「精神」とひとくくりにされるものもまた、「縛り」となります。 個の力を僕は信じたい。その個の力が現代人にはなくなってきている。それは自分で物事を深く考えて行動していくために必要な力です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1550回) ..2013/11/08(金) 23:03 No.4627 |
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オノトさん、お忙しいところをいつもご意見を頂き有難うございます。 また日本人の精神につきましては、私にとりましては一種新鮮なご意見を有難うございます。
私の考えでは今の日本に精神が存するのだとして其れは一体何なのだろう、どうももはや何処にも日本の精神と呼べるような 一貫したものが存在しないのではないか、或いは時代の精神という風に言い換えてもよろしいのですが、そうしたものがもはや欠落して仕舞って居るのではないか、との虞が生じ、だとすれば何でそんな風に日本人にとっての精神性が崩壊または分解していくのだろうということを常常考えて居ります。
ー「精神」とひとくくりにされるものもまた、「縛り」となります。ー
と上でオノトさんが述べておられますが、まさにその通りなのだと私も思います。ただ、最近の私は其の人間存在への「縛り」の必要性ということにつき屡考え及んで居ます。前近代的な精神性がーつまり宗教や道徳観などに於ける規範性がー人間を本質的に縛るものであったのかどうかということにつき考えて居るのです。
其の事は一面では反理性、反自由意思ということの安定性の確認でもある訳なのであります。一種抑圧されて居た人間の精神が解放されるという其の近代の過程の逆課程とでも申しますか、そうした過去へと遡った場合に果たして今の精神が解放された人間と当時の人間とではどこがどう違い一体どちらの方が本質的に幸せだったのだろうというようなことを常常考えて居ます。
仰る通りに国家神道の命ずるところでの不条理の道を歩まざるを得なかった戦時下の日本に於ける日本人の精神性たるや惨憺たるものでした。国家に対して捧げられた個としての生命の尊厳、人間としての自由な意志の剥奪ということは全体が個を呑み込む様の不気味さということを何より示して居ます。
またオノトさんの仰るところでの「個の力」を重視していくという考え方のことですが、個人的に非常に興味深く思います。 私の場合は元々どちらかと言えば個人主義の人間ですし、また最近は小乗仏教からの影響などからも個が達成する究極の精神的境地つまり明知に近づくことにより人間の幸福は達成され得るのではないかとも考えて居ます。
其れは宗教的と言えば宗教的方向での考えなのですが、実はそうであるばかりではなく、哲学や歴史などを一通りに齧った挙句での、そうした人文科学系の知の統合として導き出される境地とも重なり得るような気が致します。 私は知性的なものによる思索の積み重ねで未来を切り拓いていくことでしか実は未来は拓けないのじゃないかとも屡思います。 其れは自然科学に於ける理性的な物の見方ということだけではなく、矢張り人文科学系の持つ内省力を発揮したところでの知力を大いに活用していかなければ成らないのではないかとも思います。
尚私は近代ナショナリズムー評論家の宮崎氏の造語ですがーというものもひとつの時代の精神でありひとつの時代の縛りではないかとも屡考えて居ます。 さらにオノトさんが「個の力が現代人にはなくなってきている」とも述べられていますが、様々な意味で私もそのようなことを感じることが多いように思われます。 本来ならば個が精神的に解放されていてしかるべき現代に於いてどうして個の力が弱められて仕舞って居るのでしょうか。
実際個が全体を論ずることが余りにも空疎なことになりつつあるように見える現代社会です。 一個人が全体の問題を論ずることは、もはや無駄な努力と言いますか或いは無理を承知での愚行とでも申しますか、其処では結局不毛の論議に終始することになって仕舞いかねません。 だから諸の権利を与えられ自由である筈の現代人はかえって非常に視野が狭く、ゆえに其の場限りでのことを刹那的に生きていかざるを得ないことでしょう。
其処では現代社会という巨大なシステムに太刀打ち出来るような広い視野を持つことは常に難しい訳ですが、理性的な部分だけに傾き過ぎない知性は練磨されることによりより輝きを放つことが出来る筈のものだと信じてやまないところが私にもあります。
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| 投稿者: オノト (助教授/50回) ..2013/11/09(土) 19:07 No.4628 |
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Siriusさん、ご意見を伺い、本当に私にとりましては頼もしく感じます。私はいわゆる団塊の世代の最後の年に生まれた者で、若いころには今とは違って、大学紛争やら様々な若者による闘争がありました。そんな私が若い人達を教える立場になって36年になりますが、残念なことに、若者たちはどんどん「個の力」が失われてきています。この点については私には何もできない無力感があります。「個の力」の弱化は社会全体の弱化につながっていることも確かなのではないでしょうか。はっきり言って、今の日本はいろんな意味で「病んでいる」と思います。対外的な問題にしても、個々の問題として捉えることをせず、政治家という「化け物」にほとんど丸投げしてしまっている。団塊の世代は若い頃、いろんな問題を、直接かかわりがあろうとなかろうと、個々の問題として捉えていたと思います。「個の力」が大事なのに、失われてきていると私が考えるのは、私が団塊の世代の人間であること、且、長年、若者を教えてきて直接接してきた経験に基づいているわけです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1551回) ..2013/11/10(日) 18:09 No.4629 |
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オノトさん、「個の力」の衰退ということに関してですが、実は最近私は其れが何故弱められつつあるのかということにつき屡考えて居りました。 以下は穿った見方になるのかもしれませんが、今思いつくままに其の考えを書いてみます。
まず、現代という時代は人間を大事にして来た時代であるということが大前提として此の考えの元にはあります。 近現代という時代は人間を大事にすること、つまりは一般大衆を解放すべく歩んで来た時代なのだと考えられます。 すると、当然ながら其れは個が大事にされる時代でもある訳です。 部分的、局所的には確かに近代戦などの勃発によりむしろ人間がないがしろにされた時代でもあった訳ですが、大枠で現代人は諸の権利を獲得し封建制度からの解放が其処に達成されて居る訳です。 其れは長い間の人類の夢でもあったことだろう。ところが現代に至り其れが行き過ぎて居る部分も出て来て仕舞ったのではないか。
そんな訳で至れり尽せりである個に於ける反骨心のようなものがどうも育たない。 個が大事にされ、かつ何でもありの世の中になり、それで結果的には過保護となり与えられるものだけを無制限に求め続ける腑抜けのような人々に現代人はなりつつある。
無論のこと其処では時代の流れということも大きいことかとは思います。 かってのインテリ層は本気で社会と闘争して居たのでありますが、現在はどうも其のインテリ層にも事なかれ主義が蔓延しつつあるのかもしれない。 ただしこちらの方の事なかれ主義は大衆レヴェルでの現実迎合の様とは異なり、理念、理想を実現するには余りにも巨大になり過ぎた現代文明の推進力に対する無力感から齎されているものなのかもしれません。
ところで何でも大事にされ過ぎると弱くなる、ということは実は自然の摂理とも言えることなのかもしれません。
ー「個の力」の弱化は社会全体の弱化につながっていることも確かなのではないでしょうかー
と上でオノトさんが述べて居られますが、まさにその通りのことと思われます。 なぜなら個が確立して居ないということは個が寄せ集められ形成されるであろう社会の根幹の部分に於いても其れが脆弱で曖昧であるということを示して居るからなのであります。
私は個の力というものは一種の「はみ出す」ことの出来る力ではないかと常常考えて居ます。 たとえば昔の作家や詩人の作品に於いては其の「はみ出す」ことの出来る力のオンパレードを見ているようでまさに痛快ですね。 読者つまり大衆には迎合せずに無茶苦茶やって居るので其れは今から見ればほとんど病気のようなものですが実は其れこそが個性的であり美しくさえも見えます。
でも「はみ出す」ことは一般の現代人には一種恐怖であることなのかもしれません。 現在の現代人にとって恐いことは環境問題や社会問題などではなくお金の無いことや病気になることなどです。 それから会社を首になることや妻にソッポを向かれて離婚する羽目になることなどです。
つまりは現代人は今生活教の信者として生きて居る様に見えます。
然し、「はみ出す」ことによってしか見つめられないこともまたあろうかと思われます。 ひょっとすると、強力な個の力は此の「はみ出す」力が培って居たものなのかもしれません。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1553回) ..2013/11/13(水) 22:49 No.4631 |
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或いは個が問題として捉えることの出来る其の問題の質の矮小化、非連続化ということが今の現代人には起こりつつあることなのかもしれません。 其の小さな領域とバラバラの問題意識に於いて、今我々はかなり利己主義化して来て居て、自己の生活と直接関わりのある物事の中にしか差し迫った問題を見いだせないで居ます。
ですが本当は社会の問題は大問題として厳然と其処に横たわっているものなのです。 であるにも関わらず自らの関わる問題として其れを実感的に把握出来ないで居るのです。
私のように大問題ばかりを常に見つめて居るような変人はさておき、現代人はひょっとすると問題を正視すること自体に疲れて来て居るのかもしれません。 テクノロジーや経済の仕組みの進み方が余りにも早くて、もはやついていけないようなところが本当は誰しもあることだろうと思います。
ただ、其れは表立っては言えないことなのです。 俺はもう文明に疲れたからドロップアウトしてしまいたいよ、とか言って良いのは大抵の場合藝術家に限られて居ます。或いは都会を脱出して田舎暮らしを志向して居る反体制的な人々に。
またおそらくは学者の方々にも様々な立場上の制約があることと思われます。社会へ提言する際にも其の制約が何かと邪魔をしているのではないか。
ただ、最近私は何冊かの本を読んでみて気付いたのですが、矢張り学者の方々の中には大問題を自らの問題として、或いは個々人の問題として捉え直して居る向きも存在するようです。 其処には所謂全体論的な視点からの文明批評、社会考察というものを見いだすことが出来るのです。
そうした傾向は私にとって大きな期待であり希望なのでもあります。
そうした傾向から、またはそうした傾向が今後膨らんでいくものならば、また違った今後の文明の展開が、つまりはより良い未来への展望が展けて来ないとも限らない訳です。
ただし自然科学者の中には文明にとっての悲観的な未来像を予測して居る方々が結構居られるようです。 現代科学を自ら推進しながらそう思って居るということは其処でまさに自己矛盾的な世界に陥っている訳なのではありますが。
さて、つい先日ですが、個に於ける明知への方向性が何故大事なのかということを考えてみました。
今、何故其の事が大事なのか?
其れは、全体としての明知への方向性が閉ざされているかのように感ぜられるからこそ個に於ける明知への方向性が大事になって来るのであります。
実際今や現代社会は迷走を続けて居るばかりです。
つまり、大きなものになった場合に人間の作るものは大抵の場合おかしな方向へ進んでいくものと相場が決まって居ます。
実際今や地球温暖化対策ひとつをとっても、あれだけ会議を開いて居るにも関わらず世界中でまるで出来て居ないという現状があります。
つい先日もフィリピンが史上最強の台風にやられて多くの国民が亡くなりましたが、其れが地球温暖化の影響でそうなって居ること位は今や余程に鈍感な御仁でも分かることかと思われます。
其の強力な台風が日本へ来る可能性も今後はあるのじゃないかと今夜母が私に言いましたが、其処は専門家でないので正確には分かりませんが矢張りどう考えてもこれからはそうした自然の猛威のようなものが増えて来る。
そして其れ等が必ずや此の日本国を襲うことになるだろう、と一応そう答えておきました。
然し、もはや全体としての其の恐怖に対する対策や備えを其処で期待すべきではないのです。
全体というものは、組織的なものなので遅かれ早かれ雁字搦めになり、つまり身動きがとれなくなり何も出来なくなるものと相場が決まっています。
日本の仏教をはじめとする宗教の世界が現在形骸化する方向へ流されて居るという事実にも其の組織的な問題構造があると私は見て居ます。
然し、逆に言えば個というものは案外容易に方向転換出来るものです。
いや、確かに現代人は個のレヴェルに於いてもすでに雁字搦めです。
だから本当は容易に方向転換出来るものでは無いのです。
だが、個は矢張り組織程身動きが取れないものではない筈です。
確かに個は全体に縛られ、或いは抑圧されているのかもしれませんが思想、信条の自由が憲法にうたわれて居るここ日本では個人が精神的にどんな方向性を持ったにせよあくまで其れは許されて居ることです。
従ってパラダイムシフトはまず個のレヴェルから行なっていくべきものなのかもしれない。
実際現代人は知識だけはあるのだから其の知識を寄せ集めただけでも、もはや自分の子供や孫の世代にまともな社会、まともな地球を手渡してやれないということ位は分かって居る筈です。
其処に知恵は無くとも、知識はあるのだから未来予測位は出来る筈でしょう。
であるからこそまず自分が率先して考え方を変えていくべきです。
大欲望中心に生きるのではなく、所謂少欲知足で行った方が良いのです。
其の方がすべからくに対してのリスクが小さくなります。
ところが現代社会というのは基本的に大欲不知足の世界観にドップリと浸かって居る。
常に無制限に欲して居る。
金も、モノも、寿命も、愛も、何でもかんでも、常に腹一杯に食べたい訳だ。
その様や即ち餓鬼道そのもの。
其処へ少しだけ鎮静の作用を取り入れてみませう。
たとえばあの仏様の考えを少しだけ取り入れる。
或いはあのキリスト様でも良いから兎に角一度人間の頭の中を沈静化してみませう。
今時まさにあの、大きいことは良いことだ、 などと考えて居るのは格好悪いことこの上ないことです。
本当は小さいことこそが良いことなのです。
貴方のご家族や知己に是非この思想を広めてみて下さい。
すると、或いは50年後には人間が餓鬼道から脱して少なくともまともに考えられるだけの知恵が得られているのかもしれない。
尚2050年頃から文明に真の意味での危機が訪れるだろうと考えて居る自然科学者は現在世界中に結構居られます。
私の印象では明らかに人文科学系の学者よりも自然科学者の未来予測の方が悲観的です。
自然科学は一種厳密性のある学問ですので、データやシュミレーションの結果からそうした未来図がほぼ正確に描き出されて来るのです。
だからそうした未来を迎えるのが嫌だというのならば、個々人のレヴェルで思索を重ねまた深めつつ行動していく他ありません。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1557回) ..2013/11/18(月) 22:32 No.4635 |
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其の小の思想というのは、煎じ詰めれば其れは大きく考えて小さく求めていく、という考え方のことなのです。
然しあくまで考えることはその都度大きく考えていく必要があるのです。
何故大きく考える必要が其処であるのかというと、現代とは所謂脳化された社会で人間の頭の内部を生きて居る社会であるに過ぎないからなのであります。
つまり当然にそうなるであろうという未来を、その人間の欲望に基づいた未来へのシナリオを現実化していく試みが近現代に於ける人間社会の特徴であるように見える。
まあ其の辺りはあの養老 孟司先生の此の考え方が多分的を得ている筈なのでしょう。
ところが未来がすべて確立した計画性の内側にあるものとしたら、それこそ想定外の事柄には社会は対応できずクラッシュして仕舞う虞が常につきまとうということになる。
そして其の部分を軽視して居ると原発事故や自然の猛威による災害などにはほとんど対処出来ないということに陥る。
其れは煎じ詰めれば物事を小さく分割して捉え過ぎて居るからそうなって仕舞うのでしょう。
自然科学や経済学に於ける所謂理性による分析的な思考、合理主義的な思考が其の大元には存しています。
つまるところ分析的に統合された知により部分的に問題解決を図りつつ脳内で確定されているべき未来を実現していくという試みが現代社会の推進力の正体なのであります。
其の全くの人工物である世界にドーンと自然が押し寄せて来るともはや理解不可能な、或いは想定外の現実と接することとなり社会は崩壊することになって仕舞います。
つまり、そうした社会システムによる文明の持続可能性は低いものであるに過ぎずまた其れは極めて脆いものだとも言える。
其れは何故かというに、自然の中の一員である筈の人類だけが其のようなはみ出しの思想を演出して居るのでいつかは自然からの拒否反応を受けて仕舞うことだろうからなのです。
もしも人類が完全に確定された未来を生きたいというのであれば、それこそSF映画のように宇宙を旅することの出来る巨大な宇宙船を建造して其の中に人工物としてのありとあらゆる知を積み込み人類は永遠的に宇宙空間を彷徨っていれば良いのです。
実際に自然科学者の中にはそうした妄想のようなことを平気で信じ込んで居るような人さえ居ます。
たとえば人類を火星へ移住させるという研究なども今米国では真面目に取り組まれて居ます。
それもSFでの話ではなく、あくまで本気での話です。
私が自然科学には内省力が無い、現実を多角的に捉える力が無い、と前々から言って居るのはそうした事実からも言えることなのであります。
されど一体誰が好き好んでこの素晴らしい宇宙船地球号を捨てあんな変な不毛の地、火星へなど行きたいものでしょうか。
そうした思考は一種の科学的な楽観主義に培われたもので、それこそ一旦は地球をぶっ壊しても科学の力は其れを必ずや修復してみせる、という位の一種馬鹿げたような信仰が彼らの間には根強く存して居るのです。
元より宇宙とは不毛の地で人間が生きていくところではありません。
宇宙は此の素晴らしい地球から見つめて居るから美しいのであり、だから一番大事なことは宇宙のことを考えることよりもまず先に此の地球自身を人類の諸々の破壊力から守り抜いていくことなのです。
さて此処で、先にオノトさんが提示されたところでの、個の力の衰退ということにつき今一度考えてみましょう。
養老思想から導き出されることとは、脳化のレヴェルが進んだ人工社会に住み慣れた我々には「ああすれば、こうなる」型の思考が蔓延しているということです。
其れは自然界の複雑な系より導かれるところの複雑な因果関係と比せば極めて単純で短絡的なところがあります。
其れは謂わば現在も未来も全てが分かって居るという現実を我々自身が選択して生きて居るということにほかなりません。
すると其れは多様性が崩壊し個性的なはみ出しの力が排斥されていくという過程そのものにも見えて来る訳です。
そんな訳でこの部分からも人間の個の力の無効化が促進されていくということが良く分かるのであります。
然しながら其のはみ出しの力というものは、むしろ大きな部分でははみ出してはいけない訳です。
其の逆なのです、逆。
小さな部分でははみ出すことで個の力はむしろ促進される訳ですが、大きな部分つまり社会や国家のレヴェルでははみ出すとより大きなものーたとえば自然ーから常に叩かれて仕舞うことでしょう。
大きく考えて小さく求めていく、という考え方は丁度其のことを言ったものでもある訳です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1626回) ..2014/03/11(火) 21:29 No.4715 |
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ビートたけしが震災直後に語った「悲しみの本質と被害の重み」 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140311-00000000-pseven-ent
『今まさに苦しみの渦中にある人を笑いで励まそうなんてのは、戯れ言でしかない。しっかりメシが食えて、安らかに眠れる場所があって、人間は初めて心から笑えるんだ。悲しいけど、目の前に死がチラついてる時には、芸術や演芸なんてのはどうだっていいんだよ。』
藝術と演芸は質的に全く違うものだと思うが、藝術が目の前に死がチラついて居る時にどうでもよいものとなり得るということは確かにその通りのことだろうと思う。 ただし目の前に死がチラついて居る時に藝術のことしか思い出せなかったということもごく限られた人々の場合には充分にあり得ることだろうが。
また藝術よりは宗教上の真理や信念の方が其の目の前に死がチラついて居る時には重要な役割を果たすべきものなのかもしれない。 されど戦後確固たる宗教観が無くなって仕舞った日本民族に於いては其の宗教上の真理や信念自体が一般的に無い状態にあるので結局それも望み薄である。
戦後民主主義に於いて日本民族は宗教という人間にとって最も大事なパラダイムを重視せず曖昧にして来て仕舞ったことは大きな誤りであったと言えることかと思う。 その代わりに日本国は経済大国とはなったが、日本人にとっての精神的な支柱のようなものが脆く弱くなって来て仕舞って居る。
尤も精神的な支柱が消えたという訳ではないのだが其れはかなりに弱体化されて来て仕舞ったのである。
『一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。』
其の通りのことで人間存在とは元よりそうした限定的な存在であることでしかあり得ないものだ。
人間が此の世に存在するということはそうしたエゴの海の中を渡るということだ。畢竟人間とは其の位の者でしかあり得ない。 俗人としてつまり凡夫として血の連続性だの国家や組織を信ずることだの、はたまた人を愛することだの、自分にとっての物質的お宝だのをそうして後生大事にして生きて居て、いざ天災だの病気だのでそれこそ目の前に死がチラついて居る状態になると其処から離れていかねばならぬ事が兎に角怖くて怖くて仕方が無いということの悲惨さもすべては其処に起因して居る。
だからそうした人間存在にとって避けられない苦しみを滅する為に佛教というものが生まれたのである。
此の世のあらゆるものに執着することがそもそもの間違いであると佛教は説くが、其のことを真の意味で分かる人は多分一億人に一人位しか居ないことだろう。
従って世界には大体七十人位しか居ないだろう筈だ。
其れでも現代人は仏陀にはなれない。
仏陀が生きて居た頃とはそも時代が違うので佛教のことが完全に分かる人などもはや現代人には居ない。
『逆に言えば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。』
其の通りのことで日本人は世界でも稀な位に所謂生活至上主義者ばかりの民族となって仕舞った。 特に戦後民主主義の世界観に於いて顕著にそうなって居る。
今や日本人は生の全体性を理解する為に本当は必要な生の観念的な側面がほとんど理解出来ない。
本来なら生は観念性抜きに成り立たない程に悲惨なものである。
生きることは本来色々と考えざるを得ない程に、また宗教に頼らざるを得ない程に悲惨なことだ。
然しアノ脳天気なグローバル資本主義国である米国の真似をした為なのか戦後の日本人は妙に楽天的に生きて来て仕舞った。
然しながら生はあのディズニーワールドの様に楽しいものでもなく夢のあるものでも元より無い。
いや、一方では確かに夢や希望さえもが存在するのが生の営みなのではあるのだが、其の逆の面もまた在るということを本当は常に意識して居なければならないのが実相としての生の側面である。
戦後日本人は其の生の実相を見つめることを自ら放棄して来たのである。
放棄するから、逆に分からない。
何もかもが分からなくなる。
だから分かる様にするには逆に生の暗い方の側面をしかと見つめていく必要がある。
たとえば太宰 治や芥川 龍之介の全集本を買って何年もかけて其れを読んで居るとおそらくはそうしたことが実感出来るようになることだろう。
ま、他に夏目 漱石や坂口 安吾などでもよろしいのではありますが。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1627回) ..2014/03/11(火) 21:29 No.4716 |
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『それでも、オイラたちは毎日やるべきことを淡々とこなすしかないんだよ。もう、それしかない。 人はいずれ死ぬんだ。それが長いか、短いかでしかない。どんなに長く生きたいと思ったって、そうは生きられやしないんだ。「あきらめ」とか「覚悟」とまでは言わないけど、それを受け入れると、何かが変わっていく気がするんだよ。』
其の通りで此の世に生きて居るしか能が無い凡人達は皆必死に日々の刹那刹那を懸命に過ごしていく他為し得る事が無い。
聖なる存在では無い凡人共はそうして日々あくせくと其の瞬間、瞬間だけを生きて行かざるを得ない。
其の瞬間の積み重ねの末には必ずや死が待って居て、人生が長い短いと言ったって其れは程度問題のことで実は誰でもがほとんど変わらないようなことなのだ。
金が有る無い、持ってるモノが多い少ない、頭の良し悪し、器量良しであるかそうでないか、社会に貢献したかそうではなかったか、勉強したかそうではなかったか、女が好きだったか嫌いだったか、男が好きだったか嫌いだったか、子供の出来が良かったかまたは悪かったか、自然を愛したか否か、仏教徒だったかクリスチャンだったか、はたまたイスラム教徒であったかーイスラム教徒は90年代から増え続け、何と今は倍増して二十二億人も居るのだそうだ。ー、ということは生老病死という生命に突きつけられた本質的命題に対してー其れ等の差異はー何らの意味も持ち得ないということなのだ。
だからこそ大きな部分ではむしろ諦めて、そして覚悟しておく。生の本質、実相を受け入れる。
其のような気分でいつも居れば生きることに対しての執着が次第に少なくなっていく。
ただし私の場合は佛教を奉じて居るにも関わらずそんな聖人には成り切れないから逆に煩悩目一杯でいかにも醜く、そして一刻でも長く生きることを欲する為に日々をあがき続けて来て居ります。
其の汚さこそが何か美しいものを見つめる原動力になり、煩悩目一杯なところが何か聖なるものを見つめる原動力になって居る様に自分では感じられるのです。
煩悩即菩提という言葉も実際に大乗仏教の方にはあります。勿論大きな部分では捨てられるだけ捨て、小さな部分では其のように煩悩即菩提で行くということなのではありますが。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1628回) ..2014/03/13(木) 23:08 No.4717 |
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オノトさん、お体の方、くれぐれも大事にして下さい。 蒔絵万年筆の写真などはよろしいですから是非体調の方の整えが肝要なことかと思います。 充分に休養を取られて、どうかなるべく楽しい今をお過ごし下さい。 私はこのところ胃腸の調子が悪いのでずっと薬を服用して居ますが其れで何とかもって居るという感じです。
尚書き込みの方は消されたようですが私にとっても重要な問題のひとつとして認識している分野のお話でしたのであえて此の件について取り上げてみたいと思います。
Wikipedia-小保方 晴子 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9%E6%99%B4%E5%AD%90#.E7.A0.94.E7.A9.B6.E3.81.AB.E5.AF.BE.E3.81.99.E3.82.8B.E7.96.91.E7.BE.A9
体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発見 −細胞外刺激による細胞ストレスが高効率に万能細胞を誘導− http://www.riken.jp/pr/press/2014/20140130_1/
60秒でわかるプレスリリース http://www.riken.jp/pr/press/2014/20140130_1/digest/
『細胞の分化状態の記憶を自由に消去したり、書き換えたりできる次世代の細胞操作技術となる可能性が高く、再生医学以外にも老化や免疫など幅広い研究に新しい方法論を提供します。今後、ヒト細胞への適用を検討するとともに』 とある部分につきこの際皆様もご一緒に考えられてみて下さい。
ところでそも、人間存在にはこうしたことの出来る自由が与えられて居るのでしょうか? ちなみに私の意見は、おそらくは其の自由はそも与えられて居ないことであろうがそうした人間の試みを否定もしない、というものです。 それが何故かということは今後私が此処で書く事の中で明示していくつもりです。
さて生命科学の分野も自然科学の進歩の必然的帰結として立ち現れて来るものの筈です。 再生医学だの人間のアンドロイド化だの、それこそかってSF文学の世界の話だったものが今後確実に現実化していくのです。
尚私は高校の頃に必修科目の生物クラブでプラナリアの再生の学習研究をして居た事がありますが元々理科系の人間ではないので真面目にやって居らず一緒にやっていた美術部の二人に研究発表などは任せて、後は文学の話などして適当に遊んで居りました。 プラナリアが二つや三つにチョン切っても再生して来るのは全く不思議で見て居て非常に面白かった覚えがありましたが、然しながら其の再生力を人間にまで拡大して仕舞うということは全く神をも畏れぬ所業で、或いはもう少し現実的に言うとプラナリア位の生き物にこそ似合って居ることだろう強力な再生力は人間には不必要であるようにも見えた。 人間はそんなに簡単に再生加工生物にして仕舞ってはいけないのだしアンドロイド化なども本来ならばそうしない方がよろしいのではないか。 人間自体を加工して仕舞う必要は何処にも無くまた人間はそう簡単に加工することなど出来やしない。 だから其の事を観念の力ー哲学的思考や文学的な内省の力、或いは宗教に於ける道義心、倫理観などーから導き出すことも比較的容易である。 然し今や即物的で合理主義の世の中になり其の力が弱まって仕舞って居るから本当はそうしたモノ的に処理してはいけないことだろう人間存在自身の問題を科学技術の方がモノ化しつつ処理して仕舞って居る。 現代社会に於ける諸々の大問題は実は其の観念力の減退から引き起こされて居ることがほとんどである。
其の観念力とは所謂知識のことではなく 智慧のことである。 元より知識と智慧は違い、生きることの上においてー個のレヴェルに於いても社会のレヴェルに於いてもー智慧を増すことは是非必要ですが社会全体が生半可な科学的知識に頼る知識優先主義者ばかりにならないことをただ願うばかりです。
智慧というのは自然科学的な分析手法から発するものではない筈です。 分析つまり部分の探求ではなく全体性の把握であり統合である知恵のことなのです。 世界の代表的な宗教に於ける叡智、藝術に於けるインスピレーション、哲学的直観など、また其れ等の統合された知のことなのです。
Wikipedia-知恵 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A5%E6%81%B5
知識と智慧 http://www.kcc.zaq.ne.jp/riyos/mitu8.html
知恵と知識 童門冬二(作家) http://www.d1.dion.ne.jp/~masehts/2message/tie.html
『企業内に“知識人”がふえて、“知恵者”が少なくなると、この予兆に気づかない。 ・ 知識人というのは、偏差値社会を生きぬいてきた、暗記と整理による知識で頭がいっぱいの人間をいう。 ・ 知恵者というのは、生起する事象に対して、いつ、どんなときにも的確に対応できる人間のことをいう。』
現代社会に“知識人”がふえて、“智慧者”が少なくなると、まさに其の誤りの方向性に気づかないのかもしれない。
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| 投稿者: オノト (助教授/56回) ..2014/03/14(金) 03:07 No.4718 |
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Siriusさん、ありがとうございます。また、問題を取り上げてくださってありがとうございます。日本は変な方向へ今向かっているような気がしてなりません。政治、社会、文化、学問を含むすべての面でおかしくなっています。捏造、盗用、ゴーストライター、「あしだまながいない」(いや「あしたママがいない」)に対する猛烈な抗議、サッカーサポーター、日々起こっているニュース、出来事を見ていると、ここ数年、日本そして日本人はとても危うい方向へ行こうとしているように思います。犯罪者がよく「政治が悪いから、社会が悪いから」と言い訳をいいますが、あながちこれが間違っていると言えないような状況になってきているように思えてなりません。私は年老いた傍観者にすぎません。この状況を打開する手立てを知りません。Siriusさんの言われる知識人が増えすぎたのでしょうか。それとも反知識人と呼ぶべき人が増えたのでしょうか。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1629回) ..2014/03/14(金) 14:48 No.4719 |
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切っても切ってもプラナリア(実験) http://www.youtube.com/watch?v=x-dODHY1VaI
『ところが今は安心感が何処にも無い。 安心感どころか、世の中に対する不安感や不満感の方が多い。 其の不満感というのは、欲中心で生きるから何処まで行っても際限なく欲望が肥大化し満足するということが出来ないのである。 対しての少欲知足とは良く云われることなれど、其の少欲というのは実は非常に理知的、知性的な作業のことを言うのである。 理智の光に包まれ、知を磨いていってこそ初めて人間は少欲の境地に達するのである。 宗教のことも分からず、知も磨かず、ただただ文明の欲するに足る精神たらんとして生きて居ること程辛い境涯は無い。 そういうのがまさに仏教で云うところの無明という状態なのである。』
『いつしかホモサピエンスは歴史という過去から断絶した科学的勝利に酔い痴れ物質的欲望を追い求めて生きるようになって仕舞った。 つまりは人間の本来の精神性が其処に解体されてあらゆる価値観が即物的になって居るのではないか。 そう、科学は人間を即物的にする面も多分に持ち合わせて居ることだろう。 其処で理性的たれと真面目にやって居る割には逆に智慧の方が退化していくから即物的にならざるを得ないのである。』
以上は此のスレッドで以前に私が書いたところから抜粋した文です。
実際社会が悪いというか或いは時代が方向性を見失って居るということはあるのではないかと私も思って居ます。 ただ、其の事は何も今に始まったことではなく人類史の上では流れとしてずっとあったことだったのかもしれません。
然し其の自己矛盾性の拡大、加速化が近代に入って行われ、近代三百年の後の今愈其の自己矛盾性が知性により制御出来ない段階に至りつつあるのかもしれない。 特に理性的方向での流れが一方的に加速していくばかりで智慧=内省力を柱とした知の流れの方が乏しくなって仕舞って居ることがそうした傾向を助長して居るように見受けられる。
それでもオノトさん、私は良く思いますのですが高等教育というものは知力を磨く大切な要件なのだと思います。 勿論大学など行かなくとも頭の良い方は此の世の中に結構居られます。
でも私の場合は大学で学んだことが現在の私の思考にも大いに役に立って居るのです。 私は結局オノトさんが教えて居られるような有名な大学には行けませんでしたが知力の方はずっと自分なりに磨いて来たつもりです。ー実は英語も数学もまるで出来ませんでした。ー
実際知性を持った人間というのは物事が非常に良く見えるようになるということがあろうかと思います。 知力を持つと視野が拡がり様々な事象とまた其処に付随する矛盾点、問題点が明確に見えてまいります。
然しだからこそ今知性にとっては受難の時代を迎えて居るのかもしれません。 あの芥川 龍之介ではありませんが、いままさに其の理知が自己矛盾性を突きつけられて居る時代です。
ただ作家というものが実に偉いものだと思うのは、たとえ自身が滅びるものであるにせよ世間に対しての観察力を最後まで決 して捨てては居ないということです。
高等教育レヴェルでの知性の流れにも自然科学系や経済学系のように理性的な流れに傾いたものと人文科学系、社会科学系の内省力のある知の流れとの二筋の流れがあるように私には感じられて居ます。 其の内省力というのは自己を批判することの出来る力のことでもあります。科学技術が暴走しようとして居る時に其れを諌める力が是非他の学問分野からも必要なのではないでしょうか。
其れは現実的にはなかなか難しいことなのかもしれませんが、出来れば学者の方々には其のことに是非挑戦していって頂きたいのです。
だから私は知識は大切だと思って居ます。知識が無いと考えることすらも出来ません。 考えることが出来ない人間は無明の海に沈みつつただ時代の悪い流れに流されていくばかりです。
ただし知識を正しく活用することの出来る智慧を身に付けなければ其の知識も大した意味は持たないということなのでしょう。 たとえば宗教の機関誌などを読んで居ると屡そうしたことが語られて居るのですし、作家の方々なども折にふれそうした意味のことを述べられて居ます。
以上僭越ながら意見を述べさせて頂きましたが、結局私のような自称の詩人でも文の人は文の人ですので少し外側から文明を眺めるということには慣れて居ります。 其のアウトサイダーとしての視点から述べれば以上のようになるということでしょうか。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1631回) ..2014/03/16(日) 23:51 No.4721 |
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尚21世紀の日本と日本人が抱える問題に就いてですが私は其れをまず何よりも日本民族としての精神性の在り方の問題である筈だと捉えて居ります。
これまでも述べて参りましたように戦後に於いて日本人の精神性が解体され謂わば精神なき国へと変貌しかかって居ることがまず一番の問題点です。
しかも其れが三重に解体されていきつつある。
言うまでもなく最初はあの近代化という明治期での日本の精神に於ける解体過程があった訳です。
其の折に日本は東洋の国家としての斬新的変化を望んだ訳ではなく一挙に欧米近代国家並の国力を得ようとすべての面に於いて邁進したのだった。
従って其の折にひとつの離れ業を演じていくより他に日本国が一等国となる道は無かったのだとも言える。
其の離れ業とは日本人の精神性の解体をも含むものであったと現在私は考えて居ります。
確かに明治期の我が国にはまだ封建時代からの名残りとしての宗教や習俗が色濃 く息づいて居ました。
然し実態的にはたとえば欧米の文化、文物の方がそうした旧来の文化、文物よりも上だと考えられて来ざるを得なかった。
たとえば京都などではまだしも、近代文明を推進しつつある東京では矢張りそうした価値観が最も先鋭的に幅を利かしていたことだったろう。
其処で曰く、日本の文化、文物よりも欧米の文化、文物の方が上である。
ということですので其処では自然と日本人が日本人としての拠り所として後生大事にして来て居たものを捨て去っていく他はなかった。
いや、実際には大正期に至っても日本国はまだまだある意味で日本的でした。
何しろ西洋の猿真似文化、猿真似文明でやって来て居るのですから外側だけは西洋流でも中身はスッカリ日本人で居ることが出来た筈だったのです。
然し太平洋戦争に敗北した日本国は其の価値観までをも放棄して行かざるを得なくなった。
つまりは此処で二番目の精神の解体を経験し、其れは一時的に日本人の精神性に空洞が齎されて仕舞う程に激しいものでもあったのだと言える。
然し其の空洞に経済至上主義や科学技術立国といった幻想が上手く入り込むことで実は其の大きな空洞が空洞として見えなくなっていって仕舞ったことだろう。
其のような訳で戦後の日本人は自分達の精神性の上に何か瑕疵のようなものが生じて居ることには全く気付かないで、兎に角ただより良い明日を目指し昭和と平成の日々を頑張って来たのであった。
だが欧米の社会が生んだ経済や科学技術の制度は其れはあくまで彼らの生み出した文明の産物なのであり幾ら器用な日本人でも長期に亘り其の分野で優位を保っていけるという保証はどこにも無かった。
事実バブル崩壊後の日本社会は経済面での成長の停滞と輸出産業の伸び悩みー特に家電品の凋落傾向が凄まじいーにより今や明日への期待が全く持てない産業状況となるに至った。
そしていつしかふと気付くと日本人からかっては持って居た筈の精神性の高さがいつの間にか消え去り、そればかりか精神の根が存在せずいかにも刹那的でかつ精神性そのものの存在にも疑問を抱かざるを得ないような人間が次第に増えて来て居たのだった。
だから本来ならば経済や科学技術はそこそこにしてむしろ精神の根っこの方を確りと植え込み尚かつ其れを健全な方向に生育させていくべきであった。
無論のこと宗教勢力や教育は其の事に最も熱心な立場であるべきであった。
されど現実にはそうはならなかった。
すべてが其の事とは反対の方向に進んでいった。
だから仕方ない。
すべては仕方が無いことだったとしか言えないのだ。
第三の精神の解体とは近代文明国家としての近代人としての精神性の解体を今後日本国及び日本人が突きつけられていくであろう筈の今後に於ける展開のことである。
近代文明国家はすでに維持していくいくことだけでも大変なこととなりつつあり、世界人口が増えることが分かって居る今後は其の持続可能性は低いものとなると言わざるを得ない。
近代文明が滅びる滅びないなどということはまた別の話としても、新たな文明の仕組みが出来上がるまでにはまだまだ時間がかかり其の間は諸の近代的価値観の喪失に対しての忍耐と受容ということが日本人としての大きな精神的枠組みとなるであろうことは想像に難くない。
だから仕方ない。
仕方ないのだけれど、頑張ろうよ、日本民族。
ーと今はそう言っておく他はないー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1632回) ..2014/03/18(火) 22:32 No.4723 |
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それではかってあの天才詩人哲学者ニーチェが語ったところの自然科学に於ける自己矛盾性ー自己解体ーとは一体何かということを今一度良く考えてみましょう。
私は以下に結構難しいことを言って居るように見えることを書きますが其れは哲学上の存在論につきこれまで自分自身で考えて来たことをなるべくすっきりした形で書いてみたものであるに過ぎません。
存在論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96
だから本当は難しい話ではなくむしろ至極簡単な話です。
さて現実的に人間が生きる上での其の根本の目的とは何かということが問われることがあります。
ところが其の根本の目的がそもハッキリして居りません。
たとえばより良い自分、より良い人間になる為に人は生きて居るのだと多くの宗教はそう教えて呉れます。
其れは聖なる領域での話ですが、其れでも多分に方便化された上での話なのです。
何故なら純粋な意味での聖性は此の世に於いて顕現しないだろうものだからです。
よって顕現しない真理を方便として言語化し此の世に指し示すのが宗教の目的であるように見える。
またたとえばより快適な生活、より豊かな生活を得る為に生きて居るのが人間だと近代社会によればそう述べて居ります。
然しこちらの方はより限定された意味での一種幻想的な目的であるように見える。
其の限定というのは、普遍的ではなくまた継続的ではないということです。
普遍的で継続的なものは理念化、観念化されていきますが、其のように限定的なものは観念性が解体されて即物的なものとなっていきます。
ゆえに近代社会が奉じる人間にとっての目的である価値観は限定的で即物的なものとならざるを得ないのです。
限定的な価値観を一言で言い換えるとすれば其れはエゴイズムという概念へと収斂していきます。
近代社会が奉じる人間にとっての目的である価値観の正体とは畢竟其のエゴイズムのことであるにほかならない。
こうしたことを言うと、其れは違うと思う方が居られる筈でしょう。
然し其れはそうではありません。
此のエゴの集積こそが近代の欲望の正体です。
しかも其れが肥大化しつつある。
会社を首になりたくなくて仕事を頑張るのも其の小さな方のエゴ、 商売を成り立たせる為にあれやこれやと努力することも其の小さな方のエゴ、妻子を愛しその幸福を願うことも其の小さな方のエゴ、国家や共同体などに与して其の繁栄を願うことなどは其の大きな方のエゴ、また此の文明世界の存続を乞い願うことなども其の大きな方のエゴの発現なのである。
ただし其れがいけないことだなどとは言って居りません。
限定的であるということはそうしたことであると言って居るだけなのです。
然しながら、其れが実はそも自己矛盾性を孕むものだったのであります。
限定的である存在はエゴイズムとは深い縁を持ちむしろ其の事によってしか存続し得ないものなのです。
エゴイズムは自己の及ぶ範囲を愛するという本能的な識閾下に萠しているものです。
其の本能的自己を、人類的規模ー文明の規模ーに拡げて行なっていったことが近代に於ける諸の人類の営みの正体です。
ここで思い返してみて下さい。あのニーチェが何と言っていたのかを。
ーーーかってニーチェは『道徳の系譜』の中でこう述べて居る。
「コペルニクス以来人間はある斜面に落込んだようだ、――いまや人間は、いよいよ速力をまして中心点から転落してゆく――どこへ?虚無のなかへ?<骨身にしみる自己の虚無>の中へ?・・・人間はまさに動物に、比喩でもなく割引きも留保もなく動物になり下がってしまった。」
されど普通は、科学によって人間は良くなって来て居る、むしろ獣の方から神様の方へと近づく階段をのぼっていくのだとそう見える筈であ る。
ところがニーチェは其の見え方とは正反対のことを述べた訳である。
科学によって人間は動物そのものに成り下がったのだと何とニーチェは語ったのである。
ニーチェは、「機械論的世界解釈」つまりは「科学的世界解釈」について、「ありとあらゆる世界解釈のうちでもっとも愚劣なもの」だとも語って居る。
もしもすべてが機械論的な因果の連鎖であるのなら、我々の自由意志はなくなり「目標」もないことになるから、つまりはそうしたニヒリズムの時代を我々は歩んでいかざるを得なくなるからこそ愚劣なのだ。
「現在の自然科学のニヒリズム的帰結 (彼岸へ逃れようとする自然科学の試みと並んで)。自然科学の営みからついに自己分解が出てくる。自己自身への叛逆が、そして科学性への反抗が。――コペルニクス以来、人間は中心からXへと転がりだしている。 」(1885-1886年の遺稿より)
ここでもこうして科学が自己矛盾的な世界観にやがて陥るだろうことを予見して居たのか!
人間をより良い世界に導こうとして居る筈の自然科学の力によってまさにこの大自然そのものが壊されかけて居るという現在の現実の様を天才ニーチェは見通して仕舞って居たのである!ーーー
つまり本能的自己を全人類的規模に拡げて何かを追求していくという近代の営みは其の規模は違えど動物の本能的自己の発現と何ら変わるものではないということです。
だから人間は動物そのものに成り下がらざるを得ないということなのです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1633回) ..2014/03/18(火) 22:57 No.4724 |
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此処に曰く、近代とは科学を柱として人間が人間の限界を超えようとしていく試みながら、実は逆に動物に成り下がっていく試みのことである。
「科学的世界解釈」ー合理主義的分析手法ーは人間の思考を唯物論的思考の中に押し込め人間の自由意志や目標を失わせるので最も愚劣な考え方である。
そして其の試みからはやがて自己分解としての諸の様が出て来る。
ただし科学とは人類の進化の上での必然的な価値観の発生のことでもあります。
科学とは限定的な存在が一度は潜らなければならない必然的な進化の帰結としての道程です。
つまり限定的なものとはそも其のような自己矛盾性を孕む存在であるということなのです。
限定的な存在は自己矛盾性を内包しつつ此の世を歩む存在でしかあり得ない。
だからこそエゴに依拠しつつ生き、エゴを離れた真の道理は身につかない。
其のようなものは限定されし存在の目には見えず、其れはただ無明の闇の最中を永遠に漂い続けるだけなのである。
ー個としての限定的存在はすぐに死に絶えますが其の血統は保存され連続性を獲得するが為にー
勿論其のエゴの解体こそが宗教に於ける大きな目的のひとつだったのです。
キリスト教にせよ仏教にせよ其のエゴを解体することこそがおそらくは最終目標だった筈です。
然し共に時代の流れと共に変容し不純性を身に纏うことで宗教としての本来の目的の上では形骸化されていきつつある。
ゆえに人類のエゴの解体は成りません、其れは失敗に終わりました。
されど其の事もまた当たり前のことなのです。
何故なら存在とは限定です。
だからこそ限定とはエゴの発現のことなのです。
もしも存在が永遠のものであるのなら、何もわざわざ限定の存在として此の世にエゴの花を咲かせて居る必要などは無い。
よって聖なるものは此の世には顕現しません。
時間と空間という限定を超えるものこそが聖で、其れは決して此の世には彷徨い出ては来ないものなのだ。
聖なるものとは時空という限定によらずまたエゴによる穢れを知らずあらゆる生の上での限定から解放されて居るもののことでとどのつまりは其れは生きて存在しては居ないもののことである。
謂わば聖なるものとは元々死んで居る。
仏陀も神も元々生を超越して生きていないところにこそ在る。
エゴを持つ限定の存在は、必然的に自己矛盾性の内側に繋がれて居ります。
其のように本質的に自由ではない存在で、エゴという枷に繋がれた限定的な存在であることが人間という存在の正体です。
また其のように自己矛盾性のさ中を漂うものは、時間の経過と共にやがて其の自己矛盾性による刃を自身に突きつけられることとなる。
もっともかって人間が自然と仲良く暮らして居た頃は其の自己矛盾性も小さな刃であるだけのことで済んでいたのだろう。
然し近代に至りエゴが暴れだすと共に其の自己矛盾性自体が巨大化し大きな刃となり人類に突きつけられたのである。
然し其のこともすべては必然的なー存在というー自己矛盾性に於ける歴史の流れの中でのことということになる。
たとえばキリスト教には終末論、終末観という考え方がある。
其処では世界は終わるべくして終わり、其の後に神の愛ー神の叡智ーによって復活させられる魂が選抜されるのだという。
終末論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%82%E6%9C%AB%E8%AB%96
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1634回) ..2014/03/20(木) 22:10 No.4725 |
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それにつけてもニーチェの思想は実に面白いですね。
最も興味深いところは、其処で人間は合理的な基礎を持つ普遍的な価値を手に入れることが出来ないと考えられていた部分です。
ゆえにニーチェの考え方の上では人間が合理的な根拠を持つ普遍的法則に拠り文明を築くことはー本来ならばー其れは出来ない筈なのです。
然し現実的には外面上其のように見えるであろう近代的な文明を人類は築きかつ其れを推進して居ります。
だがどうも其れは本質的にはそうしたことではないらしい。
逆にニーチェは其の試みを獣に成り下がっていく試みであるとまで言っていたのです。
実際理性が幅を利かせて居ることであろういかにも合理的でスマートな世の中になったようでいて、実はドロドロで欲得まみれの世の中になって居るような気が致しますが其れはどうしてなんでしょうね。
理性的に人間を改造していけば神のように全知全能の、また心の澄み切った存在になれるのかというとどうもそうでは無いようである。
人間を理性化していくと逆に元々眠って居た下品な人間の本性のようなものが次々と現れて来るのは一体どういう訳なのでしょうか。
ニーチェは其の合理性の獲得の不可能性という考え方の後に続けてまるで東洋思想のように見えることさえ述べて居ります。
曰く、此の世での価値は流転するものであり絶対的なものではない。
ゆえに人間とはそうしたフラフラしたものを信奉しつつ生きていかざるを得ない悲劇的な存在である。ーまた同時に喜劇的な存在でもある。ー
然しそうした悲劇的認識に徹すれば人間は既存の価値から離れ自由な精神で居ることもまた出来よう筈だ。
其れは謂わば受け入れるということなのでしょう。
自分がそもそうした悲劇の持ち主であるということをありのままに見、そして其の事を受け入れよということなのでしょう。
だから此処まではまさに東洋思想に連なるようなことを述べて居ります。
またニーチェは人間は理性的生物ではないとも述べて居ります。
実際人間は理性的生物では無いように見受けられます。
実感的にはむしろ感情生物ですね。
普通の人は此処での私の話のように理屈っぽい話を好まないものなのですし、今日此の日を元気よく楽しく過ごせれば其れで万事OKなのですし、哲学だの神だの仏だのといった概念はほとんど自分とは関係の無いことばかりです。
もっとも其のように限定された上に限定された存在は自ら考えることも出来ない訳ですから二重に悲劇的であろうかということがあります。
だから例えば宗教ではそうした暗愚な大衆性、通俗性を批判して居る部分さえもがあります。
例えば仏教では無明という概念が出て来るのですし、キリスト教でも原罪という概念があり此の世に彷徨い出てて来て居る人間がすべて良いものー存在ーであるとは言い難い訳です。
ニーチェは其の感情ー特に負の感情であるルサンチマンー中心で生きることこそが生きる上での苦悩を生むのであるから其れを超越していくべきなのであり、其の超越を成し遂げた者が真の意味での強者であり超人であるなどとも述べて居ります。
この辺りもまるで仏教のように感じられる部分もまたないではない。
仏になる為には必然的に諸の感覚や感情を調整していく必要があり、其の為には感覚中心、感情中心で生きて居ること自体を根本的に改めなくてはなりませんがニーチェの思想は其の事にも一種似通って居ります。
所謂永遠回帰説の部分にも反近代、脱近代の思想が垣間見えます。
其処で曰く、 世界は何か目標に向かって動くことはなく、現在と同じ世界を何度も繰り返す。
此の世界に於ける無価値な様はまるで仏教に於ける認識論そのもののようでもあります。
現在と同じ世界を繰り返すという部分は違うと思われますが、繰り返し生まれるという意味では古代印度の輪廻転生思想にも通じるものがあります。
言うまでもなく近現代の文明としての思想とはより快適でより豊かな人間にとっての生活を目指すということなのです。
其れを理性的なものの力で自然を加工することで達成していくのです。
だから近現代の思想には所謂人間中心での大いなる目的が存して居ます。
しかも其の事を達成する為に人類は常に速力を早めて進歩していかなくてはなりません。
経済の方などでもより大きく成長してより大きな経済力を持たなければなりません。
然しどうもそうしたものが私にとってはすべからくうるさいですね。
世界には目標など無くても良いから地球のみんながー鳥獣、虫けら、草々を含めてー仲良くやって居ることこそがそれこそぜんたいの幸福なのではないだろうか。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1635回) ..2014/03/21(金) 22:59 No.4726 |
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「民に利器多ければ、国家は滋ます昏し。人に技巧多ければ、奇物滋ます起こる。」『老子』第57章より
近代文明は相変わらず利器や技巧に頼って欲望の世紀を突き進んでいく。
近現代は歴史上稀な時代で大幻想を抱きつつ其の事を成し遂げつつある。
つまるところ現在とは其のような大なる幻想の只中にある時代を生きることである。
幻想とは実現の不可能性を顧みないで現実を突き進むことのその様のことを云う。
同じ幻想でも色々と妄想しながら現実には行動を起こさない大人しいタイプのものとは異なり其の様やまるで餓鬼道の如くである。
ただし人間が此の世を生きていくということは元来幻想である。
幻想を抱いてこそ人間は此の世を生き抜いていける。
人間が生きるということはそも幻想を生きることなのである。
何故人間が幻想を生きねばならぬのかというと、すべての欲得を離れた清い生き方ということはこの世では成し遂げられぬことであるゆえ其れは幻想とならざるを得ないのである。
完全にエゴを離れた清い生き方は純粋な意味では此の世界に於いて不可能なこととなる。
同時に限定を離れ全体を見通せる視野を持つことなども純粋な意味では此の世界に於いて不可能なこととなる。
限定の存在とは其の本質が其のような存在であることにより此の世に顕現せしめられて居る存在のことで要するに其れは至らぬ性質の生命であるからこそ個として此の世に出て来ねばならぬのである。
其のような存在であるにも関わらず近現代人は人間は何でも出来る偉い存在であると其処でそも勘違いをして仕舞って居る。
然しながら人間はそも限定の存在でエゴという枷に繋がれた自由でも理性的でもない存在なのである。
だが人間は知性を磨くということないしは智慧を得るということは出来る。
其の事を真摯に行えば己が存するところの無明性が狭められ必ずや明知の方向性へと導かれることだろう。
尚人間は幻想を生きる限定の存在ではあるが其の事が無価値であると言って居るのでは元よりない。
逆に人間が生きるということの為には其の幻想が是非必要なのである。
幻想無くして人間はあり得ず、幻想無くして文明はあり得ない。
文明を幻想として生きることは人間にとっての現実的な大きな価値なのである。
ただし真理の世界から見れば其れは甚だ不実な方向性のこととなる。
人間が此の世を生きるということは収奪であり破壊であり無明そのものであることである。
然し人として此の世に生まれし限りは其の収奪や破壊や無明とは無関係では居られないのである。
ゆえに人間が此の世を生き抜いていくということはそも其のような自己矛盾性を孕むことなのである。
謂わば本音では収奪も破壊も無明も誰しもやりたくは無いのだがそも其れをやらなくては生きていけないという其の矛盾性自体を生きるということである。
人間が此の世を生き抜いていく場合に其の自己矛盾性の大ナルを凶と見做し小ナルを吉と見倣すと丁度程よい見方ということになろうかと思う。
小ナル自己矛盾性の顕現は大きく人間の外部世界に影響を与えるものではないが、大ナル自己矛盾性の顕現は大きく人間の外部世界に影響を与えるであろうゆえ其のようなこととなるのである。
皆様が此の世界に於いて日々其の自己矛盾の方向性を生きるということは以上のことからも決して否定されるべきことでは無いのである。
ゆえに生は一方では存在にとって価値がありまた他方に於いては真理ー非存在性ーにとって不実であり自己矛盾性を孕むものなのでもある。
よって其のような中間性を生きるものこそが存在ー生命ーであるということとなる。
然し近代社会の云うがままに思考しかつそのままに其れを敷衍することは大ナル自己矛盾性の顕現を繁くする虞があり其れは可成にリスキーなこととなって仕舞う。
皆様の生活や思考自体には大きな矛盾的問題は無くとも其れが集積した単位での自己矛盾性ー例えば環境に対するなどのーが巨大化し制御出来ない方向へと動いていって仕舞う。
よって其処では少しは文明の与えるであろう恩恵に疑問を抱きたとえば逆に小欲知足の方向へと舵を切ってみることなども大事なことなのである。
生は真理の方向から見れば元よりそのままでは無価値でありむしろ厭うべきことなのである。
事実仏教の修行の目的とは諸のエゴ、諸の執着を滅し己の心を明知に至らしめ二度と此の世には出てて来ないようにするということこそにある。
またキリスト教では此の世を生きる民はそのままでは原罪に繋がれし罪深き人間である。
であるからこそ神を信仰することにより神の恩寵を受け救済されなくてはならないのである。
然し同時に生は無価値なものから価値あるものへと昇華せられるべく設計されしものですらある。
あくまでそのままでは無価値ではあるが、個が宗教を正しく受け入れることにより生を価値あるものとして創り直すことが可能となる。
ただし創り直すことの出来ないものがひとつだけある。
其れはエゴに深く繋がれ欲望にまみれた個の自己矛盾性などよりももっとずっと強大な自己矛盾性を持つもののことだ。
近現代の社会を貫く強大な人間の科学的、経済的な欲望が其の破壊に関与しているだろうことはまず間違いない。
まさにそのゆえに余り其のような幻想の価値に与しないで個としての正しい方向性を持つことが真の生の価値を我がものとするただひとつの手立てとなるのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1639回) ..2014/03/30(日) 15:28 No.4730 |
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三島由紀夫 - 檄 http://www.youtube.com/watch?v=xG-bZw2rF9o
【私の中の25年】三島由紀夫 果たし得ていない約束 恐るべき戦後民主主義
私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、 日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。
この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。
◆からっぽな経済大国に
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。
肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離(かいり)に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、万葉集でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。
私はこの二十五年間に多くの友を得、多くの友を失った。原因はすべて私のわがままに拠る。私には寛厚という徳が欠けており、果ては上田秋成や平賀源内のようになるのがオチであろう。
自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。
この随筆は、昭和四十五年七月七日付産経新聞夕刊に掲載されたテーマ随想「私の中の25年」の一回目を再掲載したものです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1640回) ..2014/03/30(日) 15:40 No.4731 |
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『二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、 日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。』
私見ながら日本人は元々権威、権力に背を向けて生きて来た民族であるように見受けられる。 日本人が戦時下に国の為に戦ったかのように何か誤解されて来たのだけれど、当時日本人が必死に世界と戦ったのは自分のムラや自分の家族の為にやむなくそうしたのであって、或いは其の故郷や家族が含まれて居ることだろう国という組織や天皇という存在の為に戦ったのであり決して純粋に国家や天皇の為に戦って居たという訳ではなかったことだろう。
神国としての国家や現人神としての天皇というがそんなものはなべて近代に入ってからの幻想的な概念のことであり、つまり元々幻想であったところの農耕民族国家としての日本の国という概念をもう一歩推し進めて近代化することによりより抽象化された幻想を其処に現出せしめたものであるに過ぎなかった。
其のような幻想の只中ーしかも謂わば二重に幻想化されて居るーにある民族にとっては実質的な支配者は誰でも良かったのである。
封建世界の折にはコロコロ変わる封建領主ー戦国大名ーで良かったのであるのだし、中央集権が成された後には神国である日本、または天皇という存在でも良かったのであるのだし、戦後民主主義に於いてはGHQが其れに取って代わったのだとしても誰も本質的には不満は無いのである。
つまり元々其処に偽善と詐術が存在していようがしていまいがそんなことはどうでもよいことなのであって、其のような純粋な思想的根っこの無い曖昧模糊たる民族性を有して居ること自体が日本民族固有の精神的アイデンティティなのである。
思想は要らずとも故郷こそが大事、家族こそが大事というそうした小さい民族であることこそがまさしく日本民族の非意志性の表出であり非観念性の表出でもあったのだ。
然し其の事は悪いことではないのだ。
何故なら思想の要らない小さい民族である日本民族は其処を踏まえる限りでは元々非国家的な集団であり非支配的な集団である。
無論見た目にはハイハイと素直に大きな権威、権力に従って居るようで居て実は庶民として生活を楽しんで生きて居るのが上手な民族である。
江戸時代のように幕藩体制で雁字搦めのようで居て江戸の町人などは昼過ぎには仕事を終えてその後は皆寿司を食ったり歌舞伎を見たり花見をしたりでしこたま楽しんで居たのだし、上方は上方でもって元々高い文化力があり其れに加え商人根性など発揮して経済的にも潤って居たのであったし、尾張は尾張でかの徳川 宗春が将軍家の倹約令に反抗して町中に芸能文化を発展させて居たのであるしで、まあ東北の方や他の諸地域での凶作による飢饉の苦しみなどはあったにせよ其処は口減らしで娘を身売りなどしたりして何とかやって居た。
だから其れが日本民族の幸せでなくして他の何が幸せだというのだろうか。
日本民族の幸せとは元々そうした小さな、限定の地域の幸せのことであろうかと思う。
其処へもってしていざ天皇だの革命だのと言い始めた近代の観念的偏向、思想的偏向こそが日本民族を不幸せにして居るのではなかろうか。
確かに私も日頃はまるで社会主義者のようなことを此処に書いて居りますが実は私はホントは左翼じゃありませんのです。
そうかと言って三島 由紀夫氏のように右翼でもございません。
確かにアナーキストですので分類するとすれば極左の系統に入りますが上述したような庶民の小さな幸せを奪うつもりなどは毛頭ございません。
ただし、右翼の三島先生ー尊敬する文学者は皆先生となるーが述べられて居ることは実に的確で戦後民主主義の行く末を心から案じられて居るということだけは良く分かる。
然し民兵組織紛いのことをやって自ら檄を飛ばし自衛隊の決起を促し其の挙句に割腹自決するなんていうのは矢張りどう考えても天才文学者のなすべきことではない筈です。
観念なき日本民族はかえって現実的な融通性には長けて居り三島先生や此の私めのように思想のこと一途ではございませんからむしろ此の腐った世の中を渡っていくのも上手かろう筈です。
尚其の小さい民族、権威知らずの民族、思想なき民族である日本人には国家に与しない共同体意識でいくという理想論的世界を我がものとすることへの高い蓋然性と其の逆に現実的近代世界に国家ごと敗れ去るという強烈な現実的恐怖との二つの未来が現在呈示されつつあるのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1641回) ..2014/03/30(日) 18:00 No.4732 |
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『私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。
この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。 』
其の藝術至上主義者であるかのように見える三島先生の作品は今も昔も日本随一の文藝作品であることに変わりはないことだろう。
尚三島先生がかってひ弱な青年であったという件には個人的に共感のようなものを抱かないでもない。
幼い頃私は矢張りひ弱で、しかも三島先生と同じ様なお祖母ちゃん子であった。
そういうのは良くないことかと思うのだが、兎に角外へ出て金を稼ぎたいという母の積極性から私の場合はそうしたこととなって仕舞った。
ただし三島先生のような真の意味での教養のある子供ではなく、私も確かに12歳頃からすでに詩は書いて居たのだが其れはロクなものではなかった。
ー三島先生は初め詩を書く少年であられ確か詩集なども出されて居た筈である。ー
其れに本当は詩などよりカブトムシとかモデルガンとか独逸の戦車の模型などが好きなただの其の辺のガキであった。
それにつけても自らが生んだ小説や戯曲が排泄物ごときのようなものとして自己に認識されて仕舞う文学者というものは矢張り不幸である。
私は其の気分の底に矢張り法学部出身の、社会だの思想だのを勉強したことのある作家としての業ということを感じて仕舞う。
三島 由紀夫氏が右翼思想に走ったのは矢張りどうしても東大法学部でのお勉強の方が関係して居たことと思われてならない。
文学部出身の作家はここまで思想に走ることはないと思われますがさて其の部分はどうなのでしょうか。
文学部出の作家の人はもっと変なところで屈折したりすることはあるのでしょうが自衛隊に突っ込んだり其処で腹を切ったりということはしないのではないでしょうか。
たとえば『その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい』というお言葉などは、文学よりも結局其の思想の方が大事であるということなのですぜ。
ちなみに私の場合も屡文学なんてどうでも良いからもっともっと良い世の中になってくれへんかなあ、などと思ったり致します。
ただし、其のもっともっと良い世の中にはいつまで経ってもそうはなりまへんということが分かって居るからこそあえて理想論としての文学を掲げ持つことの尊さも重々分かって居るつもりではありますが。
『個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。
肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢であり、これは多分ヨーロッパのどんな作家もかつて企てなかったことであり、もしそれが完全に成就されれば、作る者と作られる者の一致、ボードレエル流にいえば、「死刑囚たり且つ死刑執行人」たることが可能になるのだ。作る者と作られる者との乖離(かいり)に、芸術家の孤独と倒錯した矜持を発見したときに、近代がはじまったのではなかろうか。私のこの「近代」という意味は、古代についても妥当するのであり、万葉集でいえば大伴家持、ギリシア悲劇でいえばエウリピデスが、すでにこの種の「近代」を代表しているのである。 』
いや、此処ではまた随分と観念的な意見を述べられて居ります。
『肉体と精神を等価のものとすることによって、その実践によって、文学に対する近代主義的妄信を根底から破壊してやろう 』などというところに其の傾向が強く読み取れます。
人間の肉体の儚さとか、自分が元々ひ弱な体質であったことなどにより、其れを克服し其処に強靭な現実性を付与したかったのだろうか。
然し、肉体と精神はそも等価たり得るものなのだろうか。
穿った見方をすれば、或いは仏教的に其の事を解釈すれば、肉体と精神は共に寄る辺なきところのもので脆くまた幻のように消え去るものであるに過ぎない。
近代の幻想が文学に於いていかなるものであるにせよ、肉体と精神の観念的な結合は真理レヴェルに於いて其れは成らない、不可能である、ということになる。
いずれにせよ三島先生の生のあり方とは非常に観念的なものであったという感じが此処からも強く致します。
観念的に生きたからこそ、自衛隊に決起を促し、かつ割腹自決することも出来たということです。
少なくとも観念的に生きて居ない人間には其の観念レヴェルでの真の意味合いが見えて来ないので其の行為の意味が全く分からないということになる。
つまりは天才は何考えてるか分からない、というやつですな。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1642回) ..2014/03/30(日) 18:01 No.4733 |
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『自分では十分俗悪で、山気もありすぎるほどあるのに、どうして「俗に遊ぶ」という境地になれないものか、われとわが心を疑っている。私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。
二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。 』
尚「俗に遊ぶ」という境地は文の人には元々わかりましぇーん。
分からんからこそ逆に文の人なのではないでせうか。
三島先生はまさに哀しいまでに文の人であり文の心の純粋さの体現者です。
其の純なる魂が戦後民主主義の世に空疎さと俗悪さとを見抜きそして厖大なエネルギーが其処に費やされて来たことの愚を見て取った。
そして純なる魂は其処に此の日本国の将来を正確に見通した。
曰く、『無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。 』と。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1650回) ..2014/04/07(月) 23:46 No.4742 |
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自称詩人の独白
私は今でもたまに詩を書くことがある。
ただし、其れはあくまで詩の断片のようなものであるに過ぎず、纏まったものにはなりきれて居ないので本当は詩とは呼べないものばかりなのである。
其のようなことになる理由には私自身の問題であるに留まらず私の外部にもあるような気がしてならない。
それはつまりフィクション化することが出来ない、つまりこれ以上虚構化することが出来ない程に虚構化された現実ということがいつも私には感じられて居るのだ。
ひょっとすれば、もはや文章化することさえかなわぬ現実、観念上の想像、創造の範囲を超えて仕舞う様な現実が実際に進んで居るのかもしれない。
すなわち其処では此の現実こそがフィクションそのものなのである。
其れで、私は最近あらゆる虚構物につき其れ等を読む気が失せて仕舞い、またドラマや芝居なども虚構性の入って居るものを自然と避けて仕舞うのである。
だからニュースだとかドキュメンタリーだとか、或いは史実を扱ったものだとか、または宗教誌などに載って居る作家の方々が書くエッセーであるとか、兎に角現実に即した形で社会の様、人間の様を書いてあるものだけを選んで見たり読んだりして来て居るのだ。
其れも現実自体が虚構化して居るのであろうから致し方ないのである。
虚構の最中に虚構の世界のものを重ねて読んだり見たりするのでは、其れでは何だか私にとっては虚構の度が深過ぎるとでも言うのか、兎に角至極気持ちが悪い感じがするので其れ等を自然と避けて仕舞うのである。
ー無論、かってはそうではなかった。まるで年寄りみたいな言い方でいけないのですが、昔はそうではなかった。二千年頃まではそうではなかった。今世紀に入って、其の虚構の度が加速度的に増して居るようにも思う。ー
さて私は此の虚構性とは一体何だろうかと長らく考えて来た。
其れは夢の喪失なのか現実の喪失なのかはたまた将来の喪失なのだろうか、人類にとって或いは文明にとっての。
然し其の現実としての虚構性とは何も今に始まったことではなかったことだろう。
近現代の此の三百年の歩みが人間界にひどい虚構性を齎したということはあったにせよ、元来文明とは虚構であり幻想であり其の事が緩やかに拡大していく過程そのもののことなのだろう。
そうして我々は限定的に虚構の世界を歩みそしていずれは滅び行く存在なのである。
然し滅びるということは、其の事自体に大きな問題があるという訳ではない筈なのだ。
或いは失敗したり、つい途中でくじけたり、或いは地震で家が全部壊されたり、運悪く事故に遭遇したり、というそうしたマイナスの要素は其の事自体に大きな問題を孕むことでは無いのだ。
むしろそうしたマイナス面から目を背けようとして来た近現代の社会的自我の方こそに大きな問題が在る。
そうした価値観で人間の生活上の価値観ないしは文明の価値観を築いて来たことこそに大きな問題が在る。
そうした社会的自我が現在の虚構性の拡大を推し進めて居るであろう事はほぼ間違いないことだろう。
マイナス面を見たがらないということは、生の全体を見つめて居ないということだ。
明るい面ばかりを欲しがり暗い面ーどうしても其処にある自然な暗さ、光があれば一方に闇があり、明るい心があれば暗い心があることが当たり前のことだというのにーを極力避け見ないようにして来たことのツケは必ずや払わなければならぬ羽目となることだろう。
然しながら其の文明の醸すところでの社会的自我の匂い、其の匂いにすべての責任を負わせること自体には大した意味はない。
すなわち其れも此の現実の範囲内の出来事なのである。
虚構に虚構を重ねつつ歩む現代文明社会自体に本質的に問題があり文明が滅びるということではないのである。
そうではなく文明が滅ぶのは必然なのである。
あらゆる文明は滅びる。
其の事は歴史が証明して来て居る。
文明は滅びるのが当たり前だ。
でも此の世で起こった事は此の世に収まる。
ー昔家の父がたまにそう言って居た。若い頃哲学書などを好んで読んで居た人だったので、父自身の言葉かと思ったのだったがそうではなかった。どこやらの飲み屋のネエチャンの言葉だったそうである。多分飲み屋などでは屡流通して居た言い回しのようなものだったのだろう。其れにしては哲学的ですらある凄い言葉である。ー
だから我我の日々の生活は文明とはまた別だと思って生活して居た方がより楽である。
文明にどっぷりと浸かって文明の齎すものを至上のものとして居たりするとそのうちにとんでもないしっぺ返しを食うことにもなりかねない。
文明が滅びの坂を転げ落ちようがどうしようが今日もまた陽は昇りそしてまた夜が訪れる。
そうした日々の瞬間は文明にも覆すことが出来ない筈なのである。
いや、確かに今は其れすらも危ないと言えなくもない状況である。
実際大地震がいつ来るものやら分からず、富士山はいつ噴火するものやら分からず、北朝鮮からいつミサイルが飛んで来るものやら分からず、街中でいつ暴漢に襲われるものやら分からず、またいつ病気になるものやら分からず、其れに今深海魚が日本の沿岸で何故か沢山獲れて居るのだそうで凶変の前触れではないかと云われて居るのであるが、其のようなことは心配し始めれば際限なく膨らんで仕舞うものなのであるからあえて見ないようにして置くのが良さそうである。
思えば人間とは大昔から限定の存在で其の日暮らし、其の時々を生きて来たに過ぎない存在だったのである。
そうした自己矛盾的な存在性を生きるということこそが人間の本性なのである。
其の与えられし瞬間を精一杯に生きる、其れだけの存在でしかあり得ないということなのである。
其れで、其のようにつまらん限定である人間の生をしかと見つめていくと逆に人間が生きるということの本当の価値が見えて来る気が致します。
人間の生が非常に価値があるもの、生は常に明るく楽しいもの、社会にとっての成果のある人だけが偉く失敗者には価値がない、文明の推進力は強力かつ永続的なもので滅びることなどはない。
などと考えて居るが如くに洗脳されて居ると生の本当の意義を見失っていって仕舞います。
ゆえに生のマイナスの価値を、受け容れる。
すると、生きることの本当の価値が見えて来る。
全体が見渡せるようになる。
すべてが明らかに見えて来る。
これ以上なくはっきりと、すべてが見えて来る。
そうなればもう地震も怖くない、ミサイルも怖くない、病気も怖くない、凶変も怖くない、また文明も怖くない。
ー勿論本当は怖い。でも何故か余り怖くはない。だがもっと現実的な恐怖も人生には多々ある。でも其れも何故か余り怖くはない。怖くはない処へ己の心を運べば本当の本当はもう怖くはない。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1657回) ..2014/04/19(土) 23:53 No.4751 |
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Wikipedia-IPCC第4次評価報告書 http://ja.wikipedia.org/wiki/IPCC%E7%AC%AC4%E6%AC%A1%E8%A9%95%E4%BE%A1%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8
つい先日NHKの何かの番組で地球温暖化がこのまま進むとどのような不利益を文明が被るのかということを真正面から取り上げたものがありましたがー其れはかなりに深刻な被害が想定されたもので、誰しも其れを視れば恐怖を感じるであろうようなレヴェルのものだった。
地球温暖化は確実に進行して居りこのまま其れが進めば生態系への深刻な影響が齎されるであろうことが懸念されまた食料生産への大きな打撃となるだろうことはほぼ間違いないことだ。
然し現実的には理屈通りにはいかないのが世の中というもので、また人間というもので、其れは確かに完全であり完璧であるものの方が不完全であり完璧ではないものよりもより良いであろうことは分かって居るのではありますが、其処は分かっちゃ居るのにやめられない、分かっちゃ居るのについやっちまったんです、ということが往々にして此の世にはあるものでむしろそうした遊びのような部分を認めて置いた方がギスギスせずに世の中上手く回っていくということはあろうかと思う。
諸の事の厳密性を追い求めていかなければならないのは私の考えで言えばむしろ大の問題の方で、庶民の生活レヴェルでの小の問題の方は其処に余り完璧な成果、完璧な結果を求めない方がより楽なのだし融通がききつまり其処に適当に遊びがあって良さそうだ。
勿論人生にはいつか遊びつまり余裕のようなものを持てなくなるところに追い込まれることと相場は決まって居るのだけれど、其れまでー大問題が実際に身に降りかかって来る迄ーはむしろ大問題には左右されず適当に生きて居た方が庶民としては幸せなのだ。 其れで自ら進んで魚の群れの一尾となりあっちへフラフラ、こっちへスイスイ、で適当に流れに合わせて生きていく。
其の様や植木 等かはたまた高田 純次か、兎に角そんな適当人生で大問題に蓋をして生きていくのは庶民の知恵であり現実を生き抜く為の正当な方策である。
其れが謂わば俗に遊ぶという境地なのかなあと私は思う。
ただし父親が浄土真宗の一つである真宗大谷派常念寺の住職だった植木 等は映画やドラマで演じた役柄の性格とはまったく異なり、自他共に認めるたいへん真面目な性格だったことは地元の名古屋人の間では良く知られたエピソードである。
また植木本人は小僧として東京の寺へ行き僧侶としての修行をした経験を持ちしかも東洋大学専門部国漢科卒業という実にお堅い経歴の持ち主だった。
かなりに真面目な人は逆におちゃらけの方面の出来るタイプの人があり、皆様は信じないかもしれないが私なども小学校の四年生までクラスの皆を笑わせる道化役を一手に引き受けて居たような少年だった。
ただし、同時にひ弱で神経質な少年でもあったのだ。
其れで小学六年生の頃にはその道化役とは対照的な優等生になって仕舞って居たのだった。
だから小学四年生の時の同級生は皆私がオモロイーバカの出来るーやつだと思って居るのであるし、小学六年生の時の同級生は皆私のことを秀才だと思って居る筈なのである。
つまり人間には皆それぞれに色んな面があるものなのである。
私が自称の詩人として文明に対して一種厳しい、そして皆が嫌になるような批判を重ねて来たのは無論のこと私の本心からのことなのだけれど、実は私だって真面目一本槍ばかりではなく植木 等がかって演じたキャラクターと似通った面さえも実は持って居るのである。
そう其れは今でも勿論持って居るのだ。
然しながら、この文明世界は今や切迫した問題に苛まれつつあるということがあった。
もはや笑いや酒の酔いなどといった、そうした現実的な融通をきかす部分、誤魔化しの面ではどうにもならないような局面を迎えて仕舞って居るのだ。
ところが文明にスッカリ調教されて仕舞って居る大衆は其の危機感すら持てないで居る。
其の切迫性が否応なく感じられて居るのは勿論大の方の文明の問題に於いてなのである。
高度経済成長の頃には確かにまだ社会や環境に余裕があった。
然し現在はもはやそうした状況にはないのである。
本当はもはや待ったなしの状況にあるのだ。
然しながら、これだけ情報が氾濫して居るにも関わらず我々は重要な問題に対して無知である。
確かに其の重要な問題に対して調べていくことは個々にとって可能なことである。
でも一体誰が好き好んでそんな先行きの暗い話などを自分から進んで調べていったりするのだろうか。
だからこそそうしたことは科学者ばかりではなく作家や詩人や他の藝術家、宗教家や哲学者などが述べていかなくてはならないのである。
そしてそうしたことを常に述べ続けて来て居る人々は私以外にも大勢居られる。
にも関わらずもはや如何ともし難い大問題が放置されて来て居る訳である。
つまり現実的には理屈通りにはいかないのが世の中というもので、また人間というもので、其れは確かに完全であり完璧であるものの方が不完全であり完璧ではないものよりもより良いであろうことは分かって居るのではありますが、其処が分かっちゃ居るのにやめられない、分かっちゃ居るのについやっちまったんです、ということに尽きて居る。
だから人間とは基本的に刹那を生きる存在なのである。
そうだ、其の刹那刹那を目一杯に虚勢を張って逆に笑いながら生きていこう。
どうも其の様が私が小学四年生の頃の生き方と良く似ているので面白いなと今夜そうふっと思った次第である。
本当はもはや植木 等の時代ではないのだが、それじゃいっそのこと高田 純次の方でいってみようか。
其の21世紀版のテキトー男の生き方の方でいく方がより混迷の度を増した現代文明社会には似つかわしいものとなるのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1658回) ..2014/04/20(日) 22:39 No.4752 |
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ショーペンハウアー「個体の死は滅亡である。それが生命一般にとって、不可欠の条件である。生まれる前のことや、死んでからのことなど、探ってみても何の意味もない。」
モンテニュー「死が私たち生の条件なのだ。個体が滅んでも、全自然はいささかも痛痒を感じない。自然にとって個体などどうでもいい。個体の死は排泄であると考えれば良い。」
死、すなわち全的に滅亡することこそが生の条件なのである。
生きることを望むものは同時に死ぬこと、すなわち滅亡することをも望んで居るのである。
然し個体が滅ぶとき、大自然は矢張り悲しんで居るのではなかろうかとこの頃私はそう思ったりもして居る。
個体は宇宙の一部分であると同時にひとつの宇宙でもあり得る。
アナタの体の中には多分無数の宇宙がひしめいて居る。
大は小に連なり、かつ小は大に連なる。
大きさや速度に本当の意味はなく、男や女であること、また親であることや子であることにも意味はなく、音であることや色であること、またそのほかの何であることにも意味はなく。
元々存在しないものに意味などない。
無いのだが、触れると意味を持つ。
存在に触れると、熱くなる。
また重くなる。
其の何か重いものが生の体積だ。
熱いものが生の血のたぎりだ。
死ぬこと、其の死自体には意味はない。
其れは生に触れて初めて意味を持つ。
死んで居ることなどに意味はない。
死すべき存在として生きて居ることだけが意味を持つ。
ただし其れは生が素晴らしいということではない。
イミのないことの方が本当の本当は素晴らしい。
意味を持つということは罪であり穢れであり厭うべきことだ。
意味化する生と性
其の牢獄の中に繋がれて居る
シンボルとしての我らの苦しみ
其の永遠なる我らの苦しみ
ソークラテース「哲学者は魂をかき乱す肉体的条件から出来るだけ離れ、ただひたすらに魂に寄り添う、だから肉体からの魂の解放である死は怖くない。ー魂の不死、不滅を強調する。ー」
エピクロース「死は生きている人間には経験不可能。死を思いわずらうことは馬鹿げている。考えたって何もならない先のことでくよくよするより、この生を大事にしろよ」 「死はわれわれにとっては無である。われわれが生きている限り死は存在しない。死が存在する限りわれわれはもはや無い」
此処でソークラテースは死は怖いものではないと宣うが、そうは云われても人として未知である筈のものの死は怖い。
魂と肉体は別であるという二元論を唱えて居るが本当は魂と肉体は渾然一体となって居りつまり元を辿れば同じ様なもの、同じ様な寄る辺なきつまらなきものなので何もあえて二つに分ける必要などはない。
よって魂は不死でもなく不滅でもなく存在という意味化の世界を離れれば即意味を失うものである。
魂などという純粋な思念は無く、肉体などという純粋な物体も無く、在るのはー誤って?ー 意味化されたシンボルとしての魂と肉体で其れ等は共に寄る辺なきところのものである。
死を考えないことは生について考えないことに等しい。
死を考えれば考えるほどに死からは遠ざかるが其れは死の重要な予行演習ともなり得ることだ。
其処で観念的な死を人間は試みなければならないということでもある。
観念的な死を生きてみなければ生を大事にして生きることなど出来はしない。
また我々が生きて居る限り逆に死は存在して居る。
死して後死の意味合いは解体されもはや跡形も無い。死自体が其処に無くなる。
源信の「往生要集」「人間の身体は生きている間から不浄であり、死んでからは一層我慢ならない。だから生に拘泥せず、現世の執着から早く断ち切ってしまいなさい」
生きて在る此の体こそは不浄である。
この体を維持するために食さなければならぬあらゆる食物もまた不浄である。
然し其の不浄であることこそが生であるところの生の意味なのである。
其処で初めて意味化された生が死んで居る聖とは区別されるのである。
聖なるものは意味化されず、また存在化されることもない。
存在が滅びた後の不浄な肉体はそのあまりの不浄さゆえにむしろ限りなく浄化されても居る。
何でもそうなのだが、極を突き抜けて仕舞うとむしろ反対の性質を帯びてくるものなのだ。
生死、浄不浄、明暗、美醜、執着と非執着、と云ったあらゆる二元的な対立は虚しい。
虚ろに響く、其れ等の対立する意味合い。
二元的な対立の一方の極には決して与しない。
其れが仏法に於ける究極の意味の一元化の道なれど、それでもなお此の生きて在るばかりでの体では不浄である。
だから其処にこそ死としての意味が生じて居るということでもあるが。
不浄だからこそ生きて居て、不浄だからこそやがては滅する。
だから死は生きて在るものー存在ーにとっては常に意味と価値を持つ。
ゆえに死は決して厭うべき限りでのものではない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1669回) ..2014/05/08(木) 00:37 No.4764 |
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宗教というものは結局人間の精神にとっての節度ということを教えるものなのである。
対する肉体の節度ということは、其れは余り奔放に肉体に関する諸の欲望を解放して仕舞うと病気になったりするということに自然となって仕舞うのであるから、実は元々歯止めがかかって居るものなのである。
ところが人間の精神に関しては歯止めがかかって居なかったのである。
其れに歯止めをかけるものは道徳や倫理観、または法律というものがある訳ですが、でも根本的に歯止めをかけるのはそうしたものではどうしても役不足なのであり、其れで人間存在は神という人間の精神を超越した存在を創り上げる他なかったのだろう。
精神というものは其の点で肉体の方ー物質としての人間存在ーよりももう一段階厄介なものなのである。
ところで宗教など要らないと思って居る人などは此の問題を一体どう解決するというのだろうか。
人間の精神には歯止めなど要らないとそう考えて居るのだろうか。
まあ合理主義者には其のように思われるのかもしれないのだが、其の合理主義ー機械論的な世界認識の世界ーには内省力が備わって居ないから其の問題にスッポリと嵌り込んで宗教の代わりに精神の方の歯止めをかけて呉れるなんてことはいきおい不可能なこととなる。
もしそうした知性力みたいなもので精神の欲するところでの際限ない欲に歯止めをかけたいのであれば、合理主義の方だけでは元より其れは無理で人文科学や社会科学の方の知を其れに加え、つまりは統合されたより立派な知の領域のようなもので歯止めをかけてみれば或いは其のことに成功するのかもしれない。
ただし、此の世にはどうも知性力だけでは統御することの出来ない魔の領域とでも言うのか、そんなものが何かしら様々に生じて居るような気がしてならない。
そうした魔の領域が実際にあったからこそ人間は其れに対置する形で聖なる存在を創り出さなければならなかった筈だ。
そして宗教とは其の聖なる存在のことを考えていく観念の領域のことなのである。
現代の多くの日本人はそもそもそうした宗教の根本の意義のようなことに触れる機会がないからこそ其の事がほとんど分かって居ない。
逆に宗教なんて何だか危ないもの、悪いものだ位に思い込んで居る始末で、まあ其の事は例のオウム真理教が引き起こした事件であるとか、或いは他にも様々に宗教団体絡みの問題などがあり其れが日本人の宗教離れを加速させていく理由となって居るのかもしれない。
またつい最近なども、海外でイスラム過激派勢力による学校の襲撃事件などが何度も起こったりして居り、そうしたことも普通の日本人にはとても怖いことに感じられるのでますます宗教に対する関心が薄れるという傾向が助長されていくのかもしれない。
だが、本当の本当は、宗教的な根を持たないこと、或いはたとえば仏教徒だと言っては居ても実際には仏教のことなど何も知らないというような宗教としての形骸化、そうしたことが人間の精神にとって最も怖いことなのだ。
高度経済成長によって物質的には豊かになった筈の日本国は其の代わりに宗教的なものの根っこそのものを失いつつあるのかもしれない。
また戦後民主主義に於いてGHQは民主化の名のもとに日本の宗教観を意図的に破壊し、或いはインテリ層の奉じるマルクス・レーニン主義は其の唯物論的構造により宗教そのものを否定して仕舞った。
という訳でどうも日本の社会はすべからく宗教から離れていく道を自ら選んで来て仕舞ったのである。
もっとも其れも社会としての大枠でのことなのである。
中には個人レヴェルで宗教に深く関わって居られる方々も居られることだろう。
ちなみに私の場合は現在特定の宗教に関わって居る訳ではない。
ただ原始仏教が好きで其れを奉じて居るというだけのことなのである。
また思想の方も社会主義者ではなく共同体主義者であるに過ぎないのだ。
ただし国家という概念は最終的には無い方が良い。
確かにグローバル資本主義よりはグローバル共産主義の方が良いかとは思われますが、其れも自治の単位が小さくなるのであれば何主義であっても構わないので其処はどうぞご自由にといったところである。
しかも其の宗教や思想を理想論として持って居るということだけなのだ。
現実に世界の宗教がみな原始仏教化され、世界の統治システムが共同体レヴェルに移行されるものとは全く思って居ないのである。
即ち其れは理想だから、現実には実現しないことばかりなのである。
そうした理想論的な観念世界に夢を見て居るか遊んで居るというばかりでのものなのだ。
然し此れ等私の奉じる二つの考え方は、共に大きい方から小さい方へと向かう考え方のものなのだ。
あの上座部仏教などもかっては小乗仏教と云われていたのだったが、原始仏教も結局は其の小の方の仏教であることに変わりはない。
されど日本で盛んな大の方の仏教は釈迦自身が説いた仏教とはかなりに異なって居り、私も昔其れを勉強して居たことはあったのだったが今となってはそうした仏教に余り興味は無い。
今、世界の流れは大きく変わらなければならないことだろう。
近代以降の世界の欲望肥大路線は明らかに誤りである。
即ち近代の幻想が齎したところでの大きいことへの志向はもういけないことなのである。
何故なら大きいことは大きく何かを壊すが、小さいことは小さくしか何かを壊すことが出来ない。
だから小さい人間で良いのだし、小さいことだろう共同体に住んで居ればそのほうが良いのである。
無論のこと欲も小さいつまり少ない方が良い。
節度のある人間、節度ということを教えられた人間には其の事が可能となる。
然し節度の無い思想、節度の無い宗教、節度の無い欲望と云ったつまりは節度の無い精神には爆弾が一杯仕掛けられて居るのである。
だからアノ革命も爆弾なのだし、国威発揚の方も無論其の爆弾なのだし、世界広布を目的とする宗教なども其の爆弾で、近代ナショナリズムもまた其の爆弾の最もデカい奴なのである。
また其の小さい人間は統合された知性ー知識と知恵の統合ーに磨かれてすでに小欲知足の境地にある。
其の小さい人間が小さい地域に誇らしく住まうのである。
宗教は邪教の類、過激なものを除き、かつ世界公布を目指して居ないものに限り其のすべてを是としてみたい。
宗教は人間の精神に節度を与えるものであるからこそ絶対に必要なものである。
道徳や倫理観、或いは法律などよりもより大きなスケールで人間の精神を規定することが宗教の役割なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1670回) ..2014/05/08(木) 16:06 No.4765 |
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其の規定されるということは、限定されし存在である生命にとっては大事なこととなるのである。
先にも述べさせて頂いたように、我々は限定されたものであるからこそ此の世に彷徨い出て来て居るのである。
其の逆に限定されないものは純粋な思念、精神性の極のものとなって即ち完全な観念体、或いは其の観念さえも超えたものとなって此の世界には出て来なくても良いものとなるのだろう。
其処で普遍性と精神の完全性とを獲得し、それこそ宇宙に溶け込んで仕舞うとでも言うのか、或いは老子的に其れを言えばタオの人となるとでも言うのか、兎に角そんな非限定の存在となるのであるから、元より其処には欲望などは何も無く、また感情も無く思念も無く、そうしたものを全て超えていって仕舞って居るので其れを神と呼ぼうが佛と呼ぼうが超人と呼ぼうが其れは自由なのである。
限定されし存在はエゴという領域に繋がれて居り、其処であーでもない、こうでもないと其処で様々にエゴの実現を夢見て居るのであるが、畢竟其れは真理領域からするとすべからく次元の低い話なのであり、ゆえに此の世で生きて居る人間には本当は偉い、偉くないなどという差はなく皆一様に下品で卑しい、エゴに繋がれしドレイのようなものであるに過ぎないのだ。
宗教の中でも格の高い宗教はちゃんと此の事を見抜いて居て、人間はそのままではダメな奴らばかりだと宣うのであるが其の事こそは多分真実なのだろう。
逆に或る特定の人間が偉い、教祖様が一番偉い、などというヒエラルキーを形作って居るような思想や宗教にはロクなものは無いであろうから其処は余程に注意が必要である。
一方釈迦やキリストまたは神は基本的に生きて居ない存在なので、また原始仏教や初期のキリスト教は非常に人間存在に対して厳しく其の精神のあり方を律していくことを常に求めて居るので宗教としては最も信頼出来る教えなのだと考えられる。
さて現代社会が何故こんな袋小路のようなところに入り込んで仕舞ったのか?ということを多くのインテリ層の方々も考えて来られて居ることかとは思いますが、それでもなかなかすっきりとした答えは得られて居ないのではないだろうか。
其処は皆様色々と難しい事をネット上でも述べられて居るようですが、私の場合言いたいことは至極カンタン、其の大問題を齎したものの大きな原因の一つに宗教の役割の形骸化があるのではないかということなのである。
何故なら前回述べたように宗教とは人間の精神を規定する役割を本来担って居たものだったからなのである。
そして無論のこと其れは精神の縛りということでもあった訳なのである。
特に前近代の社会に於いては其の事が顕著に行われて居たのである。
勿論当時の人々はそんな縛りで縛られることが大嫌いであり、嗚呼、早く神や佛なんか要らない世の中にならんのかなあ、もしそうなったら自由になり何でも出来て楽しいだろうになあ。
食うや食わずでこんな農作業ばっかやらされてるのはもう金輪際嫌だわ、ワシはもっと綺麗な女房も欲しいし異国へも是非行ってみたい。
農作業の下手な出来の悪い息子にも是非学問を与えてやりたい。
学があれば多分こんなことばっかやっとらんでも、ええ生活が出来る筈だろうがね。
そんなこんなで其の前近代の縛りの世界からの脱出が近代に於ける夢の生活を形作っていったのである。
そう、其れはひとつの夢だったのである、遥かな昔の封建時代から抱いて居た大きなひとつの夢の実現だった。
現在我々に当たり前に付与されて居る人権や平等という意識、そして自由ということがいかに大事なことであるかということが其処で初めて分かる。
だが、其の自由ということや人権、または平等ということは現在の社会に於いて今一度問い直されていかなければならないことでもあることだろう。
そしてつまるところは其れこそが人間とは元々そんなに尊いものだったのだろうかという問いの部分なのでもある。
なぜなら無制限に認めて仕舞う自由や人権、または平等ということは大衆を持ち上げ過ぎるといった難しい問題さえをも含んで居る。
人間は皆偉い、何でも出来る、だから俺の息子も偉い、むしろ学校の教師の方が悪い、それではこれから学校へ出向き教師を土下座させてやることにしよう。
おお、怖い。
教師にならなくてつくづく良かった、のかな?
私たちは常に自由なのだわ、高いレヴェルの教育を受ける権利があり、だから男も女も何もあるもんか、仕事も恋愛もバリバリやるぞー、 旅行もスポーツも何でもやるわよー、男には決して負けず金メダルもノーベル賞もみんなとっちゃうぞー。
まあ其処まで元気だと元々不元気な私などは気後れしてもう何も言えなくなって仕舞いますのです。
然し、当然のことながら前近代の世界観に於いては宗教的な縛り、枷のようなものが効いて居てここまで大衆や女性が元気だったということは無かったのだ。
だからこそ其処で私は考えるのである。
果たして大衆を、或いは女性を解放することは本当に良い世の中をつくることの為に不可欠のことであったのか否かということを。
何故なら人間存在は本質的に縛られて此の世に生まれ出て来て居る存在でもあるからなのである。
そうであるにも関わらず、近代社会は諸の其の縛りを一時的に解いて仕舞った訳なのである。
大衆に主導権を渡し、其れが民主化された進んだ社会として良いものであるように普通は思われて居る。
そして今大衆は自由であり、金さえあればまさしく何でも出来る世の中に生きて居る。
ところが人間存在の本質的な縛りの方は遥か昔からずっと変わることなく人間を縛り続けて来ても居る。
だからそんな自由で何でも出来る世の中、まるでパラダイスー無論金さえあればの話ですがーであるかのような世界の中、其処で個として何かがあり人間に対する本質的な縛りが露呈して来た時に、現代人は其処で底知れぬ恐怖を感じると共に初めて其の真実の闇の世界、本当の生の恐怖を与えられまるで金縛りにあったように身悶えすることさえ出来ず其の永遠の生の負の側面としての深淵と対峙していかなければならないのである。
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