目覚めよ!+
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1674回)
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2014/05/15(木) 22:59 No. 4769 |
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Wikipedia-秘教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E6%95%99
仏教でいう「顕教的」なものの対義語が密教つまりは秘密仏教のことである。
密教には自ずと秘儀性や神秘性が挟まれて来て居て初期仏教の教えとはまるで別物のようになっていったという経緯がある。
然し宗教を、特に仏教を体系的に学んでみる為には欠かせない分野ではある。
個人的には密教は多分にキワモノ的な仏教である感が否めないのだが、我が国では最澄や空海が中期密教を伝えて来て居るので意外と縁の深い教えともなって居るのである。
とは言っても、最澄が日本に伝えたのは中国の仏教である天台教学である。
ちなみに空海が伝えた真言密教では大日如来という一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。
対する天台宗では仏はあくまで法華経の本尊である、久遠実成の釈迦如来なのであるからつまりはお釈迦様のことなのである。
だから一応は信頼出来る。たとえ初期仏教ほどは信頼出来なくとも。
尚、浄土宗には阿弥陀如来というこれまた一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。
私の場合はそうしたスーパーなものは一切要らないから仏教の開祖としてのお釈迦様の教えだけを心から尊敬しておりますということである。
そしてそれは信仰というよりも尊敬なのである。
特に釈尊の頭脳明晰なところには心より痺れて仕舞って居ります。
Wikipedia-天台宗 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
ただし我が国に於ける天台宗、それも比叡山延暦寺の果たした役割はとても大きなものがあった。
当時の仏教の総合大学の機能としての、その仏教的叡智の総本山としての役割は矢張り尊敬に値するものなのである。
特に日本の天台宗の開祖最澄の人格は高潔かつ謙虚ないかにも思慮の深い学僧としての人柄が忍ばれるもので、私が釈迦の次に尊敬して居る僧侶がこの最澄でありまた日本の曹洞宗の開祖である道元なのである。
天台教学はもう二十年位前に少しだけ囓った覚えがありますが残念ながらそれももはやうろ覚えのものとなって仕舞って居る。
それでももう一度学んでみたいという気にさせるだけのものが其処にはあったということだけは確かなのである。
ただし今回私が述べてみたいのは仏教の話ではなく、仏教以外での秘教的な側面を持った宗教のことなのである。
たとえば十年位前のことだったか、西洋思想または宗教にグノーシス主義というものがあることを知りネット上で調べていたことがかって私にはあった。
Wikipedia-グノーシス主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
この思想または宗教は先に挙げた秘教のひとつとして数えられているものである。
ー1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。
グノーシス主義において一般的に認められるものは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界の把握の仕方、世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。
グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の 「反宇宙」論である。
宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬であるとグノーシス主義では考えた。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。 善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。 悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは「イデアー」こそは真の存在であり世界である。
善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質と云う「二元論」 が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、これが「反宇宙論」と合わさり「反宇宙的二元論」という思想になった。ー上記より引用ー
一方はグノーシス主義をキリスト教とは別個の、オリエントに起源を持つ「東方」の宗教であるとし、その非キリスト教(異教)的側面を強調する姿勢である。もう一方はグノーシス主義をキリスト教内部の異端、あるいはギリシャ哲学に影響を受けた宗教哲学の出発点としてキリスト教史のなかに位置づけようとする姿勢である。今日では、グノーシス主義をキリスト教とは別個の宗教思想であると考える立場が主流である。ー上記より引用ー
それにつけてもこの秘教的な思想ないしは宗教こそは面白いものです。
グノーシス主義においてはまず宇宙つまり物質的世界が悪だと捉えるのですがその点こそが非常に面白い。
「反宇宙的二元論」によればこの宇宙とは畢竟否定的な秩序の顕現に過ぎぬものなのだから世界を認めず受け入れないという全くの否定的な立場を取っています。
前々から私は近代という時代につき屡考えて居たのでしたが、其処でまず不思議だったのが西洋起源の思想や宗教が前向きにーつまり肯定的にー世界を捉えるものばかりであることにまず大きな違和感を感じて居たのだった。ー確かにキリスト教は必ずしも現世を前向きに捉えてはいないのだが、終末を経て民が神に救われるという点に於いてはむしろ究極的に前向きな宗教であるー
というのも古代印度思想などはそれこそ輪廻に繋がれて居る生命はみな不自由な苦しい立場にあるのだからそうした境涯を脱していくことをまず思想や宗教の目的としていた訳で、その点で仏陀となるという解脱の概念は何も仏教の専売特許であった訳ではなく他の思想や宗教も当時はみなその解脱することを究極的には望んで居たのだった。
然し例のデカルト以降、近代的な分析型の価値観というものが組みあがりしかも何だか知らないがいつのまにかこの世界は合理的に解釈でき特別に出来の良い人間の知性力でもって自然を加工していけばいつかは神にも等しい存在となれよう筈だ、我々が住まうて居るこの世はそんな人類の夢を実現するに足る素晴らしいところだ、などという妙に身勝手で思い上がったかのような一方的な世界観を形作っていって仕舞った。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1675回) ..2014/05/15(木) 22:59 No.4770 |
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つまるところ近代の思想ではグノーシス主義とは全く逆に此の世は良いところなのです。
そこは人間の力がどこまでも発揮できる所、まさに神に近づく為の階段を一歩一歩登っていくことの出来るところである。
現代人にとってそんな魅力的なところが悪かろう所である筈はない。
然し大昔にはそれとは真逆の思想が多く存在していたのである。
確かに現世を否定的に捉えているという点でこの宗教は東洋思想的です。
でもどうあろうと、兎に角大昔の思想や宗教は屡この世界を否定的に捉えていたということが私には一番引っかかる部分なのです。
そうしたものが、段々と消えていったか、或いは勢力としては弱くなりやがて秘教的な扱いを受けるようになっていった。
まあそれでもキリスト教や仏教でも本来のところは全く現実的な教えではなくまさに秘教のようなものなのでしょうが。
対してあのイスラム教の教義の方が遥かに現実的であり世俗的な世界の捉え方をしている宗教のようです。
尚キリスト教や仏教も元はそのように悪いかまたは受け入れがたい現世から救われたり脱出していくという教えなのです。
現世利益とか子孫繁栄とか人類称揚とかそうしたことを行うための教えでは根本的にない筈です。
人間はそのままではダメだから心を入れ替えて信仰せよ、或いは心を入れ替えて修行せよとはっきり宣って居ります。
然し現代人はそんな事は我関せずで毎日お金を稼いだり子供を育てたりとそんな風にあくせくとしながら生活の方をやって居ます。
きっとこの世が悪いところかもしれないという思想や宗教が意図的に社会から抹消されていったからなんでしょう。
だからもはや誰も知りません。この世がそんな悪いところかもしれないなんていうことは。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1676回) ..2014/05/17(土) 22:43 No.4771 |
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グノーシス主義とはつまりは二元論としての物質界を否定的に捉え、対しての霊或いはイデアーの世界こそが真の存在であるとして其処に到達するー物質としての存在を脱してーことを目指した思想ないしは宗教だったのだろう。
尚私はこうした立場も基本的に有りだろうと今考えて居る。
何故ならこの世界はそのままではパラダイスでなどあり得ないからなのだ。
実際いつまで経っても貧富の差は激しく社会的に人間は不平等で、特にこの近代社会に於いては人間は物質的に深く縛られているとでも言うのか、カネ、モノに対する執着が甚だしく人々は自己矛盾的なエゴイズムの世界をより深く掘り下げつつ生きて来て居るといった有様なのである。
つまり人間存在の心理特性は近代以降特に汚れに充ちたものとなりつつありアノ白蓮華の清い花などとは真逆の穢なーい毒花を咲かせて居るばかりなのである。
だからこそこうして世界中で様々に問題が引き起こされる。
そうした問題とは実は人間の心の内部から引き起こされて居る問題なのである。
其れは最終的に社会制度の問題でもなければ、経済の問題なのでもなく、ましてや政治の問題なのでもない。
つまりは人間存在の普遍的な心のあり方としての問題なのである。
そしてそれは時空を超えて常に其処に横たわって居る問題なのである。
其れを解決するために宗教という人間の全体の心の専門家である分野が遥かな過去より存在したのである。
だからこそ私は人間存在にとっての宗教の力の必要性を第一義的に捉えて来て居るのだ。
あのニーチェはかって宗教の力が形骸化した近代世界のことを所謂畜群が闊歩するニヒリズムの世界として正確に予見して居たのだ。
実際に最近はもう何が何だか分からないような心理的退廃や大きなエゴの対立が横行する世の中となって来て仕舞って居る。
それがもはやインテリ層の知的抑止力をも超えて仕舞って居り、たとえば作家や詩人であっても自己の想像の範囲を超えて仕舞うかのような現実に直面せざるを得ないこととなっているのではなかろうか。
もはやそうした一種歯止めのきかない心理的領域に現代文明は歩みつつあるのかもしれない。
丁度近代科学の生み出した自然の加工力とその加工力による諸の破壊に歯止めがかからないのと同じくして、文明社会が抱える心理的な病についてもそれにもはや歯止めをかけることはかなわないのかもしれない。
そこで、だ。
そこで私はむしろ過去の文明ー人間ーの心理的な傾向のことを調べて居るのである。
一体何がこの人間存在に是非必要であったところでの精神のタガのようなものを外して仕舞ったのだろうか?
勿論ポストモダニストとしてそのことを述べればそれは科学技術への盲信や唯物論的な世界観への盲従ということとなろうかと思う。
然しそれだけではないのだ。
それだけではなく、それ以前に、宗教的なものへの関心の無さ、つまり自己を根本的に規制するものに対する強烈な拒否反応が現代人の心根の部分に巣食って居るのである。
それは具体的に言えば自分は自由で偉いと思い込んで居る近代的な自我の意識である。
また世界はその自由で偉いー諸の権利に支えられてー己が闊歩し得る最良の自己の発現の場なのである。
今現代人は誰もがそのくらいの意識を持って毎日生活している筈である。
そうでなくば、この狂おしいまでに忙しい現代の一日を個としてこなしていくことなど出来はしないのである。
さてそれではグノーシス主義のことに戻ろう。
グノーシス主義では物質が悪いのだから世界も悪いのであって、であるからこそ精神の実在性、純粋性のようなものに立ち還ることを目指せば世界全体も良くなるとそう考えたのだろう。
なおこれは所謂観念論という哲学の領域に一種似て居るものである。
Wikipedia-観念論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96
こうした物質界を悪玉と捉えるものの見方はある意味で非常に精神的ー宗教的ーなものの見方なのだと言える。
対して近代以降のものの見方は明らかに唯物論ー非精神性ーの方に傾いて来て居る。
それを平たく言えば、モノとして或いは力として感じられるものにこそ価値があるという考え方である。
近代科学はそうしたモノまたは力の分析にばかり膨大な労力を費やして来て居る訳で、しかしながら、現代社会は其処でそのことにかまけて人間の心の方の大問題について余り考えて来なかったのではなかろうか。
ところが本当は人間の心の方の問題の方がずっと大問題なのである。
たとえばあのアインシュタインは晩年に人間の心の醜さについて屡触れるような発言をしていたそうである。
科学上の真の天才と呼ばれるような人にしても最終的にその面だけが大問題として捉えられていたというそうした話のオチなのである。
数式や物理法則は謂わば人間の心の問題には蓋をして進むことしか出来ないのである。
そして事実、今世界では国家レヴェルでのエゴの対立の問題、社会レヴェルでのエゴの対立の問題、また自然と人間存在との自己矛盾的な対立の問題などが噴出してそれこそ収拾がつかなくなって来て居る。
それらの問題の根っこに横たわるのは畢竟その人間としての心のありようの問題なのである。
だからこそ本当の本当は問題の根はひとつで、それが人間の心の醜さを如何にして浄化していくかという部分に尽きて居るのである。
尚、私が今あえてグノーシス主義のような秘教的な見方を述べて居るのは、その教義の通りに物質界は悪だからそれには余り与せず物ー肉体も含めてーを全部捨てて仕舞えなどと言って居る訳なのではない。
ただそうした考え方もかっては色々とあったということだけを述べておきたかったのである。
近代主義の発信する典型的な考え方、それはすでに我々の脳裏に深く刻まれて居り我々は一種それに洗脳されつつあるであろうことも否めないことだろう。
然し本来ならばものの考え方には大きく幅があるものなのだ。
物質的な豊かさや便利さを追求すること、或いは社会が間断なく進歩し過去を切り捨てていくこと、または人間の心の中をしかと見据えることなく外面的な作用ばかりに気を取られていること、そうした近代の常識の愚を其処に悟り知ることの為にこうした秘教的なものの見方があるのではなかろうかと今私は観ずるのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1677回) ..2014/05/17(土) 22:52 No.4772 |
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グノーシス主義的に世界を解釈すれば、宇宙の存在そのものが無知を背景にしているとされるため、宇宙には秩序も法則も存在はするが、結局のところはそれらは善き秩序や法則ではなく本質的には悪影響しか持たらさないものである。 したがって、宇宙に存在するものはすべて邪悪であり、人間の肉体もそのように悪いものである。
ただ、人間の中の霊だけが本当の意味での神とつながる存在だとされる。が、同時にその霊は宇宙という巨大な牢獄、人間の肉体という牢獄に閉じ込められているのである。
そしてこの霊を解放することこそがグノーシス主義の目標となるのである。
然しこの思想、何だか仏教にも似て居る感じが致します。
仏教は元々この世を苦の集積であると捉えて居る訳です。
人間にとっての正ではなく負の要素の集積の場です。
しかもそれは物質的にもまた精神的にもそうなのです。
だから先祖供養とか子孫繁栄なんて云うのはそれは本来の仏教の役割ではなく本来の仏教の目指すところとはそれすなわちこの苦に充ちた世界からの自分自身の脱出のことです。
ただし仏教に於いては自己の精神を磨いていくことは可能だとされて居る。
勿論肉体を律することもまた必要ではあるが、本当に大事なことは自分のものの見方を律しつつ変えていくことこそにある。
その点で神と連なることでの霊の開放を主張するグノーシス主義と精神の解放つまり明知による解脱を目指す仏教とは似て居る部分がないとは言えない。
ただし仏教では霊などというものは全く問題にして居りません。
そうした存在の有無について一切問わないというのが本来の仏教での立場なのです。
霊魂だとかあの世であるとか地獄などいう概念と戯れて居るのは後の変わって仕舞った仏教のことで釈尊はそうした意味のない戯の論議をすることを戒めて居られた程です。
尚、物質的な世界がそのままでは必ずしも良い世界ではないであろうことは何となく私には感じられないでもない部分です。
なぜなら物質は限定物に過ぎないので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
もっとも生命も限定品ですので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
だからその限定された同士で仲良く万年筆など愛でて居ることなどはたとえば可能かとは思われますが、それも畢竟精神の方が限定を離れていくにつれ物質の価値が無意味化されていき最終的には物質の意味が解体され精神にとっての意味をなさなくなることだろう。
またグノーシス主義での宇宙の存在の背景に無知あり、とする考え方なども非常に面白いですね。
仏教では衆生をそのままでは無明の生き物であると捉えて居ますが少しそれにも近いような考え方です。
要するに+思考ではない考え方ですね。
ちなみに仏教がプラスの思想だと思ったらそれは違って居て、仏教はむしろ究極のマイナス思考から入り最終的には究極のプラス思考ー思想ーに転じていく教えのことなのです。
この世は苦の集積ーマイナス思考ーだが体と心を律することで明知に至り最終的には解脱するー究極のプラス思想の完成ーということとなります。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1678回) ..2014/05/20(火) 00:59 No.4773 |
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グノーシス主義とは実に面白い思想であり宗教である。
どこが面白いのかと言えば、謂わば即物的、現実的ではないところが面白い。
対して近代という時代はその即物性や現実性がより堅固に構築された世界なのだと言える。
つまり、そこを平たく言えばカネ、モノ、チカラがものを云う時代が近代の世界観なのである。
だからどんなに立派なことを言って居てもたとえば一文無しで無一物で無名だとすると誰も振り向いては呉れない世界のことなのである。
観念力がその唯物論に負け続けて来て仕舞うとでも言うのか、兎に角そんな一種精神性を欠いた世界であることが近代の価値観の特徴なのである。
然し人は本来もっと観念力の方を大事にして居たはずではなかったか?
特に日本人ならば其の事に思い当たる節もあるのではなかろうか。
武士は食わねど高楊枝 http://kotowaza-allguide.com/hu/bushiwakuwanedo.html
ここで良い方の意味に解釈すれば、武士は精神で生きて居るので貧しさなんかにへこたれていないということである。
逆に現代人の我々はほとんど精神では生きて居ないのでたとえ貧しくはなくともあらゆる誘惑に弱くかつあらゆる逆境にすぐへこたれて仕舞う。
それは勿論この私もそう。
私は自分が武士のように高潔な魂の持ち主だなんてこれっぽっちも思って居ない。
皆様と全く同じように精神の方がもうドロドロなのである。
ただその精神がドロドロなのを一体どうしたら治せるのかなあと常日頃から思って居るだけなのである。
要するに近代という時代は理性的にスマートな世の中をつくって居るようでいて実は精神的にドロドロで低級なものばかりを追い求めていく社会を形作って来て仕舞って居る。
第一理性なんて云ったって一体何が理性なのやら、時代としての精神性が基本的に崩壊して居るというのにそもそこで何の理性だと宣うのだろうか?
そして現実的であるということは必ずしも良いことではない。
なぜなら現実ということは限定である。
対して空想的ないしは観念的であるということは非限定の方向へ進むということでもある。
現在化ー現実化ーが進むとエゴの対立がより顕在化し収拾がつかなくなる方向へと進んでいく。
そのようにエゴの対立が深まると様々な破壊が必然的に引き起こされることとなる。
エゴの解放はそのように世界の破滅をもたらすことだろう。
エゴの解放は精神性の減じた世界に於いて甚だしくなる。
よって精神性の確立こそが現代社会にとって急務のことともなろう。
さてどうもこの精神性の確立ということが近現代の思想、風潮を立て直すに最も大事なことであるように思われて来た。
無論のこと、その立て直しには宗教の力が一役買って呉れなくては大いに困る。
Wikipedia-マニ教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
グノーシス主義の流れを汲む宗教がマニ教である。
このマニ教、少し調べてみると矢張り非常に興味深く面白い。
個人的に一番面白い点は、基本的に東西融合の宗教である点だ。
上にもあるようにグノーシス主義、ユダヤ教及びキリスト教、ゾロアスター教、ミトラ教、仏教や道教などから影響を受けかつそれらを摂取、融合した思想だとされて居る。
こうした真の意味でのグローバルな宗教がかって存在して居たとはまさに驚きである。
しかも今日でも、中華人民共和国の福建省においてマニ教寺院の現存が確かめられているとあることからも消滅した宗教ではなくかろうじてではあるが現存して居る宗教である。
Wikipedia-マニ教ー東方宣教とその影響 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.9D.B1.E6.96.B9.E5.AE.A3.E6.95.99.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF こちらを具に読んでみると実に面白い。
その教義の方はグノーシス主義の影響を色濃く受けたものでかの反宇宙的二元論的なもの、さらにゾロアスター教からの影響での善悪二元論ないしはギリシア哲学に於ける二元論の流れが組み込まれて居るとされて居ります。
然し結局はこのマニ教の場合も物質の世界を忌避、否定し、対して霊的なもの、つまり精神的なもの、ないしは観念的な世界を重視することで始原の宇宙への回帰を目指しそこで救済を得ようとして居るものである。
尚、この秘教中の秘教であるとも考えられるマニ教では極端な禁欲主義がとられているという点が特に興味深い。
Wikipedia-マニ教ー教団と戒律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.95.99.E5.9B.A3.E3.81.A8.E6.88.92.E5.BE.8B
マニは悪からのがれることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定したとされているがこれはあくまで聖職者だけのことだったのだろう。
然し、仏教をはじめとして古代の宗教は必ずしも人間の繁殖を許容して居た訳ではないのである。
ーただし仏教も世俗の衆生に対して生殖を否定して居た訳ではない。あくまで僧侶ー沙門ーに対しての生殖を否定して居たのである。ー
されど近代教ーかの芥川 龍之介によればそれは生活教というものに当たるのだそうだがーに於いては人間はほぼ無制限に増えていっても良いことになって居る。
すなわち人間は自然を従えし善き存在でありやがては神にも近づいていく程の存在なのだそうである。
一体この薄汚い出来損ないの動物のどこが、この醜い心の動物のどこが神にも等しい存在であるのか私には皆目分からないのだが兎に角そういうことになって居るのだそうだ。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1679回) ..2014/05/20(火) 00:59 No.4774 |
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それから以上にもあるようにマニ教の聖職者は「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待され、肉食も飲酒も禁止、殺生も植物の方でさえ禁じられて居たそうである。
其処で所謂清浄で道徳的な生活を送ることが要求されて居たようである。
尚宗教というものは、本来ならばそうしたものなのである。
それは厳しいものである。
甘いものではないのである。
かってはこうした厳しいものがこの世に結構多くあった。
このマニ教の戒律のように或いは仏教の戒律の如くに、または所謂武士の魂といったもののように、色々と精神的に厳しいものが世の中にはあった。
然し、近代教はその精神的な厳しさを大事なところに於いてむしろ失くして仕舞った。
そしてまた変なところでより強力な精神的な苦しみを付与して呉れるに及んだ。
つまるところ、人間存在が精神的に自らを律するという点ではそれをほとんど全部とっぱらって仕舞った。
それなのに近代以降の人間存在は不平等や戦争や恐慌や離婚や金欠といった諸の塗炭の苦しみと縁することの頻度が増したのである。
ゆえに近代社会とは自ら大きく苦の増す方向へと舵を切った社会なのだと言える。
それも精神的に自ら進んでその舵を切ったのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1682回) ..2014/05/23(金) 13:07 No.4777 |
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この現象世界は実際観念化していこうとすれば幾らでもそうしていくことは可能な世界ではありますが、勿論そうしていくことには一種のリスキーな部分がありそうそう誰もがそうした試みの方に向いて居るだろうとは言えないのであります。
宗教や哲学、藝術の分野では屡そうした類での試みが行われて来たのではありますが、宗教にしたって一歩間違えばそれは邪教の類となってしまいがちなのでもありますし、哲学者なんてあのニーチェのように仕舞には狂人となって仕舞いますのですし、藝術に至ってはたとへば詩人や画家などは昔から飲んだくれたりした挙句に早死にして仕舞いますのですし、作家の人々は昔はその多くが自殺しちまうなどということがあった訳なのですしで、全く のところその現実解体の世界の方に与するということは一筋縄ではいかぬことのようです。
そうした精神の切岸のようなところにいつも置かれて一種の綱渡りのような観念世界を生きて居る人種が確かにこの世の中には居るということなのです。
確かに現代に於いてはそういうのはもはや流行らないのではありますが、でもその基本的な表現者の内面の構造のようなものは結局いつの時代にも変わらぬものなのかもしれない。
然し現代に於いてはそうした古典的な意味での文の分野の発展、未来ということはもう望めない段階に至って居ることなのかもしれない。
確かにそれはかなり悲観的な見方なのであろうが、どうも近頃私にはそう思われて来てならないのである。
第一、この十年間で芥川賞と直木賞の受賞者に女性が急増しているのだという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140120/bks14012008300000-n1.htm
それも前回だったかは、その受賞者の確か全員が女性作家だった筈だ。
そしてそういうのが私には面白く無い。
それは男が女に負けて悔しいということではなく、そういう風潮がすぐに文の世界にも反映されて仕舞うこと自体がいかにも節操のない軽薄な風潮であり気に入らないのである。
確かに我などはただの自称詩人で今ここでもキャンキャンと野良犬が一匹ー野良猫がー吠え続けているばかりのようなものなのである。
然し文の世界には文の世界としての威厳のようなものがもっと備わって居てしかるべきだと思うのだがそこは如何なものだろうか。
また女性の書く文が悪いなどとも思っては居ないのですが、またおそらくはそこで良く構想が練られた作品が書かれて居る筈ではあるとも思うのですが、それでも悪いけれど読む気にもならないんだなあ、それが。
尚、私は文の人ーの端くれの方に連なっているであろう人ーとしてはむしろさほど悲観的な見方をしている訳ではないことだろう。
作家の方々には私よりも悲観的な見方をして居られ文明は近く滅びると言っておられる方なども居られる。
そのことをはっきりと自分の本に書いて居られる方は居られる。
そうした意味では、どうも男性よりも女性の方がノンフィクションとしてのそうした悲劇的な結末というものを描きにくいのではなかろうか。
たとえば私は宗教詩人だからあくまで本当の本当は文明または文化の継続を望んで居るのですが、それでもどうも自らに内在する破滅性への願望とでもいうのか、或いはそれとは逆に外側の破滅を察する嗅覚が鋭すぎるとでもいうのか、兎に角そんなところばかりが研ぎ澄まされて来て仕舞って、五十年後、百年後にはもはや人類の存続が許される余地は無いなどということを強く感じ取ったりもして来て居るのである。
つまるところ、外部的または全体的な危機を察知する能力はおそらく男性の方が優れていよう筈だ。
逆に内部的な危機または個別的な危機に敏感なのが女性ではなかろうかと私は思う。
その内部的な危機というのは、私がいつも論じているような人類の精神性の問題などといった大きな問題ではなく個としての小さな危機の問題なのである。
文の世界にまで女性のその個別的危機対応力が拡がって来ているのだとすれば、要するにそれはもうこの世界全体が社会的に女性化されて来て居るということなのだろう。
しかし先程述べたように女性は内部的危機ー煎じ詰めればそれは自分の子をかばう力のことだーには敏感だが全体の危機を感じ取る能力やその危機への対応力、危機管理能力にはおそらく欠けて居ることだろう。
だから私は文明自体が女性化されているということに関して逆に危機感を抱いて来て居るのである。
文明が女性化されるということは、人間中心での生存論理が常に優先されるということでもある。
第一、一体どこの世界に人間ー自分の子ーを尊重しない母親が居るとでもいうのか。
母親は常に自分の子を最優先して育て、その子の人生の全い幸福をこそ乞い願うものだ。
然し、実はそれこそが所謂エゴイズムの問題や過保護といったことにも繋がってゆく。
厳しい言い方をすれば、或いは真理方向から言えば明らかにそうしたことにもなる。
文明自体が女性化する、つまり文明自体ー子自体ーを常に護るべきもの、かけがえのないもの、それが最後まで幸せでなければならないものとして常に進んでいくとするならば、つまりは其処では人間中心の価値観が堅固に組みあがり男性的な観察や懐疑の力ー観念的な猜疑心、或いは外面からみつめることによる自己批判力ーが弱められていくかまたは失われていって仕舞う。また全体の危機を見抜く力や危機管理の力の方も弱まっていって仕舞う。
文明を、社会を、健全な状態に整えておく為には、むしろその子ー文明ーを叱りつけ鍛えて逞しく成長させる為の男性的な原理、父性原理の確立が是非必要なのである。
現代社会は何故その部分が認識出来ないのだろうか。
女性力の拡大、或いは相対的には平等主義による男性パワーの弱体化で文明を鍛える、或いは批判する力はむしろ次第に衰えていくのである。
そのように一種狭い母性的な世界だけで生きるようになった文明の内部では様々な問題が噴出しやがては収拾がつかなくなるだろう虞が大きい。
ただし私は母性原理そのものを否定しているのではない。
そうではなく、母性原理を中心に据えて進む現代の文明社会の危険性につき述べて居るのみなのである。
尚、今回私は初めに世界を観念化して捉えることの出来る分野のことにつき述べて居る。
そうした分野では、どうも女性よりも男性の方がそうした世界自体を切り開いて来て居る様に思えてならない。
然しそれも、勿論全部が全部そうなのではない。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1683回) ..2014/05/23(金) 13:07 No.4778 |
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それでも優れた宗教家や哲学者、詩人などに女性が多いかといえばそれはそうではないのである。ーもっとも昨今はその詩人にも女性が多いのだが。ー
特に宗教や哲学といったより大きく観念で捉えていく必要のある世界に於いて母性原理の役立つ領域はさほど大きくは無い。
私の言いたいことは、この世の中にはそうした大きな捉え方をしなければ見据えられない真理領域の世界があり、それは女性的なものの見方、すなわち母性原理の方だけでは捉えられ得ないということを述べて居るのである。
だからこそ今現在のように女性のパワー重視、女性の解放万歳、男女平等万歳だけではダメなんだ。
勿論そうかといってそれで芥川賞や直木賞の受賞者に男性が増える訳でもないのだろうが、ただ私はそのような大きな範囲での観念力の減退つまりは視野狭窄、人類の知恵の世界の矮小化、逆に言えばさらなる現実の現実化への加速、或いは唯物化、即物主義化することの奥にその女性原理の力が一役買っていはしないかとそのことばかりが気にかかって居るのである。
そしてそうした方向性にむしろ滅びへの予兆のようなものを感じない訳でもない。
その範囲の狭い視野の中で暖かい、柔らかい、快適なものだけに包まれ続けて居ると、何だか本質的に人間がダメになりそうな気さえもする。
そしてそのように文明が文明の母に守られ常にその子として快適に暮らし続けて来ているのではあるが、その文明の母親の外側にはもっと本当の母ちゃんが居てそれこそが宇宙であり地球である。
されど母性原理という文明の母親に過保護に育てられて来た我々には自然というその本当の母ちゃんの姿がもはや見えなくなって来て仕舞って居り、本当の兄弟ー他の生物種ーが今次々に死んでいって居るというのにそんなこと我関せずでただひたすらに個々人でのカネ、モノ、チカラの充実を、そのことの達成による個別的な満足を追い求めて生きて居るだけのことなのである。
だから滅ぶんだよ、そうした視野が狭まりエゴに囚われし文明は早晩滅ぶしか他に道はない。
ーと、とある作家の方は著書でそのようなことを述べられておりました。私自身としては滅ぶ滅びないといえば矢張り滅びることだろうがそれをなるべく先延ばしにする為には父性原理の方のことをもっと真剣に考えかつ大事にしていくべきであるということをこそ今ここに訴えておきたいのです。ー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1690回) ..2014/06/09(月) 23:41 No.4785 |
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NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第一回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0524/
NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第二回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0525/
今後間違いなく危機にまみえることとなるだろう文明が、現状でどんな状況にあり今後どのような方向性へ進みするとそこでどんな危惧が生じるのかということが良く分かる様に仕上げられた信頼の置ける番組である。
私は第一回の方を見逃して居り、かつオンデマンドの方でも見逃したので本日番組単体での料金を払って視聴してみたところである。
その感想などはまた後日述べることとして、現代文明の行く末に危惧を抱いて居られる方、人類の未来はどうなるのかということに深い関心をお持ちの方などに是非視聴して頂きたい番組である。
ここではまた私が現在読んでいる人口問題による文明の滅亡を論じた本の内容に関連した部分なども出て来て居る。
いずれにせよ正しい現状認識を持つという意味に於いて是非皆様にも視聴して頂きたい番組である。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1695回) ..2014/06/17(火) 12:20 No.4790 |
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現代という時代の価値観は一言で云うと人間存在の持って居るもともとの精神性のようなものを解体していき、物質的な領域ー即物的な力ーやシンボル化された領域ー言語による規格化された象徴性による力ーにのみ価値観を置いて推進されたところでの非精神的な領域での世界観のことを云う。
要するに精神が其処に存在して居ない時代のことを云うのである。
純粋な意味では其れは存在して居ないのだ。
だから現代人にとっては其処でもはや精神的な領域のことなどそも何も分かって居ない、まるで分からなくなって仕舞って居るのだ。
しかも其の人間の白痴化の過程で一番怖い事は自分自身の其の精神の解体につきほとんど何も気付いて居ないということこそにある。
たとえば今現代人は誰もが物質的な豊かさを追い求めつつ日々を送って来て居る。
我我の日々の生活は物質的な豊かさを追い求めるということの為の日々の連なりとなって居る。
誰が好き好んで物質的な豊かさなど要らないとそう宣うことだろうか。
勿論誰もが豊かになりたいのでこの今という時を生きて居る。
然し物質的、即物的な豊かさというものは本来ならば人間にとって部分的な、限定的なものであるに過ぎない。
対する全体的、非限定的なものに精神的な領域というものがありコレが本来ならば人間存在の行動を規定するべきものであろう筈だ。
ところが近代以降の人間存在は其の物質的、即物的な豊かさというつまりは唯物論の世界にどっぷりと浸り其の本来の大事な領域のことをスッカリ忘れて仕舞った。
つまり、物質的な豊かさを追い求めるということにかまけて一番大事な精神の領域のことを忘れるか失うかして来て仕舞って居るのである。
其の結果、当然ながら精神の方は次第次第に貧困という状態に陥っていく。
そう物質的な豊かさを求め過ぎるとむしろ精神は貧困になっていく。
こうした当たり前の原理ないしは真理のようなものを、何故現代人は認識出来なくなって来て居るのだろうか。
ただし其れは大きく求め過ぎるとそのようになるということであるに過ぎない。
自分なりの節度を保った求め方はこの苦の多い人生を誤魔化して生きていくことの為には是非必要である。
それもあえて仏教徒的に言うならば、たとえば女や酒やクスリに溺れるのではなくちょっとしたモノやスポーツの方に熱心であることの方がずっと安全安心でよろしい。
然したとえば投資で大きく儲けようとしたり他人を出し抜いて大きく偉くなろうとしたり女房に飽き足らず妾を囲ってなんてのは其処でそも精神の持ち方の根の方が悪いので真理方向からすればそうした行動は愚かなことということになる。
人間が真に幸せになるということは、むしろ物質的な或いは精神的な欲望に於ける自己規制を如何にして上手にかけていくかという部分にこそ存して居るのである。
つまり其の自己規制をとっぱらうか或は失うかして仕舞った先には本当の幸せというものは存在し得ないものなのである。
人間が本当の意味で幸せになるということはそうした自己規制の堅固なやつをむしろ自ら進んで己に課していくということであるにほかならない。
逆に規制を無くせば豊かになれるかといえば其れはなれない。
そうかといって規制ばかりかけているような人生にも意味はない訳で、だからやっぱり仏法が諭すように両極から離れた真ん中の道を歩んでいくことを選ぶのが人間の生き方としてはより望ましい筈だ。
ー以下は以前に少しだけ書いてみたもの。ー
畢竟ー物ーとは人間の精神にとって謂わば内部存在のようなものである。
だからこそ物の領域ー自己にとっての所有物の拡張、所有物への知識の拡張、 非所有物への知識の拡張ーに深く与して生きることにはほとんど何の意味も無い。
そのようなことでは人間の精神は磨かれることも無ければ、また精神の領域が其処に拡がるということも無い。
精神が外部へ向かって成長していくことの為には、むしろ物質的、即物的な豊かさということを減じていくことのみにより其れが達成され得るのだ。
逆に精神が物質界に囚われて、或いはこの現象世界のみに囚われて、つまりは現在性、瞬間性、現実というこの一点にのみ囚われ続けて仕舞うと、精神は限りなく貧しくなっていく。
其の貧しいということは、明らかなものの見方を阻害する。
明らかなことがそれ即ち清らかなことなのであるから、貧しいということは其れ即ち穢れて居るということにも等しい。
そのように現代人の一般的認識は汚れて来て居る。
求めることが多過ぎるのでそのように汚れて来て仕舞うのである。
だからむしろ求めないことを考えていく方が良い。
まず物質的な領域に於いて。
次いで精神の領域に於いても。
もっとも精神の領域に於いて求めないということは、実はそれは可成に難しいことだ。
誰しも家族愛だの自己愛だの、そうした最終的には自己矛盾性に陥っていくだろう領域をむしろ積極的に掲げ持つことでこの現実世界を生き抜いて居る。
其れ等エゴの領域とは無関係では生きられないのが人間存在であるということなのである。
然しその自己矛盾性は、現代社会に於いてより拡大していく方向にある。
自己矛盾性を縮小していくのがひとつの良い方向性だと思われるにも関わらず、その真逆を行くのが我々現代人の精神の愚そのものなのである。
それで求めれば求める程にかえって渇望がひどくなり、次にはより高級なものやより珍しいものを求めたがることともなる。
然し私が言っているのは、そのことを止めよと言って居るのではない。
そうした節操のない欲望の解放の流れを変えた方が良くはないだろうかとそう述べて居るだけのことであるに過ぎない。
それは事実私自身がそうした道を歩んで来たからなのである。
私はかって私自身の精神の貧しさについて余りにも無知であった。
不覚にも、自身の精神の貧しさについて全く気付けないところに住して仕舞って居たのだ。
然しながらそれは私個人としての病気ではなく現代人としての病にほかならぬものでもあった。
そして其の流れを逆向きにすることで私は現代という時代を外側から見つめる眼を得た。
そのことによりその求めることへの執着の思いを逆方向へ向かわせるのである。
俯瞰視することで自己の欲望を客観化して捉える、つまり主観の対象概念として欲望を客体化するのである。
思うに人間存在とは精神性ー観念力ーと物質的な側面の融合体でありもとより純粋などちらのあり方にも与し得ないものなのである。
だから元々物質的な側面にばかり目を向けて居る必要はなくまた神様仏様のように純粋な精神性の顕現でもあり得ないものの筈である。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1696回) ..2014/06/19(木) 01:37 No.4791 |
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タゴールは私が青年期に愛読して居た詩人の一人である。
他に特に好きだったのはリルケの詩だったが、それでも今思い返せば一時期はタゴールばかり読んで居たこともあったのだった。
タゴールは詩聖とされている、かってアジア人初でのノーベル文学賞をとった古の大詩人である。
ちなみに私が書く詩とひとつ共通して居るところは宗教的な概念がその詩のなかに盛り込まれて居ることである。
つまりは私も根が宗教詩人なのだからこそタゴールの詩の世界観はむしろごく自然に理解することが出来る。
だからそのあたりの思いを元に今回タゴールのことを書き連ねてみようと思った次第である。
詩集 ギタンジャリ(GITANJALI) ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore) 訳:高良とみ http://linden.main.jp/tagore/gitanjali.html
7
わたしの歌は 飾りを捨てて しまいました。 衣装や 飾りについた誇りは もうありません。 飾りものは わたし達が 一つになることを 妨げます。 それは あなたとわたしの間に 入って その響は あなたの囁きを 消してしまいます。
あなたのみ前に わたしの詩人(うたびと)の虚栄(ほこり)は はじらって消え去ります。 おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。 あなたが歌を吹き給う 葦の笛のように ただわたしの一生を 素朴な まっすぐなものに させて下さい。
8
王子さまのような衣装や 宝石のくさりを 首につけた子供は 遊びの喜びを すっかりなくしてしまいます。 一あしごとに その衣装が 邪魔をしますから。
それがすり切れてしまったり 塵に まみれることを恐れて 子供は 世の中から 離れて 動くことさえ こわがるでしょう。
母よ 飾りの束縛は 無益です。 子供を 健やかな大地の塵から しめだして みんなのくらしの中の すばらしいお祭りに 行くたのしみを うばい去ってしまうのですから。
9
愚か者よ 自分の肩の上に 自分を 運ぼうとするのか! 乞食よ 自分の戸口へ 物乞いに来るのか! 何でも 背負い切れる人の肩に お前の重荷を すっかりゆだねて 後悔して 振り返ったり なさるな。
お前の慾が 息をかけると ランプの灯は 消えてしまいます。 それはけがれているのです―― 不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません 聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。
ー上記より抜粋して引用ー
7より
あなたのみ前に わたしの詩人 (うたびと)の虚栄(ほこり)ははじらって消え去ります。 おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。
まずタゴールは例の谷川 俊太郎氏が鳥羽の連作で提示されていた大きな詩の上での問題にも当時すでに直面していたのだと考えることが出来る。それは詩人の虚栄は元来存在していないということなのだ。タゴールの言うあなたーおんみーというものは、神であり自然でもある人智を超えたもののことを云う。
そうしたものこそが本当の意味での大いなる詩人なのであり、うたびととしての自らはその前に座るべきものであるに過ぎないのである。謂わば言語の象徴性を超える言語以前の完成の世界、完璧な美の世界というものが自然界ないしは神の領域にはあり、言葉のシャーマンとしての詩人はその前にただ座してその御技を観覧しているほかはないのである。
8より
ここには、
母よ 飾りの束縛は 無益です。
とある。
王子さまのような衣装や宝石のくさりを子供に呉れてやったとしても、それで本質的に子供が楽しくなるー幸せになるーということではないんだ。自分の子供だけは金持ちにしてやりたいだとか、或は頭を良くして現代社会に貢献できる人間に仕立て上げてやりたいとかそうすぐに普通の親は考えがちなのだが人間をそういう方向性に規定して仕舞う事自体が実は愚かなことであるのかもしれない。
ちなみに我には子が居ないがもし男の子が居たら矢張り是非僧侶になって貰いたい。有難い法を頂く立派なお坊様となってこの濁世を少しでも浄化する方向へと教化していって頂きたいものだ。もっとも我が国の仏教の将来は暗いそうである。現在我が国の三割位の寺が荒廃していて、其処には住職も居らず寺が荒れ放題になって居るのだそうだ。そうなって居る理由のひとつに現代人の宗教離れということがあり、さらに宗教にはなるべく金を使いたくないという我々庶民の切実な金勘定の方の事情もある。兎に角日本の仏教の未来は暗い。が、息子がもし居たらそれでも是非仏教の世界に縁して貰いたい。いや子供が男でも女でも兎に角修行者にしていくべきであろう。
9より
お前の慾が 息をかけると ランプの灯は 消えてしまいます。 それはけがれているのです―― 不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません 聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。
何と、人間のー汚れたー欲が息をかけるとランプの灯ー真実のーが消えて仕舞うのだという。
汚れた手ー心ーでこの世の様々なものを受け取るなとも宣う。
さて、この汚れ、ということが現代の社会にとっては最も重要な意味を持つ概念なのである。
何故ならこの言葉こそは、現在現代社会にとっての死語となっている概念だからなのだ。
この汚れ、穢れということは宗教や祭祀などの世界に於いて屡言い表されて居ることばである。
然し、現代に於いてはほとんど意味不明の言葉であるに過ぎない。
勿論何となくならば現代人にも意味が分からないでもない。
然しそれでもどうも分からない。
一体何が汚れているのかということがそも分からない。
つまり現代人は自らの心の汚れに対して全く無頓着なのであり同時に汚れという概念についても全くの不感症なのである。
だから私はその様こそがおそらくは現代人の心の病であろうとそう考えて来て居るのである。
然しながら矢張りというべきか、詩聖タゴールはその点についてもはっきりと言及して居たのであった。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1697回) ..2014/06/19(木) 01:37 No.4792 |
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死が お前の扉を 叩く時 お前は 何をささげるのか? おお 私はそのお客の前に わたしの生命をみたした器を ささげましょう―― 決して 空手では かえしません。
わたしの秋の日と 夏の夜の 甘いぶどうのとり入れと いそがしい生涯の すべての収穫と 落穂とを その前に 並べてささげましょう。 私の生涯が終って 死がわたしの扉を 叩くとき。
91
おお お前 生の最後の完成 死よ わたしの死よ わたしに来て 囁いてくれ! わたしは来る日も 来る日も お前を待ちうけ 見張っていた お前のために 世の苦しみも 喜びも 堪えて来た。 わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。 お前の眼からくる 最後の一べつによって わたしのいのちは お前のものとなるだろう。 花は編まれ 花環は 花婿のために 用意された。 結婚の式がすめば 花嫁は家をあとにし 夜のしじまに ただ一人 花婿に逢うであろう。
ー上記より抜粋して引用ー
これらの詩句を読む限り、タゴールは死を決して忌み嫌うべきものとして捉えて居なかったことだろう。
死が訪れるとき、私の人生の上での収穫と収穫ではなかったもののそのすべてをその前に全部並べて捧げるとも語って居る。
そして何と、死の完成ーそれが即ち生の完成でもあるーのために自分はその死の為の花嫁となるとまで語られて居る。
何という度量の深い生の解釈なのだろうか。
これを読むと、生の成功の側面ばかりを追い求めて生き、そして死にはほとんど興味がなくしかし実際にそれが自らに課せられて来るとまさに怖くて怖くて仕方がないといった典型的な現代人の心理が何とも浅はかで低級で情けないものに見えてきて仕方がない。
死と自ら進んで結婚するのだという、この言葉の持つ重さと広さ、それこそが現代人の心のあり方から失われて仕舞ったところでの正常な人間としての宗教的な心性の発現なのではあるまいか。
わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は
いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。
ということはわたしにとっての生の上での+は最終的に全的な−に向かって全部秘かに流れ込んでいっていたのである。
其の事を知って居る詩人は、死つまり究極のマイナスを形作るのは生のすべての喜びの流れの必然であるゆえ決して厭いはしない、むしろ其れを積極的に完成させるために生きていく、ということだろうと思われる。
いずれにせよこの認識はもはやすでに一般性を超越して仕舞って居り限りなく聖の方に近いものであろうことは疑うべくもないところだ。
人間は心理的に深みのある体験を繰り返すとこのように一般性を離れた認識を獲得することが出来る。
そして其れは誰もが出来ることではないのだ。
死と結婚したいという程に柔軟化されかつ研ぎ澄まされた詩人の内面というものは、人間にとって無限に恐ろしい筈の死の世界をむしろ待ちわびているようでさえある。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1710回) ..2014/07/17(木) 13:42 No.4805 |
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Wikipedia-七つの大罪 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA
所謂キリスト教で云うところの罪という概念につき屡考察を進めて来て居るここ数年来の私である。
私がキリスト教に興味があるのだとすれば、まさに此の罪という概念が其処に何かしら真実を含んだものではないかと思われるのでそうして来て居るまでのことなのである。
さて、罪という概念であるが、此れは一種複雑な問題を孕む概念のことで門外漢の私には正直なかなか理解が及ばないというところもある。
だが、罪という概念自体で人間存在を括っていこうという宗教的な試みには私個人として共感出来る部分も多い。
元々仏教にも無明という概念があり、人間は生まれながらにして其の心性の方が汚れて居て世の諸々が明らかに見えて居ないとそう教えられるのである。
とは言っても、現代日本では戦後民主主義に於いて宗教教育が否定されて来たという経緯があり、また仏教も形式化、儀式化された真の意味での仏教とかけ離れたものであるに過ぎないのであるから、そんなことは此処で初めて聞きました、などと思われて居る方々も居られるのかもしれない。
要するに現代人は宗教に関しては無知で、しかも無知どころか逆に何か悪いものであるかのように思い込んで居る始末なのである。
現代では宗教絡みのテロや紛争なども屡起きて来て居るので其れが至極鬱陶しいもののように我々には捉えられて来て仕舞うのである。
然し、本当の本当は宗教自体が問題なのではなく、其のように宗教が何か悪いものでもあるかのように感じられて仕舞う時代に至って仕舞ったこと自体がむしろ一番ヤバいことなのである。
しかも其のヤバさを、精神の上での不感症に陥りつつある現代社会の大衆は自覚することが出来ない。
勿論宗教を熱心にやって居られる方々は私の周りにも常に居られる。
そうした方々は確かに真面目な人々も多く、あくまで一般的には物事の捉え方の方も真剣である。
そうかと云って其の真剣さ、真摯さが様々な宗教上の対立を引き起こすことにもなりかねない訳でそうした部分が大衆的見地からすれば不必要であるということにもなろうかと思う。
然しながら、それでも私は訴えたい。
宗教を生活から遠退けて生きて居る現代人ほどキケンなものは実は無い。
むしろそちらの方こそが最も危険な精神の上での状態なのである。
なんとなれば現代社会の奉ずる人類の物質的な進歩や経済的な成功は本当の本当に大事な価値なのではない。
其処に浸り切って仕舞うからこそむしろ本当のもの、真の豊かさが見えて来ないのだ。
また其の事は、現代人がたとえば死という本源的な価値の発現を自らに得た時におそらくはすべてが分かって来ることなのであろう。
然し、凡人は哀しいかな、生きて居るうちには其の真の様が全く見えて来ないものなのである。
もっとも私も其の哀しい凡人ながら、其処でさらに哀しいかな、色々と考えるところが多い精神の性質なので物事をあっちから見たりこっちから見たりということだけは生きながらにして出来て居るのかもしれない。
四世紀、八つの「枢要罪」ー「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」
『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』日本語版(2010年)
日本語 ラテン語 英語[4] 傲慢 superbia pride 物欲(貪欲) avaritia avarice ねたみ(嫉妬) invidia envy 憤怒 ira wrath 貪食 gula gluttony 色欲(肉欲) luxuria lust 怠惰 pigritia seu acedia sloth or acedia
1925年10月22日 「七つの社会的罪」(Seven Social Sins) マハトマ・ガンディー 理念なき政治 (Politics without Principle) 労働なき富 (Wealth without Work) 良心なき快楽 (Pleasure without Conscience) 人格なき学識 (Knowledge without Character) 道徳なき商業 (Commerce without Morality) 人間性なき科学 (Science without Humanity) 献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)
2008年3月、ローマ教皇庁 ー遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒 以上、Wikipedia-七つの大罪より抜粋して引用
さて、いずれにせよ罪ということは此の世に在ると考えて置いた方がより良いであろう気が私はして居る。
そして宗教というものは其の罪の内容を大枠で規定していくものである。
ただし、其れは其の罪の内容を文学的、哲学的に捉え直していくものではないのである。
ゆえに宗教とは其のようなあくまで具体的、現実的な価値ではなかろうかと私は捉えて居る。
其の点では宗教は藝術とは一種対立する世界のことで、其の本質とは精神の規定なのである。
藝術は其のような規範の存在の縛りからの、精神の不自由さからの脱出をむしろはかっていくものであろうが、あくまで宗教はそうした創造的な自由な価値に重きを置くのではなくして、縛りとしての大元での精神の規定に終始する。
宗教は其のように一種不自由なものだが、其の限定性の中にこそ良い部分があるものなのである。
だから本当は何でも自由というのではダメなんである。
何故なら人間存在は本質的に限定されし存在で、其の本質的諸価値の顕現はやがては必ず自分の身にふりかかって来る。
人間は誰しも其の限定性から逃れようとしても何処にも逃げられないのである。
そういうのが人間存在の本質的問題である。
其の本質的な問題につき考え、かつ語るのが宗教の根本の意義なのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1711回) ..2014/07/17(木) 13:43 No.4806 |
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さて、上にも挙げられている貪食、色欲、物欲、などということは全く現代人の典型的な生きる上での価値の体現なのであります。
全く何でこんな低級な方の欲の成就の為に我々は振り回されて居なければならないのでしょうか。
よしんば其れ等の欲を捨てたにせよ、たとえば「憂鬱」とか「憤怒」とか「怠惰」とか「傲慢」というものにこの私の場合などは特に引っかかって来て居るようです。
つまり現代人はどんな性質の人でも宗教の提示するところでの根本の罪のようなものに必ずや抵触して仕舞うものなのである。
ならばどのように自分を治す、つまり自己を整えて諸の欲を抑え込んでいけるのであろうか。
いや、そりゃ、ま、無理なことでしょうな。
現代社会とは貪食、色欲、物欲の三毒欲でもってむしろ円滑に回されて来て居るであろう世界なのですぜ。
一方あのマハトマ・ガンディーの思想は東洋の叡智の体現であると考えられなくもない訳です。
ガンディーは仏教徒ではなくジャイナ教徒であったが、印度の宗教ないしは思想には共通項が多々有り根は同じものと考えることも出来る。
其のガンディーがかって規定したところでの「七つの社会的罪」を見てみたところまさにビックリだ。
其処で曰く、理念なき政治、労働なき富 、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰 、とある。
最後の献身なき信仰という部分は一応除外しておくとして、他の6つは現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であると言っても良いことだろう。
さらに2008年3月にローマ教皇庁が発表したとされる以下の罪についても同じようにビックリした。
ー遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒ー
無論のこと是等も現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であるということは間違いないことだろう。
だから遺伝子を勝手に弄ることは罪、環境を汚したり軽視したりすることも罪、一方で過度に金持ちで他方には貧困を生んで居るようなことも罪、脱法ハーブを吸ってラリって居ることなどは勿論罪、こんな風に貴方も私も皆罪の中、現代人は勝手に罪の激流のただ中を流されていきます。
罪の自覚も無く、ドロドロの欲の海の中に浸り続け、気付いてみたらもはやボロボロだ。
さて一体何がボロボロなのでしょうか。
其れは我々の精神こそがもうボロボロなのですよ。
カトリックだって、仏教だって、こんな風に其の人間の罪のあり方こそを問題として捉えて来て居る訳でしょう。
だから其処ではもはや何教や何派だという問題ではないのだ。
すでに現代社会の罪に対する自覚自体が失われて来て居るのである。
其の様を正確に見通し、批判するのが文学の役割であり、其の誤った様を正し精神を大元で規定していくことこそが宗教の役割であると私は述べて来て居るのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1728回) ..2014/08/08(金) 23:42 No.4823 |
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理研の笹井氏は大変優秀な研究者で再生医療における日本最高の研究者の一人であったとされて居る。 其の優秀な自然科学者の一人が何故死を選ばなければならなかったのだろうか。
思うに死を選ぶということは、其れは内面の否定であり同時に外面の否定でもあることなのである。
おそらく厳密には此の両者の面を否定していかない限り自殺という行為は完遂出来ないものではないかと観念的にはそう考えられるのではあるが、現実には人間は感情生物でもあり得る訳でそんな小難しいことを考えて居たりはせずにただ辛いから死ぬ、苦しいからこの世から逃 れたい、という其の一心から決行されて仕舞うものなのだろう。
然し観念的にはあくまでそういう風に捉えられるものであるから、むしろ其のように論理的、哲学的に死を概念として規定して置いた方が安易に死を選ぶことが少なくなりある意味其れが抑止力となることだろう。
感情的にはもう今すぐにでも死んで仕舞いたいと思って居るのだとしても、概念的な部分、観念領域のことがまだ働いて居るのだとすれば、其処で少し考えるだけで自ら死を選ぶことを回避出来る筈だ。
何故なら観念的に内面と外面のどちらも否定して仕舞いたいという心理をした人間が存在して居るだろう可能性はかなりに低くなることだろう。
普通人は私は自分の内面は好きだがー認められるがー他人としてのアイツの腐った根性が嫌いなのだ、とか、矢張り自分の心は好きだが社会の心性の方が悪くて大変気分が悪い、というように自分自身の心を否定するところまではなかなか至れないものなのである。
また其の逆もあり得ないことではないのかもしれない。
其処では外側は正しく良いものであり、自らの内側は全くダメなものだと思い込んで居るのかもしれない。
特に現代人の場合は自我意識がより大きくはっきりして来て居る手前、そうして自分を頑なに信じ込んで居る様は決して悪いことではなかろうと個人的に私は考えて来て居るのである。
其れは自分を信じ込んでいなければ明日という日を生きてゆくことさえままならぬのが現代という厳しい時代の掟のようにも見受けられるからなのである。
勿論真理の領域に於いては、近代的自我というものは幻想に過ぎないものなのであり、従って其のような幻想に与して生きていくほかはない我我庶民は近代的自我に飼い慣らされた家畜、畜群として其の幻想の枠組みの中をただ流されて行くばかりなのである。
然し近代的な自我というものは結構自殺の予防策として役に立つ部分もあるのかもしれないなと今はそう思う。
最終的に自分を捨てることがなくばたとえ乞食になったとしても人は生きていけるのではないだろうか。
いや、其れは物質的な側面の話では無く観念的、精神的な領域での自殺の予防の話をして居るのである。
自殺は何より自己否定欲の成就に繋がるから本当はそれも欲望の否定ではなくマイナスの欲望の肯定のことであるにほかならない。
其れで其のようなプロセスでもってこの世から逃れていったにせよ、欲望を滅したことにはならず従って死した者の心が死後に聖なる心の段階へ至るということでは決して無い。
だから結局損なのである。
何が損かというと、真理への探求のプロセスを自らの手で断ち切って仕舞うという意味に於ける損なのである。
死んだら終わりでもはや女にも触れないのだし美味いものも食えずでまたウンコやオシッコももう出ない。
然しそういうのを損だとは、観念領域の方ではそう考えない。
あくまで真理への道が閉ざされて仕舞うという意味での観念的な断絶を自ら選んで仕舞う事が死のマイナス面でのことなのである。
だから笹井氏も結局は其の真理への道を自ら閉ざしたという点に於いて其れは明らかなマイナスであり悲劇であったことだろう。
尚現代科学に於ける真理ということと、宗教や思想に於ける真理という概念には本質的な違いがあることを此処で考えておかねばなるまい。
現代科学に於ける真理とは、基本的に倫理観や道義心などとは関係の無いところで展開されるだろう物的な関係性、物理的な法則性により規定されし唯物論のことなのであるし、宗教に於ける真理とはそうした唯物的な流れとは一線を画した精神世界の流れのうちから汲み取られた精神性のことなのである。
従って現代科学、特に自然科学には基本的に心が無く科学的な成果が其処に認められるのであれば其れでよしとされるのであるが、宗教に於ける真理とはそのような即物的、無機的な成果のようなものとは全く異なりむしろ精神の領域の方から発せられていく普遍的真実のことなのである。
だから宗教とは其のように精神界、つまりは心のあり方の方をまず問題とすることだろう、何より其れをまず第一義的に捉えなければならない分野のことなのである。
其れが我我大衆は戦後民主主義の世に於いて宗教を正しく学ぶことなく大人になり其の精神の大世界のことに関しては全くの無知だったのである。
其れで庶民の多くは科学技術には大きな価値があり宗教はインチキで怖くて何されるものか分からないなどと思い込んで居る始末なのだが、サテ、今回のようなこの結末を我我はどう捉えて置いたら良いのであろうか。
私が前々から語って来て居る様に科学技術ないしは科学技術による人類の発展などということにはさして大きな価値があるということではない。
現在の文明にとって、或は人類の前途にとって最も必要なこととは内面の充実のことであり其れは精神の世界というより大きな非即物的な世界に与することでしか得られないものなのである。
細胞を、其の神が与えし完璧な秩序にあえて挑み人知による改変、組み換えを行うこと、其の諸々の欲望のうちでも最も抑制に欠けた生命に対する冒涜、倫理観の欠如に対して我我庶民は何故こんなに平気な顔をして其の大罪を見逃して来て居るのだろうか。
勿論誰が悪いという段になれば科学者個人が悪いわけでもなく近代科学という一見人類の生み出した叡智の結集の場のように見えるが実はドロドロの欲得感情で動く世界、確かに中には客観的な真理を追求する真摯な研究者も大勢居られることかと思われるが、そうした理念的な世界とは別に存在する有象無象の世界、金と名誉と保身の為にだけ動いて居ることだろう世界こそが其の我々が信奉して来たところでの科学技術の世界の実態なのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1729回) ..2014/08/08(金) 23:42 No.4824 |
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尚、死ということは個として別に選んでも構わないことなのである。
どういうことかと云うと、例えば原始仏教では必ずしも自殺することをすべて否定して居た訳ではなかったということなのである。
ただし其れは先に述べたような真理に対する可能性を閉ざすという意味に於いて大きな損失なのではある。
だが当初の仏教に於いては自殺の全部をダメだと云って居た訳ではなかったのである。
今日のように自殺が全部ダメだと云う事になったのは宗教にこの世をより良く生かす教えという側面が強調されていった後代に於いておそらくそうなっていったのではないだろうか。
然しあくまでやむを得ない場合には釈尊自身が門下の自殺者を認め丁重に葬ってやるようにという具体的な指示さえ出されて居たのである。
多くの宗教では自殺を禁じて居るものが多い中で、初期の仏教では逆に生に執着することが甚だしい場合のことを最も非難し、また其の逆に生に執着することが無い行為については自殺をも含めてそれほど非難したりはして居ないのである。
左様、仏教では生きたいと強く願い諸々の生の場面に精力的であることこそが逆にいけないこととなるのである。
だから本当の仏教では女に触るのもダメ、此の世に子供を残すのはさらにダメ、飲酒を含めた暴飲暴食も勿論ダメ、金を沢山稼ぐのも当然にダメ、物に多く囲まれてニンマリとして居ることなども無論のことダメ、まあ我我の常識からすれば現代の常識として形作られる行動のほとんど全部がダメということとなる。
此の点からも分かる様に、現代社会に於ける我我の常識というものは案外いい加減なものなので其処を個々人のレヴェルで良く吟味、精査した上で誤りを是非正して置かなくてはならない。
尚個人的に理研の笹井氏の自殺はやむを得ない部分もあったのではないかと感じて居る。
彼は自然科学の増長振り、脳天気振り、心無き様の部分にむしろ殺されていったのではなかったろうか。
本当に頭の良い人は不器用でもあり、また誤魔化しも効かず、すべてに一途で理念、理想に生きて居ることが多い。
彼は確かに打たれ弱かったと言えるのだけれど、これまで本当に頑張って科学者としてのエリート人生を歩んで来たのだ。
ゆえにどうも仏法の上からも彼の自殺は非難されるべきものではないような気がしてならない。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1730回) ..2014/08/10(日) 23:47 No.4825 |
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科学技術が生み出す快適さや便利さの中にずっとひたり続けて居るとどうも人間存在自体がおかしな方向性に向かって飼育されていくのではないだろうかというのが今の私の考えなのである。
然しもしそうではあっても実際には近代以降の人間存在は皆知的水準が高く科学技術の言いなりの人はなかなか存在しないものなのだが、それでも必然として近代以降の人が創った制度、枠組みの中で所謂予測されるべき未来をのみ我我は日々生きていかざるを得ない。
そういうのは必然として脳内願望に沿った未来の実現という構図からは逃れられず、また其の度合いが進んでいけば其の脳内願望の中に人間存在自体が全的に閉じ込められて仕舞う事にもなりかねない。
近代以降の価値観とは畢竟そうした人間存在自身の欲望の実現のことであり、其れは何よりまず自己中心的な欲望の解放であり、同時に唯物論を据えて進む非精神的な即物領域の拡大のことである。
たとえ其のような世の中でも、現代人にはしっかりと心の面はあるのだから全然大丈夫でむしろお前のように時代錯誤な精神論のようなものを振りかざして居るような奴の方が頭がおかしいのだ、第一俺は科学技術の力の方は信じて居るがたとえば科学の思想などというものにはまるで興味が無い。
などと結構多くの人がそう思い込んで居るのではないかと思われるのですが矢張りそりゃ少しおかしいのだぜ。
だからそも其処で科学の思想が分からないのに何で科学技術の発展、進歩の方については信じられるのでしょうか?
他方で科学が進んでも唯物論的にこの世界が規定される訳ではなく、実際には多くの人が心の豊かさ、精神性の方での充実を求めて居るが仕方が無いので其れに従って居るまでだ、という説もネット上には散見されますがどうも其れも私にとっては言い逃れのような気がしないでもない。
何に対しての言い逃れかと云えば己の批判精神の欠如に対するか或は精神性自体の欠落をむしろ正当化する為の言い逃れなのである。
実際現在私の周りには私以外に現代文明ないしは現代科学技術文明を批判して居る人などは居らず、彼らの頭の中では現代文明ないしは現代科学技術文明の行く末などは大きな問題だとは言えず、むしろそれよりも今日の自分、明日の自分、また今日の家族、明日の家族、さらに今日の仕事場、明日の仕事場位までのことしか考えられないのが我我庶民の実際の姿である。
そうした近代生活教の信者で居ることが現代人にとっては一番楽なことでもあるのでそうして居るまでのことなのである。
然し昔から現実に堕してー妥協してー生きるか、それとも理想に殉じて死するか、という選択肢が往々にして人間存在、わけても知識人の中には存在して居た筈だったのである。
また科学が進んでも科学思想の方の理解は全く進んで居らず、其処ではただ単に科学技術が生んださまざまな製品と技術の価値のみを現代人は信奉して居るのだという説もある。
が、果たして人間存在とはそんなに器用に立ち回れるものなのだろうか。
私はむしろ其の一貫性の無さ、現代人が科学に対して観念的に疑義を抱くことに対する諦めの気持ちの部分にこそ現代人の精神性の希薄さをそして精神の衰退の様を感じて仕舞うのである。
だから唯物論的な世界観の浸透により現代人の精神性は限りなく薄められて来て居るのではないかと考えて来て居るのである。
其れがそも薄いから、科学精神、科学思想といったことに対しては興味が無いが自分の生活に直接影響を齎す科学技術の成果の方には結構な関心があるのだ。
と同時に科学とは対極の世界にある宗教に対してもほとんど関心が無い。
だから上記の言い訳はなかなか成り立たず、本当の本当は別に皆が心の豊かさ、精神性の方での充実を求めて居る訳ではなく多少の疑いが生ずるにしてもあくまで便利で快適な生活の方がずっと楽だから其れでも良いと思って居るに過ぎないのだろう。
そして其のようにしてある種器用でもある我我大衆はいつの間にか科学が提供するところでの真の唯物論的な傾向の中に組み入れられていくのである。
どういうことかと云うと、其れは精神性の解体ということである。
もし人間存在の精神性そのものが解体されつつあるのだとすれば、其処に於いてまず自己中心的な諸の傾向が社会問題として噴出して来ることだろうし、同時に宗教など精神に対するより大きな規範の部分に対する無関心ということが顕著に見られるようになる。
さらに倫理観や道徳観の欠如、刹那的に享楽を求める傾向の増大、思考の幼稚化、陳腐化という傾向も其処に読み取れるようになって来ることだろう。
其れ等の傾向はひょっとすれば社会の現状を上手く言い表して居るのではないだろうか?
其れも世界的にと云うよりはこの日本国に於いてそうした傾向が強く現れ出て来て居るような気がしてならない。ー国によっては宗教が規定するところでの精神性に大きく寄りかかって居る場合もありー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1731回) ..2014/08/10(日) 23:48 No.4826 |
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尚最近私は良く思うのだけれど、例えばTVのCMが物凄く陳腐ないしは下品なものに感じられて仕方が無いのである。
それで職場で大学の先輩に、昔のCMは少なくとももう少し上品だった筈だがそこのところはどう思う?などと良く尋ねたりして居るところなのである。
何と言うか、要するにモノを売りたいという意識がストレート過ぎかつ内容と音とがうるさ過ぎてCMが皆至極下品なのである。
確かにごくたまに文学的だとでもいうか情緒的だというか視て居て心が落ち着くような良いCMもまたあるのだ。
然しほとんどが其の業界でのNo.1の実績を誇示してみたり、またまさに売らんかなの精神で面白おかしく広告をこねくり回して居るのでそうしたものを視て居るだけで実に鬱陶しく其れ等を視せられることでいかにも無駄な時間を其処に費やしているように思われて来る。
私は昨今のCMの陳腐化、下劣化は即現代人の心の中身の陳腐化、下劣化とリンクして居るのではないかなどとすぐに勘ぐって仕舞うのですが其れは流石に少し考え過ぎなのかもしれない。
いずれにせよ、問題は私が少し考えてみたところでの現代人に於ける精神性の解体ということが果たして現実に進んでいることなのだろうかという部分にある。
近代以降の時代を貫く合理主義概念、唯物論の世界観に振り回されいつしか我我は人間の精神の基礎的なあり方、精神のあり方の基本のようなものを忘れかけて仕舞って居るのかもしれない。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1737回) ..2014/08/23(土) 00:28 No.4832 |
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現代の人間存在も今後は天災や食糧危機や様々な危機、諸制度の破綻を被るであろう方向を向いて歩んで居るのであるから私も其れに付き合ってゴルフ浪漫や万年筆浪漫のことを語るのは近く終わりにしてもっと本質的な問題をネット上に暫くの間語って電脳空間からは潔く左様ならするつもりである。
人間というものは元々限定されし存在なので其の儘では其処に永続的なもの、実体的なものは無く同時に其れは普遍化することも出来ずで、要するにそれは闇の中に閉じ込められし迷える魂を持って出て来て居るだけの存在なのである。
かってナーガールジュナは以下のように述べたそうである。
「実体とは、自立・不変・永続的なものである、と。実体は他のものに依存しない、つまり、縁起しないで、それ自体のみで存在するものであり(自立的)、あくまでも自己同一性を保っていて、変化しないものであり(不変)、生じることもなく滅することもなく、永久に存在するもの(永続)である。」
然し私はこの文言を知って居た訳ではなく自分で自分なりの存在論を考えてみた後に初めて知ったのである。
即ち、実体というものは<在るもの>であり、非実体的なものとは<無いもの>である。
そして実体というものは他とは関わらずそれだけで存在するものであるからむしろ無いものー存在としてはーである。
ゆえに実体と考えられて来て居るもの程本当は無いものであり、一見無いものに見えるような非存在的なものこそが実体なのである。
其処をかって私は、観念性と結びつけて捉えてみた訳である。
観念性の極致こそが其の無いものに見えるような非存在的な実体なのではないだろうか。
いや、仏法では悟りへ至るために観念性さえをも捨て去るなどとも屡云われて居るので其れは悟りそのものではないのでしょうが、其処を哲学的に構築化すれば矢張りどうしてもそうしたこととなる。
私の考えでは<在るもの>としての実体性は実は無いものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居ないもののことである。
逆に<無いもの>としての非実体性は実は在るものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居るもののことである。
つまるところ、存在して居るもの、この世での諸の現象は実はすべからく<無いもの>の方のことである。
よってそういう不確かで虚妄なものに拘って生きて居ることこそが自己矛盾性により深く囚われていくこととなるのだ。
一方実体としての存在して居ないものの方では其れは<在るもの>として存在するだけなのであるから物質的な現象とは無縁で実は何も考えて居ないんだな、これが。
其の観念化の極点に於いてもはや何も考える必要が無くなって居るのかもしれないんだな、これが。
で、私がまたいきなりややこしいことを述べて居るのは、どうも昨今の気候の滅茶苦茶振りからしても文明というものはそんなに長くは持たないのではないかと思えて来たので是非こうしたややこしいことも述べておかなくてはならないのである。
文明というものは一面で人間の心理の集積であり、人間としての全体の心理の向かうところでのものだ。
其れが最大公約数的に向かうべきところが決められて居たりするものである。
然し、おそらくは其れが間違って居たのであろう。
我々のような存在化されし凡夫は存在化されない実体的なものを<無いもの>と思い込み、逆に存在化されし非実体的なものを<在るもの>だと思い込んで来て居る。
しかも其れを何と数千年にも亘り続けて来て居る。
だからこそ其の倒錯の思想の果てに近代という心無き時代、精神無き世紀を迎えなくてはならなくなったのだ。
そして其の結果が今であり、そしてこれからなのである。
無論のことこれからもドンドン雨は降って来る、鉄人のオモチャをつい盗んで仕舞う五十代の男さえもが出て来る、でもまあ其の位はまだ序の口で、私の予測では五十年後の将来はまさに地獄の様である。
存在化されない永続性のあるものこそが、実体的なものである。
対して存在化されし限定的なものは、非実体的なものであるに過ぎない。
我々凡夫は存在化されし限定的なもの、非実体的なものにばかり群がり、貪り、満足を得ようとする。
愚かなり、其の様や。
本当の本当はそうしたこととなる。
単なる哲学では無く、仏教哲学の方からも明らかにそう云える筈だ。
其れと私の存在論からも明らかにそう云う事が可能だ。
不幸にも存在化されし我々はこの世の事象の諸に深く縛られ其れ等を悉く在るものとして見て居る。
この世のすべてが、いや、この世のすべてではないのだが其の半分位は楽しいこともまた多い、位に思って居る。
全く、凡人だなあ、S先輩よ。
俺なんかは見ての通りの世捨て人で頭の中はすっかり世間離れして居るもんでこの世のすべてが、いや、其の半分位にしてもだ、其れが本質的には楽しいことなどではなくむしろ苦しいことばかりであることをすべてお見通しなのさ。
されどこれまで我は色んなコレクターをして来て仕舞って居る。
ま、我も根が馬鹿だからついそうしたことに関わっちまったんだろう。
其れで今宵も実は、翡翠のことばかり考えて居たのだ。
ついさっきまでは。
其の翡翠が<無いもの>であるとは矢張りどうしても思えないのだぜ。
こうして凡夫はそれぞれの境涯に適した思い込みー煩悩ーを持たされ、本質的には決して癒されることの無い存在ー人及び物、さらに精神、観念ーへの執着を捨てきれぬまま日々をのらりくらりと生きていくことしか出来ぬものだ。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1742回) ..2014/08/28(木) 23:49 No.4837 |
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元より金や宝石は有るところには有るもので、そして無いところには無いものと相場が決まって居る。
尤も批判精神や詩心といったものでも、其れは矢張り在るところには在り無いところには無いものである。
そうかと言って一般に観念的には成り難い性質の人に道を説くことは見当違いなのであろうし、さりとて現実の方の道一本で行くのだとしても其れは矢張り片手落ちなのだろう。
現実は其の全部を観念化出来るものではないが、むしろ半分位は観念化して置いた方が何かとバランスが取れより望ましくなるような気がして居る。
何故なら現代という時代、特に戦後の時代に於いて一番流行らなくなったのが其の現実の観念化の過程である。
かっては藝術家としての作家や詩人などが、或は宗教家が、また旧制の高校生などの一部のインテリは観念の為に死ねたのだったが、現代では観念と心中するかのような純粋な輩は居らず、観念も何もまずは食うことばかりを考えて行動し次により豊かに暮らせるようにしたいという、ただそればかりのことなのであろうから観念性への殉教者は明らかに激減して仕舞ったのである。
つまり、現代人は皆より現実的になった。
然し、其の現実そのものは、其の現実の意義、価値そのものは収拾のつかない程に多様化し虚構化され解体されるに及んで居るにも関わらず。
其れと同時に人々が本質を問わなくなった。
事の本質を問うていくことは、観念の減退した世相や人心にとって何より苦手なことなのである。
本当のものに就いて考えなくなった分、人は現実化され同時に軽薄短小化されて行く。
いや、確かに人が考えて居ない訳ではない。
考えている。
其れも前近代のレヴェルを遥かに超えた奇跡のようなことばかりを考えて居る。
然し其の考えは本当に本質を問うていく為の考えなのだろうか?
哀しいかな、私にはどうもそうは見えて来ないのである。
一言で其の現代の思考を評せば、其れは何か役に立つ為の思考ばかりを連ねて来て居るのである。
然しながら、思考とは本来其のように役に立つことばかりだったのだろうか。
むしろ役に立たないことーつまりは人類の進歩とか発展にとっては役立たないことーを頭の中でグダグダとこねくり回して居ることこそが観念の観念たる所以ではなかったのか。
なんとなれば原始仏教も老子も荘子も皆そうした役立立たずの思想ばかりで、それにしては皆立派ななりをして居て時空を超越して存在するものであるかのように見える。
近代教による現代病は其の役立たずのグダグダ思想を捨て去り唯物的に現在に生きることを選択したことから齎されて居ることなのかもしれないぞ。
かって武士は志の為に死ねた訳なのであろうし、思想家や宗教家は己の信ずるところに殉じて死ねたのであろうし、あの三島 由紀夫にしても、日本の皆が高度成長とやらで浮かれ騒いで居る最中に大義としての観念の為に自決したのであった。
其のような人間の大きな部分での精神性は、結局個々人に於ける精神の純粋度と無関係ではないことだろう。
だから人間は現実ばかりでは逆に危ないのである。
理想の為に死す、だの、腹を切って自らの観念ー思想ーを完遂させることだの、実際私は至極過激なことを述べて居るようで居て実は全然過激でも何でも無いのである。
むしろそうした部分の在ることこそが健全な観念性のあり方であるとそう述べて居るに過ぎない。
現実がそうした一種現ナマ化し、進歩主義、成果主義の横行、即物領域での非観念化という特徴を備え始めてくるとむしろ其の事によってこそ危機が訪れる。
ひょっとすると作家や詩人の連中も其の流れに抗えず自分自身がノンフィクション化して居ないとも限らない。
其のように現代のフィクション性は結果的に正反対の現実性を世に付与するのである。
結局は虚構である現代の諸制度は、其のノンフィクション化の過程によってのみかろうじて成立して居る。
だからフィクションがノンフィクション化されることにより<現実的>に成立して居るのである。
其の現実化は無論のこと我々庶民の精神の中にも同時進行して居り、従ってもはや我々は極めて現実的に此の虚構としての現代を生きていかざるを得ない。
其の現実的にとは、其処でなるべく疑いを持たずー観念化して現実を捉えないー、次に現代社会の提供する現時点での享楽に身を浸して、否、頭をも其れにドップリ浸して、其れで夜寝る前に、嗚呼、今日は美味いメシにありつけて最高にしあわせだったな、嗚呼、こんなに綺麗な母ちゃん貰えてほんとに俺はシアワセ者だなあー、おまけに息子の頭の出来が良くてテストで百点とってきやがった。こりゃ東大入るのも夢じゃあないよ、あー何だかとってもうれちいなー、気分よーくこのまま寝ようっとせー。
其れは実に御目出とう御座います。
一応素直にそう申して置きますが、アナタの現実化された現実とは、元々のフィクション化された現実がノンフィクションとして現実的に見えて居るに過ぎないものなのではないでしょうか。
まああなたは今気分が良くてこのまますぐに寝て仕舞いなさることでしょうが、私にはどうもそのように思えて仕方が無いのであえて一言だけ言わせて頂きました。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1748回) ..2014/09/07(日) 23:58 No.4843 |
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警告!ー巨大災害 MEGA DISASTER 地球大変動の衝撃
第一集 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0830/
第二集 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0831/
以上はNHKが制作した災害に対する啓蒙番組ですが、この種の番組も次第に本当のことを語る方向に向かって居り、実際何も知らないお爺ちゃん、お婆ちゃん達が視たら卒倒しそうな程に恐ろしい内容を含んだものになって来て居ります。
それで、わたくしの場合にはもうこれで私の役割もひとまずは終わりなのかなと思わないでもないのです。
私はここ十年位に亘り事あるごとに社会的な危機の到来を警告し、将来に於ける破滅の予測を行うというまるで予言者のようなことばかりして来て居たのです。
それで、もう疲れ果てました。
疲れたのでもう少し楽に生きて居たいのです。
勿論大学の先輩の方にもそのように伝えました。
何しろ私のような詩人は感覚が鋭いのでビビビっと来るのが普通の人より早いのだし兎に角常に色んなものが良く見えて居る。
それでもうずいぶん前から様々な機会ごとに社会に対して警鐘を鳴らすつもりで色んなことを色んな人に述べ続けて参りました。
が、どうも現実の方での破局への進み方が早まりつつあるようだ。
従って今後はNHKでも、また時には民放でもこうした将来に対する文明の危機について語られる番組が増えて来るだろう筈です。
だから徐々に大衆も理解し始めることでしょう。
此の文明の、或は地球の未来は決して明るいものではないということを。
そして其の事は妄想でもなくまたSFの話でもないのです。
本当の本当に文明にとってヤバいことが今後次々と起こって来ることは科学的にもう全て分かって居るが一体どうしたら其の危機を乗り越えて行くことが出来るのかというただ其の一点での話です。
然しながら現代人は現実を観念化することを忘れただ即物的に日々を現代社会に飼育されて居るばかりですので実は物凄く勘が悪くそうした危機の到来についてはほとんど不感症です。
ですからそれでは困るだろうということで私のような社会派詩人ー社会科詩人ーがなんぞ物申しておかなければ皆何も知らずにそのまま滅亡ではないですか!
だからこそ色々と語って来て居たのです。
然し、今後は是非マスメディアの方で勉強しておいて下さい。
さて、私が今日語るのは先の恐い災害番組のことではなくマリモの番組のことです。
先程「神秘の球体マリモ」という番組をオンデマンドの方で視ましたが全く素晴らしい番組でした。
マリモの生き様?なるものが実に良く分かる、自然の営みの意味を其処に問うて居るかのような一種深みのある番組だった。
即ち自然の神秘的な営みが其の不思議な生物の生存を可能たらしめていたのであった。
然し世界の各産地にあったマリモは現在我が国の阿寒湖ー其れも北側のみーにしか居ないのだという。
ごく最近までアイスランドのミーヴァトンという湖にもマリモは居たが、其れ等は工場排水による水質の悪化によりほぼ壊滅状態であるとされて居る。
Wikipedia-ミーヴァトン湖 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B9%96
阿寒湖のマリモも南側の方はかって壊滅したらしいが奇跡的に北側の方は生き延びて今に至って居るのだ。
嗚呼、あのマリモの美しさ。
小学生の頃いつも机の上に置いて居たあの瓶入りの小さなマリモの可愛らしさと静けさとよ。
対して現代ではマリモを見て居ることが暗い趣味だというような見方さえあるのだが、其れはお前の方こそがそうした静かで上品な暗さのことが分からん妙に明るき阿呆に洗脳されて仕舞って居るからのことであり、特に都会人は多かれ少なかれそうした洗脳を受けつつ生きて来て居るのだから其処はよくよく注意して置いた方が宜しかろう。
俺なんぞは何せ根が暗いからもうマリモは大、大、大の大好きだ。
お前らのように工場ばかり作って廃液を垂れ流し環境を汚し夜は酒飲んで女ばっかり抱いていやがる明るーい低脳野郎とは俺は頭の出来が違うんだ。
結局今俺は阿寒湖に行きたいね。
其処でマリモちゃんに口づけをして来るんだ。
地球が危ないというのにお前らのようにベチャベチャと女とチューをして居る場合じゃない。
神と口づけをして来るのだ、神。
神とは何か。君は分かるだろうか。
分からねえだろうなあ、じゃ、ひとつだけ教えておいてやるが、女は其の神域には入れないのだぜ。
そりゃ、不浄だ不浄、穢だ穢れ。
ところで安倍内閣は何であんなに女の閣僚を揃えて御座るのでしょう?
ひょっとしてそういうのが元々阿部さんの趣味なのかな?
女の腹は生命の原体験のところながら、どう考えても政治の世界に向いて居るとは思えまへんな。
どうも女の大臣が増えると其れは世が滅ぶ兆しであるような気がする。
そうした下らない世の一切のこと、道理が分からぬ輩、頭が悪いとまでは言わないがどう見ても勘が悪い一般大衆、女の大臣、全くアホな世の中、♪世の中バカなのよー、のすべてを捨て去りたい。
汚れたものをすべて捨て去り、超俗し、現代の西行として我は生きる。
そして現代の西行は是非そのうちに北海道へ飛び阿寒湖でマリモと戯れて来ることだろう。
尚今回も結局不真面目調の作文になってなって仕舞いましたが、人類が未来に遭遇することであろう危機について現実的に、真面目に考えておられる方は最初に挙げた番組を是非視聴しておくべきです。ー此等はオンデマンドの方で視聴出来ます。ー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1749回) ..2014/09/10(水) 01:03 No.4844 |
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現在宗教関係の機関紙で私が良いと思って愛読して居るのは「倫風」誌であり、それからたまにポストの中へ投函されて居る諸のものをたまに読んだりしては居るのですが其れ等は本当に良いと思って読んで居るのではない。
「倫風」誌は二年程前にたまたま一冊がポストの中に投函されて居り、しかも其れをたまたま私が読んでみたところ素晴らしい内容の本だったので自分から発行元の方へ連絡して毎月号を取り寄せて居るものである。
此の本を出して居るのは実践倫理宏正会という団体で彼等自身は宗教団体では無いと言って居るのですが実質的には宗教団体的な活動をして居ない訳ではなくさりとて他の仏教系新興宗教団体のようにしつこく勢力拡大を目論んで居る訳ではないようである。
と言うのも私はあくまで此の団体については詳しく知らないからそう推測して居るだけのことなのである。
実は二年前まで此の団体の存在を知らなかったのである。
それで調べてみるとネット上では此の団体が色々と批判されて居る部分もあった。
ただしネット上では他の新興宗教系の団体もほとんど槍玉に挙げられて居ることからしても、其の事により此の団体がダメなものだと決め付けることは出来ない。
それに私自身の考えでは、宗教団体の正邪云々という判断以前の問題の方がより深刻で簡単には治せない現代の病の部分なのである。
即ち近代病で現代人は謂わば精神離れ、観念離れをし、また道徳知らずで、それこそ倫理感無しの状態に陥って居るから其れは最も危うい精神の上での危機を囲って居るということである。
私は其の節操のない現代人の心のあり方、腐り方の様ー正確には其のような心のあり方に人間の心を貶めて居る現代という時代の思想に対する疑義を呈し同時に其れを批判し続けて居るのである。
でも庶民を批判して居る訳では元よりない。
何故なら私自身が其の庶民なのだから。
だから私自身の心もすでに大きく腐って来て居る。
ただそういうのを私は自分で認めて仕舞うんだな。
普通はそういうのはなかなか認められないことかとは思いますがそうしないと其の反省の部分から始められないのですから。
其の腐った部分を何とか修復したいと長年思って居たところ、たまたま良い機関紙に巡りあったのでずっと其れを読んで居るのである。
ただし、宗教なんて団体に入って組織的にやるものじゃない。
二十年前私は其れをして居たのだったが、結局今はそうした活動からは遠ざかって居る。
今は宗教というものを以前よりもずっと大きく捉えて来て居て、其れは宗教団体レヴェルのものではなくまた宗派レヴェルでのものでもなくたとえば一神教と多神教、またメジャーな宗教とマイナーな宗教、或は現行の宗教と過去に成立して居た宗教というように組織的、距離的、時間的により大きなスケールで其れ等を置いてみて来て居るのである。
或は人類の存亡を賭けた闘いは最終的には国家間の戦争や民族的な対立によるものではなく宗教レヴェルでの戦い、それぞれの宗教の教義の上での心理的な面が大きくクローズアップされた形でのものとなるような気さえして居る。
それで、其の時には無論のこと良い心を持った宗教の方が悪しき心を持った宗教の方に負けるのである。
つまり、此の世界では結局悪の方が生き延びる訳。
なぜかってそんな事は誰でも少しだけ考えてみれば即座に分かる。
昔から善人は早く死に、対して悪人は後後まで栄えることと相場が決まって居る。
其れに神に愛される者は早逝する、という言葉すらある。
つまり此の世を長生き出来る奴にはロクな奴が居ない。
神に愛される善人、天才の類はまず早々に天へ召されることと相場が決まって居る。
だから此の世というものは近代教の説くが如くに人間にとって楽しいところでも無いのだし愛すべきところでも無いのだしましてや喜んでー自ら進んでーまた生まれて来るようなところなのでもない。
正しくは此の世にはもう二度と生まれて来たくはない、でも何故か此処に生まれて来て仕舞った、嗚呼、一体どうしたら良いんだ?嗚呼、本当に嫌だけれどどうしようもない、だから何とか死んで仕舞うまでは我慢しよう。此の忌むべき場所に居るのはもう本当に疲れるが、其れも我が心の拙さ、低級さ、腐り方により与えられし場であろうことなので自身にはどうしようもなかったことである。だから修行しよう。何でも良いから此処に居る間に修行しておこう。世間のことばかりに合わせて居る必要なんて無いので、そんな風に心の面では是非修行させて頂きたい。
無論のことその方が良い。其れが本当の佛の教えである。
佛は子孫繁栄とか商売繁盛とかそんなことを沙門に対して許して居た訳ではないのだ。ーもっとも在家信者の繁殖や在家信者の商売を禁じて居た訳ではないがー
佛が真理として此の世に指し示したのはまず脱俗であり次に法の実践による解脱への道程のみである。
つまるところ、近代の価値観と仏法の指し示す価値観とはほとんど正反対のものなのである。
ただし其れも釈迦の説いた法に限ればの話である。
現代の日本の仏教宗派は中国経由で我が国に齎されたものなので純粋な意味での仏教とは異なる大乗の教えであるに過ぎない。
さて、話が仏教の方に振れて仕舞ったので戻します。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1750回) ..2014/09/10(水) 01:04 No.4845 |
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実践倫理宏正会というのは察するにどうも右系の団体であるようです。
しかも宗教的な活動を教義に基づいて行うというよりは倫理道徳的な実践活動を通じてより正しい人間形成を行うという団体であるらしい。
其のらしいというのは、確かに私は此処の会員さんから機関紙を買って居るが彼等の活動とはノータッチで其れを買って居り入会などは全くして居ないのであります。
ネット上で屡宗教のことを取り上げて書く事が多いので参考にさせて欲しいという私の希望が通ったのでそうして居るまでのことです。
宗教的な組織、団体へ入ることは無論のこと個々人の自由なのでしょうが、私の場合はより大きく宗教というものを取り上げておきたいので現在はあえて特定の宗教団体とは関わりを持たないのです。
私がなぜここまで宗教のことに深入りするか、または宗教の意義に大きなものを感じて居るかというと、其れを一言で言えば近代科学への心性的な面に於ける失望と不信の念を抱かざるを得ないようなことが余りにも此の世界には多過ぎるからです。
一説には科学は世界絶滅の為に進んでいく、世界を絶滅させるのが科学の役割である、というような過激な科学への評価さえあるのです。ーこれは哲学者ニーチェの言葉ですがー
其の強力な現代の推進力である科学技術に歯止めなどもはや誰もかけられないのです。
其れで良かれと思われ行なって仕舞う科学技術の上での成果が恐ろしい自然破壊や生物種の絶滅を加速させて居たりもします。
其の力にはもはや誰も抵抗できない。
何故なら国家自身が其の科学技術でもってしこたま儲けて経済の方を回していたりもする訳だ。
要するに、其れでもって食って居る、其れで金を儲けて国民を潤して居るのだとすればそんなものは逆に一番大事なものでむしろ一番大事にしていくべきものだ。
だからそもそうした構造なんで、科学技術を表立って批判できるのは宗教団体くらいしか無いということになって仕舞うのです。
それで、宗教団体はまず心の方から正論を吐くことが多いので金よりは環境保全、科学技術による欲望の解放よりはむしろ戒律を課して克己を促すなどというように色々と現代の進むべき方向とは逆のことを述べブレーキをかけられるのが宗教の役割なのです。
そうした訳で私は宗教団体、ないしは実践的な道徳団体、倫理的な規範を有する団体などに対して理想論的なある種の期待を持って居るのです。
即ち地球上の生命の破滅を齎し其の存続、持続性に限りなく負荷をかけ続けていくことだろう近現代の進歩概念と、そして科学技術による地球の破壊と生命の抹殺を決して赦さず其れを厳しく諌めていくことであろう力を其処に期待して止まないのであります。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1751回) ..2014/09/14(日) 11:19 No.4846 |
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過去にここで二、三回、共感覚のことを取り上げたことがあった。 Wikipedia-共感覚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
何故取り上げたのかというと、私自身が其の共感覚者だからなのである。
私には文字または数字に色が見える。
より正確には色が無意識的に想起されて来る。
其の色は常に決まって居て、間違ったり入れ替わったりすることは無い。
ただし私の場合はいつも其のように色んな色で文字や数字が見えて居るということではなく、それぞれの文字や数字を見つめて居ると頭の中でイメージとしてそれぞれの色合いがはっきりと見えて来るのである。
昔共感覚者は自閉症-アスペルガー症候群-か天才のどちらかだと聞いたことがあり、それじゃやっぱり私の場合は自閉症なんだろうなとそのように思った覚えがある。 そういう人々は数少ないが確かに居て、私は其の端くれに連なる者であったというそういう話なのである。 ー聖心女子大の高橋教授によれば共感覚者の割合は全人口の4%であるというー
けれど私の共感覚は弱いもので所謂天才達のように強力に其の能力が発揮されて居るというものではない。
それでも多分そちら側には近い方の人間である。だからそちら側の事情というものも直感的になんとなく分かる。
私の共感覚はWIKIの方にもあるように文字に色が見える共感覚(かな・アルファベット・数字など)でどうもこれはありふれた共感覚の例であるようだ。
私の場合は特に数字にはっきりと色が見える。
さらにアルファベットや仮名にも精神を集中すれば個々に色が見えて来る。
もっとも漢字には何故か色が見えてこない。或は画数が多いのでややこしくて見えてこないのだろうか。
尚ネット上では1→白 2→黄色 3→オレンジ 4→赤 5→青 A→赤 B→青 C→黄色というように見えると述べておられる人が居たが私の場合は2→赤 3→黄色 4→黒となるが他はすべて同じである。 だから共感覚にはある程度共通した見え方に関する法則性のようなものがあるのかもしれない。
天才が持つ共感覚を手軽に得る方法と、言ってはいけない事 http://www.bllackz.com/2012/01/blog-post_5404.html 共感覚者は昔から居たものと思われますが、其の事を人に言ったりすると変人と思われ仲間はずれにされたりするので周りには言わない人が多かったらしい。
ー実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。 サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。ー上記より引用ー
ともありますが、この部分の表現は少なからず当たって居るだろうと思う。
共感覚者は元々繊細な感覚の持ち主なのだろう。 サヴァン症候群というのは、屡マスメディアの方でも取り上げられたりして居るようですが、こればかりはとても自分の同類だとは思えず要するにこちらの方こそが真の意味での天才なのであろう。
ただ、共感覚者には似た者同士であるというような心理的な傾向があろうかと思う。
一種病気にも近いような感覚の鋭さや内向性というものが或は其の共通項であるのかもしれない。
尚詩人には共感覚者が特に多いようで、象徴派の詩人ランボーやボードレール、そしてあの宮澤 賢治などがまさにそうした部類の感覚の所持者だった。
宮沢賢治と共感覚 http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kenji4.html
「ライアル・ワトソンは、共感覚は、突然の異常ではなく、かつて言葉を使うようになる以前には、人間が、大なり小なり、共通の感覚として持っていたのではないか、と考えているように見える。 そう考えれば、自閉症の独特な感覚世界や振る舞いは、大なり小なり、言葉を使うようになる以前の、人間が共通の感覚として普通に持っていた時期があり、その名残なのではないか、と考えられそうに思える。 ちなみに、リチャード・E・シトーウィックは、『共感覚者の驚くべき日常』の中で、共感覚の起源について、次のように結論づけている。したがって、「なぜ一部の人だけが共感覚を体験するのか?」と問うことは、「なぜ一部の人だけが片頭痛を体験するのか?」と問う、あるいは他の状態についてそう問うようなものだ。適切な問いは「なぜ一部の人は共感覚が意識にのぼるのか?」であると、私は提言する。それは、この驚嘆すべき現象を一○年以上研究したのち、共感覚はきわめて基本的な哺乳類の属性であるという意見に到達したからだ。共感覚は私たちがだれでももっている正常な脳機能なのだが、その働きが意識にのぼる人が一握りしかいないのだ、と私は考えている。これは一部の人の共感覚が強いとか、程度が大きいとかいうこととは関係がない。そうではなく、脳のプロセスの大部分が意識よりも下のレベルで働いていることに関係する。 共感覚者は共感覚のとき、通常は意識にのぼらないプロセスが意識に対してむきだしになるので、自分に共感覚があることを知るのだが、ほかの私たちはそれを知らないのだ。 共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとのぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるのは、とりわけ海馬に集まるのは、感覚受容体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての多感覚の評価である。 (『共感覚者の驚くべき日常』 リチャード・E・シトーウィック)
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1752回) ..2014/09/14(日) 11:24 No.4847 |
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こう考えれば、共感覚は、「異常感覚」ではない、という考え方でいいように思える。はるかな太古には、かつては、みんなが、普通に、「共感覚を通して」感じていた段階があった、という考え方とは、無矛盾であると考える。 ライアル・ワトソンは、別の本で次のように言う。 ある生理学者は、感覚の混同が起こる人のことを「知覚に関する生ける化石」であるとまで言っている。つまり、われわれの祖先である初期の脊椎動物がかつてどのように見、聞き、触り、味わい、匂いを嗅いでいたのかという記憶をその人たちは見せてくれるというのだ。(『匂いの記憶』 ライアル・ワトソン)
それでは、共感覚者や自閉症者の存在は、昔の人間の名残(「生きる化石)ということになるだけなのか。そうとばかりは言えない面があると、僕は思う。 行き詰った人類の文化や文明を進めたり、固定的な考えを打ち破る人たちの天才的な発想やひらめきの根源は、この時期の感覚にあるのではないか。「視覚で考えていた」段階の考え方。思いがけない発想などの、想像力の源は、ここにあるのではないだろうか。 宮沢賢治の言葉に、僕たちが魅了されるのも、そういうことがあるからではないのか。「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」以上より抜粋して引用
上記の引用の部分での共感覚に対する解釈は当たって居るのではないかと思う。
自分で自分を分析してみるに、どうも私は部分的に先祖返りして居る人間ではなかろうかと思われるフシがあるのだ。
共感覚の上でもそうなのだけれど、動植物に対する感覚の鋭敏さや予感の強さ、それから実は肉体的にも特徴があって生まれつき足の裏が広範囲に角質化して居り裸足で山道などを歩くことが出来る。
共感覚は特殊な能力としてあるのではおそらく無く、感覚が未分化の人、或はより原始的な人、つまりはより赤ちゃんの方に近い人、大人になっても子供の頃の純粋性を失って居ない人、などに発現して居る能力なのではないだろうか。
或は脳に柔軟性が甚だしくある人などに。
「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」と上記の引用の部分にある通り、共感覚がかつて言葉を使うようになる以前に人間が共通の感覚として持っていた感覚ではなかったかと述べられて居る部分については非常に興味深かった。
所謂超能力だとか第六感などということが屡世間で語られて居たりもする訳ですが、共感覚は言ってみればまさに其れにも近い能力として位置づけられるものでもある。
特に現代人は文明に於ける自己家畜化の過程に置いて甚だしくこうした能力の減退を余儀なくされて来て居るだろうことは想像に難くない。
そのうちにこうした原始的な能力の去勢を現代社会は望み我々は其の傾向に抗うことなど出来なくなることだろう。
そうしていつのまにか現代には現代人としてだけふさわしいような、まるで家畜のような人間ばかりが増えて行く。
共感覚者の存在は其の傾向に対して大きな疑問符を投げかけて居る様に思われてならない。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1753回) ..2014/09/14(日) 11:30 No.4848 |
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さて近代科学の成立は確かに近代以降の人類の可能性を拡げ我々庶民に夢を与え続けて呉れました。
と書けばまるで科学はすべて良いもののようですが実は自然科学とは怖いもので外界ー自然界ーを破壊する作用を必然的に持って居るものなので結果的に至極危ないものです。
其の危ないものの力に頼って我々は明日を夢見て居りますが現実には夢どころかむしろ危うい明日の様ばかりを予知させられるものとなって来て仕舞って居ます。
自然科学が何故怖いものなのだろうと私は以前に良く考えたものでしたが、要するに其処では全体性ー全体のバランスをも含めた全体としての法則性ーを考えず部分的に分析し其処で得られた法則性を全体の方へ適用して仕舞うという還元主義なるものの存在が一番怖いものなのではないかと思われます。
だからポストモダンーもはや之も古い思想なのかもしれませんが私はこれしか知りませんのでしょうがないのです。ーの思想の立場からはかって此の要素還元主義が屡批判されて居たものでした。
Wikipedia-還元主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
上記によると矢張りというべきか、此の要素還元主義は現在激しい批判に晒されて居りつまるところは昔よりももっと旗色が悪くなって居るもののようだ。
私などはもう八十年代位の頃から還元主義は良くないから止めた方が良いのじゃありませんか?と述べ続けて参りました。
もっとも私は学者でもなく研究者でもなく只の一サラリーマンで、其れで職場での世間話の折などに其の事をちょろっと述べる位のことで全然まともな批判などではありませんでしたが。
そんな私は九十年代に入ると全体論者というものになりました。
其れは還元主義とは対置される考え方としての全体論を思考の中心に据えて何でも其れでもって考えていくこととしてみた。
ところが当時は其の全体論という言葉すら実は知りませんでした。
でも何も分かって居ないのに何故か分かって仕舞うという直観能力のようなものが私には備わって居り、其のビビビと来た方向性へ進んでみたら結果的に其処には全体論という考え方があったという訳なのです。
尚、全体論というのは一言で言えば全体は部分の総和ではなく其処には其の総和以上の何らかの新たな法則性ないしは価値が付与されるという考え方のことです。 従って其れは部分論に終始するであろう還元主義とは対置された立場となります。
自然科学に於ける通常の手法、即ち分析して法則性を導き出し其の法則性を全体にも適用し普遍化して考えるという立場とは丁度正反対のプロセスのように私には感じられます。
Wikipedia-ホーリズム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E8%AB%96
此処からしても全体は部分の集積とは異なり、全体には全体性という新たな性質が付与されるのです。 そして此の考え方こそが古い科学の問題点を克服するために、まさに今後の科学に求められている論点でもあるとされて居る。
さて近代科学には還元主義をとることからの部分論に終始するという癖のようなものがあります。 だからこそかっての自然科学の視野はむしろ狭いものであるに過ぎなかった。
つまり自然科学には心の面に欠けるという人文、社会科学系の立場から考えられるところからの欠点以外にも視野が狭いというもうひとつの思想の上での構造的な欠点があった。
ー自然科学は原子やら宇宙やら、それこそ極小の世界から極大の世界まで網羅して居る視野が広い世界のようで居て実は非常に狭い視野の持ち主だったのだー
其の視野を広げようという試みがまさに今新しい自然科学としての現場で行われて来て居るのです。
ゆえに私はこれらの試みに大きな期待を持って居ます。まさか夢までは持てませんが其処で大いに自然科学が変わって呉れたらという希望のようなものは常に持ち続けて居ます。
それでも楽観視して居ることなどは無論のこと出来ないのです。 科学技術によって齎される現実の上での諸々の弊害、破壊とそのことによる不安は常に大きなものがあります。
今後自然科学のあり方が大きく変わっていくのだとしたら環境に大きな負荷をかけ続けていくこれまでのような科学技術のあり方も改められていくのかもしれません。
然しもし其の事を成し遂げたのだとしても、近代三百年の営みが齎したところでの負の遺産は厳として存在して居るのです。
即ち其れこそが今まさに此の地球を温暖化させて居ることだろう、人類の活動による悪しきものの蓄積と排出の方での問題です。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1754回) ..2014/09/14(日) 11:34 No.4849 |
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ちなみに私は幼い頃から全体論者であったような気が強くして居ます。 元々私は直観派なので突然にパッと何かの全体像を掴んでしまうことが多く其れを掴んで仕舞えば後は部分のことなど幾らでも分かって来るものです。ー要するにヒラメキ派の方なのですー
然し最初から部分に拘って仕舞って居ると全体像を掴むことすら出来ずしかもあの木を見て森を見ずの喩え通りに木の集積である森は決して単に木の集積であるばかりではないことに気付けない筈です。
何故なら森には生態系というものがあり其れが様々に機能することで全体のバランスが保たれて居るのですね。
其の生態系はむしろ森にとっての本質的な仕組みであり法則である筈ですが、もし部分論としての還元主義の立場で森を語るのだとすれば、木という部分の存在の分析に終始することとなりかつ森は其の詳細に調べ上げた木の集積に過ぎないということにもなり其処には生態系という全体的に付与されて居る筈の本質的性質が見えて来ないということになります。
物事の本質的性質をどう認識するかということはまさに哲学上の認識論の問題でもあるのですが、これまでの自然科学が骨子として居た還元主義による分析手法では其の事の本質を捉えるという点に於いては甚だ不備であったと考えざるを得ないのです。
たとえば今まさに文明は近い将来に於ける滅亡の危機をはらみつつ歩んで来て居るのですが、私に言わせれば其れは全体を考えなかったことの代償として齎されて居ることなのです。
全体をパッと掴んで居ないので部分的にも色んな要素の関係性が分かって来て居ないのでしょう。
かって大乗仏教の仏教哲学の方に大は小に連なり小は大に連なるという壮大な思想がありましたがそういうのはたとえ理論化出来なくともパッと掴めて仕舞うものなのです。場合によっては其れが可能であるということなのです。
古の哲人や宗教家はおそらくは皆其の直観力の持ち主であった筈です。
で、直観というのは例外なく全体論に重なるものです。全体論こそが直観で、直観こそが全体論です。
もっとも直観は藝術の方の専売特許でもある訳ですが、むしろそうした分類、垣根を越えていくところにこそ何か本物の認識の芽生えのようなものが生じるようにも思われます。
またこのことは屡云われて居るような学問領域の上でのリンクということにも繋がるのだと思われます。
最終的には人文科学と自然科学の統合のようなことがもし可能であるならもう少し地球や人間にとってやさしい文明社会を築いていけるのかもしれません。
いや、より良い社会を築くのなら社会科学の方も是非統合して置いて頂きたいものです。社会を立て直すには当然のことながら社会科の方も是非要るということでしょう。
いずれにせよ、21世紀型の自然科学、また其の新しい自然科学からフィードバックされて来ることだろう科学技術の行方を規定し今後の自然科学に於ける理論的骨子となるであろう考え方とは全体論であることがより望ましい訳です。
然しそんなことは普通直観主義者なら元々皆分かって居る筈なのですが。
それこそパッと全部を掴んで仕舞って居るからこそ分かって仕舞うんだな、これが。
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