尾張文化論+
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1691回)
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2014/06/12(木) 00:49 No. 4786 |
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文明の未来には暗雲が立ち込め、此処図書談話室はいつ閉じられるともしれぬというそんな状況の最中、相変わらず萬年筆と石とゴルフの趣味の方だけは絶好調で、特にここへ来てゴルフの方にまたハマって来て仕舞って居り其の練習代だけでも下手をすると月に片手程も使って来て居るのである。
しかもそれだけじゃない。
最新ドライヴァーの方にも興味が出て来て仕舞い色々と散財する羽目になって仕舞っても居る。
http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d154517717
先日もついこんなのを落として仕舞った。
これで新品のおよそ半額の値段ではあるが何でこんな高いものをわざわざ買うのか、最新ドライヴァーなら中古ショップの方で安いのが色々と出て居る筈でしょう、或いはオークションでもそれこそ五千円位から色々とある筈じゃないですか?
いや、確かに今の私のゴルフは安上がりゴルフを目指して居る。
金をかけないで技術の方だけを磨きに磨いていくゴルフなのである。
だからコースへ出てスコアーなんぞを纏めて居る暇などはない。
兎に角練習場で球をひっぱたくのが私のゴルフなのだ。
然しそこでは必ずプロ級の、それこそ惚れ惚れするような球筋を連続して打てて居なければならない。
つまり私は練習場のプロを目指して居るんだよ。
素人さんが見るとびっくり仰天する位の球を打ち続けたいだけなのだよ。
このドライヴァーは新古品が半額で買えたのでよし、さらに打ってみてよし、クラブの仕上げのほうも良しで自分にとっては全く嬉しい買い物となった。
然し私は神経が細くそれでもって内臓が弱いのでずっと薬を飲んで居るのであるし、現代文明と常に闘い続けて来て居るので精神の方がもはやヘロヘロだ。
それでも筋力の方だけがまだ何故か若く、兎に角二十代、三十代の兄ちゃん達にもまだまだ負けて居ない程の物凄いパワーだ。
そしてこの球を打つ時だけが燃えに燃える。
私の人生でこんなに体が燃えさかって居るのはこうしてドライヴァーで球をぶっ叩いて居る時だけなのさ。
ジオテック QUELOT は今流行りの小メーカーによる低価格路線での高品質なクラブで、確か千葉県で作られて居て関東圏で人気のあるモデルのようである。
実物は大メーカーの有名モデルと遜色ない造りで、いや、むしろこちらの方が高品質な感じですらある。
あのEPONなどもそうだが、最近はマニアックなゴルファーがマスプロ商品ではない高品質なクラブを追い求めて居て、オークションなどでもそうしたクラブが大メーカーのクラブよりもずっと高く取引きされて居たりもする。
そうしたメーカーの造るクラブが真に良いものになって来て居り、逆に大メーカーのクラブにはない、或いは出来ないものを多分に持って居ることからこれらのクラブの需要が上級者を中心に組みあがって来て居るのだろう。
このあたり、実は非常に面白い話で、たとえばお茶、あれなどはたとえばサントリーの抹茶入り伊右衛門などと云われて高く売られて居たりもするが、あんなマズいお茶は我が家では全く飲まない。
缶入りのお茶ならば、静岡県へ行くと道路の際の自販機に必ず入って居る百円のお茶、あれなどは絶品であり私がこれまでに飲んだ缶入りのお茶の中では一番旨い。
要するに、本当に良いものが、大メーカーがつくるイメージ的に高級なものだけだとは言い切れない時代に入って来て居るのである。
さて、このクロトドライヴァーは楽に打てるハードなドライヴァーなのである。
つまり、ヘッドは少しおじさん寄りの仕様であるのだが、シャフトが長尺のSXシャフトなので一応はハードである。
だからいずれにしても非力な人には振り切れないクラブとなる。
ただし、我々パワーヒッターには至極簡単なクラブだったのだ。
それで、長尺でシャフトが軟らかいとパワーヒッターは困って仕舞う。
それでは球がどこへ飛んでいくか分からなくなって仕舞う。
それがたまたまオークションにSXの硬いシャフトのものが長尺で出ていたので入手してみたのである。
結論としてはこのクラブはドンピシャリと合って居た。
長尺なのでゆったりと振って楽に飛んでいくという感じなのである。
確かにプロモデル的な難しいモデルではないのですが、非常に良いヘッドとシャフトの組み合わせである。
1.ヘッドを460ccの若干シャローーセミハードーな楽なものとし、46.5インチ以上のXシャフトで長尺化をはかる。それでもってゆったり振って飛ばす。
2.この間中古ショップで安く求めたブリヂストン Xドライヴの460ccヘッドに今米ツアープロの間で流行して居る50g台XXシャフトを付けしこたま叩いて飛ばしてみる。
という飛ばしの追求を最近考えて居たところだ。
それがたまたま半額で新古品が手に入り其のクロトちゃんで現在練習場における飛ばし屋の常連の一人となって居る。
さて、お次は2.の方の追求である。
問題は、本日調べてみたところ、最新の50g台XXシャフトは何故か非常に高価だったのである。
何でか知らないが最新だとか、話題性だとか、そういうものが含まれると物は急に高騰していくものらしい。
其れがなぜなのか分からないのだし納得もできないのではあるが、兎に角其の50g台XXシャフトを何とか安く入手する方法はないものだろうか。
と、其のように何も考えず趣味の追求をして居る時の楽しさこそは人生の楽しさそのものでもあるのかもしれない。
物は生ものではなく、また合わなければ叩き売ることさえ出来る訳で、矢張りこれは随分気楽で面白いモノとの相性合わせの世界のことなのである。
其れをやって居ること自体が、色々と後腐れがなく大層楽しいということを言って居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1692回) ..2014/06/14(土) 22:17 No.4787 |
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さてジオテック QUELOTは完全に秘密兵器であることが分かって来た。
コレは、はっきり言って飛ぶ。
無論高反発の、ルール非適合モデルだから飛ぶということもあろうが、それだけではない。
長尺だから飛ぶということもまたあるのだ。
実質的には47インチのドライヴァーということとなり、比べてみると他のドライヴァーよりも随分長い。
それで、当初はこれが振り切れていなかったのである。
それで非常に打ち易いクラブながら飛ばしの方はいまひとつかなとそう感じられたのであった。
ところが、である。
ところがコイツはそんなものではなかったのだ。
結局滅茶苦茶に飛ぶ。
完璧に打てれば、練習場のネットの上段に当てることさえ可能だ。
其処に当てるとなると多分実質270ヤード以上は飛んで居る筈である。
するとランを入れ280ヤードドライヴだということとなる。
このクラブ、ヘッドがオジさん仕様に近い感じなのに本当に凄い。http://yahoo.jp/box/x4MGVP
1.打感が良い。 2.打音が良い。 3.打ち易い。 4.飛距離が出る。
という百点に近いドライヴァーであった。
天白ゴルフ練習場ー名古屋市東南部では一番有名な大きな練習場だ。山の中にあり空気が頗る良い。つまり自然のさなかにある飛ばせる練習場である。ーで二十代、三十代の兄ちゃん達が、難しそうなドライヴァーでもって私の前や後ろの打席で打って居る。
ところがすぐ横の五十代の爺がネットの上段へ球を突き刺して居るのを見て彼等はわが目を疑う。
それで横からじっと私の飛ばしを観察したりして居るのだが暫くするとはっきりと負けを悟りもう二度と見なくなる。
ヘッドがオジさん仕様に近い感じだということは、要するに其れはスイートスポットが広くなって居り打ち易いということなのである。
勿論そういうクラブは今幾らでもある訳なのであるが、このQUELOTはヘッドの造りが良くそんなに軽薄には感じられないクラブなのである。
だからなのか、またはシャフトがXS仕様であるからなのか、このクラブから放つ打球は強く重厚感のある球筋となる。
だから其れがただのオジさんクラブとは違う点なのである。
試しに以前から使用して居るWORKSの軽い46インチ仕様で打ってみると、確かにこちらも打ち易いのだが兎に角球質が皆軽い。
だから打球が全部弱いのである。
軽いクラブでも、重い球質を打てるクラブこそが良いクラブなのであり、QUELOTはまさにそうした要件を備えた地クラブなのであった。
其のスペックは、
ジオテック QUELOT royal excellence14 αSPEC シャフト:無双 XL 硬度:XS サイズ:46,5INCH 重量:304g バランス:D-4 ロフト:9,5度 グリップ:NO1 イチ スパインアングル調整済み
ヘッド価格 ¥43,200 シャフト価格¥15、120 グリップ価格¥1,480
とのことで、実質47インチの長尺仕様であり、重量は軽いが実は長尺モデルとしては軽くはない、むしろハード仕様のドライヴァーということだろうと思う。
勿論XSシャフト仕様に限ればという話ではあるが。
S以下のシャフトならば、もっと軽くてずっと楽な仕様となり一般性も出て来るであろうモデルである。
55歳以上のシニアゴルファーの方には特に向いて居るヘッドである。
兎に角非常に打ち易くスイートスポットが広いから普通に振る分にはミスヒットが大変少なくなる。
だからシニアの方々にはまさにオススメのドライヴァーである。
楽に球が上がるし、強い弾道で飛んで呉れる。
方向性も勿論良い。
ただし現在私は方向性無視でひっぱたいて打って居る。
何でも良いから280ヤードは実測で飛ばすのだという魂胆でもって打つ。
実際ランを入れると280ヤード位は飛んで居ることだろう。
だから飛距離はもうほとんどプロ並みである。
だから皆驚くのである。
多分あのO先生よりも飛んで居ることだろう。
然しこの歳でここまで飛距離が伸ばせるとは思わなかったな。
ただし実質47インチの長尺はクラブが長いから振り切るパワーは勿論必要である。
方向性重視でゆったりと振るとネットに当たるか当たらないか位でおそらく実測240ヤードも飛ばない筈だが方向の安定性の方は出していける。
然しそれでは面白くないからオジさんヘッドでもプロ並の飛距離を追求していく。
何度か練習してクラブに慣れて来たので長尺でもそうしたフルパワースイングが出来るようになって来た。
それにつけても47インチの長尺は流石に飛距離の追求には有利である。
それも、それをぶん回すことによりHSを上げることが出来多分二、三十ヤードは飛距離を伸ばすことが可能な筈だ。
尚、
バランス:D-4 ロフト:9,5度
となって居るがここからもこのクラブはハードな仕様であることが分かる。
先っぽつまりヘッドが重く其のヘッドのロフトが立ち気味である。
然しロフトが立ち気味なのに楽に球が上がる。
つまり楽に打てる。
で、D-4バランスはプロ的なバランスでヘッドの重みで飛ばしていくという性格の仕様である。
あれ、待てよ。
すると、このドライヴァーのXSシャフトはひょっとして軽量シャフトではなかったか?
そうだとしたらこれはまさに大変なことだ。
これが私が望んでやまない50g台のXSシャフトなのだとすれば。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1693回) ..2014/06/14(土) 22:17 No.4788 |
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http://www.geotechgolf.com/
調べてみるとXSシャフトは何と53gの軽量X系シャフトであった。
そしてこのシャフトはXシャフトに比べると少し軟らかく撓むのでより楽に振れるのである。
このシャフトはまさに素晴らしい軽量の硬いシャフトで、オフィシャルハンディが8だと言われて居た出品者様もこのシャフトに惚れ込み新しく創るドライヴァーにコレを組み込む予定だとのことだったが、私も全くこのシャフトには惚れ込んで仕舞い兎に角自分にピッタリだという感が強い。
ちなみに無双XLシャフトには色々と長さがあり私のもののように46.5INCHも選べるようである。
元々パワーのあるシニアゴルファーの方でこれから少し楽に飛ばしたいと思って居られる方には最適の長尺秘密兵器ドライヴァーである。
ー実はQUELOT RE14 α-spec DRIVER Premium LTDという黒塗りのスペシャルモデルドライヴァーもあり、これがまあ何とも戦闘的な出で立ちでまさにシニアゴルファーの為の飛ばしのウエポンといった感じなのでコレがまた是非欲しくなって来て仕舞って居る。勿論私のものと余り変わらないモデルなので飛ぶ良いクラブである筈であろう。ただしこちらの方は頗る値段が高い。そしてこのクラブの専用シャフトにはXSのフレックスは用意されて居ないようだ。ではヘッドだけこの軍事仕様に替えるとするかだ。ー
Geotech Quelot Royal Excellence RE14 Premium HI COR LTD driver and FW http://www.2ndgolf.com/new-golf/Geotech-Quelot-Royal-Excellence-RE14-Premium-HI-COR-LTD-driver-1916.php
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1694回) ..2014/06/16(月) 23:49 No.4789 |
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ドライヴァーでの飛ばしの追求はまだまだ続く。
リンクス マスターモデルX1 プレミアムゴールドドライバー http://lynx-golf.jp/contents/service/presspdf/2013/XI-PG-press5P.pdf#search=
ジャ〜ン、リンクスの高級仕様飛ばしのドライヴァーが出て参りました!
何と、メーカー希望小売価格¥294,000(税込)という高所得者層向けの飛ばしのモデルである。
コイツは460ccのデカヘッドでしかもルール適合外の高反発仕様で多分飛んで呉れることだろう。
それにゴールドだ、ゴールド、金力の象徴としての其の金色を纏い、金持ちゴルファー様がまさにキンキラキンに飛ばしていけることだろう。
ワシはコレで300ヤードドライヴを目指すのだ。
何せ金があるから良い物食べて居て栄養もバッチリ摂って居るから当然パワーの方もある。
そうだ、コレで最大飛距離もワシのものじゃ、 よっしゃあ、いったるぜよー、パコーン。
あららら、おじ様はお金をあり余る程持っておみえになるのに案外HSの方が遅くってよ。
それでたったの200ヤードしか飛んで居ないじゃないの、何だこの肥満の非力オヤジめが。
まあ、然し、何とも魅力的なゴールドドライヴァーである。
万が一これが私に買えたのだとしても、とても使えないゴールドドライヴァーである。
床の間にでも飾っておくことしか出来ぬことだろう余りに美しいドライヴァーなので。
リンクス Lynx マスターモデル MB http://item.rakuten.co.jp/berrygolf/mbdriver95#ank
対してこちらは特に金満家ではなくとも手に入るモデルのようです。
しかも何とマッスルビートとな。
どうやら筋力で飛ばしていくモデルのようで、いや、そこはなかなか男らしい。
其の鍛え抜かれた筋肉の美しさ、で飛ばすとでも云うのだろうか。
そりゃ女のヘナヘナスイングなんぞよりこっちの方がやっぱし格好良い。
そうだ、男はマッスルで戦闘せよ、ゴルフの飛ばしはあくまで戦いー闘いーである。
戦いを勝ち抜いてこそドラコン王者になれるんだ。
闘いにうち勝ってこそ、天白練習場のドラコン王者になれるんだ。マッスル万歳。
新品 リンクス Lynx マスターモデル MB ヘッドのみ 10.5°HC付き http://page15.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t363539268
このようにヤフオクに10.5度ロフトのヘッドが出て居りました。 SLEルール適合品ということで、高反発仕様ではない訳ですが長尺化して飛ばせるクラブとすることが出来そうだ。
リンクス Lynx マスターモデル MB 和田正義モデル http://item.rakuten.co.jp/berrygolf/mbdrivertw6#ank
しかしこの和田正義選手の背筋の美しいことったら!
それに48インチの超長尺仕様でX,XX,XXXというシャフトフレックスから選ぶだなんて全く何て男らしい選択肢なのかしら。
女子供では素振りすることさえ難しい硬くて長ーいシャフトをしならせまさに砕けんばかりに球を叩く。
これぞ男のスポーツでなくて何であろうか。
其の美しい背筋に滴る汗のさわやかさよ。
サア、頑張れ、和田、勝て、勝て、和田。-ドラコン選手権に-
和田正義選手 スイング解析 400Y超 http://www.youtube.com/watch?v=HEEJMubjvnQ
Honda GOLF ドリームレッスン > LONG DRIVE LESSON ー和田正義選手 http://www.honda.co.jp/golf/lesson/long_drive_lesson/
先程すべて視聴してみましたが素晴らしい内容のレッスンで非常に為になりました。
私もなるべく早く筋力トレーニングを行い和田選手に負けない位のパワーをつけてみたいとそう思いました。
其れから是非正しいスウィングのプレーンを確立しておかなくてはなりません。
正しい打ち方をしてこそパワーを発揮する意味もまた出てまいります。
逆に言えば正しい打ち方が出来て居ない場合はそこでパワーを発揮する意味もないということである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1698回) ..2014/06/19(木) 23:47 No.4793 |
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ワークスゴルフ(WORKS GOLF)【究極高反発】“ワイルド”マキシマックスプレミア ドライバー プレミア飛匠極シャフト仕様 http://item.rakuten.co.jp/dyna2009/10000774/
こちらはWORKSのやんちゃな仕様。
WORKSのドライヴァーはこの手の少々やんちゃ気味なクラブが多いのですが、それでももし安く入手することが出来ればシニアゴルファーには充分に役立つクラブだと私は思う。
特に非力でHSが45以下だがそれでもまだ飛ばしたいといったタイプのアベレージゴルファーには向いて居るのだと思う。
クラブが軽いので良く飛びますがただし球質は弱く打ち方にもよるが吹け上がることもある。
さて最近のドライヴァーはもう本当に凄い。
この三十年余りの間に最も進化したのはコンピューターとゴルフクラブなのである。
クラブアナリストのマーク金井氏ー私と同年代の方ーがネット上で色々と述べておられても居るのだけれど、
35年前のドライヴァー ・ヘッドは木製(体積180CC) ・長さは43インチ前後 ・重さは350g前後
今どきのドライヴァー ・ヘッドはチタン(体積460CC) ・長さは45〜47インチ ・重さは280〜315g
ということとなるのである。
私たちがゴルフを始めた頃は今思えば非常に打ちにくいパーシモンヘッドのそれも小さなヘッドで、おまけに其処にはステール製の重いシャフトが付いていたからそれで球を飛ばしていくのは本当に大変だったのである。
それでも当時から飛ばす人は飛ばして居り、私もどちらかといえば明らかにそうした部類のゴルファーだった。
パーシモンヘッドでも大きめのヘッドの付いたマルマンのドライヴァーをその頃私は愛用して居て、友達数人と一緒に練習場へ行き 270Yと書かれた表示板に屡打球を当てたりして皆に驚かれていたものだった。
ー当時はゴルフがトレンディなスポーツとして人気があり良く友達が集まり皆で一緒に練習していた。なお其の270Yの表示板はインチキの飛距離で実際には実測220Y位ではなかったかと思う。ー
其のパーシモンヘッドのドライヴァーは半年位でヘッドが割れるので同じものを4、5本新調しては使って居たのである。
其のうちにメタルヘッドのドライヴァーが登場し、劇的に打ち易くなった。
然し当時のメタルヘッドは意外とハードヒッター向きで本当はそんなに簡単なクラブではなかった。
それで私は軽合金製のヘッドのドライヴァーを長く使って居た。
其れはメタルヘッド的なヘッド形状ではなくパーシモンヘッドに近い形状をした実に打ち易い良いクラブだった。
ところが今のチタンドライヴァーは兎に角非常に楽に打てる。
その頃のクラブと比べてしまえばマニュアル車とオートマチック車の違いのようなものなのである。
ところがゴルフが全部簡単になったのかと言えばそれはそうではなく依然としてゴルフは滅茶苦茶に難しいスポーツなのである。
要するに幾ら道具が進歩しているにせよスウィングが悪いと球の芯を捉えることは出来ず従って幾ら易しいクラブでも飛距離も出ないし気持ちよく打てないのである。
だからスウィングの完成、これこそがむしろゴルフのすべてなのである。
それさえ成れば、どんなクラブでもそこそこは打てて仕舞うものなのである。
私も苦節三十年、ようやく其のスウィングの完成の域に近づいて来て居る。
それで嬉しくて嬉しくて仕方がないのでこうして毎晩の様に此処でゴルフの話をしに来て居るのである。
たしかにゴルフは楽しいが、山や丘陵を丸裸にして仕舞う。だからゴルフ場の存在は地球環境にとっては良くない。
勿論そうした現実は確かにある。
でも山の中で行うことの出来るスポーツなんてゴルフだけなのですよ。
私は山が大好きなのでゴルフもまた大好きなのである。
そうした自己矛盾性を抱えつつ文明も私もこうして生きていっているのである。
尚飛ばしの追求の方は着々と進んで居ますが前回述べた280ヤードドライヴは少し誇大な表現だったようで普通は250、260ヤード、 当たって270ヤードというところが私の実質的な飛距離なのだろうと思う。
つい先日も練習場で玄人はだしの速いHSの人ー多分五十代後半位の人ーが居て、ずっと見学させて頂いたのだったがドライヴァーショットなどはまさに物凄い迫力で私よりは飛距離が上ではないかと思われた。
いや、飛距離の面では同じ位のものも出していけるかもしれないのだが、彼の場合は兎に角球質が私とは全然違う。
つまりは本当の意味でプロ球に近い球質で打っておられたのである。
嗚呼、私も是非あんな迫力を出して球を捉えてみたいものだ。
然しらくちんドライヴァーではあんな球筋は打てやしないのである。
今の長尺のドライヴァーは素晴らしいクラブなのでかなりの飛距離が期待できる。
でもあそこまでのHSで球を捉えるとなると逆に長尺では無理となるのかもしれない。
たとえば米ツアープロがやっているように逆に短尺のXの軽量シャフトにして使える分の重量をヘッドへ持っていき重ヘッドで飛ばす。
たとえばこちらにも短尺ドライヴァーはあり。
http://item.rakuten.co.jp/berrygolf/ld-007#ssdriver http://store.shopping.yahoo.co.jp/amcgolf/dwo0161.html
あるいは500ccオーヴァーのデカヘッドのモデルで飛ばすというのも何だか面白そうだ。
http://item.rakuten.co.jp/tyokuhan/d-005/?scid=af_pc_etc&sc2id=67860646
勿論シングルゴルファーを目指して居るようなアスリートタイプのゴルファーはそうしたバカな追求は余りしていかないものなのである。
第一節操もなく飛距離だけを追求するなんてのは本当は余り上等なゴルフの追求ではなく、それは謂わばミーハー的に流されたゴルフなのである。
でも私の場合は面白いからこそそれをやって居るのだ。
ほかに面白いことが何も無いのであえて楽しんで其のバカをやって居るのである。
それと、練習場で体力を使いストレスを発散することがゴルフに於ける私の第一目的なのである。
だから健康になるべく炎天下でそれを行い、かつ最低200球位は球を打つ必要があるのだ。
さて飛ばしにも色々と方法がありそうである。
然し私は暫くの間やはり長尺ドライヴァーに拘っていきたいと思って居る。
だからそのうちに長尺で軽量のXシャフトを手に入れ、それをXドライヴのヘッドに是非組み込んでみたいのである。
はてそれでどうなりますかな?
そういうことを考えて居るだけでも何だか私はとても楽しいのである。
マーク金井ブログ長尺ドライバーで飛距離を確実に伸ばすコツとは!? http://www.analyze2005.com/mkblogneo/?p=9551
ー大変為になる、ゴルフギアの分析が豊富なブログです。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1699回) ..2014/06/21(土) 23:58 No.4794 |
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Golf ism 飛ばしに魅せられた男達 〜どこまでも遠くへ ドラコニストたちの宴〜 2/4 http://www.youtube.com/watch?v=_8kABFnfZEs
こちらでは和田 正義プロがどうしてドラコン競技を目指すプロになったのかということが語られて居て興味深かったです。
結局、ツアープロとしてやっていく為には並大抵のことではなく特別な才能が必要であるということがここからも良く分かる。
ゴルフで飯を食えるようになるには努力だけでは如何ともし難い部分もあるということなのでしょう。
然し和田プロがドラコン競技で戦える選手であり続けるのならばそれはそれで大きな価値ある挑戦でありひいては其れが自らの才能の開花でもあることだ。
人間にはそれぞれに得意な分野があるので其の部分で一花咲かせることが出来れば其れが一番良いことなのである。
尚面白いことに、この動画の終わりの方に仏教徒としてのアマチュアドラコン選手が登場します。
其の方は何ととあるお寺のご住職だとのことです。
ゆえに仏教徒ではあっても戦う時は戦い燃える時は燃えるのだ。
ドラコン競技で戦えるようなマッチョなご住職、ゴルフが好きな仏教徒が居たっておかしくはないのである。
勿論戒律を破ってそれをしているわけではないのであって、つまり仏教にとっての悪いことをして居る訳ではないのであります。
ジェイミーサドロフスキー HD ゴルフ 2011フロリダPGA http://www.youtube.com/watch?v=3puiN6L5WNM
海外のドラコンチャンピオンの方々はまた日本人以上にHSがあり400ヤード位は簡単に飛ばして仕舞うものであるようです。
特にこの方は外国人の競技者としては体が小さい方ではあるが大変な飛ばし屋として有名なプロのようである。
だからそのレッスンも非常に為になる部分が多い。
そしてドラコン競技ではなくともアベレージゴルファーが練習場で飛ばしの方を追求していくことは常に出来るということになる。
私の場合は元々飛ぶ方の人間だがそれをさらにプロ級の飛距離にまで延ばしていこうとして居る訳です。
それで今色々とさらに飛ばすためのクラブやスゥイングの追求を行なって居るのです。
飛距離の追求という目的の為に最も合うクラブとスゥイングを追求して来て居るのである。
万年筆の方でも、色んな筆記上の目的の為に其れに合ったモデルを選んでいくので、その意味ではゴルフクラブの選択の場合と良く似ている感じも致します。
目的ごと、個性ごとに選ばれる道具は異なって来る筈なので、実はコレが絶対であるというような普遍性を持つ道具は本当は無く、結局自分にとって一番良いものは目的と個性に対して一番相性が良いものである、とも言えそうです。
ゴルフクラブの場合にもシャフトの硬軟やクラブの長さや重さ、バランスなどは個性に合っているかどうかということの重要なファクターなのでその点ではペン先の硬軟やペンの長さと重さ、バランスなどを個性に合うかどうかという基準として居る万年筆の世界と不思議に似通って居る部分があります。
さらにフェース面が鍛造金属であるか否かなどということもあり、其処は金ペン先が鍛造か否かというようなことが論じられる万年筆の世界とも矢張り良く似ておりますね。
そしてもうひとつ共通して居ることは自分に合った良い道具を選んでいく必要があり其れは簡単なようでいて実は結構難しいことであるということだ。
買ってみたらどうも自分には合って居なかったなどということも両者とも良く起こり得る話なのである。
シャフトの硬さと,飛距離の関係。 http://www.youtube.com/watch?v=rDQXz_XJx1Y
この店のご主人は硬いシャフトがまず基本的に飛ぶと云われておりますが其れは私も全く同感です。
HSの速いハードヒッターであればたとえばXシャフトを使うと良く飛ぶ筈です。
ただし其のXシャフトがもし重いものであれば、HSの速さだけではなく筋力の方も必要となって来る筈です。
いずれにせよXシャフトはアベレージゴルファーがおいそれと手が出せるようなものではない。
なぜなら硬い重いシャフトを打ちこなすには技術が必要になるんです。
ああ、そういえば古い萬年筆の柔軟なニブを扱うには筆記上の技術が必要となるから、その点でもこの二つの世界は一種似て居るのです。
もっともペンの場合は軽い長い軸で柔軟な金ペン付きのペンこそがなかなか書くのが難しいのですが。
ロングアイアンを練習するとどうなるか? http://www.youtube.com/watch?v=83MD0RINiw4
尚、このショップのご主人は世間の趨勢とは逆のことを云うー然し一方では其れこそがゴルフに於ける真実でもある。ーという部分があり全く面白いゴルフ理論をお持ちの方です。
現在、プロは安全策をとる上から、またアマチュアゴルファーはロングアイアンが難しくて打てないからという理由でほとんど使わなくなって来て居ます。
然しかっては倉本昌宏プロのようにロングアイアンの得意なプロも結構居られたのです。
然し今のミスに寛容なドライヴァーの方が非常に簡単に打てるものとなったのでロングアイアンのようなミスに不寛容な部分から来るクラブとしての神経質さ、難しさは敬遠されて仕舞い今後はますます其の傾向は助長されていくことであろう。
然しこの店主の方はあえて其の難しいロングアイアンを使って練習すると技術が磨かれるというようなことを言って居られます。
いや、それは全くの正論で、現在の軽薄短小化しつつある現行クラブに対する大きな疑問の投げかけの部分でもある。
つまり楽でオートマチックに打てるクラブに慣れると技術は逆に落ちていって仕舞います。
ところが二年前までの私のように超ハードな難しいクラブを使っていた頃は今よりも数段良いスゥイングをしていた筈である。ーちなみに私はロングアイアンを打つことが元々得意です。ー
実際最近かってのドライヴァーが振り切れなくなりそれがなぜだろうといつも思って居たのだったが結局はそういうことでつまりは技術の方が下がったのである。
だからプロの間でも、三十年前のプロは今のプロよりもある意味ではもっと上の技術を持ちその高い技術でもって球を捉えていたという可能性も高い。
このように技術の進歩というものは一面だけは捉えきれず難しい問題を孕んでいる場合もある。
ああそういえば現代の万年筆も明らかに楽に筆記出来るという方向に進化して来て居るのではないでしょうか。
しかし、其処でオートマチックに楽すぎると、昔の萬年筆の持っていたところでのペン先が醸し出す線の表情を出す技術が必要でなくなりつまらないものになっていくのではないか。
ゴルフオオイ http://golf-ohi.com/shop.html
ちなみに動画の店主の方はこちらのご主人のようです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1700回) ..2014/06/24(火) 06:23 No.4795 |
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重いヘッドと長尺は? http://mycaddie.jp/qanda6.php?QID=1736
ここにもあるようにドライヴァーショットでの飛距離追求の為の理想の要件とは1.シャフトを長尺化する2.ヘッドを重くする、ということに尽きて居る。
シャフトを長尺化するとスウィングの弧が大きくなりHSが増すことが分かっており、またヘッドを重量化するとインパクトに於けるエネルギーが増すので球を遠くへ飛ばすことが出来る。
ところがこの二項の組み合わせは理想ではあるが実は可成に難しい。
なぜならシャフトを長尺化するとゴルファーには負担がかかり、またヘッドを重くすることもゴルファーに負担をかけることとなるのである。
だから余程パワーのあるゴルファーでないとこの理想の組み合わせの実現は難しいということになるのである。
ただしごく最近はシャフトが長尺化されており尚且つヘッドを重くしたタイプの飛距離追求の為のクラブが注目されて来ているようだ。
然しながらそのタイプのクラブはまだほとんど市販化されるには至って居ない。
シャフトの長尺化と重量ヘッドの組み合わせが無理であるなら、シャフトの短尺化と重量ヘッドの組み合わせならば可能だろうという訳でPGAツアーの一部のプロはそのような組み合わせでしかも軽量の硬い短尺シャフトを使うことで重量ヘッド化したクラブでもって300Y飛ばすことへの挑戦を続けて来て居るのである。
其の背景にはPGAツアーで行われるトーナメントに使用されるコースの距離が長くなって居るということがある。
トーナメントプロの飛距離が軒並み伸びて来て居るので、ゴルフコースの方の距離自体を長くせざるを得なくなって来て居るのである。
日本のゴルフコースの場合は其処まで距離は長くなって居ないのだがそれでも今後は長くなっていかざるを得ないことだろう。
そうなるものとすれば、我々アマチュアのゴルファーでも当然飛距離の方が要求されて来ることとなる。
だから将来はむしろ飛距離追求こそが大事なこととなって来る。
ゴルフは飛距離じゃない、なんていうことを言って居たら通用しない時代がすぐそこまで来て居る。
つまり、特に今後はゴルフは飛距離でもあるのである。
飛距離の追求ということは其れが即欲望の解放ということではなく技術の向上を目指していく職人技的なものなのである。
欲望と云えば確かにゴルフ自体が欲望の解放ながら、こと飛ばすということに於いてはより完璧に打ちたいということでもある訳だ。
どうせ環境破壊を行う罪なスポーツであるゴルフをするのであれば、技を極め道具を追求し完璧な位置に自らの技を高めていくという全くのゴルフ道で行き適当な遊びなどでは無論ないのである。
だから私は趣味だって何でもそういう風に捉えて来て居るのである。
万年筆ならば万年筆道、ゴルフならゴルフ道、石は自然物なので少し違うがそれでも石道楽の道のようなものが其処にはほの見えて来たりもするものである。
だから其れ等はただの遊びとは違うんである。
全部真剣勝負だ。
その代わりに世間の人々が真剣なことに対して余り熱心ではないということも私には多い。
クラブが自分のスイングを磨いてくれる http://www.youtube.com/watch?v=9I06DzSDfYM
調子が悪いのでクラブを換える、はお勧めできません。 http://www.youtube.com/watch?v=fSjMxiWYwIw
さてこの動画からもこの方はいつも正論を吐かれて居て現在のゴルフ界の常識とは逆のことをむしろ云って居られるのである。
私も以前に述べておりましたが、今流行りの楽チンクラブは基本的に自分の技術を磨いては呉れないものなのであり、其れは多分万年筆の方でも一緒、現行の万年筆は楽に書けすぎるものが多くて、それで余計に日本人の日本語の書写技術が停滞するかまたは退化していくようなことになって来て居るのだろう。
また私は万年筆の方で楽に書ける21Kのセーラーの方よりも楽には書けない14Kのプラチナの方が本質的に良い部分さえ持って居る、筆記マニアの方々は何でそんなことに気付かないのだ、というようなことをずっと述べ続けて来たのであります。
要するに其の現実としての出口、外面でのことに囚われて仕舞うと物事の本質的な価値、内在されて居る本当の良い性質のことが見えなくなって来て仕舞う。
それから、所謂権威主義というような万年筆の特定のブランドに対する盲信、過信ということにも是非気を付けるべきなのである。
そしてこの二つの動画で店主の方が述べられて居ることは、ゴルフスウィングに於ける技術論なのではなく精神論なのである。
其の精神論の方がまず大事なのである。技術論はその後からでも良いのである。
それで、私は万年筆の方の物語でずっと精神論の方を展開して来たつもりなのである。
だからゴルフスウィングに於いてもこうした精神論を非常に大事なことだと思って居る。
然し人間というものは周りから影響を受けていつのまにか楽な方へ楽な方へと流されて行きやすいものなのである。
楽がなぜいけないかという段になれば、それは要するに上で語られて居るが如くに其処で技術が磨かれることが無くなって仕舞うからそれは宜しくないこととなるのである。
尚現代文明の所産のモノというものは大抵の場合そういうことになって居る。
其れ等はより便利でより速く、よりカンタンなものとなっていくのだが所謂味の部分が見えなくなるか失われていって仕舞うのである。
その味とは、造り手と使う側の技術の磨きあいのような部分にこそ存していた訳で、そういうのが見えなくなるとかってはモノの世界にも存して居ただろう精神性の部分も見えなくなりただ即物的に大量生産される道具と浅く付き合っていくことしか出来なくなる。
であるからゆえにスウィングや書写の技術を磨くということは大事なことなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1702回) ..2014/06/29(日) 23:26 No.4797 |
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クラブとスイングの関係 http://www.youtube.com/watch?v=x8-DjovypmM またもやこのご主人は正論を述べておられる。
どういうことかというと、かっては難しいクラブを使って居たが今風の簡単なクラブの方が楽に打てるゆえそれで長く打って居ると実は技術の方が段々下がって行って仕舞う。
実際に私は今ミズノプロ2000という超ハードスペックである軟鉄鍛造アイアンがもはや打てなくなって来て仕舞った。
それは何を意味するのか?
即ち技量が落ちたということを意味するのである。
つまり今風の460ccのデカヘッドで芯の広いチタンドライヴァーは易しく打てる訳だが、ここ二年程は其れ等ばかりを打って来て居るこの私には難しいクラブを打つことがもはやしんどいのである。
勿論また元の状態に戻していくことも出来る。
だがそうすると其の難しいアイアンセットに組み合わせるチタンドライヴァーは今よりはずっとハードなそして重いクラブとなり、其れでもって今程の飛距離が得られるかと言えば其れは無理なこととなるのだろう。
ということは、アイアンのセットの方をもう少し楽に打てるもので新調して行くほかは無いのである。
それではお金がかかるということは別として、確かにキャビティタイプの軟鉄鍛造アイアンには元々興味がある。
値段の方も今は新品にせよ、ヤフオクにせよ、中古ショップにせよ昔に比べれば随分安くなって来て居る。
私のプロ2000アイアンなどは二千年当時27万円位はした高級品であった。
ちなみに其のプロ2000アイアンの元のアイアンであるTN-87が伝説の名器のアイアンとしてこのほど復刻発売されるのだそうである。
伝説の名器が蘇る ミズノプロTN-87 復刻モデル http://www.golfersland.net/tn-87/
ちなみに私はこのアイアンでゴルフを覚えたのだ。
コレを二十年位は使った。
そしてまだ持って居るのである。
プロモデルとしては案外打ち易い素晴らしいアイアンなのだが、無論今のクラブと比較して仕舞えば矢張りどうしても難しいクラブとなって仕舞う。
それでもこうしてあえて復刻発売される程に尊敬されて居りかつ需要のあるアイアンなのだろう。
尚プロ2000アイアンの方はTN-87のよりハードな仕様であると考えると分かり易いことだろう。
特に私にものはシャフトが重いのでハードである。
だから簡単に打てるクラブばかり使って居ると実は何かが失われるか損なわれることとなって仕舞い、ゴルフに於いては其れが技術であるということになるのだ。
簡単に書ける万年筆や簡単に何でも出来るようになった生活からもひょっとすると色んな技術や精神が失われたり損なわれていくのかもしれないな。
そう云えば昔の打ちにくいクラブはまるでややこしい精神のカタマリのようなもので、つまりは元々難しいクラブだったので体力だけではなく念力でもって飛ばしていたようなものだった。
それにあの古いEDのL.E.Watermanなど使って居るとまあ其の筆記感たるや物凄く渋くて其処からはまるで万年筆に於ける精神論を叩き込まれて居るような感じがすることも屡である。
だからモノの精神?のようなものが堕落していくと物はより見かけ上の性能は上がりより速くなったりより楽に扱えるようになるものなのだが、それと共に元来あった筈のキビしい精神性のようなものは失われていく。
またそれと共に、モノの使い手の方の技量も落ちて行くのだししかも其の事に気がつかないということにも陥りやすい。
だから道具はある程度本格性があって、そして少し難しい位のものを選んでいった方がより自分の技量を上げていくことが出来る訳だ。
そして其の事はどんなモノに於いてもおそらくは云えることなのだろう。
アイアン職人の町 世界が認める いちかわ鍛造アイアン http://www.youtube.com/watch?v=4wgYfNE48w8
軟鉄のキャビティタイプのアイアンは、こんなものさえあるのである。
地元のもののことは少しだけ聞いてはいたが、兵庫県にこんな町があって、其処ではこんなに鍛造アイアンが造られて居るなんてことは全然知らなかった。
結局、こうした職人が造るアイアンはおそらくとても良いものなのだろう。
其れ等は一本一本を個性化させることが出来、しかも鍛造という本質的に良い製法で造られるクラブであるのだから悪かろう筈はないのである。
市川町商工会 http://www.ichikawa-hyogo.jp/golf/knowing.html
姫路軟鉄鍛造キャビティアイアン http://item.rakuten.co.jp/kyowagolf-file/10000129/
たとえばこれなどは手頃なお値段で結構良さそうだ。
ゴルフクラブでも万年筆でも、矢張り職人が手間暇かけてつくったものにはそれなりの良さがあるものなのである。
また本当に古い萬年筆などはたとえ大量生産の品ではあってもそうした職人技的な部分がどこかしこに残って居たりもするものなのだ。
だから古典の萬年筆は手作り万年筆に似た部分がある。
そしてそうした万年筆の魅力と同じ位魅力的にこうした職人が造るクラブは感じられるのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1703回) ..2014/07/03(木) 23:44 No.4798 |
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ミズノプロ TN‐87 復刻モデル(完全予約受注品) 伝説の名器が、蘇る。ミズノプロ TN-87 復刻モデル。 \ 410,400 (本体\ 380,000) http://products.mizuno.jp/c/item/5KJSD60610/040002004
此れは、然しながら高い。高価過ぎる。
さてたかが趣味、されど趣味などと良く云われるが如くに、たとえ趣味の道であっても其れを極めんとすること程シンドイこともまた無いのである。
たとえば万年筆の追求でもゴルフの追求でもやっぱりしんどい。
本気になればなる程其れは大変なのである。
また趣味に限らず仕事でも学問でもその他の何でも本気になればなる程矢張り大変である。
本気になって万年筆を追求されて来て居る方々、アナタ方はやはり相当に大変であったことだろう。
でも私は至極適当なので全然大変では無かった。
何でも真剣勝負だ、とか何とか言いながら本当の本当は物質の世界なんぞ大して重要ではない位に思って居るので実はさほどでもない。
ただ、何でも追求すればする程に深みの面が見えて来て其れはどうしてもそういうことになって居るのだろう。
其処まで到達した人だけが感じられるようなそんな境地というものは確かにあるのだろう。
私も万年筆の方は三十年追求して参りました。ーただしコレクター歴が三十年ということであり、使用歴は四十年ということとなる。ー、 そしてゴルフの方も丁度追求が三十年程になり、其処で思うに、よくもまあ、よりによってそんな金のかかる追求を飽きもせずに続けてこられたものだなあ、これから先は色々と苦労することがあることだろうが、其の点だけは本当に良かったなあ、色々と観念の方で苦しかった部分はあったにせよ、其の好きなことを好きなように追求して来れたことだけは恵まれた境涯だったのかもしれないな、などと近頃良く思ったりするのである。
ゴルフスウィングの追求の方では、私は今最後の仕上げの段階に入っていて、まるで万年筆の方で最終段階に進みつつあるのではないかと思われることと同じように、自分の背後に色んな経験の積み重ねの重みを感じながらゆっくりと歩んで居るというところなのかもしれない。
ただし、万年筆の方はもう本当にゆっくり、ゆったりとしたペースになって仕舞ったのだけれど、ゴルフの方は 最後の難関に挑んで燃え盛って居るというのがむしろ本当のところなのである。
其れを証拠に、万年筆の方はもうほとんど要らないのですが、ゴルフクラブの方はもう兎に角是非次々と欲しくなる。
一体何をやって居るのだ、いつも言っているように仏教徒のくせして。ー
確かにそういう感じでもあるのですが、この追求こそは最後の仕上げの追求なのだ。
だからやらずには居られない。
もっともO先生は最近の私の節操の無さ、飛ばしへの欲の深さに呆れ返って居るようだが、何しろこの私にしてもやる時はやるのだ。
万年筆もクラブも買う時は次から次へと買うのだし、買わなくなると全く買わなくなる。
超極上/新発売 ジオテック QUELOT RE14α/46,5 INCH/ SX http://page4.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/d154517717?notice=clowb
さてあらためて思うのですが、このドライヴァーを買っておいて本当に良かった。
コレは楽に玄人並の球が打てるようになるクラブです。
この仕様は実質47インチ仕様で振り切るだけのパワーが要求されるのですが、実はシャフトのトルクが多いのでXSシャフトにしてはそれほど硬い感覚はなく非常に振り易いクラブなのである。
ところで、47インチ仕様の長尺のドライヴァーですが、コレは振り切るだけのパワーがあれば間違いなく飛びます。
或は単に飛ぶというよりもより楽に飛ばせるということが言えるかと思う。
ただし、長尺ドライヴァーを打ちこなす為には所謂玄人打ちをしなければならない、ということも絶対に頭に入れておかなければならない。
いや、長尺ドライヴァーに限らず短尺ドライヴァーでも或はアイアンでも上級のゴルファーは常に玄人打ちをして球を飛ばして居るのである。
その打ち方は、所謂素人ゴルファー、すなわちアベレージゴルファーの打ち方とは根本的に異なります。
其の打ち方こそがゴルフスウィングに於ける真の打ち方のことです。
上級者やプロは其の打ち方でもってクラブを振って居ます。
だからこそ高い確率で球の芯が捉えられ、そして飛距離が出るのである。
逆に云えば素人ゴルファーは其れが出来て居ないのであります。
勿論私もまだ完璧には出来ていません。
ただ、O先生と共に今其の打ち方に取り組んで居るところなのです。
いや、正確には何故か二人共別々にその域に達しつつあったのです。
練習場で出くわすと、何故か同じ打ち方に取り組んで居たという、そういうことです。
もっともO先生は色々と誘いがあるので月に三回程はコースへ出ています。
対して私はこの十年というもの、全くコースへは行って居ません。
さてそれではどちらが良いスコアで回れるのでしょうか。
そんなことはコースへ出て居る人の方が良いスコアで回れるに決まって居ます。
では何故私はコースへは行かないのか?
其れは私のゴルフスウィングが完成して居ないからです。
確かに実際にはほぼ完成の域にまで達して来て居る。
理論上はもはやすでに完成して居ます。
だからこれからは其れを体で覚え込ませるということだけなのです。
O先生は最近八十台のスコアでコースを回ることが屡で、それで愈七十台のスコアを目指してダウンブローで打つ練習を繰り返して居るようだ。
私も結局、其のダウンブローで打つ打ち方のことを本質的に見直してみたばかりなのである。
それでも私が見る限りO先生のゴルフスウィングはまだまだ上級者の域には達して居ない。
それは勿論私だってそうだ、ただ、練習場でのドライヴァーショットだけは本当に素晴らしくなって来た。
其の練習場で、いつも上級者並みに打てない限りは何回コースへ出たって七十台のスコアなんてまず絶対に出せません。
だから私はそのことをこそ目指して居るのです。
そうならない限りは何度コースなど行っても仕方が無いということなのです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1704回) ..2014/07/03(木) 23:44 No.4799 |
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ドライヴァーショットは良く云われるようにアッパーブローのショットとして球を捉えるものですが、其れはあくまでインパクトの瞬間のことであり、其の少し前のクラブの軌道はアイアンでダウンブローのショットを行う動きと全く同じものなのです。
つまり、アイアンショットとドライヴァーショットのスウィングは全く同じであり、ただ球を置く位置、球を捉える位置が違うのでダウンブローだのアッパーブローだのと区別して呼んで居るだけなのである。
では凡人ゴルファーが出来ない球の潰し打ちの仕方、アイアンでダウンブローのショットを行う動きとは一体どうしたら得られるのか?
実はこの部分こそが、ゴルフスウィングの真髄であり真理なのであります。
真理なのですから、其の打ち方には普遍性がありまた時を超越して存在するものです。
つまり世界中何処に於いても、また過去においても未来に於いても其れは真理です。
其の真理とは、正しい手ー腕ーの使い方のことです。
凡人ゴルファーはまずコレが絶対に出来ていません。
然し、玄人のような球を打たれる方はまず絶対にこの打ち方を会得して居ます。
さて、正直言います。
つい最近まで、この私も其れが正しく出来ていませんでした。
ところが現在は正しく行えるようになりました。
すると、球の捉え方が本質的に変わって来る。
嗚呼、まるであの鍛造ニブと圧延ニブの違いのようなものではなかろうか。
確かに、まあ、そういうことです。
打ち方が、其の打ち方の技術の方こそがまるで鍛造ニブの如くに良いものになったということです。
この打ち方でこそ、正しくプロ級の打球を放つことが出来ます。
では一体どうすれば良いのか?
この点に関しては動画などでレッスンプロが様々に論じて呉れていますから何でしたら其れ等をご覧になってみて下さい。
ただ私がもしレッスンするのだとしたら生徒さんにはこう教えようかと思って居ます。
其れもただ一言だけ。
曰く、グリップエンドで球を動かす。
これがバックスイングを形作る為のゴルフスウィングに於ける真理としての部分です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1705回) ..2014/07/05(土) 00:01 No.4800 |
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この現在の私のゴルフの追求は私の最後のゴルフの追求なのである。
何故だか知らぬがそんな気がしてならない。
今この一瞬にこそ賭けてゴルフを是非全うしてみたい。
燃え盛る炎のようにメラメラと、まるで爆発したかのようにゴルフにのめり込む。
勿論O先生なんぞには負けない。
彼は私にとっての良きライヴァルである。
然し飛距離と球質と球筋とで必ずや彼を圧倒してみせる。
断じて我は負けぬ。
なんとなれば我こそはゴルフの武士である。
ゴルフ武士の刀は名刀でなくてはならぬ。
だから本来ならばTN-87の復刻モデルを\410,400払って求め、其れでもって誇らしく戦場へと出向いていかねばならぬ。
然しながら、我はもはや五十も半ばにさしかかった。
いつしか戦争になってももう戦場には行かされない歳となりにき。
さて、次なる我が名刀はこれじゃ。
中古 リシャフト◆オノフ TYPE-S ドライバー 2012◆9°無双XL/XS http://page14.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s387241794
コレが神戸より来たりしオノフ TYPE-Sドライヴァーである。
一言で言うと、超ハードスペックでセミアスリート用ヘッドの付けられたものである。
46.5インチの長尺仕様で超重量スペック、何とバランスはアスリート向けであるDを飛び越したE2の数値である。
つまり、振ると超重くかつヘッドがとても重く感じられる仕様なのである。
ーちなみに日本人向けにはまずこのEバランスのドライヴァーは用意されて居ないことになって居る。このクラブのようにリシャフトされたクラブを除いては。ー
然し私は、この先っぽーヘッドーが重いドライヴァーこそが好きなんである。
つまりは私はパワーヒッターで先の重みの効いた奴でぶっ叩くのが何より得意である。
だからむしろE2のバランスに惹かれてこのクラブを落札したのである。
ただし、313gある重量は45インチのクラブに換算するとおそらくは330g以上はある仕様となる筈であり、其れは現在ではプロでも重すぎると感じられるクラブとなろう筈である。
其の点だけが少し心配であった。
またこのクラブを入手するに至った理由としては、
1.ゴルフを極める為のクラブの追求の一環としての入手
2.シャフトが何とあの無双XLの46.5インチXSシャフトにリシャフトされて居た!
3.何せ一万二千八百円は安い!
4.意外と程度が良さそうである。
2.ー二本目となるー無双XLの46.5インチXSシャフトは振り易く、また元々長尺でもあるので飛ぶシャフトである。
3.シャフトは大変綺麗だったのでシャフトだけ得ようとしても一万二千八百円以上は軽くする。つまりお得である。
4.ヘッドのソールの小傷が少し目立つだけで良い状態の商品だった。
ちなみに、もし一万五千円以上して居たのであればコレを落札することは無かったことだろう。
T.低予算でのゴルフの追求を行なって居る手前、兎に角安いゴルフ用品を求めて居る。
U.人が振れないようなクラブも場合によっては私には合うのでこうした商品は完全に狙い目である。
V.現在は次から次へとクラブを求めて居るが、いずれも非常に安く入手し、其れはなるべく色んなパターンの長尺ドライヴァーを揃え打ち比べてみる目的からして居ることである。
ゆえに全部が全部が欲しいという訳ではなく、どんな長尺ドライヴァーが自分に合うかどうかということを調べて居る最中なのである。
よってもしクラブが自分に合わなければまた中古ショップの方へ持って行っても良いのである。
クラブをコレクションして居るのではなく、あくまで自分にとってのゴルフに真に合うクラブを探して居るのである。
今回の長尺ドライヴァーの結果
1.矢張り私には合う。 2.ただしハードなドライヴァーであることは確かで、まだ振り切れては居ない。
3.同じく無双XLのXSシャフト付きながら47インチ仕様のクロトドライヴァーに比べると遥かにハードなドライヴァーである。
3.が、慣れて仕舞えば必ず打ちこなすことの出来るクラブではある。
ー今使う二本のドライヴァーの比較などー
ジオテック クロトドライヴァー
1.アベレージ〜セミアスリート仕様のヘッドで易しく打てる。ただし規制外の高反発仕様であり、また実質47インチの長尺仕様なので規格外の飛距離性能も持って居る。つまりタダのシニアゴルファー向けのヘッドではない。特にXSフレックスのシャフトはオジさんではとても振り切れない。
2.ちなみにクロトドライヴァーはブンブン振り回せるようになって来て、其れでストライクゾーンにハマると恐ろしい程の強打の音が練習場に 轟き決まって皆に注目される程である。
3.其の飛距離以上に打音が素晴らしいクラブで、易しいヘッド形状で芯も広いのでナイスショットの確率の高いクラブである。
ダイワ オノフ TYPE-Sドライヴァー
1.セミアスリート仕様のヘッドで易しく打てる。が、今回私が入手したリシャフトモデルはオリジナルとは別物のハードな仕様となって居る。 余程のパワーが無いと或は四十歳位までの盛の体でも振り切れない。
2.其の並では無いハードなドライヴァーを振り切れるようにすることこそが私が初めから意図していたところでのこのドライヴァーを使った技術の向上の部分なのである。
3.つまるところ、次第にジオテック クロトドライヴァーは振り切れ過ぎて左へ行く傾向が出て来た為、もう少し難しいヘッドで同じシャフトのものをと考えて居たところコレが出品されていたので飛びついたのである。
4.非常に静かなインパクトが可能である。つまりインパクトの音が普通のドライヴァーよりも小さい。何故かと言うと、重さやバランス、シャフトなどの仕様がハードな為である。だからこのクラブを振り切れるようになった時こそが本当の意味でのプロ球を放つ時なのである。
それでもあくまでクロトドライヴァーが現在の私のエースドライヴァーであることには変わりがない。
さて、こんな風に行うゴルフクラブの追求は実に楽しい。 人生には色々と楽しいこともまたある。
人生には様々な問題や苦労、苦難が待ち構えて居るものだが、それでもこうした楽しい部分は別に用意されているものなのである。
ゴルフの練習で汗をかくと其の後で食するものや飲み物がまた格別である。
ゆえにゴルフは健康に宜しい。 私はゴルフと萬年筆を死ぬ迄愛好しつつ生きていくつもりである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1706回) ..2014/07/08(火) 22:17 No.4801 |
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長いモノには巻かれよう!ぶっ飛ばすなら“イマドキ”長尺ドライバー ダウンスイングでの手と腕(肘)の使い方 http://www.golfdigest.co.jp/golfstyle/neo-athlete/gear/131024/default005.asp#/header/
長いモノには巻かれよう!ぶっ飛ばすなら“イマドキ”長尺ドライバー 肘の使い方(向き) http://www.golfdigest.co.jp/golfstyle/neo-athlete/gear/131024/default006.asp#/header/
ゴルフスウィングに於ける手と腕の使い方は上記の様に使うということこそが正しい。
コレこそが真理なのであります。
従ってこれが出来て居ない限りはどんなクラブを使ったにせよ球はまともに飛んでいきません。
適当には打てても、上級者やプロのようにキチッと打つことは出来ないということなのです。
だから我々アマチュアゴルファーはクラブの追求をする以前にまずこのゴルフスウィングの上での手と腕の正しい使い方の追求を是非行うべきである。
ちなみに私は1999年から2012年までドライヴァーはミズノ300S一本ーヘッド体積が310cc位しかない、しかも100gシャフトの超ハードな仕様ーでもってこの技術を磨いて参りました。
名器自慢ーMIZUNO300Sドライバー http://diamond.jp/articles/-/26559
だから今のデカヘッドのドライヴァーは皆まるで小学校のテストの如くに簡単に感じられるのです。
ただし、其のデカヘッドのドライヴァーに慣れると其の簡単さの中での難しさを感じるようにさえなって来ます。
次第に技術が落ちて来るので、本質的に簡単なものでも決して簡単には思われなくなって来るのが全く不思議なことです。
たとえば鈍行列車と比べれば新幹線は滅茶苦茶に速いがリニア新幹線が出来ればそれでも亀のように遅く感じられるようになることだろう。
古典の萬年筆の鍛造ペン先の中には滅茶苦茶柔軟なものがあるが、実は其れ等ばかり使って居ると皆さほど柔軟に感じられなくなり、また逆に現行の固い圧延ニブのものばかり使って居ると然程其の本質的な固さが分からなくなって仕舞ったりもする。
そうした相対的な感覚の世界というものがこの世には確かにあります。
簡単なクラブにばかり囲まれて居ると其の本質的な簡単さを感じ取れなくなりその代わりに個々のクラブ固有の問題点が大きくクローズアップされる形で出て来て仕舞うものです。
謂わば小さい問題が大きく捉えられて来て仕舞うのかもしれない。
そうなると逆にクラブに於ける大きな問題が見えなくなったり、或は見失って仕舞うことにも繋がりかねない。
其れも上記のようなゴルフスウィングに於ける手と腕の使い方の真理を知らないことだろうアベレージゴルファーは其処で余計にスウィングがダメになっていく可能性もまたあるということです。
でも私はそういうのを知ってますから、勿論そうじゃありませんね。
まあどんなクラブを使って球を打つにせよ、スウィングの基本がダメだと全部が台無しとなるということです。
其の点では万年筆で綺麗な字を書く事以上にゴルフスウィングは難しいですね。
万年筆は所謂小手先で使うものなので確かに力は要りませんがゴルフは大きな道具を振り回して球を飛ばしていくものですから力は要ります。
ところで良くゴルフスウィングには力は要らないとかスコアメイクに飛距離は要らない、力も要らないなどと云われたりして居ますが其れは明らかに間違いです。
基本的に力のある人が力を抑えてプレーするのがゴルフを上達させる一番の近道なのです。
根本的に力が無くドライヴァーショットで最高200Yしか飛ばない人が力を抜いたらさてどうなるのでしょうか?
ゴルフスウィングには力は要らないのではなく適切に力を入れる必要があるのでしょう。
特に非力な人程むしろ適切に力を入れてゴルフスウィングを行う必要がある。
何故なら200Yのドライヴァーショットと300Yのドライヴァーショットではまさに月とスッポンの差があるからです。
さて、私は今、より飛距離を伸ばす為のドライヴァーの長尺化に取り組んで居る訳です。
私は身長が170センチに届かず、それでも昔は所謂中背でしたが今の時代では背が小さい方です。
それでもパワーヒッターであるということは筋力があるということです。
然し、プロモデルなどの重くて難しいクラブで平均280Y飛ばすーコースでーということは実際大変です。
私は身長に合わせて腕も短い方なので元々スウィングアークも大きくはありませんから筋力だけに頼って飛ばすということになり大変です。
其れに加え年齢的にもプロモデルなどの重くて芯の小さい難しいクラブを振り回すことが次第に辛くなって来て居ることも確かです。
でも、今の簡単なドライヴァーならばまだまだ振り回すことが出来るということなのだろう。
其れを振り回して何とか平均280Yの飛距離が欲しいということなのです。
だとすればドライヴァーの長尺化で飛距離を稼ぐ方向に持っていくしかないことと思われる。
“イマドキ”長尺 impression http://www.golfdigest.co.jp/golfstyle/neo-athlete/gear/131024/default010.asp#/header/
今時の長尺ドライヴァーを実際に打ってみた感覚から言えば、今長尺と云えるものは実測47インチ以上のシャフトの付いたものに限られます。
勿論46や46.5インチのクラブも打って居りますが此等は実感的に物凄く飛ぶという感じではありません。
どうも47インチのシャフトからはっきりと飛ぶようになります。
より明らかにHSが上がり球がより速く飛び出していくので飛ぶようになる訳です。
尚、以下のような低価格長尺ドライヴァーもあり、実は私もコレを一本持って居ます。
ツアーエッジ Tour Edge バックドラフト GT+ ドライバー BACKDRAFT GT+ GRAPHITE 【USモデル】 http://shop.golfdigest.co.jp/outlet/f/dmg_0000418847_genre_001001
これだけ安くて、46インチシャフト付きで、今流行りの白いUFOのようなヘッドのドライヴァーです。
コレを使ってみたところでの私の感想は○です。
結構叩けて真っ直ぐに飛んで呉れます。
私のはSシャフトですが、US仕様なのでかなりに固くてハードに感じられます。
ところがヘッドの方は芯が広く簡単に打てる。
何せSシャフトはハード仕様で重さも322gもあり余り飛ばない感じもするが、方向性の良さからコース再デビューの時にも使おうかと思って居るクラブです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1707回) ..2014/07/08(火) 22:17 No.4802 |
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第一、この値段でまともな46インチのドライヴァーが新品で買えるということ自体が驚きでした。
ただしコレが47インチでもっと軽くあればおそらくもっと飛距離が出ていたであろうにと思うと少し残念なところです。
でも長尺ということを全く意識させられることなく使えるので長尺クラブの入門用としてはかなりに良いクラブである。
つまり、安いモノでも充分に使えるものが今はあるということなのです。
もっとも、其れは万年筆の方でもそう云えることなのかもしれない。
安い万年筆でも良いものに巡り合える確率は常にあります。
さて、長尺ドライヴァーは昔からあり、其れは特に非力なシニアゴルファーや女性の為のクラブだったような気がして居ます。
勿論プロの中でも長尺ドライヴァーを使って居る人は居ましたが其れもあくまでも少数派の試みであった訳です。
私個人は、かって長尺ドライヴァーには全く興味がありませんでした。
何故なら昔の長尺ドライヴァーは軽くて打ちにくい、それこそ年寄りや女性向きの仕様のものにすべからく感じられて居た。
でも今の長尺ドライヴァーは実はそういうものではありません。
壮年ゴルファー向けの、其れもパワーヒッター向けのモデルが続々と出されて来て居るのです。
ところが一般的にはまだこの情報が広まって居らず、よって私の周りにもドライヴァーの長尺化には関心の薄い人がほとんどなのです。
が、今の長尺ドライヴァーは明らかに飛びます。
其れも47インチ以上のシャフトを選択し、かつ其の長さのシャフトを振り切るだけのパワーがあれば飛ぶということです。
ところが非力ですと、其れが振り切れないので逆に飛ばなくなって仕舞うのです。
ーただし非力な人向けの軽い長尺ドライヴァーも色々と用意されて居る筈です。ー
或は力があっても長尺ドライヴァーが合わないスウィングタイプの人さえ居るのです。
でも幸いなことに私には長尺ドライヴァーが合っていました。
其れでこうして今時の長尺ドライヴァーを色々と打ち比べ飛距離を伸ばす追求を行なって来て居るのです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1708回) ..2014/07/13(日) 20:25 No.4803 |
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長尺ドライヴァーの先駆者であるフォーティーン社のCT-112と呼ばれるモデルは同社の30周年特別モデルであり2012年に発売されて居る。
そしてこのドライヴァーは特別なクラブである。
何が特別なのかと言うと、1.飛びを目一杯に追求したドライヴァーであること2.稀に見る美しさを備えたドライヴァーであることの二点に於いて特別なモデルなのである。
私はこれまでに様々な美しいドライヴァーを見て来て居るのだけれど、今世紀になってからはこんなに美しいと思えるクラブを見たことは無かった。
兎に角其れ位に美しいクラブなのである。
このモデルは当時飛ぶように売れて、そして今でも比較的高値で取引きされて来て居るのだろう。
実は私も一本ストックして居るのだが、なかなか使う踏ん切りがつかずいまだに未使用で部屋に飾ってある状態である。
新品【フォーティーン】特別モデルCT112/純正SR/10.5度 /47inch http://page17.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v356665050
丁度今オークションの方でも新品が出品されて居るところだ。
ただし私のCT-112は46.5インチシャフトで9度のロフトのモデルである。
フォーティーンのシャフトは46.5インチで実測47インチあり、実際にはとても長いのである。
47インチモデルだと実測48インチ弱ー47.75インチーとなり、これはもう相当に長くなる。
CT-112のヘッドは460ccの大型ヘッドながら、所謂簡単クラブ系の平べったい形ではなく塊感が強い形状なので構えた時に小型のヘッドに見えて仕舞う。
それでもって47.75インチものシャフトが付いて居ると非常に長い棒の先に小さなヘッドが付いて居る様に見え振った時に正確に当たるようには思えなくなるのである。
従ってかって私は実測47インチの方を選んで手に入れたのである。
それから、シャフトは長くなればなる程飛ぶようにはなるが、其処で同時に振り切ることが難しくなり確実にミートする確率も下がって来るものと相場が決まって居るものだ。
だからこそかってプロゴルファーの面々は長尺クラブを使って居なかったのである。
50m秒前後はある筈であろう彼等のHSならば45インチの普通の長さのシャフトでも充分に飛んで居たのだ。
然し非力なプロゴルファーやシニアのプロゴルファーーあの杉原 輝雄さんのようなーは屡長尺を試して居たものだった。
ところがかっての長尺は実は余り良いモデルが無く打ちにくくミート率の悪いクラブが多かったのである。
ところがそんな中でフォーティーン社はいち早く長尺ドライヴァーの飛びの優位性を評価し、そしてもう長く長尺ドライヴァーの開発と販売に携わって来て居るのだ。
だから長尺ドライヴァーの何たるかということが良く分かって居るメーカーだと云えることだろう。
そんなフォーティーン社の30周年特別モデルとして販売されたCT-112はスペック的には競技志向の感じられる本格モデルながら、見た目にはまるで女性向きと言っても良い位の美しい姿をした長尺ドライヴァーなのである。
実際、私のCT-112は、私の持って居るドライヴァーの中でも群を抜いて其の姿が美しい。
グリップなど部分的には華奢な感じさえするクラブである。
基調カラーはダークブルーなので其れもまた美しく、黒を基調とした他社のプロモデルドライヴァーのような戦闘的なイメージは無いと言える。
ところがヘッドはハイバック形状で、例の簡単に打てるシャローバック形状では無いので結構ハードヒッター向けのクラブでもある。
シャフトもSならば普通にしっかりした硬さのあるもので、決して簡単に打てるというものではない筈である。
其の点ではこのクラブも基本は戦闘に向いたクラブでもある。
でも兎に角美しい。
トータルなデザインが戦闘の方ではなく何やら美的な世界の方を向いて居るのでどこかしら文学的、情緒的な、或は絵画的、デザイン的な美しさを感じさせて呉れるものだ。
まあ実際にはゴルフに於ける競技、男の技量の磨きあいの場にも使える本質を持ったクラブなのだけれど見た分には藝術的センスを其処にそこはかとなく感じて仕舞うという稀有なモデルなのである。
フォーティーンCT-112 その、驚きの飛びに迫る http://www.golfdigest.co.jp/special/1210fourteen/?car=rb-md-prf
フォーティーン「CT-112」ー金谷多一朗プロによる試打解説ー http://www.golfdigest.co.jp/special/1210fourteen/121022_01.asp
ただし、現在はもっと飛ぶであろうドライヴァーも色々と出て来て居ることだろう。
ゴルフギアの世界はまさに日進月歩の世界となって居り、毎年数多くのニューモデルが出され次々に飛距離の記録が更新される状態となって居る。
激飛びドライバー ゲロンディを徹底試打&検証 http://www.golfdigest.co.jp/special/1311fourteen/?car=gr-dmg
たとえばこちらが現在のフォーティーン社の最新ドライヴァーである。
おそらくはこのニューゲロンディの方がCT-112よりも飛んで居ることだろう。
でも正直コレは余り美しくは感じられない。
こと美しさということに限れば、前のモデルであるCT-112の方が遥かに美しい。
美しさとクラブの性能ー数値上のーには余り関係が無いことかと思われるのですが、美しい形状や仕上げが施された上質なクラブを一部のアスリートゴルファーが昔から好んで来て居ることもまた確かなことなのである。
例えば、私が長年使って来たミズノ300Sドライヴァーは飛び切り美しいドライヴァーだという評価が確立されていたものだ。
其の300Sドライヴァーは塗装が矢張りディープブルーで其の色合いがとても美しかったのだったが、そう言えばこのCT-112も其のディープブルーで纏められたモデルなのである。
そして300Sドライヴァーも当時の激飛びドライヴァーだった訳で、其の点に於いてもCT-112との共通点を感じさせて呉れるのである。
だからこのCT-112こそが長年に亘り私にとってのエースドライヴァーであった300Sの後継モデルとなるであろう確率が高い。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1709回) ..2014/07/13(日) 20:25 No.4804 |
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ただし其れも打ってみなくちゃ分からない。
ゴルフの道具は万年筆以上に個性との適否の判断が難しく、従って打ってみたら意外と飛んで居たり、或は逆に全然飛ばなかったりと結果の予測が難しいものなのである。
さて、CT-112はクラブの長さ、ヘッド体積、高反発力というその3つのスペックをルールぎりぎりまで極めたという長尺ドライヴァーなのである。
1.長尺の為のシャフトー手元と先端の剛性を高め長尺としても振り易く設計されて居る。あえて高トルクシャフトとしてスゥイングのタイミングを取り易いようにしてある。 ークロトドライヴァーの無双シャフトもXSながら高トルクシャフトとなって居りコレが意外に振り易い。ー
2.ヘッド体積は矢張り少ないものよりも多いものの方が楽に飛ばせるようである。 ーそれも本当は重いヘッドで其れを振り切って飛ばす方が飛ぶのである。軽すぎるヘッドでは打球の球質が軽くなり飛ばないとも言える。ー
3.反発規制ギリギリのフェースだからこそ飛ぶのである。 ークロトドライヴァーの場合はルール適合外の高反発フェースだがCT-112の場合はルール適合内の反発力にとどめられて居る。ー
1.長尺の為のシャフトは非常に難しいものですが最近の長尺シャフトは本当に良くなって、まさに長尺であることを意識せずに普通に振るだけで普通に打てるという感じである。つまり昔の長尺クラブのような、長尺用の特殊な打ち方をする必要がなくなったのだ。
2.私の経験では460ccのヘッドは、たとえば少し小振りの425ccのヘッドよりもずっと楽に打てるようになる。ちなみに最近逆に小振りのヘッドも一部のアスリートモデルに設定される傾向が出て来て居るようですが、私の場合はあくまで460ccのヘッドを使っていきたいと思って居る。
3.高反発フェースのドライヴァーは矢張り飛ぶ。ただし、高反発フェースは割れ易いので常に注意が必要である。HSの速い人は特に要注意である。ちなみに高反発フェースには超高反発という仕様もあり、其れを打ってみたことは無いが其れは矢張り飛ぶのであろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1712回) ..2014/07/20(日) 15:42 No.4807 |
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【フォーティーン】特別モデルCT112の使用感について
1.あくまで美しい、良いドライヴァーである。 2.Sシャフト付きの実測47インチモデルの選択は私の場合には正解。実測47.75インチモデルの方はおそらく合わなかったことだろう。 3.されど総合的にはアスリート向けの難しいドライヴァーである。球が曲がり易いヘッドであるということから其のように言える。 4.従って私のエースドライヴァーにはなり得ない存在である。然しインテンショナルに球を曲げてコースを攻めていく上級者には向いて居ることだろう。でもこのクラブをエースドライヴァーとするには、少なくともシングル級の腕前が必要である。 5.打音が素晴らしく、正しく打てれば飛距離も出る。然し芯はそれほど広くはなく意外とピーキーな感じもする。
結論的に、ハイバックで塊感のあるヘッドの場合にはそれほど簡単に打てるクラブにはならないということなのだろう。
ただし、このドライヴァーを打ちこなせるようにしていくという方向性は確かにある。
時間はかかるが、其れは可能である。
だが、すでにアイアンセットの方をナイキのプロコンポに替えて仕舞って居る手前、矢張りもう少し易しいヘッドのドライヴァーでゴルフを追求していく方が私の場合はより楽なのである。
結局楽をして仕舞うということになる訳なのだが、其の楽ということにも実はそうなるべき必然性のようなものがある。
いまどきのゴルフクラブは本当にやさしいのか!? http://www.analyze2005.com/mkblogneo/?p=8058
以上でマーク金井氏が非常に分かり易く現行のクラブを分析して述べて居られます。
要約すると、今時のドライヴァーは慣性モーメントが大きくなり易しくなったように感じられるが其の実はヘッドの挙動をコントロールしにくくなって仕舞って居り、スゥイングの完成していないアマチュアゴルファーにとっては必ずしも簡単に打てるクラブとはなって居ないという内容である。
そしてこれは、実に鋭い、まさにゴルフクラブの真実を突いた指摘である。
私も以前から今のクラブは簡単なようで居て実は難しいのではないだろうかと、そう練習場で球を打ちながらずっと思わされて来て居たのだった。
でも明らかに昔のクラブよりは楽に打て、そして飛距離の点ではまさに桁違いのものが出していけるのが今のクラブなのである。
それでもどうも方向性が安定しない部分があり、特に私のようなスゥイングが真の意味では固まって居ないハードヒッターの場合には其のブレが大きく出て仕舞って居たのである。
このマーク金井氏の鋭い分析も考慮して、結局私は今後プロモデル系のハイバックのヘッドのドライヴァーを使わないことにしていくこととした。
ただし、CT112はあえて球を曲げて打つ時に練習することの出来るクラブだから今後も勿論使っていく。
然しエースドライヴァーはあくまでクロトの方で行くことにしてみた。
実際クロトはCT112と比べると遥かに楽に打て、かつ直進性が良く球が曲がらないドライヴァーである。
私のような方向性に難のあるハードヒッターにはこちらの方が合って居たのである。
とは云え、クロトドライヴァーでもヘッドの挙動のコントロールの難しさからの根本的な方向性の不安定ということは、今時のクラブの特徴として其処にどうしても残って仕舞うということになる。
CT112のように右に左にと曲がるようなスピンがかからなくても、たとえばヒッカケが出たりすることはどうしてもある訳である。
然し、其れは現在のような慣性モーメントが大きいドライヴァーの宿命のようなものであるのかもしれない。
逆に慣性モーメントが小さい昔のドライヴァーはヘッドの返しの挙動を安定させて居られたのだろう。
ただし、あくまでも慣性モーメントが大きい今時のドライヴァーは芯を外して打った場合にもヘッドの挙動、方向性とも安定しているということなのである。
其の代わりに操作性の方がよろしく無いので全部が全部簡単に打てるようになるということではないのだろう。
つまり、より楽には打てるようになったがあくまで簡単ではないという一種ややこしい今時のドライヴァーと云う事になる。
尚ドライヴァーのヘッドは大きければ大きいほど慣性モーメントが大きくなり、それで其処で芯を外して打った場合にも其の時点でのヘッドのブレが少なくなりかつ方向性も安定するということとなる。
つまり重心距離が長い、慣性モーメントが大きいクラブほど球を打った時点での球の軌道は安定し芯を外して打ったとしても飛距離のロスが少ないのである。
このようにこの辺りは完全に物理学の世界となる訳なのだが、言うまでもなく自然科学が提示するところでの部分的真理は此の世で最も正確な物の動きに関する原理なのでもある。
ゆえに現在のゴルフクラブは実はこのように非常に科学的な世界のものともなって居るのである。
ただし、厄介なことに科学上の数値を理想に近づければそれで良いかというと必ずしもそうはならない点が全く不思議な点なのである。
慣性モーメントが大きい打ち易くより楽に打てるクラブを作ったにせよ、其れは反面操作性の悪いクラブとなって仕舞うので打ち方によっては逆に本質的に打ちにくいクラブとなって仕舞うのである。
この辺りは全く面白い。文明批判の方とも一脈通ずる部分のある現象なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1713回) ..2014/07/20(日) 15:42 No.4808 |
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然しながら球を飛ばすには、これは、もう、絶対に最近のドライヴァーの方が有利なのである。
其れがたとえ本質的には操作性の悪いクラブなのではあっても、物理法則の上で客観的真理としてそのことは存在して居るのである。
其れもドライヴァーのヘッドの形状がハイバックになって居るタイプよりもシャローバックとなって居るタイプの方がより楽に球が上がり方向性も良くなるのである。
そうしたことを踏まえて私はクロトドライヴァーの方をメインで使っていこうと決めたのである。
現代のチタンヘッドのドライヴァーは本質的には操作性は良くなく、従って根がそうしたものであるのならばむしろよりオートマチックに打ち易いものの方が良いことだろうと其処で結論づけたのである。
実際に現在練習して居て最も確率が高く飛んで曲がらない球が打てるのはクロトドライヴァーである。
だからクロトの黒い限定モデルの方を是非どこかで探し出して入手しておきたいと思っているところだ。
今は本当に様々なドライヴァーが市販されて居るのだけれど、飛んで曲がらずしかも確率高くナイスショットが可能なクラブを見つけ出すことは案外難しいものなのである。
尚ジオテックのクロトドライヴァーは入手が難しいクラブなのだと言える。
所謂地クラブであくまで全国的には有名メーカーではないこともあり、オークションなどにも出て居る数が少なく安く入手出来ないのである。
私はたまたまオークションで半額で入手出来たのだったが、ジオテックの方で買えば結構高価なクラブとなって仕舞う。
それでも此のクラブはまさにおススメのドライヴァーである。
そして個人的には限定品の方でもう一本是非欲しいクラブである。
ジオテック クロト RE14 SLE (GEOTECH Quelot RE14 SLE) https://www.youtube.com/watch?v=pQkn1UDTr1c ーこちらは限定品ではない黒いクロトドライヴァーー
このクラブの一番良いところは、深重心で慣性モーメントが大きいドライヴァーなのに工夫を凝らし操作性の方を高めて居るところと、もうひとつはヘッドがシャローバックの形状であるにも関わらず今流行りの高打ち出し角で低スピンの打球が出る設計となって居り、ゆえに重い高めの弾道で飛びハードヒットしても吹け上がったりしないところである。
ゆえにシニアのハードヒッターにはまさにピッタリという感じの最高のゴルフギアである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1714回) ..2014/07/22(火) 00:22 No.4809 |
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とは云えCT112は本格性がありかつ仕上げの方も美しい、なかなか良いドライヴァーである。
本日練習場で100球程打ち込んでみて其のように感じられました。
打ち方が真の意味で固まったらむしろこちらの方で行くべきなのかもしれない。
と言うのも、どうもクロトの方を前回褒め過ぎて居たきらいもある。
クロトで分からないのは時折物凄く高い棒球ー所謂フケ球ではないーが出てその時には高く上がる分飛距離は余り出ていないということである。
ただしトータル的に見ればクロトの方向性の良さと飛距離性能は素晴らしい。
或はシャフトが良いので打ち易いのかもしれないのだが。
尚本日の練習はハードなものとなり久し振りにですが何と480球も打ち込んで来て仕舞った。
多分この地域のアマチュアゴルファーの中では今日私の練習量が一番だったのかもしれない。
幾ら練習量が多くてもダメである場合も確かにある訳ですが、私の場合は練習量の多さでもってスゥイングの真理を見極めていくタイプなのでこの位はたまにどうしても必要な量である。
其れもモロに陽の当たる三階打席で五時間位かけてそれだけ打つのであるから一般人の場合はまずこの練習量にはついてこれない。
余程に練習量の多いシングルさんならともかく、普通の人ではまず熱中症でもって確実に倒れることだろう。
私は夏に強く暑さに対しては全くのへいちゃらだから今日のように三十三度の気温の中でもこのように長時間のハードな練習が可能なのである。
お陰で今年はすでに顔や腕が日に焼けきって居て真っ黒だ。
しかも私は其の480球のうちの300球位をすべてドライヴァーショットのフルスイングで打って居るのだから其の運動量と発熱量は半端ではない。
其れもまるで鬼のような形相をして、首には土方のようにタオルを巻いて、しかも右手にも手袋をしてというまさに土木作業のオッサンのような出で立ちでしこたま球を打つのでどうしても場から浮くというか目立って仕舞う。
ー実は実際に練習場のすぐ横にあるワークマンで手袋を買って来て居る。右左セットで薄い豚革の白い物がたったの三百円である。しかも見たところは完全にゴルフの手袋にしか見えない。私は練習量が並ではないので手袋が破れるのも早く、それでそうしたものを探し出して使って来て居るのである。ー
私のゴルフはそうした実に泥臭いもので、だから知的にお上品にプレイしましょうなんてのは我慢がならずそのようにドロドロ、ボロボロになりながらゴルフスゥイングの真理を見極めていくのであり、まさに其れは闘いであり真理への道程であり修行の世界のようなものなのである。
今日は打ち方が比較的良かったのかほとんど疲れて居ないので先程花火も見て来た。
天白川という川の土手から其の花火が見られるので自転車で行き見て来たのである。
其のようなことをして居るとやはり夏は動いて居るに限るとそう思うのである。
通常良く考えられるような暑いから動かないというのは、実は体に良くないのだ。
夏に汗をかき切る程に運動すると私の場合は至極体の調子が良くなるのである。
逆に冬は寒いから動けない。
然しながら其れこそが自然の摂理というものではないのだろうか。
もっとも私の場合は冬でも勿論ゴルフの練習である。
大晦日や正月の三が日などは極寒の中半日位かけて球を打って居る場合さえある。
ところでゴルフは藝術であり宗教であると突然私が言い出すと皆様はついに私の気が狂ったのではないかと思われるのではないだろうか。
然し、ゴルフとは本当に藝術であり宗教なのである。
今日練習をしながらふいにそう思い至ったのである。
謂わばゴルフスゥイングの真理を個別にイメージ化することは創造的行為であり其処で成ったイメージは個性による作品である。
ゆえに其の作業は藝術に於ける創造の過程とほとんど同じ様なものである。
また其のイメージはゴルフスゥイングに於ける客観的普遍的真実と乖離するものであってはならない筈で、其のように其の創造物もまた真理という大枠で規定されているのであるから其れは宗教に規定されし創造的行為のようなものでもまたあり得るのだ。
だからゴルフとは本当に藝術であり宗教なのである。
なので結局ゴルフは私に向いているのかなあなどと今日少し思ったりも致しました。
さてまたあれこれと旧モデルドライヴァーの長尺仕様物を試してみようとして居る私です。
次に試してみるのはマルマンのLX460という旧モデルドライヴァーの47インチ仕様である。
なぜならマルマンのクラブを外すわけにはいかず、其れでオークションで探して居たらたまたま47インチへシャフトを延長したものが出ていたのであった。
このドライヴァーは46インチシャフトなら安くしかも沢山オークションには出されて居るが、47インチへシャフトを延長したものはこれ以外にはまず出て来ないことだろう。
其れを今週中に打ってみるつもりである。
ちなみにドライヴァークラブの追求からマルマンのクラブを外すわけにはいかない理由は、三十年前、私はマルマンのパーシモンヘッドのドライヴァーでゴルフを覚えたからなのである。
マルマンのクラブは其の時以来だからもう本当に懐かしい感じがして居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1715回) ..2014/07/22(火) 00:23 No.4810 |
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HONMA BERES S-03 http://www.honmagolf.co.jp/jp/item/club/driver_s_03.html
また他にもこんな魅力的なモデルもある。
何故魅力的なのかというと、昔から本間のクラブはゴルフが良く分かった人の為のゴルフギアであるということが良く云われたりして居たものだから結構興味深いのである。
丁度万年筆が良く分かった人はモンブランだとか何だとか、そんな風に良く云われたりして居ることと同じで、何でか良く分からんが兎に角本間のクラブは本物のクラブで高級かつ値段が高いという感じが若い頃からしていたものだった。
其れが、最近仲が良くなったS氏ー職場の同僚ーの使用クラブが其の本間のクラブだったのである。ードライヴァーとアイアンのすべてがー
S氏は流石に元管理職の方らしく色々と趣味が高級で、それと兎に角ゴルフが大好きで年配者の割には練習量が多い方のゴルファーである。
其れでいつかこの方と共にコースへ行くということになって仕舞ったのだが其れがいつのことになるのやら、何せ私自身としてはまだOKが出せて居ない状態なので当然すぐに行くという訳にはいかないのである。
S氏が現在使って居られる本間のアイアンセットは15年位前に80万円もしたクラブだったそうだがそういえばそんな高いクラブが本間には常にあったような気がしている。
ドライヴァーの方は或は上のものなのかもしれない。
S氏は私よりずっと年上の方なので、つまり爺さんの方に近い方なので飛距離の方は私やO先生の比ではない。
でも練習量が多いからか流石に良い球を打って居られる。
だから多分今すぐにコースへ出ればスコアの上ではおそらくかなわないことだろう。
何せ月に二、三回はコースを回って居る方なのである。
そんな訳で最近何故か本間のクラブの世界にも興味が出て来て仕舞った。
本間のドライヴァーは良く飛ぶと以前から云われて来ており、実際にドラコンプロなどが屡使ったりして来て居るそうである。
でもどうも本間のクラブは高級志向が強くしかも小金持ちのオジさんゴルファーが使うというイメージがあり、其れで結局私とは無縁の世界のものだと思って居たのだったが何故だか急に私の方に近づいて来たのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1716回) ..2014/07/23(水) 23:41 No.4811 |
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マルマンのLX460 47インチシャフト仕様の使用感について
1.アベレージゴルファー向けのフックフェースの薄型セミシャローバックヘッドでしかもヘッド重量が軽くおまけに10.5度ロフトなので実に楽に打てる。 2.47インチシャフトはSRのフレックスの軽いシャフトなのでこちらも楽に振り切ることが出来る。 3.ゆえに私にはスペック的に少々プアー過ぎた。球が上がり過ぎるし全部フックの球が出る。 4.ただし飛ぶ。今までのドライヴァーで一番飛んで居るのは確かだ。 5.物凄いフックで天白練習場のネットを攻めると中段から上段へと吸い込まれていく。
1.球を飛ばすことだけを考えるとディープフェースでハイバックの分厚いヘッドのドライヴァーよりもシャローバックでヘッドの平たい形のドライヴァーの方が或いは飛ぶのかもしれない。 2.47インチシャフトはSRだろうがSだろうが振り切れれば全部飛ぶものだ。ただし私の場合には出来ればSの方がより望ましかった。 3.が、実は自分にとって楽なスペックのクラブこそが飛ぶのである。何故かというとより速く鋭く振り切れるからなのである。重量にしても、このクラブ は301gと長尺にしても私には軽いクラブだから一発目からブンブン振り回せたのである。 それで、いきなりネットの中段に突き刺さる球が出た。その後は軽過ぎることが分かり、それでもお構いなしに振っていたところ、物凄いフックの球筋になって来た。 其のどフックでネットの中段に突き刺さる球は下手をすると実測で280Y位は飛んで居る可能性もある。
6.ただし球が吹け上がることも屡ある。其の場合は勿論飛んでいないということになる。 7.所謂チーピンも出る。ゆえに危険なのでコースでは使えないドライヴァーである。謂わば私にとっては練習場用のドラコンクラブである。
本日先程迄天白練習場三階打席においてLX460で打っていたところ、子供連れのお父さんーそういえば丁度夏休みだーが通りがかり私の打球を暫く見ていたが二人共凄い!を連発して居た。
さてここでひとつ重要な側面が出て来たのである。
プロモデル系のディープフェースでハイバックのドライヴァーは本当に飛ぶと云えるのだろうか。
試しにCT112を打ってみたところ、低い弾道で強い球が打てるが矢張り結構難しい。
このクラブを打ちこなすには基本的に高い技術が必要なのだ。
それでもついにスゥイングが固まったと云える私には勿論コレで行くことも出来る。
そう、ついにスゥイングイメージに於ける迷いが無くなったのである。
全てが分かった。
スゥイングを悟った。
ついに成道した。
ああ、ついに我はゴルフの仏陀となった。
ゴルフの仏陀は凄い球を放つがそんなことはこんなネットなどで述べて居るよりも実物を見て頂ければ其の凄みと其処まで仕上げていくに至った努力の凄まじさの両方を実感出来る筈なのである。
だから私はもうじきにネットからはサヨナラして本気でシングルさんを目指してやっていくんだよ。
多分もうじきコースへも出るようになるのだろうし、ひょっとすると競技会などへも出るようになるのかもしれない。
さて15年位前のことだったか、当時あの小松製作所の所長にまでなっていた叔父が胃癌で入院して居たのであった。
その更に五年ほど前、たまたま家へ来た叔父と天白練習場で一緒に練習したのである。
其の折に叔父は私のロングアイアンでのショットに目を丸くして居た。
普通は皆上手く打てない筈の4Iを○×はそこまで打てるのか。
私が病院へ見舞いにいくと、叔父はまるで死を覚悟するかのような顔をして居たが、私には一言、もし命が助かったらゴルフをしこたまやりたい、とそう言っていた。
叔父は其の後命が助かり、現在も勿論元気に存命中である。
仕事の方はもう随分前に定年を迎えたが、其の後は数々の競技会にも出て、まさにゴルフ三昧の日々を貫いて居るようである。
この件から私は、時にゴルフという遊びは生き甲斐にもなり得るのだと悟った。
場合によっては男が其処まで打ち込めるスポーツなのである。
「100を切れば友達なくす。90を切れば家庭をなくす。80を切れば仕事をなくす。しかし70を切れば全てが戻ってくる。」とゴルフの世界では屡云われていたりもします。
ゴルフは其処まで人を虜にするスポーツでもあるということなのである。
実際いかにも家庭を大事にする良き旦那様といったような人でゴルフの上手い人を見たことがありません。
小金持ちでもない限り、普通のサラリーマンの家庭ではゴルフはまさに敵なのである。
実際ゴルフは金食い虫で、それも毎年次から次へと高価なクラブが出されて来ますので其の代金だけでも大変なのに、其れに加えて練習場の練習代やコースでのプレイフィーがかかって来る、のみならずガソリン代や高速代や食事代、その他諸の金がかかりこれはもうとんでもない散財が強いられるスポーツなのだ。
それでもゴルフは楽しい。
やって居る本人にとってはもう最高に楽しい。
特に家庭を持たない私には誰にも迷惑をかけずゴルフを続けていけるであろう権利が何よりあろう筈だ。
また其れと同時にゴルフ道を全うするという義務をも負っている筈なのである。
だからこれまで私は本当に頑張ってスゥイングを磨いて来て、其れがついに完成したということなのである。
ちなみにゴルフの話の最終回に其のスゥイング、またはスゥイングイメージについて少しだけ述べたいと思って居ります。
さて、スゥイングイメージが真の意味で完成した私のスゥイングはほぼ固まった。
だから現在は基本的にどんなクラブでも打てる。
昔のクラブだってそれなりに打てるのだし、今のクラブで難しいクラブにしても勿論それなりに打てる。
私にとってはアンダースペックだったマルマンのLX460の長尺モデルにしても、打ち方を少々細工して打てない訳でもない。
LX460は或はドラコン専用、練習場専用のドライヴァーとしては一番面白いクラブなのである。
何せ其の打球を見て皆が驚いて呉れるので其れは大層嬉しいクラブなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1717回) ..2014/07/23(水) 23:41 No.4812 |
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それで今日考えて居たのは前回までの考えとはまた全く異なり、プロモデル系のディープフェースでハイバックのモデルでもある程度楽に打てるものはあるのではないかということである。
と言うのも、シャローバック系のヘッドのモデルは楽には打てるのだけれど時折飛んでもなく上がるー所謂吹けるのではないのだがー打球が出て仕舞うのである。
パワーヒッターである私にとっては其れがどうも気持ちが悪い。
で、実は昨今其のディープフェースのモデルでも球が楽に上がるようにしてあるドライヴァーが色々と出されて来て居るのだ。
もっともCT112の場合は特に球が楽に上がるという訳ではないのですが、たとえばマルマンにはLX DEEPというモデルも過去に市販されていて、其の試打インプレなどを読む限りは其れが至極簡単に打てるディープフェースのドライヴァーになって居るものらしい。
そういうのも良いが、いっそのことマルマンのプロモデルの方などはどうなのだろうか。
Conductor PRO-X DRIVER https://www.maruman-golf.jp/product/conductor/conductor-pro-x-driver/
う〜む、やっぱしコレでしょう。
まさにシンプルで美しい。そして黒くて強そうだ。
コレに47インチのシャフトを仕込み是非入手したいところだ。
コレが手に入れば、合っても合わなくても、ひとまずドライヴァークラブの追求も終えるということになるのだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1718回) ..2014/07/26(土) 23:22 No.4813 |
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Conductor PRO-Xの方へ気が向いて居た矢先、ふいに500ccデカヘッド ドライヴァーの追求をしておかなくてはならないことに気がついた。
というのも、ドライヴァーのヘッドは大きければ大きいほど慣性モーメントが大きくなり、それで其処で芯を外して打った場合にも其の時点でのヘッドのブレが少なくなりかつ方向性も安定するということとなるからである。
つまり重心距離が長い、慣性モーメントが大きいクラブほど球を打った時点での球の軌道は安定し芯を外して打ったとしても飛距離のロスが少ないのである。
ただし、重心距離が長いとクラブとして本質的には操作性が悪くなり打ちにくくなる面もまたある。
ではあるが、実感的には重心距離が短くヘッドの小さいドライヴァーというのは芯が狭くて当てるのが難しいし飛ばないしでもはや現在では使う意義が見いだせないものである。
其れ等のクラシックなドライヴァーは、丁度あのL.E.WatermanやONOTOなどの古典の萬年筆が現在では実用品とは捉えられて居らず、ごく一部のペンマニアの間でのみ日々使われて居るのと同じ様なものなのかもしれない。
だから本質的にはむしろ其の古いモデル達の方が現行モデルよりもずっと本格性がありかつモノが良いのだとしても、何でもそうなのだが文明の進歩と共に生み出されて居る物こそが其の時代にとって真の意味で合って居るのでありかつ使い易く出来て居るのである。
そして特にゴルフのクラブの場合は其の傾向性が顕著に見られるのだと云える。
万年筆の場合、戦前の萬年筆なども机上に限定して使えば意外に扱い易く書き易いものなのだが、ゴルフのクラブの場合昔のクラブは操作性の方は良いにしても兎に角飛距離が出ないので其の点では現行クラブとは比べ物にならないのである。
それと需要量が違うのだろうと思う。
ゴルフは比較的メジャーなスポーツで道具は次々と進化していくのが必然のこととなっているのだが、万年筆は現在では一部の筆記マニアに愛好されて居るだけなのであろうから其処で始終変わる必要などは無い。
ということは500ccデカヘッドは多分かなりに操作性の方は悪くなることかと思うが、 実はこの性質自体は私にとって大きな問題となることではないのである。
なぜなら私は現在もゴルフの上級者などではなくただドライヴァーショットでの飛距離を追求してーそのこと自体を楽しんで居るー居るだけなのである。
前回はついゴルフの仏陀になったなどとつい大きな口を叩いてしまったのだが、本当は型で打つ其の型がようやく分かったところの中級者の端くれ位だろうと思う。
ただ、ゴルフ歴の方ばかりは結構長くやって居る訳である。
其れで運動神経が凡庸の割に努力は重ねて来たのでゴルフスゥイングの真理の方へ其の努力がようやく届いて来たのであろう。
操作性の悪い、しかもヘッド体積の容量の規制-460ccまで-を無視した500ccデカヘッドは元々ルール違反なので競技志向の強い上級者のゴルファーにはほとんど興味を持たれて居ないものだ。
ただ、私は今其の上級者では無いのだし、でも腕的には上級の門を敲いても居る訳で従ってやがては其の上級の世界のクラブで長尺化してみたいと思っては居るのですが現在は逆にオートマチックに真っ直ぐ打ててしかも滅茶苦茶に飛ぶクラブを探して居るだけなのである。
すると、うまいことにイオンスポーツにFAIRLINE 500という47インチの長尺クラブが出されて居て、しかもコレがあらゆる面で飛ばしに特化して居るモデルであることが分かった。
イオンスポーツ FAIRLINE 500 http://www.eon.co.jp/fairline/ http://www.eon.co.jp/fairline/performance.html
ここに、抜群の直進力とあるところがまず大変魅力的である。500ccデカヘッドは 460ccヘッドより慣性モーメントが大きくなり、それで其処で芯を外して打った場合にも其の時点でのヘッドのブレが少なくなりかつ方向性も安定するということとなる。 さらにより重心距離が長い、慣性モーメントが大きいクラブとなる訳なので球を打った時点での球の軌道は安定し芯を外して打ったとしても飛距離のロスが少なくなって居る筈である。
飛距離が出る方ではあるが方向性に難のある私にとってはそうした特性、性質は大きな味方となってくれよう筈だ。
ちなみに他にも500ccデカヘッドのドライヴァーは二種程みつけたのだったが、其れ等はシャフトが長尺化されて居ない為おそらく余り飛ばないことだろうと思われる。 500ccデカヘッドは空気抵抗も大きくなるので短いシャフトで目一杯に振ってもHSは速くならないのではないだろうか。
FAIRLINE 500の場合も超高反発フェースで500ccデカヘッドなので本当は規制値ギリギリの48インチも選べるようにして欲しかったところだ。
ただし47インチの方がミート率が上がり操作性の方も多少良くなろう筈なのである。
だから一概には言えない部分ではあるのですが、飛ばしということに限定すればどうも48インチにしておいた方がより面白かったのではなかろうか。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1719回) ..2014/07/26(土) 23:23 No.4814 |
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さてこのクラブはヤフオクの方に安く出されて居たから其れを本日落札したところである。
全く煩悩目一杯に振り回されて来て居る感じの昨今ではありますが、其れもこれも最後の飛ばしの追求の為にということなのである。
ーそれでもあくまで低予算で追求して来て居る。多分コースへ三回行くよりも安上がりでの追求である。ー
ただしこのクラブで気になるのは285gという軽量クラブであることなのである。
其の軽さが私に合うかどうか、然しもし軽過ぎるのであればヘッド又はシャフトに重りを貼るだけなのではあるが。
いずれにせよ、飛ぶクラブの追求に於ける要件は以下の点に集約されて来るのである。
1.長尺化によりHSの増加をはかること。 2.高反発ないしは超高反発フェースであるか高強度、高硬度のフェースであること。 3.ミート率を下げ過ぎない実用性を両立させたクラブであること。
1.47インチの長尺化により確実に飛距離は伸びる。ただし47インチのクラブを振り切れるパワーがあり、かつスゥイングが最低限固まって居ないと長尺ドライヴァーを使いこなすことは難しい。 2.超高反発フェースは薄肉化により割れる可能性もまたある。だがもし割れるのだとしても矢張り飛ばしへの追求を止める訳にはいかない。 3.クロトやこのFAIRLINEの直進性は相当のものがあろう筈だ。むしろ逆にプロモデル系のヘッドのものよりも易しく打てるのであろうから私にとっての実用性はこの種のクラブの方が上となることだろう。
そして今後私が行っていくことだろう飛ばしの追求を纏めてみた。
T.FAIRLINE 500を兎に角打ちこなしドラコン用のエースドライヴァーとなしていくこと。 U.直進性の高い三角形ヘッドに以前から興味があり、テーラーメードなどのその種のクラブを長尺化して使ってみること。 V.マルマンのプロモデルの方にもまだ未練があるのでそちらの方もまたそのうちに何とかしておきたいとは思う。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1722回) ..2014/07/29(火) 23:20 No.4817 |
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何より道具の追求を行うという趣味である点が万年筆の趣味とゴルフの趣味との根本的な共通点である。
万年筆にも道具が合う、合わないということが明らかにあることと同じくして、いや、其れ以上にゴルフの場合には道具が合う、合わないということがよりシヴィアに現れて来るものだ。
が、道具を使う基本としての使用者の技術ということが問われて来るという意味に於いても両者は共通して居り、特にゴルフのスゥイングの場合には完成させることが非常に難しいので上級者程に突き詰めていかないとまるでなって居ないということでそのまま一生終わって仕舞いかねないものなのだ。
万年筆の方も上級者の方々は書道なり硬筆習字なりを履修された方々で、其れでもってどんな万年筆でもって文字を書くにしてもいつも大体同じように美しい日本語を認めていける能力があろうというものだ。
上級者とはそういうもので、単に物質的な面での知識だけではそうはなれないものなのである。
技術が伴ってこその其の道に於ける上級の人々なのである。
ところで、実感的には私にとって万年筆での筆記はむしろ簡単なのだけれどー何せ筆で書く方が余程に難しいのでー、ゴルフのスゥイングの場合は矢張りどうしても難しい、全体こんなに難 しいものが他に此の世にあるのだろうか?、其れはひょっとするとどんなことよりも一番難しいことなのではないのか、などといつもそう感じられて来て居るのである。
其れでゴルフのスゥイングというのは、要するにコツで打つもので完全なコツ打ちのことである。
万年筆の筆記で喩えるならば、其れはカリグラフィーでの書き方のようなものである。
だから其れは一種の高等技術を伴うものなのである。
勿論誰にも出来るというものではないのだ。
カリグラフィーというものは、筆記上の技術ーコツーが得られぬ限り成らない筆記上の表現なのである。
ゴルフのスゥイングも本質的にはそういうもので、スゥイングの上での技術が無くば決して完成されることの無いコツ打ちとしての運動上の表現のことである。
其のコツのイメージを合理的に、或いは客観的に分かる言葉で言い表すことは実はかなりに難しいことである。
多分一ゴルファーが悟った内容を普遍性を持つ言葉の段階へと翻訳していくことが難しいのだろう。
だからプロゴルファーなどでも其れを一言で言い表して呉れる事を期待するべくもないのである。
其れで大抵は其の悟った内容を部分的に分解し、所謂部分論が展開されていくこととなる。
プロや上級者のレッスンというものはそうした類のものが多いことだろう。
勿論一言で云って居る内容が無いとは言えない訳ですが、それでも大抵は部分的かつ複雑な教えに終始され我我アマチュアゴルファーには其れが煩雑過ぎ余計に訳が分からないものになって仕舞う事が多い。
其れで、私の場合は前々から語って居るように、幾つもの正しいイメージの集積ではなく、一言だけ、其の一発だけの単純明快なイメージでもってゴルフのスゥイングを完成させようとして来たのだ。
ズバリ言えば、其の究極のイメージとは、上から下へ落とす、というものである。
其れもバックスゥイングの開始と同時に上から下へ真っ直ぐに動かすのである。
然し何で上から下へなんだ、バックスイングの始動とは、腕を上げていくのだからむしろ下から上へ、ではないのか?
いや、結果的に腕は確かに上へ上がっていくのだけれど、あくまで其処で腕を上げていくのでは無いのである。
何故なら実は腕を上げていくと腕が体から離れつまり浮き、クラブが正しいスゥイングプレーンには乗らないのである。
だから其処を逆に捉えるのだ。
腕を上げるということは、むしろ肩を下げるということなのである。
つまり左肩の方を下げていくことなのである。
だから腕などはむしろ初めから意識して居ない方がよろしい。
のみならずクラブも手も全く意識しない。
さて、ここでアドレスの形を作るとしてみよう。
其れも分かり易くする為にドライヴァーショットでのアドレスの形を作る。
すると、自然と左の肩の方が上がって居て右の肩の方が下がって居る形となる。
次にこの位置関係の落差を頭の中で増幅して捉えてみる。
すると相当に高い左肩の方から 地面の右肩の方へと崖が出来て居るというイメージが組み上がる。
其の落差を飛び降りるのだ。
誰が飛び降りるのかというと、勿論人間がという訳ではなく左肩自身が飛び降りるのである。
其の飛び降りは必然的に一直線となり放物線でもなくまた他のややこしい曲線でも無い。
だから至極簡単なのだ。
非常にシンプルな直線打法なのである。
左肩が崖を飛び降りて右肩の地面の位置へと動くのである。
そしてこれこそがバックスゥイングの始動からトップへかけての運動の要領である。
尚飛び降りて居る時には自然落下の状態にあるのでどこぞに変な力を入れている必要などはどこにも無い。
兎に角一直線に上の左を下の右へと下ろす、ないしは飛び降りる。
或は其処では左と右が重層的に重なっているものとして、其の落差を上の左から下の右へと落とすと考えてみても良いことだろう。
兎に角左肩と右肩の位置の落差を実際よりも増幅して捉え其の落差を直線的に落としていくということこそがこの打法のミソの部分なのである。
すると腕は其の肩の直線運動につれて自然に上へ上がっていく。
其の場合に腕が体から離れるというアマチュアゴルファーに最も多い悪癖を治すことさえ出来る。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1723回) ..2014/07/29(火) 23:23 No.4818 |
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そして此の打法を実践すると上級者のスゥイングへと自己流のスゥイングが矯正されていくこととなる。
すると、まずミート率が上がり良い当たり、良い打感、良い打音、がずっと続いて出せるようになって来る。
それから芯に当たる確率も高まるので平均飛距離も伸びる。
要するにまさにそういうことなのである。
私が前々からインテリのO先生に語って居たのは、ゴルフのスゥイングを真の意味で完成させるには是非直線運動のイメージが必要であろう筈だということなのであった。インテリでもO先生は其れを聞いてチンプンカンプンに思ったそうなのだが、私には自称の詩人としての直観によりすでに其のように捉えられて居るものなので其れはもはや真理そのもののことなのである。
其れで近く真理の直線の具体的なイメージというものが分かることだろうと思っていたのだったが、案の定其れがこの七月になって私のもとへと舞い降りて来た。
通常ゴルフスゥイングというものは、直線ではなく回転だとか弧であるとか兎に角其のように曲線のイメージでもって捉えていられ易い。
またスゥイングの弧とはつまりは円周のことなのであり、無論のこと其れも明らかに曲線なのである。
然し、其の曲線のイメージでゴルフのスゥイングを捉えていくことは誤りである。特にアマチュアゴルファーは、其の誤った曲線のイメージでもってゴルフのスゥイングを捉えていくことが多い故に真の意味での己のゴルフスゥイングを完成させられないのである。 実際ゴルフスゥイングというものは上級者のレヴェルに於いては直線的なイメージでもって語られて居ることが多い。
曰く、手首は縦に使う、グリップエンドを地面へ向かって真っ直ぐ落とす、或は腰を切る、クラブーシャフトーを立てて振る。
などとは屡云われて来て居ることなのである。
故にアマチュアゴルファーがあの宮里藍のように大きなスゥイングアークでもって曲線的に大きなスゥイングをしようとしたら其れは大間違いだ。
大きなスゥイングアークとは実は小さな、そして鋭い動きから生まれて居るものなのである。 昔から上級者の間ではクラブを小さく振れ、短い腕で振れ、などと云われて来て居るのも其のようなことを言って居るのである。 凡人ー此の場合には運動神経のーはむしろなるべく普通そうなるであろうからそのようにしたいと思って居ることの其の逆を考えてみた方が真理の方角を向いて居る可能性が高いものでもある。
尚、私は昔から曲線よりも直線の方が好きで、 しかも何に対しても真っ直ぐで直情的、人にお愛想が言えず誤魔化しが効かず直接に何かを鷲掴みにしたい性分なので其処を誤解されて人に敬遠されて仕舞うことが実は多い。ー 本当は人よりは少し純粋なだけなのであろうが。ー
だからどんな真理だって直接に真っ直ぐに鷲掴みしたいんだよ。
仏法の真理も、世の中の真相も、万年筆の真理も、ゴルフの真理だって本当は皆そうなのさ。
そういうことで、我がスゥイングイメージは之でもって成った。
スゥイング中は何せ肩が直線運動して居るだけだから当たりが良くなり、結果随分上手くなれたのである。
尚、今回私が述べたのは上級者としてのゴルフのスゥイングの完成の世界へ入っていく為のスゥイングイメージについて述べたのである。ゆえにこれまでに私が此処で語って来たスゥイングイメージとは畢竟其れは中級者の為のスゥイングイメージにほかならなかったものである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1725回) ..2014/08/03(日) 18:29 No.4820 |
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さて私は本日もまさにスポコンゴルフを貫いて来て居ります。
午前中から五時間近くもかけてまた練習場で480球を打ち込んで参りました。
私はアマチュアゴルファーの割には練習が苦にならずむしろ大好きですので練習量が並ではないのです。
其れで本日はドライヴァーの打ち方の二種を試して居りました。
FAIRLINE 500の打ち方としては、先に述べた上から下へという打法、平たく言えば断崖飛び降りという打法を行います。
ただし他のドライヴァー用には、もう少し正確性の出せる打法を新たに開発致しましたが、此れは言葉で説明することが非常に難しい打ち方なので此処には書けません。
其れで今のところFAIRLINE 500以外のドライヴァーでは非常に精度が出て正確に打てるようになって参りました。
それもこれも、スゥイングが本質的に良くなったということが其処に示されて居るのです。
其のようにスゥイングが本質的に良くならないとゴルフなんて絶対に上達しません。
例えばコースにばかり出てコース慣れしてスコアが少々縮まったにせよそんなものには限界があります。
其のようにスゥイングの本質の部分を突き詰めていかないと決して本質的に上手くなれないのがゴルフというスポーツの特徴です。
本質の部分を突き詰めていくのはコースへ出ることでそうなるのではなく、まさに練習、練習で沢山球を打つことから次第に分かって来るものなのだと思われます。
さて、FAIRLINE 500ドライヴァーですが、これはまさにとんでもないドライヴァーでした。
良い意味でもまた悪い意味でも。
当初はこれが滅茶苦茶打ちにくいクラブに感じられた。
何だか分からないが兎に角打ちにくい。
私にとってはなかなか良い当たりが出ないクラブであった。
つまりはこちらの予想、予測とは正反対の性格を持ったクラブであった。
フェース面がシャロー過ぎて、つまり横長に過ぎる為打ちにくいし当たっても球が高く上がり過ぎて仕舞う。
其れで、他のドライヴァーを打ってみると皆楽に打てる訳です。
もっともCT-112だけは少し難しくなるが、クロトなどは特に楽に良い球を放つことが出来る。
つまりコイツが一番厄介なクラブだったのだ。
幾ら頑張って振っても当たらないわ、当たったとしても高く上がるだけで飛ばないわでまさに最悪の選択を行なって仕舞ったかのように見えた。
然し、である。
それでは困る訳である。
折角買ったクラブがそんなことでは全く困る。
此のFAIRLINE 500は47インチシャフトですが他の47インチシャフトと比べると僅かに長めであり其処は好ましい部分だった。
然しヘッドの方が兎に角難しい。
長尺で大きいヘッドなので或はヘッドの返りが遅いのか、また空気抵抗も多そうなので意外に振り切れないクラブなのだった。
其処で、ひとつの打ち方を今試して居るところである。
其れは先にも述べた断崖飛び降りというバックスゥイングのことではなく、ダウンスゥイングでの打ち方のことである。
是れを完全に上級者の打ち方でもって行う。
具体的にはクラブをインサイドから右の真下へと落としていく。
逆に言えば其れは左の方ー球のある方ーへは振らない、クラブを落とさないということなのである。
其れをやらないとこのクラブからは快音が響かない。
だからこそ難しい。
然しだからこそ此れは正しいクラブなのである。
つまり誤魔化しの効かないクラブだったのである。
おそらく上級者やプロには打てても、アベレージゴルファーには難しいドライヴァーだったのである。
然しながらFAIRLINE 500の価値とはまさに其処にこそあるものだったのである。
此のクラブを打ちこなすことが出来てこそ真の意味でスゥイングを完成することが出来るということなのである。
従って自分にとって楽に打てるクラブのみが価値のあるクラブであるとは言い切れないのである。
こうしたゴルファーの技量を試すかのようなクラブ、或は自己の技量を押し上げていって呉れるようなクラブこそが本物のクラブなのだとも言える。
尚この夏場に五時間近くもかけて練習場で480球を打ち込むことは確かに大変なことではあるが、其のように懸命に練習すること、そうしたハードな練習を重ねることで見えて来る世界というものは確実にあるということなのだ。
そうした練習のさ中からこそ様々なことが分かって来るものなのである。
練習しなければ全く分からないことも、練習して居れば全てが分かって来るということは確かにある。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1726回) ..2014/08/06(水) 00:15 No.4821 |
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さて以前に手に入れたEバランスのオノフ ドライヴァーですが、之が実は秘密兵器です。
中古 リシャフト◆オノフ TYPE-S ドライバー 2012◆9°無双XL/XS http://page14.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s387241794
どのような意味で秘密兵器なのかと言えば、これこそが振らないクラブで重みで飛ばすという意味での秘密兵器です。
其の部分を分かり易く説明します。
私は高校生の頃から二十代の半ば頃までバッティングセンターへ通うことが運動系での唯一の趣味でした。
元々詩人肌の性質の人間なので運動は余り好きだとは言えず、運動部を経験したのは高1の頃に無理やり担任に入れられたハンドボール部だけでしかも其処は夏休みが終わるとやめてしまいました。
然しこの時に経験した運動部の練習の厳しさは一生の思い出としていまだに脳裏に焼きついて居ます。
特にこの八月の暑い日にゼイヨウ、とか何とか掛け声を上げながら十キロ位走らされたことはもう本当に苦しいことだった。
其の時に経験した運動による肉体の苦しさというものは今までで一番辛いものであった。
それですぐヘコタレた訳です。
何せ私は根が詩人なのでそんな運動ばかりやって居る暇など本当は無く、家へ帰れば読むべき文学書が山積みになって居たりして居る訳で、是非そちらの方をやらないと今のようにこうして自称の詩人など名乗って居られなかったのですから矢張り其のようにしたことの方が正しかったのであります。
ただし、野球は好きでした。
それで週に一、二度はバッティングセンターへ通いしかも三箇所程色々な所へ通うといった凝りようでした。
バッティングセンターでは私は長距離ヒッターで良くホームランの場所に当てたりして居りました。
しかも145キロとか150キロといった速球を打つことが得意であった。
ところがゴルフに転向してからは120キロの球も当たらなくなり、のみならず当たっても全然飛ばなくなって仕舞いました。
だからバッティングとゴルフのスゥイングは似て居る部分も確かにあるのだが全く違う部分も矢張りあるということなのでしょう。
ただしパワーヒッターであることだけは昔も今も変わりがありません。
其の速球打ちで私は最も重いマイ金属バットを持参して打って居りました。
私は其の道具の重さを利用してエネルギーの強い速球を跳ね返して居たのです。
そういう打ち方が得意だったということなのです。
ところがバッティングセンターには逆に軽いバットが多く置かれて居た。
150キロもの速球は、一般人が打つ場合軽い道具でないと速く振れないからなのでしょう。
然し私は其れで打つとまるで飛ばなかったです。
あくまで私の打ち方はそういう打ち方ではなかったということなのです。
そしてゴルフの場合にも私はヘッドの効いた重めのクラブを扱うことには長けて居ります。
だからこそEバランスのオノフ ドライヴァーをわざわざ落札して置いたのです。
それで、このドライヴァーの打ち方ですが、かって私が速球を打って居た時と同じようにクラブーヘッドーの重量を利用した打ち方をして居るのです。
すなわちインパクトの瞬間にだけ其の重みをぶつけるような打ち方を意図的に行なって居るのです。
ということはスゥイング中他のところには全く力を入れていないということです。
例えば釘を打つときには力を入れて居るようで居て実は釘の頭を打つときにだけ最大の力が加えられて居る筈なのです。
平たく云えば其のような打ち方に近いのだと言えます。
其の打ち方で打ちますと、オノフ ドライヴァーは全く素晴らしいクラブとなります。
方向安定性とスゥイングの再現性に優れ、またヘッドがセミアスリートモデルで易しく打てかつ球も楽に上がって呉れます。
従ってコース用にはこのオノフ ドライヴァーが最も向いて居ると考えられます。
確かにクロトの方向安定性とスゥイングの再現性、飛距離性能は素晴らしいものがあるが、叩けるクラブなので無理をして叩くと左へOBを打つ可能性もまたあるクラブだ。
然しオノフの方はハードな仕様で叩こうにも叩けず、従っていつも安定した脱力一点入力打法でいくほかなく其れでスゥイング的にも最も安定して居るドライヴァーだと言える。
またSXの無双シャフトは46.5インチで今の私の感覚からすれば短めで操作性の方も高い。
だからまさにコース再デビューの際にはうってつけのドライヴァーなのだと考えられる。
尚この釘打ちの要領での打法ですが、本来ならばゴルフのスゥイングとは皆此の釘打ちの要領で打つべきものなのです。
其れは止まって居る球を打つ運動であるからです。
対して野球のボールは飛んでくる球を打ち返す運動なので其処に根本的な違いがあります。
さて、両者ではどちらがより難しいだろうかということが屡論じられて来たりもして居るのですが、そこからの印象ではどうもゴルフの方がより難しいと捉えられて居るような気が致します。
要するにゴルフボールは無から有を生ずるが如くにほかでもない個々のゴルファーが其の運動に生命の全てを与えてやらねばならないという点に於いて難しいのだと云えます。
ゴルフのスゥイングとは要するに釘を打つ方向性を九十度変えたものなのだと思われます。
だから本当はすべからく此の釘打ちのような打ち方でもって球を打っていくべきである。
其の事は軽いクラブではなかなか分かりませんが、ハードなスペックでヘッドが重いオノフ ドライヴァーは其の事を否応なく意識させられる仕様に仕上がって居るのです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1727回) ..2014/08/07(木) 23:29 No.4822 |
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さてFAIRLINE500の打ち方が分かった。
其れはこのクラブに対する固有の打ち方では無く私のスゥイングがおかしかったのを直した形で分かったのである。
だから他のクラブも皆そちらの打ち方に移行した。
ま、これで多分大丈夫でしょう。
第一今私は今天白練習場のドラコン王者になって居るのだ。
たまたま本物の飛ばし屋さんと遭遇することが無い限りまずドライヴァーの飛距離で負けることなどは無い。
然しそういうのは典型的な馬鹿ゴルファーなので実際にはアイツは大馬鹿だと思われているだろうこと必定である。
ー普通ドライヴァーばかり振り回して打っている奴は上手では無い下賎なゴルファーと見做されることが多い。ー
然し私のゴルフはストレス解消の為の馬鹿ゴルフで結構、上級者を気取っている輩のように難しい事をいつも言って居るという訳ではないのでこれで充分なんだ。
本日も前の打席には立派な道具を引っ提げた明らかにシングル級と思しき十歳位上の方がまさしくシングル級の球を放って居られたのだったが、我は其のシングルさんの球をアウトドライヴすることだけに専念し実際に飛距離では明らかに私が優って居た。
ただ、私の場合には余りにも打音が大きく3F練習場の半分位に其のデカい音が轟くのである。
でもシングルさんがチラチラと私の方を気にして居られたのは其の音のデカさばかりではなく私のパワーにちと驚いたからなのではなかったか。
それとも、この馬鹿野郎、お前のドライヴァーの打音がデカ過ぎて練習に専念出来ん、もっと静かに打てこの馬鹿力の中級者めが、とそう思いつつ見られて居たのかもしれない。
然しながら、他人にどう思われようが私はこの飛ばしの道を貫く所存である。
上級者たちよ、あなた方もこの私のフルスゥイングにはついて来られないであろう、ソレ見た事か、ざまあみやがれ。
打音が大きかったのは、勿論FAIRLINE500で打って居たからである。
確かに他のドライヴァーでも打って居た。
ー今私は必ず4本のドライヴァーを使いつつ練習して居る。でも自転車で4本を運ぶのは結構大変だよ。ー
然しFAIRLINE500で打つ音及び打球は迫力が全然違う。
もう化け物なのだ、化け物。
嗚呼、其の凄さを是非直接にお伝えしたいところだ。
其の化け物ドライヴの物凄さはとても文章では伝え切れないのである。
スゥイングを変えたところは、意図的にハンドダウンで構えるようにして、其れで其の角度を維持したまま水の上を浮いたピンポン玉を掬うようなイメージで球を打っていくという風にした。
だから申し訳ないが断崖飛び降りの打法はもはやスッ飛んで仕舞ったのだ。
其れでこそ球が捉え切れるようになった。
しかもすべてのドライヴァーが其の打法で打てるのである。
FAIRLINE500は、明らかに飛んで居る。
今日のように強いアゲインストでもネットには当たるのでこれはもう相当な飛距離である。
其れも物凄い高弾道でブッ飛んでいく。
こんな球は私自身初めてで、全く自分が打っている球だとは信じられない位だ。
そして何より其の迫力の凄まじさ。
だから本当はこのクラブを夜使ってはいけません。
何せとてもうるさいので。
でも他のドライヴァーを打つ方が所謂玄人級の良い打球が打てる。
所謂シングル級の伸びる低い弾道の打球を放てるのである。
然しFAIRLINE500の球はまた其れとは別物なのだ。
嗚呼、何たる力強さなのだろう。
其処に筋力があり戦闘力が備わりアドレナリンが目一杯で、つまりは男の本能モロ出しで馬鹿力そのものの凄い打球。
此の脆く繊細な詩人の心とは対極にある男の糞力、単純な筋肉の労働の熱さと美しさよ。
バコーン、バコーンとまるで手榴弾が炸裂するかのような音がして球が高ーく飛んでいくのです。
練習場へ行く前に、近くにある中古クラブのショップへ寄りました。
其処でバランスの重りを買いクラブも色々と見て来た。
其処ではEPON、KAMUI、MIRAIと云った地クラブ、カスタムクラブの面々が待ち受けて居た。
其れでショップの店長さんとクラブ談義をして参りました。
私はドライヴァーは全部47インチでぶっ飛ばして居るのだ。
コースへは行かず、練習場でぶっ飛ばすのだ、其れこそが趣味なのだ。
ーいやー、楽しいでしょうね。それはー。ー
だからココにあるEPONやKAMUIなどを47インチ仕様にして是非ぶっ飛ばしてみたいのだ。
然しながら、此等は決まって値段が高い。
おや、こんな所にKAMUIの限定白ヘッドのドライヴァーがあるではないか。
どれどれ、まるで新品のようだが、おお、何と九万円もして居るではないか。
ーいやー、KAMUIはオススメですよー、ハードヒッターの方には是非オススメです。47インチも勿論OKです。それに地元ー中部圏としての富山県ーのクラブなので人気も高いです。ー
関東の上級者の奴らなんて皆カスタムクラブばっか使っとるんだ。私も千葉のジオテックのクロトを東京人から落札したんだ。すると、これがまた物凄く打ち易いクラブだったんだ。関東はもはやそういう奴等ばっかりだ。
ーいやー、カスタムクラブは関東に多いですからねー。ジオテックと云えば限定クロトの方も凄そうですよ。其れからEPON。此れは兎に角打感が良いです。鍛造の仕方がカップー?ーになって居て他とは違います。EPONも47インチは可能です。是非一本如何でしょうか?ー
勿論欲しいには欲しいのだが、あいにく金がねえだよ。オイラはこれから天白練習場へ沢山球を打ちに行くのだ。ゆえにこんな店で散財して居る暇などは無い。されどまたの機会にはぜひ宜しくね。KAMUIは特にしっかりしてて良かったよ。そういえば天白練習場には道具をKAMUIで全部揃えたシングルさんも来て居るんだ。其れが物凄い球を放って居るのだ。私よりは明らかに年上なのだが、正確さばかりか飛距離でも私はかなわないんだ。私もKAMUIを使えば勝てるのかなあ、其のシングルの爺さんに。
ー … ー
書き忘れて居りましたが、バランスのウェイトはFAIRLINE500に二枚貼り、従ってクラブ総重量は十g重くなりましたが、其れで丁度私には合っているようです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1734回) ..2014/08/18(月) 23:22 No.4829 |
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この盆の期間に日頃は練習場へは来ないような上級者と思しき飛ばし屋をみかけたのだったが、彼は私よりも十歳位若い感じの人で格好良くバシリウスのキャディバッグを引っ提げて、おまけにどこのドライヴァーかは知らぬが長尺を振り回して居りネットの中段へライナー系の良い球を打って居た。
ただし球はばらける。
典型的な飛ばし屋ならではのバラけ方である。
もう一人、背の高い若い人で時折プロ級の打球を放って居た人があった。
ただしこちらの方もバラけるというか相当に崩れる。
然しあくまで当たった時には私でもとてもかなわないような球を放って居られる。
其の彼のドライヴァーの方が至極面妖なものに見え興味津々であった。
いや、其の折には然程気にもならないものだったのだが、其の後次第に不思議なものに思えだし是非知りたいものに思えて来た。
其れはシャローバックの簡単クラブ系のヘッドのドライヴァーながら当たれば規格外に飛んで居る訳である。
ここからも、シャローバックのヘッドのドライヴァーはもはや初級者や女性、シニア向けのゴルフギアではないのである。
シャフトを堅いものとして長尺化すれば其れは立派にハードヒッター向けの飛ばしの仕様となすことも出来る。
サテ、あのドライヴァーは一体どこのメーカーのものだったのだろうか?
我もあんなもので是非球を打ってみたいものだ。
プロギアかそれともPINGのものだったのだろうか。
まあ兎に角今は売り出されて居るドライヴァーの数が多過ぎて一目見た位ではどこのものなのか分かりはしない。
さてこの一件からもどうも上級者が好んで使って居るようなディープフェイスでハイバックのヘッドのドライヴァーよりもシャローバックのヘッドのドライヴァーで飛ばしの方に特化した長尺のモデルの方が飛距離は出ているのであろう。
上級者がそうしたヘッドを好むのはコースへ出た時にインテンショナルに球を曲げることがし易い、即ち操作性が良く自分の思う通りの球筋を打ち分けて行き易いからそうして居るのであろう。
ちなみに私にはそこまでの技術は無いが、それでもかっては筋金入りのハードヒッターだったのでドライヴァーなどは310cc位までの小振りのヘッドを好んで使って居たのであった。
其れで今風のデカいヘッドのドライヴァーは毛嫌いして居て、其れ等はこの私の目にはまさしくあのUFOのようなものに見えて居たのである。
だからそのあたりの流れからすれば矢張り私はディープフェイスでハイバックのヘッドのドライヴァーを好む上級の世界へと足を踏み入れるべきだったのだろう。
ところが、五十肩で二年近くもゴルフが出来なかった私には今ゴルフをすることが出来、さらに飛ばしの追求もやって来られて居ることがもう嬉しくて楽しくて仕方が無いのである。
それにまあ上級者なんて糞くらえとでも云うべき天邪鬼精神も無いでは無く、だから俺は中級者で十分だがただ飛距離の方ではシングルさん、貴方方には決して負けないのだよ。
いや、俺が勝つんだ、必ず勝ってやる、ギャフンと言わせてやる、それだけが俺の趣味なのさ。
勿論そのディープフェイスで ハイバックのヘッドのドライヴァーを長尺化して使っていくことを考えていないではないのだ。
其れもしてみるつもりながら、今は兎に角デカいヘッドでシャローバックのヘッドのドライヴァーでもって飛ばしていきたい。
その方が球がバラけないからなのである。
FAIRLINE500 に於ける500ccヘッドの破壊力はまさしく本物である。
然しこのドライヴァーは打ちこなすのが本当に難しい。
結局いまだに難しいままなのである。
然し以前にも述べた通りにこのドライヴァーの飛距離性能は他のクラブのそれとはまた別物なのである。
丁度万年筆の方であのオノトのマンモスが特別な使用感のする古典のペンであるということと同じくしてこのドライヴァーもまた特別な何かを持って居るのである。
このクラブが基本的に打ちにくいのは重心距離が長いであろうことと大きなヘッドが返りにくく振り切ることが難しいという部分にあるのかもしれない。
あれからも色々とやって来て居るのではあるがどうもミート率を上げることが出来ないのである。
打ち方の方は、結局また断崖飛び降りの方の打法に戻り、 しかも其処に釘打ちの打法を組み合わせることにより何やらとても良い感じの球の捉えとなったのだったが其れがまたいつまで続くものかは分からない。
実際に今現在試し始めて居るのが剣道打法というものである。
この剣道打法というのは、ゴルフのスウィングとは剣道の面打ちの技術と全く同じである、という理論から組みあがった打法のことだ。
ゴルフのスウィングとは其れ即ち剣道の面打ちのことだ。
ただし体が動くかまたは回転すると同時に其の面打ちが開始さ れ、しかも面打ちの終了時に於いて左への体の動きが加速されて居るから其の加速力で球が結果的にヘッドにぶつかり飛んでいくのである。
ただしイメージ上はあくまで面打ちを行うのである。
だから矢張り球を打ち込むようなイメージでクラブを振るのである。
ところでアマチュアゴルファーにとって一番苦手なのが球を深くしっかりと捉えるということである。
上級者やプロのインパクトは強いと言うか深いと言うか重いというか、其処ではドシッ、ビシッという音がして球が捉えられて居るものだが、下手糞が打つとカチンとかコチンとかカスッとかゴソッとかまるでなってない音と共に球がヘナヘナと飛んでいき其れで結局まるでなってないよわい球筋となりドライヴァーで打ってもなかなか200Yも飛ばないということとなる。
アア、情けなや。其処では球の捉えが甘い、薄い、弱い。
其れを是非厳しく濃く力強いものにしていかねばなるまい。
勿論私も其れが真の意味で出来て居ないからこそこうして苦しんで居るのである、日々あがいて来て居るのである、パコーン、パコーン、ああ、クソ、もうゴルフなんかやめてやる、一体何で完璧に打てないのだ、こんなに努力して来て居るというのに、もう三百も打ったというのに何で変わらんのだ、パコーン、パコーン。
其れをドシーン、ドスーンという重いインパクトに是非変えていかなければなるまい。
麺打ちの職人、もとい、面打ちの剣士、侍、イチロー、つまりはゴルフの武士、ゴルフに於ける封建制の美徳、宮本 武蔵、元公儀介錯人の拝 一刀、沖田 総司、剣道八段、フェンシングには無い精神性、のようなものを今後我は是非目指していくことであろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1735回) ..2014/08/20(水) 23:51 No.4830 |
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500ccヘッドのドライヴァーは練習場で飛距離を純粋に追求することに対しては或は有利なのかもしれない。
ただし、私がFAIRLINE500を使ってみた結果から言えることは、500ccもの大型のヘッドを47インチ以上の長尺仕様で振り回す場合には実はかなりのパワーが必要だということになる。
其れもHPの速い筋肉質のハードヒッターというよりも基本的に体に底力のある人か或は身長が180センチ以上あるような大きい人に其れは向いて居るようにも思える。
だからなのか、市販されて居るルール適合外の500ccヘッドのドライヴァーを調べてみると長尺仕様はほとんど無く逆に短尺仕様になって居たりするものだ。
なる程其れが短尺仕様であればおそらく普通の体力の人か非力な人でも振っていくことが出来ることだろう。
然し短尺仕様は実際には平均的なHSでは飛ばないということも考慮しておく必要がある。
短尺仕様で重ヘッドのドライヴァーを使って居るのは実際にはHSの速いプロだけなのであり、我我アマチュアゴルファーではなかなか其の仕様で飛ばしていくこと自体が難しいことだろう。
つまり、アマチュアのレヴェルでは結局飛距離はシャフトの長さで、即ち長尺化することにより得られることだろう。
ところが実際には長尺仕様のドライヴァーはなかなかシャープには振り切れないので其れが即飛距離アップになるという訳でもな く、それよりもむしろより楽にいつもの飛距離が得られるというのが私の実感なのである。
飛距離というのは伸ばすのが其のくらいに難しいことなのでもある。
結局体力が無いと200Yの飛距離を250Yにしていくことは難しいことだろう。
また250Yの飛距離を300Yまで伸ばしていくことはさらに難しいことなのかもしれない。
HSというのはひとつの才能のようなもので、元々速い人は速いのだし、遅い人は遅い。
其れは絵や音楽や文学に於ける才能と同じようなもので努力だけでは如何ともし難いといった部分も確実にある。
ところがゴルフは要するに上がってナンボで、本来ならば飛距離を追求するようなスポーツでは無いので飛距離が出ないからと言って悩むようなものでは本当は無い。
けれど実際には飛距離が出ることは大きなアドヴァンテージとなることでもある。
其れと一種バカバカしい追求ではあるが私のように飛距離だけを追求するゴルフの趣味があっても良い筈である。
其れにバカバカしいようには見えても、飛距離が出て尚且つ安定した球筋を打てるようになる事はゴルファーとしての究極の目標なのである。
だから其れが出来るようになり、コースへ出てまた場慣れしていけば70台のスコアも夢ではないのである。
ちなみに今O先生はドライヴァーショットをすべてコース用に六分位の力で打つ練習をして居るのだが私は其の練習法には賛同しかねる。
練習はまずフルスイングで行うことが基本で、その中で二割位を八分位に抑えたコース用のショットの練習に割いていくべきである。
何故ならフルショットでスウィングが完成されて居なければ抑えたショットでもまともなスウィングとは決してならないからなのである。
その場合に抑えた誤ったスウィングでもって沢山球を打つこととなり余計にドライヴァーショットが下手くそになっていって仕舞うことにもなりかねない。
なんでもそうだけれど、手加減ということは完成者にして初めて可能となることなのであり、下手糞の人は其処で手加減も何も、 元々なって居ないのだからなって居ないなりに思い切り振って直していくほかは無いのである。
故に理想は、まずフルショットで飛んで曲がらない球を打てるようにすることであり、手加減するショットなどは其のあとに幾らでも出来ることなのである。
実際に私はドライヴァーショットに於いては完成の域に近づいて来て居り、今は最後の詰の段階としてあることをして居るばかりなのである。
其のあることとは、断崖飛び降りーまあ余り良くはない言葉ではありますがーの飛び降りの範囲をより広くして、つまりより思い切って飛び降りた方が完璧に近づくということなのであった。
其れが出来た時の球筋は完全にシングルの域での球となる。
或は飛距離的にはシングルさんを追い越して飛ばない方のプロ位にまでは確実に届いて来て居る。
ということで、実は例の剣道打法というのは其の後練習してみて少し難しかったのである。
将来的には追求していくことがあるのかもしれないが今は安定した球筋が打て再現性のある<思い切り断崖飛び降り打法>の方でいくことにした。
FAIRLINE500はいまだに打ちこなせて居ない ので、この<思い切り断崖飛び降り打法>でもって今度の金曜日あたりに是非トライしてみるつもりである。
尚、現在私はFAIRLINE500ではフルショットをして、他のドライヴァーでは七割、八割位のショットをして居ることが多い。
其れは他のドライヴァーならばフルショットをしても皆芯に当てられるようになったからなのだ。
そうなって初めて、手加減するショットに於いても正しく打てるようになるのである。
そして八割の力で打っても実は飛距離はそう変わらない。
むしろ余分な力が抜けてヘッドが走るのでフルショットの場合よりも逆に飛んで居ることさえある。
然し、そのようなことは結果論であるに過ぎない。
大事なのは思い切り打っても崩れないスウィングを完成させるということにこそある。
思い切り打っても崩れなければ、八割の力で打つのはより簡単である。
東大へいく頭の力がある奴が名大へ入るのは多分より簡単であ る。
だから私は其れをやって来て居るのである。ーただし大学の方はとても入れなかったのだったがー
さて、前回語って居た背の高い若い人が時折プロ級の打球を放って居た面妖なドライヴァーのことですが、色々調べた結果どうもPINGのドライヴァーではなかったかということとなった。
ピン「G30」ドライバー http://clubping.jp/product/product2015_d.html
まさにこんな感じのものだった。
或はこれのひとつ前のモデルのG25というモデルかもしれない。
ピンのクラブというのは、私はこれまでに使ってみたことは無い。
嫌いだったのである。
相当に嫌いな、科学的な、或は現代的なクラブであった。
昔ピンにキャビティタイプの異様な姿のヘッドのアイアンが出て、其れが全くに妖怪のように見えて仕方がなく兎に角気持ちが悪かったのである。
私は新しいものが好きでは無くむしろ本当は余り変化を望まない人間なので本質的には保守主義者なのである。
そのくせアナーキストなのではあるが、其の思想が成就した暁には永遠にそのままで居て欲しいとさえ考えて居るのだから元々私は完全な保守主義者である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1736回) ..2014/08/20(水) 23:53 No.4831 |
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このどこかいやらしいゴルフクラブのように見えるPINGのドライヴァー、こんなものに元々全然興味はなかったのだったが何故か今は気になって気になって仕方が無い。
たとえばピンの前作のG25は非常に個性的なコンセプトの元に生み出されたクラブだった。
其れは二百gオーヴァーもの所謂重ヘッドで飛ばしてみようというドライヴァーだったのだ。
G25のヘッドの形状も新作のG30と同じくディープフェースでもってシャローバックというものである。
其のディープフェースでもってシャローバックというヘッド形状が今私には最も関心があるのだ。
何でかと言えばFAIRLINE500 は相当なシャローフェースで、つまり横に細長いフェース面なので上下に関してはかなりに許容度が小さく打ち易くはないのである。
要するに本当に空飛ぶ円盤のような平たい大きな横長のヘッドで球を打っているようなものなのである。
勿論その代わりにフェース面の左右には長さがあり芯をはずして打った場合にも許容度が高くある。
其のシャローバックのヘッド形状は良いのだけれど、ディープフェースで上下が長く分厚い感じのフェース面の方が打ち易そうなのだ。
だからとりあえずG25の方でも良いからPINGのドライヴァーを一度は打ってみたいという気になりつつある。
ちなみにこれらのPINGのドライヴァーでネックとなることは長尺化することが難しいということである。
何せ重いヘッドであるゆえ、47インチのシャフトで長尺化するとおそらくこの私でも振り切れなくなることだろう。
ー対してFAIRLINE500 のヘッドは百八十g台と軽い。それでも500ccのヘッドが円盤型で大き過ぎるのでシャープに振ることは基本的に難しい。また私には軽過ぎるヘッドなので重りを二枚貼り百九十g台のヘッドとして居る。ー
然し以前にも述べたように、超人的な体力の人かまたはマシーン であれば重いヘッド付きの長尺ドライヴァーを振り切ってまさにとんでもない飛距離を出すことも出来ようはずだ。
でも私にはどうも無理のようなのでいまひとつ本気にはなれて居ないのだけれどクラブの追求という面では究極のドライヴァーとして一本作ってみるのも面白いのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1738回) ..2014/08/23(土) 19:26 No.4833 |
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http://yahoo.jp/box/LbMrub
まさに色とりどりの翡翠は相変わらず一種気難しい私の心を癒し続けて居て呉れる。
此の世に美しいものは数々あれど、石の美しさというものはまた格別のもので、其の美しさに永続性があるー生命に比べての話ながらーことが生ものである自分とは異なる部分である訳で、其処が何より私の変化を余り望まない気質と共鳴しこうして机上を賑わせることになって居る。
元より此の世に存在して居るものはすべからく無常のもので其処には何一つ永続する実体としてのものは無い。
実体では無いのだから其れは仮のもので、其の非実体的な影のようなものを我々は毎日拜んでは信奉して居るのである。
対する実体というものは目には見えず存在して居ないものなので基本的に我々には知覚出来ないものなのである。
然し心のあり方を変えていくことで目には見えないまでも何となくそうしたものの匂いや気配のようなものは感じられるようになって来る。
だが其れは所謂お化けでもなく精霊でもなく、また神でもなく超人なのでも無い。
まあ仏教徒にしてみれば其れこそが仏性、つまりは佛ということとなる。
キリスト教徒やイスラム教徒にとっては其れは矢張り神であるということとなる。
つまるところ仏教徒にとっては其の佛だけが実体であり確定であり永遠であり全体である。
その他のものは全部幻であり仮であり刹那であり部分なのである。
実体とはそうしたことであり、我々の目の前の現象など本当の本当は非実体的な存在という現象としての妖の影絵のようなものをそう思い込んで居るだけなのである。
ゆえに翡翠もまた其の妖の影絵で、萬年筆の方も其の妖の影絵で、ゴルフの道具なども勿論そうで、それだけではなく妻も子も兄妹や両親もまた親族も友達も先輩も後輩も皆妖の影絵に過ぎず、よってそうしたものに拘るべきではなく、或は私のように観念性の方が強い人などにとっても其の観念自体が虚妄であり虚偽であり実体ではないのである。
要するにこの宇宙の森羅万象はおしなべて実体では無い。
ただひとつ佛だけを除いては。
そうした限定で虚としての非実体性を生きていかざるを得ない我々は本来ならば下らないことに心を向けるべきではなくまさに佛のように清らかな心でもって明らかに物事を見つめ続けていくことこそが理想である。
されどこのような不確かな虚で仮の世界ではそのような清らかさが心に芽生えるべくもなくむしろ下らないことばかりに皆は心を砕いて、其処で下らない自己保身、下らない子孫の繁栄、下らない蓄財、下らない食欲性欲金権欲などの悪趣に染まりきって仕舞って居るからつまりは皆心が汚れきって仕舞って居るのである。
ちなみに私にはそうしたタイプの欲はもはや無いのですが、観念欲と美への欲というものはむしろ人一倍強く持ち合わせて居り、私の生涯は其の部分での追求を行うためにこそあったのであり、この思考欲、表現欲、批判欲、美への賛美、美への信仰といったことに関して深く深く囚えられて居るという点に於いては私は全くの凡夫でありこの闇ー無明ーの世界に囚われし囚人そのものである。
然し、其の哀しい現実をしばし忘れさせて呉れるのが私の場合にはまず石達なのである。
或は永続的な実体性への憧れのようなものからなのか、石たちを見るにつけ、其れ等は常に変わらず私を慰め続けて呉れるのである。
日本翡翠原石 http://www.stonesbazar.com/shopping/list.php?cate1=122&cate2=179
糸魚川の石では此処にもある通りに入りコン沢青翡翠というのがとても美しいのである。
翡翠は緑色で透明度の高いものが確かに一番美しいのだけれど、実は青の翡翠はそれよりも数が少なく特に全体が青である石はほとんど無いもののようだ。
私も前々から質の高い青い翡翠が欲しいと思っては居るのですが、質の高い緑の翡翠ですら得ることが難しいというのにましてや青ともなるとなかなか良品には巡り合えず、よしんばあったとしても其れは必ず高価なものとなり私の金力では如何ともしがたいといったところであるのが実情だ。
カネ、金、この非実体の世を貫く原理とは兎に角金の力の優ったものが何でも良いものを得ることが出来るということである。
然し私のような詩人の場合はたとえ金はなくとも心のほうが元々豊かである。
コレクター詩人などは人間としても詩人としてもたかが知れて居るのだとしてもだ、ザマ見やがれ、こちとら考える方の力だけは少しだけあるぞ。
だから金は無くとも考える、サア、この翡翠を握りしめて考えるんだ。
団子より花だ、金力より観念力だ、独覚はいつも食わねど高楊枝、の心意気だ。
観念力のみを奉じて餓死するか、それとも団子に迎合して豚になるか、だ。
いや、それでも本当の私はまさに其の豚ちゃんでーす。
豚ちゃんだからこそこうして翡翠などが大好きなのだぞよ。
ま、金なくば石の収集もまた不可能である。
金を百万ほど用意して、糸魚川の方へ行き色々と専門店を回ってみればもっと良い石が店の奥の方から出されて来たりする筈である。
無論のこと其処で桁違いの一千万程を持っていけば勿論もっと凄い石がゴロゴロと出て来るだろう筈だ。
でも私の本当の夢はそんな金の力に頼ったものでなく新潟の海に潜って海中の翡翠ー其れも凄い翡翠をーをかっさらって来ることなのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1739回) ..2014/08/23(土) 19:27 No.4834 |
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翡翠の採集 http://www.japanjade-center.jp/jadehunter.html
もう二十年位前からこんな風に翡翠の採集に行くのが夢だったのですが結局実現して居ない。
糸魚川は遠いし其れで旅費はかかるのだし、店へ入れば欲しい翡翠もあることだろうしで最低二、三十万は用意していかねばなるまい。
其れにそんな連休は貰えないし兎に角色々忙しく心理的な余裕も無い。
だから其の夢は夢で終わって仕舞うことだろう可能性が高い。
老後は老後で色々と生活も大変になるだろうからおそらくそんな余裕は無い。
いや、その前に地震や経済的な破綻、戦争やテロなどによりそんな遊び人の気分で居ることなど不可能だ。
それでも一度は行ってみたい。
丁度昔から知り合いの新潟の石のショップが今ヤフオクで糸魚川産の翡翠原石を沢山出品して居りますが良いものはなかなか出て来ない。
翡翠という石は石の中でも特に質の良いものを得ることが難しい。
ヤフオクなどでもあくまで一般には十年位前の方が良い石が出されて居たような気がする。ーただしコレクターからの放出品は希にではあるが良品が出品されることもある。コレクターもいつかは寿命が尽きるものなので、まさにそういうのこそが狙い目となる。ー
私が収集したものはそうした当時ヤフオクに出されて居たものが多く、それに知り合いの宝石屋の知り合いの宝石店から流して貰ったものなどですが皆安物ばかりなのである。
ただ、画像にもあるラヴェンダーの翡翠を切り出して一面研磨を施した石は今となってはまずまずの質の紫翡翠である。
黒翡翠は普通の翡翠よりも軽く、質感の方も翡翠とは思えないようなものですが実際黒翡翠とは元々そうしたものであるとのことである。
ちなみに切れて居て見にくいが緑の翡翠の最上部右の三角の石は幻の金山谷産の緑翡翠である。
小さな石ではあるがかなりに美しい。
其の左の勾玉を作ろうとして止めて仕舞った材の緑の濃い石は糸魚川産ではなくてミャンマー翡翠だったと思う。
尚翡翠の手触りは特別で他の石とはまるで違う滑らかさ、スベスベ感、緻密さが味わえるのである。
ところが翡翠程鑑定が難しい石も他に無い。
石のプロ、つまり翡翠の専門家でも間違うことがあるそうで、ということはそうした紛らわしい翡翠ではない石が他にゴロゴロして居るということなのである。
上のリンクの所に、其の紛らわしい数々の石が写真入りで載って居る。
私も昔翡翠だとして売られて居た石を買ってみたら透輝石だったということがあったし、高価な石でだまされてミャンマー産のクズ翡翠の大きな原石を得たこともあった。
だから実際には糸魚川の海辺で翡翠を採集することはおそらくかなりに難しいことなのだろう。
ここ日本は小さな国で石の出処も小さな産地ばかりなので石が打ち上げられる海岸とはいっても翡翠ハンターの面々をはじめ皆が其処に石を探しにいくのであるから良品の採集はどうも期待薄である。
ただし今後超巨大台風が新潟の辺りを通った直後に石を拾いに行けば或は百万円級の原石を拾える可能性は常にあることだろう。
また糸魚川には様々な翡翠にまつわる催しや博物館、展示館などもあるようだから翡翠好きにはまさに夢の楽園のようなところなのであろう。
2014年糸魚川翡翠鉱物展 http://itoigawa.ne.jp/mineral/index.php
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1740回) ..2014/08/25(月) 22:38 No.4835 |
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ヒスイは宝石の中では最もややこしい石で石の知識に乏しい一般人にとっては最も危ない石なのだと言える。
其処は無論のことこの私だって宝石のプロでも何でもなくタダの中級鉱物コレクターー其の割にヒスイの場合良い石を持って居ないのだがーなのであるから、騙されない可能性が低い訳ではなくおそらく騙される場合にはコロリと騙されることだろう。
然し何せ石との付き合いがもう長い故に、石の外見やら風合いといったものから石の本性が直感的に分かるようにはなって来て居るので実はヒスイなどもほとんどは感覚で鑑定出来る様になって来て居る筈だ。
見た感じと手触りとで大体九割方は分かる様になって来て居る。
然しながら、私の場合は何せ貧乏詩人の故宝石屋の如くに始終高価な質の良い石を見て来て居るという訳ではなく、主にオークションの其れも安物に限りこれまで見たり触ったりして来て居る訳なのだからはっきり言って其処はレヴェルが低い。
でもレヴェルが高い石ばかりに石の本質が刻まれて居る訳では無いことだろう。
無論のこと安い石にだって石の固有の性質は確りと刻まれて居る。
さて翡翠に対する知識というものは最低限仕込んでおかないとたとえば好いた女に指輪など呉れてやったりする時に頗る困ることとなる。
従って金力のある初老の紳士は是非翡翠に対する知識を磨いて置き、そして涼しい顔をして銀座のクラブのママさんなどに数百万の翡翠の指輪などプレゼントしてやることこそが格好良いのである。
然し私の場合は格好悪い観念人生を選んで歩んで来て居るのでそんな場違いなことは考えずに今このままの安上がり鉱物趣味で充分である。
本当はもう少しだけグレードアップしてみたいところながら、そういう気分が起こると決まって仏陀の修行の様などが目に浮かんで来て、印度の森閑とせし森に住し骨と皮ばかりに痩せこけ、しかもボロボロの衣を着込み、サテ、果たしてまともに飯を食って居るのやら、そんな状態で一心不乱に真理へ向かってまっしぐらな其の古の善逝のお姿がまさに目の前に浮かんで来て反省しきり、嗚呼、やっぱしやめとこうと決まって思い直すのであった。
本当は我もいますぐに出家して其の修行の世界に飛び込んでいくのが理想なのではあるが、何せこの近代グータラ病にもはや全身を蝕まれて居るゆえ、もはや其れも詮無き事。
ヒスイの歴史と琅玕(ロウカン) http://homepage2.nifty.com/shichiya/oyakudachi18.htm
此処で一応紳士淑女の為の翡翠の知識を仕込むことが出来る。
ちなみにここには硬玉ヒスイを当てるクイズなども出て居る。
其れで私はこれらの写真だけ見て、其の下の解説及び回答は一切視ることなしにズバリと当てた。
何故分かるのかというと、其れは只長年に亘り石が好きだからなのである。
つまりはそういうのこそが一番強いのである、知識を超えた石への愛がなせる技だろうか。
5568万円の琅玕翡翠裸石 http://jadeite.tumblr.com/post/39217075/via
質の良い翡翠の指輪こそが東洋人にとっては最も似つかわしい宝石である。
エメラルドやサファイア、ルビーなども良いのだけれど、肌が黄色い東洋人には矢張り翡翠が一番似合うのである。
翡翠は宝石の中ではむしろ軟らかい石なのですが、強靭な石で最も割れにくいー壊れないー堅い石なのである。
最も硬い石のダイヤモンドをはじめ他の宝石は落としたりするとスパッと割れることがあり本当は其処に永続性を求めるような強い石なのでは無い。
従って日本人が選ぶ結婚指輪はむしろ東洋の石である翡翠を選んでおくべきである。
されど5568万円の金など我々には無い。
いや、貴方にはあっても我には無い。
全然どこからも絞り出せぬ。
故に最高級の琅玕翡翠に拘る必要などは無い。
其の下二桁での、68万円位の琅玕翡翠でも懸命に探せばどこぞにあるのやもしれぬ。
Imperial Jadeite ロウカンって? http://sheenjewel.exblog.jp/16366685
此処には面白いことが書いてある。
此処にはImperial Jadeiteの写真も載って居ますがロウカンと呼ぶに相応しい翡翠とは中国では本来アップルグリーンの明るい色味の硬玉翡翠のことをそう呼んで居たのである。
其れが、日本人は地味な色味の方が好きなのか、もっと落ち着いた濃い緑の硬玉翡翠の方が一般には人気があるそうなのである。
然し私は糸魚川産の硬玉翡翠も含めて、この明るい緑で琅玕質の翡翠こそが世界最高の翡翠なのだろうとずっと考えて来た。
ところが上にもあるようにアップルグリーンの琅玕翡翠は極めて稀なものとなるようだ。
其れで当然のことながらアップルグリーンの琅玕翡翠の石は飛んでもない値段で取引されて居ることだろう。
目玉品!糸魚川翡翠原石 ヒスイ 青海川産ろうかん翡翠470g! http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/188022337
糸魚川 翡翠 ヒスイ 495 ロウカン質 国産 鉱物 http://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/187911309
糸魚川 小滝川 翡翠峽 琅かん 翡翠原石 519g http://page10.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m124089842
琅玕翡翠はこのようにネットオークションにも屡出されて居ますが、其れ等が本当に琅玕翡翠と呼べるものなのかということについては不明である。
然し琅玕に近い質の石になればなる程石の質がトロリとした感じのものとなって来るもののようだ。
このトロリとした感じは、他の硬度の高い宝石には見られない特徴である。
硬度の高い宝石はまさに硬くて冷たい感じや感触がするものなのだが、硬玉翡翠はどんな石でも其の冷たい感じや感触がしないものだ。
さらに琅玕翡翠ともなればよりトロリとした感じの石となる。
まさしくそうしたところが特にお年を召された紳士淑女に翡翠が愛されて居る所以なのであろう。
尚、其のトロリとした石の感じは中国の印材の世界でも屡珍重されて来て居る特徴である。
たとえば田黄という印材があるが此れは中国では最も高貴とされる黄色の石でしかも其の風合いがトロリとして居るもの程価値が高いとされているものだ。
http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&p=%E7%94%B0%E9%BB%84#mode%3Ddetail%26index%3D109%26st%3D4154
だから其の部分こそが東洋的な感性、感覚に由来するところのものなのである。
ゆえに日本人もいつも精神の方がドロドロというのではいけませんのですが、其の代わりに精神の方がトロトロですよ、という位に一種温かみがあり寛容であるのならば、其れは翡翠のように一種温雅な趣を持つということでもあり決して西洋式の合理精神に劣るものでは無いということをよくよく考えた上で其の東洋の精神性を象徴するかのような石である翡翠に接していかねばならぬことだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1741回) ..2014/08/27(水) 23:46 No.4836 |
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万年筆の方でも癒されることが何かとあるものだが石に癒されるのはまた少し違って居て観念抜き、理屈抜きに其処で癒されて仕舞うと言えない訳でもない。
謂わば脳のより古い領域の方を癒して呉れるとでも云うべき言語以前の、まさに本能領域の方で快感または共感を感じて居るのではないかと思えないでもない。
ただし万年筆の方でも本当は軸の感触だの筆記感だのと云った部分で癒されて居ることが多く必ずしも観念領域ですべてを捉えて居る訳ではない。
ただ、万年筆の方は使えば必ず観念の方とは無関係ではありえず、従って最終的には文字により表現されし観念の方に重きが置かれて行くこととなろうから純粋に感覚だけで楽しめるというものでもない。
そうかと言って見ての通りにわたくしは観念性が強い人間であるからして万年筆ないしは付けペンの類が無いとそれこそもう頭の方がおかしくなって仕舞う。
長年培われた部分での私の筆記のスタイルには実は筆も筆ペンもサインペンもボールペンも入って居らずこの金属製のペンが無いと作文の方でまるで調子が出ないからなのである。
なる程、するとペンは何より道具であった訳である。
然し、石の方は元より道具では無い。
確かに使い方によっては道具にもなり得るのですが、其のいびつな形の原石を観賞して居る分には其れは道具ではない。
石とは何かと問えば即ち其れは只の自然物である。
自然物だからこそ花とか雲とか恒星とかブラックホールとかそうしたものと近しい存在である。
でも生命では無いのだから、そうか、まさか花の仲間だとは言えないのだし無論のこと我々人間の仲間なのでもない。
確かに石に命は無いのだろうが其れは地球の胎の中で生まれてしかも生まれつき色々と性質の差があり大きさや色や重さなども皆異なるのでそうした意味ではほとんど命のようなものでもある。
元々多様性があり、生まれてから成長したりもするのでそうしたところが何だか動植物と似ていないでもない。
然し、我々のような生ものでは無い石たちは純粋に寡黙である。
其れはうるさくない、本当に静かだ。
ちなみに私は昔から静かなものが好きでうるさいものが余り好きではなかった。
其処が流石に詩人らしいところなのである。
太陽の下で大声を張り上げ目一杯に運動をして居るのはどうも苦手でたとえば山奥のキャンプ場の月明かりの下で妖異とか宇宙人の類のことを考えて居ることの方が好きな子供であった。
だから金閣では無く銀閣の方なのね、このわたくしの心は。
かと言って金ーきんーは嫌いでは無く大好きである。
私の静けさは幼い頃もう本当に並外れて居たので今なら自閉症か何かと診断されるのかもしれぬが多分私は自閉症でもなく精神病でもなくただ神経がか細いだけだったのだろう。
然し静かな人というのは本当に居て私は今そうした性格の医師の方を一人知って居りますがこの方などもう本当に何があろうと心中に波すら立たないような静けき心の持ち主である。
私はそういうのとは違い普段はむしろウルサい。
昔近代思想に教育されて其の元々の静かさというものをあえて隠匿していったので生まれつきの上品な静けさの下の方の下品が塊で出て来てこんなにうるさいのだ。
けれど本当は矢張り静かだ。
寡黙こそが好きで、かつ地味なものが好きである。
たとえば女の方の趣味が、暗い女の方が好きだ。其処は何せ似たもの同士なので。
また足の太い、暗い性格の女が好きなのでここも世間とは正反対の嗜好である。
一方其の暗めの医師のようないかにもインテリで長身で静かな男性なども好みだ。
ただし男の方には一切肉欲の方は感じて居ないので、あしからず。
私の持つ其の並外れた静けさは今でも私の心の中にある。
私は時折其の静けさから様々なメッセージを受け取る。
其れは白日のもとに晒されたかのようなメッセージではない。
闇が地上のあちこちで其の濃さを違えて居るが如くに陰影に富み、あの微妙な星雲の呼吸のように緩やかに私の表面に押し出されて来るだろう何かだ。
そして其の静けさこそが机上の石たちの静けさと呼応する。
呼応する静けさがひとつの鏡を拵え此の地上の喧騒に満ちた生命のカラクリを次々と映し出す。
ちなみに意外や私は小さい頃落ち着きの無い子であったらしいのだが今は何でこんなに落ち着き払って仕舞ったのか、兎に角泰然自若として此の世に起こりし事は此の世に収まる、などと考えて居るのだから矢張り周りからは余り普通の人には見えないのかもしれない。
嗚呼、普通になりたい、普通が一番、俗人が一番である。
ただし俗人は死んだ後に困る。死んだ後に、嗚呼、何であの時にもっと石たちと付き合っておかなかったのだろう、というようなことで必ずや後悔する。
妙にウルサい人間たちよ、あなた方は石の呼吸の清らかなことを知らない。
其の清らかさは星星の清らかな輝きに等しい、そして何より此の地の下の営みの清らかさに等しい。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1743回) ..2014/08/31(日) 00:34 No.4838 |
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さて本日毎年恒例の名古屋ミネラルショーに行って参りました。
1.相変わらず混んで居てまさに盛況のもようであった。 2.されど高額品が売れて居るようには感じられなかった。 3.例のパイロクスマンガン石は全く出されていなかった。 4.エメラルドの良い標本をひとつだけ見せて貰った。 5.標本をひとつだけ求めた。五千円の標本を四千五百円に値切って購入した。
1.相変わらず女性も多く特に関西訛りの女性が結構訪れて居たようだ。然し良くここまで来るものだ。関西の方が鉱物趣味は盛んであるのだし、其れで鉱物ショーの類も色々と開催されて居るにも関わらず何故こんなところまで来ているのだろうか。これが所謂関西女性パワーというものなのだろうか。
2.高額品は相変わらず海外産の高品質な宝石鉱物に多い。例えばトパーズだのトルマリンだの、ルビーだのサファイアだのといったもの。然しこの種の宝石鉱物は、より高級な原石から磨かれていって仕舞う為、実は鉱物標本としては一級のものなど回って来る筈がない。それでも十万円クラスの石は見ごたえがあり半端なものではない。 一方で菱マンガン鉱は宝石ファンというよりも鉱物ファンにはお馴染みの高級鉱物種である。絶産して久しいコロラドのスウィートホームマイン産の菱マンガン鉱の大きめの結晶を一つだけ見かけたが其れにはとんでもない値段が付けられて居た。十年ほど前には幾らでも買えた標本でしたので其処でまさに隔世の感がしたものだった。
近未来石屋ーコロラド産ロードクロサイト原石 税込176040円 http://item.rakuten.co.jp/kinmirai/1407642/
3.今回ほどパイロクスマンガン石に於いて低調さを感じたことはなかった。分離結晶だけは数が出されて居たが其れ等は品質の割に高い値が付けられて居た。母岩付きの標本は無し。ただし地元の標本店ラピスが出していたものがひとつだけありましたが、これは前々から売れずに出されているものであるに過ぎない。また日曜日に新たに標本が出されて来るとも思えず。
4.毎年出店されるレアルミナスでこれまたいつものようにエメラルドの上質標本を見せて貰う。オバちゃんがエメラルドは近頃現地で採れて居ないと言いつつかって採れたなかなかの標本を見せて下さったが矢張りお高いにはお高く其処には12万円の値が付けられて居た。東京から来て居るので買って下さいと言われるので是非買わせて頂きたいと心情的にはそう思うのですがあいにく常に色々と散財して居るので12万円もの金はどこにもねえだよ。此れは是非東京のお金持ちの方々に買って頂いて下さい。高価なエメラルドがなかなか売れずでミナスのオバちゃんが少し寂しそうに見えてどうにも辛かっ た。
5.今回は二時間位はかけてゆっくり会場を見て回り石の知識に関する新たな発見や意外な掘り出し物などを見つけたのだったが毎年標本はひとつだけ買うことにして居るので今回は柿野の緑水晶の群晶ー岐阜県山県市柿野東洞産ーひとつだけ買って家に帰りました。ちなみに自転車で三十分ほどで帰れるので交通費もかかりません。其の標本を軽く洗い写真を撮りましたが其れがPCに転送出来ずでどうやらデジカメが壊れたようである。
よってお見せ出来ないのが残念ですが写真に撮ったのだとしてもそもそもこれはそんなに皆が驚くような標本ではありません。
然し、此れは好物愛好家、採集家にとっては結構素晴らしい標本となるものだ。
根っからの鉱物趣味の人の方には価値が分かるというような、一種地味ではあるが深い鉱物への趣味性を孕んだ標本なのである。
此れは其の緑水晶の群晶となって居り二十本位の緑の水晶がニョキニョキと出て居るもので五センチ四方程と小振りな標本であるのに一本一本の水晶には大きさがあり最大で37ミリ程の大きな結晶が付いて居る。
これだけ密集して緑水晶が生えて居るので全体的に緑が濃く深い感じである。ただし其処に酸化鉄のような膜が水晶の所々に被ったりもして居るので其の部分は綺麗には見えない。これを酸か何かで取ることは可能な筈である。然し先程オレンジ成分入の洗剤に少しばかり浸してみたのみである。其れでも結構感じが良くなったのでこのまま保存していこうと思って居る。
尚今回長野県の緑水晶で初めて聞く産地のものー御○×ーとかなんとか書いてあったのだが何故か覚えて居ない。
そちらの緑水晶は結晶が細めで色が濃緑色から黒に近い位のものだった。こちらも矢張り群晶タイプの標本であったが、其れが五つ程も出されていて中には見応えのある大きな標本もあった。
結構良いものが五千円で出されていたので今思えば買っておくべきだったのかなと少々後悔はして居るがまあ其れでも一つきり、其れで良いんだ、毎年ひとつだけだ。
ただし、こうしたおそらくは限定的に産出して居ることであろう標本はその時限りのものである可能性も充分にあり従って本当の本当は何でも良いからそういうものは買って置いた方が原石趣味にとっては良い。
けれど個人的には私が今回入手して来た柿野産の緑水晶群晶の方がずっと魅力的である。
私にとって緑水晶は大変癒される石で其の深い緑の尖塔の乱立はどう見ても矢張り深い森の木立の雰囲気である。 或は海中に生えて居る昆布やわかめの群体のように見えない訳でもない。
だからそうした自然さ、より自然の方に近しいイメージがするので緑の水晶が好きになったのである。
尚この標本は水晶が折れて居る部分もあり其処には特に深く濃い美しい緑色がのぞいて居る。 兎に角全体的に大きな緑水晶がニョキニョキと生えた、今では希少な標本である。
と言うのも、この水晶が出た鉱山はもう大昔に稼行を止めて居り現在は良い物が採れる訳ではないらしい。
岐阜県山県市・柿野東洞 [鉱物採集第15回: 緑水晶] 2009.12.13 Sunday 14:30 http://honeymolasses.jugem.jp/?eid=343
しかもこのブログの記事以降にこの産地が何故か人気産地となりそれこそあちこちから大勢の鉱物採集家が訪れたようなのである。 従ってもう良いものはほとんど拾うことが出来ないことだろう。私も前々から一度は訪れてみたい産地だったのですが、今となっては行ったとしてもレンタカー代とガソリン代、其れから高速代などで一万円以上は軽くかかる産地である。
だから現金採集で得た今回の柿野産の緑水晶群晶の方が余程安上がりに済んで居るのである。
尚此の標本はミネラルマーケットという団体がどうやら愛好家の放出品を出品して居たもののうちの一つであったらしい。
国産の鉱物の収集では其のようなコレクターの放出品を狙っていくと納得のいく標本に巡り合える確率が高まることだろう。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1755回) ..2014/09/14(日) 16:55 No.4850 |
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現在物欲は余り無し。
然しほじくれば幾らでも物欲は湧きいでてくる。
現在美への欲もかって程は無し。
然しほじくれば幾らでも此れも出て来よう筈。
意外なことに色欲への兆しあり。
まことに意外なことに。
つい先日甘美な夢を見たが其れは或女を愛した夢であった。
我は此の十年ほど夢を覚えて居ないが此の夢はしかと我が記憶に残った。
我は何故か長野県に居て、其処で知人の家に滞在して居るのである。
其の家の娘か、或は近所の家の娘だったかに好みの女が一人居た。
普通に見える只の女なのだが我にとっては其の女こそが普通では無い。
其のように恋愛とは幻想でありかつ妄想であり錯覚でありかつ決めつけである。
個人意思の妄想による其の決定要件こそが恋愛の核心部でありかつ愛の永遠の謎の部分である。
さて我は其の女を好いた。
夢の中で死ぬほど好いて居るゆえ其処ではもう藝術も何も無く、石も無く萬年筆も無く観念もなく仏教さえもが無い。
其の女と我は共に暮らしたく思った。
一緒に暮らすということを思い巡らすだけで甘美であり、まるで全世界が其処に溶け込むかのようだった。
こんな気持ちになったのはまさに十五年振りのことである。
十五年前まで我は或女と付き合い、其の付き合いは長きに亘り十三年間に及んだ。
我は此の女と所帯を持つつもりであったが、其れは諸の事情により叶わなかった。
其れで女とはまことに現金な生き物で、こちらを嫌ひになるとそれはもうトコトン嫌ひになるのである。
其の時其のような女の隠された性質ー本質的性質ーといふものに初めて触れ得た気がしたものだった。
尚我は多感でむしろ昔は色んな女を好きになる方だった。
然し女に好かれたことは生涯一度きりで、其れは中学一年の折に並の女に並みに好かれたといふことのみである。
それにつけても此のところまるで女を敵か何かのように観念化して居た筈だが此れは一体如何なる事であろうか。
ところが此の事件には実は色々と伏線めいたことがある。
其ノ一
あのO先生が或女性と付き合い始めた。
O先生はゴルフのサークルーお見合いサークルーをつくり其れで儲けようとして居たが此の試みが見事失敗した。
お見合いコンペの参加者はたった一人だけでそれでも塾関係の仲間を混ぜてラウンドをこなしたO先生は彼女からのデートの誘いを受けて仕舞う。
其れで向こうの方から猛アタックを受けO先生は容易に崩れ墜ちた。
然し其の女性は大学の先生でO先生よりもずっとお金持ちであまっさえ新居となるであろう新築のマンションの方さえもすでに購入済であった。
という訳でまさに奇跡のようなことが起こり、現実にO先生は今の貧乏で孤独な境遇を脱出出来そうなところまで来て居る。
これ以上細かいことを言うと色々と差し障りがあるので申しませんが兎に角そんなことがあった。
然しながら、逆玉、之は現実にあり得ないことではないのだ。
或は宝くじに当たることよりも其れは難しいことなのやもしれぬ。
けれども可能性はゼロでは無いのである。
けれど私の場合、逆玉に乗る可能性は矢張り限りなくゼロに近いそうである。
大学のS先輩などはそう仰る。ーつまり私のように観念化された人間の恋愛の不可能性について論じられたのであるー
ちなみにS先輩も老後を共に過ごすパートナーを今求めて居られるが、バツイチで娘がもう二十八歳とのことなので、いや、それだけではなく金がなく風采のあがらぬ先輩のことでもあり其れも可能性はかなりに低いと言わざるを得ない。
まあ互いにそれでも良いのだが、何にせよ人間らしい心を少しは取り戻す努力をしてみることも或は現実を生き抜くことにとっては何ぞ役立つことなのやもしれぬ。
いや、観念人生が非現実的であるとは必ずしも言えぬことだろうとは思うのだが、其れでもそういう逆方向への展開が有って悪かろう筈もなく、其れでこのところ何故か急に色気づいて来て仕舞って居る此の仏教詩人なのである。
まさに年甲斐もなく。
そうこうするうち、職場で相変わらず女性の社会進出についての批判を述べ立てて居たところ、例の人が私の目の前に現れ、ワア、万年筆ですね!と、いかにも興味深げに私の世界に入って来たのであった。
万年筆は私の根の方が作家だから沢山持って居る物です。
私は変人の仏教詩人で万年筆ヲタクですよ。本当に常識は無いから世捨て人ですよ。昔は社会科や現代国語を塾で教えて居たがもう今は何も覚えていませんよ。だからもう子供も教えられないです。只の修行者ですよ、修行者。そして何より批判者。昔なら反社会的人間の烙印を押され矯正ー強制ー収容所送りですよ。このままでは間違いなく野垂れ死にですよ、野垂れ死に。ただし仏教のことなら少しは分かりますよ。
ー私は写経が好きで、お経の内容などの書かれた本を読むのも好きです。なので私も変人です。ー
あれ、そうか君も変人なのか。こうして良く見れば矢張り年寄りのようではあるが私よりは少し若い位なのかなあ。 さらに良く見れば顔貌も真面目そうで嫌いなタイプでは無いが、何より其の変人といふ言葉に激しく揺さぶられし我が胸中である。
ーネットで書かれて居るところを教えて下さい。一度視てみたいですから。ー
そんなもん、見せられるもんか!元より此のキ○ガ×自称詩人の云う事に真実などこもっては居ない。すべてが妄想である、幻想である、自己満足である、要するにタダの精神のマスターベーションである、然しながら、もし其処に一片の真実が宿って居るとするならば、其れはまさにこの美しい星地球への愛と諸のか弱き生命達への不変の愛、つまりは生命への全的な而して真心よりの愛の賛歌、其処に分け隔てなく与えられることだろう我が慈悲の思い、其れ等佛の慈悲と神の愛とに貫かれ倫理観と道徳観とまともな気候の復活をこそサア、今こそ目指して進むのだ。君には其れが出来るのか。本当の本当に其れに同意し行動を共にすることが出来るのか。しかも常に真面目にそして時には不真面目に。
ー … ー
其ノ二
このほど母が三日間程検査入院すること。
其ノ参
還暦間近のS先輩のアパート独居生活の話を聞くうち、次第に其れがきつそうに思われて来たこと。
さて、困った。実に困った。
果たしてオトコとしてまだ役に立つのだろうか、此の俺は?
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1756回) ..2014/09/17(水) 00:37 No.4851 |
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クローズアップ現代 拡がる少女売春〜JKビジネスの闇〜 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2014057722SC000/index.html
これを視る限りは世の中は確かに腐って来て居ります。
特に日本社会はこのような非公認での性風俗の風潮や飲酒などには寛容だから今後は余計にヤバいものがありますな。
ただし、私は公認された性風俗に対しては意外と寛容で、そうした業界でプロフェッショナルとして働いて居る女性をむしろ尊重して居る程です。
尚此の番組中で少女たちを買う男性側のセクシャリティの方をこそもっと大事にした方が良いと女性の評論家の方が述べて居られますが、そりゃちょっと無理な部分もはっきり言ってありますね。
つまり男の性と女の性は全く違うということです。
何故なら今余りにも多過ぎるのが教師が行う盗撮や買春などの犯罪ですが其れは何も教師に限らず男性なら普通に出来て仕舞うことなのです。
尤も倫理観とか道義心とかいうものを抜きにして考えればの話ではありますが。
こう言うと何を言って居るんだと思われるかもしれませんが、男性の性の本質論から云えばまずそうしたこととなるということなのです。
そんな娘位の少女が何故好きなのか、ロリコンなのか、そんな娘ほどの少女の裸を夢見て其れで何が幸せか、しかも教師ともあろうものが。
いや、教師にはロリコンがむしろ多いのですよ。
まあ多分私などもそうなのだろうが、それでも現実的には私には何故か年上のお婆さんばかりがくっついて来易いようです。
勿論其の欲望の部分を理性にて抑え込んで居る訳です。
或は道義上の観念や法的な抑止力で行動として出ないようにして居る訳です。
それでも男は本当は若い女の方により興味があるのだし風俗店にしたってお婆さんばかりが出て御座るような店には行きたくないのですよ。
其れは男性の本能として規定されて居る部分なのでどうしょうもないことです。
女性は愛という概念が大切なものであるとか、或は家庭が大事であるとか男性に対して常に女性中心での幻想を抱いて居ますが、そして特に近代以降は男性が其の夢に応える形で一夫一婦制でのあたたかな、そして穏やかなる家庭を築き良き夫と思われるよう常に努力を続けて来て居りますが実は其れも多分に幻想概念です。
第一猫のオスなんて家庭や子供が大事だなんて思って居る奴は一匹も居ないのですよ。
生殖行為を終えたら、すぐに逃げる。これこそが猫のオスの基本行動である。
其のように数々のメスに種をばらまいて良い子猫ちゃんが生まれる可能性を高めるのが猫のオスの基本行動です。
もっとも猿やゴリラの場合は異なるかとは思いますが元々動物のオスの下半身には愛だの家庭だのいった固定化された概念はなく、即ち流動的な種蒔き意識ばかりで其れは立派な肩書きを持つ人だとしても、本質的には変わることがないという話です。
其の男性の下半身の自由奔放振りを理性やら観念やらで雁字搦めにして抑えて居るのが現代人ということなのであり、然し其処まで抑えられて仕舞えばたとえ教師でも何やらムクムクと頭を擡げて来る悪い衝動には抗し切れないことだろう。
特に学校で抑えられ、おまけに家庭で抑えられで俺はもう我慢の限界に達して居るぞ。
するとあれ、あんなところにあんなに短いスカートをはいたJKー女子高校生ーが!
そんな訳で其の最後の衝動を抑えるのは並大抵のことでは御座いません。
然しながら其のような行為には愛の意味として規定されるような観念性は付与されて居ない訳です。
そうした肉体が生み出す快楽には基本的に観念的価値が付与されることはない。
観念的な価値が付与された愛はより純粋なものともなり得るがそうしたものは純化されまた昇華され尽くしてやがては神の愛と云うが如くに普遍性を帯びたものとなっていく。
其の意味では女性が望む幻想的な愛の形も一種の観念化された愛の形であると言えなくもない。
だから純粋だと言えば其れは純粋である。
然し、其れは男性の本能的な性の形態にとってはむしろ不自然なものともなり得、かつ枷のようなものともなり得るものだ。
其のように愛というものは一筋縄ではいかぬ難しい概念である。
ただ、愛は観念だけでは済まされない領域のことでもある。
何となれば愛には性の領域が含まれ、むしろ其の本能領域の発現無くしては愛としての前提の部分が成立しない。ー男女間の愛についてはー
即ち愛とは生であり同時に性である。
対して純粋化されし愛の領域は神の領分だが性はまさに此の世に存在化されし我々の領分でこそある。
尚仏教では観念化されることの無い愛については其れが即否定されることとなります。
性を否定する訳ですから、最終的には生までをも否定されるということとなる。
仏教は其のように性を否定し生を脱出していく為の教えなのですから、これはもう一種究極の宗教です。
あくまで此の世を楽しく、皆で仲良く明るく生きましょう、なんて教えでは全くないのです。
だから現代人にはもうほとんど理解出来ない教えです。
もっともそうであるからこそ、ダイジェスト版の現代の大衆にも分かり易い教えが成立して居て其れが大乗仏教だということとなる。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1759回) ..2014/09/25(木) 13:59 No.4854 |
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地元のTV局が制作した古田 織部に関する番組を視た。
ここからも、文化力とは矢張り幻想である。
所詮は文化力も其の幻想の域を出ないものである。
何故ならそもそも文化とは余剰である。
科学的に記載される人間の生存の要件が充たされて初めて実現出来得るであろう何かだ。
第一こんな熾烈な競争原理の支配する時代に文化力なんてちゃんちゃらおかしい。
世界にはまさに食うや食わずで人生と格闘して居る人々が大勢居るというのに其の余剰の部分への物的または精神的な投資を考えることは逆に無粋といえようものだ。
ひょっとすると、文化なんて要らないものなのではなかろうか?
とすれば、私はもう詩人でも何でもなくタダの仏教庶民なのである。
然し評論家の山田 五郎氏は番組中であの過酷な戦国時代に於いてこそ織部好みと屡語られるような所謂へうげものの文化が生じたのだろうと語られて居た。
即ち文化とはひとつの精神性でもあり得る訳だ。
人はパンのみにて生くるにあらず、とは屡語られて居る言葉ながらまさにそうしたことなのであろう。
人間は精神性のようなものを常に欲しつつ歩んでいくものだ。
戦功やら成功やらそんなものばかりを追い求めて生きて居るだけのものではないのである。
然し其の精神性はたとえば宗教の方で充分間に合うものなのではなかろうか?
宗教があれば藝術は不要なのではなかろうか。
然し其れはどうも質が違うように思われるのである。
宗教に於ける精神性の規定は創造ではなく維持の為に為されることだ。
其の維持とは制度及び人間の維持である。
他方で藝術に於ける精神性とは創造的領域への精神の解放のことだ。
其のようにベクトルが異なるので元来別物である。
然し共に同じくして精神を対象とする格闘であり進化でもある。
ただし、文化には作為性が常に問題として含まれて居る。
例えば織部焼を作る時に陶工はわざと陶器を曲げたりしていびつな形に作る。
釉薬などもわざとかけ外したりして其処に偶然の景色を盛り込んだりもする。
然し其の作為とはやり過ぎるとむしろいやらしくさえ感じられるものとなる。
いざそうなると形式の世界に捉われた大量生産の普通の茶碗の方が美しくさえも見えて来るものだ。
其のようにへうげることとは実はある種の危険性を孕んで居ることでもある。
たとえば私は自らの感性に基づいてたまには詩なども書きそしてこれまで様々な文物、藝術の世界にも接して来たのだったが、そして常識外れのことばかりを述べ時には社会の秩序を乱すようなことさえ述べることさえもあったが其の事により私が本質的に癒されていたという訳ではないのだ。
藝術に於ける作為は、そしてへうげ者として世を紗に眺め精神的悦楽の世界に浸り切ることは、本当の本当はそうした一種虚しいものさえをも含んで居るものでもある。
かって太宰 治が藝術とは豚の鼻です、と作品の中に書いていたがこれがまさしくそうしたことなのであろう。
藝術とはあくまで豚の鼻のことであるに過ぎず、其れ自体が香り高いものなのではなくまた特別なものだという訳ではないのである。
ただ其処には何かを感じ取る能力があり、しかも世の諸の香って居ることが良く分かるから媒介者として其の香りを移して何かを常に生み出し続けてい くばかりなのである。
だから其のようにいつまでも人間の余剰の価値の為にヒーコラして作品を生み出しつつ所謂へうげ者を続けていくばかりなのである。
そして其れが万人に受け入れられるものであるか否かということとはほとんど関係のないことなのである。
藝術家とはまず其のように余剰の卑しいことを行うべき存在である。
ただし豚の鼻に成りきらなければ世の諸の芳香を嗅ぐことは出来ない。
優れた宗教家でも学者でも、また他の何であれ豚の鼻が備わって居なければ風流、粋狂の類を解することは出来ない。
太宰 治はその後を続けて、豚の鼻は花の香りを知って居ます、とも述べて居る。
ゆえに其の部分にこそ藝術の香り高さが存して居るのである。
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目覚めよ!+
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1674回)
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2014/05/15(木) 22:59 No. 4769 |
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Wikipedia-秘教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%98%E6%95%99
仏教でいう「顕教的」なものの対義語が密教つまりは秘密仏教のことである。
密教には自ずと秘儀性や神秘性が挟まれて来て居て初期仏教の教えとはまるで別物のようになっていったという経緯がある。
然し宗教を、特に仏教を体系的に学んでみる為には欠かせない分野ではある。
個人的には密教は多分にキワモノ的な仏教である感が否めないのだが、我が国では最澄や空海が中期密教を伝えて来て居るので意外と縁の深い教えともなって居るのである。
とは言っても、最澄が日本に伝えたのは中国の仏教である天台教学である。
ちなみに空海が伝えた真言密教では大日如来という一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。
対する天台宗では仏はあくまで法華経の本尊である、久遠実成の釈迦如来なのであるからつまりはお釈迦様のことなのである。
だから一応は信頼出来る。たとえ初期仏教ほどは信頼出来なくとも。
尚、浄土宗には阿弥陀如来というこれまた一種のスーパー佛様が出て来て仕舞うので私はどうも馴染めないというかはっきり言って心から信頼することが出来ない。
私の場合はそうしたスーパーなものは一切要らないから仏教の開祖としてのお釈迦様の教えだけを心から尊敬しておりますということである。
そしてそれは信仰というよりも尊敬なのである。
特に釈尊の頭脳明晰なところには心より痺れて仕舞って居ります。
Wikipedia-天台宗 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97
ただし我が国に於ける天台宗、それも比叡山延暦寺の果たした役割はとても大きなものがあった。
当時の仏教の総合大学の機能としての、その仏教的叡智の総本山としての役割は矢張り尊敬に値するものなのである。
特に日本の天台宗の開祖最澄の人格は高潔かつ謙虚ないかにも思慮の深い学僧としての人柄が忍ばれるもので、私が釈迦の次に尊敬して居る僧侶がこの最澄でありまた日本の曹洞宗の開祖である道元なのである。
天台教学はもう二十年位前に少しだけ囓った覚えがありますが残念ながらそれももはやうろ覚えのものとなって仕舞って居る。
それでももう一度学んでみたいという気にさせるだけのものが其処にはあったということだけは確かなのである。
ただし今回私が述べてみたいのは仏教の話ではなく、仏教以外での秘教的な側面を持った宗教のことなのである。
たとえば十年位前のことだったか、西洋思想または宗教にグノーシス主義というものがあることを知りネット上で調べていたことがかって私にはあった。
Wikipedia-グノーシス主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
この思想または宗教は先に挙げた秘教のひとつとして数えられているものである。
ー1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。
グノーシス主義において一般的に認められるものは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界の把握の仕方、世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。
グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の 「反宇宙」論である。
宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬であるとグノーシス主義では考えた。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。 善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。 悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは「イデアー」こそは真の存在であり世界である。
善と悪、真の神と偽の神、また霊と肉体、イデアーと物質と云う「二元論」 が、グノーシス主義の基本的な世界観であり、これが「反宇宙論」と合わさり「反宇宙的二元論」という思想になった。ー上記より引用ー
一方はグノーシス主義をキリスト教とは別個の、オリエントに起源を持つ「東方」の宗教であるとし、その非キリスト教(異教)的側面を強調する姿勢である。もう一方はグノーシス主義をキリスト教内部の異端、あるいはギリシャ哲学に影響を受けた宗教哲学の出発点としてキリスト教史のなかに位置づけようとする姿勢である。今日では、グノーシス主義をキリスト教とは別個の宗教思想であると考える立場が主流である。ー上記より引用ー
それにつけてもこの秘教的な思想ないしは宗教こそは面白いものです。
グノーシス主義においてはまず宇宙つまり物質的世界が悪だと捉えるのですがその点こそが非常に面白い。
「反宇宙的二元論」によればこの宇宙とは畢竟否定的な秩序の顕現に過ぎぬものなのだから世界を認めず受け入れないという全くの否定的な立場を取っています。
前々から私は近代という時代につき屡考えて居たのでしたが、其処でまず不思議だったのが西洋起源の思想や宗教が前向きにーつまり肯定的にー世界を捉えるものばかりであることにまず大きな違和感を感じて居たのだった。ー確かにキリスト教は必ずしも現世を前向きに捉えてはいないのだが、終末を経て民が神に救われるという点に於いてはむしろ究極的に前向きな宗教であるー
というのも古代印度思想などはそれこそ輪廻に繋がれて居る生命はみな不自由な苦しい立場にあるのだからそうした境涯を脱していくことをまず思想や宗教の目的としていた訳で、その点で仏陀となるという解脱の概念は何も仏教の専売特許であった訳ではなく他の思想や宗教も当時はみなその解脱することを究極的には望んで居たのだった。
然し例のデカルト以降、近代的な分析型の価値観というものが組みあがりしかも何だか知らないがいつのまにかこの世界は合理的に解釈でき特別に出来の良い人間の知性力でもって自然を加工していけばいつかは神にも等しい存在となれよう筈だ、我々が住まうて居るこの世はそんな人類の夢を実現するに足る素晴らしいところだ、などという妙に身勝手で思い上がったかのような一方的な世界観を形作っていって仕舞った。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1675回) ..2014/05/15(木) 22:59 No.4770 |
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つまるところ近代の思想ではグノーシス主義とは全く逆に此の世は良いところなのです。
そこは人間の力がどこまでも発揮できる所、まさに神に近づく為の階段を一歩一歩登っていくことの出来るところである。
現代人にとってそんな魅力的なところが悪かろう所である筈はない。
然し大昔にはそれとは真逆の思想が多く存在していたのである。
確かに現世を否定的に捉えているという点でこの宗教は東洋思想的です。
でもどうあろうと、兎に角大昔の思想や宗教は屡この世界を否定的に捉えていたということが私には一番引っかかる部分なのです。
そうしたものが、段々と消えていったか、或いは勢力としては弱くなりやがて秘教的な扱いを受けるようになっていった。
まあそれでもキリスト教や仏教でも本来のところは全く現実的な教えではなくまさに秘教のようなものなのでしょうが。
対してあのイスラム教の教義の方が遥かに現実的であり世俗的な世界の捉え方をしている宗教のようです。
尚キリスト教や仏教も元はそのように悪いかまたは受け入れがたい現世から救われたり脱出していくという教えなのです。
現世利益とか子孫繁栄とか人類称揚とかそうしたことを行うための教えでは根本的にない筈です。
人間はそのままではダメだから心を入れ替えて信仰せよ、或いは心を入れ替えて修行せよとはっきり宣って居ります。
然し現代人はそんな事は我関せずで毎日お金を稼いだり子供を育てたりとそんな風にあくせくとしながら生活の方をやって居ます。
きっとこの世が悪いところかもしれないという思想や宗教が意図的に社会から抹消されていったからなんでしょう。
だからもはや誰も知りません。この世がそんな悪いところかもしれないなんていうことは。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1676回) ..2014/05/17(土) 22:43 No.4771 |
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グノーシス主義とはつまりは二元論としての物質界を否定的に捉え、対しての霊或いはイデアーの世界こそが真の存在であるとして其処に到達するー物質としての存在を脱してーことを目指した思想ないしは宗教だったのだろう。
尚私はこうした立場も基本的に有りだろうと今考えて居る。
何故ならこの世界はそのままではパラダイスでなどあり得ないからなのだ。
実際いつまで経っても貧富の差は激しく社会的に人間は不平等で、特にこの近代社会に於いては人間は物質的に深く縛られているとでも言うのか、カネ、モノに対する執着が甚だしく人々は自己矛盾的なエゴイズムの世界をより深く掘り下げつつ生きて来て居るといった有様なのである。
つまり人間存在の心理特性は近代以降特に汚れに充ちたものとなりつつありアノ白蓮華の清い花などとは真逆の穢なーい毒花を咲かせて居るばかりなのである。
だからこそこうして世界中で様々に問題が引き起こされる。
そうした問題とは実は人間の心の内部から引き起こされて居る問題なのである。
其れは最終的に社会制度の問題でもなければ、経済の問題なのでもなく、ましてや政治の問題なのでもない。
つまりは人間存在の普遍的な心のあり方としての問題なのである。
そしてそれは時空を超えて常に其処に横たわって居る問題なのである。
其れを解決するために宗教という人間の全体の心の専門家である分野が遥かな過去より存在したのである。
だからこそ私は人間存在にとっての宗教の力の必要性を第一義的に捉えて来て居るのだ。
あのニーチェはかって宗教の力が形骸化した近代世界のことを所謂畜群が闊歩するニヒリズムの世界として正確に予見して居たのだ。
実際に最近はもう何が何だか分からないような心理的退廃や大きなエゴの対立が横行する世の中となって来て仕舞って居る。
それがもはやインテリ層の知的抑止力をも超えて仕舞って居り、たとえば作家や詩人であっても自己の想像の範囲を超えて仕舞うかのような現実に直面せざるを得ないこととなっているのではなかろうか。
もはやそうした一種歯止めのきかない心理的領域に現代文明は歩みつつあるのかもしれない。
丁度近代科学の生み出した自然の加工力とその加工力による諸の破壊に歯止めがかからないのと同じくして、文明社会が抱える心理的な病についてもそれにもはや歯止めをかけることはかなわないのかもしれない。
そこで、だ。
そこで私はむしろ過去の文明ー人間ーの心理的な傾向のことを調べて居るのである。
一体何がこの人間存在に是非必要であったところでの精神のタガのようなものを外して仕舞ったのだろうか?
勿論ポストモダニストとしてそのことを述べればそれは科学技術への盲信や唯物論的な世界観への盲従ということとなろうかと思う。
然しそれだけではないのだ。
それだけではなく、それ以前に、宗教的なものへの関心の無さ、つまり自己を根本的に規制するものに対する強烈な拒否反応が現代人の心根の部分に巣食って居るのである。
それは具体的に言えば自分は自由で偉いと思い込んで居る近代的な自我の意識である。
また世界はその自由で偉いー諸の権利に支えられてー己が闊歩し得る最良の自己の発現の場なのである。
今現代人は誰もがそのくらいの意識を持って毎日生活している筈である。
そうでなくば、この狂おしいまでに忙しい現代の一日を個としてこなしていくことなど出来はしないのである。
さてそれではグノーシス主義のことに戻ろう。
グノーシス主義では物質が悪いのだから世界も悪いのであって、であるからこそ精神の実在性、純粋性のようなものに立ち還ることを目指せば世界全体も良くなるとそう考えたのだろう。
なおこれは所謂観念論という哲学の領域に一種似て居るものである。
Wikipedia-観念論 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E8%AB%96
こうした物質界を悪玉と捉えるものの見方はある意味で非常に精神的ー宗教的ーなものの見方なのだと言える。
対して近代以降のものの見方は明らかに唯物論ー非精神性ーの方に傾いて来て居る。
それを平たく言えば、モノとして或いは力として感じられるものにこそ価値があるという考え方である。
近代科学はそうしたモノまたは力の分析にばかり膨大な労力を費やして来て居る訳で、しかしながら、現代社会は其処でそのことにかまけて人間の心の方の大問題について余り考えて来なかったのではなかろうか。
ところが本当は人間の心の方の問題の方がずっと大問題なのである。
たとえばあのアインシュタインは晩年に人間の心の醜さについて屡触れるような発言をしていたそうである。
科学上の真の天才と呼ばれるような人にしても最終的にその面だけが大問題として捉えられていたというそうした話のオチなのである。
数式や物理法則は謂わば人間の心の問題には蓋をして進むことしか出来ないのである。
そして事実、今世界では国家レヴェルでのエゴの対立の問題、社会レヴェルでのエゴの対立の問題、また自然と人間存在との自己矛盾的な対立の問題などが噴出してそれこそ収拾がつかなくなって来て居る。
それらの問題の根っこに横たわるのは畢竟その人間としての心のありようの問題なのである。
だからこそ本当の本当は問題の根はひとつで、それが人間の心の醜さを如何にして浄化していくかという部分に尽きて居るのである。
尚、私が今あえてグノーシス主義のような秘教的な見方を述べて居るのは、その教義の通りに物質界は悪だからそれには余り与せず物ー肉体も含めてーを全部捨てて仕舞えなどと言って居る訳なのではない。
ただそうした考え方もかっては色々とあったということだけを述べておきたかったのである。
近代主義の発信する典型的な考え方、それはすでに我々の脳裏に深く刻まれて居り我々は一種それに洗脳されつつあるであろうことも否めないことだろう。
然し本来ならばものの考え方には大きく幅があるものなのだ。
物質的な豊かさや便利さを追求すること、或いは社会が間断なく進歩し過去を切り捨てていくこと、または人間の心の中をしかと見据えることなく外面的な作用ばかりに気を取られていること、そうした近代の常識の愚を其処に悟り知ることの為にこうした秘教的なものの見方があるのではなかろうかと今私は観ずるのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1677回) ..2014/05/17(土) 22:52 No.4772 |
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グノーシス主義的に世界を解釈すれば、宇宙の存在そのものが無知を背景にしているとされるため、宇宙には秩序も法則も存在はするが、結局のところはそれらは善き秩序や法則ではなく本質的には悪影響しか持たらさないものである。 したがって、宇宙に存在するものはすべて邪悪であり、人間の肉体もそのように悪いものである。
ただ、人間の中の霊だけが本当の意味での神とつながる存在だとされる。が、同時にその霊は宇宙という巨大な牢獄、人間の肉体という牢獄に閉じ込められているのである。
そしてこの霊を解放することこそがグノーシス主義の目標となるのである。
然しこの思想、何だか仏教にも似て居る感じが致します。
仏教は元々この世を苦の集積であると捉えて居る訳です。
人間にとっての正ではなく負の要素の集積の場です。
しかもそれは物質的にもまた精神的にもそうなのです。
だから先祖供養とか子孫繁栄なんて云うのはそれは本来の仏教の役割ではなく本来の仏教の目指すところとはそれすなわちこの苦に充ちた世界からの自分自身の脱出のことです。
ただし仏教に於いては自己の精神を磨いていくことは可能だとされて居る。
勿論肉体を律することもまた必要ではあるが、本当に大事なことは自分のものの見方を律しつつ変えていくことこそにある。
その点で神と連なることでの霊の開放を主張するグノーシス主義と精神の解放つまり明知による解脱を目指す仏教とは似て居る部分がないとは言えない。
ただし仏教では霊などというものは全く問題にして居りません。
そうした存在の有無について一切問わないというのが本来の仏教での立場なのです。
霊魂だとかあの世であるとか地獄などいう概念と戯れて居るのは後の変わって仕舞った仏教のことで釈尊はそうした意味のない戯の論議をすることを戒めて居られた程です。
尚、物質的な世界がそのままでは必ずしも良い世界ではないであろうことは何となく私には感じられないでもない部分です。
なぜなら物質は限定物に過ぎないので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
もっとも生命も限定品ですので本質的に解放された存在ではあり得ないです。
だからその限定された同士で仲良く万年筆など愛でて居ることなどはたとえば可能かとは思われますが、それも畢竟精神の方が限定を離れていくにつれ物質の価値が無意味化されていき最終的には物質の意味が解体され精神にとっての意味をなさなくなることだろう。
またグノーシス主義での宇宙の存在の背景に無知あり、とする考え方なども非常に面白いですね。
仏教では衆生をそのままでは無明の生き物であると捉えて居ますが少しそれにも近いような考え方です。
要するに+思考ではない考え方ですね。
ちなみに仏教がプラスの思想だと思ったらそれは違って居て、仏教はむしろ究極のマイナス思考から入り最終的には究極のプラス思考ー思想ーに転じていく教えのことなのです。
この世は苦の集積ーマイナス思考ーだが体と心を律することで明知に至り最終的には解脱するー究極のプラス思想の完成ーということとなります。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1678回) ..2014/05/20(火) 00:59 No.4773 |
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グノーシス主義とは実に面白い思想であり宗教である。
どこが面白いのかと言えば、謂わば即物的、現実的ではないところが面白い。
対して近代という時代はその即物性や現実性がより堅固に構築された世界なのだと言える。
つまり、そこを平たく言えばカネ、モノ、チカラがものを云う時代が近代の世界観なのである。
だからどんなに立派なことを言って居てもたとえば一文無しで無一物で無名だとすると誰も振り向いては呉れない世界のことなのである。
観念力がその唯物論に負け続けて来て仕舞うとでも言うのか、兎に角そんな一種精神性を欠いた世界であることが近代の価値観の特徴なのである。
然し人は本来もっと観念力の方を大事にして居たはずではなかったか?
特に日本人ならば其の事に思い当たる節もあるのではなかろうか。
武士は食わねど高楊枝 http://kotowaza-allguide.com/hu/bushiwakuwanedo.html
ここで良い方の意味に解釈すれば、武士は精神で生きて居るので貧しさなんかにへこたれていないということである。
逆に現代人の我々はほとんど精神では生きて居ないのでたとえ貧しくはなくともあらゆる誘惑に弱くかつあらゆる逆境にすぐへこたれて仕舞う。
それは勿論この私もそう。
私は自分が武士のように高潔な魂の持ち主だなんてこれっぽっちも思って居ない。
皆様と全く同じように精神の方がもうドロドロなのである。
ただその精神がドロドロなのを一体どうしたら治せるのかなあと常日頃から思って居るだけなのである。
要するに近代という時代は理性的にスマートな世の中をつくって居るようでいて実は精神的にドロドロで低級なものばかりを追い求めていく社会を形作って来て仕舞って居る。
第一理性なんて云ったって一体何が理性なのやら、時代としての精神性が基本的に崩壊して居るというのにそもそこで何の理性だと宣うのだろうか?
そして現実的であるということは必ずしも良いことではない。
なぜなら現実ということは限定である。
対して空想的ないしは観念的であるということは非限定の方向へ進むということでもある。
現在化ー現実化ーが進むとエゴの対立がより顕在化し収拾がつかなくなる方向へと進んでいく。
そのようにエゴの対立が深まると様々な破壊が必然的に引き起こされることとなる。
エゴの解放はそのように世界の破滅をもたらすことだろう。
エゴの解放は精神性の減じた世界に於いて甚だしくなる。
よって精神性の確立こそが現代社会にとって急務のことともなろう。
さてどうもこの精神性の確立ということが近現代の思想、風潮を立て直すに最も大事なことであるように思われて来た。
無論のこと、その立て直しには宗教の力が一役買って呉れなくては大いに困る。
Wikipedia-マニ教 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
グノーシス主義の流れを汲む宗教がマニ教である。
このマニ教、少し調べてみると矢張り非常に興味深く面白い。
個人的に一番面白い点は、基本的に東西融合の宗教である点だ。
上にもあるようにグノーシス主義、ユダヤ教及びキリスト教、ゾロアスター教、ミトラ教、仏教や道教などから影響を受けかつそれらを摂取、融合した思想だとされて居る。
こうした真の意味でのグローバルな宗教がかって存在して居たとはまさに驚きである。
しかも今日でも、中華人民共和国の福建省においてマニ教寺院の現存が確かめられているとあることからも消滅した宗教ではなくかろうじてではあるが現存して居る宗教である。
Wikipedia-マニ教ー東方宣教とその影響 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.9D.B1.E6.96.B9.E5.AE.A3.E6.95.99.E3.81.A8.E3.81.9D.E3.81.AE.E5.BD.B1.E9.9F.BF こちらを具に読んでみると実に面白い。
その教義の方はグノーシス主義の影響を色濃く受けたものでかの反宇宙的二元論的なもの、さらにゾロアスター教からの影響での善悪二元論ないしはギリシア哲学に於ける二元論の流れが組み込まれて居るとされて居ります。
然し結局はこのマニ教の場合も物質の世界を忌避、否定し、対して霊的なもの、つまり精神的なもの、ないしは観念的な世界を重視することで始原の宇宙への回帰を目指しそこで救済を得ようとして居るものである。
尚、この秘教中の秘教であるとも考えられるマニ教では極端な禁欲主義がとられているという点が特に興味深い。
Wikipedia-マニ教ー教団と戒律 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99#.E6.95.99.E5.9B.A3.E3.81.A8.E6.88.92.E5.BE.8B
マニは悪からのがれることを説き、そのためには人間の繁殖までをも否定したとされているがこれはあくまで聖職者だけのことだったのだろう。
然し、仏教をはじめとして古代の宗教は必ずしも人間の繁殖を許容して居た訳ではないのである。
ーただし仏教も世俗の衆生に対して生殖を否定して居た訳ではない。あくまで僧侶ー沙門ーに対しての生殖を否定して居たのである。ー
されど近代教ーかの芥川 龍之介によればそれは生活教というものに当たるのだそうだがーに於いては人間はほぼ無制限に増えていっても良いことになって居る。
すなわち人間は自然を従えし善き存在でありやがては神にも近づいていく程の存在なのだそうである。
一体この薄汚い出来損ないの動物のどこが、この醜い心の動物のどこが神にも等しい存在であるのか私には皆目分からないのだが兎に角そういうことになって居るのだそうだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1679回) ..2014/05/20(火) 00:59 No.4774 |
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それから以上にもあるようにマニ教の聖職者は「真実」「非殺生・非暴力」「貞潔」「菜食」「清貧」の五戒を守り、厳しい修道に励むことを期待され、肉食も飲酒も禁止、殺生も植物の方でさえ禁じられて居たそうである。
其処で所謂清浄で道徳的な生活を送ることが要求されて居たようである。
尚宗教というものは、本来ならばそうしたものなのである。
それは厳しいものである。
甘いものではないのである。
かってはこうした厳しいものがこの世に結構多くあった。
このマニ教の戒律のように或いは仏教の戒律の如くに、または所謂武士の魂といったもののように、色々と精神的に厳しいものが世の中にはあった。
然し、近代教はその精神的な厳しさを大事なところに於いてむしろ失くして仕舞った。
そしてまた変なところでより強力な精神的な苦しみを付与して呉れるに及んだ。
つまるところ、人間存在が精神的に自らを律するという点ではそれをほとんど全部とっぱらって仕舞った。
それなのに近代以降の人間存在は不平等や戦争や恐慌や離婚や金欠といった諸の塗炭の苦しみと縁することの頻度が増したのである。
ゆえに近代社会とは自ら大きく苦の増す方向へと舵を切った社会なのだと言える。
それも精神的に自ら進んでその舵を切ったのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1682回) ..2014/05/23(金) 13:07 No.4777 |
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この現象世界は実際観念化していこうとすれば幾らでもそうしていくことは可能な世界ではありますが、勿論そうしていくことには一種のリスキーな部分がありそうそう誰もがそうした試みの方に向いて居るだろうとは言えないのであります。
宗教や哲学、藝術の分野では屡そうした類での試みが行われて来たのではありますが、宗教にしたって一歩間違えばそれは邪教の類となってしまいがちなのでもありますし、哲学者なんてあのニーチェのように仕舞には狂人となって仕舞いますのですし、藝術に至ってはたとへば詩人や画家などは昔から飲んだくれたりした挙句に早死にして仕舞いますのですし、作家の人々は昔はその多くが自殺しちまうなどということがあった訳なのですしで、全く のところその現実解体の世界の方に与するということは一筋縄ではいかぬことのようです。
そうした精神の切岸のようなところにいつも置かれて一種の綱渡りのような観念世界を生きて居る人種が確かにこの世の中には居るということなのです。
確かに現代に於いてはそういうのはもはや流行らないのではありますが、でもその基本的な表現者の内面の構造のようなものは結局いつの時代にも変わらぬものなのかもしれない。
然し現代に於いてはそうした古典的な意味での文の分野の発展、未来ということはもう望めない段階に至って居ることなのかもしれない。
確かにそれはかなり悲観的な見方なのであろうが、どうも近頃私にはそう思われて来てならないのである。
第一、この十年間で芥川賞と直木賞の受賞者に女性が急増しているのだという。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/140120/bks14012008300000-n1.htm
それも前回だったかは、その受賞者の確か全員が女性作家だった筈だ。
そしてそういうのが私には面白く無い。
それは男が女に負けて悔しいということではなく、そういう風潮がすぐに文の世界にも反映されて仕舞うこと自体がいかにも節操のない軽薄な風潮であり気に入らないのである。
確かに我などはただの自称詩人で今ここでもキャンキャンと野良犬が一匹ー野良猫がー吠え続けているばかりのようなものなのである。
然し文の世界には文の世界としての威厳のようなものがもっと備わって居てしかるべきだと思うのだがそこは如何なものだろうか。
また女性の書く文が悪いなどとも思っては居ないのですが、またおそらくはそこで良く構想が練られた作品が書かれて居る筈ではあるとも思うのですが、それでも悪いけれど読む気にもならないんだなあ、それが。
尚、私は文の人ーの端くれの方に連なっているであろう人ーとしてはむしろさほど悲観的な見方をしている訳ではないことだろう。
作家の方々には私よりも悲観的な見方をして居られ文明は近く滅びると言っておられる方なども居られる。
そのことをはっきりと自分の本に書いて居られる方は居られる。
そうした意味では、どうも男性よりも女性の方がノンフィクションとしてのそうした悲劇的な結末というものを描きにくいのではなかろうか。
たとえば私は宗教詩人だからあくまで本当の本当は文明または文化の継続を望んで居るのですが、それでもどうも自らに内在する破滅性への願望とでもいうのか、或いはそれとは逆に外側の破滅を察する嗅覚が鋭すぎるとでもいうのか、兎に角そんなところばかりが研ぎ澄まされて来て仕舞って、五十年後、百年後にはもはや人類の存続が許される余地は無いなどということを強く感じ取ったりもして来て居るのである。
つまるところ、外部的または全体的な危機を察知する能力はおそらく男性の方が優れていよう筈だ。
逆に内部的な危機または個別的な危機に敏感なのが女性ではなかろうかと私は思う。
その内部的な危機というのは、私がいつも論じているような人類の精神性の問題などといった大きな問題ではなく個としての小さな危機の問題なのである。
文の世界にまで女性のその個別的危機対応力が拡がって来ているのだとすれば、要するにそれはもうこの世界全体が社会的に女性化されて来て居るということなのだろう。
しかし先程述べたように女性は内部的危機ー煎じ詰めればそれは自分の子をかばう力のことだーには敏感だが全体の危機を感じ取る能力やその危機への対応力、危機管理能力にはおそらく欠けて居ることだろう。
だから私は文明自体が女性化されているということに関して逆に危機感を抱いて来て居るのである。
文明が女性化されるということは、人間中心での生存論理が常に優先されるということでもある。
第一、一体どこの世界に人間ー自分の子ーを尊重しない母親が居るとでもいうのか。
母親は常に自分の子を最優先して育て、その子の人生の全い幸福をこそ乞い願うものだ。
然し、実はそれこそが所謂エゴイズムの問題や過保護といったことにも繋がってゆく。
厳しい言い方をすれば、或いは真理方向から言えば明らかにそうしたことにもなる。
文明自体が女性化する、つまり文明自体ー子自体ーを常に護るべきもの、かけがえのないもの、それが最後まで幸せでなければならないものとして常に進んでいくとするならば、つまりは其処では人間中心の価値観が堅固に組みあがり男性的な観察や懐疑の力ー観念的な猜疑心、或いは外面からみつめることによる自己批判力ーが弱められていくかまたは失われていって仕舞う。また全体の危機を見抜く力や危機管理の力の方も弱まっていって仕舞う。
文明を、社会を、健全な状態に整えておく為には、むしろその子ー文明ーを叱りつけ鍛えて逞しく成長させる為の男性的な原理、父性原理の確立が是非必要なのである。
現代社会は何故その部分が認識出来ないのだろうか。
女性力の拡大、或いは相対的には平等主義による男性パワーの弱体化で文明を鍛える、或いは批判する力はむしろ次第に衰えていくのである。
そのように一種狭い母性的な世界だけで生きるようになった文明の内部では様々な問題が噴出しやがては収拾がつかなくなるだろう虞が大きい。
ただし私は母性原理そのものを否定しているのではない。
そうではなく、母性原理を中心に据えて進む現代の文明社会の危険性につき述べて居るのみなのである。
尚、今回私は初めに世界を観念化して捉えることの出来る分野のことにつき述べて居る。
そうした分野では、どうも女性よりも男性の方がそうした世界自体を切り開いて来て居る様に思えてならない。
然しそれも、勿論全部が全部そうなのではない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1683回) ..2014/05/23(金) 13:07 No.4778 |
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それでも優れた宗教家や哲学者、詩人などに女性が多いかといえばそれはそうではないのである。ーもっとも昨今はその詩人にも女性が多いのだが。ー
特に宗教や哲学といったより大きく観念で捉えていく必要のある世界に於いて母性原理の役立つ領域はさほど大きくは無い。
私の言いたいことは、この世の中にはそうした大きな捉え方をしなければ見据えられない真理領域の世界があり、それは女性的なものの見方、すなわち母性原理の方だけでは捉えられ得ないということを述べて居るのである。
だからこそ今現在のように女性のパワー重視、女性の解放万歳、男女平等万歳だけではダメなんだ。
勿論そうかといってそれで芥川賞や直木賞の受賞者に男性が増える訳でもないのだろうが、ただ私はそのような大きな範囲での観念力の減退つまりは視野狭窄、人類の知恵の世界の矮小化、逆に言えばさらなる現実の現実化への加速、或いは唯物化、即物主義化することの奥にその女性原理の力が一役買っていはしないかとそのことばかりが気にかかって居るのである。
そしてそうした方向性にむしろ滅びへの予兆のようなものを感じない訳でもない。
その範囲の狭い視野の中で暖かい、柔らかい、快適なものだけに包まれ続けて居ると、何だか本質的に人間がダメになりそうな気さえもする。
そしてそのように文明が文明の母に守られ常にその子として快適に暮らし続けて来ているのではあるが、その文明の母親の外側にはもっと本当の母ちゃんが居てそれこそが宇宙であり地球である。
されど母性原理という文明の母親に過保護に育てられて来た我々には自然というその本当の母ちゃんの姿がもはや見えなくなって来て仕舞って居り、本当の兄弟ー他の生物種ーが今次々に死んでいって居るというのにそんなこと我関せずでただひたすらに個々人でのカネ、モノ、チカラの充実を、そのことの達成による個別的な満足を追い求めて生きて居るだけのことなのである。
だから滅ぶんだよ、そうした視野が狭まりエゴに囚われし文明は早晩滅ぶしか他に道はない。
ーと、とある作家の方は著書でそのようなことを述べられておりました。私自身としては滅ぶ滅びないといえば矢張り滅びることだろうがそれをなるべく先延ばしにする為には父性原理の方のことをもっと真剣に考えかつ大事にしていくべきであるということをこそ今ここに訴えておきたいのです。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1690回) ..2014/06/09(月) 23:41 No.4785 |
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NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第一回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0524/
NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第二回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0525/
今後間違いなく危機にまみえることとなるだろう文明が、現状でどんな状況にあり今後どのような方向性へ進みするとそこでどんな危惧が生じるのかということが良く分かる様に仕上げられた信頼の置ける番組である。
私は第一回の方を見逃して居り、かつオンデマンドの方でも見逃したので本日番組単体での料金を払って視聴してみたところである。
その感想などはまた後日述べることとして、現代文明の行く末に危惧を抱いて居られる方、人類の未来はどうなるのかということに深い関心をお持ちの方などに是非視聴して頂きたい番組である。
ここではまた私が現在読んでいる人口問題による文明の滅亡を論じた本の内容に関連した部分なども出て来て居る。
いずれにせよ正しい現状認識を持つという意味に於いて是非皆様にも視聴して頂きたい番組である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1695回) ..2014/06/17(火) 12:20 No.4790 |
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現代という時代の価値観は一言で云うと人間存在の持って居るもともとの精神性のようなものを解体していき、物質的な領域ー即物的な力ーやシンボル化された領域ー言語による規格化された象徴性による力ーにのみ価値観を置いて推進されたところでの非精神的な領域での世界観のことを云う。
要するに精神が其処に存在して居ない時代のことを云うのである。
純粋な意味では其れは存在して居ないのだ。
だから現代人にとっては其処でもはや精神的な領域のことなどそも何も分かって居ない、まるで分からなくなって仕舞って居るのだ。
しかも其の人間の白痴化の過程で一番怖い事は自分自身の其の精神の解体につきほとんど何も気付いて居ないということこそにある。
たとえば今現代人は誰もが物質的な豊かさを追い求めつつ日々を送って来て居る。
我我の日々の生活は物質的な豊かさを追い求めるということの為の日々の連なりとなって居る。
誰が好き好んで物質的な豊かさなど要らないとそう宣うことだろうか。
勿論誰もが豊かになりたいのでこの今という時を生きて居る。
然し物質的、即物的な豊かさというものは本来ならば人間にとって部分的な、限定的なものであるに過ぎない。
対する全体的、非限定的なものに精神的な領域というものがありコレが本来ならば人間存在の行動を規定するべきものであろう筈だ。
ところが近代以降の人間存在は其の物質的、即物的な豊かさというつまりは唯物論の世界にどっぷりと浸り其の本来の大事な領域のことをスッカリ忘れて仕舞った。
つまり、物質的な豊かさを追い求めるということにかまけて一番大事な精神の領域のことを忘れるか失うかして来て仕舞って居るのである。
其の結果、当然ながら精神の方は次第次第に貧困という状態に陥っていく。
そう物質的な豊かさを求め過ぎるとむしろ精神は貧困になっていく。
こうした当たり前の原理ないしは真理のようなものを、何故現代人は認識出来なくなって来て居るのだろうか。
ただし其れは大きく求め過ぎるとそのようになるということであるに過ぎない。
自分なりの節度を保った求め方はこの苦の多い人生を誤魔化して生きていくことの為には是非必要である。
それもあえて仏教徒的に言うならば、たとえば女や酒やクスリに溺れるのではなくちょっとしたモノやスポーツの方に熱心であることの方がずっと安全安心でよろしい。
然したとえば投資で大きく儲けようとしたり他人を出し抜いて大きく偉くなろうとしたり女房に飽き足らず妾を囲ってなんてのは其処でそも精神の持ち方の根の方が悪いので真理方向からすればそうした行動は愚かなことということになる。
人間が真に幸せになるということは、むしろ物質的な或いは精神的な欲望に於ける自己規制を如何にして上手にかけていくかという部分にこそ存して居るのである。
つまり其の自己規制をとっぱらうか或は失うかして仕舞った先には本当の幸せというものは存在し得ないものなのである。
人間が本当の意味で幸せになるということはそうした自己規制の堅固なやつをむしろ自ら進んで己に課していくということであるにほかならない。
逆に規制を無くせば豊かになれるかといえば其れはなれない。
そうかといって規制ばかりかけているような人生にも意味はない訳で、だからやっぱり仏法が諭すように両極から離れた真ん中の道を歩んでいくことを選ぶのが人間の生き方としてはより望ましい筈だ。
ー以下は以前に少しだけ書いてみたもの。ー
畢竟ー物ーとは人間の精神にとって謂わば内部存在のようなものである。
だからこそ物の領域ー自己にとっての所有物の拡張、所有物への知識の拡張、 非所有物への知識の拡張ーに深く与して生きることにはほとんど何の意味も無い。
そのようなことでは人間の精神は磨かれることも無ければ、また精神の領域が其処に拡がるということも無い。
精神が外部へ向かって成長していくことの為には、むしろ物質的、即物的な豊かさということを減じていくことのみにより其れが達成され得るのだ。
逆に精神が物質界に囚われて、或いはこの現象世界のみに囚われて、つまりは現在性、瞬間性、現実というこの一点にのみ囚われ続けて仕舞うと、精神は限りなく貧しくなっていく。
其の貧しいということは、明らかなものの見方を阻害する。
明らかなことがそれ即ち清らかなことなのであるから、貧しいということは其れ即ち穢れて居るということにも等しい。
そのように現代人の一般的認識は汚れて来て居る。
求めることが多過ぎるのでそのように汚れて来て仕舞うのである。
だからむしろ求めないことを考えていく方が良い。
まず物質的な領域に於いて。
次いで精神の領域に於いても。
もっとも精神の領域に於いて求めないということは、実はそれは可成に難しいことだ。
誰しも家族愛だの自己愛だの、そうした最終的には自己矛盾性に陥っていくだろう領域をむしろ積極的に掲げ持つことでこの現実世界を生き抜いて居る。
其れ等エゴの領域とは無関係では生きられないのが人間存在であるということなのである。
然しその自己矛盾性は、現代社会に於いてより拡大していく方向にある。
自己矛盾性を縮小していくのがひとつの良い方向性だと思われるにも関わらず、その真逆を行くのが我々現代人の精神の愚そのものなのである。
それで求めれば求める程にかえって渇望がひどくなり、次にはより高級なものやより珍しいものを求めたがることともなる。
然し私が言っているのは、そのことを止めよと言って居るのではない。
そうした節操のない欲望の解放の流れを変えた方が良くはないだろうかとそう述べて居るだけのことであるに過ぎない。
それは事実私自身がそうした道を歩んで来たからなのである。
私はかって私自身の精神の貧しさについて余りにも無知であった。
不覚にも、自身の精神の貧しさについて全く気付けないところに住して仕舞って居たのだ。
然しながらそれは私個人としての病気ではなく現代人としての病にほかならぬものでもあった。
そして其の流れを逆向きにすることで私は現代という時代を外側から見つめる眼を得た。
そのことによりその求めることへの執着の思いを逆方向へ向かわせるのである。
俯瞰視することで自己の欲望を客観化して捉える、つまり主観の対象概念として欲望を客体化するのである。
思うに人間存在とは精神性ー観念力ーと物質的な側面の融合体でありもとより純粋などちらのあり方にも与し得ないものなのである。
だから元々物質的な側面にばかり目を向けて居る必要はなくまた神様仏様のように純粋な精神性の顕現でもあり得ないものの筈である。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1696回) ..2014/06/19(木) 01:37 No.4791 |
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タゴールは私が青年期に愛読して居た詩人の一人である。
他に特に好きだったのはリルケの詩だったが、それでも今思い返せば一時期はタゴールばかり読んで居たこともあったのだった。
タゴールは詩聖とされている、かってアジア人初でのノーベル文学賞をとった古の大詩人である。
ちなみに私が書く詩とひとつ共通して居るところは宗教的な概念がその詩のなかに盛り込まれて居ることである。
つまりは私も根が宗教詩人なのだからこそタゴールの詩の世界観はむしろごく自然に理解することが出来る。
だからそのあたりの思いを元に今回タゴールのことを書き連ねてみようと思った次第である。
詩集 ギタンジャリ(GITANJALI) ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore) 訳:高良とみ http://linden.main.jp/tagore/gitanjali.html
7
わたしの歌は 飾りを捨てて しまいました。 衣装や 飾りについた誇りは もうありません。 飾りものは わたし達が 一つになることを 妨げます。 それは あなたとわたしの間に 入って その響は あなたの囁きを 消してしまいます。
あなたのみ前に わたしの詩人(うたびと)の虚栄(ほこり)は はじらって消え去ります。 おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。 あなたが歌を吹き給う 葦の笛のように ただわたしの一生を 素朴な まっすぐなものに させて下さい。
8
王子さまのような衣装や 宝石のくさりを 首につけた子供は 遊びの喜びを すっかりなくしてしまいます。 一あしごとに その衣装が 邪魔をしますから。
それがすり切れてしまったり 塵に まみれることを恐れて 子供は 世の中から 離れて 動くことさえ こわがるでしょう。
母よ 飾りの束縛は 無益です。 子供を 健やかな大地の塵から しめだして みんなのくらしの中の すばらしいお祭りに 行くたのしみを うばい去ってしまうのですから。
9
愚か者よ 自分の肩の上に 自分を 運ぼうとするのか! 乞食よ 自分の戸口へ 物乞いに来るのか! 何でも 背負い切れる人の肩に お前の重荷を すっかりゆだねて 後悔して 振り返ったり なさるな。
お前の慾が 息をかけると ランプの灯は 消えてしまいます。 それはけがれているのです―― 不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません 聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。
ー上記より抜粋して引用ー
7より
あなたのみ前に わたしの詩人 (うたびと)の虚栄(ほこり)ははじらって消え去ります。 おお 大いなる詩人よ あなたの足もとに わたしはすわります。
まずタゴールは例の谷川 俊太郎氏が鳥羽の連作で提示されていた大きな詩の上での問題にも当時すでに直面していたのだと考えることが出来る。それは詩人の虚栄は元来存在していないということなのだ。タゴールの言うあなたーおんみーというものは、神であり自然でもある人智を超えたもののことを云う。
そうしたものこそが本当の意味での大いなる詩人なのであり、うたびととしての自らはその前に座るべきものであるに過ぎないのである。謂わば言語の象徴性を超える言語以前の完成の世界、完璧な美の世界というものが自然界ないしは神の領域にはあり、言葉のシャーマンとしての詩人はその前にただ座してその御技を観覧しているほかはないのである。
8より
ここには、
母よ 飾りの束縛は 無益です。
とある。
王子さまのような衣装や宝石のくさりを子供に呉れてやったとしても、それで本質的に子供が楽しくなるー幸せになるーということではないんだ。自分の子供だけは金持ちにしてやりたいだとか、或は頭を良くして現代社会に貢献できる人間に仕立て上げてやりたいとかそうすぐに普通の親は考えがちなのだが人間をそういう方向性に規定して仕舞う事自体が実は愚かなことであるのかもしれない。
ちなみに我には子が居ないがもし男の子が居たら矢張り是非僧侶になって貰いたい。有難い法を頂く立派なお坊様となってこの濁世を少しでも浄化する方向へと教化していって頂きたいものだ。もっとも我が国の仏教の将来は暗いそうである。現在我が国の三割位の寺が荒廃していて、其処には住職も居らず寺が荒れ放題になって居るのだそうだ。そうなって居る理由のひとつに現代人の宗教離れということがあり、さらに宗教にはなるべく金を使いたくないという我々庶民の切実な金勘定の方の事情もある。兎に角日本の仏教の未来は暗い。が、息子がもし居たらそれでも是非仏教の世界に縁して貰いたい。いや子供が男でも女でも兎に角修行者にしていくべきであろう。
9より
お前の慾が 息をかけると ランプの灯は 消えてしまいます。 それはけがれているのです―― 不浄な手で 贈りものを 受け取ってはなりません 聖(きよ)い愛から 献げられたものだけを おうけなさい。
何と、人間のー汚れたー欲が息をかけるとランプの灯ー真実のーが消えて仕舞うのだという。
汚れた手ー心ーでこの世の様々なものを受け取るなとも宣う。
さて、この汚れ、ということが現代の社会にとっては最も重要な意味を持つ概念なのである。
何故ならこの言葉こそは、現在現代社会にとっての死語となっている概念だからなのだ。
この汚れ、穢れということは宗教や祭祀などの世界に於いて屡言い表されて居ることばである。
然し、現代に於いてはほとんど意味不明の言葉であるに過ぎない。
勿論何となくならば現代人にも意味が分からないでもない。
然しそれでもどうも分からない。
一体何が汚れているのかということがそも分からない。
つまり現代人は自らの心の汚れに対して全く無頓着なのであり同時に汚れという概念についても全くの不感症なのである。
だから私はその様こそがおそらくは現代人の心の病であろうとそう考えて来て居るのである。
然しながら矢張りというべきか、詩聖タゴールはその点についてもはっきりと言及して居たのであった。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1697回) ..2014/06/19(木) 01:37 No.4792 |
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死が お前の扉を 叩く時 お前は 何をささげるのか? おお 私はそのお客の前に わたしの生命をみたした器を ささげましょう―― 決して 空手では かえしません。
わたしの秋の日と 夏の夜の 甘いぶどうのとり入れと いそがしい生涯の すべての収穫と 落穂とを その前に 並べてささげましょう。 私の生涯が終って 死がわたしの扉を 叩くとき。
91
おお お前 生の最後の完成 死よ わたしの死よ わたしに来て 囁いてくれ! わたしは来る日も 来る日も お前を待ちうけ 見張っていた お前のために 世の苦しみも 喜びも 堪えて来た。 わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。 お前の眼からくる 最後の一べつによって わたしのいのちは お前のものとなるだろう。 花は編まれ 花環は 花婿のために 用意された。 結婚の式がすめば 花嫁は家をあとにし 夜のしじまに ただ一人 花婿に逢うであろう。
ー上記より抜粋して引用ー
これらの詩句を読む限り、タゴールは死を決して忌み嫌うべきものとして捉えて居なかったことだろう。
死が訪れるとき、私の人生の上での収穫と収穫ではなかったもののそのすべてをその前に全部並べて捧げるとも語って居る。
そして何と、死の完成ーそれが即ち生の完成でもあるーのために自分はその死の為の花嫁となるとまで語られて居る。
何という度量の深い生の解釈なのだろうか。
これを読むと、生の成功の側面ばかりを追い求めて生き、そして死にはほとんど興味がなくしかし実際にそれが自らに課せられて来るとまさに怖くて怖くて仕方がないといった典型的な現代人の心理が何とも浅はかで低級で情けないものに見えてきて仕方がない。
死と自ら進んで結婚するのだという、この言葉の持つ重さと広さ、それこそが現代人の心のあり方から失われて仕舞ったところでの正常な人間としての宗教的な心性の発現なのではあるまいか。
わたしのすべての存在 所有 のぞみ 愛は
いつもお前に向って 秘かな深いところで 流れていた。
ということはわたしにとっての生の上での+は最終的に全的な−に向かって全部秘かに流れ込んでいっていたのである。
其の事を知って居る詩人は、死つまり究極のマイナスを形作るのは生のすべての喜びの流れの必然であるゆえ決して厭いはしない、むしろ其れを積極的に完成させるために生きていく、ということだろうと思われる。
いずれにせよこの認識はもはやすでに一般性を超越して仕舞って居り限りなく聖の方に近いものであろうことは疑うべくもないところだ。
人間は心理的に深みのある体験を繰り返すとこのように一般性を離れた認識を獲得することが出来る。
そして其れは誰もが出来ることではないのだ。
死と結婚したいという程に柔軟化されかつ研ぎ澄まされた詩人の内面というものは、人間にとって無限に恐ろしい筈の死の世界をむしろ待ちわびているようでさえある。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1710回) ..2014/07/17(木) 13:42 No.4805 |
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Wikipedia-七つの大罪 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%BD%AA
所謂キリスト教で云うところの罪という概念につき屡考察を進めて来て居るここ数年来の私である。
私がキリスト教に興味があるのだとすれば、まさに此の罪という概念が其処に何かしら真実を含んだものではないかと思われるのでそうして来て居るまでのことなのである。
さて、罪という概念であるが、此れは一種複雑な問題を孕む概念のことで門外漢の私には正直なかなか理解が及ばないというところもある。
だが、罪という概念自体で人間存在を括っていこうという宗教的な試みには私個人として共感出来る部分も多い。
元々仏教にも無明という概念があり、人間は生まれながらにして其の心性の方が汚れて居て世の諸々が明らかに見えて居ないとそう教えられるのである。
とは言っても、現代日本では戦後民主主義に於いて宗教教育が否定されて来たという経緯があり、また仏教も形式化、儀式化された真の意味での仏教とかけ離れたものであるに過ぎないのであるから、そんなことは此処で初めて聞きました、などと思われて居る方々も居られるのかもしれない。
要するに現代人は宗教に関しては無知で、しかも無知どころか逆に何か悪いものであるかのように思い込んで居る始末なのである。
現代では宗教絡みのテロや紛争なども屡起きて来て居るので其れが至極鬱陶しいもののように我々には捉えられて来て仕舞うのである。
然し、本当の本当は宗教自体が問題なのではなく、其のように宗教が何か悪いものでもあるかのように感じられて仕舞う時代に至って仕舞ったこと自体がむしろ一番ヤバいことなのである。
しかも其のヤバさを、精神の上での不感症に陥りつつある現代社会の大衆は自覚することが出来ない。
勿論宗教を熱心にやって居られる方々は私の周りにも常に居られる。
そうした方々は確かに真面目な人々も多く、あくまで一般的には物事の捉え方の方も真剣である。
そうかと云って其の真剣さ、真摯さが様々な宗教上の対立を引き起こすことにもなりかねない訳でそうした部分が大衆的見地からすれば不必要であるということにもなろうかと思う。
然しながら、それでも私は訴えたい。
宗教を生活から遠退けて生きて居る現代人ほどキケンなものは実は無い。
むしろそちらの方こそが最も危険な精神の上での状態なのである。
なんとなれば現代社会の奉ずる人類の物質的な進歩や経済的な成功は本当の本当に大事な価値なのではない。
其処に浸り切って仕舞うからこそむしろ本当のもの、真の豊かさが見えて来ないのだ。
また其の事は、現代人がたとえば死という本源的な価値の発現を自らに得た時におそらくはすべてが分かって来ることなのであろう。
然し、凡人は哀しいかな、生きて居るうちには其の真の様が全く見えて来ないものなのである。
もっとも私も其の哀しい凡人ながら、其処でさらに哀しいかな、色々と考えるところが多い精神の性質なので物事をあっちから見たりこっちから見たりということだけは生きながらにして出来て居るのかもしれない。
四世紀、八つの「枢要罪」ー「暴食」、「色欲」、「強欲」、「憂鬱」、「憤怒」、「怠惰」、「虚飾」、「傲慢」
『カトリック教会のカテキズム 要約(コンペンディウム)』日本語版(2010年)
日本語 ラテン語 英語[4] 傲慢 superbia pride 物欲(貪欲) avaritia avarice ねたみ(嫉妬) invidia envy 憤怒 ira wrath 貪食 gula gluttony 色欲(肉欲) luxuria lust 怠惰 pigritia seu acedia sloth or acedia
1925年10月22日 「七つの社会的罪」(Seven Social Sins) マハトマ・ガンディー 理念なき政治 (Politics without Principle) 労働なき富 (Wealth without Work) 良心なき快楽 (Pleasure without Conscience) 人格なき学識 (Knowledge without Character) 道徳なき商業 (Commerce without Morality) 人間性なき科学 (Science without Humanity) 献身なき信仰 (Worship without Sacrifice)
2008年3月、ローマ教皇庁 ー遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒 以上、Wikipedia-七つの大罪より抜粋して引用
さて、いずれにせよ罪ということは此の世に在ると考えて置いた方がより良いであろう気が私はして居る。
そして宗教というものは其の罪の内容を大枠で規定していくものである。
ただし、其れは其の罪の内容を文学的、哲学的に捉え直していくものではないのである。
ゆえに宗教とは其のようなあくまで具体的、現実的な価値ではなかろうかと私は捉えて居る。
其の点では宗教は藝術とは一種対立する世界のことで、其の本質とは精神の規定なのである。
藝術は其のような規範の存在の縛りからの、精神の不自由さからの脱出をむしろはかっていくものであろうが、あくまで宗教はそうした創造的な自由な価値に重きを置くのではなくして、縛りとしての大元での精神の規定に終始する。
宗教は其のように一種不自由なものだが、其の限定性の中にこそ良い部分があるものなのである。
だから本当は何でも自由というのではダメなんである。
何故なら人間存在は本質的に限定されし存在で、其の本質的諸価値の顕現はやがては必ず自分の身にふりかかって来る。
人間は誰しも其の限定性から逃れようとしても何処にも逃げられないのである。
そういうのが人間存在の本質的問題である。
其の本質的な問題につき考え、かつ語るのが宗教の根本の意義なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1711回) ..2014/07/17(木) 13:43 No.4806 |
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さて、上にも挙げられている貪食、色欲、物欲、などということは全く現代人の典型的な生きる上での価値の体現なのであります。
全く何でこんな低級な方の欲の成就の為に我々は振り回されて居なければならないのでしょうか。
よしんば其れ等の欲を捨てたにせよ、たとえば「憂鬱」とか「憤怒」とか「怠惰」とか「傲慢」というものにこの私の場合などは特に引っかかって来て居るようです。
つまり現代人はどんな性質の人でも宗教の提示するところでの根本の罪のようなものに必ずや抵触して仕舞うものなのである。
ならばどのように自分を治す、つまり自己を整えて諸の欲を抑え込んでいけるのであろうか。
いや、そりゃ、ま、無理なことでしょうな。
現代社会とは貪食、色欲、物欲の三毒欲でもってむしろ円滑に回されて来て居るであろう世界なのですぜ。
一方あのマハトマ・ガンディーの思想は東洋の叡智の体現であると考えられなくもない訳です。
ガンディーは仏教徒ではなくジャイナ教徒であったが、印度の宗教ないしは思想には共通項が多々有り根は同じものと考えることも出来る。
其のガンディーがかって規定したところでの「七つの社会的罪」を見てみたところまさにビックリだ。
其処で曰く、理念なき政治、労働なき富 、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰 、とある。
最後の献身なき信仰という部分は一応除外しておくとして、他の6つは現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であると言っても良いことだろう。
さらに2008年3月にローマ教皇庁が発表したとされる以下の罪についても同じようにビックリした。
ー遺伝子改造・人体実験・環境汚染・社会的不公正・貧困・過度な裕福さ・麻薬中毒ー
無論のこと是等も現代社会が今まさに犯しつつある罪の克明な描写であるということは間違いないことだろう。
だから遺伝子を勝手に弄ることは罪、環境を汚したり軽視したりすることも罪、一方で過度に金持ちで他方には貧困を生んで居るようなことも罪、脱法ハーブを吸ってラリって居ることなどは勿論罪、こんな風に貴方も私も皆罪の中、現代人は勝手に罪の激流のただ中を流されていきます。
罪の自覚も無く、ドロドロの欲の海の中に浸り続け、気付いてみたらもはやボロボロだ。
さて一体何がボロボロなのでしょうか。
其れは我々の精神こそがもうボロボロなのですよ。
カトリックだって、仏教だって、こんな風に其の人間の罪のあり方こそを問題として捉えて来て居る訳でしょう。
だから其処ではもはや何教や何派だという問題ではないのだ。
すでに現代社会の罪に対する自覚自体が失われて来て居るのである。
其の様を正確に見通し、批判するのが文学の役割であり、其の誤った様を正し精神を大元で規定していくことこそが宗教の役割であると私は述べて来て居るのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1728回) ..2014/08/08(金) 23:42 No.4823 |
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理研の笹井氏は大変優秀な研究者で再生医療における日本最高の研究者の一人であったとされて居る。 其の優秀な自然科学者の一人が何故死を選ばなければならなかったのだろうか。
思うに死を選ぶということは、其れは内面の否定であり同時に外面の否定でもあることなのである。
おそらく厳密には此の両者の面を否定していかない限り自殺という行為は完遂出来ないものではないかと観念的にはそう考えられるのではあるが、現実には人間は感情生物でもあり得る訳でそんな小難しいことを考えて居たりはせずにただ辛いから死ぬ、苦しいからこの世から逃 れたい、という其の一心から決行されて仕舞うものなのだろう。
然し観念的にはあくまでそういう風に捉えられるものであるから、むしろ其のように論理的、哲学的に死を概念として規定して置いた方が安易に死を選ぶことが少なくなりある意味其れが抑止力となることだろう。
感情的にはもう今すぐにでも死んで仕舞いたいと思って居るのだとしても、概念的な部分、観念領域のことがまだ働いて居るのだとすれば、其処で少し考えるだけで自ら死を選ぶことを回避出来る筈だ。
何故なら観念的に内面と外面のどちらも否定して仕舞いたいという心理をした人間が存在して居るだろう可能性はかなりに低くなることだろう。
普通人は私は自分の内面は好きだがー認められるがー他人としてのアイツの腐った根性が嫌いなのだ、とか、矢張り自分の心は好きだが社会の心性の方が悪くて大変気分が悪い、というように自分自身の心を否定するところまではなかなか至れないものなのである。
また其の逆もあり得ないことではないのかもしれない。
其処では外側は正しく良いものであり、自らの内側は全くダメなものだと思い込んで居るのかもしれない。
特に現代人の場合は自我意識がより大きくはっきりして来て居る手前、そうして自分を頑なに信じ込んで居る様は決して悪いことではなかろうと個人的に私は考えて来て居るのである。
其れは自分を信じ込んでいなければ明日という日を生きてゆくことさえままならぬのが現代という厳しい時代の掟のようにも見受けられるからなのである。
勿論真理の領域に於いては、近代的自我というものは幻想に過ぎないものなのであり、従って其のような幻想に与して生きていくほかはない我我庶民は近代的自我に飼い慣らされた家畜、畜群として其の幻想の枠組みの中をただ流されて行くばかりなのである。
然し近代的な自我というものは結構自殺の予防策として役に立つ部分もあるのかもしれないなと今はそう思う。
最終的に自分を捨てることがなくばたとえ乞食になったとしても人は生きていけるのではないだろうか。
いや、其れは物質的な側面の話では無く観念的、精神的な領域での自殺の予防の話をして居るのである。
自殺は何より自己否定欲の成就に繋がるから本当はそれも欲望の否定ではなくマイナスの欲望の肯定のことであるにほかならない。
其れで其のようなプロセスでもってこの世から逃れていったにせよ、欲望を滅したことにはならず従って死した者の心が死後に聖なる心の段階へ至るということでは決して無い。
だから結局損なのである。
何が損かというと、真理への探求のプロセスを自らの手で断ち切って仕舞うという意味に於ける損なのである。
死んだら終わりでもはや女にも触れないのだし美味いものも食えずでまたウンコやオシッコももう出ない。
然しそういうのを損だとは、観念領域の方ではそう考えない。
あくまで真理への道が閉ざされて仕舞うという意味での観念的な断絶を自ら選んで仕舞う事が死のマイナス面でのことなのである。
だから笹井氏も結局は其の真理への道を自ら閉ざしたという点に於いて其れは明らかなマイナスであり悲劇であったことだろう。
尚現代科学に於ける真理ということと、宗教や思想に於ける真理という概念には本質的な違いがあることを此処で考えておかねばなるまい。
現代科学に於ける真理とは、基本的に倫理観や道義心などとは関係の無いところで展開されるだろう物的な関係性、物理的な法則性により規定されし唯物論のことなのであるし、宗教に於ける真理とはそうした唯物的な流れとは一線を画した精神世界の流れのうちから汲み取られた精神性のことなのである。
従って現代科学、特に自然科学には基本的に心が無く科学的な成果が其処に認められるのであれば其れでよしとされるのであるが、宗教に於ける真理とはそのような即物的、無機的な成果のようなものとは全く異なりむしろ精神の領域の方から発せられていく普遍的真実のことなのである。
だから宗教とは其のように精神界、つまりは心のあり方の方をまず問題とすることだろう、何より其れをまず第一義的に捉えなければならない分野のことなのである。
其れが我我大衆は戦後民主主義の世に於いて宗教を正しく学ぶことなく大人になり其の精神の大世界のことに関しては全くの無知だったのである。
其れで庶民の多くは科学技術には大きな価値があり宗教はインチキで怖くて何されるものか分からないなどと思い込んで居る始末なのだが、サテ、今回のようなこの結末を我我はどう捉えて置いたら良いのであろうか。
私が前々から語って来て居る様に科学技術ないしは科学技術による人類の発展などということにはさして大きな価値があるということではない。
現在の文明にとって、或は人類の前途にとって最も必要なこととは内面の充実のことであり其れは精神の世界というより大きな非即物的な世界に与することでしか得られないものなのである。
細胞を、其の神が与えし完璧な秩序にあえて挑み人知による改変、組み換えを行うこと、其の諸々の欲望のうちでも最も抑制に欠けた生命に対する冒涜、倫理観の欠如に対して我我庶民は何故こんなに平気な顔をして其の大罪を見逃して来て居るのだろうか。
勿論誰が悪いという段になれば科学者個人が悪いわけでもなく近代科学という一見人類の生み出した叡智の結集の場のように見えるが実はドロドロの欲得感情で動く世界、確かに中には客観的な真理を追求する真摯な研究者も大勢居られることかと思われるが、そうした理念的な世界とは別に存在する有象無象の世界、金と名誉と保身の為にだけ動いて居ることだろう世界こそが其の我々が信奉して来たところでの科学技術の世界の実態なのである。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1729回) ..2014/08/08(金) 23:42 No.4824 |
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尚、死ということは個として別に選んでも構わないことなのである。
どういうことかと云うと、例えば原始仏教では必ずしも自殺することをすべて否定して居た訳ではなかったということなのである。
ただし其れは先に述べたような真理に対する可能性を閉ざすという意味に於いて大きな損失なのではある。
だが当初の仏教に於いては自殺の全部をダメだと云って居た訳ではなかったのである。
今日のように自殺が全部ダメだと云う事になったのは宗教にこの世をより良く生かす教えという側面が強調されていった後代に於いておそらくそうなっていったのではないだろうか。
然しあくまでやむを得ない場合には釈尊自身が門下の自殺者を認め丁重に葬ってやるようにという具体的な指示さえ出されて居たのである。
多くの宗教では自殺を禁じて居るものが多い中で、初期の仏教では逆に生に執着することが甚だしい場合のことを最も非難し、また其の逆に生に執着することが無い行為については自殺をも含めてそれほど非難したりはして居ないのである。
左様、仏教では生きたいと強く願い諸々の生の場面に精力的であることこそが逆にいけないこととなるのである。
だから本当の仏教では女に触るのもダメ、此の世に子供を残すのはさらにダメ、飲酒を含めた暴飲暴食も勿論ダメ、金を沢山稼ぐのも当然にダメ、物に多く囲まれてニンマリとして居ることなども無論のことダメ、まあ我我の常識からすれば現代の常識として形作られる行動のほとんど全部がダメということとなる。
此の点からも分かる様に、現代社会に於ける我我の常識というものは案外いい加減なものなので其処を個々人のレヴェルで良く吟味、精査した上で誤りを是非正して置かなくてはならない。
尚個人的に理研の笹井氏の自殺はやむを得ない部分もあったのではないかと感じて居る。
彼は自然科学の増長振り、脳天気振り、心無き様の部分にむしろ殺されていったのではなかったろうか。
本当に頭の良い人は不器用でもあり、また誤魔化しも効かず、すべてに一途で理念、理想に生きて居ることが多い。
彼は確かに打たれ弱かったと言えるのだけれど、これまで本当に頑張って科学者としてのエリート人生を歩んで来たのだ。
ゆえにどうも仏法の上からも彼の自殺は非難されるべきものではないような気がしてならない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1730回) ..2014/08/10(日) 23:47 No.4825 |
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科学技術が生み出す快適さや便利さの中にずっとひたり続けて居るとどうも人間存在自体がおかしな方向性に向かって飼育されていくのではないだろうかというのが今の私の考えなのである。
然しもしそうではあっても実際には近代以降の人間存在は皆知的水準が高く科学技術の言いなりの人はなかなか存在しないものなのだが、それでも必然として近代以降の人が創った制度、枠組みの中で所謂予測されるべき未来をのみ我我は日々生きていかざるを得ない。
そういうのは必然として脳内願望に沿った未来の実現という構図からは逃れられず、また其の度合いが進んでいけば其の脳内願望の中に人間存在自体が全的に閉じ込められて仕舞う事にもなりかねない。
近代以降の価値観とは畢竟そうした人間存在自身の欲望の実現のことであり、其れは何よりまず自己中心的な欲望の解放であり、同時に唯物論を据えて進む非精神的な即物領域の拡大のことである。
たとえ其のような世の中でも、現代人にはしっかりと心の面はあるのだから全然大丈夫でむしろお前のように時代錯誤な精神論のようなものを振りかざして居るような奴の方が頭がおかしいのだ、第一俺は科学技術の力の方は信じて居るがたとえば科学の思想などというものにはまるで興味が無い。
などと結構多くの人がそう思い込んで居るのではないかと思われるのですが矢張りそりゃ少しおかしいのだぜ。
だからそも其処で科学の思想が分からないのに何で科学技術の発展、進歩の方については信じられるのでしょうか?
他方で科学が進んでも唯物論的にこの世界が規定される訳ではなく、実際には多くの人が心の豊かさ、精神性の方での充実を求めて居るが仕方が無いので其れに従って居るまでだ、という説もネット上には散見されますがどうも其れも私にとっては言い逃れのような気がしないでもない。
何に対しての言い逃れかと云えば己の批判精神の欠如に対するか或は精神性自体の欠落をむしろ正当化する為の言い逃れなのである。
実際現在私の周りには私以外に現代文明ないしは現代科学技術文明を批判して居る人などは居らず、彼らの頭の中では現代文明ないしは現代科学技術文明の行く末などは大きな問題だとは言えず、むしろそれよりも今日の自分、明日の自分、また今日の家族、明日の家族、さらに今日の仕事場、明日の仕事場位までのことしか考えられないのが我我庶民の実際の姿である。
そうした近代生活教の信者で居ることが現代人にとっては一番楽なことでもあるのでそうして居るまでのことなのである。
然し昔から現実に堕してー妥協してー生きるか、それとも理想に殉じて死するか、という選択肢が往々にして人間存在、わけても知識人の中には存在して居た筈だったのである。
また科学が進んでも科学思想の方の理解は全く進んで居らず、其処ではただ単に科学技術が生んださまざまな製品と技術の価値のみを現代人は信奉して居るのだという説もある。
が、果たして人間存在とはそんなに器用に立ち回れるものなのだろうか。
私はむしろ其の一貫性の無さ、現代人が科学に対して観念的に疑義を抱くことに対する諦めの気持ちの部分にこそ現代人の精神性の希薄さをそして精神の衰退の様を感じて仕舞うのである。
だから唯物論的な世界観の浸透により現代人の精神性は限りなく薄められて来て居るのではないかと考えて来て居るのである。
其れがそも薄いから、科学精神、科学思想といったことに対しては興味が無いが自分の生活に直接影響を齎す科学技術の成果の方には結構な関心があるのだ。
と同時に科学とは対極の世界にある宗教に対してもほとんど関心が無い。
だから上記の言い訳はなかなか成り立たず、本当の本当は別に皆が心の豊かさ、精神性の方での充実を求めて居る訳ではなく多少の疑いが生ずるにしてもあくまで便利で快適な生活の方がずっと楽だから其れでも良いと思って居るに過ぎないのだろう。
そして其のようにしてある種器用でもある我我大衆はいつの間にか科学が提供するところでの真の唯物論的な傾向の中に組み入れられていくのである。
どういうことかと云うと、其れは精神性の解体ということである。
もし人間存在の精神性そのものが解体されつつあるのだとすれば、其処に於いてまず自己中心的な諸の傾向が社会問題として噴出して来ることだろうし、同時に宗教など精神に対するより大きな規範の部分に対する無関心ということが顕著に見られるようになる。
さらに倫理観や道徳観の欠如、刹那的に享楽を求める傾向の増大、思考の幼稚化、陳腐化という傾向も其処に読み取れるようになって来ることだろう。
其れ等の傾向はひょっとすれば社会の現状を上手く言い表して居るのではないだろうか?
其れも世界的にと云うよりはこの日本国に於いてそうした傾向が強く現れ出て来て居るような気がしてならない。ー国によっては宗教が規定するところでの精神性に大きく寄りかかって居る場合もありー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1731回) ..2014/08/10(日) 23:48 No.4826 |
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尚最近私は良く思うのだけれど、例えばTVのCMが物凄く陳腐ないしは下品なものに感じられて仕方が無いのである。
それで職場で大学の先輩に、昔のCMは少なくとももう少し上品だった筈だがそこのところはどう思う?などと良く尋ねたりして居るところなのである。
何と言うか、要するにモノを売りたいという意識がストレート過ぎかつ内容と音とがうるさ過ぎてCMが皆至極下品なのである。
確かにごくたまに文学的だとでもいうか情緒的だというか視て居て心が落ち着くような良いCMもまたあるのだ。
然しほとんどが其の業界でのNo.1の実績を誇示してみたり、またまさに売らんかなの精神で面白おかしく広告をこねくり回して居るのでそうしたものを視て居るだけで実に鬱陶しく其れ等を視せられることでいかにも無駄な時間を其処に費やしているように思われて来る。
私は昨今のCMの陳腐化、下劣化は即現代人の心の中身の陳腐化、下劣化とリンクして居るのではないかなどとすぐに勘ぐって仕舞うのですが其れは流石に少し考え過ぎなのかもしれない。
いずれにせよ、問題は私が少し考えてみたところでの現代人に於ける精神性の解体ということが果たして現実に進んでいることなのだろうかという部分にある。
近代以降の時代を貫く合理主義概念、唯物論の世界観に振り回されいつしか我我は人間の精神の基礎的なあり方、精神のあり方の基本のようなものを忘れかけて仕舞って居るのかもしれない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1737回) ..2014/08/23(土) 00:28 No.4832 |
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現代の人間存在も今後は天災や食糧危機や様々な危機、諸制度の破綻を被るであろう方向を向いて歩んで居るのであるから私も其れに付き合ってゴルフ浪漫や万年筆浪漫のことを語るのは近く終わりにしてもっと本質的な問題をネット上に暫くの間語って電脳空間からは潔く左様ならするつもりである。
人間というものは元々限定されし存在なので其の儘では其処に永続的なもの、実体的なものは無く同時に其れは普遍化することも出来ずで、要するにそれは闇の中に閉じ込められし迷える魂を持って出て来て居るだけの存在なのである。
かってナーガールジュナは以下のように述べたそうである。
「実体とは、自立・不変・永続的なものである、と。実体は他のものに依存しない、つまり、縁起しないで、それ自体のみで存在するものであり(自立的)、あくまでも自己同一性を保っていて、変化しないものであり(不変)、生じることもなく滅することもなく、永久に存在するもの(永続)である。」
然し私はこの文言を知って居た訳ではなく自分で自分なりの存在論を考えてみた後に初めて知ったのである。
即ち、実体というものは<在るもの>であり、非実体的なものとは<無いもの>である。
そして実体というものは他とは関わらずそれだけで存在するものであるからむしろ無いものー存在としてはーである。
ゆえに実体と考えられて来て居るもの程本当は無いものであり、一見無いものに見えるような非存在的なものこそが実体なのである。
其処をかって私は、観念性と結びつけて捉えてみた訳である。
観念性の極致こそが其の無いものに見えるような非存在的な実体なのではないだろうか。
いや、仏法では悟りへ至るために観念性さえをも捨て去るなどとも屡云われて居るので其れは悟りそのものではないのでしょうが、其処を哲学的に構築化すれば矢張りどうしてもそうしたこととなる。
私の考えでは<在るもの>としての実体性は実は無いものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居ないもののことである。
逆に<無いもの>としての非実体性は実は在るものでありつまりは物質化ー存在化ーされて居るもののことである。
つまるところ、存在して居るもの、この世での諸の現象は実はすべからく<無いもの>の方のことである。
よってそういう不確かで虚妄なものに拘って生きて居ることこそが自己矛盾性により深く囚われていくこととなるのだ。
一方実体としての存在して居ないものの方では其れは<在るもの>として存在するだけなのであるから物質的な現象とは無縁で実は何も考えて居ないんだな、これが。
其の観念化の極点に於いてもはや何も考える必要が無くなって居るのかもしれないんだな、これが。
で、私がまたいきなりややこしいことを述べて居るのは、どうも昨今の気候の滅茶苦茶振りからしても文明というものはそんなに長くは持たないのではないかと思えて来たので是非こうしたややこしいことも述べておかなくてはならないのである。
文明というものは一面で人間の心理の集積であり、人間としての全体の心理の向かうところでのものだ。
其れが最大公約数的に向かうべきところが決められて居たりするものである。
然し、おそらくは其れが間違って居たのであろう。
我々のような存在化されし凡夫は存在化されない実体的なものを<無いもの>と思い込み、逆に存在化されし非実体的なものを<在るもの>だと思い込んで来て居る。
しかも其れを何と数千年にも亘り続けて来て居る。
だからこそ其の倒錯の思想の果てに近代という心無き時代、精神無き世紀を迎えなくてはならなくなったのだ。
そして其の結果が今であり、そしてこれからなのである。
無論のことこれからもドンドン雨は降って来る、鉄人のオモチャをつい盗んで仕舞う五十代の男さえもが出て来る、でもまあ其の位はまだ序の口で、私の予測では五十年後の将来はまさに地獄の様である。
存在化されない永続性のあるものこそが、実体的なものである。
対して存在化されし限定的なものは、非実体的なものであるに過ぎない。
我々凡夫は存在化されし限定的なもの、非実体的なものにばかり群がり、貪り、満足を得ようとする。
愚かなり、其の様や。
本当の本当はそうしたこととなる。
単なる哲学では無く、仏教哲学の方からも明らかにそう云える筈だ。
其れと私の存在論からも明らかにそう云う事が可能だ。
不幸にも存在化されし我々はこの世の事象の諸に深く縛られ其れ等を悉く在るものとして見て居る。
この世のすべてが、いや、この世のすべてではないのだが其の半分位は楽しいこともまた多い、位に思って居る。
全く、凡人だなあ、S先輩よ。
俺なんかは見ての通りの世捨て人で頭の中はすっかり世間離れして居るもんでこの世のすべてが、いや、其の半分位にしてもだ、其れが本質的には楽しいことなどではなくむしろ苦しいことばかりであることをすべてお見通しなのさ。
されどこれまで我は色んなコレクターをして来て仕舞って居る。
ま、我も根が馬鹿だからついそうしたことに関わっちまったんだろう。
其れで今宵も実は、翡翠のことばかり考えて居たのだ。
ついさっきまでは。
其の翡翠が<無いもの>であるとは矢張りどうしても思えないのだぜ。
こうして凡夫はそれぞれの境涯に適した思い込みー煩悩ーを持たされ、本質的には決して癒されることの無い存在ー人及び物、さらに精神、観念ーへの執着を捨てきれぬまま日々をのらりくらりと生きていくことしか出来ぬものだ。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1742回) ..2014/08/28(木) 23:49 No.4837 |
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元より金や宝石は有るところには有るもので、そして無いところには無いものと相場が決まって居る。
尤も批判精神や詩心といったものでも、其れは矢張り在るところには在り無いところには無いものである。
そうかと言って一般に観念的には成り難い性質の人に道を説くことは見当違いなのであろうし、さりとて現実の方の道一本で行くのだとしても其れは矢張り片手落ちなのだろう。
現実は其の全部を観念化出来るものではないが、むしろ半分位は観念化して置いた方が何かとバランスが取れより望ましくなるような気がして居る。
何故なら現代という時代、特に戦後の時代に於いて一番流行らなくなったのが其の現実の観念化の過程である。
かっては藝術家としての作家や詩人などが、或は宗教家が、また旧制の高校生などの一部のインテリは観念の為に死ねたのだったが、現代では観念と心中するかのような純粋な輩は居らず、観念も何もまずは食うことばかりを考えて行動し次により豊かに暮らせるようにしたいという、ただそればかりのことなのであろうから観念性への殉教者は明らかに激減して仕舞ったのである。
つまり、現代人は皆より現実的になった。
然し、其の現実そのものは、其の現実の意義、価値そのものは収拾のつかない程に多様化し虚構化され解体されるに及んで居るにも関わらず。
其れと同時に人々が本質を問わなくなった。
事の本質を問うていくことは、観念の減退した世相や人心にとって何より苦手なことなのである。
本当のものに就いて考えなくなった分、人は現実化され同時に軽薄短小化されて行く。
いや、確かに人が考えて居ない訳ではない。
考えている。
其れも前近代のレヴェルを遥かに超えた奇跡のようなことばかりを考えて居る。
然し其の考えは本当に本質を問うていく為の考えなのだろうか?
哀しいかな、私にはどうもそうは見えて来ないのである。
一言で其の現代の思考を評せば、其れは何か役に立つ為の思考ばかりを連ねて来て居るのである。
然しながら、思考とは本来其のように役に立つことばかりだったのだろうか。
むしろ役に立たないことーつまりは人類の進歩とか発展にとっては役立たないことーを頭の中でグダグダとこねくり回して居ることこそが観念の観念たる所以ではなかったのか。
なんとなれば原始仏教も老子も荘子も皆そうした役立立たずの思想ばかりで、それにしては皆立派ななりをして居て時空を超越して存在するものであるかのように見える。
近代教による現代病は其の役立たずのグダグダ思想を捨て去り唯物的に現在に生きることを選択したことから齎されて居ることなのかもしれないぞ。
かって武士は志の為に死ねた訳なのであろうし、思想家や宗教家は己の信ずるところに殉じて死ねたのであろうし、あの三島 由紀夫にしても、日本の皆が高度成長とやらで浮かれ騒いで居る最中に大義としての観念の為に自決したのであった。
其のような人間の大きな部分での精神性は、結局個々人に於ける精神の純粋度と無関係ではないことだろう。
だから人間は現実ばかりでは逆に危ないのである。
理想の為に死す、だの、腹を切って自らの観念ー思想ーを完遂させることだの、実際私は至極過激なことを述べて居るようで居て実は全然過激でも何でも無いのである。
むしろそうした部分の在ることこそが健全な観念性のあり方であるとそう述べて居るに過ぎない。
現実がそうした一種現ナマ化し、進歩主義、成果主義の横行、即物領域での非観念化という特徴を備え始めてくるとむしろ其の事によってこそ危機が訪れる。
ひょっとすると作家や詩人の連中も其の流れに抗えず自分自身がノンフィクション化して居ないとも限らない。
其のように現代のフィクション性は結果的に正反対の現実性を世に付与するのである。
結局は虚構である現代の諸制度は、其のノンフィクション化の過程によってのみかろうじて成立して居る。
だからフィクションがノンフィクション化されることにより<現実的>に成立して居るのである。
其の現実化は無論のこと我々庶民の精神の中にも同時進行して居り、従ってもはや我々は極めて現実的に此の虚構としての現代を生きていかざるを得ない。
其の現実的にとは、其処でなるべく疑いを持たずー観念化して現実を捉えないー、次に現代社会の提供する現時点での享楽に身を浸して、否、頭をも其れにドップリ浸して、其れで夜寝る前に、嗚呼、今日は美味いメシにありつけて最高にしあわせだったな、嗚呼、こんなに綺麗な母ちゃん貰えてほんとに俺はシアワセ者だなあー、おまけに息子の頭の出来が良くてテストで百点とってきやがった。こりゃ東大入るのも夢じゃあないよ、あー何だかとってもうれちいなー、気分よーくこのまま寝ようっとせー。
其れは実に御目出とう御座います。
一応素直にそう申して置きますが、アナタの現実化された現実とは、元々のフィクション化された現実がノンフィクションとして現実的に見えて居るに過ぎないものなのではないでしょうか。
まああなたは今気分が良くてこのまますぐに寝て仕舞いなさることでしょうが、私にはどうもそのように思えて仕方が無いのであえて一言だけ言わせて頂きました。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1748回) ..2014/09/07(日) 23:58 No.4843 |
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警告!ー巨大災害 MEGA DISASTER 地球大変動の衝撃
第一集 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0830/
第二集 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0831/
以上はNHKが制作した災害に対する啓蒙番組ですが、この種の番組も次第に本当のことを語る方向に向かって居り、実際何も知らないお爺ちゃん、お婆ちゃん達が視たら卒倒しそうな程に恐ろしい内容を含んだものになって来て居ります。
それで、わたくしの場合にはもうこれで私の役割もひとまずは終わりなのかなと思わないでもないのです。
私はここ十年位に亘り事あるごとに社会的な危機の到来を警告し、将来に於ける破滅の予測を行うというまるで予言者のようなことばかりして来て居たのです。
それで、もう疲れ果てました。
疲れたのでもう少し楽に生きて居たいのです。
勿論大学の先輩の方にもそのように伝えました。
何しろ私のような詩人は感覚が鋭いのでビビビっと来るのが普通の人より早いのだし兎に角常に色んなものが良く見えて居る。
それでもうずいぶん前から様々な機会ごとに社会に対して警鐘を鳴らすつもりで色んなことを色んな人に述べ続けて参りました。
が、どうも現実の方での破局への進み方が早まりつつあるようだ。
従って今後はNHKでも、また時には民放でもこうした将来に対する文明の危機について語られる番組が増えて来るだろう筈です。
だから徐々に大衆も理解し始めることでしょう。
此の文明の、或は地球の未来は決して明るいものではないということを。
そして其の事は妄想でもなくまたSFの話でもないのです。
本当の本当に文明にとってヤバいことが今後次々と起こって来ることは科学的にもう全て分かって居るが一体どうしたら其の危機を乗り越えて行くことが出来るのかというただ其の一点での話です。
然しながら現代人は現実を観念化することを忘れただ即物的に日々を現代社会に飼育されて居るばかりですので実は物凄く勘が悪くそうした危機の到来についてはほとんど不感症です。
ですからそれでは困るだろうということで私のような社会派詩人ー社会科詩人ーがなんぞ物申しておかなければ皆何も知らずにそのまま滅亡ではないですか!
だからこそ色々と語って来て居たのです。
然し、今後は是非マスメディアの方で勉強しておいて下さい。
さて、私が今日語るのは先の恐い災害番組のことではなくマリモの番組のことです。
先程「神秘の球体マリモ」という番組をオンデマンドの方で視ましたが全く素晴らしい番組でした。
マリモの生き様?なるものが実に良く分かる、自然の営みの意味を其処に問うて居るかのような一種深みのある番組だった。
即ち自然の神秘的な営みが其の不思議な生物の生存を可能たらしめていたのであった。
然し世界の各産地にあったマリモは現在我が国の阿寒湖ー其れも北側のみーにしか居ないのだという。
ごく最近までアイスランドのミーヴァトンという湖にもマリモは居たが、其れ等は工場排水による水質の悪化によりほぼ壊滅状態であるとされて居る。
Wikipedia-ミーヴァトン湖 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%88%E3%83%B3%E6%B9%96
阿寒湖のマリモも南側の方はかって壊滅したらしいが奇跡的に北側の方は生き延びて今に至って居るのだ。
嗚呼、あのマリモの美しさ。
小学生の頃いつも机の上に置いて居たあの瓶入りの小さなマリモの可愛らしさと静けさとよ。
対して現代ではマリモを見て居ることが暗い趣味だというような見方さえあるのだが、其れはお前の方こそがそうした静かで上品な暗さのことが分からん妙に明るき阿呆に洗脳されて仕舞って居るからのことであり、特に都会人は多かれ少なかれそうした洗脳を受けつつ生きて来て居るのだから其処はよくよく注意して置いた方が宜しかろう。
俺なんぞは何せ根が暗いからもうマリモは大、大、大の大好きだ。
お前らのように工場ばかり作って廃液を垂れ流し環境を汚し夜は酒飲んで女ばっかり抱いていやがる明るーい低脳野郎とは俺は頭の出来が違うんだ。
結局今俺は阿寒湖に行きたいね。
其処でマリモちゃんに口づけをして来るんだ。
地球が危ないというのにお前らのようにベチャベチャと女とチューをして居る場合じゃない。
神と口づけをして来るのだ、神。
神とは何か。君は分かるだろうか。
分からねえだろうなあ、じゃ、ひとつだけ教えておいてやるが、女は其の神域には入れないのだぜ。
そりゃ、不浄だ不浄、穢だ穢れ。
ところで安倍内閣は何であんなに女の閣僚を揃えて御座るのでしょう?
ひょっとしてそういうのが元々阿部さんの趣味なのかな?
女の腹は生命の原体験のところながら、どう考えても政治の世界に向いて居るとは思えまへんな。
どうも女の大臣が増えると其れは世が滅ぶ兆しであるような気がする。
そうした下らない世の一切のこと、道理が分からぬ輩、頭が悪いとまでは言わないがどう見ても勘が悪い一般大衆、女の大臣、全くアホな世の中、♪世の中バカなのよー、のすべてを捨て去りたい。
汚れたものをすべて捨て去り、超俗し、現代の西行として我は生きる。
そして現代の西行は是非そのうちに北海道へ飛び阿寒湖でマリモと戯れて来ることだろう。
尚今回も結局不真面目調の作文になってなって仕舞いましたが、人類が未来に遭遇することであろう危機について現実的に、真面目に考えておられる方は最初に挙げた番組を是非視聴しておくべきです。ー此等はオンデマンドの方で視聴出来ます。ー
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1749回) ..2014/09/10(水) 01:03 No.4844 |
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現在宗教関係の機関紙で私が良いと思って愛読して居るのは「倫風」誌であり、それからたまにポストの中へ投函されて居る諸のものをたまに読んだりしては居るのですが其れ等は本当に良いと思って読んで居るのではない。
「倫風」誌は二年程前にたまたま一冊がポストの中に投函されて居り、しかも其れをたまたま私が読んでみたところ素晴らしい内容の本だったので自分から発行元の方へ連絡して毎月号を取り寄せて居るものである。
此の本を出して居るのは実践倫理宏正会という団体で彼等自身は宗教団体では無いと言って居るのですが実質的には宗教団体的な活動をして居ない訳ではなくさりとて他の仏教系新興宗教団体のようにしつこく勢力拡大を目論んで居る訳ではないようである。
と言うのも私はあくまで此の団体については詳しく知らないからそう推測して居るだけのことなのである。
実は二年前まで此の団体の存在を知らなかったのである。
それで調べてみるとネット上では此の団体が色々と批判されて居る部分もあった。
ただしネット上では他の新興宗教系の団体もほとんど槍玉に挙げられて居ることからしても、其の事により此の団体がダメなものだと決め付けることは出来ない。
それに私自身の考えでは、宗教団体の正邪云々という判断以前の問題の方がより深刻で簡単には治せない現代の病の部分なのである。
即ち近代病で現代人は謂わば精神離れ、観念離れをし、また道徳知らずで、それこそ倫理感無しの状態に陥って居るから其れは最も危うい精神の上での危機を囲って居るということである。
私は其の節操のない現代人の心のあり方、腐り方の様ー正確には其のような心のあり方に人間の心を貶めて居る現代という時代の思想に対する疑義を呈し同時に其れを批判し続けて居るのである。
でも庶民を批判して居る訳では元よりない。
何故なら私自身が其の庶民なのだから。
だから私自身の心もすでに大きく腐って来て居る。
ただそういうのを私は自分で認めて仕舞うんだな。
普通はそういうのはなかなか認められないことかとは思いますがそうしないと其の反省の部分から始められないのですから。
其の腐った部分を何とか修復したいと長年思って居たところ、たまたま良い機関紙に巡りあったのでずっと其れを読んで居るのである。
ただし、宗教なんて団体に入って組織的にやるものじゃない。
二十年前私は其れをして居たのだったが、結局今はそうした活動からは遠ざかって居る。
今は宗教というものを以前よりもずっと大きく捉えて来て居て、其れは宗教団体レヴェルのものではなくまた宗派レヴェルでのものでもなくたとえば一神教と多神教、またメジャーな宗教とマイナーな宗教、或は現行の宗教と過去に成立して居た宗教というように組織的、距離的、時間的により大きなスケールで其れ等を置いてみて来て居るのである。
或は人類の存亡を賭けた闘いは最終的には国家間の戦争や民族的な対立によるものではなく宗教レヴェルでの戦い、それぞれの宗教の教義の上での心理的な面が大きくクローズアップされた形でのものとなるような気さえして居る。
それで、其の時には無論のこと良い心を持った宗教の方が悪しき心を持った宗教の方に負けるのである。
つまり、此の世界では結局悪の方が生き延びる訳。
なぜかってそんな事は誰でも少しだけ考えてみれば即座に分かる。
昔から善人は早く死に、対して悪人は後後まで栄えることと相場が決まって居る。
其れに神に愛される者は早逝する、という言葉すらある。
つまり此の世を長生き出来る奴にはロクな奴が居ない。
神に愛される善人、天才の類はまず早々に天へ召されることと相場が決まって居る。
だから此の世というものは近代教の説くが如くに人間にとって楽しいところでも無いのだし愛すべきところでも無いのだしましてや喜んでー自ら進んでーまた生まれて来るようなところなのでもない。
正しくは此の世にはもう二度と生まれて来たくはない、でも何故か此処に生まれて来て仕舞った、嗚呼、一体どうしたら良いんだ?嗚呼、本当に嫌だけれどどうしようもない、だから何とか死んで仕舞うまでは我慢しよう。此の忌むべき場所に居るのはもう本当に疲れるが、其れも我が心の拙さ、低級さ、腐り方により与えられし場であろうことなので自身にはどうしようもなかったことである。だから修行しよう。何でも良いから此処に居る間に修行しておこう。世間のことばかりに合わせて居る必要なんて無いので、そんな風に心の面では是非修行させて頂きたい。
無論のことその方が良い。其れが本当の佛の教えである。
佛は子孫繁栄とか商売繁盛とかそんなことを沙門に対して許して居た訳ではないのだ。ーもっとも在家信者の繁殖や在家信者の商売を禁じて居た訳ではないがー
佛が真理として此の世に指し示したのはまず脱俗であり次に法の実践による解脱への道程のみである。
つまるところ、近代の価値観と仏法の指し示す価値観とはほとんど正反対のものなのである。
ただし其れも釈迦の説いた法に限ればの話である。
現代の日本の仏教宗派は中国経由で我が国に齎されたものなので純粋な意味での仏教とは異なる大乗の教えであるに過ぎない。
さて、話が仏教の方に振れて仕舞ったので戻します。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1750回) ..2014/09/10(水) 01:04 No.4845 |
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実践倫理宏正会というのは察するにどうも右系の団体であるようです。
しかも宗教的な活動を教義に基づいて行うというよりは倫理道徳的な実践活動を通じてより正しい人間形成を行うという団体であるらしい。
其のらしいというのは、確かに私は此処の会員さんから機関紙を買って居るが彼等の活動とはノータッチで其れを買って居り入会などは全くして居ないのであります。
ネット上で屡宗教のことを取り上げて書く事が多いので参考にさせて欲しいという私の希望が通ったのでそうして居るまでのことです。
宗教的な組織、団体へ入ることは無論のこと個々人の自由なのでしょうが、私の場合はより大きく宗教というものを取り上げておきたいので現在はあえて特定の宗教団体とは関わりを持たないのです。
私がなぜここまで宗教のことに深入りするか、または宗教の意義に大きなものを感じて居るかというと、其れを一言で言えば近代科学への心性的な面に於ける失望と不信の念を抱かざるを得ないようなことが余りにも此の世界には多過ぎるからです。
一説には科学は世界絶滅の為に進んでいく、世界を絶滅させるのが科学の役割である、というような過激な科学への評価さえあるのです。ーこれは哲学者ニーチェの言葉ですがー
其の強力な現代の推進力である科学技術に歯止めなどもはや誰もかけられないのです。
其れで良かれと思われ行なって仕舞う科学技術の上での成果が恐ろしい自然破壊や生物種の絶滅を加速させて居たりもします。
其の力にはもはや誰も抵抗できない。
何故なら国家自身が其の科学技術でもってしこたま儲けて経済の方を回していたりもする訳だ。
要するに、其れでもって食って居る、其れで金を儲けて国民を潤して居るのだとすればそんなものは逆に一番大事なものでむしろ一番大事にしていくべきものだ。
だからそもそうした構造なんで、科学技術を表立って批判できるのは宗教団体くらいしか無いということになって仕舞うのです。
それで、宗教団体はまず心の方から正論を吐くことが多いので金よりは環境保全、科学技術による欲望の解放よりはむしろ戒律を課して克己を促すなどというように色々と現代の進むべき方向とは逆のことを述べブレーキをかけられるのが宗教の役割なのです。
そうした訳で私は宗教団体、ないしは実践的な道徳団体、倫理的な規範を有する団体などに対して理想論的なある種の期待を持って居るのです。
即ち地球上の生命の破滅を齎し其の存続、持続性に限りなく負荷をかけ続けていくことだろう近現代の進歩概念と、そして科学技術による地球の破壊と生命の抹殺を決して赦さず其れを厳しく諌めていくことであろう力を其処に期待して止まないのであります。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1751回) ..2014/09/14(日) 11:19 No.4846 |
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過去にここで二、三回、共感覚のことを取り上げたことがあった。 Wikipedia-共感覚 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
何故取り上げたのかというと、私自身が其の共感覚者だからなのである。
私には文字または数字に色が見える。
より正確には色が無意識的に想起されて来る。
其の色は常に決まって居て、間違ったり入れ替わったりすることは無い。
ただし私の場合はいつも其のように色んな色で文字や数字が見えて居るということではなく、それぞれの文字や数字を見つめて居ると頭の中でイメージとしてそれぞれの色合いがはっきりと見えて来るのである。
昔共感覚者は自閉症-アスペルガー症候群-か天才のどちらかだと聞いたことがあり、それじゃやっぱり私の場合は自閉症なんだろうなとそのように思った覚えがある。 そういう人々は数少ないが確かに居て、私は其の端くれに連なる者であったというそういう話なのである。 ー聖心女子大の高橋教授によれば共感覚者の割合は全人口の4%であるというー
けれど私の共感覚は弱いもので所謂天才達のように強力に其の能力が発揮されて居るというものではない。
それでも多分そちら側には近い方の人間である。だからそちら側の事情というものも直感的になんとなく分かる。
私の共感覚はWIKIの方にもあるように文字に色が見える共感覚(かな・アルファベット・数字など)でどうもこれはありふれた共感覚の例であるようだ。
私の場合は特に数字にはっきりと色が見える。
さらにアルファベットや仮名にも精神を集中すれば個々に色が見えて来る。
もっとも漢字には何故か色が見えてこない。或は画数が多いのでややこしくて見えてこないのだろうか。
尚ネット上では1→白 2→黄色 3→オレンジ 4→赤 5→青 A→赤 B→青 C→黄色というように見えると述べておられる人が居たが私の場合は2→赤 3→黄色 4→黒となるが他はすべて同じである。 だから共感覚にはある程度共通した見え方に関する法則性のようなものがあるのかもしれない。
天才が持つ共感覚を手軽に得る方法と、言ってはいけない事 http://www.bllackz.com/2012/01/blog-post_5404.html 共感覚者は昔から居たものと思われますが、其の事を人に言ったりすると変人と思われ仲間はずれにされたりするので周りには言わない人が多かったらしい。
ー実際、ありとあらゆるイメージがどんどん入り込んでくることになるので、共感覚を強く持つ人は非常にナイーブで、自閉症的な症状もあって最初から意思疎通も難しい人たちである。 サヴァン症候群の人たちも共感覚を持っていると書いたが、まさに意思疎通が非常に困難な「天才たち」なのである。ー上記より引用ー
ともありますが、この部分の表現は少なからず当たって居るだろうと思う。
共感覚者は元々繊細な感覚の持ち主なのだろう。 サヴァン症候群というのは、屡マスメディアの方でも取り上げられたりして居るようですが、こればかりはとても自分の同類だとは思えず要するにこちらの方こそが真の意味での天才なのであろう。
ただ、共感覚者には似た者同士であるというような心理的な傾向があろうかと思う。
一種病気にも近いような感覚の鋭さや内向性というものが或は其の共通項であるのかもしれない。
尚詩人には共感覚者が特に多いようで、象徴派の詩人ランボーやボードレール、そしてあの宮澤 賢治などがまさにそうした部類の感覚の所持者だった。
宮沢賢治と共感覚 http://members.jcom.home.ne.jp/matumoto-t/kenji4.html
「ライアル・ワトソンは、共感覚は、突然の異常ではなく、かつて言葉を使うようになる以前には、人間が、大なり小なり、共通の感覚として持っていたのではないか、と考えているように見える。 そう考えれば、自閉症の独特な感覚世界や振る舞いは、大なり小なり、言葉を使うようになる以前の、人間が共通の感覚として普通に持っていた時期があり、その名残なのではないか、と考えられそうに思える。 ちなみに、リチャード・E・シトーウィックは、『共感覚者の驚くべき日常』の中で、共感覚の起源について、次のように結論づけている。したがって、「なぜ一部の人だけが共感覚を体験するのか?」と問うことは、「なぜ一部の人だけが片頭痛を体験するのか?」と問う、あるいは他の状態についてそう問うようなものだ。適切な問いは「なぜ一部の人は共感覚が意識にのぼるのか?」であると、私は提言する。それは、この驚嘆すべき現象を一○年以上研究したのち、共感覚はきわめて基本的な哺乳類の属性であるという意見に到達したからだ。共感覚は私たちがだれでももっている正常な脳機能なのだが、その働きが意識にのぼる人が一握りしかいないのだ、と私は考えている。これは一部の人の共感覚が強いとか、程度が大きいとかいうこととは関係がない。そうではなく、脳のプロセスの大部分が意識よりも下のレベルで働いていることに関係する。 共感覚者は共感覚のとき、通常は意識にのぼらないプロセスが意識に対してむきだしになるので、自分に共感覚があることを知るのだが、ほかの私たちはそれを知らないのだ。 共感覚は、いつでもだれにでも起こっている神経プロセスを意識がちらりとのぞき見ている状態だ。辺縁系に集まるのは、とりわけ海馬に集まるのは、感覚受容体から入ってくる高度に処理された情報、すなわち世界についての多感覚の評価である。 (『共感覚者の驚くべき日常』 リチャード・E・シトーウィック)
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1752回) ..2014/09/14(日) 11:24 No.4847 |
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こう考えれば、共感覚は、「異常感覚」ではない、という考え方でいいように思える。はるかな太古には、かつては、みんなが、普通に、「共感覚を通して」感じていた段階があった、という考え方とは、無矛盾であると考える。 ライアル・ワトソンは、別の本で次のように言う。 ある生理学者は、感覚の混同が起こる人のことを「知覚に関する生ける化石」であるとまで言っている。つまり、われわれの祖先である初期の脊椎動物がかつてどのように見、聞き、触り、味わい、匂いを嗅いでいたのかという記憶をその人たちは見せてくれるというのだ。(『匂いの記憶』 ライアル・ワトソン)
それでは、共感覚者や自閉症者の存在は、昔の人間の名残(「生きる化石)ということになるだけなのか。そうとばかりは言えない面があると、僕は思う。 行き詰った人類の文化や文明を進めたり、固定的な考えを打ち破る人たちの天才的な発想やひらめきの根源は、この時期の感覚にあるのではないか。「視覚で考えていた」段階の考え方。思いがけない発想などの、想像力の源は、ここにあるのではないだろうか。 宮沢賢治の言葉に、僕たちが魅了されるのも、そういうことがあるからではないのか。「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」以上より抜粋して引用
上記の引用の部分での共感覚に対する解釈は当たって居るのではないかと思う。
自分で自分を分析してみるに、どうも私は部分的に先祖返りして居る人間ではなかろうかと思われるフシがあるのだ。
共感覚の上でもそうなのだけれど、動植物に対する感覚の鋭敏さや予感の強さ、それから実は肉体的にも特徴があって生まれつき足の裏が広範囲に角質化して居り裸足で山道などを歩くことが出来る。
共感覚は特殊な能力としてあるのではおそらく無く、感覚が未分化の人、或はより原始的な人、つまりはより赤ちゃんの方に近い人、大人になっても子供の頃の純粋性を失って居ない人、などに発現して居る能力なのではないだろうか。
或は脳に柔軟性が甚だしくある人などに。
「視覚で考える」段階の頃に、感じていた世界の感じ方や、初源の言葉の感覚が、宮沢賢治の言葉の中には内包されていて、僕たちの心がそれに共鳴するのではないか。」と上記の引用の部分にある通り、共感覚がかつて言葉を使うようになる以前に人間が共通の感覚として持っていた感覚ではなかったかと述べられて居る部分については非常に興味深かった。
所謂超能力だとか第六感などということが屡世間で語られて居たりもする訳ですが、共感覚は言ってみればまさに其れにも近い能力として位置づけられるものでもある。
特に現代人は文明に於ける自己家畜化の過程に置いて甚だしくこうした能力の減退を余儀なくされて来て居るだろうことは想像に難くない。
そのうちにこうした原始的な能力の去勢を現代社会は望み我々は其の傾向に抗うことなど出来なくなることだろう。
そうしていつのまにか現代には現代人としてだけふさわしいような、まるで家畜のような人間ばかりが増えて行く。
共感覚者の存在は其の傾向に対して大きな疑問符を投げかけて居る様に思われてならない。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1753回) ..2014/09/14(日) 11:30 No.4848 |
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さて近代科学の成立は確かに近代以降の人類の可能性を拡げ我々庶民に夢を与え続けて呉れました。
と書けばまるで科学はすべて良いもののようですが実は自然科学とは怖いもので外界ー自然界ーを破壊する作用を必然的に持って居るものなので結果的に至極危ないものです。
其の危ないものの力に頼って我々は明日を夢見て居りますが現実には夢どころかむしろ危うい明日の様ばかりを予知させられるものとなって来て仕舞って居ます。
自然科学が何故怖いものなのだろうと私は以前に良く考えたものでしたが、要するに其処では全体性ー全体のバランスをも含めた全体としての法則性ーを考えず部分的に分析し其処で得られた法則性を全体の方へ適用して仕舞うという還元主義なるものの存在が一番怖いものなのではないかと思われます。
だからポストモダンーもはや之も古い思想なのかもしれませんが私はこれしか知りませんのでしょうがないのです。ーの思想の立場からはかって此の要素還元主義が屡批判されて居たものでした。
Wikipedia-還元主義 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%84%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
上記によると矢張りというべきか、此の要素還元主義は現在激しい批判に晒されて居りつまるところは昔よりももっと旗色が悪くなって居るもののようだ。
私などはもう八十年代位の頃から還元主義は良くないから止めた方が良いのじゃありませんか?と述べ続けて参りました。
もっとも私は学者でもなく研究者でもなく只の一サラリーマンで、其れで職場での世間話の折などに其の事をちょろっと述べる位のことで全然まともな批判などではありませんでしたが。
そんな私は九十年代に入ると全体論者というものになりました。
其れは還元主義とは対置される考え方としての全体論を思考の中心に据えて何でも其れでもって考えていくこととしてみた。
ところが当時は其の全体論という言葉すら実は知りませんでした。
でも何も分かって居ないのに何故か分かって仕舞うという直観能力のようなものが私には備わって居り、其のビビビと来た方向性へ進んでみたら結果的に其処には全体論という考え方があったという訳なのです。
尚、全体論というのは一言で言えば全体は部分の総和ではなく其処には其の総和以上の何らかの新たな法則性ないしは価値が付与されるという考え方のことです。 従って其れは部分論に終始するであろう還元主義とは対置された立場となります。
自然科学に於ける通常の手法、即ち分析して法則性を導き出し其の法則性を全体にも適用し普遍化して考えるという立場とは丁度正反対のプロセスのように私には感じられます。
Wikipedia-ホーリズム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E4%BD%93%E8%AB%96
此処からしても全体は部分の集積とは異なり、全体には全体性という新たな性質が付与されるのです。 そして此の考え方こそが古い科学の問題点を克服するために、まさに今後の科学に求められている論点でもあるとされて居る。
さて近代科学には還元主義をとることからの部分論に終始するという癖のようなものがあります。 だからこそかっての自然科学の視野はむしろ狭いものであるに過ぎなかった。
つまり自然科学には心の面に欠けるという人文、社会科学系の立場から考えられるところからの欠点以外にも視野が狭いというもうひとつの思想の上での構造的な欠点があった。
ー自然科学は原子やら宇宙やら、それこそ極小の世界から極大の世界まで網羅して居る視野が広い世界のようで居て実は非常に狭い視野の持ち主だったのだー
其の視野を広げようという試みがまさに今新しい自然科学としての現場で行われて来て居るのです。
ゆえに私はこれらの試みに大きな期待を持って居ます。まさか夢までは持てませんが其処で大いに自然科学が変わって呉れたらという希望のようなものは常に持ち続けて居ます。
それでも楽観視して居ることなどは無論のこと出来ないのです。 科学技術によって齎される現実の上での諸々の弊害、破壊とそのことによる不安は常に大きなものがあります。
今後自然科学のあり方が大きく変わっていくのだとしたら環境に大きな負荷をかけ続けていくこれまでのような科学技術のあり方も改められていくのかもしれません。
然しもし其の事を成し遂げたのだとしても、近代三百年の営みが齎したところでの負の遺産は厳として存在して居るのです。
即ち其れこそが今まさに此の地球を温暖化させて居ることだろう、人類の活動による悪しきものの蓄積と排出の方での問題です。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1754回) ..2014/09/14(日) 11:34 No.4849 |
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ちなみに私は幼い頃から全体論者であったような気が強くして居ます。 元々私は直観派なので突然にパッと何かの全体像を掴んでしまうことが多く其れを掴んで仕舞えば後は部分のことなど幾らでも分かって来るものです。ー要するにヒラメキ派の方なのですー
然し最初から部分に拘って仕舞って居ると全体像を掴むことすら出来ずしかもあの木を見て森を見ずの喩え通りに木の集積である森は決して単に木の集積であるばかりではないことに気付けない筈です。
何故なら森には生態系というものがあり其れが様々に機能することで全体のバランスが保たれて居るのですね。
其の生態系はむしろ森にとっての本質的な仕組みであり法則である筈ですが、もし部分論としての還元主義の立場で森を語るのだとすれば、木という部分の存在の分析に終始することとなりかつ森は其の詳細に調べ上げた木の集積に過ぎないということにもなり其処には生態系という全体的に付与されて居る筈の本質的性質が見えて来ないということになります。
物事の本質的性質をどう認識するかということはまさに哲学上の認識論の問題でもあるのですが、これまでの自然科学が骨子として居た還元主義による分析手法では其の事の本質を捉えるという点に於いては甚だ不備であったと考えざるを得ないのです。
たとえば今まさに文明は近い将来に於ける滅亡の危機をはらみつつ歩んで来て居るのですが、私に言わせれば其れは全体を考えなかったことの代償として齎されて居ることなのです。
全体をパッと掴んで居ないので部分的にも色んな要素の関係性が分かって来て居ないのでしょう。
かって大乗仏教の仏教哲学の方に大は小に連なり小は大に連なるという壮大な思想がありましたがそういうのはたとえ理論化出来なくともパッと掴めて仕舞うものなのです。場合によっては其れが可能であるということなのです。
古の哲人や宗教家はおそらくは皆其の直観力の持ち主であった筈です。
で、直観というのは例外なく全体論に重なるものです。全体論こそが直観で、直観こそが全体論です。
もっとも直観は藝術の方の専売特許でもある訳ですが、むしろそうした分類、垣根を越えていくところにこそ何か本物の認識の芽生えのようなものが生じるようにも思われます。
またこのことは屡云われて居るような学問領域の上でのリンクということにも繋がるのだと思われます。
最終的には人文科学と自然科学の統合のようなことがもし可能であるならもう少し地球や人間にとってやさしい文明社会を築いていけるのかもしれません。
いや、より良い社会を築くのなら社会科学の方も是非統合して置いて頂きたいものです。社会を立て直すには当然のことながら社会科の方も是非要るということでしょう。
いずれにせよ、21世紀型の自然科学、また其の新しい自然科学からフィードバックされて来ることだろう科学技術の行方を規定し今後の自然科学に於ける理論的骨子となるであろう考え方とは全体論であることがより望ましい訳です。
然しそんなことは普通直観主義者なら元々皆分かって居る筈なのですが。
それこそパッと全部を掴んで仕舞って居るからこそ分かって仕舞うんだな、これが。
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ホームページ閉鎖のお知らせ
投稿者: kiyomi (名誉教授〔学長〕/182回)
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2014/04/07(月) 16:08 No. 4740 |
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皆さん、大変ご無沙汰しております。
この度、急な引っ越しに伴い、4月30日をもってHPを閉鎖することになりました。
長い間ご愛顧頂きましてありがとうございました。 シリウスさん、皆さん、今まで交流をありがとうございます。 感謝の気持ちで一杯です。
シリウスさんの貴重な文は本にできると思います。 個人ブログ開設がありましたら是非教えて下さい。
では、本当に、本当にありがとうございました。
閉鎖まで後23日程ですが、それまで、どうぞ宜しくお願いします。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1649回) ..2014/04/07(月) 23:12 No.4741 |
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kiyomiさん、ご無沙汰しています。
実は私自身も三月で休筆するつもりだったのですが、色んなことが中途半端ではダメだと思い完結する為にもう少しの予定で書き続けて居ました。
一度kiyomiさんへ手紙を書こうと思っていましたが、それも出来ずで、とりあえず此の二、三ヶ月のうちに何とか書きたいと思っています。 お手数ですが引越しされる住所の方を教えて頂きたいです。 cjl82750@ams.odn.ne.jpの方へお願いします。
他の方ももし何か用事があったら私に是非メールして頂ければと思います。
ブログは開設しますので開設したらまたお知らせします。
ただし其処はまた相当に意固地なブログになるかと思います。世に対する批判度は今現在程度のものでいきます。つまり世に迎合しないものとなるかと思います。
其れから低成長ブログとなり現在のように二日おきに更新する事は出来ないのではないかと思います。
なので其れもいつまで続くものとなるものかは分かりません。
基本的には私はここでのみ限定的に書いたのです。
ここで書かせて頂くことが出来て本当に幸せでした。
それもすべてここに集い、あるいはここを訪れて見て下さった皆様のお陰です。
散文を書くのをもしやめたら、本気で詩の方を書いていこうと思っています。夢は矢張り生涯に一冊で良いから詩集を出したいということです。
ブログの方で散文を書いていくのでしたら此処と同じ様な形で書いていくほかはありません。
なお私の投稿予定についてですが、四月の後半はとても忙しく回数は減ることになりますがそれはその都度またお知らせします。
前半は今休暇を取っていることもありなるべく纏めて投稿しておきたいところなのですがそれが無理なのであれば内容を纏めて書くということになるのかもしれません。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1652回) ..2014/04/10(木) 22:20 No.4744 |
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お知らせ
私の散文での意見展開は以下へ移動することとしました。
http://blogs.yahoo.co.jp/sirius717ak
後は一度だけ、万年筆物語の最終話の方を投稿させて頂きます。
尚万年筆物語はブログの方でも継続していきますが投稿の方は稀になることかと思われます。
其れでは皆様長い間本当に有難うございました。
特にオノトさん、色々とお世話になり感謝して居ります。 どうかお体の方を大事にして下さい。
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| 投稿者: ほしいも小僧 (永世名誉教授/838回) ..2014/04/13(日) 10:36 No.4747 |
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ごぶさたしております。 ほしいも小僧です。
Kiyomi様。閉鎖のお知らせ、読みました。 これまで本当にお世話になりました。 いろいろな人たちとの出会いを、このホームページを通じて、させていただいたこと、本当に感謝しております。
また、Sirius様には、時が来たらまたメールをさせていただきたいと思っております。ブログのほうもお気に入りに登録しました。
30年以上前に、ラジオでこんな詩の朗読を聴いたことがあります。
ここを去っていく人と、ここへやってくる人 交差するなかで、 それぞれの人にひとつずつ 満足できる真実があったとしたら それはとてつもなく公平なことなんだが
それではみなさま。 またいつかどこかで再会できることを祈っております。
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| 投稿者: オノト (助教授/57回) ..2014/04/14(月) 20:47 No.4748 |
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Kiyomi様 長い間、大変お世話になりました。
Siriusさん、何かありましたら、swatanabe62a@gmail.com にご連絡くださると幸いです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1655回) ..2014/04/14(月) 22:44 No.4749 |
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ほしいも小僧さん、以前は本当に有難うございました。お仕事の方がお忙しい筈だというのに、此処で私の拙い現代詩の解釈に付き合って頂いたりして、今でも其の頃のことが大変懐かしく思い返されます。 其れからオノトさんや他の方々の万年筆の画像なども私は是非保存しておきたいと思って居ます。またほしいも小僧さんが書かれた万年筆に関する随筆も勿論全部保存して置きます。 何だかあの頃の此のHPは良かったです。
私が此処で余り変なことを書いて場を盛り下げて仕舞ったのかな? と思うことも実は屡ありました。
其れでも万年筆や文明に対する考察で、其処で手を抜いて追求を誤魔化すことなど私には出来なかったのです。
此処はとてもとても良いところでした。 此処で活躍できたことを、是非一生の思い出としたい。
嗚呼、こんなに良いところがなくなるのか。私にとってのこんなに優しい居所が。 寂しくて寂しくてなりませんが、其れも諸行無常です。
受け入れないといけません。人生とはそういうもの、人はまた新たな道を歩むのです。
オノトさん、是非また近く連絡をさせて頂きます。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1664回) ..2014/04/27(日) 16:46 No.4758 |
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お知らせ
目覚めよ! http://blogs.yahoo.co.jp/animist77
新たに私が此処で書いたものを保存するブログを創りましたのでお知らせしておきます。
此の目覚めよ!というエッセイ集は私が結構頑張って書き上げたものです。
だからこちらに保存しておきます。
またそれだけではなく、加筆、修正しつつ今後も書き加え、また書き継いでいくつもりです。
或いはこちらがメインのブログ-というよりも本のようなもの-となっていくのかもしれません。つまりは文章による私の作品だということです。
此処では最終的に仏教的な叡智のあり方につき論考を進めていくつもりでも居ります。
尚図書談話室での最後の投稿は29日に行います。
では皆様長い間視て頂き有難うございました。 もし宜しければまた是非ブログの方も覗いてやって下さい。
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| 投稿者: 浦島 (永世名誉教授/228回) ..2014/04/29(火) 00:00 No.4759 |
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kiyomiさん
kiyomiさんの掲示板でたくさんの万年筆の友ができました。 素敵な交流の場を提供して下さったこと、心より感謝いたします。 kiyomiさんのHPの記事も楽しかったなぁ。 また交流会などでお会いしましょう。 ありがとうございました。
Siriusさん
図書談話室を支えてくださってありがとうございました。 穏やかで知的な部屋でした。 ブログ、拝見させていただきます。
ほしいも小僧さん
お便りをやり取りしていたのが懐かしいですね。 ほしいも小僧さんのお写真、好きでした。
オノトさん
様々なことに造詣の深いオノトさんには、教えられることが本当にたくさんありました。 ありがとうございました。
皆さんとのつながりが、これからも続きますことを願っております。 これからもどうぞよろしくお願いいたします。 ラプソディさんは海外でお暮らしなのでしょうか。 お健やかでいらっしゃることを祈っております。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1665回) ..2014/04/29(火) 12:39 No.4760 |
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浦島さん、十年位前でしたか、古本屋で二束三文の値が付けられた純文学の単行本、全集本の中の一冊などが安売り本の箇所に山と積まれて居るのを見て何ともいたたまれない気持ちになりました。
其れが今はもっとひどくなって居り、先日再度行ってみたところ其の古本屋自体がたたまれて仕舞って居た。
何の因果か文の世界が大好きで文の人でもある私には一体何でこんなことになって仕舞って居るのか、全く納得出来ないというかまさに頭に来るとでも言うのか、兎に角こんなことじゃやっぱりダメでしょう、其れも昔ほしいも小僧さんが言っておられたようにベストセラー作家の本だけがドンドン売れていくなんていうのは少々問題で、たとえ堅かろうが何だろうが昔の小説家の文章を改めて読んでみますと矢張り其の文には品位があり骨ーはて、何の骨か?ーがあり全く素晴らしいものです。
詩人にしても昔の詩はどうも何やら格が高くて読んでいて気持ちが晴れる思いが致します。
対して私の垂れ流す文は批判と申しますか文句の羅列のようなものにいきおいなって仕舞いますので元より品のないものばかりなのですが、それでもそうした古典的な名文への憧れのようなものは私の場合も多分に抱えて居りますのでいつかはそうしたものが書けたらとは思いますが昨今の世の風潮からすると其れも余り意味のあることではないのかなあ。
勿論本職?の詩の方で其のかっての文の力を復活させられたらと思ったりも致します。
其れも多分に思い込みの部分でのことなのでしょうが、文を創る人は其れ即ち思い込みが激しく周りが見えて居ない人のことと相場が決まっても居るようですので此の私には結構適任なことなのかもしれませんです。
其の試みを今後もまた見守って居てやって下さい。 文の方の玄人の方に見て頂けて居ると思えば、其処で私も手抜きをすることは出来ませんのですから。 たとえどんなに忙しくても。
ところでラプソディさんはお元気でしたかー?
此処を仏教サイトにいつのまにかして仕舞い申し訳ありませんでしたが、わたくし自身はこれでもキリスト教へ相当に歩み寄って来て居るつもりです。
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| 投稿者: Sirius (永世名誉教授/1668回) ..2014/04/30(水) 23:55 No.4763 |
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私も皆さんとの繋がりが今後も是非続きますように。
と祈る形で此処を去ることと致します。
感謝、そして合掌。
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