万年筆一千夜+
投稿者: Sirius (永世名誉教授/1671回)
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2014/05/10(土) 23:30 No. 4766 |
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*Stylo Art* スティロアート 軽井沢 〜 手作り万年筆と木の文具〜 http://stylo-art.com/?mode=cate&cbid=1194874&csid=0
ここの万年筆が前々から一本だけで良いから欲しいのだけれどいまだに注文出来て居ない。
昔よりも生活に何だかんだとお金がかかり実際万年筆どころではないのだ。ーたとえば叔父や叔母の葬儀などが兎に角多い。その度に香典を持っていくがその人数が多いと十万、二十万とかかり兎に角大変である。ー それに固定資産税の支払いがドーンと来る。何せ家が大きいので税の方も高いと来てる。
ところで万年筆は所詮物質なのだし最高の万年筆を使って居たのだとしてもそう威張れるようなものではない。
たとえば人間存在には根本的に差異など無く、皆同じ様な境涯を持たされてこの世に繋がれて居るのだから実は人間にも差は無く、また物質にも大元に於いての差などは無い。
つまり左翼系の人々が言って居るように人間は元々平等であるというのが真理である。
あくまで真理レヴェルではそうしたこととなるのである。
対してこの現実的で下卑た資本主義社会に於いては人間や物に大きく差なるものを用意して居るのだが本当はそんなもの大した差であろう筈がないのである。
だからみんな滅びるものなんだよ、結局は。
そういう性質のものに馬鹿みたいに拘る必要などないのだ。
そうは云われても、マニアは本当に馬鹿なので其処でどうしても拘って、たとえば木軸の万年筆はどうしてもこの軽井沢のが欲しいのだなあなどといつも夢見て居るのである。
そのバカとは実は私のことで、そしていつも軽井沢のペンのことを夢見て居るバカもまたその私のことなのである。
左様に人間は色んなものを突き詰めていくと次第にバカの領域へと突入していく。
つまりは夢見る馬鹿。
自分を利口だと思って居る奴に限って馬鹿なのだそうだが、そう云われてみれば確かに私もそんなところが少しだけあるような気がしてならない。
然し夢見がちな馬鹿である程幸せな存在は他にこの世には居ないものと相場は決まって居るものだろう。
万年筆タウト「黒檀」 http://stylo-art.com/?pid=22861790
何やら良さそうな筆なのでございます。
この黒檀ですが、最近この黒檀の手触りは格別のものがあるということに改めて気付きました。
昔自分で作った黒檀軸のDipPenを使っていたところそのことがはっきり分かりました。
クス http://stylo-art.com/?mode=grp&gid=717010
個人的にはこちらにも大きく興味があります。
楠というのは、もう兎に角香りの良い木です。
丁度今楠の若葉が茂って来て居て、家の近所の神社などへ出向きますともうそれは素晴らしく美しい新緑の世界です。
特に今日のような特別に天気の良い日の神社の楠の若葉は見事です。
落ちて居る若葉をくしゃくしゃとすると、全く素晴らしい芳香が漂います。
そうした地味な喜びこそが実は尊い。
なぜなら地球温暖化が進み段々と自然が壊れて来るとすればそんなごく小さな喜びでさえまるで夢のような出来事となることだろう。
自称とはいえ私のような詩人はいつも其のくらいのスケールで物事を捉えて居るのでどんな小さなことでも決してバカにはして居ないのだ。
ただ、いつもそういう風にしか物事を見て居ない人というのは本当は余り普通ではない。
普通の人はそんな小さなことを大きくは考えて居ない。
そっちの方こそが謂わばまともである。
それにしても今日は本当に素晴らしい日和の日でした。
自転車で買い物に行くと、あちこちにジャスミンの小さな白い花が沢山咲いて居て、その横を通り過ぎるだけであの独特の芳香が漂って来ます。
勿論その折には其のようなジャスミン街道とでも云うべき、小洒落た閑静な住宅街のところを選んで通っていくのです。
そして今こうして自分の部屋でパソコンのキーボードを叩いて居りますが、あれあれ不思議、何やらそのジャスミンのような香りがどこからともなく漂って来て居るのであります。
そうか、これは家の便所の匂いだ。
その匂いがニ階の私の部屋まで届いて居るのでありましょう。
何やらどことなく臭くもあるのだが、然しながら全体としては矢張り芳香の類で、するとどうもジャスミンというものは少々便所臭くもあるのではないかという疑いの生じた、其のように実に平和な、そしてどことなく倒錯の度をまた深めたかのようなこの新緑の日の夜です。
ちなみに軽井沢といえばキリスト教のことがセットになって居てそのことばかりが思い出されます。
そしてあのジョンレノンも屡訪れたという軽井沢。
尚私の現在の上司が昨年軽井沢へ避暑に訪れて居ますが、その折に天皇陛下、皇后陛下が丁度軽井沢へお入りになって居られ、上司はそのさまが見られて実にラッキーだったと頻りにそう語って居りました。
まあしかし宗教のことは抜きにして軽井沢の万年筆が一本是非欲しいのだ。
軽井沢だけに少々値は張るが欲しい。どうしても欲しい。
では万年筆を売って、お金を用意することと致しましょう、貧乏詩人さん。
えー、嫌だよーもう売りたくないよー、万年筆のお母ちゃん。
万年筆のお母ちゃん、買ってよー、お願いだ、頼むぞよ。
ダメダメ、そこはちゃんと詩を書いてそれを本にしてお金を稼ぐのですよ。
それから私は万年筆のお母ちゃんなんかじゃありません。
私は女神、それも万年筆の女神なのですよ。
ああー、女神さまー、女神さまー、万年筆買ってー買ってーお願いします、心から祈りますから。
ちゃんとしたキリスト教の祈り方でそれを致しなさい。あなたにそれが出来るんですか。
ハーイー、もっちろんできマース、あのくたらーさんみゃーくさんぼだいー、なーんまいだーなんまいだー。なむみょーほーれんげーきょー。
ーこの時、女神、瞬時に消えるー
其のようにして幻想の世界で軽井沢ペンを買ってもらい損ねたわたくしは、結局心を鬼にして限定品を売りお金を作ることにしたのであった。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1672回) ..2014/05/12(月) 23:11 No.4767 |
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私はこれまでに多くの万年筆を使って来ました。
思い出話とはなって仕舞いますが、以前は本当に良いとされる現代の万年筆を何本も持って居ました。
其のほとんどが独逸物でした。
私のことを現代の伊太利亜物のペンのコレクターだと思ったら其れは違って居て、基本的に私は90年代以降の独逸物のペンの収集家だったのであります。
とは言っても独逸物のペンのマニアさんのように物凄くレアーなペン、或いは古い独逸のペンを集めて居た訳ではなく普通に売られて居た限定品のコレクターだったのだと言えます。
其の限定品に関しては、恐ろしいことに何と最低二本ずつを集めて居りました。
私は性格的にくどいのか何なのか、兎に角二本ないと安心して使えない、或いは二本あれば良い方を保管に回し残りの一本をずっと使って居られる訳です。
または特定のお気に入りのペンに関しては同時に三本を持って居たことさえありました。
あのモンブランのメディチなどはそのような類のものでした。
其の良い方のペンを後回しにして味わうつもりであるという部分もよくよく考えると少しいやらしい性格のような気がしないでもないです。
逆にもっと単純に先に良い方を味わいたいというのが普通の感覚なのではないかなあと思うことさえ良くあります。
旨いものと普通の味のものが二つ皿の上にある場合に、私の場合は旨いものを後でゆっくりと味わいたいという性格なのでしょう。
だからその辺りは犬ではなく猫的な性格です。
犬のように単純ではなく一癖も二癖もあるということでしょうか。
ちなみに私は犬の単純さ、あれは余り好きではありません。
だからなのか、道を歩いて居るだけで良く飼い犬に庭から吠えられたりします。
逆に何故か猫からは好かれることが多く、公園などに居る野良猫に良く私の方から話しかけたりもするのだしで兎に角互いに仲が良いです。
ちなみに私は猫の鳴き声のネコマネが結構上手に出来ます。
其のようにある程度までは猫語が話せるということです。
日頃は家の猫二匹とも普通に猫語で会話をして居ります。
決して人間の言葉は使いませんが家の猫には良く通じて居るようです。
さて今思えば、ペリカンの限定品というものは、これらは確かになかなかのものでありました。
特に900ベースの限定品は凄かったです。
アジア神話シリーズというのがあって、それぞれに888本ずつの限定数であったが、ゴールデンダイナステイ「青龍」-1995-、ゴー ルデンフェニックス(朱雀)-1996-、ホワイトタイガー(白虎)-2000-玄武-2001-というのがあり、 後に麒麟-2002-も加えられた。
これらは流石に二本ずつ持って居た訳ではなかったが、当然ながらすべてを持って居りました。
ただし使って居たのではなく保管しつつ持って居ただけだったのですが。
当時私が使っていたのは900トレドの20Cニブモデルの方でした。
これがまた凄い高級なペンで、手彫り彫金のヴァーメール軸で其の美しさは完璧でした。
20Cニブはまさに夢のような筆記感のニブだったが、後に私の評価としては14Cニブの方が上がったので手放してしまいました。
二本ともてばなしたのです。
さて当時これらの限定品は特に高額で取引されて居ました。
ゴールデンダイナステイ「青龍」とゴー ルデンフェニックス(朱雀)は特に評価が高く共に30万円くらいの値がついて取引されて居たことさえあった。
私もこの二本が好きでおそらく生涯手放すことはないだろうと思って居ましたが結局手放してしまった。
相場が下がってから売りましたので其処は少し残念ではあった。
基本的に私には少々重量感がありすぎるペンだったのでそうなったのですが、普通は重すぎるように感じられるペンではない筈です。
つまり私は元々軽いペンを操ることに向いた手をしていた訳で、其の筆記スタイルには合わないペンであったからこそ手放さざるを得なかったのです。
然し現代のペンとしての出来の良さは無論のこと素晴らしいものばかりだった。
今でもこれらのペンを使って居られる方々は結構満足されつつ使われて居るのかもしれない。
或いはこのクラスのペリカンは十年使っても悪くならず逆に良くなっていく可能性すらあるのでしょう。
然しいかんせん私には重すぎたということだったのでしょう。
「ハンティング」-1994-なども良い限定品でした。
然しこれも二本ー三本持って居た時もあったがー共手放しました。
「オーストリア1000」(1000本)-1996-だけは残して居ります。
このペン、比較的軽いように思われ、さらに銀装飾部の意匠が素晴らしく芸術的です。
しかも部分的にフィリグリーとなって居り凄く美しいペンなのです。
PELIKAN 1000 YEARS AUSTRIA FOUNTAIN PEN #517/1000 BNIB - RARE - RED LACQUER http://cgi.ebay.com/ws/eBayISAPI.dll?ViewItem&item=251052162089&fromMakeTrack=true&ssPageName=VIP:watchlink:top:en
矢張りこのペンだけは残しておきたいです。
さらに「スピリッツ・オブ・ガウディ」-2002-はフィリグリー銀製軸ですので比較的軽く私好みでもあるので残してあるのです。
ペリカンの「スピリッツ・オブ・ガウディ」 http://www.blueberrycity.net/fountainpen/review/07_gaudi.html
ただしこの限定品はペン先の方が硬いタイプのようですのでそのままではどうも気に入らないです。
そこで90年代のPFニブをつければ、或いはM800用の14Cニブが付けられればといったところです。
いずれにせよこれらのペンは現代の独逸物のペンの中でも選りすぐりの逸品揃いです。
私の場合には後に自分の本来の筆記スタイルに気付きこれらのペンが合わないと判断していったのでしたが、いずれにせよ当時のペンとしては皆一級品の工芸的要素の入ったーつまり手の込んだー限定万年筆であったことは言うまでもありません。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1673回) ..2014/05/14(水) 23:56 No.4768 |
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未発売!スティピュラ モデルTエボナイト万年筆T-Flexチタン/Y76 http://page17.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/v359262481
非常に興味深い新しい万年筆である。
一番驚いたのは、ヘヴィーユーザーの為にこれがアイドロッパー式としても使えるようになって居るところなのである。
伊太利亜の万年筆の良いところは、こうした変わり身の早さとでも云うか、或いは進取の気風があって余り常識的ではないことでもドンドンやっ て仕舞うというところにこそある。
その代わりに日本や独逸のペンのような完成度の高さによる安心感やドーンとした押し出し感は感じられない訳で、それどころかそれこそ常識的ではない部分がありいきなり変なところが壊れたりもする。
だからそうした性格の違いを楽しむ位の感じで伊太利亜のペンとは付き合っていってやるべきなのである。
其処で日本や独逸のペンを選ぶ際のように規格品、工業製品的な見方をしていくべきではないのだ。
ゆえに伊太利亜のペンは特別である。
伊太利亜のペンはだからこそ万年筆の上級者向けである。
万年筆に於ける遊びが分かる位の上級者でないと伊太利亜のペンの良さは多分分からないことだろう。
逆に日本や独逸の真面目なペンばかり使って居るような御仁にはこの万年筆の遊びの世界が全く分からない。
だから其れは随分可哀想なことだ。
私は今でも一番面白い万年筆は矢張り伊太利亜物だろうとそう思って居る。
勿論一番使って居て楽しいのも伊太利亜物である。
それから古典の萬年筆なども使ってみて随分楽しい。
其の点では古典の萬年筆と現代の伊太利亜物との間には何らかの相関関係のようなものがあるように思えてならない。
対して使って居て余り面白いと思えないのが日本や独逸の真面目なペンですが、そうかといってこれらの全部が全部面白く無い訳ではなく勿論中には面白いものがある訳ではありますが、それでも万年筆の世界を俯瞰するような立場から述べれば日本や独逸のペンは明らかに真面目な部類のペンとなるのである。
そして実は私の場合自分の性格が其の大真面目なのでどちらかと言えば真面目くさったようなペンは余り好きではない。
実際使ってみて不真面目なペンが一番楽しいのだが、不真面目なペンは大抵壊れるのも早くて屡とんでもないことに良く巻き込まれたりもする。
然し今思えばそういう経験が非常に楽しかった、まさに色々とあって大変だったのだが結構面白かったなと思えない訳でもないのだ。
勿論質実剛健な部分ということ、本質的に真面目だということも大事なことなのである。
だから中級くらいまではその面を追求していくべきなのではないか。
然し万年筆でも思想でも他の何でも或いはそうなのかもしれないのだが、其処でもうすでに本質を捉えて仕舞った限りに於いては其の遊びの部分が何より楽しいという、其の一種上澄みの立場上での遊びの境地のようなものが此の世にはどうしてもあるような気がしてならないのである。
さて、話題はガラリと変わりますが万年筆の金ペン先についてのまとめのようなものを少し語っておきます。
14金ペン先ー一般に薄くつくれるので柔らかい。が、本質的には素材が硬い。
21金ペン先ー一般に厚くつくられるので固い。が、本質的には素材が軟らかい。
勿論18金ペン先はこの真ん中位の性質となります。
つまりしなやかであるのは14金ペン先の方なのです。其の逆にしなやかでないのが21金ペン先の方です。
素材的に硬いのは14金ペン先の方で、其の逆に素材的に軟らかいのは21金ペン先の方です。
金ペン先の性質は其のように性質が二重に入り組んで居るので非常にややこしい。
さらに其処に製法上の違いも含まれて来ます。
すなわち鍛金ペン先であるか、圧延ペン先であるかという製法上の本質的な違いもある。
だから本当は三重に入り組んでいます。
また、書き味についてはもっと他の要素が入り込んでさらにややこしくなる。
たとえばペン先の形状とか、ペンポイントの硬度であるとかが。
確かに14金ペン先でも固いものは色々とある。
が、14金ペン先は本質的にはしなやかなのです。
21金ペン先は復元力も弱いように感じられ本質的にはしなやかではない。
其れは本質的には軟らかいだけなのである。
ただし私の経験では書き味単独でみた場合には金品位の高い金ペンの方が書き味は良い。
然し総合的な筆記感の方で優れて居るのは矢張り14金ペン先の方である。
これもまたややこしい話で、多分万年筆のことをほとんど知らないことだろう一般人には全く通用しない話であろう。
尚私の場合は基本的にカリグラフィーの書き方で日本語を書いて来て居る訳です。
勿論合理字の方も書けますが、線の強弱を付けてより美しい日本語を書いてみて居る訳です。
そのような書き方をする場合には、ニブの本質的な強さが非常に大事なこととなって来ます。
なぜなら本質的に弱い金ペンでそのような書き方をすればすぐにニブが曲がって仕舞いますので。
ところが戦前の鍛造ペン先の場合は其のどれもがそれくらいのことで曲がったりはしない訳です。
強くてしなやかな14金ペン先がほとんどですので其れは意図的な変形ー負荷ーにも強いということです。
逆に新しいニブ程弱くなって居るように私には感じられます。
おそらくは生産工程の合理化か何かでそのようになって来て居るのだろう。
ちなみに人間の方も新しい人間ほど色んなプレッシャーには弱くなって来て居るだろう感じがどうしても致します。
其の弱いというのは、たとえ分厚くて固いのだとしても本質的には弱いのです。
最近のフレキシブルニブの方もしなやかなようでいて、実は復元力が弱いのです。
でもその辺は非常に微妙な話です。
其れから筆記音について。
昔の鍛造の強いペン先はイリジュームの出来の如何や線幅に関わらず筆記音が鋭いです。
シャーとかジャーとかいう高めの音で線が引け、文字を書いても矢張り音が高いと申しますか鋭くて澄んだ音がする。
一方最近の圧延ニブは細字で書いてもどこか音が落ち着いて居ます。
ゆえに万年筆の金ペン先は戦前の鍛造ペン先の方が遥かに物が良いということと必然的にそうなる。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1680回) ..2014/05/20(火) 23:52 No.4775 |
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万年筆というものも所詮は物質に過ぎないのであるから最終的には心の中から捨て去っていかねばならないものなのです。
何でそういうことになるのかというと、そうした物質的なまたは観念的な拘りが因となって縁を生じこの現象世界に自分が再び生まれて来て仕舞う虞があるからなのであります。
だから本当の本当は物質的にまた観念的に何の拘りも無い状態にしていくことこそが清らかな何かとなるということである。
従ってコレクターというものはひとつの因果で厄介な因縁を持って居る人種のことであり真理の世界からみればそれは決して褒められたものではない人間のことを云う。
逆にその拘りが強い輩ほど深く煩悩に苛まれて居るということとなり、また深く愛好しつつ使っているほどその点に関しては救い難い輩であるということとなる。
然しその事はあくまで真理の世界での話ということとなります。
対してこの現象世界では真理がそのままに顕現して居る訳ではありませんので上記のようなことはまあどうでも良いことであると言えばどうでも良いのだがそれでも本当はもしもの時には全部万年筆を捨てられる位の気分で居たほうが将来ー次に生まれて来る時などにー役に立つだろうことは想像に難くない。
この現象世界に於ける現在というものは元々限定されし至らぬ存在にのみ与えられて居る今なのであって、本来ならばその瞬間、瞬間にはほとんど何らの価値も無いということとなる。
本当の本当はそうした限定を離れて物質化、現在化されていないものの方がずっと価値があるものである。
然しそこまで考え込んで仕舞っては万年筆の話のひとつも出来ないというものです。
万年筆は兎に角物質ですのでその物質のみのことに限定して話を進められれば良いのでしょうが、物質は二重に限定化、現在化されたものでもあるのでそんなものを幾ら熱心に語ったのだとしても精神にとってプラスのこととなるかといえばおそらくはそうはならないことでしょう。
などと今回はいつも以上に訳のわからないことを述べて居りますが、最近少しこの哲学モードが抜けなくなって来ておりそれで意味不明のように聞こえることをつい述べて仕舞うということがあります。
ただし私の場合く悪いクスリの類は全くやって居りませんのでどうかご安心を。
それにつけてもその現在化されて居る万年筆とは矢張り良いものです。
http://yahoo.jp/box/psOp4a
http://yahoo.jp/box/ppKLJp
最近はほとんど改造ペンを使って居ることが多いです。
その多くがED改造されて居るのでインクフローが良く皆書き易いのです。
ヴァンゴッホのEDやDUKEの軸を用いたEDペンは共に素晴らしい。
大変書き易いペンですのでストレス解消にももってこいのペン達です。
http://yahoo.jp/box/HiCqeH
それから例のMASTER萬年筆は最も頻繁に使って居る。
ペン先の柔軟性が高くペン先の曲げに対する収束感が素早くて良いので非常に気分良く使うことが出来る。
矢張り古い萬年筆のペン先は良い。
線幅は細いが線描により中字程度の線を出すことも可能だ。
http://yahoo.jp/box/99BbaC
このように中芯を取り払ったオノト マグナのED版の方は矢張り筆筒の方へ立てて保管していれば充分に使えるということが分かった。
何やら以前よりもインクフローも良く感じられ快適に書ける。
おまけに7号の貴重なフレキシブルタイプのニブなので線描筆記さえ可能なのであるが、そこは元々Bニブなので余り線描が得意ではない。
ニブは柔軟の部類とはなるが特に柔軟だという訳ではなく、たとえば書き比べてみると上のMASTER萬年筆のペン先の方がより柔軟である。
http://yahoo.jp/box/FfvUB0 http://yahoo.jp/box/ayACDk
Waterman0556も良く使って居る。
ペン先は6号にしては柔軟なように感じられたが取り付けの調整を行なってみたところ少ししっかりとしたペン先となり、丁度オノト マグナの7号のフレキシブルタイプのニブと同じ位の柔軟性がそこに感じられる。
この種のフィリグリー装飾軸は軽くてそして結構持ち易く出来て居り全くの所萬年筆の軸として素晴らしいというほかはない。
そしてオノト マグナの軽めのセルロイド軸の品質が非常に高く、たとえば使って居ると余計にツヤツヤして来るのだし、全くこれなどは買った時よりもずっと良くなって居る萬年筆なのだと言える。
パイロットの大型漆はインクをブラックに替えたらインクフローが良くなり書き易くなった。
キャップを付けると巨大な万年筆だがペン先は結構軟らかい感じで多少線描も可能である。
太字とはいえ細めの太字なので線描の書き方も出来ない訳ではないのである。
兎に角どの万年筆も皆それぞれに味があり現在の私にとっては大変良い物ばかりです。
全くこれらからは癒されるところが大なのであります。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1681回) ..2014/05/22(木) 22:59 No.4776 |
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ROMEO 蒔絵万年筆 蛇 http://item.rakuten.co.jp/hougado/ito-ya-074?scid=af_pc_etc&sc2id=291953908
嗚呼、面白い。ただし私にとっては重量オーヴァーである。
http://yahoo.jp/box/SexW8D * 二本の萬年筆に合わせて居るのは名古屋市博物館で売られて居る金属製で七宝焼の栞二つ *
Waterman416とWaterman76。
Waterman416は現状で私にとっての理想の萬年筆である。
Waterman416の場合一昨年から二本を持って居りますが、使って居るのはこちらの一本のみである。
この萬年筆、使ってみて其の使用感が一番高級である。
私はこれまでに様々な高級だと云われて居るペンを使って参りましたが、その中でもこのWaterman416の使用感が最も高級であると信じて疑わない。
だからコレは私にとっての少し特別なペンなのだ。
だから毎日は使って居らず特別な時に使うのである。
精神的、肉体的に余裕を持てる時に限って使って居る。
すると、あれあれ、やっぱし高級だ。
私にとっては矢張り一等高級な使用感がするのだ。
筆記時に182mmと長く、そして重量は22gと軽い。
この数字だけでも現代の万年筆には到達不可能なものなのである。
現代の万年筆にはこんなに長くて軽いしかも銀装飾付きのペンなどおそらくどこにもありはしないのだ。
クリップは無しのタイプですがーもう一本の方はクリップ付きであるー意外と後方寄りの重心で全長の6対4の所にそれが来る。
ペン先は大きいタイプの6号のものだ。
軸に対して大きく感じられるタイプのものであり、まさにそこが私好みの仕様になって居る。
兎に角基本的に長くて軽い萬年筆なので軸の操作が一般的には難しい。
されど私はこうした軸の操作こそが得意なのである。
だからこのペンはまさに私好みのペンなのさ。
ペン先は固いようで居て意外と柔軟性がある。
然し前回述べたWaterman0556のペン先の方がより柔軟である。
でも皆6号の大きなニブなので似たり寄ったりで所謂腰のある柔軟性を感じさせるニブである。
英文ならいざ知らず、漢字などを交えて日本語を書いていく場合には私には丁度良い位に感じられるニブである。
つまり大きく線を変化させつつカリグラフィーをしていくのではなくトメハネハライに応じて軽く線の変化を付与していくには丁度この位で良いのである。
またはもう少し柔軟性のある4号や5号のニブでも良いのではありますが、それらのL.E.Watermanではオーヴァーサイズの軸にはならないのでこのWaterman416のような大きめの軸を好んで使って居るのである。
兎に角大層良い萬年筆である。
フィリグリーは凹凸の少ない平面的なタイプなので軸は普通に持ち易い。
そして何せ長いので私のお習字書きの技術にもピッタリだ。
うーむー、ここでこのようにぐにゃぐにゃーとしてやれば、さあさあ、これでどうじゃろね。
さすれば、ほれ、この通り、このようにうつくしーい、まるでうっとりするような字が、書けたぞよ。
嗚呼、なんて良いペンなんだ、
おお、運筆の時の音の方が凄いぞ。
シャーシャー、シャーシャーとこれはまるで日本刀で紙を切るかのような鋭い音だ。
だからこそペン先が実に実に強くしかも漢字や仮名を線描していくことの出来る優れものだ。
では次に76の方や如何?
うーむ、これはまさにしっかりとしておる。
しかしながらそのしっかりしたペン先もグニャグニャとさせてやれるのだ。
本質的に強いペン先であることが其の事を可能としていて呉れるのだ。
ほーれ、ぐいっ、ほーれ、ぐいっとな、これでもうスッカリ書道師範級の筆跡となって居る。
少々グニャグニャながら、いや、それでも実に美しい線描が其処に完成されて居るのじゃよ。
Waterman76の方は筆記時179mmで重量は何と20gで軽い。
だからこそWaterman416と同じように線描のやり易い実に好ましい長い軸をして居るのである。
それでつまりはこちらの方も私のお気に入りのL.E.Watermanなのである。
実際書いてみると、どちらも甲乙付け難い程に良い。
其処には私の手が欲している長さと重さを持ち、さらに私の筆記技術の方が欲して居るペン先の強さと粘りと線描の能力がすべて兼ね備えられて居たのだ。
共に理想の萬年筆の中へ入れて仕舞っても良い程にこの二本のペンは高いレヴェルで私に合って居る。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1684回) ..2014/05/25(日) 00:40 No.4779 |
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さて最近私が良く使う独逸物二本について述べます。
Pelikan 1935 GREEN BとPelikan M850 with a 14C Bnibについてです。
1998年 ペリカン限定品「1935」(世界限定4,000本)
たとえば本日私は五年振りに猿投山へ行きトレッキングを楽しんで来た。
その場合に使う万年筆は決まって居て、Pelikan 1935 GREEN Bである。
つまり私が山で使うペンはコレだ。
このペンはオリジナル同様に軽いのが良い限定品である証拠だ。
しかしセルロイド素材には少々問題があり、経年変化から表面が波打って来たりもする。
私の1935 GREENも胴軸の方がかなりに波打って居る。
然し、波打とうがどうしようがこれはええ万年筆だ。
感触最高!
なぜならセル軸+エボ軸で感触は勿論どっちも良いのだ。
古典的な細身の軸は勿論私にも合って居る。
さわやかな緑の色のセルロイドは新緑の山の中で使うにはピッタリ。
一方硬いと云われるニブだが、これは現代の18Kペン先としては出来の良いもので山で手帳に詩など書き込むには丁度良い位のものである。
オリジナルの方の柔軟なニブは、少なくとも机の上で書かないと書きにくい筈だが山で書く場合にはしっかりしていて丁度良い位だった。
それから、ペリカンのヴィンテージ物を山で使うことよりもこちらの方がより安心して使えるのだ。
インクが泣き出し気味ながらインクフローは良い。
ピストンフィラーが若干心もとなくなっては来て居るがまだ大丈夫だ。
そんな訳で最近特に良く活躍して貰って居るペリカンだ。
ただし私にとっては山専用のペンである。
久々に訪れた新緑の山は色んな良い香りがしてそして新鮮な酸素を供給された私の頭は冴えて来るのだし、さらに山の頂上で寝ていると大層良い日光浴が出来る。
其処で徐にこのペンを取り出し良い詩が書けるという塩梅である。
尚以前私はこうした山用のペンに緑の透明軸のM800デモンストレーターを充てていたのだった。
然しM800デモンストレーターは流石に大き過ぎ、其れで現在は机上専用として使って居る。
そのペン先は18KでPFタイプのMで現行のM800の18Kペン先とは別物のしなやかさが感じられるものだ。
されど実感的にはもっとしなやかな筆記感を味わえるニブがある。
それが14Cニブで、私の場合はこれをM850の黒い胴軸に付けて居る。
このニブは全くもって素晴らしい。
Bニブなので特に滑らかだ。
どうも復元力は18KでPFタイプよりも強いものがありそうだ。
従って線描での書き方も可能な程だ。
然し調整でインクフローを改善したため低筆圧でも書ける。
この調整に4、5年もかかった。
取り付けの位置、左右の切り割りのバランス、変形させた場合に柔軟性を元に戻すことなど。
ニブはインクフローを大きく向上させるために大きく変形させて仕舞うと様々にバランスが崩れるのでそれを直すのは一筋縄ではない。
しかしようやく直った。
現在は完璧である。
こうして私の独逸物のペン達は現状で完璧な状態になって来て居る。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1685回) ..2014/05/25(日) 17:07 No.4780 |
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http://yahoo.jp/box/idH7UQ
こちらは最近私がこよなく愛好して居るデカいペン先ばかりです。
デカいペン先の魅力とはそれ即ち筆記感がリッチに感ぜられるようになるところにある。
私は以前からこうした大きなペン先が大好きなのであります。
そして勿論これらばかりではなく他にも大ニブ付きの万年筆を沢山持って居ます。
そして最近は特に古い萬年筆の大ニブ付きのタイプのものに興味がある。
たとえばこの画像で言えば、一番右のMASTER萬年筆と思しき萬年筆のデカい14金ペン先のことである。
もっとも柔軟性などは余り気にしては居りません。
柔軟なタイプであろうが、或いは固いタイプであろうが、それはどちらでも宜しいのです。
ただしより古い大きなペン先はおそらく鍛金が為されて居るゆえ本質的に強いペン先となって居るところが良い。
そうしたペン先こそが今の私のお気に入りのタイプなのである。
手作りペン先では矢張り兜木ニブの大きなタイプのものが好きである。
兜木ニブもおそらく鍛金が為されて居るゆえ本質的に強いペン先となって居てたとえグニャグニャと書いたとしても大丈夫である。
18金以上の高品位ニブは、そこでいい気になってカリグラフィー的な書き方をして居ると曲がって仕舞うことがありそこは結構危険である。
そうした危険ということがこの現代社会には充ちて居り、だからこそ本当はそうしたリスクに備えた上で行動して居なければならない。
たとえば70年代のプラチナの五角絞りのWGペン先、あれなども半年前位に曲げて仕舞ったことがあった。
要するに高品位ニブは本質的に弱いものであるということを良く知っておかなくてはならない。
従って現代のペン先に18金以上の高品位ニブが多いのは、それはひとつの大きな誤りである。
18金以上の高品位ニブは書き味単体では良くなる傾向があるのですが、其れ等は本質的に余り良いものではないということを愛好家は常に知っておくべきなのである。
さて、画像に戻ると、左から、No.14914C太字ー久保仕様、No.14914C極太字ー伊太利亜の業者によるクーゲル改造ニブ、 M800用14C Bニブ、MASTER萬年筆の大型14金ニブ、である。
MASTER萬年筆の大型14金ニブはずっと調整を行なって居たが現在はほぼ完調になって居る。
このニブがまず魅力的な筆記感を味あわせて呉れる。
そこでいかにもリッチな筆記感を与えて呉れるのである。
No.14914C太字ー久保仕様の場合は長年に亘るニブの調整で実はハート穴のところからクラックが生じて仕舞って居る。
が、おそらくNo.149のニブとしてはこれ以上望むべくもないしなやかな筆記感をしていることだけは間違いないことだろう。
そのように金合金のしなやかさと戯れること、それこそが万年筆の筆記上の大きな楽しみである。
それもこのように大きなペン先であればよりそのしなやかさが大きく増幅された形で味わえる。
次にNo.14914C極太字ー伊太利亜の業者によるクーゲル改造ニブの場合は、十年位前にイーベイに出て居たものを入手したもので非常に珍しいリチップニブである。
これは極太で物凄い形状のクーゲル風ペンポイントが付いて居り其れが矢張りクーゲルのように丸く研ぎ出されて居るので大変滑らかな書き心地である。
ただし長年に亘りあれこれと取り付けの方の調整を行なって来たものだ。
それで現状は来た当初の位置に近い、ニブを出し気味にする感じで固定して居るがこの筆記感の方がまた凄い。
この14Cニブは固いタイプのものでしなやかな感じのするものではない。
然し、書き味の方は非常に滑らかでインクフローも良い。
だから一種究極的な書き味をして居るNo.149なのである。
勿論このニブは低筆圧筆記で書くのがふさわしいものである。
大量の文字を書いても全く疲れないペン先なので作家の方などには特に向いて居るであろうNo.149である。
つまり、同じNo.149でもこの二本はまるで異なる性格の二本となって居るのだ。
久保仕様の方はフレキシブルニブ化されて居るため線描の方の書き方でも可能である。
対してクーゲル改造ニブの場合は低筆圧でもってペンポイントの方の力だけで平面的に文字を紡いでいくのである。
結局No149はこの二本を使うことが多くなって来た。
そのペンとしての性格上の対比がことのほか面白いからなのだろうか。
ペリカンのM800用の14Cニブはまず柔らかいのですが、それだけではなく大変上質な書き味のするニブである。
これらの中でも一番上品な質の書き味をしているのは間違いなくこのニブなのである。
このニブもかって調整でインクフローを増したがその後ニブの各部のバランスを取り戻すのに時間を要し今年に入ってようやくそれを終えることが出来たものだ。
左様にニブというものは一度弄ったら最期、その後に書き味の方を回復させるのに四苦八苦するということとなる。
されどそれは出来ないということではないのだ。
時間をかけて煮詰めていけば必ず書き味スポットの一点に焦点を合わせていけるものなのだ。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1686回) ..2014/05/27(火) 23:34 No.4781 |
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Wikipedia-畑 正憲 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E6%AD%A3%E6%86%B2
二十代の頃、それも塾の先生をして居た頃だったかと思うのだが、あの畑 正憲さんの著作物を熱心に読んで居たことがあった。
それらの本の内容はもはやほとんど忘れて仕舞って居るのだけれど、その後も常に畑 正憲氏のパワーの物凄さ、それも作家としての力量だけではなくあの雀士としてのまたは動物王国の主宰者としての並外れたパワーの源とは一体何なのかと考えて来ずには居られなかった。
その畑 正憲氏が万年筆の愛好家ーそれも古い萬年筆の愛好家であることを知ったのは十年位前のことだった。
それよりは少し前のことだったろうかと思うが、畑 正憲氏は新聞の広告欄に古い万年筆を求む、などと屡掲載されていたそうである。
してみると、畑 正憲氏はおそらく古い萬年筆の、それもかなりのレヴェルでの愛好家なのだろう。
そしてその古いというのはひょっとすると戦前のものを中心に集められていたのかもしれない。
巷間伝えられるところによると畑 正憲氏には様々に破天荒なエピソードがあり、そのどれもが桁外れのスケールのもので元々スケールの小さい私などは少々面食らって仕舞う程だ。
そのひとつに余りに面白い話があったから此処に書こうと思い纏めてみたものがあった筈だがそれは捜さないと出て来ない。
そんな風に他にもここに書こうと思って居たのに投稿出来なかった話がおそらく十や廿はある。
たとえばかのルートヴィヒU世のことを書いたものなどもあったが、もしかするとあれなどは結構傑作だったのかもしれない。
いずれにせよ、古い萬年筆がお好きな方は矢張り年配の方々に多く居られるようである。
が、正直言えばその世代の方々にはもう余り時間が残されて居ないのである。
そうかといって我々五十代がこの後もずっと長生きしていくなどということは保証されて居ない。
芸能人などでも五十代の人は結構早く身罷られたりして居るのであるから、実際そんなにのんびりとは構えてなど居られない。
だから結局は人間なんていつどうなるとも分からないものだと思いつつ日々を送って居た方が宜しいようである。
そうした感じで生きて居るとむしろ色んなものが真に美しく、また有難いものであるかのようにも見えて来る。
どういうものでも皆それなりに美しいものばかりなので、かえって其処で深く煩悩に縛られて仕舞い、全然抜け出せはしないのだが、まあ、結局はそれも仕方がないといえば仕方が無い。
ちなみに私の場合欲は大きい部分を捨てて小さい部分を求めていくことにして居る。
万年筆はあくまで小さい部分である。
然しそれも最終的には意識から消していきたい。
されど全部捨ててしまうことはかえって現実的には良くない。
なぜならこの世は欲望肯定の世の中、欲望を是とする世の中なのである。
それではそういうところを、逆に生きにくくなるということなのである。
自己保存欲だの名誉欲だの権力欲だの、或いは大金を手にしたいという欲だの、そうしたものを捨てて小さく求めていくのが私の生き方であり、かつ私の万年筆観なのである。
だからもうのべつ幕なしに万年筆など買わない。
されど万年筆だけは求めても良い。
他のものを求めて居ないので、これを求めておかないと求めるものがもう何も無くなって仕舞う。
でもあくまでそれも小さく求める。
小さくというのは、勿論安いということと同じことなのである。
かっては大きく求めて高額な限定万年筆を沢山持って居たのだったが、今はそういうのが随分減って仕舞った。
http://yahoo.jp/box/yp4WXx
その畑氏と同じで私も古い萬年筆が大好きなのでまたヤフオクの方で落として仕舞った。 何故落としたのかというとそれが三千円以下で安かったからである。
http://yahoo.jp/box/ACL6pN
最初黒い軸のペンが来たと思い、それをわざと変色させて茶色にしてやる目的と汚いペンを綺麗にする目的との両方で兎に角ペンを良く洗ってみた。 すると画像では分かりにくいのではありますが、黒軸ではなくラピスカラーのセル軸であった。
ラピスカラーのセル軸は結構美しいのだ。たとえばDUOFOLDのラピスカラーのセル軸なども随分美しい。 尚、戦前のパーカーのセルロイド軸は総じて品質が高いようで、分解などはせずに安心して使えるものが多い。
ただし変色は屡認められるのだし、変形などが引き起こされることもあるようだ。
http://yahoo.jp/box/vQPWXo
ペン先は8号の大きなものである。
とは言っても、ペリカン800のペン先を一回り大きくした位のもので特に物凄いという程のものではない。
それでも一応は大きい。
特にこのようにアップで写真を撮ると凄く大きく見える。
さてDiamond Medalというモデルを製作した会社はSears Roebuck社という米国シカゴの大手小売企業で1906年に設立されて居るそうだ。
ダイヤモンドメダルはこの会社から発売された万年筆やペンシルのブランド名となり、万年筆やペンシルの製造はパーカーやナショナルペンなど複数のメーカーからのOEMだったという。
だからなのか、このペンもあのDUOFOLDに似て居るといえば似て居る。
されどどこか二流品という感じのすることも否めない。
実際このペンはキャップリングの裏側のメッキも剥がれて仕舞って居るのだし、吸入の方も現時点で出来ないので付けペンとして使うのみである。
けれど結構キッチリ作られて居るという感じがどこか伝わって来るペンでもある。
この頃の萬年筆の作りは矢張り良いのだ。
それからペン先の方は頼もしい、固く硬いペン先である。
その固いというのはニブが分厚くて硬いのである。
対して硬いというのは鍛金ニブなので本質的に強くて硬いのである。
だからこのニブはこうして短穂で固いのではあるが強く硬くもあるものだ。
勿論線描をしていくようなニブではなくペンポイントが強く奏でる筆記音を楽しみつつGT筆記的に書いていくペンである。
このペン先は細字であるが、フェザータッチでもって美しい字をそのままー線描することなくーに書いて行けるペンである。
それから軸の感触が頗る良い。
セル軸ではあっても、これは確かになかなか良さそうな質のものである。
いずれにしても、僅か三千円でこんなに色々と楽しめ今私は実に楽しい。
かって米国には様々なマイナーブランドのメーカーがあり、それらがそれぞれに多くの萬年筆を発売していたという訳である。
古いものだけにそれらマイナーブランドの萬年筆にもそれぞれに味があり無論のことそれらが全く役に立たないという訳ではない。 そんなことを再認識して居る今日この頃である。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1687回) ..2014/05/29(木) 00:49 No.4782 |
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Wahl-Eversharpの萬年筆に関しては、これまでに度々語って来て居る訳である。
Wahl-Eversharpの萬年筆の素晴らしさはその繊細な筆記感にこそある。
ただしその繊細な筆記感を得る為にはFLEXIBLE NIB付きのモデルを得なければならない。
特に大きな号数のニブ、十号のニブのようなoversizeモデルに付けられたFLEXIBLE NIBの筆記感が最も繊細であり其れ等は線描するニブとしてはいずれも絶品である。
尚ここ日本では戦後の独逸のヴィンテージ万年筆の評価が高いようなのだが、確かに其れ等に付けられて居るニブには特に柔軟なものまでもが含まれて居る。
然し私がそれ等をも含めて使ってみた限りでは、其れ等はこのWahl-EversharpのFLEXIBLE NIBに優れるものだとは思えないのである。
何故ならWahl-EversharpのFLEXIBLE NIBは独逸の万年筆の柔軟性が高いニブよりも筆記上の感覚、感触が筆の穂先を操るが如くに感じられるのが常だからなのである。
そう、Wahl-Eversharpの特にoversizeモデルのFLEXIBLE NIBはまるで筆の穂先のようにも感じられることが屡である。
無論のこと其れ等は同じものではあり得ないのではあるが、其のような感覚でも書く事が可能だとでも言うのか、兎に角運筆圧がかかりガバッと切り割りが開く感じが筆の穂先を立体的に扱う感じにも一種似て居るのである。
だから私は今思うのだ。
この萬年筆に出合えて愛好家として私は本当に幸せであった。
この萬年筆が無かったら戦前の萬年筆の世界でこれほど夢を見させて貰うことなど叶わなかった。
Wahl-Eversharpの特にoversizeモデルのFLEXIBLE NIB付きの萬年筆は今世紀に入ってからの私の夢の萬年筆でもあったのだ。
Doric、Equipoised、Personal Pointとモデルは分かれるがそれ等oversizeモデルのFLEXIBLE NIB付きの萬年筆は私の筆記を長きに亘り支え続けて呉れた。
其の事に対しては謝意を捧げなければならないことだろう。
遥かな過去に存在して居たWahl-Eversharp社という萬年筆メーカーに対してと、其れ等の素晴らしいペンをずっと保存して於いて呉れた米国に対して。
確かに私は思想的には米国のグローバリゼーションの推進を是として居ない訳なのですが、その事とこの事とはまた話が別で、実際米国という国は今でも戦前の一流ブランドのペンなどが多く出て来るようなお国柄なのである。
勿論兎に角数が多く出て居たということはあったのだろうが、それだけではなく程度が良い状態でペンを保存するということも、おそらくはあの英国からの影響だったのかその部分については確りとそうしたことが行われて居たのかもしれない。
そんな訳で私はおかげさまで程度の良いWahl-EversharpのoversizeモデルのFLEXIBLE NIB付きの萬年筆を多く集めることが出来た。
だからそのことを可能として呉れたすべてのことに感謝の気持ちを今持って居るのである。
私にとっての本当の本当に良いペンを、それもそれらを多く私に与えて呉れて大変有難うございました。
http://yahoo.jp/box/NdlrAY
さて、画像について語れば、これらはEquipoisedとPersonal PointのoversizeモデルでFLEXIBLE NIB付きの萬年筆を撮ったものである。
まず驚くことは、このEquipoisedのセル軸が入手した時よりも美しく輝くようになり、しかもペン先の方の筆記の具合にしてもむしろ昔よりも良くなって居るということなのである。
確かにDoricのセル軸の場合にはことによると分解の虞が無きにしも非ずなのだが、それでもDoricのセル軸が必ず分解するものだとは言えず、またこのEquipoisedのセル軸の方がセルロイドの質が高いと言い切ることも出来ない。
要するに決めつけられない訳なのであるが、それでも実感的には戦前のセルロイド軸の方が現代の早く分解を起こすセルロイド軸よりも良いものであるといった部分はある。
http://yahoo.jp/box/QpWQQZ
こちらは黒いセルロイド軸のPersonal PointタイプのFLAT TOPモデルである。
この太軸のoversizeモデルはEquipoisedよりも古いモデルである可能性もあり、兎に角古典的な風味が強いペンで、しかしそれにしてはL.E.Watermanほどの古さは無く、結局は当時の新しい素材を用いて作られた近代的なペンの範疇に入るものだろう。
そしてこの萬年筆こそが素晴らしい。
http://yahoo.jp/box/5PzPn2
そのペン先はDoricやEquipoisedのFLEXIBLE NIBよりも形状が細身で穂先が長く尖って居るからより線描向きであるより古いタイプのFLEXIBLE NIBなのだと考えられる。
が、EquipoisedのFLEXIBLE NIBとは大きくは違わないので或いは其れ等が同時期に作られて居たものである可能性もある。
ちなみにDoricのoversizeモデルのFLEXIBLE NIBは柔軟性が高くもっと低い筆圧で線を変化させられるのだが、こと線描の能力に限ればどうもこうしたより古いoversizeモデルのFLEXIBLE NIBの方が得意である感じすら抱かされるのである。
いずれにせよこのニブの線描の能力は極めて高いものがあり、書いてみてほぼ自由自在に線を変化させていけるニブなのだということが良く分かる。
それも固い、線が無表情なニブーつまり変形しないニブーを書いて居てーたとえば前回のようなDiamond Medalなどを書いたすぐ後にこちらを使ってみるとまるで生き物のようにさえ感じられる筆となる。
そのニブの変形の様と線の変化の様が如何にもその生き物であるかのような感覚を与えて呉れるのである。
今、書いてみても、全く素晴らしい線描能力を持ったニブである。
そしてまるでニブが生きて居るかのようで、また書かれた線が矢張り生きて居るかのようなのである。
さらに穂先が長いのでーWahl-EversharpのoversizeモデルのFLEXIBLE NIBの穂先は皆長いーまさに筆の穂先のような感覚でペン先を扱うことなども可能なのだ。
つまりこのペンは本来の筆致で日本語を書き記したい方には最も向いて居ると考えられる萬年筆なのである。
だから私は前々から、毛筆による筆記文化を持つはずのここ日本でこのペンが広く評価されて居らずかつ広く知られても居ないという事が非常に不思議だったのである。
そう、このペンは日本の愛好家にもっと大きく取り上げられてしかるべき良いペンなのである。
ただしニブに筆の穂先の如き柔軟性があり繊細な筆記感のあるこのニブはそれなりの筆記上のテクニックで御していく必要があるゆえ誰もがこれを操り切れるというものではない。
きっと日本語の線描筆記をするということ自体が、その筆記文化自体がすでに失われていることからこれらのペンのことが余り顧みられて居ないということとなったのかもしれない。
ーDoricのニブにはWAHL EVERSHARPと刻印されて居る為私はこれまでEversharp DoricではなくWahl-Eversharp Doricとして来て居ました。Wahl Eversharpのことを語るのはおそらく今回が最後となりそうですので一応そのことをお知らせしておきます。ー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1688回) ..2014/05/30(金) 22:40 No.4783 |
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http://yahoo.jp/box/G9Bja7
古典の萬年筆のより古い萬年筆の中には、こうしたhalf overlayのタイプのものが存在して居る。
こうしたタイプのものは或いは当時から数が少なかったのか、現在でも出て来ることが稀である。
画像は共にL.E.Watermanのhalf overlayで、銀製装飾が胴軸に施されて居るものだ。
上の方が五号ニブ付きで、下の方が二号ニブ付きのものである。
共に真に古典的な萬年筆の風格とある種の深みを内在するペンであるように思われる。
その深みとは、謂わば言外に醸し出されて居るような深みのことなのである。
http://yahoo.jp/box/lfDWV9
特にこの五号ニブ付きの方は、かなりに古いタイプのhalf overlayモデルだろうと考えられる。
装飾部が短く、フィリグリーのパターンも通常見られるようなシロツメクサのパターンではなく、非常に大胆でより抽象化された、或いは見ようによっては余り装飾的ではない骨太ー無骨ーのパターンなのである。
そして注意深くこの装飾部を良く見てみると、何と其処には手彫りによる彫金が施されて居る。
彫金と云えば現代の万年筆では独逸物のそれが有名である。
それはペリカンのトレドモデルやモンブランのメディチなどに見られる特別なハンドクラフトの技法である。
つまりは最高級の万年筆にのみ施される技法である。
機械が彫った機械彫りの模様よりも彫金の方に価値があるのは言うまでもないことなのである。
何故なら彫金とは個性の表出でもあるが、機械彫りは基本的に皆同じものであるに過ぎず従ってそれは表現ではない。
無論のこと彫金とは表現を全面に押し出した藝術ではなく所詮は工芸の世界のことなのではあるが、それでも表現の領域を含んで居ることが其処にある種の技の深みを与えても居るのである。
その技の深みを常に見て取れる軸というものはやはり見て居て飽きないものだしそうしたものを眺める楽しみの奥深さというものもまたある。
思えばかってはそうした要素が物の世界にも広く存在して居た筈だ。
ゆえに万年筆の工芸的な要素を辿っていけば最終的にはこの頃の萬年筆に行き着くことだろう。
それは世界の高名なコレクターさん方が集められて居たかまたは集められて居る十九世紀末から二十世紀初頭にかけての真に美しくそして実用的でもある品々のことである。
我々が万年筆の本などで目にする其れ等のペンは本当に良いものであったのかどうか?
実は本当に良いものばかりだったのである。
其れ等は古いということだけでは無しに本物の高級品そのものだったのである。
嗚呼、私もかって何度となく其れ等を様々な本で鑑賞して居たことだったろう。
例のランブローさんの『FOUNTAIN PEN』-万年筆-という本、またそれの豪華版の『FOUNTAINPENS OF THE WORLD』、 中園さんの『世界の萬年筆』などで。
然し三十代、四十代の頃までは其れ等とは縁遠いコレクター人生を歩んで居たのだ。
その頃の私には其れ等のペンに秘められた真の力、その万年筆としての本質力のようなものには全く疎かったのである。
兎に角全く分からなかった。
自分とは全然違う世界のものだと思って居た。
確かに良い物のようにも見えないではないが、どう見ても古すぎるのだし第一簡単にはそれらは手に入らない。
嗚呼、私には分からなかった、まるで。後に其れ等が私を惹きつけて止まぬ類のものになろうとは。
然しながら古典の萬年筆は、階段を一段ずつ登るようにして理解を深めていけば必ず分かる様になるのである。
そして其処で懐疑と思考力とを磨くのだ。
其処で現代の万年筆をばしつこく疑え。
さすれば道は自ずと拓けるであろう。
疑うことは真理への早道であり己を高める為の精神の糧である。
万年筆のあらゆるものに食らいついて疑え。
するとようやく一筋の本当の道が見えて来る。
これ以上ない程にくっきりと、そして輝かしく。
私はそのようにして現代の万年筆のすべてを疑い現在の境地を得た。
そしてもはや後戻りすることなどはない。
確かに現代の万年筆も部分的にはまだ愛して居る。
勿論完全に捨て去ってなどは居ない。
しかしもはや其れ等は私の筆記上の本妻ではない。
そう、君らはただの友達なんだ。
部分的に筆記の時を過ごすだけの存在。
現代の万年筆が失って仕舞ったものを追い求めていくと、手作りの万年筆などにまず行き当たる。
酒井軸と兜木ニブ、万年筆博士、大橋堂、その他諸の。
然しより完全に万年筆を突き詰めつつ追い求めていくと、其処に万年筆の原初の姿が見えて来る。
そしてその原初の姿こそが尊い。
其処で何も求めて居ないがゆえにこそ、尊い。
本質的に作りが良くて、尊い。
尊いからそれは深い。
深くて底が見えない。
或いはこの己の思考よりも質が深いのだろうか。
尚この種の萬年筆は、本当はもはや語るべき何ものをも有して居ない。
謂わば言外のところでそれは成立して居り、現代の愛好家である我々に対してだけ語り続けて居るのである。
我々がそれを語るのではなく、萬年筆だけが語り、それを我々が拝聴するだけのことなのだ。
従って我々は其処に於いて初めて消費者という立場を抜け出すことが出来る。
其処でこそあーでもない、こーでもないといった様々な詮索を離れ其れ等の萬年筆の語るところでの言外の真理にのみ耳を傾けて居られるのだ。
だからもはや言葉を弄して万年筆を語る必要などはない。
私はもう声を発しない。
其れ等の萬年筆だけが我々を正しく導いて呉れることだろう。
おそらくは永遠に。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1689回) ..2014/06/09(月) 00:26 No.4784 |
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http://yahoo.jp/box/Wk0IAV
こと古い萬年筆に限っても、この様に多様な軸とニブが付けられて居り見て居て非常に面白いものです。
勿論新しい万年筆の方でもそうした多様性があることは分かって居るのだが、現代の万年筆は筆記感や書き味の面で大きく個性化が図られているとは考えにくく、従って此処に載って居る古いペン達のようにそれぞれに個性的なものが味わえるという訳ではないことだろう。
また古い萬年筆の場合は軸の長さなども様々でよってそうした部分からも筆記感の違いが醸し出されて来る筈である。 ーただし此のDORICの場合はオリジナルよりも短くなって居る。部分的な尻軸の分解によりそのようにせざるを得なくなった。ー
だからこの種の古い萬年筆をこのように集めて書いて居ることはかなりに楽しいことだ。
幅広い味わい方が出来るという意味に於いて其れは楽しい。
http://yahoo.jp/box/48iQbj
大きなペン先に限ってもこうして形状や硬軟の違いがあり見て居るだけで面白い。
結局、万年筆に於いてはこうして自分で選んだ好きなペンを並べて見て居るだけでも楽しい。
また其れ等を書いてみればさらに楽しい。
さて今、此の世の中には余り心から楽しいと思える話題がなく閉塞感の漂う文明の状況となって居る訳ではあるが、万年筆の世界ではこうして楽しく遊 んで居られるのだからそれはそれでひとつの息抜き、癒しの時間ということでなかなか得難い楽しさの持続なのだとも言えよう。
尚現代文明の危険度、特に将来に於ける危険度について少しでも知っておきたい方はこちらを是非視聴しておくべきである。
NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第一回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0524/
NHKスペシャルーシリーズ エネルギーの奔流 第二回 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0525/
左様に現代の文明というものはもはや切迫した段階にある。
しかしながら其の事実がなかなか大衆レヴェルへは伝えられなかったから庶民にはそうした認識がほとんど無いのである。
私がこうした掲示板やブログのようなところで文明の抱える危機を伝えようとして来て居るのは、其れは私の妄想の類を述べて居るのではなく事実と向き合って来て居ることであるに過ぎないのである。
ただし私が今日述べたいことは文明の危機についての話ではない。
あくまで万年筆の話をしたいのである。
確かに私はそうした文明の危機の問題と今後も関わっていくことだろうと思う。
ネット上に書くか否かということは別として今後も私は常に此の大問題と向き合っていくことだろう。
其の折に万年筆があれば其れはとても心強いことである。
大問題を考える、其の考えたことを書き留める、という点に於いて万年筆程適任である筆記具もまたないことだろう。
ちなみに私の場合は、それらのことは甘いことではない問題、つまりは生半可なことではないので其処で集中力を高めて呉れるパイロットのブラックインクなどを使うのが一番良い。
万年筆は上のようなお気に入りの萬年筆達があれば他にはもう何も要らない。
ペン先などは硬軟には拘らず書き易く反応の良い古い金ペンならば何でも良いのだ。
其のように現代文明が抱える大問題と闘う、そうした戦闘態勢に入るためには選りすぐりのペン達が是非必要である。
そして万年筆とはそのように戦闘の為の武器でもあったという話なのである。
其れは文の方から常に問いかけていく闘いでありおそらくは互いの最後まで続くだろう闘いである。
だから其の文の方での武器とは、矢張りどうしても万年筆が一番似合うのである。
ペンは剣よりも強いのかどうかは知らないが、大問題を考えていく場合にはおそらく一番似合う筆記具であることだろう。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1701回) ..2014/06/24(火) 23:47 No.4796 |
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http://yahoo.jp/box/6_Ncy9
Rangaを久し振りに使ってみると矢張り机上で使う分には非常に良い万年筆である。
インクの容量が大きいので数ヶ月経ってもインクが干上がって居らずちゃんと書けるところこそが素晴らしいのである。
特にこの二本は巨大なタイプの二本で、共に軽くはなく重い部類となるRangaモデルである。
共に20センチ以上ある巨大なペンゆえ、其の貫禄は十分でゆったりした気分で大きくーまたは多くー文字を書き連ねていくことが出来る。
この二本はエボナイトの胴やキャップが分厚く出来ていて非常に頑丈そうなRangaなのである。
だから机の下の板の間に落とした位では何ともならない。
或は少し傷が付くのかもしれないが全然大丈夫である。ーもっともまだ落としては居ないのですがー
この大きさと頑丈さと、カラーエボナイトの個性的な軸色を持って居ることはなかなかである。
またこれだけのペンにしては兎に角安いのでそれだけでも充分に魅力的ですでに元が取れて居るのである。
それと、原始的なED方式なので使って居てもまず壊れずすべてが単純そのもののペンなのである。
そう其の単純さにこそ魅力がある。
単純なものにはシンプルでストレートな生粋の性能がありそうしたものは複雑な機構が作り出す価値よりもむしろ長持ちして信頼出来ることが多い。
特に今パステルの青緑色の軸の太軸の方の調子が絶好調である。
というのもつい最近ニブをヴィスコンティ製のコンクリンのニブから戦前のパーカーーおそらくヴァキューマティックのニブだろうーのニブへ替えたのである。
http://yahoo.jp/box/VZSprh
ところがこのニブがまた実に上手くはまった様だ。
インクフローが良くどんな時でもスラスラと書ける実に書き易い一本に仕上がったのだった。
ただし共に古いニブを付けて居るのだから、其の筆記感は現代のニブの書き味とはかなりに異なる。
二本ともやはり筆記の際に高周波の音がして一種澄んだ筆記音となって居る。
これらのニブもおそらくは鍛金されていることであろう、兎に角シャーシャーと鋭い音を立ててニブが運ばれそして其の結果文字の為の美しい線が引かれることとなるのである。
だから此れ等のペンはある種最高のペンなのである。
其れ等はどこまでもどこまでも書いて行けるインク容量を持つヘヴィーライター御用達のEDなのである。
太軸の方などはほとんど無筆圧筆記で書ける。
鮮烈な青のデスクペンの方も低筆圧筆記が可能である。
だからこの二本は大きくて重いカラーエボナイトのペンで行うGT筆記専用のペンとして重宝して居るものである。
特に原稿用紙へ沢山の文字を連ねる必要がある時などに最大の能力を発揮して呉れる事だろうペンなのである。
よって大きな万年筆を机上でじっくりと使っていきたい方にはかなりの満足が得られる筆であろう。
ただし画像にも少し写り込んで居るのだが、艶消し仕上げを選んだ青のデスクペンの方は以前インクの漏れが起こった時に部分的にパイロットブラックの方に染め上げられて仕舞った。
首軸に其の跡が見て取れることかと思う。
然し通常の艶出し仕上げの太軸の方はインクが軸に付いても染まりにくくなって居る。
これらのペンは保管時に筆筒に立てて置かれており其の状態でのインク漏出のトラブルの頻度は少ないとは言えるが稀にそのことが起こることはあり、其の場合には艶消し仕上げの軸の場合はパイロットブラックに染められて仕舞う虞もあるということなのである。
然し余り首軸がまだらになるようならいっそのこと首軸全体をパイロットブラックで黒に染め上げてやっても良いのである。
以上のことからも場合によりカラーエボナイトの軸でも軸色を意図的に染め替えて仕舞うことが出来ないでもないのだ。
事実私はL.E.Watermanの変色したエボ軸をパイロットブラックで黒に染め上げて使って居るものが数本ある。
ただし其の場合は、紫外線などの影響を受けて表面がざらついたエボナイトの軸に限りうまい具合に染め上げることが可能なのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1720回) ..2014/07/29(火) 00:21 No.4815 |
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私は相変わらず中国の万年筆の、其の所謂万年筆らしく無い点が好きなのである。
中国の万年筆の、其れも僅かな数のモデルの中には万年筆と云うよりも筆のような感じの軸のものがあり、私は其れ等を珍重しつつ使って来て居たのであった。
問題なく滞り無く筆記出来れば良い万年筆になるかと言えば私は余り其処には拘って居らず、其の筆記上の安定性よりも何よりも筆記上の東洋趣味の部分、是だけを愛好、偏愛しつつ万年筆を使って来て居るから万年筆に於いては謂わば東洋的に漢字や仮名を運筆出来るものだけが現在好きなのである。
西洋起源のものである万年筆を東洋趣味でもって書いていこうとはこれまた実にお門違いの話だとでも言うか或いは一種の倒錯趣味だとでもと言うか、 兎に角この平成の御代の日本人の発言だとは思えないような偏屈振りなのだが、其れは生まれてこの方、私が様々に物や文化や思索と付き合って来た挙句に此の境地に至って居る話なのであるから其れはもはや変えられるようなものでもないのである。
其の私の偏屈な万年筆趣味の大部分を満足させて呉れたのはひとつには古典の萬年筆の存在ということがあった。
それから酒井軸で兜木ニブ付きの手作り万年筆などもそうだ。
然しながら、お次の三番目には何と中国の万年筆が入って来るのである。
其れは多分、あの伊太利亜の万年筆よりも私の中では上位でさえあるのだ。
前々から古い日本語の筆跡の、其の本来的な美しさに魅了されて来て居る私にとっては、昨今の日本人が書いて居るような見苦しい、まるで幼稚な、それこそなってない、見て居て恥ずかしくなる程に下手糞で情感の無いマンガ文字、オモチャ文字の類に心からガッカリさせられる機会が余りにも多かったのだ。
其れで万年筆でも日本語らしくメリハリの効いた美しい字を書いていこうではないかと筆記マニアの一人として其のように提唱して来て居たのである。
尚文化面で問題となるのは、今世界中がグローバルな近代化ということを推し進めて来て居り、近代化ということは畢竟西洋の近代文明のグローバル化ということなのであろうから、必然として其処で東洋起源の思想や文物に重きを置けなくなるか或いは自信を持てなくなるということに陥り易いことなのである。
然し、これまでに私が学んで来たところのものに限れば西洋の文物よりも東洋の文物の方が優れて居る部分さえもがある。
否、其の事はただ部分的にだけではなく全体的、総合的にも東洋の文物は優れて居るのである。
また其処は宗教なども勿論そうで、東洋起源の宗教というものは寛容性に富んだものが多く其の点でもまさに優れて居るのである。
或いは自然をどういったスタンスで捉えるかということに於いても、かっての東洋に於ける自然に対する捉え方の方が本質的には優れて居たのだと言える。
現在のように自然をないがしろにして進む、人間中心の思想を掲げて突き進む近現代の価値観はこのまま進めばおそらくは百年以内に人類を破滅の淵へと陥れることだろうが、其処に東洋思想の如くに内省の力に富んだ、本質的には人間中心では無い世界観が入り込んで来れば或いは少しでも其の破滅の到来を先延ばしすることが出来るのやもしれぬ。
其れで、其の万年筆であるが、古典の萬年筆というものは合理思想から生まれしものにしては非合理的な本質を備えしものなのであり、其れも不思議なことにペン先が柔軟でしかも軸も長いものが多かった為まるで筆を操るが如くに書く事が可能なのである。
其のような非合理性の部分が東洋の文物、思想、ライフスタイル、価値観などとどこか相通じるものがあり共に相性が良いのであろうと私は考えて居たの だった。
ところが戦後の万年筆は次第に其の合理性の方を高めていったので次第に日本語をはじめとする漢字文化圏の言語を書きにくくなっていった筈なのだろう。
其の意味で私は一般に評価の高い独逸の万年筆が必ずしも日本語の表記に向いて居るとは考えて居らず、其れでもモンブランやペリカンを使うなら戦後のモデルを使うよりも戦前のより古いモデルを選んでいった方がより本来的に日本語を書く事がし易い筈なのである。
伊太利亜の万年筆だって勿論本質的には日本語を表記する為のものでは無い。
ところが日本の万年筆でさえ、一部の万年筆を除けば皆が皆日本語をより本来的に書き易く作られて云えるかと言えば其れはそうではないのだ。
ただし、其の事は当たり前のことでもあり、何故なら万年筆は硬筆筆記具なのであり書道の如くに昔風の日本語の書き方をするものではないからである。
其処をあえて昔風のカリグラフィーの要素を残した日本語の筆跡ということに拘るのであれば、先に述べたような西洋の古典の萬年筆や酒井軸のような手作り万年筆を選んでいくということに必然的になっていく。
また戦前の日本の萬年筆は特に日本語をより本来的に表記することがし易いと言える。
さて中国の万年筆で近頃私が頻繁に使って居る改造万年筆があり、其れはED化された筆で筆記上頗る面白いものとなって居る。
其処で何が面白いかと言うに、要するに其れは硬筆筆記として即規定されるような万年筆的な万年筆ではないから面白いのである。
ズバリ言えば、此の筆は半分位は毛筆的に書ける、毛筆の筆記感の半分位は其処に再現されて居るかのようなそんな筆記感をして居るものなのだ。
とは言え、特殊なニブを此の万年筆に仕込んで居るという訳ではないのだ。
ただし、ニブを英雄の純正ニブからDUKEの細長いタイプの18Kニブに替えている。
此の18Kニブはまた素晴らしいニブで、特に筆記感の方が優れた現代のニブとしては上等の部類の方のニブである。
元々はDUKEの双龍戯珠という超重い限定品に付けられて居たニブであり、ひょっとすると中国の万年筆の中で一番良いニブではなかろうかと昔から私が考えて居るところでのペン先なのである。
そしてH2002という今日では希少品となった英雄の長い軸はまさに毛筆の軸のようでさえあり兎に角長い。
筆記状態で177mmの長さがあり、其の長さは何と私にとっての理想的な万年筆の長さなのである。
そして此の状態で中国の万年筆としては異例に軽い軸となって居て、其れは29gとなり30gを切っているからいかにも普通に書いていける軸となって居る。
英雄の場合にはもう一種軽い軸の高級ペンがあり、其れはH2003でH2002よりは全長が短いが重さは26gといかにもまともである。
英雄にしてもDUKEにしても、また他のメーカーの品にしても中国の万年筆は重いものが多かったのでニブ云々よりもその前に万年筆として疑問符が付くものが多過ぎたのである。ー九十年代中頃から二千年初め頃迄のモデルはー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1721回) ..2014/07/29(火) 00:21 No.4816 |
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然し、当時の英雄の14金や18金のニブ、もしくはDukeのこうした大型のニブは全く素晴らしいものだったのである。
其れ等に適切なフィードを宛てがってやれば素晴らしい筆記感が得られ、其れは独逸や日本の万年筆の書き味とは全く異なる、謂わば東洋的な運筆を其処で可能とする優れものの金ペン先だったのである。
私は今でもそうした英雄やDUKEの大型金ペン付きの万年筆を十本位は未使用で持って居るのである。
ただし其の場合にもH2002やH2003を除けばノーマルの状態では重過ぎる軸となって仕舞うのである。
だから中国の万年筆は必然的に改造しつつ使っていくべきものなのではないだろうか。
独逸や日本の万年筆はほとんど改造する必要を感じないし改造して仕舞えばむしろ悪くなっていくであろう予感がするものなのだが中国のペンや伊太利亜のペンはそうとも限らない、むしろ良くなっていく場合が多いということをかって私は嫌というほど経験させられて来て居るのだ。
尚此の改造H2002の重さが30gを切ったのは至極重いクリップの部品を全部取って仕舞って居るからなのである。
其れでようやく普通に扱えて書ける重さを得たのである。
其処に、なるべく良いニブを付けてみたい。
オリジナルのニブの方は他の万年筆に流用して居る為長らく此のペンにはニブが無かったのである。
ところがここ半年ばかり台湾の廉価万年筆に此のDUKEの18K金ペンを付けて書いて居たところ、此の金ペンはむしろ英雄の長い軸の方に似合いそうな気がして来たのであった。
其れで出来上がったこのH2002改EDの実力はまさに凄いものがあった。
1.フィードはRangaのエボフィードを流用、其れで少々難しい面もあるにはあるのだがーインクの流量の安定性という面でー、いざインクが出始めると相当な流量となり其れで万年筆を書いて居るというよりも先が固めの筆ペンのようなものを書いて居る感覚がするのである。
2.其のプラチップ系の筆ペンでの筆記の如き筆記感覚は他のペンでは決して得られないことだろうまさに此のペン固有のものなのである。
3.ニブは柔軟なようで居てその実は固い部類のものである。
それでも柔軟なタイプのニブではないかと勘違いして仕舞う程に紙当たりがマイルドでかつ筆記感が滑らかだ。
つまりは現代のニブとして可成に出来の良いニブであろうことはほぼ間違いないことと思われる。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1724回) ..2014/07/31(木) 22:45 No.4819 |
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http://yahoo.jp/box/OQhG8A
-英雄2002型改ED-
一七七ミリ 二十九グラム
ペン芯ーRangaエボナイトペン芯
ペン先ーDUKE18K
ED化済
重心位置ー全長の6.5対3.5の位置で後方重心。
インクフロー良好で長い軸と相まって筆的に筆記することが可能。
現時点で最も価値を感じる中国の万年筆となって居る。
ED化による軸の分解の可能性については不明。
http://yahoo.jp/box/-UD0zf
長い穂先ー細長いニブ形状ーによる高筆記角度での筆記が可能。
ニブはかってらすとるむさんにより調整済みのもの。
元々はDUKEの限定品双龍戯珠に付けられて居た十八金ペン先。
筆記感が特に秀逸なニブである。
http://yahoo.jp/box/wB-1Da
DUKEの螺鈿仕様の限定品で未使用品。
重い万年筆の為使うことが出来ない。
http://yahoo.jp/box/NbJJtT
http://yahoo.jp/box/2OFjOZ
此のモデルのニブはこのように双龍戯珠に付けられて居た十八金ペン先に良く似た形状の物。
おそらくはこちらも筆記感が特に秀逸なニブであろうことだろう。
このニブは他の軸に組み合わせてみればずっと使っていけるものとなろう筈である。
http://yahoo.jp/box/BoyvWN
http://yahoo.jp/box/x5r0qE
英雄にはかって四種の記念金筆があり、此の螺鈿軸の物も其処に含まれる。
ー英雄四種の限定モデルー
建国五十周年18K記念金筆(螺鈿軸)
50英雄14K記念金筆(フィリグリー軸)
A型人世18K記念金筆
B型人世18K記念金筆(八角軸)
螺鈿軸モデルの軸の形状は長めで筆的な印象がありとても美しい。
されど兎に角重く実用的なモデルだとは言い難い。
従って私の場合はクリップを取り除き重量を減らして居る。
此の万年筆は当時高価だったが、勿論それなりに特別な雰囲気の漂う限定品である。
ただし問題がある。
樹脂部がセルロイド製らしく経年変化することは免れないようだ。
此の個体では今のところ、素材の一部に収縮現象が認められるが、かと言って使用に支障をきたすようなものではない。
尚此のモデルの螺鈿は特に丁寧に貼られて居り可成に美しく、日本の万年筆の螺鈿と比べても見劣りするということは無い。
またペン先はかっての英雄らしく非常に良いものである。
かっての英雄の限定品の金ペン先は金の品位によらずいずれも強い性質のものがほとんどで、よって其処ではカリグラフィー的な筆致が可能である。
尚この建国五十周年記念金筆ー螺鈿ーは2003年度版の英雄の筆カタログに載って居る。
のみならず先に挙げた2002型も其処には載って居る。
思えば此の頃の英雄の万年筆は素晴らしいものが多かったと言えることだろう。
銀製八角軸の1001型は重過ぎる万年筆ではあるにしても十八金ペン先の方は柔軟で強く曲がらずかつ筆記感の良い物だった。
2003型は軸が軽くペン先も其の大型十八金ペン先で贅沢なモデルであった。
英雄のかっての万年筆のペン先は金の品位によらず皆素晴らしいものばかりであった。
だから2002型の方もオリジナルのペン先で充分なのではあったが、究極の細長型の中国万年筆ー軸もニブも皆細長いものーを是非創ってみたくなりこのような改造を行ったものである。
其の筆記感が、私がこれまでに味わって来た中国の万年筆の中では最高の筆記感のものとなったので此処に報告してみた次第である。
いずれにせよ今私は此の英雄2002型改EDでもって筆記して居ることが多い。
まさに病み付きになりそうな気分の良い筆記が其処で可能なのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1732回) ..2014/08/13(水) 00:23 No.4827 |
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中国の万年筆の、其れも現行品ではなく十年位前までの英雄や文爵、DUKEなどの金ペン付きの万年筆の良さを知る人は多分少ないことだろう。
思うにこれらの万年筆は理解することがなかなか難しいものと思われる。
まるでプラチナの万年筆と同じように其れ等はインクフローの面で渋めなのではないかと思われる。
それだけではなくてプラチナの軸の作りよりも精度が悪くバラツキも大きいからなかなか本当に良いものに当たらない。
で、普通は中国の万年筆というものは我が国では粗悪品だ、位に思われて居ることが多い。
然しながら、何故か人と反対のことをことをして居ることが多いわたくしは矢張り其の中華万年筆の世界に嵌り切って居る。
其れもいまだにそうなのである。
以前にも述べた通り、私の考えでは何事も表面上の理解だけで終わらせて仕舞う事は避けるべきである。
中国の万年筆の本質とは製品の質がイマイチで信頼に値しない筆である、という部分に存するのでは無く漢字文化圏の言語を快適に書き記すことが出来るというところにこそ存する。
ゆえに少々のバラツキや作りの悪さなどは本質的な問題ではない。
万年筆による筆記を深く突き詰めていけば行くほどに此の東洋の言語を如何に万年筆でもって書き記していくかという問題が顕になって来る。
つまり生半可な万年筆の理解では其の部分はおそらく見えて来ないものなのだろう。
私がいまだにかっての中国の万年筆を大きく評価して居るのは、まさに其の東洋の言語の表記と万年筆のタイプとの相性がピタリと一致して居るという点に於いて其れ等が素晴らしいものだからなのである。
逆に、どんなに作りが良くても独逸や伊太利亜の万年筆では其の相性が高い確率で合うというものではない。
確かに独逸や伊太利亜の万年筆でも昔風の日本語が書けない訳でもないのだけれど、どうも其れ等は其れに比べ合理的な筆記になって仕舞う様な気がしてならない。
文化、文明の大元が違うので其れは如何ともし難いことなのである。
其れから個人的には独逸物への信仰のようなものに対しては其処に違和感を感じざるを得ない。
確かに独逸物はモノが良いのであるし、私だって現在No.149など良く使って居るのだし、其れが何て良い万年筆なのだと思うことも屡なのである。
ただ、其れでもって昔風の崩した日本の文字など書こうという気にはならないのである。
ところが中国のペンでは其の事が幾らでも可能となるのである。
其処に両者の本質的な性質の違いということがあるのではないだろうか。
無論昔風の日本語など書く事は止めて戦後の合理的な日本語の表記を行う限りに於いてはそんな事は全く問題にならない。
あくまで私のように特殊な筆記趣味に於いてはむしろ其の言語の表記上の本質的性質が最も大事なこととなる故に其のような結論が導かれて仕舞うということなのである。
其の点では中国の万年筆こそが日本語に於ける万年筆の筆記での上級者向けのものとなるということとなる。
戦前の日本人のようにメリハリを付けた表現豊かな日本語を万年筆でもって書いていく場合には其の事をやり易いのが中国の万年筆だということとなる。
尚ネット上に於いては其れとは正反対に中国の万年筆の方こそが初心者向けで日本や独逸の万年筆の方が中級、上級者向けだとそうしたことが屡述べられて居るものですが、私の場合にはむしろ其の逆であるといつもそう考えて居る。
日本の万年筆や独逸の万年筆はいつも安心、安全で其の書き方の方も昔風に筆記技術が特に要求される訳ではないので逆に初級者向けである。
ただし特に柔軟なペン先の付いたモデルや戦前の萬年筆となるとまた話は別である。
其れ等の日本や独逸の戦前の萬年筆は今のものとは別物で昔ながらの日本語の表記にも向いて居るものと考えられる。
従って私の頭の中では中国の万年筆ー其れも限られた一部のモデルに限るがーはむしろ戦前の萬年筆に近い書き心地が味わえるものなのである。
さて、英雄2003型ーオリジナルモデルーを現在ED化して使いつつありますが之が矢張りというべきか、素晴らしいのである。
此れは日本語の表記に於けるより本来的な運筆がし易いペン先である。
ニブは柔軟な部類の方には入るが特に柔軟な訳でもなくそれでも運筆圧をかけていくことは出来るが余りやり過ぎると矢張りニブにとっては良くない。
ちなみにED化するとインクの水分が軸に影響を与えて分解する恐れもあるがこの二ヶ月ばかりは今のところ大丈夫である。
英雄 2003型はもう一本を未使用で持って居るので其れが私の老後の楽しみの為の筆ということになろうが老後なんて此の私に来るものかどうかさえ分からないので前倒ししてもう使って仕舞っても良いものだ。
実は此の使って居る方の英雄2003型は破損した箇所があり其れでコンバーター式としては使えないのでやむなくED化して居るものなのである。
このように中国の万年筆の軸又はペン芯周りの信頼性は今ひとつながら、ペン先の方は兎に角日本語を書き易いものであるから色々と工夫しつついつまでもしつこく使って来て居るのである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1733回) ..2014/08/18(月) 00:13 No.4828 |
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http://yahoo.jp/box/20JBFM
セル軸の伊太利亜物はまさに儚くも美しく其れはまるで咲き競う季節の花々のように可憐である。
其のように限定の存在であるということである。
短いイノチの限定の存在であることが、其れが愛らしいものであること、可憐で頬ずりしたくなる程のものであることの妨げとなることでは無いのである。
むしろ其の限定の存在であるからこそ其れは愛すべき存在としてーあくまで感情的にはー此の世に存立して居るというものだ。
其の愛とはキリスト教に云うところでの刹那を永遠化する為の慈愛のようなものなのかもしれない。
が、仏教徒ならばおいそれと愛などという言葉を使うべきではない。
仏法には所謂愛は不要で、ー慈悲ーという遠方からの遍く照らすことだろう愛があるばかりだ。
慈悲というのは無明の世界を慈しみを持った心で視るということなので実は可成に上から目線での慈しみのことなのである。
所謂神の愛とはまた違うものながら、似たような視座よりの上からの慈しみであることには変わりが無いことだろう。
要するに其れは此の諸行無常の世を楽しく生きて居るであろうバカな私たち凡夫に対する、或は他の無明の生命に対してかけて頂けるだろう哀れみと慈しみのことである。
其れが佛とか菩薩といった、そうした一種高等な心を持った存在から遍く投げかけられる慈しみであり哀れみのことなのである。
だから其れは本当は実に情けない愛のことであり、本当の本当は慈悲の対象となって居る我我は決して良いものでもなくむしろ其の逆に悪いものですらある。
悪いものだからこそ愛して、いや、慈しみ哀れんで頂けるのである。
神に、いや、佛や菩薩といった崇高な精神性によってである。
其れで、残念ながら慈悲を持つ程に精神が崇高では無いわたくしは自愛位ならばむしろ持てる、いや、すでに持って居るなどと思いつつも万年筆という物質に対してはひょっとして慈悲の方も持てるのではないかと考えるに至った。
即ちセル軸の不安定な、そして限定性の強い物質であることへの慈悲位ならば持てるのではないかとそう思うのである。
だから私は今こうしたセル軸の万年筆達をまるで色とりどりの季節の花々のように思いつつ心から慈しみそして哀れんで愛好して来て居るのである。
それもとても人間に対しては持てないことだろう慈悲とでも云うべき精神の段階に於いてセル軸のペンが好きなのである。
http://yahoo.jp/box/L1X6Qi
このノーマル仕様でピストンフィラーの黒いセル軸のオマスももう何度此処へ登場したか分からない位なのですが大好きである。
物凄くインクフローが良く低筆圧でもってどこまでも書いていけるペンなのである。
まるで黒い筆のような現代の万年筆なので私には合って居るのである。
ペン先の方は最近どんな金ペン先でも構わなくなって来て居り従ってこの十八金の現代のペン先でも充分なのである。
こうした現代の万年筆は其れでもって日本語のカリグラフィーを行うというものでは元より無いので別にどんな性質の金ペンでも構わないのである。
セルロイドの軸は、特に九十年代以降の伊太利亜のペンのセル軸は相当に危ないことでしょうが、其れでもこうしてこの黒い軸に慈悲を投げかけつつ其れを日々愛好して来て居るのである。
http://yahoo.jp/box/XbbaYo
たとえば銀製の重い軸は短い軸の方がバランスが良くなるので重過ぎる銀製軸である英雄の1001型も今は其のようにして使って居る。
このように妙に短くなった1001型はまるでかのカヴェコの如くに携帯がし易く書いて居る時にもバランスの悪さが感じられなくなる。
英雄の十八金のペン先は元々相当に良いものでしかも其れが調整されて居るのでさらに書き易くなって居る。
セーラーの銀製の軸にシータのクロスポイントニブ付きの首軸をくっつけた改造ペンは結構マニアックな仕様に仕上がって居り書き心地の方も相当のものである。
ただし万年筆のペン先は特殊ニブだのクロスポイントだのといったタイプのものに限って価値が高いという訳ではなく十四金の普通のMサイズが物凄く良いと思われるペン先などもまた多く存して居ることを忘れたくはない。
ゆえに特殊なニブの特殊な良い書き味にばかり偏向し愛好して居たりするのはむしろ格好悪い態なのだとさえも言える。
シェファーのレガシーの銀製の軸は他の二本よりは軽めで扱い易く、従ってこれは可成に良い万年筆である。
とは言え私の場合は長さのある万年筆が好きなのでほとんど使って居ないのだけれど実際にはインクフローが良く太字で滑らかに書いていける楽なペンである。
軽いと言ったけれどそれでも39gもあり本当は軽くはないペンであった。
ただこの短い細めの英雄の1001型が42gもあるので其れと比較すれば軽く感じられて仕舞うのである。
ちなみにセーラーの銀製軸の改造ペンは47gもあり相当に重いペンである。
然しクロスポイントニブのような少々変なペン先にはむしろこの位の軸の重さがあった方が書き易いのかもしれない。
このように短くて重い銀製軸のペンは案外書き易いものなのである。
そして書き易いばかりではなく書き味の良さということに関しては軸が重いほうが一般に軽い場合より良くなるようだ。
ーただし長くて重い銀製の軸は✖で、長くても軽い銀製の軸は○。ー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1744回) ..2014/09/01(月) 23:20 No.4839 |
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ヴィンテージ◆ペリカン万年筆 【セルロイド】14K◆元箱◆超稀少 http://page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f143706565 此の萬年筆には果たして此処までの価値があるものなのでしょうか。だが此れはあの1935の緑軸の方のオリジナルモデルと云う事になるのでしょう。実に珍しいものを見せて頂きました。
バランス型の大型万年筆の場合は現在No.149三本を使うことがほとんどでプラチナのプレジデントなどはもうほとんど使って居ない。
が、此のプラチナのプレジデントの赤軸はED化してありインクフローも良くとても書き易いコースニブ付きである。
元々物凄くインクフローが良かったものを、当時の私はインクドバドバの状態を好まなかったのでプラチナでインクの出を絞って貰ったのである。
だからこそそういうのはED化すると丁度良い位のインクの出となる。
また此の90年代のプレジデントに限らず昔のプラチナのペン芯はお粗末な物ばかりですが、実は其れ等はインクの制御能力が高く従ってED化してインクの容量が大幅に増してもペン芯からインクが漏れて来ないという一種凄い性質を持ち合わせて居り、つまりはED化することとの相性が抜群に良い。
だからインクの出方が悪い以前のプラチナの多くはED化すると実に快適に使えるようになる。
ただし其の使い方は完全に邪道である。
ところで此の数年来最も気がかりだったのは、そうしてプラチナの方はED化することによりドンドン書き易くなることに対して、使って居るセーラーの方がたとえば首軸が折れるわ、クロスポイントニブのモデルの方が突然調子が悪くなりインクの出が悪くなるわでトラブル続き、さらに以前に良く使って居た14KH-Mのニブの方も左右切割りに段差が出来て仕舞ったりで全くツイて居ないのであった。
それでもセーラーにしても結構数を使って居り、首軸が折れたところからかってニブユニットを抜き出して其れを赤い竹軸に組み付け<赤い蝋燭のセーラー>というものを創り出し之がまたなかなかのカートリッジ式のペンで時折重宝しつつ使って居る。
http://yahoo.jp/box/lswje3
そして後に青い太軸のセーラーを生み出したが之は万年筆ではなく付けペンとなった。
http://yahoo.jp/box/99Z8s2
此のように青に塗装された竹の軸が太い。それでもテーパー軸で軽く大層扱い易い軸である。
之は兎に角太くて長い、また羽根のように軽いペンだった。
そして非常に書き易かったのである。
http://yahoo.jp/box/CyT4Ed
其の大型14Kのペン先はH-Mと刻された90年代のスターリングシルヴァー軸のものだ。
私がかって十年以上戸外で使って居たもので、之と同じものはもはや絶対に得られないものである。
このニブは私の書き癖をすべて吸収し尽くして居り、だから今どんな風に書いても実に軽やかにまた滑らかに書ける。
プラチナのギャザードの方にもそうした長年使ったニブがありますが、其の書き易さに於ける価値は簡単には口では言い表せない程のものである。
万年筆のニブとは結局そうしたものこそが一番である。
現代の万年筆は確かに古典の萬年筆に比せば軽薄短小であろう。
然し意外と万年筆らしいところをまだ残して居たりもするものである。
だからいまだに万年筆は万年筆なのでもあるのだ。
特に万年筆のニブはトコトン付き合ってやったものが一番書き易い。
無論のこと調整で書き易くした物にも価値はありますが、本当はこちらのように自己筆記調整してやったものこそがまさしくオンリーワンの価値を持つものだ。
即ち其処で人と比べる必要などは無い。万年筆こそはパーソナル領域での道具であるから自己化、自分化してやれば良いのである。
其れから話題性や評価や値段などに拘る必要などもない。
実際私の場合、これまでに十万クラスの万年筆の調子が悪くて苦労させられたことがのべ二十件位はあった。
インクの出ない十万のペンは最低に情けないものですが、此の書き込んだニブの方は大して金はかかって居ないが物凄く誇らしいものだ。
さて先に書いた通りに、青い太軸のセーラーとして使って居たところ落とした時にそうなったのか、此の大事な14KH-Mのニブの左右切割りに段差が出来て仕舞ったのである。
其れで調整することを考えたが其の時にふとこのニブを万年筆に戻すことを思いついた。
そう言えば軸の方はある。
其れはプロフィット21のまだ綺麗な状態の漆黒の軸である。
十年位前だったか、ズームニブ付きの黒軸プロフィット21を購入したが此の21Kのニブが弱いもので結局曲がって仕舞った。
其れは私の筆圧で曲がったという訳ではなく、色々と書き方を変えて試して居るうちにそうなって仕舞ったのである。
ー私は筆圧を場合に応じて完全に制御出来る筆記者であり所謂高筆圧者では全く無い。故にガチガチの固いペン先でも超柔軟なペン先でも楽々と扱える。其れは毛筆が扱えるからなのだろうと思う。ー
ひとつだけ私のペンの書き方で特徴があるのは、筆圧はむしろ余りかけないが運筆に伴う運筆圧を大袈裟に屡かけて行き易い、というところであろう。
従って此のカリグラフィーの書き方に耐えるペン先が是非必要であり其れはペン先自体が強い14Kニブであることの方が望ましいのだ。
だからこそ私はセーラーの21Kニブが好きでは無いのである。
いや、セーラーに限らずどこのものだろうと高品位のニブは好きでは無い。
なんとなれば万年筆のペン先は十四金のものに限るからなのである。
其れこそが最もしなやかで、そして強く書き心地の良いニブとなるものであることだろう。
ただし、書き味の良さといった部分の嗜好に付いては、高品位ニブの方がずっと良くなることだろう。
特に日本語をメリハリを付けて書きより美しく書きたいタイプの筆記者には十四金ペン先が最も適して居ることだろう。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1745回) ..2014/09/01(月) 23:20 No.4840 |
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さて此の改造ペンの筆記感は全く素晴らしいものだった。
14KニブはH-Mでもペン先は柔軟に感じられ線が美しく出せるペンである。
そして筆記感の方が柔らかいというよりも軟らかい。
軟調ニブと言っても良い位にソフトタッチのニブなのである。
或は其れはニブの形状から齎されて居る軟らかさなのかもしれない。
兎に角プラチナの大型ニブなどよりも遥かにソフトな紙当たりを楽しめるニブなのである。
丁度コンバーターの方があったので暫く其れでもって筆記して居たのだったがセーラーには珍しくインクフローの方がいまひとつである。
或は調整して切り割りの段差を直したので必要以上にフローが抑えられたのかもしれない。
其処でED化してみたところ、ようやく丁度良い塩梅となった。
まさにこれこそは私にとっての究極のセーラーだ。
プロフィット21の作りの良い太い軸はおそらく日本の万年筆の中では最高峰に位置するであろう軸だ。
25gと軽くはない太いバランス軸なので155mm程の短い軸は正解でありとてもバランス良く書ける。
このようにセーラーにはかっては良いニブが色々とあった。
この14Kニブもそうだが、限定品のプロフィット80に付けられて居た18Kニブなどもまた素晴らしいものだった。
いずれにせよ素晴らしい軸を得て此の長年使って来たペン先がまるで心から喜んで居るかのようだ。
状態良 セーラー 初期型 プロフィット 14K http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w108431806
★セーラー万年筆 プロフィット 14K 細字ニブH-F付き良品★ http://page18.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w105691857
尚、太さが同じくらいで長さが少し長いプラチナのプレジデント赤軸の18Kコースニブと筆記感を比べてみるとコースはコースでソフトな良い書き味をして居るがニブ自体は固い。
対するプロフィットの14KH-Mニブはニブ自体が柔軟性を持ち其れでもってソフトなタッチが味わえるということなのだろう。
此等はいずれも古典のペンのニブのシャープな筆記感を持って居る訳ではないが、これはこれでバランス型の現代の万年筆としては充分に使えるものであると感じられた。
そうかと言って古典のペンの優位性が減ぜられるべくもないのであるが、何にせよ90年代位までの大型14Kニブ付きの万年筆は筆記上気難しい愛好家にとっても今日なお充分に魅力があることだろう。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1746回) ..2014/09/04(木) 00:31 No.4841 |
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http://yahoo.jp/box/dnUTBA
此の右の方の初代Wall-Streetの方ですが、現在もノーマルの状態で使って居ます。
今のところセルロイド軸の分解もなく、筆記感の方も素晴らしいものです。
ただしニブはより古いヴィスコンティの大型ニブに替えてあるのでオリジナルの状態ではありません。
ところが之がこのところ良く使う万年筆になって居ります。
セルロイドの妖しい感触が、そして其の横縞の様が夜の都会の様を想わせて少しロマンティックです。
いや、そんなロマンは本当の浪漫ではなく本当の浪漫は所謂ロマン派の藝術作品の中にこそ存する、などということをこの際述べるつもりは御座いません。
実は夜景フェチのわたくしは色々と夜景には薀蓄を持って居り其処からしてもこのセル軸はなかなか良い塩梅に洗練された都会の夜の一幕を写しきって居ります。
ああ、夜景って、とっても素敵だわー。
特に貴男のようにサムライのたくましい男性が此処に居て一緒に夜景を見ているだけでだけで何だか私とろけちゃいそうなの。
いや、ホントそんな感じで、このペンは感触が良くてとろけちゃいそうなのだわ。
それに書いてみると矢張りとろけちゃう筆記感でしかも線描能力さえもがある。
つまりは素晴らしいニブなんです、このヴィスコンティの旧型ニブは。
そんな訳で此のペンを見て居るとまるで都会の夜のロマンスを想起させて呉れるかのようでやっぱしとろけちゃいそうだ。
此の、横縞のセルロイド軸が何故か好きです。
セル軸には縦縞のものもあり場合によってはそちらの方も良いものですが此のタイプの横縞のものが一番です。
ヴァキューマティックの横縞も同じようなものですから大好きです。
最近何故かヴァキューマティックがとても好きになって来て居る。
さて此のWall-Streetは以前首軸が折れて接着修理をしたものですが、現在でも全く支障なくこうして使えて居ます。
そして其れは長く、美しいセル軸のペンです。
だから最近また特に好きになり、現在伊太利亜物の中で最も良く使って居るペンです。
お前が好きだ、何しろロマンがあるのだから。
其れは長いペンである浪曼と、プランジャー式一発吸入であるということの浪曼と、セル軸の感触の良さと模様の美しさとしての浪漫に、ペン先の素性の良さ筆記感の良さまでをも含めた一大ロマンの世界である。
我は詩人ゆえこうしたタイプの浪漫ペンには特に弱い。
実際もう一本あっても悪くないと思われる程に此のペンの誘惑は強いのである。
かっては思いっきり首軸が折れたというのに、大した回復力とローマン的色気を持つど根性ペンである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1747回) ..2014/09/05(金) 00:13 No.4842 |
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http://yahoo.jp/box/vPU0aD
此のセーラーの緑ちゃんのニブー大型21KのMーと先の大型14KH-Mではどちらがより良い書き味をして居るのでしょうか?
1.書き味自体は21KのMの方が滑らかに感じられるが総合的な筆記感の方では後者の方が遥かに上である。
2.セーラーのペンは此の緑ちゃんのようにインクフローが良いものが多いのですが、其処に少々強制的にインクを出して居るーインクの制御力をあえて弱めて?強制的にインクを流すーような気がしないでもない。
3.21Kのニブは高品位ゆえに分厚く作って居るのか地金自体のしなやかさが感じられず其の点では筆記のカリグラファーには向いて居ないペン先である。
4.然し筆記感自体は悪くないので其処で之は良いニブであろうと勘違いして仕舞う。然しおそらくは21Kのニブで本質的にしなやかな性質を持つものは存在して居ない筈である。
5.つまりセーラーの21Kニブ付きの万年筆の場合はニブ自体の本質的性質から良いものであると判断されているのではおそらくは無く、其の強制的な?良いインクの出方と地金の軟らかさやペンポイントの研ぎ方ーなぎなたなどのーから必然的に書き味が良くなるのでおそらくは高評価だったのであろう。
6。現行のセーラーを買う気にはほとんどなれない。キングプロフィットのニブにだけは興味がありますが其れに果たして14Kニブはあったのだろうか?
7.現行のプラチナも買う気は無い。3776小の細軟ニブは気に入らなかったので母にあげて仕舞った。
8.感覚が細かく筆記上気難しい人の場合はもはや過去に生きていくことしか出来ない。
9.何故だか分からないが国産の万年筆も90年代位までのものが良い。
10.セーラーの緑ちゃんも確か九十年代から二千年にかけての頃に私がセーラーから直接買ったものである。ーややこしい経緯がありそうなった。ー
11.90年代の21Kニブは全然悪いものだとは思えませんがさりとて良いニブだとも思えず、最近の21Kニブはおそらくはすべて認められないこととなる筈でしょうが書いてみて居ないので其処は分からない。
12.結局此の比較から何が言いたいのかといえば、セーラーの場合にも14Kニブの方が明らかに本質的性質が良いことだろうと思われ、特に総合的な筆記感の方ではまた明らかに14Kニブの方が自然に良くしなってニブとしての素性がよろしい。
13.でも最近のセーラーの14Kニブは必ずしも良い物だとは言えないのかもしれない。
14.筆記感の良さなるものは主観が多分に入りかつ錯覚、錯誤のようなものを含むものでもあるので絶対的な基準とはなり得ないものの筈。
15.されど前回語りし大型14KH-Mをプロフィット21の軸に仕込んでED化したセーラーの筆記感の上での実力はどう見てもNo.1である。
16.他にも使って居るなぎなた21Kニブの付いた軸の長いセーラーがありますが其れに付いてはまた後で述べます。何せ今は眠たいのでとても書けまへん。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1758回) ..2014/09/22(月) 23:06 No.4853 |
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1円〜 PILOT パイロット ペン先14K 國光曾 蒔絵 鳳凰 万年筆 http://page7.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/g137185950
全く結構なお品でございます。
不思議なもので秋を感じさせられるようになるとまた万年筆の方が恋しくなってまいります。
さて当たり前のことですが万年筆も畢竟生きて居るうちにしか使えないものです。
我々はあれやこれやと常にやって居りますがいつかは万年筆とも別れなくてはなりません。
でもそうした無常の観念にとらわれて居ては此の世で万年筆をトコトン使い倒すことなど不可能です。
つまり世の真実、此の世の実相に縛られて居ると此の世界でのあらゆる出来事には専念出来なくなります。
だから生命が此の世を生きていくことの為には必然的に幻想が必要となる。
元々此の世を生きるということこそが幻想なのです。
即ち幻想でないと時間も進まずどんな変化もあり得ません。
真理ないし真実在の次元に於いては時間もなく変化もなく観念さえもが無いのです。
存在化されることの無いものは其のように常に清浄なものですが其の代わりに色気のようなものが一切ありません。
だからこそ此の色気のようなものこそが生きるということの核になるものなのかもしれない。
色気とは五蘊により齎されることだろうありとあらゆる妄執のうちのひとつの別名でもありますが其れにこそ我々は反応して生きて居ることなので しょ う。
色気とは此の世を生き抜く時に生命が放つことだろうパワー、執念、気のようなものだ。
ちなみに此の色気は、多い少ないということが確かにある。
其れが多いと物凄く力強く見え、また言葉通りにセクシーでもある。
一方で肉体的、精神的に病気になったりするとまるでボロ雑巾の如くに色気が失せて仕舞うものです。
それで現代に於いては誰もが此の色気を求めて生きて居る筈です。
色気即ち存在の持つパワー、其のパワーの多寡を感性で感じ取りパワーのある方に群がるという傾向があろうかと思う。
其れはそれこそ性や愛の方だろうと藝術の方だろうと学問の方だろうと他のなんだろうと皆同じことである。
でも其れは所詮は本能領域の発現のことなのかなあと思わないでもないです。
生活力とは其のような幻想的な力の発現のことなのでしょう。
生活力こそが即ち幻想力で、色気そのものです。
一方で何故か物質の方にも其の色気の多寡のようなものがありますね。
或は植物でさえ可成に妖艶さや美麗さを感じさせるタイプとそうではないタイプがあるようだ。
色気とは全く不思議なものだ。
生命力のあるものはセクシーだが反生命力に捉えられしものはノンセクシーだ。
私の場合は観念の方での幻想力がこれだけ強いにも関わらずどうもノンセクシーで生活力に欠けてさえ居るようだ。
それでも万年筆の方は相変わらず好きだ。
万年筆にも色気の多寡があるような気がするのですが、どうも其れは錯覚で本当は万年筆自体には余り色気など無いのかもしれないな。
何せ余り人気が無いものなので。
万年筆はむしろ植物のようなもので静かなタイプの何ものかなのでしょうか。
でも伊太利亜や中国の、其の装飾過剰の而して万年筆の何たるかが自ら分かって居ないような万年筆などは一種とても生命力があるように見えるの だが其れとは意味が違うのだろうか。
何でも良いのだが今我はパワーのある万年筆こそを好む。
寒くなるとパワーが減っていく我のことでもあり、今我の欲するものはモアパワー、モア色気、モア生命力、モア幻想力ということに尽きて居る。
◇古い太くて長い万年筆 ROMEO ITOYA K14◇ http://page9.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/k181613553
おお、此れなどはまさに其の色気たっぷりのしかもたいそうデカいまことに堂々とした逸品なのではなかったろうか。
現在私はイーベイの方よりもヤフオクを視て居ることが多く此のペンは是非入札しようと思って居りました。
然し此のペンは高くなった。
いや、高いと言っても此の種の古い大きなペンは10万円ほどしたとしてもそんなにおかしくはない。
それに希少モデルだろうことでもあり、むしろ適正落札値である。
然し此のペンは実に欲しかった。
矢張り応札しておくべきだったのだろう。
さすれば今頃ここで此のROMEOちゃんはどーのこうのと 大々的に見せびらかしていただろうに、あな悔しや。
こんなペンはひょっとすると老後の筆記をコレ一本でまかなえる位のパワー溢れし幻想ペンであろう。
色気ムンムンの実にいやらしいまるであの性の奴隷のようなペンだ。-?-
あー、太くて長いROMEOちゃん、是非またどこかでまみえんことを我は切に願ふ。
でも多分もう出合えない。人間と違ってペンは其の場にあるものこその一本限りだ。
ゆえにたとえ借金したとしても良いからスパッと入札、之が古い超ド級萬年筆を我がものとすることの唯一の道である。
http://yahoo.jp/box/6_Ncy9
此の上の方のデカいRangaのEDですがとってもよろしいペンに仕上がって来て居ます。
ニブがVacumaticsのものですが柔軟性も少ないがあり書いて居てとても気持ちの良いニブである。
以前はVisconti製のConklinのニブを付けて居ましたが其の時よりもインクフローも良くサラサラと何処までも書いていける。
其れに此の軸は実に頑強で床に落としたとしても収納状態であれば全く大丈夫である。
全くタフなぺんである、色合いもパステルカラーなのが珍しくてなかなか気に入って居る。
Parkerのニブはシャラシャラとした筆記音がするが現代のニブのように決して軽薄な感じではなく気持ちよく感じられる部類でのシャラシャラである。
もう一本の青のデスクタイプペンのニブはモンブラン146の古いニブを付けて居るがこれがまた合って居てなかなかの筆記感を齎して呉れる。
いずれにせよ色とりどりのエボ軸であるRangaに古い良く出来たペン先を付けてみると決まって素晴らしいものとなる。
だから其のうちにL.E.WatermanやWahl Eversharpのペン先を付けてみても面白いのではなかろうかと思って居るところである。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1759回) ..2014/10/02(木) 00:11 No.4855 |
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さて今回入手致しましたのは古いプラチナ3776の筆記状態で全長が短いタイプのモデルである。
つまりギャザーの無い真っ黒な太めの軸で勘合式の天冠がフラットなタイプのモデルである。
古いプラチナ、其れも3776の場合に良いと思われるところは其の大きな14金のペン先が強いことである。
此のモデルの場合は特にペン先が大きく見えます。
実際に比べてみると以前に入手した春蘭ちゃん、桔梗ちゃんなどの80年代物と思しき3776の蒔絵シリーズに付けられて居る14金ペン先と同じ大きさでした。
ギャザードに付けられて居る二代目14金ペン先よりも横幅が若干広く見えますが其れは確定的なことではない。
いずれにせよ80年代物の3776のペン先は大きくて而してしなりが楽しめとても良い物です。
此の頃の万年筆のペン先は本当に良い。
まるで昭和の歌謡曲の名曲を今聴いて居るが如くに良いものである。
即ち昭和は良き時代であったというそういうことです。
其の昭和の頃にプラチナにはエボナイトの軸の3776も二種あった筈ですがこちらの方はいまだに入手出来て居ない。
売られて居るものも無いではないのですが新品に近いものがまず出て来ない。
結局其れが私にとっては究極のプラチナとなるものであるのかもしれない。
然しペン先の方は今回の3776黒軸の14金ニブ、其れから蒔絵シリーズに付けられて居る14金ニブが一番良いものでおそらくはエボナイト軸モデルのペン先も此れと同じものだろう筈だ。
だからこれでもうOKである。
もうこれらのプラチナだけで良いぞ、私には。
そんな訳で最近は伊太利亜物改造ペンや古典のEDよりも普通のプラチナを良く使って居たりするのである。
そうか、すると、私の万年筆の上での放蕩も結局巡り巡ってプラチナに落ち着いたというところか。
万年筆の遍歴を重ねた挙句にはじめてのまんねんひつの方へと戻ったのだ。
ところがプラチナは初心者にはとてもお勧め出来ない、一種難しい万年筆なのである。
中国や伊太利亜の万年筆も癖や個体差があるので一般人にはオススメ出来ないのですがプラチナにも其れに近いものがある。
屡指摘される弱点がインクフローの渋さの方で、最初から潤沢に書ける個体なんていうのは多分二、三十本に一本あるかないか、否、百本に一本あるかないか、否、元々最初から無さそうだから潤沢なインクフローなどは期待しない方が宜しい。
つまり古いプラチナの場合、インクフローが良く書き易い個体と巡り合える確率がとても低いと来て居るのだ。
それで、結果的に今回も少し書き辛かった。
というよりも当初なかなかインクが出て呉れずで苦労させられた。
インクを出す為には無論のこと強制流出させる為に切割りを開くなどの調整を行えば其れでよろしいのではあるが、素人が其れをやるとペン先の切割り左右の物理的な力のバランスが崩れて書き味が台無しとなる虞が常にある。
だから私は余り調整はやらないのである。
本当の本当は、調整は不要である。
どうしても必要なこともあるのですが、なるべくニブを弄らない方が良いということを述べて居るのである。
調整は自己筆記調整つまり馴らし書きの方で時間をかけて行なっていくことの方が本当はより良いことだろう選択である。
ところが現行の万年筆のニブ、特に今世紀に入ってからの高品位ニブは其の馴らし書きには適さないものが何故か多い。
馴らし書きというのは、結構筆圧をかけて書いたりして故意にニブを変形させ、ニブが元の形に戻るにせよポンプ効果やらニブのミクロン単位での変形によりインクの流れが良くなるという現象のことである。
或はニブの先端に付いて居るイリジウム合金が摩耗して自分の書きグセに合って来て書き易くなることなども含まれて居るのだろう。
昔の万年筆、特に戦前の萬年筆などは其の14金のニブを調整などしなくとも大抵のものが皆書き易いと相場が決まって居るものだ。
また其れは新品に近い戦前の萬年筆でもほとんど皆そうなのである。
だから調整というものは、本質的な書き易さや本格性を失って仕舞った現代の万年筆に対して効力を発揮することだろう行いなのだろう。
其れでもって私の場合にはなるべくニブの方は弄らず軸の方を弄ってインクの出方を改良するということをここ数年ばかりは良くやって来て居るのである。
即ち其れがED化である。
而して特に古いプラチナの場合には此のED化することとの相性が抜群である。
現在私はほとんどの古いプラチナをED化して使って居ますが、其の中でも特に相性が良いのは古い3776モデルである。
此等は元々インクを流しにくいエボナイトフィードーインクと相性の良いエボナイト製なのに何故かーが付いて居るのでED化しても首軸からインクが吹き出したりする確率が低くそのくせ大層書き易くなる。
其れで今回のものも当然にED化してみた。
すると、ギリギリ合格ではありますがそれでも決して潤沢にはならないという程インクの出が頑固な此の黒い3776であった。
然し、此の頑固さ、渋さ、厄介さ、わからず屋、非常識、特殊性、素直でない、強情だ、おかしい、現代人には理解出来ない、其の点は何やら仏教にも似て居る、という特異な性格の古いプラチナこそが素晴らしいのである。
むしろ其処にこそ愛を感じる。
矢張り万年筆も結局は愛こそがすべてだったのだろうか。
左様、愛こそはすべて。
生きることと、書く事、其の両者に必要なのは畢竟愛のみであった。
愛、愛、あい、アイ。
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1760回) ..2014/10/02(木) 00:11 No.4856 |
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此の3776は筆記状態で153ミリと短いのですが太めの軸で今の私には何故か書き易いのです。
ただし、ED化してあってもインクの出方は普通よりも僅かに渋め位のものです。
だから之がプラチナなのです。
これこそがプラチナの素の姿です。
此の理解しにくいところこそがプラチナのオンリーワンの価値なのである。
其れと同じで屡私自身も理解出来ない人であると他人に云われることがある。
だから其れこそがきっとオンリーワンの価値なのでありましょう。
そうした人には真似の出来ないオンリーワンの価値こそを大事にしつつ生きていきたいものです。
此の3776は細字ニブですがED化してもインクフローがいまひとつなので軽く書くと極細程度の筆記線が引けるばかりです。
が、そうだからこそ一種面白い。
其処を少し力を入れつつ書いてみるとはっきりとした細字で書け、また其れ以上にグイグイ書いてみれば中字程の線も引けない訳ではない。
経験上こういうニブは、使い込むと必ず良くなります。
圧力がかかった時にインクが出て呉れるニブは必ずや馴らし書きでもって良くなります。
ちなみに半年使った春蘭ちゃんは元々インクフローの良い方でしたが結局はこちらもED化してあり低筆圧筆記するだけでサラサラ書ける万年筆となって居る。
でもどちらが良いかという段になると、其れが分からないのです。
インクフローの良い春蘭の方を一概に良いとは決めつけられないです。
謂わば絶妙のインクフローの渋さを此のペンは持って居る。
而してこの位のインクの出方である方が馴らし書きを行うにあたっては向いて居たということです。
尚、馴らし書きは古い万年筆のペン先の方が明らかにやりやすいものです。
何故ならかってのペン先は強いものが多いからである。
3776の大型ニブは製法上強いニブなのか、それとも形状の上で強く感じられるものとなるのかという点については分かりませんが兎に角かなりに強いニブであるということだけは確かである。
其の強さのある昭和のニブであるからこそ、馴らし書きにはまさに最適です。
ーただし3776のニブはひと世代前の細軟などでも全く曲がらない。どんなに屈曲させて書いたにせよ曲がらないのである。が、此れは書き味の方がシャラシャラして居りよろしくない。よって様々な点を鑑み、総合的にプラチナのニブを評価すると其処でどう見ても80年代物の大型ニブの方が出来が良いように思われる。尚付け加えると3776の櫛付きの改良エボナイトフィードはニブに圧力がかかった状態でインクを良く流して呉れる傾向があり私のような日本語の表記に於けるカリグラファーには其の点で満足出来るフィードである。ー
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投稿者: Sirius (永世名誉教授/1761回) ..2014/10/05(日) 00:56 No.4857 |
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此れは、本当に調子が良いプラチナだ。
インクフローが完璧、つまり出過ぎでもないのにヌメヌメなので数時間かければノート一冊位はすぐに書けて仕舞うペンなのである。
而して戸外で携帯して使って居て、しかも自転車にも乗り電車にも乗りトイレへも行きおまけに暑い日寒い日といった気温の変化に晒して居るというのに全くどこからもインクが漏れ出て来ないという完璧なEDである。
其れとED化したペンに良くありがちなペン先の表面へインクが泣き出され部分的に黒くなるー黒インクでーという現象がまた見られない。
だからこそ凄い。
ただし其の代わりに、キャップがユルユルでクルクル回る。
ただし回っても、キャップが外れたりはしない、またペン先がすぐに乾くということもない。
全く凄いギャザードである。
インクなどは軸に目一杯入って居るからなかなか減らず幾らでもノートに書ける。
然し戸外ではノートよりも手帳を使うことが多いのでもうすぐ机上の方に戻って来るのである。
だからこうした使い古した一本の万年筆というものが本当は一番良く手に馴染み安心して書けるものなのである。
古女房が一番安全で安心、保守思想それもかの亜細亜主義の復活を目さん、石は誰が見ても美しい結晶鉱物よりも故郷の道端に落ちて居たメノウが一番、豆腐の噛めば噛むほど味の出る感じ、昆布の噛めば噛むほど味が出る感じ、他人との付き合いよりは矢張り家族、家族の情が大事、仏教は思想として危険すぎるのでむしろ大乗の方を選ぶ、其の救済宗教の方の奴を。
まこと安心安全とは此の世で実現するに最も難しい境地のことである。
人間の究極の目標は心の安定にある。
と其のように定義することは或はこれこそが真をつく言葉であるのかもしれない。
心の安定こそが人間の幸福である。
万年筆の安定こそが筆記上の幸福である。
そう云えば仏教は其の究極の心の安定をこそ目指し修行を重ねていく宗教なのである。
尚、仏教で追求する心の平安ということー涅槃ーに近い概念にアタラクシアという概念があり此れは何とあのヘレニズム期のエピクロス派が提唱していた境地なのである。
即ち静かな心の平安、あらゆる苦痛と混乱を免れた精神の安定した境地のことで、同時に此れは外部とのかかわりを可能なかぎり断ってもっぱら内面における安定ないし自足のうちに幸福の実現の可能性を求める立場だったともされて居る。
然しながら快楽主義として有名なあのエピクロスの考える人間の幸福の内容が本当はこんなに深く静かな、また安定した心の状態のことを言っていたなんて全く驚きである。
つまり、仏教で云う涅槃寂静という境地にほとんど近いのである。
それも仏教同様に、本当はまず世間との関わりを断たなければ其処までの心理的な安定を得ることなど出来ないものなのだろうが。
ゆえに安定した此のギャザードを一本持ってそのうち北海道へと我は飛ぶ。
勿論会社は辞めて所有物を全部整理し小金も作る。
而して一年ほど北海道の原野で寝起きしながら、詩だけを書いて参ります。
其の折に我の代表作も出来る、愚作も出来る、おまけにクマに齧られる、凍死寸前になったりする、あれ、周り百キロ四方に店が無く全くご飯が食べられない、嗚呼、何でこんな馬鹿なことをしでかしたのだろう、我は。
アア、もうダメだ。もはや終わりだ、野垂れ死にだ、お腹がすいたよ、瞼が重いよ。きゃー助けてーー。何がしたいかと言えばたとえばいますぐにきしめんが食いたい。或は味噌カツ、或は手羽先唐揚げ、或は台湾ラーメン、或は…。
其のように一冊の詩手帳をのこし詩人は昇天していった。
而して其の手帳の横には一本の万年筆が添えて置かれて居たのだ。
後にペンの専門家が其のペンを鑑定したところ其れはプラチナのギャザードでキャップのクルクル回る、さらに軸の中に黒インクがタップリ入った変なものだったという。
余談ー後日其の詩手帖から起した詩を元に遺族が詩集を出版した。
其の詩集がH氏賞の受賞作となり、詩人はついにH氏賞詩人となった。
でも本当はもう死んで居るので多分賞は貰えないのだろう。じつにかわいそうに。
死してなお文藝に命を捧げ?詩人は極北の地に其の精神の軌跡をしかと留めた。
このやうな幻想を抱く程に私は本気でギャザードを持って北海道へいきたいのだよ。
本当の本当に其処で詩を書いてきたいの。
誰にも書けない詩、なかなか理解し難い詩、つまりは深遠で北海道の自然のようにまっさらな詩のみを沢山書いて来たいのよ。
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